げんふみ/まき116

維基文庫ぶんこ自由じゆうてき圖書館としょかん
 まきいちひゃくじゅう もとまきいちひゃくじゅうろく
列傳れつでんだいさん
まきいちひゃくじゅうなな 

后妃こうひ

あらわ懿莊せい皇后こうごう[编辑]

睿宗あらわ懿莊せい皇后こうごうめい唆魯〔じょうあま[1]おびえれつ生子おいごけんそうそうまましためみかどいたりもとねんついうえみことおくりなそうせい皇后こうごう[2]ます祔睿宗廟そうびょう

至大しだいねん十二月じゅうにがつおくりなあらわ懿莊せい皇后こうごうさんねんじゅうがつまた上玉じょうだまさつ,其文曰:「こう宗德むねのりしょう誄於てん。內則閫儀,受成於廟。くだりだいしゃめい必顯,おんたかししゃほうそくゆたかうえ以增定之さだゆきこうしも以伸遹追之孝ゆきたか。欽惟そうせい皇后こうごう英明えいめい溥博,ひじりよしやわらよしみみこと儷景じょうかげきょうじゅん。逮事こうけんじしょくつとむおさむくん聿著於承てんさちりょううらない於夢あとせいいとぐちひろしげんゆうややふかひとしあつ澤之さわの垠。げんはじめぬりさん,顧前徽之しょうあお籙興於文ははあに後嗣こうしのう忘。よう參考さんこうつねけい,丕揚けい鑠。じき繹寶慈之よしみ形容けいよう青史せいしぶんまわし。謹遣ふとじょうぼうたてまつたまさつだまたからじょうみことおくりな曰顯懿莊せい皇后こうごうふくおもんみ睿靈,あきらたれ鑒格。禮嚴れいごん閟宮,らくえびすそくおくまん斯年,うけたまわきゅう斁。」

徽仁ひろしせい皇后こうごう[编辑]

ひろしむね徽仁ひろしせい皇后こうごうはくあい也怯あかいちめい闊闊しん弘吉ひろきち剌氏,なまじゅんむねなりむね

さき出田いずたりょうみち渴,いたりいちちょうぼういち女子じょし緝駝だけせいしたがえ覓馬湩。女子じょし曰:「うま湩有ただしわが父母ちちはは諸兄しょけいみな不在ふざいわが女子じょしなん以與なんじ。」ほしこれ女子じょしまた曰:「わが獨居どっきょ此,なんじ,於理よろしわが父母ちちははそくしゅうとまち。」須臾しゅゆはて出馬しゅつば湩飲すんで嘆息たんそく曰:「とく此等女子じょしため人家じんかあに不美ふみ耶!」あずかしょしんはかりごと太子たいしせい俱不まことゆう一老臣嘗知向者之言,其未許嫁いいなずけげん于世大喜だいぎおさめため太子たいし

きさきせいこう謹,善事ぜんじ中宮ちゅうぐうせいごとしょうためけんとく媳婦。さむらいあきら睿順せい皇后こうごう不離ふり左右さゆういたり溷廁しょ用紙ようしまた以面こすれい柔軟じゅうなん以進。いちにちひろしそうゆうびょうせい往視,ゆかじょうしつらえきむしとね慍而曰:「わが嘗以なんじためけんなに乃若此耶?」きさき跪答曰:「常時じょうじ曾敢ようこんため太子たいしびょうこわゆう濕氣しけいんよう。」即時そくじてっ

くずれなりむね至上しじょう諸王しょおう畢會。さきちゅうすすむちぇ彧得だま璽于はなはじむ國王こくおう曾孫そうそんとく[3]其文曰:「受命じゅめい于天,すんでことぶき永昌えいしょう。」上之うえの于后。いたりきさきしゅ授成むねそく皇帝こうていみこときさきため皇太后こうたいごうさつぶん曰:「自家じか而國,どう必有しょさきりつあいおもんみおや君德くんとく莫先於孝。きょうおんふか於鞠わが,而禮じゅう於正めい歷代れきだい以來いらいれいこうひとしょく所在しょざい天下てんかははむべみこときょうおもんみ聖母せいぼせい善本ぜんぽん天資てんしせいせんほう乎地どううえ以奉むね祏之じゅうしも以敍りん紀之のりゆきつねじょわが前人ぜんじんまもりまきみみつとむこころざし冲子,なりおもえひとし雍肅ふう。肆神ゆうまごはかりごとじょう。畀付雖由於曆すうぶんまわし摹一於庭闈。ようりつ籲眾しんしょうあきら鉅度,かち拳拳けんけん大願たいがん。謹奉さつたからうえ尊稱そんしょう皇太后こうたいごうふくおもんみ長信ながのぶきよしきよししゅうはじめ綿綿めんめん。備洛しょすずぶくつばら慈極てんようたからはこぶ,於まん斯年。」いのちしつらえかんぞくおけ徽政いんこういん官有かんゆう受獻浙西ななひゃくごろせき於位ふとしきさき曰:「わが寡居婦人ふじん衣食いしょく有餘ゆうよきょう江南えな率土そっとみな國家こっか所有しょゆうわが曷敢わたし?」そく命中めいちゅうしょしょうつきえきいんかん受獻しゃきさきおとうとよくいんきさきもとめかんきさき曰:「わか欲求よっきゅうかん耶?なんじ為之ためゆき,勿以るいわが也。」其後,おとうとはて黜,にんみなふくきさき先見せんけん

大德だいとくよんねんがつくずれ,祔葬さきりょうおくりな曰裕せい皇后こうごうしょう祔裕宗廟そうびょう至大しだいさんねんじゅうがつまたついみことおくりな曰徽じんひろしせい皇后こうごう

せん懿淑せい皇后こうごう[编辑]

顯宗けんそうせん懿淑せい皇后こうごうめいひろしがおおびえさと迷失,弘吉ひろきち剌氏。顯宗けんそうきょすすむていおさめためもとなまやすしていみかど

たい定元さだもとねんついみことせん懿淑せい皇后こうごう,其冊ぶん曰:「祗纘すめらぎほうひろし仁孝にんこうこれついたかし聖母せいぼえいふところきくそだておん。匪建おおとりめい,疇彰あつとく。欽惟すめらぎ妣晉王妃おうひ弘吉ひろきち剌氏,よし侔周姒,けん邁虞嬪。儷我先王せんおうつとむもりはじめ基之もとゆきあきら其懿はんえき恢正はじめふうじゅんひつじさるどう以承,炯月てる以遡かげこう久積ひさづみ,衍聖いとぐち於無疆;神器じんぎ攸歸,けいげんゆうおおせ徽音如在,慨至やしなえ莫加。聿選きゅうたつ,爰修縟典。謹遣ふとじょうぼうたてまつたまさつだまたからうえたかしおくりな曰宣懿淑せい皇后こうごうふくおもんみよしれいざいうえしきたれ鑒臨,ごうとおるふとしみやえいすずしげる祉。」ます皇考こうこうあらわ宗廟そうびょうてんれきはつふく祧顯むね廟祀びょうし

あきらけんじもとせい皇后こうごう[编辑]

じゅんむねあきらけんじもとせい皇后こうごう名答めいとう)〔おのれ〕,[4]弘吉ひろきち剌氏,按陳まご渾都じょうおんなひろしそうきょつばめてい及潮かわじゅんむね俱在さむらいややちょうせいたまものおんなさむらいかくこう乃納きさきためなまたけ宗及そうきゅうじんむね

大德だいとくきゅうねんなりそうぼく魯罕皇后こうごう秉政,ひとしそう母子ぼしきょふところしゅうじゅうねん十二月じゅうにがつきさきいたりふところしゅうじゅういちねん正月しょうがつなりむねくずしときたけはじめそうへい北邊ほくへん,(ひだり)〔みぎ丞相じょうしょうこたえ剌罕哈剌哈孫かげ使つかいほうじんむね[5]あずかきさき奔還京師けいしきさきあずかひとしそうにゅう內哭,ふくきゅうやしき朝夕ちょうせきにゅう奠。そく使つかいむかいたけはじめかえ,以がつ即位そくい

さきふとしきさき以兩太子たいしぼしいのちづけ陰陽いんよう推算すいさんもんしょむべだてたい曰:「重光しげみつ大荒おおあら落有わざわい,旃蒙さく噩長ひさし。」重光しげみつためたけはじめ生年せいねん,旃蒙ためじんむね生年せいねんふとしきさき頗惑其言,近臣きんしん朵耳諭旨ゆしたけはじめ曰:「なんじ兄弟きょうだいにんみなわが所出しょしゅつあにゆうおや疏?陰陽いんようしょげんうん祚修たんようおもえ也。」たけはじめ聞之默然もくぜん進康のぶやすさとだつだつ而言曰:「わが捍北じゅうねんまたたねきょちょうふとしきさき以星いのちためごと,茫昧なんしん使つかいわがしつらえほどこせあい於天こころ民望みんぼう,雖いちにちたんまたあしたれめいまんせいなに以陰げん,而乖祖宗そそうたく哉!」だつだつ以聞,ふとしきさき愕然がくぜん曰:「おさむたんこれせつ雖出じゅつわれため太子たいし遠慮えんりょ所以ゆえんふかあい太子たいし也。太子たいしすんで如是にょぜごとこんとうそくらいみみ。」しょうかんさとだつだっでんちゅう

五月ごがつたけはじめすんでりつ即日そくじつみことふとしきさきため皇太后こうたいごうたてじんむねため皇太子こうたいし三宮さんのみや協和きょうわ十一月じゅういちがつみかどあさふとしきさき于隆ぶくみやうえ皇太后こうたいごうだまさつだまたから至大しだい元年がんねんさんがつみかどためふとしきさきけんきょうひじりみやきゅう鈔五まんじょういとまんきんねん正月しょうがつふとしきさきこう五臺山ごだいさんさく佛事ぶつじみことのりだかうららおうあきらしたがえこれよんがつたてきょうひじりみやこう淮財そうかん,以司ふとしきさきぜにかてさんねんがつ以上いじょう皇太后こうたいごう尊號そんごうつげまつ南郊なんこうよんがつ,以興せいみやたかぼうとうよんせんふんところりょうけんまんみつるこれじゅうがつつちのえさるみかどりつ皇太子こうたいし諸王しょおう羣臣朝興ともおきひじりみやうえ皇太后こうたいごう尊號そんごうさつたから曰儀てんきょうせい慈仁あきら懿壽もと皇太后こうたいごうかのえいぬきさききょうしゃふとびょう,以皇太后こうたいごう受尊ごうみことのり赦天よんねんひとしむね即位そくいのべゆうねんさんがつみかどりつ諸王しょおう百官奉玉冊玉寶,じょう皇太后こうたいごう尊號そんごう曰儀てんきょうせい慈仁あきら懿壽もと全德ぜんとくたいやすしぶくけい皇太后こうたいごう

のべゆうななねんえいむね即位そくい十二月じゅうにがつうえ尊號そんごう太皇太后たいこうたいこうさつぶんうん:「おう政之まさゆきさき以加こう人倫じんりんほん莫大ばくだいみことおや。肆予臨御りんぎょはつしゅ舉推崇之たかゆきてんきょうおもんみ太皇太后たいこうたいこう陛下へいかじんほどこせ溥博,あきらしょくかそけほろ。爰自きょふちせんみややめゆうはは天下でんかもちほうたけ宗之むねゆききたかりてきなりびょうまろうどてん。旋克於乾つなりょうさいやす於宗祏。雖有ざい躬之歷數れきすうじつつかさ創業そうぎょう艱難かんなん儀式ぎしきひょう於慈闈,どうきょうはかりごと先帝せんてい。莫究てんみょうまこと如扶ますくつ至尊しそん兩翼りょうよくなり於聖;嗣登大寶たいほうふくようたすく於眇躬。はぎとく邁塗さんこうだかぶんははむべよんしきえき衍於徽稱。謹奉だまさつだまたからじょう尊號そんごう曰儀てんきょうせい慈仁あきら懿壽もと全德ぜんとくたいやすしぶくけい徽文たかしたすく太皇太后たいこうたいこう。於戲!茲雖わたる於強めい,庶庸さる於善頌。九州きゅうしゅう四海しかいやしなえあし於孝しんまんさい千秋せんしゅうねがいなが膺於ことぶき祉。」

へいたつふとしきさき御大おんたいあきら殿どの,受朝賀ちょうがつちのえたつつげふとしびょうふとしきさき見明みみょうむね少時しょうじゆう英氣えいき,而英むねやややわ懦,しょ羣小以立あきらそう不利ふり於己,とげ擁立ようりつえいむね。及既即位そくいふとしきさきらいえいむねそく毅然きぜん於色,きさき退すさ而悔曰:「わがなずらえやしなえ此兒耶!」とげいん恨成やましいたりさんねんがつくずれます祔順宗廟そうびょうはいしょく[6]

きさきせいさとしとしれきさんあさきょう宮中きゅうちゅう侍女じじょみなおんなこうおやみさおうすしかことけん飭,せいひがしあさいんほしいままえき甚,內則くろうさぎうまははまたれつしつはち用事ようじそと則幸のりゆきしんしつれつもんひも鄰及おさむ迭木じょうしょうりつため奸,以至箠辱たいらあきらちょう珪等,にごらん朝政ちょうせいしょいたり。及英むねりつ,羣倖ふく誅,而後ぜい焰頓いき焉。

校勘こうかん[编辑]

  1. 唆魯〔じょうあま よりどころほん書卷しょかんいちろく后妃こうひひょうほん書卷しょかんさんけんそうおさむさく「唆魯禾帖あま」,元朝がんちょう祕史ひしさく「莎兒あいくろとうあま」。
  2. いたりもと二年追上尊諡莊聖皇后 「ねんとうさくさんねん」。まきいちいちよん校勘こうかん[]。
  3. はなはじむ國王こくおう曾孫そうそんとく 按本書卷しょかん一一九木華黎傳及黃金おうごんはなしゅうまき五別里哥帖穆爾神道碑,「とくさく碩德せきとく」,ためはなはじむ玄孫げんそんうたぐ此處ここら「曾」あやま
  4. こたえ)〔おのれ〕 よりどころほん書卷しょかんいちろく后妃こうひひょうあらためほん書卷しょかんいちいちよん后妃こうひでんまき一一八特薛禪傳作「こたえきち」。るいへんやめこう
  5. ひだり)〔みぎ丞相じょうしょうこたえ剌罕哈剌哈孫 よりどころほん書卷しょかんいちいち宰相さいしょう年表ねんぴょうあらため。按當時とうじひだり丞相じょうしょうためおもねゆるがせだいこうむやめこう
  6. いたりさんねんがつくずします祔順宗廟そうびょう 按本書卷しょかん八英宗紀至治二年九月丙辰條有「太皇太后たいこうたいこうくずし」,いたりさんねんさんがつつちのえさるじょうゆう「祔太皇太后こうたいごう于順宗廟そうびょうしつ」,此處ここらぶんゆうあやまみち光本みつもとさくいたりねんきゅうがつくずしさんねんます祔順宗廟そうびょう」。

ほん明朝みんちょう作品さくひんざいぜん世界せかいぞく公有こうゆう领域いん为作しゃ逝世やめ经遠とおちょう过100ねん

Public domainPublic domainfalsefalse

 まきいちひゃくじゅう かえしかいいただき まきいちひゃくじゅうなな