げんふみ/まき134

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 まきいちひゃくさんじゅうさん もと
まきいちひゃくさんじゅうよん 列傳れつでんだいじゅういち
まきいちひゃくさんじゅう 

撒吉おもえ つきあい乃 むかしはん 鐵連てつれん あい薛 闊闊 禿かぶろゆるがせ魯 からじん 朵兒あか 和尚おしょう りゅうひろし 迦魯おさめこたえおもえ 闊里きちおもえ しょう雲石うんせきだつゆるがせ憐 斡羅おもえ 朵羅だい 也先はな

撒吉おもえ[编辑]

撒吉おもえかい鶻人,其國おもねだいとく多和たわおもえ次子じし也。はつためふとしおとうと斡真必闍あかりょうおうでん。斡真薨,長子ちょうしただのみ嫡孫ちゃくそんとう察兒よう,庶兄だつ迭狂ほしいままよく廢嫡はいちゃく自立じりつ。撒吉おもえあずか魯和まごはせしろ皇后こうごう,乃授とう察兒以皇ふとしおとうとたから襲爵しゅうしゃくためおう。撒吉おもえ以功あずか魯和まごぶん黑山くろやま以南いなん撒吉おもえ理之まさゆき,其北魯和まご理之まさゆき

したがえけんそうおさむ釣魚ちょうぎょさん建言けんげんじょうぜい定江さだえみなみみかど嘉納かのう焉。けんそうくずしおもねさと哥爭りつ諸王しょおうこれしゃ,撒吉おもえはせとう察兒,ちからげんよろしきょうこころ推戴すいたいとう察兒したがえこれ。及世即位そくい,聞撒きちおもえしょげん,授北京ぺきん宣撫せんぶたまもの宮人みやびときち剌氏,及金帛、あきらふく。及至鎮,すき奸抑きょう遼東りゃおとん以寧。かい高麗こうらいゆうこころざしみかど使つかいきわむのりざい於其しんひろし察忽,械送京師けいしみち遼東りゃおとん,撒吉おもえおとずれひろし察忽以直諫迕そくそう疏為ちょく其事,みかどいのちしゃく

璮叛,いのち撒吉おもえそちしたがえむねおう哈必あか討之。璮伏誅,哈必あかほしほふしろ,撒吉おもえりょくそう曰:「王者おうじゃ,誅止もとあくおびえしたがえ罔治。」いんなで其人,眾情だいえつ。授山東さんとうゆきしょうとく,遷經略けいりゃくみつるぐん使つかいけんえき都路みやこじいたる魯花あかはいうえごと山東さんとう重鎮じゅうちんむべえらべ戚臨みかどもとたまものきょうじょうたくいちえき都田みやこだせんごろ,及璮羣、えんりんみず磑、うみあお銀鼠ぎんねず裘之ぞくへいみんとぼしうし為之ためゆき上聞じょうぶんけんみんちょうつとむ官給かんきゅうみつるぐんしょう花田はなたゆうがい稼病みん元帥げんすい速答そくとうしかよりどころ民田たみだためまき,撒吉おもえずいごとひょう聞。ゆうむねつえしょうはないちひゃくれい速答そくとうしかかえ其田そのだ。璮故はたもうあきらよくりつしょはかりごと撒吉おもえ以歸そうあきらとうじょうへん,乃襲あきらこれ。撒吉おもえ嘗慕古人こじん舉親舉讎よし,叛帥ゆえそつとくあずかせいさんよう公論こうろんおおこれ山東さんとうとし屢歉,ため請於あさはつあわにぎわい卹。またそう蠲其田租でんそ山東さんとうじんこくせき頌德。そつねんろくじゅうろくおくやすあたりけいとおせんめぐみ功臣こうしんおくりなじょうめぐみ

つき(乃合)〔ごう乃〕[1][编辑]

つき(乃合)〔ごう乃〕せいきょう,其先ぞく雍古,徙居臨洮狄道,きむりゃくつきしつ遷遼ひがし曾祖そうそじょうしかえつ哥,つかまつきむためぐん指揮しき使かんめい有馬ありまいん以馬ため馬野うまのあやぞく,徙(せい)〔きよししゅう天山あまやま[2]以財ゆうせんむね遷汴,ちちむかし里吉さとよしおもえ辟尚しょしょうやくためし開封かいふう判官ほうがんあらためおおとりしょう兵馬へいば判官ほうがん國事こくじおく輔國じょう將軍しょうぐんつねしゅう刺史ししびょうごう褒忠。

つき(乃合)〔ごう乃〕好學こうがくちち死時しにどきねんかたじゅうなな奮然ふんぜんとうかんむり于地曰:「われちち國難こくなんわれどく不能ふのう紓家なん乎!」かいこくへいやぶ汴,さむらいははきたぎょう,艱關ほこさきかぶらちゅう北見きたみけんそうようはし謹,みかど嘉賞かしょういのちさんぼくただだんごとかんごと,以燕しろためしょつき(乃合)〔ごう乃〕慨然がいぜん以治どう自任じにん政事せいじおさむ舉。

としみずのえりょうみんひのと中原なかはら,凡業儒者じゅしゃためしどおりいちけいそく不同ふどう編戶あみどしるためれいかぶと。儒人めんひのとしゃじつつき(乃合)〔ごう乃〕はじめ也。せいこうほどこせ,嘗建言けんげんりつつねひらくら。舉海內賢楊春きょうちょうたかしじゅんやから分布ぶんぷしょぐんごうしょうとくじんまた致名けいかなえしん授業じゅぎょう舘下だてしたこも引馬ぶんだまうしおうやからためさんみないたりきょうしょう

としおのれせい以親おうみなみせいしたがえくだりいたり汴,れいせん饋饟,うんずみみなみしおひゃくまんきん,以給公私こうしこれところしゅうぐん汴、蔡、なんじ、潁之あいだしょうのうやすぎょう軍政ぐんせいおさむ舉,がつ(乃合)〔ごう乃〕あずか有力ゆうりょく焉。及即位そくいくだみことのり褒奬。はたおやせいおもねさと哥,がつ(乃合)〔ごう乃〕だし私財しざいひゃく以助ぐんみかどあつ贍其曰:「とうつぐなえなんじ也。」拜禮はいれい尚書しょうしょ,佩金とら

よんねんみなみやすしがつ(乃合)〔ごう乃〕建言けんげんこう、潁等しょりつ榷場,さいとくてついちひゃくさんまんななせんきんのうじゅう萬事ばんじようえきあわよんまんせき輸官,おもんみ官民かんみんりょう便びんいん以鎮ふく南方なんぽうみことのり以本しょくけんりょうやめくくさんせんきょうあふてつ冶,其蒙いにしえかんぐんなみ節制せっせいくだり,以疾そつねんよんじゅうはちおく推忠せんりょく翊運功臣こうしんせい大夫たいふ、僉書樞密院すうみついんごとうえけいくるまじょうやなぐんこうおくりなちゅう懿。

子孫しそんとうつかまつせきしゃ甚眾。いたりじんむねあさみことのりぎょう舉,曾孫そうそんつね[3]博學はくがく能文のうぶんあきらさとこころみかいためしみなため舉首。よし翰林かんりんおうたてまつはいかん察御直言ちょくげん忤上かんきょ浮光。すうねんおこりため翰林かんりんまちせいるい遷御ちゅうすすむそつおくりなぶんさだ

むかしはん[编辑]

むかしはんかしこわれじん也。ちち闕里べつ斡赤,身長しんちょうはちしゃく智勇ちゆうひと,聞太きたせいりょうへいらいしたがえせいかい回國かいこくすうたてこうはたじゅうしょう請為本國ほんごくひつじさる閭城たち魯花あかしたがえこれ,仍賜種田たねたひゃくそつ

むかしはんごとせんていいのちちょう必闍あかなかみつる元年がんねん,以為じょうたち魯花あかあらため戶部とべ尚書しょうしょそうただしふだ魯花あかおもねさと哥之叛,みかどいのちむかしはんまい河西かさいとくかてうんきゅうぐんかえいたり西京にしぎょうきた,聞萬戶阿失鐵木兒等方選士卒,はたしたがえおもねさと哥。むかしはん矯制召其ぐん赴行ざいおもねしつてつ狐疑こぎ未決みけつむかしはん委曲いきょくさとし,且曰:「皇帝こうていけい也,おもねさと哥弟也。從兄じゅうけいじゅんごと也,またなにうたぐ焉?」おもねしつてつとう請夜以翌復命ふくめい,且以へいかこえむかしはん以待。明日あしたみないたり,曰:「したがえなんじげん矣。」そく便宜べんぎ以西いせいきょうぜにかてきゅう其軍,とげりつ以行。にゅうみかど歎曰:「戰陣せんじんあいだとくいちおっとじょなおためゆうずみむかしはんまんぐんいたり,其功あにしょう哉!」

うみ叛,せいだい閱兵,はた討之。さきいのちむかしはん使うみ使つかいやめへいおけえき來朝らいちょうむかしはんいたりうみつてむねさとしうみ聽命,すんで退すさぐんおけえき,而丞しょうやすわらわぐんさきやめかつ大王だいおうきょくつき輜重しちょううみ懼,はた逃,いいむかしはん曰:「わがなん於殺なんじねんわがちち嘗受しょ於汝,しゅうとなんじ,以安わらわこと聞,非我ひがざい也。」むかしはん以聞,みかど曰:「なんじごと是也これやさき來者らいしゃまた嘗有此言。」ひろいのちため中書ちゅうしょみぎすすむ商議しょうぎ政事せいじつま以宗おうおんな魯真公主こうしゅ明年みょうねんふく使うみさとし,且曰:「苟不したがえわがしかのうてきしょおうしげるまもるこれへい乎!」うみ以畏敢。むかしはんたてまつ使つかい奔走ほんそうさんねんふうすなかげねんやめななじゅう矣。いのちため翰林かんりんうけたまわむねきゅうぜん俸養ろうねんはちじゅうきゅう而卒。

斡羅おもえみついたりもとじゅうさんねん,授浙ひがしせん慰使。浙東ぬすめおこりにせ印璽いんじ僭稱せんしょうてんくだ大王だいおう,斡羅おもえみつ討平うつり鎮廣西にし,峒蠻天佑てんゆうさくみだれ,招諭くだこれとしろくじゅうきゅうそつ咬住,至大しだいさんねん,授典ようかんきょうゆうぬすめ竊世おびしゃ懸賞けんしょうせんじょう以購ぞく,咬住とりことうふく誅,咬住しょうたけそうよしみ其不せんじょうかんいたりさかえ祿ろく大夫たいふそうただしふだ魯火あか

鐵連てつれん[编辑]

鐵連てつれん,乃蠻じん也,きょ絳州。はくはなためむねおう拔都おうでん鐵連てつれん魁偉かいい寡言かげんゆう謀略ぼうりゃくはやとし宿衞しゅくえいおう。拔都ぶん地平ちへい,以鐵連てつれんかん隰州。なかみつるはつ調しらべひら站達魯花あか

いたりもとはつむねおううみ叛,廷議ほしこれ曰:「ちん以宗しつじょうおもんみとうふところ以德,其擇謹密あしにん大事だいじしゃ往使焉。」左右さゆう鐵連てつれんたいとげ召見,大事だいじ鐵連てつれんおう對稱たいしょうむねみかどよしみ其辯とし,曰:「此事なんじ不可ふかしか必先まい拔都こうむ哥鐵おうしょそうあずかけいこと而後ぎょう。」使つかいにんふくこれ鐵連てつれんすんでたてまついのちよくただしづくりうみさかい虛實きょじつしかこう于諸おうふくしゃどるしたがえ,曰:「うえいのち我輩わがはい先議せんぎ于王,こん遽造てきさかい不可ふか。」鐵連てつれん曰:「おやうけたまわみつむねなんじやからたがえそくとう誅。」ふくしゃ懼而したがえこれぎょうすんでいたりうみみやこ日召にっしょうそうちかしえんいんはた伺其すきはかりごとがい鐵連てつれん乃厲ごえ斥之曰:「且食,勿語!もちげんだつくちそう摭為ざい耶!」良久よしひさうみ曰:「直哉なおや!」さけはん鐵連てつれんもとめころもため歡,うみみやこよしみ其雄べんはたほどけあずかこれ,其妃どめ,以皮ふくかさねづけいん其屬曰:「ため使者ししゃとう如是にょぜ矣。」あつおく以行。すんでいたり拔都こうむ哥鐵おうしょつげ以故,おう曰:「祖宗そそうゆうくん,叛者じんとく誅之。如通こうしたがえ,舉師以行天罰てんばつわがそくがいおう掩襲,剿絕なん矣。」鐵連てつれんかえ,悉以ごと聞,いんごと於帝曰:「うみへいしげる而銳,よろしそくせんらいのり堅壘けんるいまちのり勿追,もりすんでかたのりおそれ矣。」みかどふかしかこれ。敕所受海かわふくぜんかざり以金,凡朝かいむべふく表示ひょうじ焉。其賞賜しょうし不可ふかかちけい

こう屢使拔都おうしょみちぐううみみやこゆうへいふくしゃまえぎょうしつたいぐうがい鐵連てつれんいたり,曰:「わがため天子てんし使非禮ひれいはん耶?」ゆうへいこごめ,乃曰:「前者ぜんしゃにせ使つかい,此真使也。」しゃくとげ獨得どくとくかえみかど嘗謂侍臣じしん曰:「ゆう鐵連てつれんのりちん宗族そうぞくはたしつ矣。」うみ覘伺拔都おうため備已げん乃帖しか鐵連てつれん始終しじゅう凡四往返,れきじゅうよんねんみかどいい鐵連てつれん曰:「在朝ざいちょうかんようじゅうしゃおもんみなんじしょ。」たい曰:「しんこころざしざい王室おうしつ,其事辦,敢奉いのちこんしんははざい絳州,ろう且病,とくさむらい朝夕あさゆう幸也ゆきや。」みことのりしたがえ其請,授絳しゅうたち魯花あか

いたりもとじゅうねんたいらようはかりごとみだれ鐵連てつれんとえつき其狀。中書ちゅうしょそうしん其秩,みかど曰:「鐵連てつれんあにおもんみのう辦此耶!」せん武將ぶしょうぐんいたりもとじゅうはちねんやまいそつ於官,ねんろくじゅうよんこたえ剌帶嗣,かん信武のぶたけ將軍しょうぐんどう大同だいどうそうかんごと

あい[编辑]

あい薛,西域せいいきどるりんじんつう西域せいいきしょこうほしれき醫藥いやくはつこと定宗さだむね直言ちょくげん敢諫。時世じせいざい藩邸はんていうつわちゅうすべよんねんいのちてのひら西域せいいきほしれき醫藥いやくつかさごとあらため廣惠ひろえ,仍命りょう嘗詔都城みやこのじょう大作たいさく佛事ぶつじしゅうきょうぼうらく,及儀仗ぎじょう以迎しるべあい薛奏曰:「高麗こうらい新附しんぷ山東さんとうはつじょう江南こうなんした天下てんか疲弊ひへい,此無えきこれ,甚無いい也。」みかど嘉納かのういたりもとねんしたがえりょうじょうにち且久,乃從容しょうよう於帝まえ供給きょうきゅうみん曰:「とくさまたげなんじこう乎!」みかどためやめりょう

いたりもとじゅうさんねん丞相じょうしょうはくがお平江ひらえみなみかえ姦臣かんしん以飛讒之,あい叩頭こうとう諫,とくかいひろたてまつみことのり使西北せいほくむねおうおもね魯渾しょすんでかえはいたいらあきら政事せいじ固辭こじ。擢祕しょかんりょうたかしぶく使,遷翰りん學士がくしうけたまわむね兼修けんしゅう國史こくし

大德だいとく元年がんねん,授平あきら政事せいじはちねん京師けいし地震じしんうえどる中宮ちゅうぐう召問:「わざわい殆下みんしょ致耶?」たい曰:「天地てんちしめせ警,みんなにあずか焉?」なりむねくずれ,內旨さくほしれき祕文ひもんあい薛厲しょくこばめこれじん宗時むねときふうしんこくこうそつついふうたい開府かいふどうさんつかさうえばしらこくはらいはやしただしけんじおう

にん:也里きばしんこくおおやけたかしぶく使;腆合,翰林かんりん學士がくしうけたまわむねくろ厮,ひかり祿ろくきょう;闊里きちおもえどう知泉ちせんいんごと;魯合,廣惠ひろえつつみ舉。

闊闊[编辑]

闊闊きよしほん蔑里よし部族ぶぞくせいさと罕哈さとあつしこれ。其俗驍勇,ぜん騎射きしゃしょぞく頗憚くにはつ,舉族內附。きょせんていせん闊闊ため近侍きんじ

としかぶとたつせい聞王みさごけん,避兵きょしゅう使つかいちょういたりもん以治どういのち闊闊與かどまれけんみな師事しじすんで而闊闊出使于外,迨還,而鶚やめくだり思慕しぼ號泣ごうきゅうしょくしゃ累日るいじつせい聞而これとしかのえいぬけんそうふく召鶚いたりりん,仍命闊闊したがえゆうまいだんおこりもりかざり其冠ふくみさごゆずる曰:「きよししゅこうけんらくぜんちょう天下でんかいのちわかしたがえがくわかひとし不能ふのうしょう主上しゅじょうしんおもんみほこ衒鮮はな以益おご貴之たかゆきおそれ窒於がい而塞於中,道義どうぎげん而入,われしょ也。」闊闊ふか悔悟かいご明日あした俱純もと以進,みさご乃悅。

としみずのえたてまついのち簽諸軍籍ぐんせき,以丁たけしさんおおしゃたかししょいたりへんせきたわわにんみな德之のりゆき。及還,みかどえついのちりょうつばめきょうたくみきょく即位そくいとく授中しょひだりすすむいく,遷大めい宣撫せんぶ使,以疾そつねんよんじゅう

けんわらわなが叔,しょうはじめじゅうさいそくしたがえおうみさごゆうすんでちょうたてまついのち入國にゅうこくがくふくしたがえもと衡游。弱冠じゃっかんにゅうさむらい禁廷きんてい,授中じゅん大夫たいふさむらいたてまつ。遷中大夫たいふどうおさむ起居ききょちゅう。及奉使ずみみなみ楊桓けんとげりょくこもいたりもとじゅうさんねん,授嘉大夫たいふれい尚書しょうしょ。遷吏尚書しょうしょ,秩未滿みまんとく授通大夫たいふだいさむらい

じゅうよんねん扈從こしょう東征とうせい,屢戰有功ゆうこう,遷燕南河みなみかわ北道ほくどうひさげけい按察使じゅうはちねん,授正大夫たいふつばめ南河みなみかわ北道ほくどう肅政かどおとずれ使とげはい河南かなんゆきしょうたいらあきら政事せいじえき召赴闕,はい,以疾そつねんさんじゅうきゅう

禿かぶろゆるがせ[编辑]

禿かぶろゆるがせ魯字おやしんかんさとまたおさめまごれいたちせきだいきゅう也。ようにゅうさむらいいのちあずか也先てつゆるがせしたがえもと衡學。みかどいちにちとい其所がく禿かぶろゆるがせ魯與ゆるがせたい曰:「三代治みよじ平之ひらのほう也。」みかど曰:「かん秀才しゅうさいちんはつ使つかいなんじ往學,不意ふいなんじそく此。」じょこうむ學士がくしたてまつ大夫たいふきゃくしょう使しん兵部ひょうぶろうちゅう,遷僉たいいん。嘗宴見世みせ,屢開せつ古今ここん治亂ちらんせいようしょ裨益ひえき

いたりもとじゅうねん,遷中しょみぎ司郎しろうちゅういく大宗たいそうせい薛徹こもてのひら其府ばんしょ閱諸ごく文案ぶんあん。嘗暮,愀然わかゆうもとめ而未しゃ家人かじんとい,曰:「今日きょうしょあん也,於我しんゆううたぐ欲求よっきゅう所以ゆえんかつとく其方みみ。」他日たじつ曰:「わがとく矣!於法當流とうりゅう徙邊。」遷吏尚書しょうしょ

どき哈剌哈孫ため廣平ひろへいあきら,嘗與禿かぶろゆるがせ魯同ざい大宗たいそうただし其賢,舉以輔,とげ授資とく大夫たいふみずうみこうみぎすすむとき湖南こなんきた盜賊とうぞく乘舟のりぶね縱橫じゅうおう劫掠ごうりゃく,哈剌哈孫患之,禿かぶろゆるがせ魯曰:「しげとりしゅうのり,戮一人足ひとあし矣。」とうくびたかし大使たいししゃきょきゅうこおりまもる曳剌まいない蔽之,使つかいとりこ以來いらいごくなりころせ而令もろ群盜ぐんとうひたぶるいき湖南こなんせん慰張こくきのはじめしるしなつみつぐみんどるこらえ禿かぶろゆるがせ魯屢請罷

いたりもとじゅうきゅうねんたつしゅう蠻叛,ふくくるるりゅうこくすぐる、僉院唆木蘭もくれん往討不利ふりうつりぶんさくたつ、澧、沅民あいだいしゆみさんせん,哈剌哈孫以民どる習戰,きょうきずわれみんどるもと禿かぶろゆるがせ魯曰:「へい訓練くんれん,乃可よう也。かんぐん習弩,いん蠻攻蠻,古所ふるところ。」とげあずかこれはて以此かち

なりむね即位そくい,遷江浙右すすむてきとしひでりほういたる而雨,民心みんしんだいえついくたいらあきらゆるがせそつみかどおもえもん近侍きんじ曰:「群臣ぐんしん孰有ゆるがせしゃ?」はくがおたい曰:「禿かぶろゆるがせ魯其じん也,且先帝せんていしょ。」とげえき召還しょうかんたまもの雕鞍、弓矢ゆみやにわか樞密すうみつ副使ふくし大德だいとくななねんそつねんよんじゅうはちおく推忠翊亮功臣こうしんさかえ祿ろく大夫たいふこう浙等しょゆき中書ちゅうしょしょうたいらあきら政事せいじはしらこくだいつかさちょうこくおおやけおくりなぶん肅。

山僧さんそうつかまついたりすすむやすしそうかん

からじん[编辑]

からじんことぶききょうかしこ兀人。曰唐じき子孫しそんいん以唐ためはつかしこ兀舉こくこうじゅん唐古からこじきねんじゅうななきゅうごとふとしいんぞく睿宗,曰:「唐古からこちょくにん大事だいじ。」睿宗及用,そうせい皇后こうごう擢為さつ魯火あかちち驥,ごう爽好しゃりょう即位そくいいのち驥為ひろしそうせんてい必闍あか,陞達魯花あか

じんしょう穎悟えいごちちぼつははきょう讀書どくしょつう諸方しょほうげんゆう音律おんりつなかみつるはつみことのりしょかぶとためしつみかどおや閱之,じん曰:「唐古からこちょくまごよこしま聰明そうめいうたぐ也。」俾習國字こくじいたりもとろくねん中書ちゅうしょしょうせんたかしこうむじょうじゅうろくねんろくしゅうひらひらたはん寃滯めん死者ししゃじゅうななにんじゅうはちねん,授翰はやしただし學士がくしどき中書ちゅうしょそうじょうていりょうみちぜにこく逋負,屢歲けつじん往閱其牘,みなちゅうすべきゅうあん,亟還そうやめこれてんこうさむらいろうのぞき中書ちゅうしょみぎ司郎しろうちゅうはい參議さんぎ尚書しょうしょしょうごと

どき丞相じょうしょうくわ哥秉せい焰方おきひとし論議ろんぎかい,屢忤くわ哥,にんみな危之,ひとし自若じじゃく也。遷工尚書しょうしょくわ哥以曹務はんげきとくおもこまこれひとししょ甚安。ひろ使くもちゅうくわ哥考こうややなるいか曰:「あやま國家こっかとしよう!」亟遣えきおいかえ,就見くわ哥相府中ふちゅう,遽命ちょく吏拘往督こう,且促其期,曰:「たがえ必致なんじ於法。」左右さゆうみな為之ためゆき懼。じん退すさ,召諸署長しょちょう從容しょうようさとし曰:「丞相じょうしょういかざい不在ふざいなんじ也。なんじとう勿懼,むべちからつとむ。」眾皆感激かんげき晝夜ちゅうやばい其功,及而辦,乃罷。やめ而桑哥繫ごくゆうむねいのちじん往籍其家。明日あしたくわ哥以左右さゆう援得しゃく,眾見駭然,もくひとし曰:「いかとら再犯さいはんよこしま!」悉踰かき以竄,ひとしどく不為ふためどうくわ哥竟はい

じゅうはちねんじょ翰林かんりん學士がくしうけたまわむねちゅうたてまつ大夫たいふりょうひだるたてまつむね近侍きんじそく哥、ひだりすすむ忻都往賑,忻都よく如戶せき口數くちかず大小だいしょうきゅうひとし曰:「不可ふかむかしせき小口こぐちいまやめだい矣,偕以大口おおぐちきゅう。」忻都曰:「わかよう善名ぜんな,而陷わが于惡よこしま!」ひとしわらい曰:「われにん善惡ぜんあく,眾已てきあにいたり而始ようめい哉!わが為國ためくに卹民而已,なに卹爾ごと?」そつ大口おおぐちきゅうにわかじょどおりたてまつ大夫たいふしょうさくいん使

なりむね即位そくい尊大そんだいははもとため皇太后こうたいごう,以仁ぜんしょとく書冊しょさつぶんふくたてまつみことのりとくこう織絲おりいとぞうようえつさんねんつげなり大德だいとくねんさい授翰りん學士がくしうけたまわむねぜん大夫たいふせい兼修けんしゅう國史こくし,以疾そつねんじゅうさんおくさかえ祿ろく大夫たいふたいらあきら政事せいじついふう洹國こうおくりなぶんさだ

じょはつ授奉くん大夫たいふことぶき武庫むこひさげてん至大しだいちゅう,遷翰りんまちせいるい遷至ちゅう大夫たいふさむらい使

朵兒あか[编辑]

朵兒赤字あかじ道明どうみょう西にしなつやすししゅうじんちち斡扎せいてのひら其國はつもり西にしすずしりつ父老ふろう以城くだふとゆうむねふく撒都ゆるがせため中興ちゅうこうかんみんかんくにへい西にしせいうん餉不ぜっ毫髮わたしごう曰滿あさきよし即位そくい,斡扎やましそつのこそういんだかさとし耀以すすむ,請謹めい爵、ふし財用ざいようみかど嘉納かのう焉。

朵兒あかねんじゅうつうふるちゅう論語ろんご孟子もうし尚書しょうしょみかど以西いせいなつ子弟してい俊逸しゅんいつよく試用しよう,召于かくみかど曰:「ちん聞儒しゃ嘉言かげん。」朵兒あかそう曰:「陛下へいかひじり明仁あきひとさとし,奄有四海しかいただとうおや君子くんしとお小人こどもなんじ帝王ていおうゆう以小じん而亡しゃおもんみ陛下へいか察焉。」みかど曰:「ちん廷臣ていしんゆう戇直忠言ちゅうげん嘗不えつ而受たがえ忤者,また嘗加ざいぶたよくよう忠直ただなお,而退諛佞也。なんじげん甚合ちん。」いんといほしなにつかまつ,朵兒あかたい曰:「西にしなつ營田,じつうらないせいぐん,儻有調ちょうようのりまたさまたげ耕作こうさくやせ壙,じゅう未墾みこんいちみなみぐんたむろ以來いらい子弟していしげるいきやや眾,わか以其なりひのとしゃべつへん入籍にゅうせき,以實たむろりょくのり而兵有餘ゆうよ矣。請為其總かん,以盡措畫。」みかど,乃授中興ちゅうこうしんみんそうかんいたりかんろく子弟してい壯者そうしゃ墾田こんでんふさが黃河こうがきゅうくちひらき其三りゅう。凡三がくぞうばい,就轉營田使。秩滿にゅう覲,みかどだいえつ,陞潼かわいんときおおやけ祿ろく,朵兒あか乃以かん曠地きゅうみん秩分うね,而薄其稅。潼川つかまつしゃゆう祿ろく此始。

いくだいしんそうため雲南うんなんかどおとずれ副使ふくしどき雲南うんなんしょ蠻叛,僚佐悉稱而去,朵兒あか獨居どっきょもりまたはちがつしょうしんだい懼,かえりしるしよく遁,朵兒あか乃白のしら于梁おうとくげき而後。遷山みなみれんおとずれ副使ふくしいく復調ふくちょう雲南うんなんかどおとずれ使かいぎょうしょう丞相じょうしょうじょう迭兒むさぼ暴擅誅殺ちゅうさつやすなで使法花ほうげ魯丁,はたおけ于極けい,朵兒あかいい曰:「なまころせこれがら,繫于天子てんしなんじ以方めんしん而專ころせはたなにためしょうみんかかほう,且必しんくつがえきょう朝廷ちょうていしん耶!」法花ほうげ魯丁竟獲まぬかれひろふく其官。[うえ𣗥下火したび]えびすあずか蠻相讐殺,しょうしん受賄,じょ其報かたき,乃詐そう蠻叛,おこりへいころせ良民りょうみん。朵兒あかそう劾,竟廢としろくじゅうそつ于官。

じんどおりため雲南うんなんしょうといてんれきねんさんがつ雲南うんなん諸王しょおうあずか萬戶伯忽等叛,じんどおりりつ官軍かんぐんこうぼつ於陣。

和尚おしょうせんやつ[4][编辑]

和尚おしょうたまみみべつさとはくきばわれだい哈剌察兒,りつ所部ところぶかえりふとしちちゆるがせおもえ膂力りょりょくひととしみずのえたつしたがえ睿宗やぶきむ大將たいしょうごうたちぐん于鈞しゅう三峯山みつむねやま,以功たまものごう拔都魯。かぶとうまかねほろび乙未おとみ,授管ぐんひゃくしたがえおさむそうとう、鄧、潁、蔡、じょう、郢、ふくしんひかりとうしゅう,屢立戰功せんこうからしたまもの名馬めいばぶんにしき白金はっきん甲冑かっちゅう弓矢ゆみやおつしたがえおさむかんじょうてつじょう寨,歿于ぐんおく竭忠せんりょく功臣こうしんとく大夫たいふ中書ちゅうしょみぎすすむうえまもるぐん、沇國こうおくりなたけ愍。

和尚おしょうかさねちちしょくおのれしたがえおさむ鄂州。ちゅうすべさんねん璮叛,したがえこくへい討之,せんろうそうこう甚眾,陞阿剌罕まん經歷けいれきいたりもとねんおさむじょう軍務ぐんむ繁劇はんげきさんいちゆうかた元帥げんすいおもねうけらこも其才大用おおゆう

じゅういちねんしたがえ丞相じょうしょうはくがお渡江とのえあずかそうぐんせん于柳、魯洑、しんなだ、沌口,はくがおじょう其功,せいよしみすすむやめじゅうさん)〔ねん[5]したがえたいらあきらおもねさとかいきばおさむ拔岳しゅうすないたりりょうそうやすしなで使だかたちじょうもりこばめせん和尚おしょうちょく抵城さとし禍福かふくたちとげ開門かいもん,以功陞行しょうろうちゅうしたがえこくへいかこえ潭州,潭守しん堅守けんしゅおさむさんがつしたじゅうさんねんしろやぶ,芾死。しょ將利まさとし於虜りゃくほしほふ其城,和尚おしょう宣言せんげん曰:「こばめわがしゃそうすすむみみ,其民なんざいすんで受其降,そくわれみんころせなににん?且今れつじょうくだ而殺けん其效こころ也。」ひだりすすむちぇあきら曰:「ろうちゅうげん。」たいらあきらおもねさとかいきばまたあずかごうとげしたがえこれ一城かずきこれにんよりゆき以全かつよし湖南こなんしょぐん聞風みな聞之,賞賜しょうしあつ改行かいぎょうしょうだんごとかん

徇地廣西ひろせとくまえぐんおさむやぶ靜江しずえとげ兼行けんこう宣撫せんぶごとこう西平にしだいら,授太ちゅう大夫たいふ常德じょうとくたち魯花あか,以治さい聞,擢嶺みなみ廣西ひろせどうひさげけい按察使ときおもねさとかいきば恃功頗驕ほしいまま和尚おしょう劾奏しょうかし。遷江みなみ浙西どうひさげけい按察使。浙西,そうみん眾事しげる在職ざいしょくおもんみつとむ鎮靜ちんせいにんふく其知大體だいたいそつ于官,ねんよんじゅうきゅうおくせんちゅう守正もりまさ功臣こうしんぎんあおさかえ祿ろく大夫たいふつかさうえばしらこくついふう沇國こうおくりなそう肅。せんやつ

千奴以御史大夫月魯那延薦,いれ大安たいあんかくせいねん其功臣子しんしそく以其ちちかん授之,はい武德ぶとく將軍しょうぐん江南こうなん浙西どうひさげけい按察使時江ときえ浙行中書ちゅうしょしょうこうだいみなくいせんやつじょうげん:「くだりしょうせんひかえこう浙,ざいくいためよろしくだりだいそう鎮江みなみよろし偏在へんざいくい。且兩大府おおぶ並立へいりついきおい偪則ごと窒,じょう通則つうそく,盍移行いこうだい於要便びんこれしょ?」すうねんとげ移行いこうだい江東こうとう。遷山南湖みなみこ北道ほくどうひさげけい按察使

じゅうろくねんあかり將軍しょうぐん,遷淮西にし江北こうほくどうひさげけい按察使ときくわ哥秉せい擅權,いきおい焰熏灼,にん莫敢ごとせんやつじょうあいだ入朝にゅうちょうみかど於柳りんごくひね其罪じょうみかど為之ためゆきあらためよういくくわ哥伏誅,またうえげん其黨なおぬの中外ちゅうがいむべはや處分しょぶんあらためりつ肅政かどおとずれしんこう將軍しょうぐん,授江きた東道とうどう肅政かどおとずれ使

さんじゅういちねん,遷江東こうとうたてやすしどう肅政かどおとずれ使ちょう祖母そぼゆうふく闋。東平とうへい大名だいみょうしょみちゆう諸王しょおうまき馬草まぐさあずか民田たみだしょうあいだ,互相おかせおかせ有司ゆうし強弱きょうじゃくため予奪よだつれんとし爭訟そうしょう不能ふのうじょう。乃命おこりせんやつ治之はるゆき,其訟とげいき

大德だいとくねん,授太ちゅう大夫たいふたてやすしそうかんくだりたてまつみことのり使淮東、西にしといみんやましにが,察官吏かんり能否のうひ。千奴勤于咨訪,きょうじょがいかえそう軍民ぐんみん便宜べんぎさんじゅうことさいようれき江西えにし湖東ことう江南こうなん湖北こほく兩道りょうどうかどおとずれ使どき中書ちゅうしょたいらあきらはくがおとうかたくらいひさとうあずか眾盛,ところつとむこれにん,徇情ろうほう綱紀こうきやや壞。せんやつ摭其うえ于憲だい以聞,はくがおとうみな黜。前後ぜんごななもちけんぶしつよしせい不撓ふとう,聞朝廷事ゆう不便ふべん,必上あきら極論きょくろん嘗以內外為がいためいや

ななねん,授嘉大夫たいふだい都路みやこじそうかんけんだいおきいん。馭吏民有みんゆうかた,以暇せい街衢がいくおもてさとちまた國學こくがくきょうこうゆうつき其力。にわかしんどおり大夫たいふどう樞密院すうみついんごとうえ疏言:「こうむぐんざい山東さんとう河南かなんしゃ,往戍甘肅かんせい跋涉ばっしょうまんそう槖鞍みな其自辦,まいくだり必鬻さん,甚則うり妻子さいし。戍者だいしゃとうはつ前後ぜんごしょう仍,困苦こんく甚。こんあたり無事ぶじ,而虛殫兵りょくまことためけい,請以きん甘肅かんせいへい戍之。而山ひがし河南かなんぜん戍者,かんため出錢でせん,贖其さん妻子さいし,庶使しょうゆう瘳也。」みことのりしたがえこれいく,遷參議さんぎ中書ちゅうしょしょうごとさんけつつとむ精練せいれん明敏めいびん。凡干祿ろくこれにんゆかりみちしんしゃ一切いっさい不用ふよう時論じろん翕然きゅうぜんしょう焉。

なりむねくずれむかいひとしそう於潛ていたてまつたけはじめ即位そくい,危疑さいわたる綸補えきこうためはいさかえ祿ろく大夫たいふたいらあきら政事せいじ商議しょうぎ樞密院すうみついんごと左翼さよく萬戶府達魯花赤,ひさげ調ちょう屯田とんでんごとたまものだまたい

のべゆうねん,乞致仕ちしみかど憫其おとろえおいしたがえ其請,仍給はん俸終其身。退すさきょ濮上,ちくさきひじりえんきょ祠堂しどう於歷やました,聚書まんかんのべめいきょう其鄉さと子弟していわたしひゃくうね給養きゅうよう有司ゆうし以聞,たまものがくれきやま書院しょいん家居かきょななねん而卒,ねんななじゅういちおく推忠輔治功臣こうしんひかり祿ろく大夫たいふ河南かなん江北こうほくとうしょゆき中書ちゅうしょしょうたいらあきら政事せいじうえばしらこくついふうまもるこくおおやけおくりな景憲かげのり

りゅうたからかん察御ことぶきわらわひろしさわたむろまんはやそつらん奚,南臺みなみだい觀音かんのんたもてかさねひろしさわたむろまん;孛顏ゆるがせおこり進士しんしともていしゅう,以治ぎょうだいいちにゅうため翰林かんりん國史こくしいん經歷けいれき

りゅうひろし[编辑]

りゅうひろしなかひろし,其先西にしやすし青海せいかいじん高祖こうそおもねはな西にしなつぬしなおしょく西にしなつひらめ,徙西やすしみん於雲きょうようちち海川うみかわざい徙中,とげためくもきょうじん

ようよう穎悟えいごややなが讀書どくしょ。其俗もと尚武しょうぶようまたぜん騎射きしゃしかどるこう也。なかみつるはつ,以國こもにゅうさむらい皇太子こうたいし於東おひがしみやいのちせんてのひらぞうまい退すさちょくそくまい國子くにこさいしゅもと衡,衡亦あずか進之しんのいたりもとななねんせいちゅう蹕鎮うみ,聞容吏事,召至,いのちけん中書ちゅうしょしょうじょうこと畢復まえしょく,以忠ちょくしょう

じゅうねんたてまつむね使江西えにしなで慰新みんあるすすむ其頗受送のこかえりまいないけん貴人きじんたて致榮ちょうよう曰:「剝民以自利じりわれこころなにやす?」使つかいかえおもんみ書籍しょせきすうしゃけんじ皇太子こうたいし嫉者したがえ而讒ゆかりこれやや疏容,しかようまたおわり不辯ふべんかいりつ詹事いんようじょうげん曰:「太子たいし天下でんかほん,苟不とくはしじんせい左右さゆう輔翼使つかいかたぶけよこしまがわこびすすむ,必有そんれいとく。」聞者にわかいのちため太子たいしあらため祕書ひしょかん

いくため廣平ひろへいそうかん富民とみんゆう同姓どうせいそう財產ざいさんしゃ,訟連ねんけつよういたりせきこうにん父祖ふそ名字みょうじとく其實,たてだんそうしゃとげふく皇子おうじ雲南うんなんおういたり汴,其達魯花あかぼうよくあつし斂,以通まかない于王,よう請自往,乃減其費。こう以疾そつ於官,ねんじゅう

迦魯おさめこたえおもえ[编辑]

迦魯おさめこたえおもえかしこわれじんつう天竺てんじくきょう及諸國語こくご翰林かんりん學士がくしうけたまわむね安藏あぞう扎牙こたえおもえこも於世,召入朝にゅうちょういのち與國よこくこうほう國師こくし西番にしのばんじん言語げんごそうどおりみかどいんいのち迦魯おさめこたえおもえしたがえ國師こくし習其ほう及言あずかねんみなどおり。以畏われやく西にしてん西番にしのばん經論きょうろん既成きせいしん其書,みかどいのち鋟版,たまもの諸王しょおう大臣だいじん西南せいなん小國しょうこくぼし哈剌てきじゅうしゅ來朝らいちょう,迦魯おさめこたえおもえ於帝ぜんじきそう其表あきら諸國しょこくおどろきふく

朝議ちょうぎきょうへい討暹こく斛、うまはち、俱藍、剌諸こく,迦魯おさめこたえおもえそう:「此皆蕞爾くにたてどくなにえききょうへいざんみんいのち,莫若使つかいさとし禍福かふく不服ふふく而攻,ばん也。」みかどおさめ其言。いのちだけ剌也やつじょうめつとう往使,くだしゃじゅうあまりこく

いたりもとじゅうよんねん丞相じょうしょうくわ哥奏ため翰林かんりん學士がくしみかど曰:「迦魯おさめこたえおもえこれかんなんじしょとうそう也。」すんで而擢翰林かんりん學士がくしうけたまわむねちゅうたてまつ大夫たいふさむらいなりむね於潛てい,且俾以節いん致戒。なりむね即位そくいおもえ其忠,遷榮祿ろく大夫たいふだいつかさ;憐其おいいのち乘車じょうしゃいれ殿どのじんむね即位そくい,廷議汰冗かんどく迦魯おさめこたえおもえため如故,仍加開府かいふどうさんつかさたまものだまくらいちねんはちがつそつ

闊里きちおもえ[编辑]

闊里きちおもえこうむ按赤歹氏。曾祖そうそはちおもえはなしたがえおさむ乃蠻、欽察、兀羅おもえうま扎兒、かいかい諸國しょこくつねため先鋒せんぽうやぶてきふとし嘉之よしゆきたまもの以虎。及諭くだゆたかしゅうくもしゅう,擢充宣撫せんぶ使ゆるがせ押忽からし襲職しゅうしょく,佩虎けんそう嘗語曰:「なんじしょ佩金きゅう矣,なに以旌いさお?」いのちあらためせい,以賜ちゅうすべさんねんあらため河中かわなかたち魯花あかそつちちやくしつはかりごと,擢襄すべ軍司ぐんじ經歷けいれきあらため宿やどしゅうたち魯花あかみなはい樞密すうみつ副使ふくし孛羅、ちゅうすすむはち剌引見世みせそう曰:「此忽押忽辛子からし也,乞以其祖ちちとら授之。」擢中じゅん大夫たいふ金剛こんごうたいたち魯花あかつぎあらため光州こうしゅう。屢遷安東あんどうしゅう河中かわなか及溫しゅう、潞州,以建やすしたち魯花あか致仕ちし

闊里きちおもえはつ宿衞しゅくえい充博みつひろあかいたりもとじゅうねん,擢朝れつ大夫たいふつかさみのりしょうきょう賜金しきん束帶そくたい。遷中大夫たいふつかさみのりきょう。陞資ぜん大夫たいふつかさみのりきょうはいさかえ祿ろく大夫たいふあるき廣平ひろへいあきら將兵しょうへい討海みなみせいはじむしょ峒寨。また明年みょうねん平之ひらのかえしるしいれたまものだま束帶そくたい金銀きんぎん幣帛へいはく弓矢ゆみや甲冑かっちゅう,及寶鈔、くら勒,とくむねかえ鎮。

なりむね即位そくいにゅうたまものうみひがしあお鶻、しろ鶻各いち,及衣ふくゆう大德だいとくねんあらため福建ふっけんゆきしょうたいらあきらいく,以福建ふっけん隸江浙,あらため福建ふっけんどうせん慰使、元帥げんすい。陞征ひがししょうたいらあきら政事せいじ高麗こうらいけいせいふしかん冗民まれ,闊里きちおもえいん悉加さいせい以聞。ゆうむねしるしいれ,俾條析便民事みんじよろし大德だいとくねんふくはい廣平ひろへいあきら,踰年,あらため陝西せんせい,以目やましかえ京師けいしかんいたりきんむらさきひかり祿ろく大夫たいふ雲南うんなんしょみちゆき中書ちゅうしょしょうひだり丞相じょうしょうそつねんろくじゅうろく

かんさわみずうみこうみぎすすむせい廣西ひろせぞくそつ于軍。

しょう雲石うんせきだつゆるがせはち[编辑]

しょう雲石うんせきだつゆるがせ憐,かしこわれじんつかまつ其國ためわれ魯愛兀赤,なおはなげん大臣だいじん也。ふとしあずか其父らいしたがえせいかい回國かいこくかえこと睿宗於潛ていじょう,睿宗分地ぶんち,以為ほんだんごとかん

はちことためたからあかたかぼうまんしたがえせい哈剌ちょう有功ゆうこうたまもの男女だんじょかくいちにんかねいち鋌,及銀とうぶつせいおもねさと哥,せん於昔もん禿かぶろにちさんごうころせ甚眾,賜金しきんいち鋌。こう以鷹ぼう萬戶從裕宗北征,いたり鎮海你里あつしたまものぎん椅及鈔一まんせんかんいのちもりじょう

いくいのちぎょうしょうあげしゅうはち曰:「しんよう嘗去陛下へいかねがいとめさむらい左右さゆう。」あらためたかしおきたち魯花あかはるか授中しょみぎすすむさとし曰:「ちんきゅうしょなんじ往居。」はちまたやめみかどまこときょさんねんうみ叛,たてまつむねしたがえあまあさ太子たいし往征かえ,以功賜金しきんいち鋌。そつおくぎんあおひかり)〔さかえ祿ろく大夫たいふ[6]つかさ

おもねさとたかぼうせんせき安西あんざいおうしょうかんとくなんじ定府じょうふたち魯花あか[7]おもね甘肅かんせいゆきしょうたいらあきら政事せいじ;臘真,よし會同かいどうだて使どうどおりせいいんゆうせいあとかんいたりさかえ祿ろく大夫たいふ中書ちゅうしょしょうたいらあきら政事せいじけん翰林かんりん學士がくしうけたまわむねつうせいいん使そつ察乃,きむむらさきこう祿ろく大夫たいふ中書ちゅうしょしょうたいらあきら政事せいじ。察乃じゅうにんろうあきら樞密院すうみついんごと;撒馬あつし中書ちゅうしょしょうさん政事せいじ

斡羅おもえ[编辑]

斡羅おもえかんさと曾祖そうそ哈失はくようくにはつ款附,ためそうひじりふとしきさきみやまきかんうみしたがえけんそうただし釣魚ちょうぎょさん,歿于じんちち明里あけさとじょうせいため必闍あかためたいしょうかん

斡羅おもえいたりもとじゅう九年為內府必闍赤。じゅういちねんはいかん察御。遷雲みなみぎょうしょうとえりょう雲南うんなんおうごとこう以忤くわ哥被譖,せき其家,ただ金玉きんぎょくたいかくいち黃金おうごんじゅうりょうみな上所かみところたまものしゃ。乃以公用こうよう係官かかりかん孳畜,これざいみかど曰:「口腹こうふくこと,其寢。」じゅうろくねんおけ八番羅甸宣慰司,しんよしみ大夫たいふせん慰使。ときしょ蠻叛ふくつね,斡羅おもえ平之ひらの,乃立やすなでとう以守焉。じゅうはちねんひら楊都ようとう九月くがつしんちゅうたてまつ大夫たいふすずとら明年みょうねんため八番順元等處宣慰使、元帥げんすいたまものさんたまとら

大德だいとくろくねん,授通たてまつ大夫たいふおもえせん慰使,けんかんぐんまんすすむせいたてまつ大夫たいふたけはじめりつ召還しょうかん,授資ぜん大夫たいふ中書ちゅうしょひだりすすむりょうたけまもるおやぐん指揮しき使だい屯田とんでんごとひろすすむさかえ祿ろく大夫たいふ中書ちゅうしょみぎすすむけん翰林かんりん國史こくしうけたまわむね,仍領たけまもる屯田とんでん。屢奉むねたまもの貲產だいたく固辭こじ。遷四川行省平章政事。至大しだいねん召還しょうかん,以瘴癘臥びょうおこりすめらぎけいねんそつねんじゅうゆうろくおくひかり祿ろく大夫たいふえきこくこう

はくひろしはつちょく宿衞しゅくえいためそくいにしえあか至大しだい元年がんねんため翰林かんりん侍講じこう學士がくし,以父やましさむらいのべゆうよんねんふくにゅうさむらいためそくいにしえあか扎撒まごいたり元年がんねんためそくいにしえあかじゅうにんこれちょうけんりょう皇后こうごうみやたからあかねんかさね河南かなんどう察罕はなりょう所掌しょしょう宿衞しゅくえいてんれき元年がんねんぶんむね于汴,にゅうちょく宿衞しゅくえいためゆたかあかはいかん察御つぎ遷御だい經歷けいれき中書ちゅうしょみぎ司郎しろうちゅう。授中けん大夫たいふりゅう禧總かんそいたち魯花あか

朵羅だい[编辑]

朵羅だいから兀氏。しょううしふとし既定きてい西にしなつくく諸色しょしきじんたくみしょううし以業ゆみすすむたまものめいおびえのべ兀蘭,いのちためおびえ憐口ぎょう營弓たくみひゃく,徙居りんそつちちとうゆるがせだい襲職しゅうしょくおもねさと哥叛,とうゆるがせだいしたがえせん于失うねさと禿かぶろ

朵羅だいしたがえまん也速䚟兒、たま哇赤とうるいせん有功ゆうこう,授前衞ぜんえいおやぐんひゃくせきかん昭信あきのぶこうじょう、芍陂屯田とんでん千戶所達魯花赤,以疾退すさ

朵羅だいおとうと闊闊またぎょうゆみ,嘗獻しょづくりゆみみかどしょうぜんもん其父なんめい,闊闊たい曰:「とうゆるがせだいしんちち也。」みかど其狀貌魁偉かいい,且問其能しゃ乎?左右さゆうたい曰:「のう。」ためし果然かぜんとげいのちため近侍きんじ明年みょうねん武備ぶびてらしんふく以其ゆみけんじ,且奏ようみかど曰:「孔子こうしげん三綱さんこう五常ごじょうにんのう自治じち,而後のう治人はるひとのうひとし,而後のう治國ちこくなんじ以此ごとさとし,而後よう。」にわか擢為大同だいどう廣勝ひろかつたち魯花あかこう勝者しょうしゃ,貯兵これしょときそうかんから兀海きば以庫さくおおやけしょおけかぶと仗於きょ廩中,むしねずみがい,闊闊げん於帝,ふく,且責其償兵器へいきすんで壞者。使者ししゃ薛綽はなおさめそく魯丁以檄たかぼうぐんころもかぶと弓矢ゆみや若干じゃっかん,闊闊せめ其入文書ぶんしょりょうときけんふくそく魯蠻れい毋入文書ぶんしょ,且命有司ゆうしふう鑰其しょうてん,闊闊したがえこと聞,みかどいのちむちそく魯蠻,やめこれ

大德だいとく元年がんねん,陞大同だいどうたけしゅうたち魯花あかけんかん本州ほんしゅうしょぐんおく魯勸農事のうじまたかんけんしゅうとぎしゅうあらため僉四川道廉訪司事,はいかん察御るいかんちゅう大夫たいふだいやすしそうかんそつ于官。

朵羅だい之子ゆきこだつ歡,はつちょく宿衞しゅくえいだいやくはいかん察御。遷四川行省左右司員外郎、四川廉訪司僉事、樞密院すうみついんごと,陞斷ごとかん。其在よんがわ,嘗上疏曰:「內外おさむてら,雖支かんぜに,而一椽一かわらみなろう民力みんりょく百姓ひゃくしょう嗟怨,感傷かんしょう和氣わきむべ且停やめ,仍減しょうきょうふつめしそうこれ,以紓こくよう。如此そくじょうおう天心てんしんしもごうみんこころざしもとめぶく而福いたり矣。かいかいけい富商ふしょうだい賈,むべあずか軍民ぐんみん一體いったいおうやく,如此そく賦役ふえきひとし矣。為國ためくに以善ためたから,凡子おんなたま帛、羽毛うもうかわちん禽、じゅうこれるいみなとくこころざし今後こんごかいかい諸色しょしきじんとうもと齎寶中賣なかうり,以虛こくようたがえしゃざい而沒。如此そく富商ふしょうだい賈無しょほどこせ其奸にせ,而國よう有畜ゆうちくせき矣。」其辭こんちょく剴切がいせつ當時とうじしょう

也先はな[编辑]

也先はなこうむおびえれつ曰昔剌斡ゆるがせ勒,兄弟きょうだいよんにんちょう曰脫はな曰怯れつ哥,曰哈剌阿ゆるがせ剌。ほうふとしほろおびえれつ哥已ふか結納ゆいのう兄弟きょうだい四人皆率部屬來歸。ふとし以舊こうぐう特異とくいぞくいのちため必闍あかちょう朝會ちょうかいつばめきょう使つかいきょじょうれつむかし剌斡ゆるがせ早世そうせい,其子孛魯歡幼ごと睿宗,にゅう宿衞しゅくえいけんむね即位そくいあずかこうむ哥撒みつさん謀議ぼうぎはい中書ちゅうしょみぎ丞相じょうしょうとげせん國政こくせいたまもの定之さだゆきたば鹿しかため其食邑。いたりもと元年がんねん,以黨おもねさと哥論ざいふく誅。よんにんちょう曰也さきはな曰木はち剌,はつだてだいためちゅうすすむ曰答しつ蠻,るいかんいたりぎんあおさかえ祿ろく大夫たいふ曰不はなじょうはいさかえ祿ろく大夫たいふ四川しせんしょうたいらあきら政事せいじ

也先はなはつ其職,ため必闍あかちょうひろしそうふうつばめおうせいいのち也先はな為之ためゆきでん,且謂曰:「也先はなわれ舊臣きゅうしん子孫しそんはしかた明信あきのぶ,閑習典故てんこしかまいこととい,必不使しかため不善ふぜん也。」

じゅうさんねんはいじょうはしらこくひかり祿ろく大夫たいふ雲南うんなんしょみちゆき中書ちゅうしょしょうたいらあきら政事せいじときおもねろう馬丁ばてい諸種しょしゅ僰夷ためへん,討平とげたてとうくもとうしゅうけんろくじゅう餘所よそとくじゅうあまりまんかん其酋ちょうてい其貢ぜい邊境へんきょう以寧。

大德だいとくねん,遷湖廣行ひろゆきしょうたいらあきら為政いせいいか而威,察而あかり大事だいじしゅう,眾論ひとしじょけつ一言いちげんきりちゅう事理じり,咸出じん意表いひょうかい汴梁ぎょうしょうゆう妖獄,飛語ひごれん廣平ひろへいあきら政事せいじりゅうかん)〔くにすぐる[8]みぎすすむつばめこうくすのき朝廷ちょうていわけ)〔えき〕召にんしゃいれ[9]二人與也先不花嘗有違言,也先はなきゅう使つかいそうあきら其無にんみなとくしゃくはちねん,遷平あきら河南かなんゆきしょうかわけつ落黎つつみいきおい甚危,とく有司ゆうしさき士卒しそつ以備,汴以患。きゅうねんしんはいじょうはしらこくぎんあおさかえ祿ろく大夫たいふみずうみこうとうしょゆき中書ちゅうしょしょうひだり丞相じょうしょう賞賜しょうしきょがつ方面ほうめん以安。至大しだいねんそつてんれきねんおく推忠守正もりまさうん翊戴功臣こうしんふとし開府かいふどうさんつかさうえばしらこくつねおうおくりなぶんさだにん:曰亦憐真,曰禿魯,曰答おもえ,曰怯れつ,曰按攤。

また憐真,ことひろしむね於東おひがしみやため家令かれいるいはいぎんあおさかえ祿ろく大夫たいふ湖南こなんひとししょゆき中書ちゅうしょしょうひだり丞相じょうしょうのべゆう元年がんねんそつてんれき元年がんねんおく推誠輔治せん保德やすのり功臣こうしんふとしでん開府かいふどうさんつかさうえばしらこくついふうたけあきらおうおくりなちゅうじょう

禿かぶろ魯,れきごとよんあさおこりそうただし也可扎魯はなあかはい開府かいふどうさんつかさ中書ちゅうしょみぎ丞相じょうしょう大夫たいふふとしでんろくぐん國重くにしげごと,薨。てんれきねんおくふところちゅう秉義あきらせん弼亮功臣こうしんふとし開府かいふどうさんつかさうえばしらこくついふう廣陽こうようおう

こたえおもえつかまついたりとく大夫たいふ湖南こなんせん慰使。おびえれつつかまついたりちゅうせい使

按攤,ことなりむねかさねちょう宿衞しゅくえいゆうむねきゅうななじょうでん使,往侍其父也先はな于湖ひろ諸道しょどう憲司けんじ以按攤孝行こうこう聞,はいちゅうたてまつ大夫たいふうみ北海ほっかい南道みなみどうせん慰使、元帥げんすいうみやすしあずかやすみなみうらないじょうしょえびすせっさかい海島うみしまなまはじむ叛服はんぷくつね,按攤もちもとちょえびすじんじょうふくなまはじむおう高等こうとう十餘洞皆願輸貢稅。ざい鎮期ねん,以省おや辭去じきょ至大しだいねんはいとく大夫たいふ中書ちゅうしょみぎすすむぎょう東道とうどうせん慰使つかさ元帥げんすいいく,奔父于武あきら,以哀毀致やましそつてんれきねんおく秉義こうただしちょぶし佐治さじ功臣こうしんふとしたもて開府かいふどうさんつかさうえばしらこくついふう特進とくしんちょうこくおおやけ中書ちゅうしょひだり丞相じょうしょうおくりなさだこう

おもねさかえ[10]よし宿衞しゅくえいおこり湖南こなんみちせん副使ふくしれきはい奎章かくだい學士がくしさかえ祿ろく大夫たいふふとし禧宗禋院使みやこのりせいかみ御殿ごてんごと

校勘こうかん[编辑]

  1. つき(乃合)〔ごう乃〕 よりどころほん書卷しょかん一四三馬祖常傳及石田集附許有壬馬祖常神道碑銘改正。したどう石田いしだしゅうまき一三馬公神道碑作「つきゆるがせ乃」,黃金おうごんはなしゅうまき四三馬氏世譜作「つきゆるがせなん」。「つきあい乃」,也里ゆたかきょうめい
  2. せい)〔きよししゅう天山あまやま まきいち校勘こうかん[いちよん]。
  3. 曾孫そうそんつね こううん:「あんつねすんでべつためりつでん,此復ろくじゅうことぜい矣。」うまつねつてまきいちよんさん
  4. せんやつ〕 よりどころ本書ほんしょ原目はらめろく
  5. じゅうさん)〔ねん 按本書卷しょかん八世祖紀至元十二年三月壬辰、よんがつ丙午ひのえうまじょうまきいちきゅうひさしでんもとへい下岳しもたけしゅうすなざいいたりもとじゅうねんよりどころあらためしたぶんゆうじゅうさんねん」。
  6. ぎんあおひかり)〔さかえ祿ろく大夫たいふ よりどころ黃金おうごんはなしゅうまき四亦輦真神道碑改。按本書卷しょかんきゅういち百官ひゃっかんこころざしぶんかんよんじゅうかいぎんあおこう祿ろく大夫たいふ」。新元しんもとやめこう
  7. なんじ定府じょうふ みち光本みつもと改作かいさくなんじやすし」。按元なんじ定府じょうふ」,なんじやすし河南かなん江北こうほくゆきしょう
  8. りゅうかん)〔くにすぐる よりどころほん書卷しょかんいちろく二劉國傑傳改。こうむやめこう
  9. 朝廷ちょうていわけ)〔えき〕召にんしゃいれ したがえきたかんほんあらため
  10. おもねさかえ こううん:「とううんおもねさかえゆうでん』。『よし宿衞しゅくえいおこり以下いかさんじゅうななみな刪。」おもねさかえでんまきいちよんさん

ほん明朝みんちょう作品さくひんざいぜん世界せかいぞく公有こうゆう领域いん为作しゃ逝世やめ经遠とおちょう过100ねん

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 まきいちひゃくさんじゅうさん かえしかいいただき まきいちひゃくさんじゅう