げんふみ/まき132

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 まきいちひゃくさんじゅういち もとまきいちひゃくさんじゅう
列傳れつでんだいじゅうきゅう
まきいちひゃくさんじゅうさん 

くいゆるがせおもえ 魯合こたえ たま哇失 むぎさと さがせあか 拔都 のぼるきち 哈剌䚟 すなぜん じょうはな

くいゆるがせおもえ[编辑]

くいゆるがせおもえおもねそくおもおもねはやこくふとしむねへいいたり其境,くいゆるがせおもえりつ眾來くだたまものめい拔都すず以金いのちりょう土民どみんひろたてまつむねせんおもねはやぐんせんにん,及其長子ちょうしおもねとうあか扈駕おやせい[1]すんでかえおもねとうあかいれちょく宿衞しゅくえいくいゆるがせおもえかえくにみちぐうてきじん戰歿せんぼつ,敕其つまがいあさおもえりょうへいもり其國。そとあさおもえ躬擐甲冑かっちゅうひら叛亂はんらん次子じし按法普代ふだい

おもねとうあかしたがえけんそうただし西川にしかわぐん于釣さかなさんあずかそうへいせん有功ゆうこうみかどおやいん以酒,しょう以白きんおもねさと哥叛,したがえ也里征之まさゆきいたりやすしなつあずかおもねあいこたえ、渾都海戰かいせん率先そっせん赴敵,矢中やなか其腹,懼,せい聞而嘉之よしゆきしょう以白きん,召入宿衞しゅくえいちゅうすべねん,扈駕おやせいおもねさと哥,ついいたりしつさと禿かぶろ,以功ふくしょう白金はっきんさんねんしたがえせい璮,平之ひらのいたりもとねんたてまつうまどうこたえだいりょうへいみなみせいおさむやぶ金剛こんごうだいろくねんしたがえおさむやすけいせん有功ゆうこうななねんしたがえ河口かこうじゅういちねんしたがえ沿江もろぐん,戍鎮みん不堪ふかんいのちそうくだはたひろしぶく以計じょうよい而殺憫其たまもの其家白金はっきんひゃくりょう、鈔さんせんひゃくかん,併鎮くだみんいちせんひゃくさんじゅうきゅう,且命其子はくこたえかさねせん,佩金

どきしつれつよし叛,みことのりはくこたえりょうおもねはやぐんいちせん往征あずかきち剌只かわらだいぐんせん于押さとふくあずかくすりゆるがせぐんせん于禿剌及斡魯歡之じゅうねんはるいたりはくきばあずかあか憐軍合戰かっせん五月ごがつ駐兵ちゅうへいしか剌牙,あずかそと剌台、ひろしあか哥思とうぐん合戰かっせん。其大將たいしょうとうおもえはな樹木じゅもくためしがらみせきせきためじょう,以拒大軍たいぐんはくこたえとく勇士ゆうし先登せんとう,拔之,はくこたえ矢中やなか右股みぎまたべつ里吉さとよし)〔吉里よしさと〕迷失以其こう聞,[2]しょう白金はっきんじゅうねん,授虎てい遠大えんだい將軍しょうぐん後衞こうえいおやぐん指揮しき使けんりょうおもねはやぐんたかしおもねはや拔都たち魯花あか

じゅうねんせいべつしつはちぐん于亦さと渾察罕兒あずか禿ちびしかはやあさぐんせん有功ゆうこうじゅうろくねんせいくいうみ敵勢てきせい甚盛,大軍たいぐんとぼしくえ,其母乃咬輸己帑及畜牧とうきゅうぐんしょくせい聞而嘉之よしゆきたまもの甚厚。大德だいとくよんねんはくこたえそつ

長子ちょうし斡羅おもえよし宿衞しゅくえいつかまついたりたかし鎮衞指揮しき使次子じし福定ふくさだ襲職しゅうしょくかんふところ遠大えんだい將軍しょうぐんひろあらためみぎおもねはやまもるたち魯花あかけんかん後衞こうえいぐん至大しだいよんねんあにたんたかしみぎおもねはやまもる指揮しき使福定ふくさだ復職ふくしょく後衞こうえい,陞樞密すうみつどう僉,いのちりょうぐん一千守遷民鎮,ひろ授定遠大えんだい將軍しょうぐん、僉樞密院すうみついんごと後衞こうえいおやぐん指揮しき使ひさげ調ちょうみぎまもるおもね速達そくたつ魯花あかねん[3]すすむぜん大夫たいふどう樞密院すうみついんごとこういたりもとあいだしん樞密院すうみついんごと

魯合こたえ[编辑]

魯合こたえこうむ弘吉ひろきち剌氏。按主やつ[4]ふと宗時むねときりつこうむぐん千人從諸王察合台征河西,いたりやまおさむじょうかいかいぶんもろしゅう,以功ため元帥げんすい,佩金ちゅうぐんかんれいてん,戍守西和せいわかいぶんみなみかい,及西しげる邊境へんきょう換金かんきんとらじょ元帥げんすいちちしゃさと襲職しゅうしょくしたがえ元帥げんすいひも璘攻成都せいとそうすすむりゅうせい以重へいもりくも頂山いただきやまくるまさとげきはいしんかこえ其城。せい裨校せん敗走はいそうついいたり簡州これころせさんひゃく餘人よにんとげ拔其じょうおさむ重慶たーちんくるまさと將兵しょうへいせん人為じんい先鋒せんぽうわたりみずうみはいそうへい馬老山ばろうさん,俘獲ひゃく餘人よにんつちのえうましょぐんかえたむろはいさんそうへい夜來やらいこう營,くるまさとげきはい斬首ざんしゅさんひゃくきゅう即位そくい賜金しきんためおく元帥げんすいまたあらためせいぎょう元帥げんすい

いたりもとねんくるまさと以老やましにんごと諸王しょおうおもねただよしいのち魯合こたえだいりょう其軍。いたりもとはちねんせい授管ぐんせん,佩金そうすすむ昝萬ことぶきおさむ成都せいと,僉省いむ忠範ただのり魯合こたえ將兵しょうへいなな百人禦之于沙坎,流矢ながれやちゅうみぎ頰,拔矢,せんいよいよちから大敗たいはい其軍。じゅういちねんぎょういんひろし哥以へいかこえよしみてい魯合こたえそくりつ其眾攻きゅう頂山いただきやまやぶこれよしみていくだ進攻しんこう重慶たーちんそうぐん突圍出走しゅっそう銅鑼どらかいぎょういんゆるがせあつし魯合こたえおいいたりこうひつじ垻,斬首ざんしゅひゃくきゅう。瀘州叛,かえぐん討之,魯合こたえ以所へいおさむ寶子たかこ寨,さいあまりした,乃造雲梯うなて先登せんとうきゅうげきとげやぶこれころせとりこ殆盡。じゅうろくねん重慶たーちん,以功遷武りゃく將軍しょうぐんせいぎょう元帥げんすい

じゅういちねんいのちすべこうむさがせ赤軍せきぐん千人從征金齒蠻,平之ひらの元帥げんすいこうむ歹征必甸,魯合こたえりつゆうへい先行せんこうこうみず暴溢,りつ眾泅すい而渡,しろさんひゃく而營。きょななにちしょぐんかい城下じょうか,乃進攻しんこう魯合こたえ先登せんとう,拔其じょうとげほふこれまたしたがえせいはちひゃく媳婦こくいたりしゃりんくるまりんしゃ,其酋長所ちょうしょきょ也。諸王しょおう闊闊いのち魯合こたえはたゆうさんひゃく往招くだ聽,しんへいおさむ鎮撫ちんぶこうせい焉。魯合こたえ毀其北門きたもんとげにゅう其寨,其地悉平。賜金しきんとら,授懷遠大えんだい將軍しょうぐん雲南うんなん萬戶府達魯花赤,そつせわしはなかさねかんぐんせん

はつ,按主やつさんちょうしゃさと黑子ぼくろじょう[5]黑子くろこべつ賜金しきんためおく元帥げんすい兼文かねぶみしゅう吐蕃たち魯花あかそつ。其子ふところよう,以帖其官。ふところちょう解職かいしょく授之,とげあらため授帖ずい拔都まんうつり鎮重けいそつ

たま哇失[编辑]

たま哇失,おもねはやじんちち也烈拔都したがえ其國ぬしらいふとしそういのちたかし宿衞しゅくえいとしつちのえうましたがえけんそうただししょくためゆうへいまえぎょういたり重慶たーちんせんすう有功ゆうこう。嘗出獵しゅつりょうぐうとら於隘,下馬げば搏虎,とらちょう吻欲噬之,以手探てさぐり虎口ここうこじ其舌,拔所佩刀はかせとげ而殺みかどたけし其勇,しょう黃金おうごんじゅうりょうべつりつおもねはや一軍いちぐん使つかいりょう其眾。したがえせいおもねさと哥,またしたがえ親王しんのう哈必しつせい璮,俱有功ゆうこう賜金しきん,授本ぐんせんしたがえじょうまたしたがえ沿江しょしろそうひろしやすなですんでくだふく叛,さそえ入城にゅうじょうえんじょうよいころせこれ長子ちょうし也速歹兒だいりょう其軍,したがえおさむあげしゅうちゅう流矢ながれやそつ

たま哇失かさねちちしょくためおもねはやぐんせんしたがえ丞相じょうしょうはくがおひらそうたまものけんせんじゅうただかわら歹叛,りつ所部ところぶへいげきいたりふところ魯哈とりこ其將しつ剌察于軍,其眾悉平。諸王しょおうりん及失剌等叛,したがえ皇子おうじきた安王やすおう討之。[6]いたり斡耳罕河,ふねおどうまわたるりゅう而渡,俘獲甚眾。とききた安王やすおうかたせんしつおちい敵陣てきじんちゅうたま哇失したがえ諸王しょおうやくゆるがせついいたり金山かなやまおう乃得だつしょう白金はっきんじゅうりょう、鈔せんひゃくかんあらため賜金しきんとらしんじょう遠大えんだい將軍しょうぐん前衞ぜんえいおやぐん指揮しき使

諸王しょおう乃顏叛,せいおやせいたま哇失ためぜんほこさき。乃顏哈丹りょうへいまんにんらいこばめげきはいついいたりさと古都ことはくとう哈之,乃顏へいごうじゅうまんたま失陷しっかんじん力戰りきせんまたはいついいたりしつれつもんりんとげとりこ乃顏。みかどよしみ其功,賜金しきんたいただまごぜにぬさ甚厚。乃顏あまりとうとう歹、かねやつ聚兵めつこね該,したがえ大軍たいぐん討平すんで而哈ふく叛於きょくれんこう追擊ついげき其軍,渡河とか而遁。またあずかうみしょうはち憐、じょうさと哥歹、必里察等せん於亦必兒しつ必兒せん屢捷。

なり宗時むねときざいせんていみかど以海連年れんねんはんあたりいのち金山かなやまたま哇失りつ所部ところぶざいくだりしたがえ皇子おうじ闊闊丞相じょうしょう朵兒朵懷げきうみぐん,突陣而入,大破たいはふくしたがえ諸王しょおうやくゆるがせ丞相じょうしょう朵兒朵懷げきうみしょうはち憐,はち憐敗。うみふく以禿うまりょう精兵せいびょうさん萬人直趨撒剌思河,よくよりどころけん以襲たま哇失りつぜんしゃしゃさんひゃくにんもり其隘,ちゅう以射,竟全ぐん而歸。みかど嘉之よしゆきたまものまんせん緡、かねだんさんじゅうひきうみ、朵哇以兵來襲らいしゅうげきはしこれ

たけはじめ鎮北あたりうみふく入寇にゅうこういたり兀兒禿かぶろたま失敗しっぱい其駝仗以けんじとき扎魯はなあか孛羅じょうしょ將兵しょうへいためうみこま於小だにみかどいのちだま哇失援出みかどいいしょしょう曰:「今日きょう大丈夫だいじょうぶことしゃだま哇失其誰のうたて以黃きんつつみ其身,なおあし以厭ちんこころざし。」たけはじめみなみかえいのちだま哇失したがえてき懼莫敢近,いんとめ戍邊。たまもの以金察剌たま束帶そくたい、渾金だんかくいち,仍賜秫米ななじゅうせき使つかいためしゅ以犒其軍。こううみ都子くにこ察八兒等遣人詣闕請和,朝廷ちょうていもととげ撤邊備,たま哇失乃還。みかどろく其功,たまもの鈔五まんかんしん鎮國じょう將軍しょうぐん,仍舊しょく

大德だいとくじゅうねんがつ晝寢ひるね于衞しゃやまし而卒。また乞里歹襲。また乞里歹卒,はいじゅうかさね

むぎさと[编辑]

むぎさととおる兀臺ゆきさとけんがおしたがえぶとあずかおう罕戰,どういんはんしん河水こうすい,以功授せんりょうてっさとだい征討せいとう諸國しょこくそつ于河西にしちちむぎきち襲職しゅうしょくしたがえぶとそうじょう中原なかはら,以疾そつむぎさと襲職しゅうしょくしたがえ定宗さだむねりゃくてい欽察、おもねはや、斡魯おもえ諸國しょこくしたがえけんむねそう有功ゆうこう

即位そくい諸王しょおう霍忽叛,かすめ河西かさいしょしろむぎさと以為みかどはつ即位そくい,而王ためしゅみだれ,此不可ふかちょうあずか其弟くわゆるがせこたえりつ所部ところぶげきいちがつはちせんだつ其所かすめ扎剌まただつだつ憐諸部民ぶみん以還。やめ而桑ゆるがせこたえため霍忽しょころせみかど聞而憐之,使者ししゃ以銀鈔羊むかえ致麥さとたまものごう曰答剌罕,ひろそつ禿かぶろゆるがせ魯。

さがせあか[编辑]

さがせあか禿かぶろりつおびじんしたがえ諸王しょおうぼつあかせいしょくこう以兵したがえとううみこんぼく魯赤、ひも璘諸だいそちとしつちのえうまひも璘攻涪州,かえいたりみずうみこうそうへいれんかんぜっこうとくすすむさがせあかりつ精兵せいびょうせんげきだつ其舟以濟。また於橫こうよしみじょうせんさんけんづくり浮橋うきはし,以達成都せいとひも璘以ためのういのちしょうせんにんしたがえ萬戶昔力答略地碉門、はじむまさしげるむかしりょくこたえぎょういんじょうあか以探あかためまんりょう其軍。ちゅうすべよんねん,授蒙かんぐんまん

いたりもときゅうねんしたがえくだりしょう也速たいせい建都けんとどく以銳そつせんひゃくにんあずか建都けんとへいせん于梅みね大敗たいはいよるはせあずかはや哥會,ちょく擣其營,斬首ざんしゅすうじゅうきゅうなまとりこひゃく餘人よにん輜重しちょう以歸。ふくえきへいさんせんにんあずかひだりすすむきょくたてきちおもえかち進擊しんげき建都けんとぜい蹙,請降。またしたがえくだりいんひろし哥、ゆるがせあつしとうおさむよしみじょう重慶たーちん、瀘、じょしょしゅう,以功けんたかしけいたち魯花あかじゅうきゅうねんそつはいのべかさねこうむぐんまん,戍甘しゅう

拔都[编辑]

拔都おもねそくせいきょうえ宜興いいしんけんそうざいせんていあずかあに兀作罕及とうすなそち眾來うまとうすなしたがえけんそうただしむぎかくおもえじょうためぜんほこさきはた身中しんちゅう奮戰ふんせん拔其じょうまたしたがえせいしょくいたり釣魚ちょうぎょさん,歿于ぐん

拔都したがえせい璮,かこえずみみなみじゅうせんせいよしみ其能,しょうおさめしつおもえだんきゅういのちりょうおもねはやぐんいちせんつねきょ左右さゆうひろ於阿とうあか內充おびえひゃくしたがえとうたいみなみせいあずかてきぐんせん金剛こんごうだいまた以功受賞じゅしょうかえげん於帝曰:「しんねがい從軍じゅうぐん為國ためくにこう。」とめ,仍命たかし孛可まごけんりょうおもねはやぐん御馬おんま必令鞚引。

いたりもとじゅうさんねん,授廣將軍しょうぐん後衞こうえいおやぐんふく指揮しき使たまものとら明年みょうねんなつしたがえせい乃顏于亦迷河,とりこ僉家やつとうたい以歸,しょう鈔及ころもだんてい遠大えんだい將軍しょうぐん大德だいとく元年がんねんそつ

べつきちれんかさね至大しだいよんねん河東かわとう陝西せんせい、鞏昌、のべやすつばめみなみ河北かわきたりょう河南かなん山東さんとうしょつばさまもるさがせあかそう草地くさじ訟者ひゃくあまりおこりいのち往究,悉正其罪,せきかんふところ遠大えんだい將軍しょうぐん。致和元年がんねんしたがえ丞相じょうしょうつばめてつとりこたおせ剌沙とうがらすはく剌等,りょうしょまもるぐんもりきょいさおせき及諸要害ようがいてんれき元年がんねんじゅうがつおうぜんへい掩至羊頭ようとうさんおさむやぶ隘口,いきおい甚張,べつきちれんしたがえ丞相じょうしょうよう眾奮げき突入とつにゅう其軍,おうぜん敗走はいそうぶんそうたまもの御衣おんぞかさね三珠みたまとら,及弓矢ゆみや甲冑かっちゅうきむ帛等ぶつ,以旌其功。ひろ以疾やめ也連てきかさね

のぼるきち[编辑]

のぼるきちちょうわきじんせいかばせいため西にしなつ將家しょうかとしからしちちあまぼくりつ所部ところぶかえりふとし[7]以其ぐん隸蒙軍籍ぐんせき,仍以あまぼくためせん戶主こしゅしたがえはなはじむ出征しゅっせいやまいそつ

のぼるきちりょう其父ぐんしたがえせい諸國しょこく有功ゆうこういたりもとろくねん,授本ぐんせん,佩金にわかりゃく淮南ワイナンしょむかいまえどきこくへいはつみなみふさがうまとうあつ往往おうおうはたけ癘,のぼるきち以所馬入ばにゅうふとしぎょう療之,しょやめやめよしぐん中馬ちゅうま病者びょうしゃりつ以屬焉,さい療馬以萬すうそう輸糧金剛こんごうだいしょう深入ふかいりのぼるきち將兵しょうへいはせ往,だん其輸どういんじょうげん:「河南かなんぐんあずかそうたいさかいそうへいため患,とうしゅう東南とうなんみな大山おおやましんざい蔡州みなみみなみただし九里くのりたけようたいらやすしみずとうせきそうへい必經しょせき以入,しんじつ其咽のどまもり禦莫きゅう焉。往年おうねんきんほろび朝廷ちょうていとくことぶき、泗、じょう、郢,而不とめへいもりそつ使そうどく,請城しん,以扼そう。」とくむねれいりつ河西かさいぐんいちせんさんひゃくにんじょうじょうしげる

きゅうねんあかり將軍しょうぐんしんぐんまん,佩虎分木ぶんぎはなはじむ及阿うけらしょはた河西かさいへい俾將ふところ遠大えんだい將軍しょうぐん丞相じょうしょうはくがお渡江とのえとめおもねうけらてい淮南ワイナン東道とうどう,其西道則みちのりぞくのぼるきち駐兵ちゅうへいかずしゅうそう淮西せいおけ夏貴なつきほうみやこみつる將兵しょうへいよんまんらいおさむゆうはかりごと內應しゃ悉誅せんへい千秋せんしゅう澗,ふさが其歸よし出城でしろ奮擊,大敗たいはい人馬じんばせんけい。鎮巢ぐんくだおもねはやぐん戍之,にん不堪ふかん其橫,みやこみつるひろしぶくつきころせ戍者以叛。のぼるきちおさむ拔其じょうとりこぶく及董統制とうせいたんせいしょうとげおさむいおりしゅう夏貴なつき使つかいじんらいげん曰:「おおやけ毋吾おさむため也,われおもくだわれそくくだ矣。」そうほろび舉所おさめ款。のぼるきちにゅういおりしゅうみん按堵しょはん,遷鎮國上くにがみ將軍しょうぐん、淮西せん慰使。

そうすすむ相文あいふみてんさちふくおこりへい海道かいどう,舒民ちょういさおきょうおうかさねやぶ興國こうこくとくやすもろぐんかえよりどころ空山そらやまみことのりのぼるきちおさむいちせん而定,ころせちょういさおきょうさん以獻。

こうひだりはつひらめ官制かんせい草創そうそう權臣けんしんおもね合馬おうまおさむまいない鬻爵,江南こうなん官僚かんりょう冗濫ため甚,こおりまもる而下佩金しゃいたりさんよんにん由行よしゆきしょうかん舉薦ちょう授宣慰使しゃ甚眾,みん不堪ふかんいのちのぼるきち入朝にゅうちょうためみかどごと,且枚舉不循資れき而驟陞者すうにんみかどおどろき曰:「ゆう哉!」いんいい姚樞とう曰:「此卿やからしょ,而不為ふためちんごとのぼるきち顧言よこしま!」そくいのち偕平あきら哈伯、ひだりすすむちぇあきら翰林かんりんうけたまわむね魯火まごたからたてまつただし文忠ふみただげん汰之,せん曹以きよし。仍詔さとしこう軍民ぐんみん,俾通知つうち

どきりょう兵革へいかく,荊榛蔽野,のぼるきち請立屯田とんでん,以給ぐん餉,みかどしたがえこれすんで而阿とううみごと:「屯田とんでんしょ用人ようにんうし農具のうぐ甚眾,今方いまがた有事ゆうじ日本にっぽんわか復調ふくちょうはつ民兵みんぺいはたかち動搖どうよう矣。」とげいくせん慰使つばめおおやけくすのきふく以為ごと[8]みかど乃遣すうせんにんそく芍陂、ひろしさわためしはて如昂きちしょげん,乃以萬兵まんひょうたむろさいとくまいすうじゅう萬斛ばんこく輔國じょう將軍しょうぐん河南かなんゆきしょうさん政事せいじ、淮西せん慰使元帥げんすいしん驃騎まもるじょう將軍しょうぐんあるき中書ちゅうしょしょうひだりすすむ龍虎りゅうこまもるじょう將軍しょうぐんくだり尚書しょうしょしょうみぎすすむりょうかんみなけん淮西使そち

日本にっぽんにわみかどいのちおもねとううみとうりょうそつじゅうまんせいのぼるきちじょう疏,其略曰:「しん聞兵以氣ためぬし,而上下じょうげどうよくしゃしょうしゃれんごとがいえびす三軍さんぐん屢衄,〕以言[9]うみ騷然そうぜんいちぐう調ちょうはつ上下じょうげ愁怨,所謂いわゆるどうよく也,請罷へいいきみん。」したがえすんで而師はてこう

のぼるきち屢為直言ちょくげん,雖帝いか甚,其辭しょうこごめたいしんおもんばかのぼるきちなんせい,以牙以迷しつかしこきょう禦,そうため本道ほんどう按察使以察きば以迷しつ捃摭のぼるきちほそ以聞,及廷べんみかど察其,輒遷其官,竟以ほろつみもと貞元さだもとねんそつ

にん,其顯しゃ曰昂おもね禿ちびいおりしゅうこうむかんぐん萬戶府達魯花赤;曰暗ひろしうみ北海ほっかい南道みなみどう肅政かどおとずれ使まご教化きょうかてき世襲せしゅうせん

哈剌䚟[编辑]

哈剌䚟,哈魯はつ從軍じゅうぐんおさむじょう樊,こうむ四萬戶府辟為水軍鎮撫。いたりもとじゅうねんしたがえ丞相じょうしょうはくがお渡江とのえあらためかんぐんひゃくしょう甲冑かっちゅうぎんさやがたなじゅうねんあきしたがえ丞相じょうしょうおもねうけらあずかそうへいせんこげやまはい海舟かいしゅうおもねうけらあずかおうきょう招討づくりしろはいたかうみせんひゃくそう,就四じゅう一萬戶翼摘遣漢軍三千五百、新附しんぷぐんいちせんひゃく,俾哈剌䚟、おうきょう并統おさむそうこうかげもとうら金山かなやま上海しゃんはいたかしあきら金浦このうらみなうみせんさんひゃくそうとげ戍澉うらかいこう

じゅうさんねんはるぎょうしょうげきたかし沿海えんかい招討副使ふくしそうすすむちょうすぐるふねいたりけいもと朐山東門ひがしもんかいかい,哈剌䚟追せんよんそううえ其功,ぎょうしょうぞうばちぐんななひゃく并舊所領しょりょう士卒しそつもりてい海港かいこうこうあきなながつそうあきらこくしゅう、朐山、秀山しゅうざん戍兵ふねせんそうおさむだつてい海港かいこうこう,哈剌䚟迎げきとりこ其裨はた并海せんさんそうはちがつそうへいふくおさむてい海港かいこうこう,哈剌䚟擊退げきたいぎょうしょうげきたかしこうむかんぐん招討使じゅうがつ,哈剌䚟引へいいたり溫州うんしゅうあお㠗門,ぐうそうへいだつふねそう使つかいさとし溫州うんしゅうもりしん以城くだ十一月じゅういちがつ至福しふくしゅうだつそううみせんじゅうそうとりこかんすすむとう

じゅうよんねん賜金しきんせん武將ぶしょうぐん沿海えんかい招討副使ふくしぎょうしょうげきたかし沿海えんかい經略けいりゃく副使ふくし,俾與りゅう萬戶行元帥府事於慶元,鎮守ちんじゅ沿海えんかい上下じょうげみなみいたる福建ふっけんきた趾許うら六月ろくがつぎょうしょうげきたかし沿海えんかい經略けいりゃく使けんひだりふく元帥げんすいとくづくりうみせんせんそうはちがつゆうむね江西えにししょうみぎすすむとうとうしんへいおさむこうみなみ,哈剌䚟以へいしたがえじゅうがつしんあきらいさむ大將軍だいしょうぐん沿海えんかい招討使ときそうしょ州兵しゅうへいふく溫州うんしゅう,哈剌歹率へいふくこれすすむいたりしおけんそうみやこみつるひね懿等兄弟きょうだい五人以畬兵七千人降。とう出兵しゅっぺいおさむ廣州こうしゅう,踰月した,哈剌䚟引へいつぎいたりさとしそうやすなでちょう鎮孫、さむらいろうたんおう以城くだしたがえおさむちょうすぐる大洋たいよう軍資ぐんし器械きかい不可ふかかちけいさとしみなみおんしゅうそうごうもんせんさん舍人とねりはりこくすぐる以畬ぐんまんにんくだ

じゅうねんかえぐんけいもとあきはちがつにゅう覲,みかどとい曰:「なんじなん氏族しぞく?」たい曰:「しん哈魯じん。」賜金しきんぶんころもくら勒,擢昭たけ大將軍だいしょうぐん沿海えんかいひだりふく元帥げんすいけいもとみちそうかんたち魯花あかはた所部ところぶぐん戍海こうじゅうろくねん日本にっぽん商船しょうせんよんそう,篙師千餘人至慶元港口,哈剌歹諜其無げん于行しょうあずか交易こうえき而遣海賊かいぞくぶんたち、顧潤とう寇掠海島うみしま,哈剌歹諭くだこれとくぶねろくじゅうそうじゅうはちねん,擢輔國上くにがみ將軍しょうぐん元帥げんすいしたがえこくへいせい日本にっぽん,值颶ふうふねかい明年みょうねんがつかえ戍慶もとじゅうねんやめ元帥げんすいあらため沿海えんかいじょう萬戶府達魯花赤。

じゅうよんねん入朝にゅうちょうみかどとい日本にっぽんごとむべ,哈剌歹應たい甚悉,れいかえ戍海どう。授浙ひがしせん慰使,賜金しきん文段ぶんだんたま束帶そくたいくら勒、弓矢ゆみやゆうじゅうねん樞密すうみつ以水ぐんとぼしそちそうけんまえしょくふゆしるしいれ明年みょうねん拜金はいきんわれまもるじょう將軍しょうぐん中書ちゅうしょひだりすすむぎょう東道とうどうせん慰使,りょうぐんしょく如故。

大德だいとくねんしるしいれ。擢資とく大夫たいふ雲南うんなんゆきしょうみぎすすむ,偕劉ふかせいはちひゃく媳婦こくいたりじゅんもととし),そうりゅうすみとう叛,[10]而還,ふか誅,哈剌歹亦以罪はいじゅういちねん,以疾そつ于汝しゅうすめらぎけい元年がんねんおくさかえ祿ろく大夫たいふたいらあきら政事せいじ、鞏國こうおくりなたけめぐみ哈剌はなかさね沿海えんかい萬戶府達魯花赤。

すなぜん[编辑]

すなぜん,哈剌魯氏。ちちすなてきせいきょ沙漠さばくしたがえぶとたいらきん,戍河南柳みなみやなぎいずみ[11]いえ焉。ぜんはつめい(杪)〔しょうあか[12]はじめさいためそうぐんしょとりこねんじゅうはちとめりゅうせい幕下まくしたそうじん以其ちちめいすなてき使つかい以沙ためせい,而名曰全。ぜん久居ひさいそうけんかた備知

ちゅうすべねんせい以瀘しゅうらいぜんあずかこれ同行どうこうそうぐんおいぜん力戰りきせんとくぬげ,授管ぐんひゃくいたりもとさんねんせい出兵しゅっぺいくも頂山いただきやまあずかそうすすむ夏貴なつきへいぐうぜんげきころせ甚眾。ねんいのちせいりょう元帥げんすいごと出師すいしかこえじょう樊,以全ため鎮撫ちんぶせいぜんりつぐんおさむ仙人山せんにんやまひねほらしょ寨,やぶこれ,陞せんたまものぎんはいそうすすむちょうたか,拔樊じょうあずかりゅうせいぐんかい修正しゅうせいじょう,引兵わたり淮,あずかそうすすむひねやすなでせんはいじゅうねんしたがえ丞相じょうしょうおもねうけらあずかそうすすむちょうすぐるまご虎臣こしん大戰たいせん于焦さん水陸すいりく並進へいしんそうじん不能ふのうささえつき棄鼓はたはし其將さんじゅうさんにんしたがえおさむつねしゅう克之かつゆきじょう勝下かずおり沿海えんかいしょしろいたりはなてい,戒士そつ毋殺かすめとげ傾城けいせい,以功授華てい軍民ぐんみんたち魯花あか

どき民心みんしん未定みてい有未ゆみしお聚眾すうまんかすめはなていぜん擊破げきはせき其名とくろくせんにん,請于ぎょうはぶけ屯田とんでん于淮芍陂。くだりしょう以邑じん新附しんぷゆう叛側,ゆだね萬戶忽都忽等體察,ほっほふ其城,ぜんげん:「しおそつ其土じんわかほふこれ,枉死しゃ眾。」以死其不叛,とげどめ賜金しきん武略ぶりゃく將軍しょうぐんけんりょうしおじょうしょく如舊。ひろ陞華ていため,以全ためたち魯花あかたまものとらとき盜賊とうぞく蠭起,其最盛者じょうしゃゆう眾數せんにんぜん招來しょうらいさかい內得やすあらため松江まつえ萬戶府達魯花赤,はじめせんりょう軍政ぐんせい

じゅうねん,召見,遷隆きょう萬戶府達魯花赤,とく請,復舊ふっきゅうめい曰(杪)〔しょうあかいくみかど以為松江まつえひんうみじゅう復命ふくめい鎮之,たまものさんたまとらそつ于官。

じょうはな[编辑]

じょうはなとうこたえさとたいじんちちじょうあかさい乙未おとみどう元帥げんすいとううみこんぼく將兵しょうへいいれしょく,并將こうむ也可あかりやすかずしょううまよりゆき及砲しゅしょぐんおさむきょうもとけん成都せいとしょぐんしょくだそうすすむしょうおうふとしじょう眾,悉隸麾下きかちゅうすべねんたまものとら,授西川にしかわ便宜べんぎ元帥げんすいにわか進行しんこう樞密院すうみついんりつしょ軍略ぐんりゃくてい西川にしかわ下郡しもごおり邑。いたりもと元年がんねん,遷益とうみつる軍使ぐんしぐんちゅう

じょうはななかみつるはついれ宿衞しゅくえいいたりもとななねん,授虎だいちょううま哥為淄萊水軍すいぐんまんはた其眾赴襄あずかそうすすむ范文とらせん于灌なだころせよんじゅう餘人よにんだつ其戰かんついいたりくもしょうしゅう大敗たいはいくだりしょうじょう其功,たまもの白金はっきんじゅうりょうころもいちかさねくらくつわいちふくきゅうねん,授益しんぐんまんじゅういちねんあらためえき、淄萊しんぐんまん

したがえ丞相じょうしょうはくがおそうはい大將たいしょう夏貴なつき於陽堡。大軍たいぐん渡江とのえろん其功最多さいたたまもの白金はっきんひゃくりょうまたしたがえ鄂、蘄、こうたてやすしつねしゅうくいもろぐん累加るいか昭武あきたけ大將軍だいしょうぐんしたがえまい政事せいじおもね剌罕りゃくてい紹興しょうこうあつしたい福建ふっけんもろぐん,授台しゅうそうかんたち魯花あか,遷廣ひがしせん慰使。

じゅうろくねん加都かつ元帥げんすいついそうすすむちょうすぐる於香山島やましませいすぐるくだ其眾すうせんにん廣東かんとんもろぐん及海とうつきひらめりょうしょくだしん及將こう有功ゆうこうしゃにゅう於大おだいやすかくいのちたい監視かんし其身,せい銀鼠ぎんねず裘成,おやたまもの,授中しょひだりすすむぎょうしょう江西えにし,其餘爵賞ゆうじゅうねんはい四川等處行尚書省平章政事,けんそう軍務ぐんむ改行かいぎょう中書ちゅうしょしょうたいらあきら政事せいじ

其兄じょうだつ斡,はつ以蒙いにしえぐん千戶從伐蜀有功,ぎょう樞密院すうみついんうけたまわせいまん。并將れつべつうけらとうかいちょう、也速たいくしげ剌撒よんせんぐんしたがえ大軍たいぐんおさむ重慶たーちん重慶たーちんくだおさむ其眾,徇下りゅうしょしろとめ鎮夔もんけんほんやすなでたち魯花あかすすむふところ遠大えんだい將軍しょうぐんこうむぐんまん。遷定遠大えんだい將軍しょうぐん兼嘉かねよしていもりまんほんそうかんたち魯花あかひろ陞鎮國上くにがみ將軍しょうぐんしょ蠻夷ばんいせん慰使,加都かつ元帥げんすいまた奚不薛蠻ほとりあずかたけ剌海かい雲南うんなんへい討平あらためせいはる元帥げんすい于軍。ゆるがせこたえ嗣。

校勘こうかん[编辑]

  1. 長子ちょうしおもねとうあか ほんあかしうん:「あんじょくいゆるがせ思止おもいとまひゃくことしょう其子おもねとうあかごとおもねとうあかゆうでんさくおもねこたえあか此較しょう。」おもねこたえあかでんまきいちさん
  2. べつ里吉さとよし)〔吉里よしさと〕迷失 よりどころほん書卷しょかんいちななはくがおでん改正かいせいこうむやめこう
  3. ねん 按前文ぜんぶんゆう至大しだいよんねんこうぶんため仍至もと,此脫年號ねんごうこうむてんれき」。
  4. 按主やつ ほんあかしうん:「あん按主やつそく按竺邇,ゆうでん,此贅。」按竺邇傳まきいちいち
  5. 按主やつ三子長車里次黑子次帖木兒 ほんあかしうん:「あん按竺邇傳,じゅうにんとおる國寶こくほう最知さいちめいとおるさとそくしゃさと國寶こくほうそく黑子ぼくろいちめいくろあずさじょうそく國安くにやす也。ことしょうかれでん,此并ぜい。」
  6. 諸王しょおうりん及失剌等叛從皇子おうじきた安王やすおう討之 こうむうん:「按『及失剌』ためむかし里吉さとよしことやくたおせあやままた以和林地りんちめいため人名じんめい。且那罕已むかし里吉さとよしとうしょこうしつたま哇失やすとく而從!」
  7. ちちあまぼく こううん:「そく也蒲あまぼく也。也蒲あま卜傳ぼくでんしょのぼるきちごとのぼるきちでんまたついじょあまぼくごとりょうつて重出じゅうしゅつ。」也蒲あま卜傳ぼくでんまき一二三ひふみ
  8. つばめおおやけくすのき 從道つぐみち光本みつもと。按本書卷しょかんいちなな三有燕公楠傳。
  9. 〕以言 はらそら闕,從道つぐみち光本みつもと
  10. いたりじゅんもととしそうりゅうすみとう叛 按元ぶんるいまき四一經世大典序錄招捕有「大德だいとくねん,雍真葛さねかずら蠻土かんそうたかしずみ叛。はつ朝廷ちょうてい調ちょうひろ雲南うんなんへい萬征八百媳婦蠻,こうへいいのちひだりすすむりゅうふかしとうりょう道順みちじゅんもとばん」,「いたりじゅんもと」,「ろくがつじゅうななにちりゅうわたる構木婁等ぞくさくらん」。よりどころ刪。
  11. したがえぶとたいらきん河南かなん こうむあらためふとしためふとしむね」,なみちゅううん:「きゅうつてふとしぶたふと宗之むねゆきあやまふとし及平河南かなん。」
  12. (杪)〔しょうあか よりどころ揭文やすしゅうまき九送也速答兒赤序改。したどうこうむやめこう

ほん明朝みんちょう作品さくひんざいぜん世界せかいぞく公有こうゆう领域いん为作しゃ逝世やめ经遠とおちょう过100ねん

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 まきいちひゃくさんじゅういち かえしかいいただき まきいちひゃくさんじゅうさん