げんふみ/まき099

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 まききゅうじゅうはち もとまききゅうじゅうきゅう
こころざしだいよんじゅうなな
まきいちひゃく 

兵二へいじ

宿衞しゅくえい[编辑]

宿衞しゅくえいしゃ天子てんしきんへい也。もとせい宿衞しゅくえいしょぐんざい內,而鎮戍諸ぐん在外ざいがい,內外相がいしょう維,以制輕重けいちょういきおいまたいちだい良法りょうほう哉!ほうふとし,以木はなはじむあかろうあつしひろし尔忽、ひろし尔朮ためよんおびえ薛,りょうおびえ薛歹ぶんばん宿衞しゅくえい。及世またしつらえまもる,以象ぽうはじめゆうさむらいまもるおやぐんぞくおけ指揮しき使以領。而其增置ぞうち改易かいえき,於是きんへいしつらえ,殆不とめ於前矣。おっとぞく櫜鞬,れつみやきん宿衞しゅくえいこと也,而其よういちはしよう於大おだい朝會ちょうかいのりいいかこえ宿やどぐんよう於大おだい祭祀さいしのりいい儀仗ぎじょうぐんしゃ巡幸じゅんこうようのり曰扈從軍じゅうぐん守護しゅご天子てんし帑藏,のり曰看もりぐんあるよる以之警非常ひじょうのりため巡邏じゅんらぐんあるとしこげいたり京師けいしよう以彈あつのりため鎮遏ぐんこんそうため宿衞しゅくえい,而以あまりしゃ焉。

よんおびえ薛: ふとし功臣こうしんはく尔忽、ひろし尔朮、はなはじむあかろうゆたかごう掇里はんきょくりつなおげんよんすぐる也,ふとしいのち其世りょうおびえ薛之ちょうおびえ薛者,なおげんばんちょく宿衞しゅくえい也。凡宿衞しゅくえいまいさんにち而一さらさるとりいぬひろし尔忽りょうためだいいちおびえ薛,そく也可おびえ薛。ひろし尔忽ぜっふとしいのち以別そくだい,而非四傑功臣之類,ふとし以自めいりょう。其云也可しゃげん天子てんしりょう也。丑日うしのひひろし尔朮りょうためだいおびえ薛。とらたつはなはじむりょうためだいさんおびえ薛。うまあかろうゆたかりょうためだいよんおびえ薛。あかろうゆたかぜっ,其後おびえ薛常以右丞相じょうしょうりょう

凡怯薛長子孫しそんあるよし天子てんししょおやしんじあるよし宰相さいしょうしょこも舉,ある以其次序じじょしょ當為とういそくかさね其職,以掌たまきまもる。雖其かん卑勿ろん也,及年ろうすんでひさしのりとげ擢為いちひんかん。而四おびえ薛之ちょう天子てんしあるまたいのち大臣だいじん以總しか常設じょうせつ也。其它預おびえ薛之しょく而居きんちかしゃふんかんむりふく弓矢ゆみやしょくいんぶん車馬しゃばいおりちょう醫藥いやくぼくしゅくこと,悉世守之もりゆき。雖以才能さいのう受任じゅにん使つかいふくかんせいもりごくしかいちにちかえりいたり內庭,のり其事如故,いたり子孫しそんあらため甚親しんじあずか也。

其怯薛執事しつじのりぬし弓矢ゆみやたかはやぶさことしゃ,曰火あかむかしたからあかおびえ憐赤。書寫しょしゃ聖旨せいし,曰扎さとあかため天子てんし主文しゅぶんしゃ,曰必闍赤。おや烹飪以奉じょう飲食いんしょくしゃ,曰博尔赤。さむらいじょう帶刀たいとう弓矢ゆみやしゃ,曰云あか、闊端あかつかさ閽者,曰八剌哈あかてのひらしゅしゃ,曰答剌赤。てん車馬しゃばしゃ,曰兀剌赤、莫倫あかてのひら內府なおきょう衣服いふくしゃ,曰速いにしえあかまき駱駝らくだしゃ,曰帖むぎあか牧羊ぼくようしゃ,曰火你赤。ぬすめしゃ,曰忽剌罕あか奏樂そうがくしゃ,曰虎あかまためい忠勇ちゅうゆう,曰霸魯;勇敢ゆうかん無敵むてき,曰拔突。其名るいぶた不一ふいつしかみな天子てんし左右さゆうふくろう侍從じじゅう執事しつじこれにん,其分ばんさらじきまた如四おびえ薛之せい,而領於怯薛之ちょう

わかおっと宿衞しゅくえいのりいいおびえ薛歹,またさんにちぶんばんにゅうまもる。其初名數めいすう甚簡,累增るいぞうためまんよんせんにん。揆之古制こせいなお天子てんしきんぐん無事ぶじそくかく其事,以備宿衞しゅくえいきんにわ有事ゆうじそくおもんみ天子てんしこれしょゆび使樞密すうみつかくまもるしょぐん,於是ためゆうおや信者しんじゃ也。

しかよんおびえ薛歹,ふとし以後いごるいあさしょ斡耳朵,其宿衞しゅくえい嘗廢。一朝有一朝之怯薛,そう而計,其數しげる每歲まいさいしょたまもの鈔幣,どうおくまんけい國家こっかだいごと敝於此焉。

みぎまもる: ちゅうすべさんねん,以侍まもるおやぐん指揮しき使ただしぶん炳兼山東さんとう東路あずまじ經略けいりゃく使きょうりょうたけまもる軍事ぐんじいのちえきあるきしょうだいとく撒吉おもえけんみずのえねんやめていみんせき,及照璮總せきぐんすうまい千戶內選練習軍士二人充侍衞軍,并海しゅう東海とうかいさざなみしゅうさんしょ軍屬ぐんぞく焉。いたりもと元年がんねんあらためたけまもるためさむらいまもるおやぐんふんひだり右翼うよくおけ指揮しき使はちねんあらためりつひだりみぎ中三なかさんまもるてのひら宿衞しゅくえい扈從こしょうけん屯田とんでん國有こくゆう大事だいじのり調度ちょうど

ひだりまもるなかまもる: なみいたりもと八年侍衞親軍改立。

前衞ぜんえい: いたりもとじゅうろくねん,以侍まもるおやぐんそうおけまえこうまもるてのひら宿衞しゅくえい扈從こしょう兼營けんえい屯田とんでん國有こくゆう大事だいじのり調度ちょうどおけ指揮しき使

後衞こうえい: またいたりもとじゅうろくねんおけ

たけまもる: いたりもとじゅうねん尚書しょうしょしょうかなでうみてき以漢ぐんいちまんにん如上じょじょうしょたてとら賁司,營屯田とんでんおさむじょう隍。じゅうろくねん樞密院すうみついんかんくらはくそう,以六まもるろくせんにんとう剌海孛可所掌しょしょうだい屯田とんでんさんせんにん,及近迤南まんいちせんにんそういちまんにんたてたけまもるおやぐん指揮しき使てのひら修治しゅうじじょう隍及京師けいし內外こうやくこと

ひだりみやこたけしまもる: いたりもとじゅうろくねんせい以新いたさむらいまもるおやぐんいちまんぞく東宮とうぐうたてさむらいまもるおやぐん指揮しき使さんじゅういちねんふく以屬皇太后こうたいごうあらためたかしぶくみやひだりみやこたけしまもる使つかい至大しだいさんねんせん其軍ぜん造作ぞうさくしゃはちひゃくにんたて千戶所一及百戶翼八以掌之,而分きょく造作ぞうさくすめらぎけい元年がんねん,以王たいらあきらきゅう所領しょりょうぐんいちせんにんたて屯田とんでんいたりさんねんやめたくみぐんせんしょ

みぎみやこたけしまもる: くにはつはなはじむたてまつふといのちおさむ扎剌、兀魯、せわし兀、おさめかいよん投下とうか,以按察兒、孛羅、わらい乃䚟、さと海拔かいばつ、闊闊はなにんりょうさがせ赤軍せきぐんすんでたいらきん隨處ずいしょ鎮守ちんじゅちゅうすべさんねんせい以五投下探馬赤立蒙古探馬赤總管府。いたりもとじゅうろくねんやめ其軍,かく於本投下とうかおうやくじゅうきゅうねん,仍令たかしぐんじゅういちねん樞密院すうみついんそう,以五投下探馬赤軍俱屬之東宮,ふくおけかんぞく如舊。じゅうねんあらためこうむさむらいまもるおやぐん指揮しき使さんじゅういちねんあらためたかしぶくみやみぎみやこたけしまもる使つかい

から兀衞: いたりもとじゅうはちねんおもねすなおもねたばごと:「今年ことしはるたてまついのち總領そうりょう河西かさいぐんさんせんにんただし其所たいとら金牌きんぱいしゃ甚眾,征伐せいばつおもわか無官むかんしょなに以防閑之?」樞密院すうみついん以聞,とげたてから兀衞おやぐん指揮しき使以總

あかまもる: いたりもとじゅうよんねんりつ

西域せいいきおやぐん: もと貞元さだもとねんあかから兀二まもるれいはじめたて西域せいいきおやぐん指揮しき使

まもるこうちょく指揮しき使: いたりもと元年がんねんひろしむね招集しょうしゅうひかえづるいちひゃくさんじゅうにんさんじゅういちねん,徽政いんぞうひかえづるろくじゅうにんたてまもるこう以領,且掌したがえ金銀きんぎん器物きぶつもと貞元さだもとねん皇太后こうたいごうふく以晉おうこうじょういちひゃくにん隸焉。大德だいとくじゅういちねんえき以懷はじめしたがえくだりひかえづるひゃくにん,陞衞こうちょく指揮しき使至大しだい元年がんねんふくぞうひかえづるひゃくにんそうろくひゃくにんしつらえひゃくしょろく,以為其屬。いたりさんねんやめこれよんねん,以控づるろくひゃくさん十人歸于皇后位下,ふくおけりつ[1]

みぎおもねはやまもる: いたりもときゅうねんはつだておもねはや拔都たち魯花あか招集しょうしゅうおもねはやせいぐんさんせんめいふくせんおもねはや揭只揭了ぬるおびえ薛丹ぐんななひゃくにん扈從こしょうしゃてのひら宿衞しゅくえいじょうきん兼營けんえいしおかわ兩川りょうかわ屯田とんでん,并供給きょうきゅうぐんもうかじゅうさんねんためおもねはやぐんみなみおさむ鎮巢,ざん傷者しょうしゃ眾,とげ以鎮ななひゃくぞく,并前ぐんそうためいちまん,隸前まもる至大しだいねんはじめあらためりつみぎまもるおもねはやおやぐん指揮しき使

ひだりおもねはやまもる: また至大しだいねんあらためりつ

りゅう鎮衞: 睿宗ざいせんてい,嘗於きょいさおせきたてみなみ北口きたぐちたむろぐん,徼巡盜賊とうぞくかくしつらえせんしょいたりもとじゅうねん以南いなんきた口上こうじょうせんしょ總領そうりょう至大しだいよんねんあらためせん所為しょいまんふん欽察、から兀、あか西域せいいき左右さゆうおもねはやしょまもるぐんさんせんにん,并南、北口きたぐちふとしみねきゅう隘漢ぐんろくひゃくきゅうじゅうさんにんたむろちゅう東西とうざいよんじゅうさんしょたてじゅうせんしょおけたかし鎮上まん以統すめらぎけい元年がんねんはじめあらためためたかし鎮衞おやぐん指揮しき使のべゆうねんまた以哈魯軍せんしょ隸焉。いたり元年がんねんおけこうむかん軍籍ぐんせき

ひだりまもるりつ: 至大しだい元年がんねんいのち以中衞兵えいへい萬人立衞率府,ぞく東宮とうぐうときじんむねため皇太子こうたいし,曰:「りつまもるぞうぽう也,其制なお中書ちゅうしょろく,殆不可ふかえき。」とげいのち江南こうなんこうしょうまんせんかんぐん精銳せいえいしゃいちまんにんため東宮とうぐう衞兵えいへいたてまもるりつのべゆうもと)〔よんねんあらためためただし)〔なか〕翊府,[2]いくふくあらためため臨親ぐん指揮しき使また以御臨非古典こてんあらためため羽林はばやしろくねんえいむねりつため皇太子こうたいしふく以隸東宮とうぐう,仍為ひだりまもるりつ

みぎまもるりつ: のべゆうねん,以詹ごと禿かぶろ滿まん迭兒所管しょかんそくおびえまん[3]及迤ひがしおんなちょくりょうまん右翼うよく屯田とんでんまんへいごうためみぎまもるりつ,隸皇太子たいし

かんあやまもる: たけはじめ至大しだいさんねんていかんあや軍籍ぐんせき。凡康あやしゃみなべつ而黜けん其實,はじめとく入籍にゅうせき。及諸こうおうおもねただよしろう撒所りょうさがせあかぞくかんあやしゃれい樞密院すうみついんかんあやまもるひとじょうでん,往置せき焉。

ちゅう翊侍まもる: いたりもとじゅうきゅうねんはじめたて屯田とんでん大德だいとくじゅういちねんぞうぐんすうたてため大同だいどうとうしょさむらいまもるおやぐん指揮しき使至大しだいよんねんよんがつ皇太后こうたいごうおさむだいてらとげうつりぞく徽政いん,并以きょうちょうぐんさんせんにんぞういれのべゆう元年がんねんあらためちゅうみやこたけしまもる使つかい,仍隸徽政いんいたり元年がんねんはじめあらためためちゅう翊侍まもるおやぐん指揮しき使

そうひとしまもる: いたりねんみぎ丞相じょうしょうはいじゅうそう:「さきだっべつてつ叛時,沒入ぼつにゅうまた乞列おもえじんいちひゃくあずかこん所收しょしゅうこうむ子女しじょさんせん清州きよすてったくみせんごうため行軍こうぐんせん,請立そうひとしまもる以統。」於是いのちみぎ丞相じょうしょうはいじゅうそうまもるごときゅうくだとらぱいめん,如右まもるりつまたおけ行軍こうぐんせんしょ隸焉。

みぎ欽察まもる: いたりもとじゅうさんねん河西かさいひとしまもるれいたて欽察まもるいたりねんふんため左右さゆうりょうまもるてんれきねん,以本まもるぞくだいとく

ひだり欽察まもる: またいたりねんりつはじめいたりもと中立なかだてまもるしつらえ行軍こうぐんせんじゅうゆうきゅうしょ屯田とんでんさんしょ大德だいとくちゅうおけただ哈郎、てつ哥納りょうせんしょ至大しだい元年がんねんふくしつらえよんせんしょいたりはじめぶんため左右さゆうまもるまたぞくだいとく

りゅう翊侍まもる: てんれき元年がんねんじゅうがつたてりゅう翊衞おやぐん指揮しき使,以左欽察まもるからきちしつとうきゅうせん隸焉。

とら賁親ぐん指揮しき使

ひだり翊蒙さむらいまもるおやぐん指揮しき使

みぎ翊蒙さむらいまもるおやぐん指揮しき使

せんちゅう斡羅おもえ扈衞おやぐん指揮しき使

威武いぶおもねはやまもるおやぐん指揮しき使

東路あずまじこうむさむらいまもるおやぐん指揮しき使

おんなちょくさむらいまもるおやぐんまん

こう麗女れいじょちょくかんぐん萬戶府管女直侍衞親軍萬戶府。

鎮守ちんじゅうみこうさむらいまもるおやぐんたむろもうか指揮しき使

せん鎮侍まもる

ちゅうすべ元年がんねんよんがつさとしずいかんぐんまんゆうきゅうしたがえまんさん哥西せい軍人ぐんじん,悉遣いたり京師けいしたかしぼうじょうぐんせわし䚟軍さんひゃくいちじゅうきゅうにんげんまんぐんいちせんさんひゃくよんじゅうにんすみみなみぐんいちひゃくよんじゅうにんだつあか剌軍いちひゃくよんじゅうきゅうにん,乣查剌軍いちひゃくよんじゅうにんうまそうかんぐんいちひゃくよんじゅうよんにん

さんねんじゅうがつさとしえき大小だいしょうかんぐんかん及軍じんとう:「さき璮懷ぎゃくこうむ朝廷ちょうてい恩命おんめいなんじとう以為おのれめぐみなんじとう有效ゆうこう功勞こうろうこと聞報,一旦いったん泯絕,此非なんじとう不忠ふちゅう愆,じつ璮懷ぎゃくつみ也。こんさむらいまもるおやぐん指揮しき使ただしぶん炳來そう其詳,げんなんじとうかくゆうねがいため朝廷ちょうてい出力しゅつりょくかたり,此復なんじとうそん忠之ただゆき久也ひさやこんいのちただしぶん炳仍ため山東さんとう東路あずまじ經略けいりゃく使收集しゅうしゅうなんじとうちょく朝廷ちょうていたかしたけまもるぐん近侍きんじ勾當こうとう及應しょく,且當もりみなみあたり,隄防がいすき,庶內さかい軍民ぐんみんかくとくやすぎょうなんじとうむべえきつきしん,以圖くんこう。」

いたりもとねん十二月じゅうにがつぞうさむらいまもるおやぐんいちまんにん,內選おんなじきぐんさんせん高麗こうらいぐんさんせんおもねうみさんせんえき都路みやこじいちせんまいせんにんおけせん一員いちいんひゃくにんおけひゃく一員いちいん,以領。仍選ひのとりょくたけしするどしゃ,以應やく焉。

さんねんがつみかどいい樞密すうみつしん曰:「さむらいまもるおやぐんちんいのちとくはつ充夫みつおやくおさむ瓊華とう士卒しそつそく日放にっぽうかえ。」

よんねんなながつさとし東京とうきょうとう宣撫せんぶいのち所管しょかん內,以じゅうとうためりつ,於從じょうだいさんとう,簽選さむらいまもるおやぐんいちせんはちひゃくめいわかだいさんとうじき,於第とう內簽。仍定立ていりつせんひゃくぱいあたま,并其ぞくどう,赴中おうやく

じゅうよんねんがつ,以蒙いにしえぐんあずかかんぐんしょうさん,備都城みやこのじょう內外及萬壽山まんじゅやま宿衞しゅくえい,仍以也速はなりょうかこえ宿やどごと

じゅうねんがつそうかんえびすしょう請還さむらいまもるぐんさき宿やどしゅう蘄縣とうまん士卒しそつひゃくにんゆうむね俾充さむらいまもるぐんしたがえ僉省いむ忠範ただのりせい西川にしかわすんで而嘉じょう重慶たーちん、夔府みな忠範ただのりかいぐんとめ西道さいどうしょうじょうげんしたがえこれ九月くがつ,以總かん張子はりこりょうしょ匿軍千二百三十二人充侍衞軍士。

じゅうろくねんよんがつせんあげしゅうしょう新附しんぷぐん萬人充侍衞親軍,併其妻子さいし遷赴京師けいし

じゅうよんねんじゅうがつ總帥そうすいひろしおもんみせん麾下きかするどそついちせんにん,請擇こんおとうとちゅういちにんすべこれ,以備さむらいまもるしたがえこれ

なりそうもとさだよんねんはちがつ[4]みことのり:「こうむさむらいまもる所管しょかんさがせあか軍人ぐんじん子弟していとうたかししょ王位おうい役者やくしゃ,悉遵なりけんはつ還元かんげんやくたかしぐん。」

大德だいとくろくねんがつ調しらべこうむさむらいまもるとうぐんいちまんにん,往官山住やまずみなつ

じんむねのべゆうろくねんきゅうがつ樞密院すうみついんごととうしつてつげん:「しょ漢人かんど得點とくてんかこえ宿やどぐんせきがかりぐんすうしゃ,雖御またあずか,此國せい也。しゃりょうかこえ宿やどかんげん中書ちゅうしょいのちけいしょきょう巡視じゅんしもり倉庫そうこぐんそつゆう曠役しゃのりざい,以懲其後,使つかいだる而已。而李けい擅取ぐんすう,箠士そつざいほうためしんとうむべ中書ちゅうしょあずか樞密すうみつひとあんけんじつ以聞。」せいななねんろくがつ,以紅城中じょうちゅうまもるがかりてのひら軍務ぐんむつかさぞく徽政いん不便ふべんいのち遵舊せい,俾樞密すうみつそうこれ

かこえ宿やどぐん[编辑]

いたりもとじゅうろくねんなながついのちだいさむらいまもるぐん內,ふくおこりいちまんにん赴上,以備かこえ宿やど

なりそうもとさだねんじゅうがつ樞密院すうみついんしんごと:「むかし大朝おおあさかいすめらぎじょうがいみな牆垣,ようぐんたまきにょう,以備かこえ宿やどこん牆垣やめなりみなみ北西ほくせいさんほとりみなおけぐんどく御酒みき西にし不能ふのうようしんとうあずか丞相じょうしょうかんさわかく城門じょうもん以蒙いにしえぐんれつまもる[5]及於しゅうきょうみなみおけ戍樓,以警昏旦。」したがえこれ

たけはじめ至大しだいよんねん正月しょうがつしょうしんとうでん皇太子こうたいしいのち,以大朝會ちょうかい調ちょうこうむかんぐんさんまんにん備圍宿やど,仍遣使はつ山東さんとう河北かわきた河南かなん、淮北しょみちぐんいたり京師けいし復命ふくめいひだり右翼うよくみぎみやこたけしまもるせい仗車六月ろくがつ,以諸こうおう、駙馬とう來朝らいちょういのちはつかくまもる色目いろめかんぐんはちひゃくじゅうろくにんいたり上京じょうきょう復命ふくめい指揮しき使也干はなりょう

じんむねすめらぎけい元年がんねんろくがついのちまもるりつぐん備圍宿やどまもりたかしぶくみや內外禁門きんもん十一月じゅういちがつ樞密院すうみついんしんごと:「皇太后こうたいごうゆうむねきんわきもんいむ守衞もりえしんとう增置ぞうちひゃく一員いちいん,及於欽察、あか西域せいいきから兀、おもねはやひとしまもる調ちょうぐんきゅうじゅうにんぞうもりしょわきもん復命ふくめいせん一員いちいんそちりょうひゃく一員いちいん,備巡邏じゅんら。」したがえこれのべゆうさんねんじゅうがつ,以諸こうおう來朝らいちょういのちかこえ宿やどぐんろくせんにんぞういたりいちまんにん復命ふくめい也了禿かぶろ魯分左右さゆうりょう其事。十一月じゅういちがつみことのりかこえ宿やどぐんじょきゅうゆうしゃさらぞう色目いろめぐんまんにん,以備禁衞きんえい十二月じゅうにがつ樞密院すうみついんしんごと:「かこえ宿やどぐん及數,其已はつかくまもるしゃどおいたり不能ふのう如期,遷刈あしくさ及青塔寺とうでらこうやくぐんさき守衞しゅえい。其各まもるかえいえぐんまたはつまんせんにんれい備車器械きかい,俱會京師けいし。」せいろくねんうるうはちがついのち樞密院すうみついんごと眾嘉りょうかこえ宿やどはつ五衞軍代羽林軍士,仍以せんいんひゃくじゅういん士卒しそつ精銳せいえいしゃひゃくにんぞく

えいそういたる元年がんねん正月しょうがつみかどまい石佛いしぼとけてら,以其牆垣疏壞,いのちふくくるるうけらゆたかだい、僉院おもねりょうかこえ宿やど士卒しそつ,以備巡邏じゅんらはちがつひがし內皇じょうけん宿衞しゅくえいじゅう楹,いのち五衞內摘軍二百五十人居之,以備禁衞きんえい

ぶんそうたかしれきねんがつ樞密院すうみついんしんごと:「去歲きょさい嘗奉むね先制せんせい調ちょうぐんもりかこえ宿やど,此時かくつばさ軍人ぐんじんみな隨處ずいしょ出征しゅっせいまたゆうつぶせしゃ及依調しらべとめ右翼うよくさむらいまもる及右みやこたけしまもる內,はつぐんいちせんいちひゃくじゅうろくめい以備かこえ宿やどこんとししゃ行幸ぎょうこうしんとう於河みなみ山東さんとうりょう內,おこりぐんいちせんさんめい,以備扈從こしょう。」せい五月ごがつ樞密すうみつしんまたげん:「たてまつ令旨れいし放散ほうさん軍人ぐんじんしんとうつねせいさんがついちにち放散ほうさん六月ろくがついちにち赴限,こん放散ほうさんすんでおそれいはちがついちにち赴限。」したがえこれ

儀仗ぎじょうぐん[编辑]

いたりもとじゅうねん十二月じゅうにがつうえ尊號そんごう、受冊,告祭こくさい天地てんち宗廟そうびょう調しらべひだりみぎちゅう三衞軍五十人為蹕街清路軍。

たけはじめ至大しだいねん十二月じゅうにがつうえ尊號そんごう百官ひゃっかんぎょう朝賀あさかあや樞密院すうみついん調ちょうぐんいちせんにん儀仗ぎじょうさんねんじゅうがつうえ皇太后こうたいごう尊號そんごうぎょうさつたからあやよう內外儀仗ぎじょうぐんすう,及防護ぼうごしょくかぶとぐんひゃくにんよんねんがつごうさい天地てんちふとしびょう社稷しゃしょくよう蹕街清道きよみち及守內外壝門ぐんいちひゃくはちじゅうにんいのち以圍宿やどぐん為之ためゆきこと畢還やくなながつ,以奉むかいたけしそうたまさつ祔廟,ようしん蹕街ぐんいちひゃくじゅうにんかんぐんせんひゃくかく一員いちいん九月くがつ,以祭とおるふとしびょうよう蹕街きよしぐんいちひゃくじゅうにんせんひゃくかく一員いちいん

じんむねすめらぎけい元年がんねんさんがつ天壽てんじゅぶしぎょうれいよう內外儀仗ぎじょうぐんいちせんにん

えいそういたる元年がんねんじゅういちがついのち有司ゆうしせんひかえづる衞士えじ,及色かんぐん以備鹵簿ろぼ儀仗ぎじょう十二月じゅうにがつてい鹵簿ろぼたい仗,ようぐんせんさんひゃくさんじゅうにんまんせんひゃくよんじゅういん。仍議ようぐんいちせんきゅうひゃくじゅうにんまんせんひゃくじゅうきゅういん,以備儀仗ぎじょう

致和元年がんねんろくがつ,以享ふとしびょうよう蹕街きよしぐんいちひゃくめい[べい+凡]ぼんぐんいちひゃくめいかんぐんかんせんひゃくかく一員いちいん九月くがつぎょう大禮たいれいよう擎執儀仗ぎじょうこうむかんぐんいちせんめい

ぶんそうたかしれき元年がんねんじゅういちがつ親祭しんさいふとびょう,內外よう儀仗ぎじょう并五しょくかぶとぐんいちせんろくひゃくじゅうめい,仍命指揮しき青山あおやま及洪副使ふくし折衝せっしょうじょうひさげ調ちょうねんせいだんゆきれいよう儀仗ぎじょうぐんいちせんにんとおるふとしびょうよう蹕街きよしぐんいちひゃくめい看守かんしゅ[べい+凡]ぼんぐんいちひゃくめいかんぐんせんひゃくかく一員いちいん天壽てんじゅぶしぎょうれいよう儀仗ぎじょうぐんいちせんめい皇后こうごうさつたから擎執儀仗ぎじょうようぐんいちせんひゃくめいぐんかんよんいん

扈從こしょうぐん[编辑]

いたりもとじゅうななねんさんがつはつせわし䚟、しょうあか所領しょりょう河西かさいぐん,及阿魯黑麾下きかひゃくにんにゅう扈從こしょう

たけはじめ至大しだいねんふとしきさき將幸まさゆきだい,徽政いんかん請調ぐん扈從こしょうしょうしん:「むかしだいふとしきさき嘗幸だい,於住なつさがせあか及漢ぐん內,かくおこり扈從こしょうぐんさんひゃくにんこん故事こじ。」したがえこれ十一月じゅういちがつ樞密院すうみついんしんごと:「去歲きょさい六衞漢軍內,以諸しょきょうけんこうやくようろく千軍士於上都。しんとうらいとししゃ行幸ぎょうこうふくれいそつろくせんにん,備車馬しゃば仗,あずか步卒ほそつせんにん扈從こしょう。」せい

看守かんしゅぐん[编辑]

いたりもとじゅうねんじゅういちがつ,以軍もり都城みやこのじょうがいくらはつだい都城みやこのじょう內倉敖有ぐん守之もりゆきしろがいゆたかうるう豐實とよみこう貯、つうずみ四倉よつくらもりしゃいたりおさむかて頗多,丞相じょうしょうくわ哥以ためごと,乃依都城みやこのじょう內倉れいまいくらはつぐんにん守之もりゆき十二月じゅうにがつ中書ちゅうしょしょうしんごと:「樞密院すうみついんこう廨後,有倉ありくら貯糧,乞調ぐんにん看守かんしゅ。」したがえこれ

なりむね大德だいとくよんねんがつ調しらべぐんひゃくにん,於新浚河內看閘。

たけはじめ至大しだいよんねんろくがつみかど大安たいあんかく樞密院すうみついんかんそう:「嘗奉むねれいかくもんおけぐん守備しゅびしんとうさがせ赤軍せきぐん其所戍地とおそつ莫能いたりなずらえはつおもねはやから兀等ぐんさんかん軍用ぐんようかくもんおけじゅうにん。」せい

じんむねのべゆう元年がんねんうるうさんがつりゅう禧院かんげん:「はつせいかげ殿どのゆうぐん守之もりゆきこんたけはじめよう於大おだいたかしおん福元ふくもとてら安置あんちむべれい調ちょうぐん守衞しゅえい。」したがえこれさんねんがつみねきたしょう乞軍守衞しゅえい倉庫そうこいのち於丑かん所屬しょぞく萬戶三千探馬赤軍內,摘軍さんひゃくにんあずかこれ

えいそういたる元年がんねんぞうもりふとしびょう牆垣ぐんはつ,以衞軍人ぐんじんどももりかこえ宿やどとめようこうむぐんよんひゃくにんいたり以衞もり內牆かき,其外壖止ようぐん,乃增いたりはちひゃくにん復命ふくめい僉院哈散、いんばんおもね剌鐵りょうよんがつ,敕搠おもえきち斡節八哈失寺內,つねれいぐんにん守衞しゅえい

巡邏じゅんらぐん[编辑]

じんむねすめらぎけい元年がんねんさんがつ丞相じょうしょうてつ迭兒そう:「每歲まいさいすんでこう上京じょうきょう,於各宿衞しゅくえいちゅうとめ衞士えじさんひゃくななじゅうにん,以備巡邏じゅんらこんとし盜賊とうぞくよろしぞうひゃくにん,以嚴守げんしゅ禦。」せい。仍命樞密すうみつあずか中書ちゅうしょぶんりょうのべゆうななねんがつみことのり留守るす及虎賁司かんおやりつ眾於よる巡邏じゅんら

鎮遏ぐん[编辑]

じんむねのべゆう元年がんねんうるうさんがつ樞密院すうみついんかんそう:「中書ちゅうしょしょうげんこう浙春うんかてはちじゅうさんまんろくせんひゃくろくじゅうせき日開ひがいひろしまえちょく沽,請預軍人ぐんじん鎮遏。」みことのりとしれい調しらべぐんいちせんめいいのちみぎまもるふく指揮しき使はくがお往鎮遏之。さんねんよんがつ海運かいうんいたりちょく沽,樞密院すうみついんかんそう:「こんとしぐんすうじき,乞調ぐんひゃくにんじゅん鎮。」したがえこれななねんよんがつ調しらべ海運かいうん鎮遏ぐんいちせんにん,如舊せい

鎮戍[编辑]

もとはつ以武こうてい天下てんか,四方鎮戍之兵亦重矣。しか其始而觀のりふとしふとしむねしょうつぎ以有西域せいいき中原なかはら,而攻これさいたむろへいぶたじょうむこう,其制殆不可ふかこう也。ときうみ宇混いちしかこういのちむね王將おうしょうへい鎮邊徼襟のど,而河らく山東さんとうよりどころ天下でんか腹心ふくしんのり以蒙いにしえさがせ赤軍せきぐんれつ大府おおぶ以屯。淮、こう以南いなんつき南海なんかいのりめいはんれつぐんまたかく以漢ぐん及新とうぐん戍焉。みな宏規ひろのりとおほぼあずか三大臣之所共議,たちへいようしん地理ちりむべ,而足以貽はかりごと於後しゃ也。其後江南えなさんぎょうはぶけ,嘗以遷調戍兵ためごと當時とうじ莫敢ゆうへん其法しゃまこと以祖そうしげるけん不易ふえき變更へんこう也。しかそつうけたまわひらすんでひさしはたおごそつ惰,軍政ぐんせいおさむ,而天いきおいとげいたり不可ふかためおっとあに其制善哉ぜんざいぶたほうひさ必弊,古今ここんいきおいしか也。こんちょ其調へいたむろ守之もりゆきせい,而列ため鎮戍焉。

ちゅうすべ元年がんねんがつみことのりかんぐんまんかく於本かん新舊しんきゅうぐん內摘はつ軍人ぐんじん,備衣かぶと仗,かんりょう赴燕きょうきんたむろちゅうまんてんさわいちまんよんひゃくさんじゅうにんちょううまひゃくよんじゅうにんかいなりいちせんななひゃくろくじゅうにん[6]乣叱剌四ひゃくろくじゅうろくにんはすりょう拔都はちひゃくきゅうじゅうろくにん,扶溝ぐんやついちひゃくじゅうきゅうにん,內黃てついちひゃくよんじゅうよんにんちょうやつふところよんじゅういちにん,鄢陵かついにしえろくじゅうにん十一月じゅういちがついのちみぎ三部尚書怯烈門、たいらあきら政事せいじちょう璧領こうむかんぐん,於燕きょうきんたむろちゅうたいらあきらとう察兒りょうたけまもるぐんいちまんにんたむろちゅう北山きたやまかんぐんしつぐん及簽到民間みんかんしょ投下とうかぐん,於西京にしぎょうせんとくたむろちゅう復命ふくめいおびえれつもんためだいとく管領かんりょうしょぐん勾當こうとうふんたちたちぐんためりょうみちいち赴宣とくとくきょういち赴興しゅう。其諸まんかんぐんのりれい赴潮かわたむろもりこうふく以興しゅうたちたちぐんごうにゅうとくきょうせんとくいのちかんぐんかくまん悉赴ふところらい、縉山川中かわなかたむろちゅう

さんねんじゅうがつみことのり德實とくざね所管しょかんかたやすしつぐんきゅうひゃくじゅうろく,及平灤州りゅうさと剌所かんしつぐんよんひゃく還元かんげんかん地面じめんたむろちゅう

いたりもとななねん,以金しゅうぐん八百隸東川統軍司,かえ成都せいとゆるがせろうきちぐん戍東かわじゅういちねん正月しょうがつ,以忙いにしえたいとう新舊しんきゅうぐんいちまんいちせんにん建都けんと調しらべじょうせいけんぐんろくひゃくにんじゅくけんぐんよんひゃくにんゆかりきょう兆府鎮戍鴨池,いのちきんしゅう招討使欽察りょう十二月じゅうにがつ調しらべ西川にしかわおうやすなで、楊總帥そうすいぐんあずかあまあか相合そうごうあずかうしかん兀剌どう鎮守ちんじゅあいこたえしろ

じゅうねんがつみことのり以東いとうがわ新得しんとくじょう寨逼きん夔府,こわ南兵みなみへいらいおかせはつ鞏昌簽軍さんせんにん戍之。三月さんがつうみしゅうよろやすなでとうらいくだせんしゅうちょうたけしよんせんにんまもりうみしゅう東海とうかい

じゅうさんねんじゅうがついのちべつそく䚟、ゆるがせべつれつ八都兒二人為都元帥,りょうこうむぐんせんにん河西かさい軍一ぐんいちせんにんまもり斡端じょう

じゅうねんさんがつふんあげしゅうあるきしょうへい,於隆おきはつおけくだりしょうふんへいしょみち調ちょう江西えにししょうぐんため最少さいしょういたり以南いなん廣地ひろち闊,阻山谿之けわしいのちてつはなりょうへいいちまんにん赴之,ごう元帥げんすいとうぐん,以備せんもりよんがつみことのり以伯がおおもねうけらしょ調ちょう河南かなんしん簽軍さんせんにんかえもりいおりしゅう六月ろくがついのち荊湖北道ほくどうせん慰使とううみ調ちょう夔府しょぐんなながつみことのり以塔うみせい夔軍かえ戍者,及揚しゅう江西えにしふね,悉付水軍すいぐんまんちょうさかえじつ將之まさゆきまもり禦江ちゅうはちがついのち江南こうなんしょみち戍卒かく所屬しょぞくまんたむろ戍。はつ渡江とのえ所得しょとくじょうはつかく萬戶部曲士卒以戍之,ひさ亡命ぼうめい死傷ししょうしゃ眾,ぞくいたりしゃ不着ふちゃくぎょういたりたてかえかく營,以備たむろ戍。安西あんざいおうしょうげん:「かわしょくすんでひらめしろ邑山寨洞あな凡八じゅうさんしょ,其渠しゅうれいじょうとうしょさんじゅうさんしょむべ以兵鎮守ちんじゅあまり撤去てっきょ。」したがえこれ九月くがつみことのりはつ東京とうきょう北京ぺきんぐんよんひゃくにん,往戍おうあきら,其應あきらきゅう戍士そつ,悉令十一月じゅういちがつてい軍民ぐんみんぞくこれせい,及蒙いにしえぐんたむろ戍之さき,以李璮叛,ふん軍民ぐんみんため,而異其屬,いん平江ひらえみなみぐんかんはじめけんみんしょくとげいん。凡以せんもりいちぐんのりりつ其麾したがえこれひゃくまたしか不便ふべんいたりれい軍民ぐんみんかくぞく,如初せい士卒しそつまんためりつたむろたむろしょこうむぐんしょ南北なんぼく及還かくおく魯者,またみなおさむ聚。れい四萬戶所領之眾屯河北,おもねうけらまんたむろ河南かなん,以備調ちょう餘丁よちょうてい其版せきへん入行にゅうこう,俾各ゆう所屬しょぞくぐう征伐せいばつそくこれ

じゅうろくねんがついのち萬戶孛朮魯敬領其麾下舊有士卒守湖州。さき,以唐、鄧、ひとし三州士卒二百八十八人屬敬麾下,遷戍こうりょういたりかえこれよんがつていうえ戍卒ようほんもとせきぐんくにせいぐん邑鎮戍士そつみなさらしょうえきおけ每歲まいさい以他ぐんへい戍上ぐんやめ於轉輸。いたり以上いじょう都民とみんたかしぐんしゃよんせんにん每歲まいさいれい備鎮戍,やめぐん戍兵。六月ろくがつ,碉門、さかなどおり及黎、まさ諸處しょしょみんたてまつ國法こくほう以兵戍其はつ新附しんぷぐんひゃくにんこうむぐんいちひゃくにんかんぐんよんひゃくにん,往鎮戍之。なながつ以西いせいがわこうむぐんななせんにん新附しんぷぐんさんせんにんづけ皇子おうじ安西あんざいおういのち闍里てつ以戍杭州こうしゅうぐんろくひゃくきゅうじゅうにん赴京調しらべりょう淮招討小厮蒙いにしえぐん,及自北方ほっぽう迴探赤軍せきぐんだいはちがつ調しらべ江南こうなん新附しんぷぐんせんちゅうふとしはらせんちゅう大名だいみょうせんちゅうまもるしゅうまたはつさがせ赤軍せきぐんいちまんにん,及夔招討はりまんこれ新附しんぷぐん,俾四川西道宣慰使也罕的斤將之,戍斡はし

じゅうななねん正月しょうがつみことのり以他れい罕守建都けんとぬのきち䚟守ちょうかわ西之にしのれい遷易。三月さんがつどう東道とうどうせん慰司ごとちょう鐸言:「江南こうなん鎮戍ぐんかん不便ふべん,請以さらえきおけこれ。」くにせいすんで平江ひらえみなみ,以兵戍列じょう,其長ぐんかんみなもり不易ふえきあずか富民とみんじゅとういんだつ民田たみだたく居室きょしつ,蠹有政事せいじためがいしげる甚。鐸上ごと,以為みな遷易へい,請更其制,げん以歲がつ遷調,庶使はつみんとく以安ぎょう也。五月ごがついのち樞密院すうみついん調ちょうへいろく百人守居庸關南、北口きたぐちなながつ,〔敕更だい廣州こうしゅう鎮戍士卒しそつ[7]はつ,以丞しょうはくがおとう麾下きかあい必赤ぐんせんひゃくにんしたがえ元帥げんすいちょうひろしはんせいこうおういんとめ戍焉,さいひさみな貧困ひんこん死亡しぼうしゃいたりいのちさらだいふく以揚しゅうあるきしょう四萬戶蒙古軍更戍潭州。じゅうがつ發砲はっぽうそつせんにんいれあましゅう,備戰もり十二月じゅうにがつ,八番羅甸宣慰司請增戍卒。さき,以さんせんにんはちばんこうせいまた奚不薛,ふん摘其はんいたりかえせん慰司ふく請益へい,以備せんもりしたがえこれ

じゅうはちねん正月しょうがついのち萬戶張珪率麾下往就潭州,かえ其祖ちち所領しょりょう亳州士卒しそつ,并統がつ,以合必赤ぐんさんせん戍揚しゅうじゅうがつ高麗こうらいおう并行しょうみなごとかねしゅう合浦がつぽかたじょうぜんしゅうとうしょ沿海えんかい上下じょうげあずか日本にっぽん正當せいとう衝要,むべ設立せつりつ鎮邊まんたむろ鎮,したがえこれ十一月じゅういちがつみことのり以征ひがしとめぐんぶん鎮慶もと上海しゃんはい、澉浦さんしょ上船じょうせんうみこう

じゅうきゅうねんがついのちから兀䚟於沿しゅうぐん便宜べんぎおけぐん鎮戍,及諭鄂州、あげしゅうりゅうきょう泉州せんしゅうとうよんしょう用兵ようへい戍列じょう。徙浙ひがしせん慰司於溫州うんしゅうふんぐん戍守江南えなしゅう以及こうかげいたりさんうみこう,凡じゅうはちしょよんがつ調しらべあげしゅうごう必〔あかぐんさんせんにん鎮泉しゅう[8]また潭州ぎょうしょう以臨かわ鎮地せっうらないじょう及未はじむほら,請立そうかん一同いちどう鎮戍,したがえこれなながつ,以隆きょう西京にしぎょうぐんだいじょう戍卒,かえ西川にしかわさきうえたむろ戍士そつ,其奧魯皆ざい西川にしかわ,而戍西川にしかわしゃたかしきょう西京にしぎょうぐん每歲まいさいてん餉,かちろういたりさら

じゅうねんはちがつとめこうむぐんせんにん戍揚しゅう悉縱かえあげしゅう所有しょゆうこうむ士卒しそつきゅうせんにんぎょうしょう請以さんふんためりつとめいちふん鎮戍。とう剌渾曰:「こうむ士卒しそつ悍勇,孰敢とうとめいちせん人足ひとあし矣。」したがえこれじゅうがつはついぬい討虜ぐんせんにんぞう福建ふっけんゆきしょうさき福建ふっけんゆきしょう以其けんつねゆうぬすめかたためみだれへいしょう不足ふそくせんもり,請增こうむかんぐんせんにん樞密すうみつ院議いんぎ以劉萬奴所領乾討虜軍益之。

じゅういちねんよんがつみことのり潭州こうむぐんあげしゅうれいとめいちせんにん悉放かえしょおく魯。じゅうがつ增兵ぞうへい鎮守ちんじゅ金齒きんばこく,以其みんつよし狠,きゅう嘗以かんぐん新附しんぷぐんさんせんにん戍守,こん再調さいちょうさがせあかこうむぐんせんにんれいくすり剌海りつ赴之。

じゅうねんがつみことのりあらためこう淮、江西えにし元帥げんすい招討ためじょうなかしたさんまんこうむ漢人かんど新附しんぷしょぐんしょうさんさくさんじゅうななつばさうえまん宿やどしゅう、蘄縣、じょう、沂郯、えきこう郵、沿海えんかいななつばさちゅうまんなつめよう十字路じゅうじろ、邳州、鄧州、杭州こうしゅうふところしゅうはじめしゅうしんしゅうはちつばさしたまんつねしゅう、鎮江、潁州、いおりしゅう、亳州、あんけいこうかげ水軍すいぐんえきしんぐんみずうみしゅう、淮安、ことぶきはるあげしゅうたいしゅういしゆみしゅかぶとしょしゅううえしんぐんしゅうあんゆたか松江まつえ、鎮江水軍すいぐんたてやすしじゅうつばさまいつばさしつらえたち魯花あかまんふくまんかくいちにん,以隸所在しょざいぎょういん

じゅうよんねんがつ調しらべかくまもる諸色しょしきぐんひゃくにん於平灤,以備鎮戍。じゅうがつみことのり以廣ひがしがかりあたり徼之やまけんじんまれけん江西えにし福建ふっけん賊徒ぞくと聚集,不時ふじ越境えっきょうさくらんはつこう西行さいぎょうしょうゆるがせてつ麾下きかぐんせんにん,往鎮守之もりゆき

じゅうねんがつ調しらべあげしゅうしょうぐん赴鄂しゅうだい鎮戍士卒しそつ三月さんがつみことのりしゅう、蘄州、ことぶきあきらしょぐんかえ隸江淮省。はじめ三處舊置鎮守軍,以近鄂州しょう嘗分隸領いたりぐんかん以為ごととげ仍其きゅうりょうぎょうしょうげん,懿州せっぞくさかい,請益へい鎮戍,したがえこれよんがつ調しらべこう淮行しょうぜんつばさいちまんぐんうつり鎮江西にししょうしたがえ皇子おうじだつ歡士そつ及劉拔都麾下きかいちまんにんみなかく營。十一月じゅういちがつぞうぐん戍咸たいら,以察ゆるがせまたおもえあいげん其地じつあたり徼,請益へい鎮守ちんじゅ,以備おそれ也。

じゅうろくねんがついのち萬戶劉得祿以軍五千人鎮守八番。

じゅうななねんろくがつ調しらべ各行かくこうしょうぐん於江西にし,以備鎮戍,俟盜賊とうぞくひらいき,而後たてかえ九月くがつ,以元帥げんすいふところ麾下きかぐんよんひゃくにんもりぶんしゅう調しらべこう淮省萬戶府軍於福建鎮戍。十一月じゅういちがつこう淮行しょうげん:「さき丞相じょうしょうはくがお元帥げんすいおもねうけらおもねとううみとうもりぎょうしょうかくみちおけぐん鎮戍,輕重けいちょう而為多寡たか,厥後せわし䚟代,悉更其法,えきおけはた吏士そつことしつ其宜。今福いまふくけん盜賊とうぞくやめひらめおもんみ浙東一道いちどうきょくあくぞくしょあな,請復かえさんまん以鎮守之もりゆきごう剌帶一軍戍沿海明、だいまたおびえれつ一軍いちぐん戍溫、しょさつゆるがせたい一軍いちぐん戍紹きょう、婺州。其寧こく、徽州はつ用土ようどへいみなあずかぞくどおりいまつき遷之江北こうほくさら調ちょうだか郵、たいしゅうりょうまんかんぐん戍之。あげしゅうたてやすし、鎮江三城跨據大江,人民じんみんしげるかいおけななまん杭州こうしゅうゆきしょうしょつかさ所在しょざいおけよんまんみずせんほうきゅうとめじゅうしょいまひんうみ沿江要害ようがいじゅうしょふんへい閱習,伺察しょぬすめぜに塘控扼海こうきゅうおけ戰艦せんかんじゅうそうこん增置ぞうち戰艦せんかんひゃくそううみせんじゅうそう。」樞密院すうみついん以聞,悉從

じゅうはちねんがつ調しらべこう淮省さがせ赤軍せきぐん及漢ぐんせんにん,於脫歡太子たいし側近そっきんあげしゅうたむろちゅう

じゅうきゅうねん,以咸たいら東京とうきょうしょたむろ新附しんぷぐんひゃくにんぞう戍女直地ただち

さんじゅうねん正月しょうがつみことのり西にしせいさがせ赤軍せきぐんはちせんにん分留ぶんりゅういちせんあるせんあまりれいかえ皇子おうじおく魯赤、大王だいおううけらはくごときりおそれぐん釁生,むべとめよんせんかえよんせんしたがえこれ五月ごがついのちおもえ播黃ひらめ、鎮遠かかわすりほろびそう避役しゅごう軍人ぐんじん,以增鎮守ちんじゅなながつ調しらべ四川行院新附軍一千人戍松山。

なりそうもと貞元さだもとねんなながつ樞密院すうみついんかんそう:「りゅう拔都げん︰『はつ,鄂州しょう安置あんち軍馬ぐんばとき南面なんめんどめ潭州とうしょとく廣西ひろせ海外かいがいよんしゅうはちばんほら蠻等,疆界闊遠,闕少戍軍,ふくぞうよんまんにんいまはたもとぞく本省ほんしょうよんつばさまんぐんぶんぐんりょく減少げんしょう。』しんとういいりゅう二拔都兒之言有理,雖然こう南平みなみだいら定之さだゆき,沿江安置あんち軍馬ぐんばはくがおおもねうけらおもねとうかいおもねさとかいきばおもね剌罕とう俱係もとけいおさむこれにんまたあずか近臣きんしんがつ魯、孛羅とう樞密院すうみついんかんどう安置あんちしゃ。乞命どおり軍事ぐんじ地理ちりこれにんどう增減ぞうげん安置あんち,庶後へい。」したがえこれ

ねんがつこう浙行しょうげん:「きん鎮守ちんじゅたてやすし太平たいへいたもててい萬戶府全翼軍馬七千二百一十二名,調ちょうぞくひろしょう,乞分りょう淮戍へい,於本しょう沿海えんかい鎮遏。」樞密院すうみついんかん:「沿江軍馬ぐんばがかりはくがおおもねうけら安置あんち,勿令あらためどうとめ於本しょうもとかんせん、百戶軍內發兵鎮守之。」せい九月くがつみことのり以兩こう海外かいがい四州城池戍兵,さいいちさらだい往來おうらい勞苦ろうくきゅう俸錢,選良せんりょう,往治其疾病者びょうしゃいのちさんねんいちさらだい

さんねんがつ調しらべあげしゅうつばさ鄧新萬戶府全翼軍馬分屯蘄、

大德だいとく元年がんねんさんがつ陝西せんせいたいらあきら政事せいじだつれつはくりょう總帥そうすいぐんさんせんにんおさむ西番にしのばんかいみことのりとめ總帥そうすいぐん百人及階州舊軍、禿かぶろおもえぐんかくひゃくにんもりかいしゅうぐん還元かんげんつばさみずうみこうしょう請以ていつばさまんにんうつり鎮郴しゅう樞密院すうみついんかん:「此翼乃張やわら所領しょりょう征伐せいばつきゅうぐんむべ遷入鄂州しょうたむろちゅうべつ調ちょうへい守之もりゆき。」なながつ,招收ほろびそう左右さゆうりょうこうぐんせんにんしたがえおもえあかりじょうおもえとうしょ元帥げんすいむかし剌不はなげん也。十一月じゅういちがつ河南かなんゆきしょうげん:「ぜんあげしゅう立江たつえ淮行しょうこうりょうりつ荊湖ぎょうはぶけかくみつる軍馬ぐんば上下じょうげ鎮遏。後江ひつえ淮省うつり於杭しゅう,荊湖しょう遷於鄂州,黃河こうがみなみ大江おおえ迤北,汴梁古郡ふるこおり設立せつりつ河南かなん江北こうほくゆきしょうつうかんこう淮、荊湖兩省りょうしょうもとゆう地面じめん近年きんねん併入軍馬ぐんば通行つうこう管領かんりょう所屬しょぞく大江おおえさいため緊要きんようりょう淮地けんじん頑,そうほろびこれはじめらい歸順きじゅん當時とうじ沿江一帶いったい斟酌しんしゃく緩急かんきゅう安置あんちじょうさんじゅう一翼いちよく軍馬ぐんば鎮遏,遷調じゅう二翼前去江南,あまりゆういちじゅうきゅうつばさ,於內調ちょうはつとめそんもとがくじゅうふんちゅういちきょうりょう淮、荊襄隘要かえりいたりいま,雖即やすしせいむべおもんばか未然みぜん。乞照沿江もとおけ軍馬ぐんば,遷調江南こうなんつばさぶん,并各しょうしょうらない本省ほんしょう軍人ぐんじんはつ還元かんげんつばさ,仍前鎮遏。」しょういんかん,以為「沿江安置あんちさんじゅう一翼いちよく軍馬ぐんばせつほんいん此簿しょもん河南かなんしょうかん孛魯歡,其省また樞密院すうみついんぶんまき,內但しょういたりもとじゅうきゅうねんはくがおたまそくてつとうどもなずらえ其地安置あんちさんまんせんぐんぞうせんそうさんまんよんせんこん悉令各省かくしょううらない逃亡とうぼう事故じこしゃかえたかしやくあし矣。また孛魯歡言,去年きょねんはくがおてん河南かなんしょうゆうぐんまんひゃくこれじょうまたわかかえ其占やく事故じこ軍人ぐんじんのり共有きょうゆうななはちまんにん。此數そとだつ太子たいしゆういちせんさがせあかいちせんかんぐんおもね剌八赤等哈剌魯亦在其地,しつらえゆう非常ひじょうみな調ちょうようよりどころ各省かくしょううらないやく總計そうけいぐんかん軍人ぐんじんいちまんさんせんはちひゃくはちじゅういちめいぐんかんひゃくきゅうめい軍人ぐんじんいちまんさんせんろくひゃくななじゅうめい,內漢ぐんせんひゃくはちじゅうめい新附しんぷぐんはちせんじゅうはちめいこうむぐんろくじゅうよんめいこう浙省うらないやくぐんかん軍人ぐんじんよんせんきゅうひゃくじゅうななめいみずうみこうしょううらないやくぐんかん軍人ぐんじんななせんろくひゃくさんめい福建ふっけんしょううらないやくぐんかん軍人ぐんじんいちせんひゃくななじゅうめい江西えにししょう出征しゅっせいおさむかい新附しんぷぐんよんじゅうきゅうめい,悉令かえやく。」こう浙省またげん:「河南かなんゆきしょううらない本省ほんしょう軍人ぐんじんはちせんはちひゃくさんじゅうさんめいまたむべかえ鎮遏。」ゆうむね兩省りょうしょうかくかん赴闕べん

ねん正月しょうがつ樞密院すうみついんしんごと:「おもね剌䚟、だつゆるがせおもえ所領しょりょう漢人かんどおんなじき高麗こうらいとうぐんせんいちひゃくさんじゅうろくめい內,ゆうしょううみ對陣たいじんしゃ有久ありひさ戍四ねんしゃものりょくけしとぼし,乞於六衞軍內分一千二百人,大同だいどう屯田とんでんぐんはちひゃくにんとおるさとだいぐんひゃくにんそうせんひゃくにん往代。」せい三月さんがつみことのり各省かくしょう合併がっぺい鎮守ちんじゅぐん福建ふっけんしょおけしゃごうためじゅうさんしょこう浙所おけしゃごうためひゃくじゅうななしょこう西元にしもとたてたむろぐん鎮守ちんじゅひゃくじゅうろくしょげんいちひゃくろくじゅうしょそんろくじゅうよんしょ

さんねんさんがつ,沅州ぞくじん嘯聚,いのち以毗萬戶府鎮守辰州,鎮巢まん鎮守ちんじゅ沅州、やすししゅううえひとしまん鎮守ちんじゅつねしゅう)〔とく〕、澧州。[9]

ねんさんがつみことのり河南かなんしょううらないやくこう浙省ぐんいちまんいちせんよんひゃくななじゅうめいじょひろしさわ、芍陂屯田とんでんがいれいはつ還元かんげんつばさ

ななねんよんがつ調しらべ碉門四川軍一千人鎮守羅羅斯。

はちねんがつ,以江南海なんかいくちぐんしょう調ちょう蘄縣おうまんつばさかんぐんいちひゃくにん、寗まんつばさかんぐんいちひゃくにん新附しんぷぐんさんひゃくにんもりけいもと乃顏來者らいしゃこうむぐんさんひゃくにんもりていうみ

たけはじめ至大しだいねんなながつ樞密院すうみついんしんごと:「去年きょねん日本にっぽん商船しょうせん焚掠けいもと官軍かんぐん不能ふのうてきこう浙省ごと,請以けいもとうてなしゅう沿海えんかい萬戶府新附軍往陸路鎮守,以蘄けん宿やどしゅうりょう萬戶府陸路漢軍移就沿海屯鎮。しんとうはくがおおもねうけらとうしょういきおいせいごとむべしかこう安置あんち軍馬ぐんばあにけいどうぜんくだりしょうせわし䚟等またげん,以水陸軍りくぐん互換ごかん遷調,せいゆうくん曰:『せわし䚟得きょうよい而發此言!以水へい習陸伎,而從風水ふうすいやくなんなりえきはい,於事なん?』こんよく禦備かん宄,莫若したがえよろし於水沿海えんかい萬戶府新附軍三分取一,あずか陸路りくろ蘄縣萬戶府漢軍相參鎮守。」したがえこれ

よんねんじゅうがつ,以江浙省嘗言:「りょう沿海えんかいひんこう隘口,せっしょしげるうみ寇出ぼつけんおさむつけ江南えなこれさんじゅうねんうけたまわ平日へいじつひさしはたおごそつ惰,そちりょうとく其人,軍馬ぐんば安置あんち不當ふとう,乞斟酌しんしゃく衝要しょ,遷調鎮遏。」樞密院すうみついんかん:「けいもとあずか日本にっぽんしょうせっ,且為やまとしょう焚毀,むべ如所請,其餘遷調軍馬ぐんばことせきつとむべつぎょう。」じゅうがつ雲南うんなんはちひゃく媳婦、だいしょうてっさととうさく耗,調しらべ四川省蒙古、かんぐんよんせんにんいのち萬戶囊加䚟部領,赴雲みなみ鎮守ちんじゅ。其四川しせんしょうげん:「本省ほんしょう地方ちほう東南とうなんひかえせっ荊湖,西北せいほくえりれんしん隴,阻山たいこうみつ邇蕃蠻,もとごう天險てんけん古稱こしょうきょくじゅう,乞於そん恤歇やくろくねんぐん內調せんにん往。」したがえこれ

じんむねすめらぎけい元年がんねんじゅういちがつみことのり江西えにししょう瘴地內諸鎮守ちんじゅぐんかくうつりきんたむろちゅう

のべゆうよんねんよんがつ河南かなんゆきしょうげん:「本省ほんしょう地方ちほうひろしこう關係かんけいけい所屬しょぞく萬戶府俱於臨江沿淮上下鎮守方面,そうはなれしょうこんしゃ千里せんりこれじょうとおしゃせんあまりさと不測ふそく調度ちょうどそつなん相應そうおうきょう汴梁がかり國家こっか腹心ふくしん設立せつりつぎょうはぶけべつ親臨しんりん軍馬ぐんば,較之こう浙、江西えにしみずうみひろ陝西せんせい四川しせんとうしょ,俱有ずいしょう軍馬ぐんばおもんみ本省ほんしょうこうむばちづけ。」樞密院すうみついん以聞,いのち山東さんとう河北かほくこうむぐん河南かなん淮北こうむぐんりょうまん調しらべぐんいちせんにんあずかこれ十一月じゅういちがつ陝西せんせいまんごと:「碉門さがせ赤軍せきぐんいちひゃくじゅうめい鎮守ちんじゅ多年たねん,乞放還元かんげんつばさ。」樞密院すうみついんしん:「かれちゅうまたかかり要地ようちむべかえとめれい於元つばさおこりいちひゃくじゅうめいさんねんいちさら鎮守ちんじゅもと調しらべ四川各翼漢軍一千名鎮守碉門、はじむまさまたれい一體いったいさらだい。」

たいじょうよんねんさんがつ陝西せんせいゆきしょう嘗言:「たてまつもと建立こんりゅうぎょうはぶけくだりだいべつぐんただゆうこうむぐんまんとおざいおおとりしょうおけそうはなれさんひゃくじゅうあまりさと緩急かんきゅうなんよう。乞移萬戶府於奉元置司,軍民ぐんみんりょう便びん。」及後陝西せんせいまんごと:「自大じだいとく三年命移司酌中安置,けいいまさんじゅうねんおおとりしょうはなれだいばん甘肅かんせい俱各さん千里せんり地面じめんしゃくちゅううつりため便びん。」くるる密議みつぎ:「陝西せんせい舊例きゅうれい嘗提調ちょう軍馬ぐんばきょうおおとりしょうおけさんじゅうねんよろし移動いどう。」せい十二月じゅうにがつ河南かなんゆきしょうげん:「所轄しょかつひがしれん淮、うみ南限なんげん大江おおえきた抵黃かわ西にしせっせき陝,ほら蠻草ぞく出沒しゅつぼつあずかみんためがい本省ほんしょう軍馬ぐんば俱在ひんうみ沿江安置あんちとおしゃせんこんしゃいちせんあまりさと,乞以砲手ほうしゅいしゆみぐん兩翼りょうよくうつり於汴はり,并各まん摘軍せんめいしつらえ萬戶府隨省鎮遏。」樞密すうみつ院議いんぎ:「いたりもとじゅうきゅうねんせいいのち地理ちりしょういんかんども,於瀕うみ沿江ろくじゅうさんしょ安置あんち軍馬ぐんばとき汴梁嘗置ぐんあげしゅう衝要じゅうおけつばさ軍馬ぐんば并砲しゅいしゆみぐんこん親王しんのうだつ太子たいし鎮遏あげしゅうひさげ調ちょうよんしょう軍馬ぐんば,此軍よろしさらどうしつらえわか河南かなんしょうはてようぐんのりとう剌吉所管しょかん四萬戶蒙古軍內,さんまんざい黃河こうがみなみ河南かなんしょう西にし,一萬戶在河南省之南,だっべつ台所だいどころかん五萬戶蒙古軍俱在黃河之北、河南かなんしょう東北とうほくおもね剌鐵やすわらわとうりょうさむらいまもるこうむぐんざい河南かなんしょうきたきょうじゅう一衞翼蒙古軍馬,俱在河南かなんしょう周圍しゅういたむろちゅうまた本省ほんしょう所轄しょかつ一十九翼軍馬俱在河南省之南,沿江おけれつはて用兵ようへいそくはせそう於諸軍馬ぐんば內調はつ。」したがえこれ

校勘こうかん[编辑]

  1. 四年以控鶴六百三十人歸于皇后位下後復置立 まきはちきゅう校勘こうかん[きゅう]。
  2. のべゆうもと)〔よんねんあらためためただし)〔なか〕翊府 よりどころほん書卷しょかん六仁宗紀延祐四年五月戊寅條、まきはちろく百官ひゃっかんこころざしあらためほんしょうやめこう
  3. はやおびえまん まきはちろく校勘こうかん[はち]。
  4. なりそうもとさだよんねんはちがつ みち光本みつもと改作かいさくなりむね大德だいとくねんはちがつ」,其考證こうしょううん:「按成そうもとさださんねんがつ改元かいげん大德だいとく,其よんねんじつ大德だいとくねん也。」
  5. かく城門じょうもん以蒙いにしえぐんれつまもる みちこう本據ほんきょ經世けいせい大典たいてんあらためさくかくしろ以蒙いにしえかんぐんれつまもる」。
  6. かいなり まきよん校勘こうかん[いちよん]。
  7. 〔敕更だい廣州こうしゅう鎮戍士卒しそつ みちこう本據ほんきょ經世けいせい大典たいてんぞういれしたがえ
  8. 調しらべあげしゅうごう必〔あかぐんさんせんにん泉州せんしゅう よりどころ上下じょうげぶん屢見ごう必赤ぐん新元しんもとやめこう
  9. うえひとしまん鎮守ちんじゅつねしゅう)〔とく〕澧州 よりどころほん書卷しょかんなりそうおさむ大德だいとくさんねん十二月じゅうにがつおのれとりじょうあらため。按常とくあずか澧州毗隣,つねしゅうのりとお在江あるえ浙,もちごう

ほん明朝みんちょう作品さくひんざいぜん世界せかいぞく公有こうゆう领域いん为作しゃ逝世やめ经遠とおちょう过100ねん

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 まききゅうじゅうはち かえしかいいただき まきいちひゃく