げんふみ/まき164

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 まきいちひゃくろくじゅうさん もとまきいちひゃくろくじゅうよん
列傳れつでんだいじゅういち
まきいちひゃくろくじゅう 

楊恭懿 おうまこと かくまもるけい 楊桓 楊果 おう構 はつ こげやしなえじき はじめよじ麟 なお 

楊恭懿[编辑]

楊恭懿字もとはじめたてまつもとひと力學りきがく強記きょうき日數にっすう千言せんげん,雖從おや逃亂,廢業はいぎょうとしじゅうなな西にしかえいえひんふくろうためやしなえひまそく就學しゅうがくしょ讀,ゆうふか於易、れい春秋しゅんじゅうとくしゅ熹集註四しょ,歎曰:「人倫じんりん日用にちようつね天道てんとうせいいのちみょうみな萃此しょ矣。」ちちぼつみず漿不入口いりくちしゃにちきょつきれい宣撫せんぶくだりしょう以掌書記しょき辟,就。

いたりもとななねんあずかもと衡俱召,きょう懿不いたり。衡拜中書ちゅうしょひだりすすむにち於右しょうやすわらわぜんしょうほまれきょう懿之けん丞相じょうしょう以聞。じゅうねんみことのり使つかい召之,以疾おこりじゅういちねん太子たいしきょう中書ちゅうしょ,俾如かんめぐみ聘四皓者以聘恭懿,丞相じょうしょうろうちゅうちょうもとさとしためしょ致命ちめい乃至ないし京師けいしすんでいれせい國王こくおうわらわろう其遠らいまましまたしん詢其鄉里きょうりぞく師承ししょうせいしゅう悉。じゅうねん正月しょうがつにちみかどこう殿どの,以大ぐんみなみせい使つかいひさしいたりいのち筮之,其言侍讀じどく學士がくしたんおおやけくつ請設みことのりあずかきょう懿議きょう懿言:「あきらみことのりゆういい不治ふち經學けいがくあなはじめこれどうにちため空文くうぶん。斯言まことまんせい治安ちあんほんこんほっむべ敕有,舉有ぎょうけんつうけい使つかいとう牒自售,ためし以經よし論策ろんさくおっとすんで從事じゅうじ實學じつがくのり士風しふうかえあつし民俗みんぞく趨厚,國家こっかとくざい矣。」そういれみかど善之よしゆきかいきたせいきょう懿遂でんさと

じゅうろくねんみことのり安西あんざいおうしょうあつし赴闕。にゅうみことのり於太いん改曆かいれきじゅうななねんがつしんそう曰:「しんとう徧考かん以來いらいこよみしょよんじゅういえせいおもえ推算すいさんきゅうなんよう,而新しゃ備,ぎょうみつるちぢみがつぎょうおそやましぎょうしゅうたかし,其詳みな精察せいさついまけん以新木表きおもてあずかきゅうしょはかあい較,とくいまとし冬至とうじ晷景及日躔所在しょざいあずかれつしゃぶんだい北極ほっきょく高下こうげ晝夜ちゅうやこく長短ちょうたんまいり以古せい創立そうりつ新法しんぽう推算すいさんなりからしれき。雖或しらげしかぜん改曆かいれきしゃ附會ふかいもとこよみ)〔こよみもと〕,さら日立ひたち)〔だてほう[1]ぜんかかと習,顧亦愧。しか每歲まいさいはかけんおさむあらためせきさんじゅうねん,庶盡其法。使つかいさんだいかんせいせん其職,はかけん良久よしひさあらため歲之としゆきごと矣。」またごうついたち曰:

にちゆきれきよん一周いっしゅういいいちさいがつ一周いっしゅうふくあずかにちあいいいいちがつごといちがつはじめ日月じつげつ相合そうごういいあいついたちはたはいれきかん太初たいしょとめようたいらさくほう大小だいしょうしょうあいだあるゆうだいしゃ日食にっしょくざい晦日みそかあるにちはかけん時刻じこくまた鮮中。そうなにうけたまわ天測てんそくけんよんじゅうねんしんげんよしみれきはじめ以月ぎょう遲速ちそくじょうしょうあまり以正さくのぞむ使つかいしょく必在ついたちめいじょうついたちほう有三ゆうぞうだいしょう以異舊法きゅうほうやめこれはりおそれ𠠎みやつこ大同だいどうれきずいりゅう焯造すめらぎきょくれきみなようていついたちためしょ阻。からでんひとしひとしづくりつちのえとられきていさくはじめとくぎょうさだかんじゅうきゅうねんよんがつしきだいにんみなこと,竟改したがえひらついたちあつしふうづくり麟德れき,雖不ようたいらさくぐう四大則避人言,以平いたいらついたちあいだまたまれあい當世とうせいためしんついたちほう使つかい元日がんじつしょくいたりいちぎょうづくりだい衍曆,いいてんごとまことみつ四大しだい)〔さんしょうなんきず」。[2]まことためかくろんしかまた循常あらため
しんとうさらづくり新曆しんれき,一依前賢定論,推算すいさんみなあらためしたがえいまじゅうきゅうねんれきはちがつよんがつ併大,じつ日月じつげつあいついたち數也かずや

しょうかくまもるけいでんぽうれつ跪,未讀みどくかなでみかどいのちもと衡及きょう懿起,曰:「きょうろう,毋自ろう也。」授集けん學士がくし兼太かねたいんごと

じゅうはちねんじゅうねん,以太子たいし賓客ひんきゃく召;じゅうねん,以昭ぶんかん學士がくしりょうたいいんごと召;[3]じゅうきゅうねん,以議中書ちゅうしょしょうごと召。みなくだりさんじゅういちねんそつねんななじゅう

おうまこと[编辑]

おうまことけいはじめ中山なかやまから縣人けんじんちちりょうかねまつため中山ちゅうざんじょうみん遭亂以詿誤繫獄,りょう前後ぜんごしょかつすうひゃくにんやめ而棄去吏業,潛心せんしんらくまなべ,及天文てんもんりつれき不精ぶしょうきわむねんきゅうじゅうそつ

まことせい穎悟えいごなまさんさい家人かじんしめせ以書ちつ,輒識ふうひのとははりゅう,授以せんぶんさいそくなり誦。ろくさい就學しゅうがくじゅうさんがくきゅうすう,輒造其極。としおのれとりふとしりゅう秉忠北上ほくじょうけい中山なかやま而奇,及南かえしたがえ秉忠がく於磁むらさき金山かなやま

みずのとうし,秉忠こも,召見于六ばんやまいのち輔導ほどうひろしそうため太子たいしとも讀。ちゅうすべねん,擢太子たいしさんぜんねんじゅうはちさんねんひろしそうふうつばめおうまもり中書ちゅうしょれいけんばん樞密院すうみついんごと,敕兩大臣だいじん:凡有咨禀,必令おうまことあずか聞。はつ中書ちゅうしょひだりすすむもと衡,しゅうとうおそれ以來いらい嘉言かげん善政ぜんせいためしょ以進。嘗令まことこうかい,且命太子たいし受業じゅぎょう焉。またみことのりまこと於太起居ききょ飲食いんしょくまきため調ちょうまもるしょむべせっこれにん,勿令とくさむらい左右さゆうまことげん:「太子たいし天下てんかほん付託ふたくいたりじゅうとうのべめいとくあずかこれきょしょきょうけんりょう中書ちゅうしょ樞密すうみつせいみことのりじょうしょとう徧覽,庶務しょむまたとう屢省,官吏かんり以罪めんしゃ毋使更進こうしんぐんかんがいじんあらためようさいゆう不可ふか其人。みんいたり而神,變亂へんらんわれこれうたぐのり反覆はんぷくためちゅうあつ。」みかどふかしかこれ

まこと算術さんじゅつめいひろしそう嘗問焉。まこと曰:「算數さんすう六藝りくげいいちてい國家こっかやす人民じんみん,乃大事だいじ也。」まいさむらい左右さゆう,必發明はつめい三綱さんこう五常ごじょうためがくみち,及歷だいゆるがせ興亡こうぼう所以ゆえんしかまた以遼、金之かねゆきごと近接きんせつ耳目じもくしゃ區別くべつ其善あくろんちょ得失とくしつ上之うえのひろしそうとい以心ところまもるまこと曰:「もと衡嘗ごと人心じんしん如印ばんおもんみ板本はんぽんのり雖摹せんまんみなほんすんでのり摹之於紙,しゃ。」ひろしそうふかししかこれみことのりくん子弟してい使つかいがく於徇,師道しどう卓然たくぜん。及恂したがえひろしむねなでぐんしょうかい,乃以しょなまぞくもと衡,及衡つげろう而去,復命ふくめいまこと領國りょうごくさいしゅ國學こくがくこれせいじつはじめ於此。

みかど以國あさうけたまわ用金ようきん大明だいめいれきさいひさしひた疏,よく釐正まことせい於算じゅつとげ以命まことこももと衡能あかりれきみことのりえき召赴闕,いのちりょう改曆かいれきごとかんぞく悉聽まこと辟置。まことあずか衡及楊恭懿、かくまもるけいとう,徧考れきしょよんじゅういえ晝夜ちゅうやはかけん創立そうりつ新法しんぽうまいり以古せい推算すいさんごくため精密せいみつしょうざいもりけいでんじゅうろくねん[4]授嘉大夫たいふふとしれいじゅうななねんこよみなりたまものめい授時れき,以其ねんふゆ,頒行天下でんか

じゅうはちねんきょちちあい毀,にちいんしゃくすいみかど內侍慰諭いくそつねんよんじゅうななはつまことびょうひろしそう屢遣,及葬,賻鈔せんかんこうみかどおもえていこよみこう,以鈔せんかんたまもの其家。のべゆうねんおく推忠守正もりまさ功臣こうしんひかり祿ろく大夫たいふつかさうえばしらこく定國さだくにこうおくりなぶん肅。

ひろしまろうどなみしたがえもと衡游,とくほしれきつて於家がくひろしそう嘗召曰:「なんじちちおこり於書せいひん貲蓄,こんたまものなんじ鈔五せんかんようつきふく以聞。」おん恤之あつ如此。ひろしよしあきらせいれき兵部ひょうぶろうちゅう蠡州。まろうどよしあきらふくるい遷祕しょかん

かくまもるけい[编辑]

かくまもるけいわかおもえ順德じゅんとく邢臺じんなまゆうみさお不為ふため嬉戲きぎごと大父おおぶさかえつう五經ごきょうせい於算すう水利すいりときりゅう秉忠、ちょうぶんけんちょうえきおうまこと同學どうがく於州西にしむらさき金山かなやまさかえ使もりけいしたがえ秉忠がく

ちゅうすべさんねんぶんけんこももりけい水利すいりたくみおもえぜっじん召見,めんひね水利すいりろくこと:其一,ちゅうきゅうこげかわひがしいたりどおりしゅう,引玉泉水せんすい以通ぶねさいしょうやといしゃぜにろくまん緡。とおりしゅう以南いなん,於藺榆河口徑こうけいちょくひらき引,ゆかりこうむむら跳梁ちょうりょうつとむいたり楊村かえかわ,以避浮雞𣵦ばんあさ風浪ふうろうどおてん患。其二そのじ順德じゅんとくいたるいずみ入城にゅうじょうちゅうふんためさんみぞ,灌城東じょうとう。其三,順德じゅんとく(澧)〔灃〕河東かわとういたるにんじょう[5]しつ其故どうぼつ民田たみだせんさんひゃくあまりごろ。此水ひらき修成しゅうせいかわ其田そのだそくこうしゅしょうおうむらみち)〔けい〕滹沱,[6]ごういれかわ通行つうこうぶね栰。其四,磁州東北とうほく滏、漳二水にすい合流ごうりゅうしょ引水ひきのみずよし滏陽、邯鄲かんたん、洺州、永年えいねんけい雞澤,ごういれ(澧)〔灃〕かわ灌田さんせんあまりごろ。其五,なつけはじめ沁河,雖澆灌,なおゆうせきあまりすいひがしあずかかわあまりすい相合そうごう。引東りゅういたりたけのぼるけんきたごういれかわ灌田せんあまりごろ。其六,黃河こうがはじめしゅう西にしひらく引,しょうぶんいちみぞ經由けいゆしんきゅうはじめしゅう中間なかまじゅんかわ古岸ふるぎしいたりゆたかけんみなみふくにゅう大河たいが,其間また灌田せんあまりごろまいそう一事いちじせい歎曰:「にんごとしゃ如此,にん不為ふためもと餐矣。」授提舉諸かわみぞよんねん授銀ふくかわみぞ使

いたりもと元年がんねんしたがえちょうぶんけんぎょうしょう西にしなつさきみぞざい中興ちゅうこうしゃいちめいとうらい,其長よんひゃくさといちめいかんのべちょうひゃくじゅう,它州せいみぞじゅうみなちょうひゃくささえみぞ大小だいしょうろくじゅうはち,灌田きゅうまんあまりごろ兵亂へいらん以來いらいはい壞淤あさまもりけいさらりつ牐堰,みなふく其舊。

ねん,授都すいしょうかんまもりけいごと:「ふね中興ちゅうこう沿河よん晝夜ちゅうやいたりひがししょうどおりこげうん,及見查泊、兀郎うみみぞ甚多,むべ修理しゅうり。」またげん:「金時きんときつばめきょう西麻にしあさ峪村,分引ぶびきみぞいちささえひがしりゅう穿ほじ西山にしやま而出,いい金口きんぐち其水きすい金口きんぐち以東いとうつばめきょう以北いほく,灌田若干じゃっかんごろ,其利不可ふかかちけいへいきょう以來いらいてんもりしゃ懼有しょしついん以大せきふさがこれこんわか按視あと使つかいすいとくどおりりゅううえ以致西山にしやました以廣京畿けいきこげ。」またげん:「とう於金こう西にしあずかひらきげん水口みずぐち西南せいなんかえ大河たいがれい其深ひろ,以防みなぎみず突入とつにゅう患。」みかど善之よしゆきじゅうねん丞相じょうしょうはくがおみなみせいりつすい站,いのちもりけいぎょう河北かほく山東さんとうどおりふねしゃためそう

はつ,秉忠以大あかりれきりょうかねうけたまわようひゃくねんひた以後いごてんよく修正しゅうせい而卒。じゅうさんねんこうひだりすんでひらめみかどおもえよう其言。とげ以守けいあずかおうまことりつ南北なんぼくかん分掌ぶんしょうはかけん推步於下おした,而命ぶんけんあずか樞密すうみつちょうえき為之ためゆきしゅりょうさいそう於上,ひだりすすむもと衡參あずか其事。まもりけいくびごと:「こよみほんざい於測けん,而測けんうつわ莫先儀表ぎひょうこんつかさたかし渾儀,そうすめらぎゆうちゅう汴京しょづくりあずか此處ここらてんしょうりょう南北なんぼくきょくやくよんひょうせきねんふかまたふく欹側。」もりけい乃盡こう其失而移おけこれすんでまたべつだか爽地,以木為重ためしげだな創作そうさく簡儀、こうひょうようしょうくつがえまた以為てんくるるごく而動,むかしじん嘗展かんもちとく其的,さくこうごくごくたつすんで天體てんたい斯正,さく天象てんしょうぞう雖形,莫適所用しょようさく玲瓏れいろう。以表のりかたはかてんせい圜,莫若以圜もとめ圜,さくおおせゆう經緯けいいゆい不動ふどうまもりけいえきさくりつうんにちゆう中道ちゅうどうがつゆうきゅうぎょうまもりけいいちこれさくしょう表高おもてだかけいむなし,罔象しんさくけいつき有明ありあけ,察景そくなんさく闚几。曆法れきほうけんざい於交かいさく月食げっしょくてんゆう赤道せきどうりん以當兩極りょうきょくていのぼるしめぎ以指さくほし晷定またつくせい方案ほうあん、(きゅう)〔まるひょう[7]かか正儀まさき正儀まさきため四方行測者所用。またさくおおせぶんまわしくつがえのりあやかた渾蓋にち出入でいりながたんあずか上諸かみもろただし互相參考さんこう

じゅうろくねんあらためきょくためたいいん,以恂ためたいれいまもりけいためどうたいいんごときゅう印章いんしょうだてかん。及奏しん儀表ぎひょうしきまもりけいとうみかどぜんゆびひね致,いたり於日晏,みかど不為ふため倦。まもりけいいんそう:「とう一行開元間令南宮說天下測景,書中しょちゅうしゃじゅうさんしょこん疆宇からゆうだいわか遠方えんぽうはかけん日月じつげつ交食分數ぶんすう時刻じこく不同ふどう晝夜ちゅうや長短ちょうたん不同ふどう日月じつげつ星辰せいしんてんだか不同ふどうそく目測もくそくけんじんしょうさき南北なんぼくりつひょうちょくはかけい。」みかど其奏。とげしつらえかんこうかんいちじゅうよんいんふんどう而出,ひがし至高しこううらら西にしごく滇池,みなみ踰朱がけきたつきてつ勒,四海しかいはかけん,凡じゅうななしょ

じゅうななねん新曆しんれきつげなりまもりけいあずかしょしんどう上奏じょうそう曰:

しんとう竊聞帝王ていおうこと,莫重於曆。みかどむかえ推策,みかど堯以閏月じゅんげつじょうよんなりとししゅんざい璇璣だま衡以ひとしななせい。爰及さんだいこよみ定法じょうほうしゅうはたあいだうるうあまり乖次。西にしかんづくりさんすべれきひゃくさん十年而後是非始定。ひがしかんづくりよんふんれきなな十餘年而儀式方備。またひゃくじゅういちねんりゅうひろしづくりいぬいぞうれきはじめさとるがつぎょうゆう遲速ちそくまたひゃくはちじゅうねんきょう岌造さん甲子きのえねれきはじめさとる以月しょく衝檢宿やど所在しょざいまたじゅうななねんなにうけたまわてんづくりもとよしみれきはじめさとる以朔もち及弦みなてい大小だいしょうあまりまたろくじゅうねん冲之づくり大明だいめいれきはじめさとる太陽たいようゆうとしすうきょくほし不動ふどうしょいちあまりまたじゅうねん張子はりこしんじはじめさとる日月じつげつ交道ゆう表裏ひょうり,五星有遲疾留逆。またさんじゅうさんねんりゅう焯造すめらぎきょくれきはじめさとるぎょうゆうみつるちぢみまたさんじゅうねんでんひとしひとしづくりつちのえとらもとこよみ,頗采きゅうはじめようじょうせい)〔ついたち〕。[8]またよんじゅうろくねんあつしふうづくり麟德れき,以古れきあきらしとみ元首げんしゅぶんひとしはじめためそうほうようしんついたち以避みそ月見つきみまたろくじゅうさんねんいちぎょうづくりだい衍曆,はじめ以朔ゆうよんだいさんしょうてい九服交食之異。またきゅうじゅうよんねんじょのぼるづくり宣明のぶあきれきはじめさとる日食にっしょくゆうこくときさんまたひゃくさんじゅうろくねん[9]姚舜輔造紀元きげんれきはじめさとるしょく甚泛あまりすう以上いじょうけいせんいちひゃくはちじゅうねんこよみけいななじゅうあらため,其創ほうしゃじゅうゆうさんいえ
またひゃくななじゅうよんねんひじりちょうせんいのちしんとうあらため新曆しんれきしんとうよう創造そうぞう簡儀、こうひょう,憑其測實數じっすうしょこうせいしゃ凡七ごと
いち冬至とうじへいねん立冬りっとう每日まいにちはかいた晷景,逐日ちくじつたい冬至とうじ前後ぜんごどうしゃためじゅんとくひのとうしねん冬至とうじざいつちのえいぬ夜半やはんはちこくはんまたていひのとうし夏至げしざいかのえ子日ねのひ夜半やはんななじゅうこくまたていつちのえとら冬至とうじざいみずのと夜半やはんさんじゅうさんこくおのれ冬至とうじざいつちのえさる夜半やはんじゅうななこくはん〕;[10]かのえたつ冬至とうじざいみずのと丑日うしのひ夜半やはんはちじゅういちこくはん〕。[11]かくげん大明だいめいれきじゅうはちこく遠近えんきんしょう前後ぜんごおうじゅん
曰歲あまり自大じだいあかりれき以來いらい,凡測けいけんとく冬至とうじ時刻じこくしんすうしゃゆうろくよう以相距,かくとく其時ごうようとしあまりこんこうけんよんねんあい,仍自そう大明だいめいみずのえとらねん距至今日きょうはちひゃくいちじゅうねん每歲まいさいあいとくさんひゃくろくじゅうにちじゅうよんこくじゅうふん其二そのじじゅう五分為今曆歲餘合用之數。
さん曰日躔。よういたりもとひのとうし四月癸酉望月食既,推求躔,とく冬至とうじ躔赤どう宿やどじゅう黃道こうどうきゅうゆう。仍憑每日まいにちはかいた太陽たいよう躔度,ある憑星はかつきある憑月はかあるみち憑星はかだてじゅつ推算すいさんおこりひのとうし正月しょうがついたりおのれじゅうがつ,凡さんねんきょうとくいちひゃくさんじゅうよんことみな躔於あずか)〔つきしょくしょう[12]
よん曰月はなれひのとうし以來いらいいたりいま,憑每はかいた逐時太陰たいいんぎょう推算すいさんへんしたがえ黃道こうどうもとめにゅうてんごくおそやまし平行へいこうしょ前後ぜんごじゅうさんてんけいじゅう一事いちじ。內除去じょきょしんてきがいゆうさんじゅうこととく大明だいめいれきにゅうてん後天こうてんまたいんこうけん交食,大明だいめいれきさんじゅうこくあずか天道てんとうあい
入交いりまじりひのとうしがつ以來いらい,憑每はかいた太陰たいいん極度きょくどすうなずらえ黃道こうどう極度きょくどとくがつ道交どうこう於黃どうきょうとく八事やごと。仍依日食にっしょく法度はっと推求,みなゆう食分しょくぶんとく入交いりまじり時刻じこくあずか大明だいめいれきしょ
ろくじゅうはち宿しゅく距度。かん太初たいしょれき以來いらい,距度不同ふどう,互有損益そんえき大明だいめいれきそく於度餘分よぶん以太はんしょうみな私意しい牽就,實測じっそく其數。今新いまじんみなほそこくしゅうてんぶん每度まいどためさんじゅうろくふん,以距せんだいかん窺,宿やど餘分よぶんなみ實測じっそく私意しい牽就。
なな曰日出入でいり晝夜ちゅうやこく大明だいめい曆日れきじつ出入でいり晝夜ちゅうやこくみなよりどころ汴京ためなずらえ,其刻すうあずかだい不同ふどう今更いまさら以本かた北極ほっきょく高下こうげ黃道こうどう出入でいり內外だてじゅつ推求每日まいにち出入でいり晝夜ちゅうやこくとく夏至げしきょくちょう日出ひのでとらせいこくにちいれいぬはつこくひるろくじゅうこくよるさんじゅうはちこく冬至とうじごくたん日出ひのでたつはつこくにちいれさるせいこくひるさんじゅうはちこくよるろくじゅうこくながため定式ていしき
ところはじめほう凡五ごと:一曰太陽盈縮。よう四正定氣立為升降限,たて招差もとめ每日まいにちぎょうぶんはつまつきょくせきためみつ。二曰月行遲疾。こよみみなようじゅうはちげんこんまんふんはちひゃくじゅうふんためいちげん,凡析ためさんひゃくさんじゅうろくげん垜疊招差もとめてんぶん進退しんたい,其遲やまし度數どすう逐時不同ふどうぶたまえしょゆうさん曰黃赤道せきどう舊法きゅうほう以一ひゃくいちしょうげん相乘そうじょういま算術さんじゅつまた矢方やのほう圜斜じきしょようもとめいたりつせきりつあずか天道てんとうじつ脗合。四曰黃赤道內外度。よりどころ累年るいねん實測じっそく,內外極度きょくどじゅうさんきゅうじゅうふん,以圜ようかたちょくせっまたためほうもとめ每日まいにちごくあずかところはかあい曰白道交どうこうしゅう舊法きゅうほう黃道こうどうへん推白どう以斜もとめはすいま用立ようだて渾比りょうとくがつあずか赤道あかみちただし交,距春秋しゅんじゅう二正黃赤道正交一十四度六十六分,なずらえ以為ほう。推逐がつごとじゅうはち宿しゅくぶん,於理ためつき

じゅうきゅうねんまことそつどきれき雖頒,しか其推しきあずかおっとりつ成之しげゆきすうなおみな有定ありさだわらまもりけい於是へんるい整齊せいせいぶん杪,たっため推步ななかんたてなりかんこよみなずらえわらさんかんてんしん選擇せんたくかん上中かみなかさんれきちゅうしきじゅうかんじゅうさんねんまましためふとしれいとげ上表じょうひょうそうしんまたゆう時候じこう箋注かんおさむあらため源流げんりゅういちかん。其測けんしょゆうぞう法式ほうしきかん,二至晷景考二十卷,ほしほそゆきこうじゅうかん古今ここん交食こういちかんしんはかじゅう八舍雜坐諸星入宿去極一卷,しんはか無名むめいしょほしいちかんがつはなれこういちかんなみぞうかん

じゅうはちねんゆうげん灤河ひさしひら挽舟踰山而上,いたり開平かいへいゆうごと瀘溝あさ峪可いたりひろあさりんあさ廷遣もりけいしょう,灤河すんで不可ふかぎょう,瀘溝ぶねまた不通ふつうまもりけいいんひね水利すいりじゅうゆう一事いちじ。其一,だいうんかてかわ不用ふよういちうねいずみきゅうはらべつ北山きたやましろ泉水せんすい西にしおり而南,けい瓮山はく西にし水門すいもん入城にゅうじょうたまき匯於積水せきすい潭,ふくひがしおり而南,南水門みなみすいもんごういれきゅううんかてかわまいじゅうおけいち牐,いたりどおりしゅう,凡為牐七,距牐さともとうえしげるおけもん,互為ひさげ閼,以過ぶねとめすいみかどらんそう曰:「とうそくぎょう。」於是ふくおけすいかん,俾守けいりょうみかどいのち丞相じょうしょう以下いかみなおやみさおふご(牐)〔鍤〕倡工,[13]まちもりけいゆび授而行事ぎょうじ

さきとおりしゅう至大しだい陸運りくうんかんかてさい若干じゃっかんまんせきぽうあき霖雨,うさぎうま畜死しゃ不可ふかかちけいいたりみなやめこれさんじゅうねんみかどかえうえ積水せきすい潭,舳艫じくろ敝水,だいえつめい曰通めぐみかわたまものもりけいまんせんひゃくかん,仍以きゅうしょくけんひさげ調ちょうどおりめぐみかわこげうんごとまもりけいまたげん:於澄きよし牐稍ひがし引水ひきのみず與北よぎた壩河せっ,且立牐麗正門せいもん西にしれいふねかじとくたまきじょう往來おうらいこころざし就而やめさんじゅういちねんはい昭文あきふみかんだい學士がくしたいいんごと

大德だいとくねん,召守けい至上しじょうひらきてつはた竿ざおみぞまもりけいそう:「山水さんすいしきとし暴下,だいためみぞせきこうななじゅう不可ふか。」執政しっせいしわ於工,以其げんためちぢみ其廣さんいち明年みょうねん大雨おおあめ山水さんすいちゅうしたみぞ不能ふのうよう,漂沒人畜じんちくいおりちょういく犯行はんこう殿どのなりむねいいおさむしん曰:「かくふとし神人しんじん也,惜其ごと不用ふようみみ。」ななねんみことのり內外かんねんななじゅうなみ致仕ちしどくもりけいもと其請。翰林かんりんたいつかさたかしかん致仕ちしじょうちょためれいのべゆうさんねんそつねんはちじゅうろく

楊桓[编辑]

楊桓武子たけし,兗州じんよう警悟,讀論いたりおさむ晝寢ひるねあきら慨然がいぜんゆう立志りっしゆかり終身しゅうしん疾病しっぺい晝寢ひるね弱冠じゃっかんためぐんもろせい,一時名公咸稱譽之。ちゅうすべよんねん濟州さいしゅう教授きょうじゅよしずみやすし教授きょうじゅ召為たいいんこうしょろうたてまつ敕撰儀表ぎひょうめいじ曆日れきじつじょ文辭ぶんじ典雅てんがたまものこうぞぬさせんひゃく緡,受。遷祕しょかんすすむ

いたりもとさんじゅういちねんはいかん察御ゆうとくだま璽於はなはじむ曾孫そうそん碩德せきとくしゃ[14]桓辨識其ぶん,曰「受天めいじすんでことぶき永昌えいしょう」,乃頓首とんしゅごと曰:「此歷だいでんこく璽也,ほろびひさ矣。今宮いまみやしゃ晏駕,すめらぎふとしまごりゅう,而璽ふくてん其彰瑞應ずいおう於今乎!」そくためぶんじゅつ璽始まつたてまつうわ于徽じんひろしせい皇后こうごう

なりむね即位そくい,桓疏じょう時務じむじゅう一事いちじ:一曰郊祀天地;二曰親享太廟,備よんまつりさん曰先てい首相しゅしょう;四曰朝見羣臣,訪問ほうもん時政ときまさ得失とくしつ;五曰詔儒臣以時侍講;六曰設太學及府州儒學,教養きょうよう生徒せいと;七曰行誥命以褒善敍勞;八曰異章服以別貴賤;九曰正禮儀以肅宮庭;十曰定官制以省內外冗員;じゅう一曰講究錢穀以裕國用;じゅう二曰訪求曉習音律者以協太常雅樂;じゅう三曰國子監不可隸集賢院,むべせい其名;じゅう四曰試補六部寺監及府州司縣吏;じゅう五曰增內外官吏俸祿;じゅうろく曰禁父子ふし骨肉こつにく奴婢ぬひしょうつげ訐者;じゅう七曰定婚姻聘財;じゅう八曰罷行用官錢營什一之利;じゅう九曰復笞杖以別輕重之罪;十曰郡縣吏自中統前仕宦者,むべゆうじゅう一曰為治之道宜各從本俗。疏奏,みかど嘉納かのう

いく,陞祕しょしょうかんあずかおさむだい一統いっとうこころざし。秩滿兗州,以貲ぎょう悉讓おとうと楷,鄉里きょうりしょう焉。大德だいとくさんねん,以國ぎょう召,赴,そつねんろくじゅうろく

桓為じん寬厚かんこうことおやあつしこう博覽はくらん羣籍,ゆうせい篆籀これがくちょ六書りくしょすべ六書りくしょ泝源、しょがくせいいん大抵たいてい推明もとまきこれせつ,而意ふかみなぎょう于世。

楊果[编辑]

楊果せいきょう,祁州がまかげじんようしつ怙恃,そう遷亳,ふく徙居もとあきら,以章授徒ためぎょうりゅうぐう轗軻じゅうねんきむただし大甲おおかぶとさるとう進士しんしだいかい參政さんせい蹊行だいつかさみのり於許,はて以詩おくこれ,蹊大しょうしょうごと於朝,ようため偃師れいいたかん,以廉みきたたえあらためがまじょうあらため陝,みなげきけん也。はてゆう應變おうへんざいのうはんげき諸縣もろかた以果治效ちこうためさい

かねほろびさいおのれうし,楊奐しるし河南かなん課稅かぜいおこりはてため經歷けいれきいくてんさわ經略けいりゃく河南かなんはてため參議さんぎとき兵革へいかく法度はっと草創そうそうはてずいむべさんみんよりゆき以安。ちゅうすべ元年がんねんしつらえじゅうみち宣撫せんぶ使いのちはてため北京ぺきん宣撫せんぶ使明年みょうねんはいさん政事せいじ。及例やめなおみことのりあずかひだりすすむ姚樞とう赴省議事ぎじいたりもとろくねんためふところはじめそうかんだい修學しゅうがくびょう以前いぜん嘗為中書ちゅうしょ執政しっせいかんうつりぶんさるとく署名しょめい。以老致政,そつ于家,ねんななじゅうおくりな文獻ぶんけん

はてせいさとしさとし美風びふう姿すがたこう文章ぶんしょうゆうちょう於樂そとわか沉默,內懷さとしようぜん諧謔かいぎゃく,聞者ぜったおせほろ,避亂河南かなんめと覉旅ちゅうおんなとうれきあらわつかまつ,竟與偕老,不易ふえき其初しんにん以是しょうゆう西にし菴集,ぎょう於世。

おう[编辑]

おう構字肯堂,東平とうへいじんちちこうふち,遭金まつみだれ,其兄三人挈家南奔,おおやけふちどくちかい死守ししゅ墳墓ふんぼふく草莽そうもうちゅう諸兄しょけいよび不出ふしゅつごう慟而去,そつとくそん其家,而三けい不知ふちしょおわり

構少穎悟えいごふうしこりあつ學問がくもん該博がいはく文章ぶんしょう典雅てんが弱冠じゃっかん以詞ちゅうせんためひがし平行へいこうだいてのひら書記しょき參政さんせい賈居さだ一見いっけんじゅう,俾其受學焉。

いたりもとじゅういちねん,授翰りん國史こくしいん編修へんしゅうかんとき丞相じょうしょうはくがおそうさきみことのりゆずるいのち構屬くさ以進,せいだいえつそうほろび,構與槃同むねいたりくいさんかんせきふとしつねてんあきられい儀仗ぎじょうかえり于京。凡所こも拔,みな名士めいしじゅうさんねんあきかえにゅう覲,遷應たてまつ翰林かんりん文字もじ,陞修せん丞相じょうしょうかずあや霍孫よし翰林かんりん學士がくしうけたまわむねはい,辟構ため司直しちょくとき丞相じょうしょうおもね合馬おうまためぬすめげきせいまたさと其姦,ふくしょうかずあや霍孫,さらちょう庶務しょむ,構之はかりごときょれき吏部、れいろうちゅうしんしゅう河南かなんしょひらはんあらためふとつねしょうきょうていおやとおるしょうびょうちゅう。擢淮ひがしひさげけい按察副使ふくし,召見便殿びんでん親授しんじゅせいしょたまものじょうみことしゅ以遣ひろ以治しょさむらい召。ぞくくわ哥為しょう,俾與たいらあきらぼくゆるがせけん覈燕みなみぜにこく,而督其逋まけ。以じゅういちがつみそぎょうとしおわり復命ふくめい明年みょうねんはるかえ宿やどみぞえき逾期,わざわい不測ふそくいいぼくゆるがせ曰:「しつらえ有罪ゆうざい,構當以身にん以累公也きみや。」かいくわ哥死,乃免。ゆうむね銓選江西えにしにゅう翰林かんりんため侍講じこう學士がくしくずれ,構撰おくりなさつ

なりむねりつゆかり侍講じこうため學士がくし,纂修實錄じつろくしょなり參議さんぎ中書ちゅうしょしょうごとときみなみゆうひね利便りべん請搜くくしゃ執政しっせいよくしたがえこれ。構與たいらあきらなにさかえどもげん不可ふかべん甚力,とくくだり。以疾かえり東平とうへい久之ひさゆきおこりためずみみなみそうかん諸王しょおう從者じゅうしゃ怙勢あるきしゅうけんみん莫敢忤視,構聞しょあさ,徙之北境きたざかい學田がくでんためまき地所じしょおかせしゃ而歸かんかしみんあわさいひだる而責つぐなえやめ,構請輸以明年みょうねんたけはじめ即位そくい,以纂おさむ國史こくしおもむき召赴闕,はい翰林かんりん學士がくしうけたまわむねいく,以疾そつねんろくじゅうさん

構歷ごとさんあさ練習れんしゅう臺閣たいかく典故てんこ,凡祖宗そそうおくりなさつさつぶんみなしょせんじょう朝廷ちょうていごとゆうだい,必咨おとずれ焉。こも引寒前後ぜんごしょうだい、翰苑しょ辟,無慮むりょすうじゅうにんこうきょせいかなめみな有名ゆうめい于時。

熙,つかまついたり中書ちゅうしょ參政さんせいそつかん南臺みなみだいちゅうすすむてん,淮西かどおとずれ僉事,みなのう文學ぶんがく其家。

はつ[编辑]

はつだいはつひろしゅうじゅん聖人せいじんしたがえ璠,きむ貞祐ていゆうさんねん進士しんし尚書しょうしょ省令しょうれいかねせんそうもとむ直言ちょくげん,璠首ろんしょうしょう非人ひにん,及不とう立德りっとくりょうごと,疏奏,ほうこうふくじょうげん:「國勢こくせい危逼,四方未聞有勤王之舉,隴右けんしょくあし,其帥かんがおえびすはすとらまた仗,むべひと往論大計たいけい。」大臣だいじんえつ而止。閱すうがつえびすはすとらへい來援らいえんやめ及,金主きんしゅ悔焉。

金將きんしょうたけせんぐん垜山すすむもとめ使せんしゃあるこも璠,そく授朝れつ大夫たいふ翰林かんりんおさむせんきゅうよんにん以從。いたりそくせんやめ遁去,きょくまたほろび,璠撫循招集しょうしゅうとくすうせんにん,推其ちゅうざい勇者ゆうしゃためそちちょう,仍制しるし,以矯せい劾,金主きんしゅいい處置しょちとくよろしつぎ聞仙りつあまり眾保留山とめやま,璠直おもむきせんしょせんさとしこれある讒於せんいい璠欲だつ其軍,せんいかいのち拔刃わかよく鏦璠しか,且引いち吏與璠辨。璠不為ふためどう大言たいげん曰:「おうじん雖微,じょ于諸こううえ將軍しょうぐんたてれい奈何いかん聽讒よこしまげんよく以小吏置たい耶!且將ぐんとべ山谷さんや,而左右さゆうしんしゃ,以天子てんし大臣だいじん也,苟不知ふちみこと天子てんしあんとも麾下きか如將ぐんしゃしかわれゆうはずかしめいのち。」せん不能ふのうこごめ。璠復げき使しんへいおうかえ金主きんしゅやめ遷歸とくふく遷蔡しゅうかねほろび,璠無しょ,乃北かえ鄉里きょうり

かのえいぬとしせいきょせんてい,聞璠めいしるしいたりりんおとずれ當世とうせいつとむ。璠條ひね便宜べんぎさんじゅう餘事よじ,舉名ろくじゅう餘人よにん以對,せい嘉納かのうさいよう焉。以疾そつ于和りんねんななじゅうたまものおくりなやすし肅。

はつ,其從まご也,璠無,以初ためはつこう讀書どくしょゆうちょう春秋しゅんじゅうためぶん簡而ゆうほうかんむりゆうごえなかみつる元年がんねんはじめ立中たつなかしょしょう,辟為じょうけんてのひら書記しょきいく,以祖ははろう隱居いんきょ教授きょうじゅかいみことのりひだりすすむもと衡、學士がくし竇默及京しょ儒,かくひねけい所載しょさい前代ぜんだい帝王ていおう嘉言かげん善政ぜんせいせんしん讀之有司ゆうし以初おうみことのりみかどまさしげる璠名,ぽうじき,詢知はつため璠子,[15]歎奬久之ひさゆきそく授國いん編修へんしゅうかんひろはいかん察御くびごと:「ほうしゃ天下でんかだいのりもりほうつかさ也。方今ほうこんほうゆう未定みていひゃくつかさ所持しょじ循,むべ參酌さんしゃくこうじょう,頒行天下でんか。」

みかどえん羣臣於上行宮あんぐうゆう不能ふのう釂大巵者,めん其冠ふくはつうえ疏曰:「しん聞君なおてん也,しんなお也,尊卑そんぴれい不可ふか肅。方今ほうこん內有ふとつね有史ゆうしかんゆう起居ききょちゅう,以議典禮てんれい言動げんどうがい有高ありだかうららやすみなみ使者ししゃ入貢にゅうこう,以觀中國ちゅうごくさく聞錫えん大臣だいじん威儀いぎどる謹,所以ゆえんみこと朝廷ちょうていせい上下じょうげ也。」疏入,みかど欣納,仍諭侍臣じしん自今じこん毋復ため此舉。ときじょう樊未はたくくみんためへいある請自だいきょうはじめはつげん:「京師けいしてん下之本しものもとようざい殷盛いんせいたて邦之くにゆきはつ詎宜騷動そうどう!」とげまぬかれくくだいきょうへい

はつまたげん:「舊制きゅうせいつねさんかんもろしゅう刺史ししうえにんさんにち,舉一人ひとりだいきょう風紀ふうきしょくあずかつねいんこと,請自こんかん察御、按察かん在任ざいにんいちさいかく一人ひとりだいしょ不當ふとうゆうばつおもんみとぎ礪風ぶしまた為國ためくにとくじん。」とげ舉勸のう副使ふくしりゅうせんだい僉陝西にし四川按察司事,れき陝西せんせい河東かとう按察副使ふくしにゅうためしょさむらいまた以侍ぎょうだいごと于揚しゅう,擢江西にし按察使ひろちょうはいさむらいくだりだいうつりたてやすしためちゅうすすむそつねんろくじゅういち必復,しゅうけん侍講じこう學士がくし

こげやしなえただし[编辑]

こげやしなえちょくとがめあずまあきらどう邑人。夙以ざいしょういたりもとじゅうはちねんせいあらためたからろうためてんみずかんおもえとくいち儒者じゅしゃきょ近臣きんしんゆう以養ちょくこもしゃみかどそくいのち召見,じき對稱たいしょうむね,以真じょう儒學じゅがく教授きょうじゅちょうはいてんみずしょうかんじゅうよんねんしたがえせい乃顏。じゅうはちねんたまものたくいちにゅうさむらい帷幄いあくひねせついにしえさき帝王ていおう政治せいじみかど聽之,まい忘倦。嘗語及漢だかみかどおこりがわほろ,誦所舊聞きゅうぶんやしなえちょく從容しょうよう論辨ろんべんみかどそくひらきおさめゆかりすすきだかみかど

大德だいとく元年がんねんなりそうみゆき柳林やなぎばやしいのちやしなえちょく進講しんこうどおりかんよしちんただし諫之ごとみことのりたまものしゅ及鈔まんななせんひゃくかんねん賜金しきんたいぞうしゃくさんねん,遷集けん侍講じこう學士がくしたまものどおりさいたいななねんみことのりでん太子たいし於宮ちゅうけい沃誠いたりみかど聞之,だいえつはちねんだいまつ南海なんかいきゅうねんしんしゅうけん學士がくしじゅういちねん,陞太子たいしさとしとく至大しだい元年がんねん,授集けんだい學士がくし謀議ぼうぎ大政たいせい悉與焉。つげろう而卒,おくとく大夫たいふ河南かなんとうしょゆき中書ちゅうしょしょうみぎすすむおくりなぶんやすし

とくかた,以廕ため興國こうこくそうかん判官ほうがん

はじめよじうろこ[编辑]

はじめよじうろこくも內人。曾祖そうそ彥甫,以明ほうため西北せいほく招討知事ちじゆう疑獄ぎごくとう死者ししゃひゃく餘人よにん,彥甫したがえさんにちとくみなしゃくづるちち澤民たくみんみなきん進士しんし

よじうろこようまんことのうつづりぶんごう奇童きどうかね正大せいだいななねん,擢進だいつかまついたりあさ散大さんだいおっと、招討使としみずのえたつ,汴京きたかえり居平いだいら丙午ひのえうまため陝西せんせいそちしょうかんとげ家長かちょうやすちゅうすべさんねん,授翰りんまちせいどうおさむ國史こくし

いたりもとはつ,召見,じょうひねななじゅうことだい抵勸じょう以郊祀天地てんちほこらふとしびょうせい禮樂れいがくけん學校がっこうぎょう舉,もりれい以字みんもうかべいあわ以贍ぐんしょう無名むめいやめ不急ふきゅうやく,百司庶府統於六部,紀綱きこう制度せいど悉由中書ちゅうしょため長久ちょうきゅうけい嘉納かのう,咨問諄諄じゅんじゅんこうろんおうひゃくいちもと仲平なかひら優劣ゆうれつたい曰:「ひゃくいちぶんはなおけ翰苑;仲平なかひらあきらけい傳道でんどうため後學こうがく矜式。」みかどふかしかこれまた嘗召とい宗廟そうびょう、郊祀せいよじ麟悉よりどころ經典きょうてん以對。ときみかどはたおやまつみことのりいのちよじうろこかいふとしつね議定ぎてい禮儀れいぎよじりゅう)〔うろこよる郊祀及宗廟そうびょう以進,[16]みかどみなおやらん焉。ふく以病請西じょうざいみかどれい就議陝西せんせい五路四川行中書省事。よんねんそつねんろくじゅうよんのべゆうさんねんおく翰林かんりん學士がくしうけたまわむねとく大夫たいふうえまもるぐん平原ひらばらぐんおおやけおくりなぶんじょう

なお[编辑]

なおぶん蔚,其先じょうじん,徙滿じょうよう穎異,祖母そぼりゅうあつ資之すけゆき使就學しゅうがくいたりもとじゅうはちねん,以處ちょうため國史こくしいん編修へんしゅうかんじゅうねんけんおきぶんしょすすむためなんじしゅう判官ほうがんれんかい有為ゆうい憲司けんじ屢薦じゅうはちねん,遷南陽なんようけんいんはついたりかんごく訟充斥,裁決さいけつとめとどこおわたるしゅんとげ無事ぶじあらためふところはじめかわみぞ副使ふくしかい使つかいといみんやましにが建言けんげん:「水利すいりゆうなりほうむべ隸有よろしふくおけかわみぞかん。」こと聞于あさかわみぞかんとげやめ

大德だいとくろくねん,遷國じょきょうしょなまいれ宿衞しゅくえいしゃさいしたがえこううえ丞相じょうしょう哈剌哈孫はじめいのち野分のわけがく於上,以教しょせい,仍鑄しるしきゅううえぶんがくはじめにわか陞國博士はかせ,誨人さき經學けいがく而後文藝ぶんげいまいいいしょなま曰:「まなぶゆう徒事ただごとはなわかぜにかいすいしょ有限ゆうげんのう鑿井さくせい及泉而汲不可ふかかちよう矣。」學舍がくしゃ備,みつ請御だい,乞出帑藏しょせきだいけん學舍がくしゃ以廣教育きょういくひとしそうざい東宮とうぐうため太子たいし文學ぶんがくしょ裨益ひえきしたがえ賓客ひんきゃく姚燧、さとしとくしょう𣂏にゅうみかどためれい

至大しだい元年がんねんじょ國子くにこつかさぎょう近臣きんしんそうぶん國學こくがく西にしじょためだい都路みやこじまなぶみかどやめ其奏,いい國學こくがくがくこんごうれいせいこととげよんねんはい翰林かんりんちょく學士がくしせい誥同おさむ國史こくしみことのり赴吏試用しよう廕補かんしょゆうかりあるやまい其太ひろし曰:「こんはつしつらえ此法,冀將來者らいしゃ習詩しょれいみみ必責效目ききめぜん也。」眾乃ふく

すめらぎけい元年がんねん,陞翰りん侍講じこう學士がくしのべゆう元年がんねんあらためしゅうけん侍講じこう學士がくしけん國子くにこさいしゅねんなつうつやまし滿まんしろ,四方來學者益眾。ろくねんそつ于家,ねんななじゅうろくおくどおりたてまつ大夫たいふふとしつね禮儀れいぎいん使まもるぐんついふうじょうとうぐんこうおくりなぶん懿。

野性やせいひらけさとしこころざしおもむき正大せいだいこと繼母けいぼ以孝聞,文辭ぶんじ典雅てんが一本いっぽん於理。

えき,蘄州そうかん判官ほうがん簡,ちゅうたてまつ大夫たいふ、奎章かくさむらいしょ學士がくしどうけいむしろごと

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紹字はくむね東平とうへいたいらかげじんよう穎悟えいごさとさとししたがえ東平とうへいけんがくいえひん教授きょうじゅ鄉里きょうり學者がくしゃ咸集。いたりもとさんじゅういちねん,纂修實錄じつろくちょうめい儒充しょく,以馬紹、けんこも,授將つかまつろう翰林かんりん國史こくしいん編修へんしゅうかんちょく學士がくし姚燧よくためし其才,凡翰りん應酬おうしゅうぶんせきじゅう餘事よじ,併以づけこれ紹援ひつたてなり,併以わらしんひうち驚喜きょうき曰:「いい名下みょうげきょ也。」

大德だいとくねん,聞祖ははやましふくじょ編修へんしゅうかん,陞將つかまつろうろくねん,陞應たてまつ翰林かんりん文字もじななねん,遷太つね博士はかせきゅうねんちょうははゆうるいおこりふくおわり不能ふのうだつ至大しだいさんねん,仍授ふとつね博士はかせかいうけたまわことろうよんねん,陞承ちょくろう翰林かんりんまちせいすめらぎけい元年がんねん,遷國ぎょうのべゆうさんねん,陞奉せい大夫たいふ國子くにこさいしゅ。夙夜孳孳,おもんみ教育きょういく人材じんざい為心いしんよんねん十二月じゅうにがつ,陞朝れつ大夫たいふどう僉太つね禮儀れいぎいんごとろくねんあらため翰林かんりんちょく學士がくしふく以疾かえななねん,召為翰林かんりんちょく學士がくしいたりねん,陞翰りん侍講じこう學士がくしせい誥同おさむ國史こくしさんねんつげろう而歸。たいじょうさんねんはちがつそつねんななじゅうさん

つとむかげちちしょくどうしょ暨州ごと

これみことのり平日へいじつ以其せいぐうごとゆうゆうしょうだんゆえごうはてとき以自勵。ゆう文集ぶんしゅうぞう于家。

校勘こうかん[编辑]

  1. 附會ふかいもとこよみ)〔こよみもとさら日立ひたち)〔だてほう みち光本みつもとあずか元名もとな臣事しんじりゃくまき一三引楊恭懿墓誌合,したがえ改正かいせい
  2. 四大しだい)〔さんしょうなんきず 從道つぐみち光本みつもとあらため。按本書卷しょかんさんれきこころざしゆうてんごとまことみつ,雖四大三小庸何傷」。
  3. じゅう二年以昭文館學士領太史院事召 按元ぶんるいまきろく0姚燧楊恭懿神どういしぶみさくじゅうねん召。明年みょうねん,以昭ぶんかんだい學士がくしせい大夫たいふりょうたいいんごと召」。此處ここだっ「召。明年みょうねん」,とげじゅう三年事誤繫二十二年。
  4. じゅうろくねん 按上ぶんゆうちゅうすべ年號ねんごう此處ここらとうゆういたりもとこうやめこう
  5. (澧)〔灃〕かわ まき校勘こうかん[いち]。したどうるいへんやめこう
  6. しょうおうむらみち)〔けい〕滹沱 よりどころもとぶんるいまきひとしくつけんかくまもるけい行狀ぎょうじょうあらためるいへんやめこう
  7. きゅう)〔まるひょう みち光本みつもとあずかもとぶんるいまきひとしくつけんかくまもるけい行狀ぎょうじょうあいしたがえあらため
  8. はじめようじょうせい)〔ついたち〕 みち光本みつもとあずかもとぶんるいまきひとしくつけんかくまもるけい行狀ぎょうじょうあいしたがえあらためほん書卷しょかんさんれきこころざしゆうゆうれき以來いらいしも訖麟とく而定さくはじめぎょう」。
  9. またひゃくさんじゅうろくねん みち光本みつもとあずかもとぶんるいまきひとしくつけんかくまもるけい行狀ぎょうじょうあいしたがえ
  10. つちのえさる夜半やはんじゅうななこくはん〕 よりどころもとぶんるいまきひとしくつけんかくまもるけい行狀ぎょうじょうるいへんやめこう
  11. みずのと丑日うしのひ夜半やはんはちじゅういちこくはん〕 よりどころもとぶんるいまきひとしくつけんかくまもるけい行狀ぎょうじょうるいへんやめこう
  12. あずか)〔つきしょくしょう みち光本みつもとあずかもとぶんるいまきひとしくつけんかくまもるけい行狀ぎょうじょうあいしたがえあらため
  13. みなおやみさおふご(牐)〔鍤〕倡工 みち光本みつもとあずかもとぶんるいまきひとしくつけんかくまもるけい行狀ぎょうじょうあいしたがえあらため
  14. はなはじむ曾孫そうそん碩德せきとく 「曾」とうさくげん」。まきいちいちろく校勘こうかん[さん]。
  15. 詢知はつため璠子 うえぶんいいはつため璠從まごあずかあおがけしゅうまき五先君墓碣銘符,此作「璠子」,あやまみち光本みつもとしたがえるいへんあらためため」。
  16. よじりゅう)〔うろこ〕 したがえきたかんほんあらため

ほん明朝みんちょう作品さくひんざいぜん世界せかいぞく公有こうゆう领域いん为作しゃ逝世やめ经遠とおちょう过100ねん

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