げんふみ/まき176

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 まきいちひゃくななじゅう もとまきいちひゃくななじゅうろく
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まきいちひゃくななじゅうなな 

曹伯けい もとれい おうひさし おう倚 りゅうただし しゃゆずる かんわか ちょう魯 りゅういさおゆたか じょうおそとくまこと はたおこりむね

曹伯けい[编辑]

曹伯けいひらけすみやすし碭山じん弱冠じゃっかんしたがえ東平とうへいけんゆうあつし於問がくいたりもとちゅうつかまつためらんけいぬし簿じょうぬすめさんじゅう,械徇もろはくけい以無ひだりけんひつじしんじにわかぬすめじょう以是黜。るい遷常しゅう推官,ごうみんかぶと,恃財殺人さつじんまいないつくだきゃく誣伏,はくけい讞得其情,とげすわかぶと殺人さつじんざい。遷河みなみしょうごとうてなしゅうちゅうはんのぼる霄、れんおとずれ使おう俁交こも,擢拜西臺にしだいあらためごとせき陝自もと衡倡道學どうがくきょう多士たしはくけい請建ほこらりつがく,以表其績,朝議ちょうぎ。涇陽みん誣其いん不法ふほうはくけい覈實,抵民ざい。四川廉訪僉事闊闊木,[1]以苛こく聞,はくけい糾黜

のべゆう元年がんねん,陞內だいごと,遷刑さむらいろう丞相じょうしょうてつ迭兒せんせいいちにち,召刑曹官ぞくとい曰:「西にしそう訟某つみなにためひさどる?」眾莫敢對,はくけい從容しょうようげん曰:「おかせざい赦前。」丞相じょうしょう雖甚いか,莫之だつ也。あてひらたいんぬすめかんぜにてつ迭兒よく併誅もりしゃはくけい不可ふかつえこれはちばんそち擅殺,おこり釁,朝廷ちょうていやめようそちだい矣,いのちはくけい往詰其事。つぎ沅州,みち梗,はくけいおそれへい往則かれおどろきはた致亂,乃遣れい楊鵬,單騎たんき往喻しんそち,備得其情,とめそうすわぜんそち擅興ざいへんみん以安。大同だいどうせん慰使ほうゆるがせ魯丁,なぐうんみねきたかてさいすうまんせき,肆為欺罔,るい贓鉅まんあさ廷遣使とくちょう前後ぜんご受賂,みなはんためゆうげん最後さいごはくけい往,其人やめ,喻其子弟してい曰:「まけかんぜに,雖死必徵,あずか其納まいない於人,曷若つぐなえ於官。だいじょうなんじちちしょまいないすうかんためちょう。」しょ受賂しゃみな懼,而潛まいない於其ため鈔五ひゃくあまりまん緡,みん逋負而無しゃそくれつじょうあずかめんだし為真ためざにじょうそうかんなおひろし簡,みん甚安

のべゆうねん,遷司のうすすむたてまつむねいたりこう浙議しおほうやめ檢校けんぎょうかんおけろくくら於浙ひがし西にししつらえうんしおかん,輸運有期ゆうき出納すいとうゆう船戶ふなとくら吏盜うりしつしゃゆうばつかえりむくいちょためれいひろはい南臺みなみだいしょさむらいいんごと:「あげきよしげきにごぞくざいだいけんしょ枉赴愬者,實則さねつね直之なおゆき,妄則ろん可也かなりこん訟寃一切いっさい不問ふもんあに風紀ふうきじょうせい乎?」にわかくらい

えいむねりつ,召拜山北やまきたれんおとずれ使敕建西山にしやまふつ宇甚亟,史觀しかんおんやつ)〔とう[2]以歲ひだる,請緩近臣きんしん激怒げきどじょう聽,とげ誅言しゃはくけい曰:「主上しゅじょう聰明そうめい睿斷,不可ふか以不いさかい。」迺劾だいしん緘默かんもく使つかい昭代しょうだいゆうころせ諫臣みかど為之ためゆき悚聽。にわかはいしゅうけん學士がくしだいさむらいゆうみことのりどうかんてい大元おおもとどおりせいはくけいごと:「けいしゃけいとうこん黥杖やく於千さとそとひゃくいち生還せいかんしゃいち人身じんしん備五けい五刑各底於人也。ほうとう改易かいえき。」丞相じょうしょうかいはくけいじょ浙西かどおとずれ使はてぎょう

たいじょうはつ,引年きたゆうゆう鄉社ごうしゃ,碭人けんひょうしょきょため曹公さとはくけいせいそう肅,たてまつきよやく在中ざいちゅうだいところすすむ名士めいしゆうため侍讀じどく學士がくし考試こうしこくしゅりょおもえまこと、姚紱。雲南うんなん僉事范震ごとおさむしん欺上罔下,むくい,范飲恨死,はくけい其事,しょ于太しんしゅうしゅうりょえい剛直ごうちょくざいはくけいしろ其枉,しん擢風けん。其好あきらぜんりつるい此。

てんれきちゅうおこりはくけいため淮東かどおとずれ使陝西せんせいしょ道行みちゆきだいちゅうすすむ使つかいえきあつしはくけい喟然曰:「われねん且八じゅうなお忘知どめ戒乎!」おわりおこり一時いちじいのちしゃいんしょうまましくらい天下てんかだかいたりじゅんさんねん長子ちょうしふるえとおるそつ于毗りょうはくけい往拊明年みょうねんがつそつ于毗りょうねんななじゅうきゅうゆう詩文しぶんじゅうかんごうかんいずみ漫藳,ぞくしゅうさんかんぎょうろくにんまごじゅうにんみなあらわつかまつ

もとれい[编辑]

もとれい庭訓ていきんじょうじん資性しせい莊重そうちょうつばめきょ妄言ぼうげんわらいれきえきしゅうだい都路みやこじ儒學じゅがく教授きょうじゅ,遷太つねふとししゅく,陞博士はかせていせん聖德せいとく神功じんぐう文武ふみたけ皇帝こうていあきら睿順せい皇后こうごうひろしそう文惠ふみえあきらこう皇帝こうていみことおくりなしょう功德くどくからだせい溫雅おんが。請諡圜丘,しょう祔太しつ禮文れぶん其所しょうじょう

もと貞元さだもとねん,擢拜かん察御彈劾だんがいしょかいたわわねんゆうむねけん五臺山ごだいさん佛寺ぶつじ皇太后こうたいごうしょう臨幸りんこうもとれいじょう疏曰:

古人こじんゆうごと曰:なまみん利害りがい社稷しゃしょく大計たいけいおもんみしょ見聞けんぶん而不がかりしょくしゃどく宰相さいしょうとくぎょう,諫官とくごとこん朝廷ちょうていしつらえ諫官,しょくとうげんそく諫官也,がらす坐視ざし得失とくしつ而無一言いちげん,以裨益ひえきせいまんふん一哉かずや伏見ふしみだい創建そうけんてら宇,土木どぼくすんできょう工匠こうしょう夫役ぶやくしたすうまん附近ふきんすうしゅうけんきょうおくはんじゅう男女だんじょはいたがやせひゃくぶつおどりとうと民有みんゆう聊生しゃ矣。
ふく聞太きさき親臨しんりんだい布施ふせきんぬさこう福利ふくり,其不可ふか行者ぎょうじゃゆうとう盛夏せいか,禾稼かたしげる百姓ひゃくしょう歲計さいけいぜんおおせ秋成あきなり扈從こしょう經過けいかせんじょうまん蹂躪,一也かずやふとしきさき春秋しゅんじゅうやめだかおやろう聖體せいたい往復おうふくあつすう千里せんり山川やまかわ險惡けんあく避風けいおかせきりまん一調養失宜,悔將なん及,也。今上きんじょうとうたから以來いらい遵守じゅんしゅ祖宗そそうなりほう正當せいとう兢業もちみつるこれにち上位じょうい舉動,必書簡冊,以貽まんせいのりしょ而不ほうはた焉用三也みつやおっとざいてんくだみな於民,今日きょう支持しじ調度ちょうどぽう曩時ひゃくばい,而又ろうみんきずざい,以奉土木どぼくよん也。ふつほん西方にしかた聖人まさと,以慈悲じひ方便ほうべんためきょうあずかものきそえ,雖窮天下でんかちん玩奇たから供養くよう不為ふため;雖無一物為獻而一心致敬,また不為ふためいかいまふとしきさきため國家こっかため蒼生そうせいたかしたてまついのりぶくぶくあきら受,而先ろう聖體せいたいせい天子てんし曠定しょうれい,軫思おやなつけ也。ふくねがい中路なかじかいながえ端居はしいふかみや,儉以やしなえとくせい以頤しんうえ以循さき皇后こうごう懿範,以盡せい天子てんし孝心こうしんしも以慰元元もともともち。如此,のりいのりぶく而福いたり矣。

たいしん敢以聞。

大德だいとく元年がんねんさむらい萬僧與御史中丞崔彧不合,まいかく取前とりまえあきらふうにゅうそう曰:「ちぇなかすすむ私黨しとう漢人かんどため大言たいげんそしふつむべけんてら。」みかどだいいか近臣きんしん齎其あきら,敕右丞相じょうしょうかんさわたいらあきら政事せいじゆるがせとう鞫問,ゆるがせ以國やく而讀かんさわ曰:「其意ただしあずかわれどう,往吾嘗以此諫,ふとしきさき曰:『わがけん此寺,ぶた以先皇帝こうていざい,嘗許為之ためゆきなんじしょ知也ともや。』」彧與萬僧面質於完澤,ゆるがせ抗言こうげん曰:「懼不肯言,おもんみいち敢言,まことしょう也。」かんさわひとし以章上聞じょうぶんみかど沉思良久よしひさ曰:「げん是也これや。」乃罷まんそう復元ふくげんれいしょくいくあらため國子くにこつかさぎょう,以疾そつおくちゅう大夫たいふ翰林かんりんちょく學士がくしけいくるまじょうついふう隴西ぐんこうはしつかまついたりれい尚書しょうしょ

おうひさし[编辑]

おうひさしじんきょう,涿郡新城しんじょうじんよう穎敏嗜學,ちょう以通國字こくじため中書ちゅうしょじょうすんで而用朝臣あそんこもにゅうさむらいひろしそう,眷遇特異とくいいたりもとじゅうきゅうねん,授兵部員ぶいん外郎ういろうじゅうねん,陞吏ろうちゅうじゅうよんねんふんおけ尚書しょうしょしょうとげかわじゅうはちねんやめ尚書しょうしょしょうかえり中書ちゅうしょふくにん吏部ろうちゅう。以壻やすしさとゆるがせようとうみちそくまぬかれ明年みょうねん,授大つかさみのりすすむ赴。

げんさだねんためつばめ南河みなみかわ北道きたみちれんおとずれ副使ふくし大德だいとくねんゆるがせため中執ちゅうしつほうふく棄官さんねん,授集けんちょく學士がくし,秩滿,就陞侍讀じどく學士がくしにわか擢御だいさむらいろんごと剴切がいせつろくねんがつ,召壽たてまつこう江南えな,徧祠だけ鎮海瀆。みつむね去歲きょさい風水ふうすいためわざわい百姓ひゃくしょう艱食,凡所經過けいか聽入たい使つかいかえそう:「みんびょう,繫於官吏かんり善惡ぜんあくざいいまむべせんこうかどざいみきそんこころあいぶつしゃせんなでつよし方正ほうせいだいふか識治からだしゃきょかぜけん天災てんさいだいゆうにぎわいずみ以時,ろうきよしおもんばかおもんみごうみぎいえ,仍據けんようとうやめ其職,しょ京師けいし,以保全ほぜん,此長久之ひさゆき道也みちや。」

はつことぶきあずかたいしんそう:「宰相さいしょう內統百官ひゃっかんそとひとし四海しかいみことにんじゅう不可ふかけいかり非人ひにんさんだい以降いこう國之くにゆききょうおとろえみん休戚きゅうせきゆうよししょうしんかしこいや也。はつおけ中書ちゅうしょしょう,以忽魯不はなとう察兒、せんしんやすわらわはくがおとうため丞相じょうしょうてんさわりゅう秉忠、れんまれけんもと衡、姚樞とうじつ左右さゆう當時とうじしょうからさだかんもり。迨至おもね合馬おうま、郝禎、耿仁、さかえくわ哥、忻都とう,壞法黷貨,りゅうどく億兆おくちょうこんしゃおもねゆるがせだいはくがおはちからしおもねさととうせんせいあふ惑中きんいくゆら神器じんぎ君子くんし小人こどもやめためしけん,較然如此。しんねがい推愛くんおもえ治之はるゆきこころよこしませい互陳,成敗せいばいたい舉,庶幾しょきじょうさとるてん衷,懲其既往きおうしょ進退しんたい天下てんかことしたがえ而理也。」きゅうねん參議さんぎ中書ちゅうしょしょうごとじゅうねんあらため吏部尚書しょうしょ

じゅういちねんたけはじめ即位そくいしゅおがめちゅうすすむいくさらはいひだりすすむにわかふくはいちゅうすすむ至大しだいねんさんがつやましもとめだいさんねんなつ,遷太子たいし賓客ひんきゃくあつまりけん大學だいがくあききゅうがつそつねんろくじゅう明年みょうねんおくぎんあおさかえ祿ろく大夫たいふたいらあきら政事せいじうえばしらこくあざみこくおおやけおくりな文正ふみまさ

おう[编辑]

おう倚字輔臣,其先ひがし萊人也。ちち永福えいふくかねまつ避地徙燕,ためあてたいらちょせい富雄とみお閭里。倚為じんこう友樂ゆうらくえきじゅう然諾ぜんだくあずかひと交,苟合;讀書どくしょつとむ躬行きゅうこうせんごと章句しょうく選良せんりょう家子いえこにゅうさむらい東宮とうぐう倚年弱冠じゃっかんざい眾中かんどくえらふとしりゅう秉忠ふか重之しげゆきそく以充せん。倚服つとむもりつとむとげ信任しんにんゆうみことのり皇太子こうたいし裁決さいけつ天下でんかごと。凡時政所まんどころきゅうみん瘼所がかり,倚知不言ふげん官職かんしょく備,而湯沐分邑,こうことしげるとうゆうすべぞく,乃拜倚工尚書しょうしょぎょう本位ほんいずいみんたくみそうかん

いたりもとじゅういちねんみことのりりつ東宮とうぐうかんぞく,以倚ためすすむまたおけもうかようてのひら貨幣かへい出納すいとうれい倚兼こう以疾辭職じしょく,仍給太子たいしすすむ祿ろく,以優やしなえこれ。倚上ごと:「事事ことごと而苟竊祿しょくしんこころまことしょやす。」もとちからさいよんぽうもとじゅうろくねん皇孫こうそん鎮懷はじめみかどためせん老成ろうせい練達れんたつ舊臣きゅうしんまもる,乃以ぞく倚,陛辭,みかど良久よしひさいい侍臣じしん曰:「倚,おさむきよしじん也,左右さゆう皇孫こうそんとくじん矣。」及行,營幕所在しょざい軍政ぐんせい肅然しゅくぜんいく召還しょうかん

じゅうはちねん,授禮尚書しょうしょ,以疾明年みょうねんそつねんじゅうさんおくせい大夫たいふれい尚書しょうしょついふうじぶとげんぐんこうおくりなちゅう肅。にんおおとり異樣いようそうかんそうかん

りゅうただし[编辑]

りゅう正字せいじきよしきょう清州きよすじん也。としじゅう讀書どくしょ,習吏ごとはつ辟制こくよう使司令しれい,遷尚しょ戶部とべれいいたりもとはちねんやめしょみちてんうんだてきょくこうかく逋欠,せいてのひら其事。だいうんまけぎんひゃくよんじゅうななじょう,逮繫倪運使とうよんにんちょうほん歲入さいにゅう簿せきじつしょまけひさしけつせい察其寃,へん閱吏牘,とくいたりもと五年李介甫關領課銀文契七紙,適合てきごう其數,けん其字みなからしとくやわら所書ところがき也。からしひん窘,やめとみ,交結けんたか,莫敢誰何すいかせいかどとく其實,はじめしろ尚書しょうしょ鞫之,悉得ぎんからしすんでふく辜,而よんにんしゃく正由まさよし知名ちめいてん樞密院すうみついんれい,辟掾中書ちゅうしょ

じゅうよんねんふんしょうじょうかい諸王しょおうむかし里吉さとよし叛,いたりきょいさおせきもりしゃつげぜんゆう警急,使つかいしゅうと退すさせい曰:「しょくとうすすむ而弗往,いたりしゃえきおびえ矣。」馳出はせだしせき至上しじょうあたりはた請黃白金はっきんたかしせんしょうおもしゃつげとぼし中書ちゅうしょげきこうづくりきゅうこうみかど以為欺罔,よくつめせい曰:「ぐんしょうたかそくさきづくりしるし而後禀命,あに不可ふか乎!」帝釋たいしゃく

じゅうねん,擢左つかさごとときおもね合馬おうまとうくにあずかこう淮行しょうおもねさとはくちぇあきらゆうすき,誣以ぬすめかんかてよんじゅうまんいのち刑部おさかべ尚書しょうしょちゅうあずかせいはせえき往按其事,ごくどるおもね合馬おうまふく北京ぺきんゆきしょうさん政事せいじちょう澍等よんにんざつ治之はるゆき,竟置にん于死,せい乃移やましかえ

じゅうはちねんしるしためひだりいん外郎ういろうじゅうきゅうねんはるおもね合馬おうま併中しょ左右さゆうつかさ為一ためいちとげため左右さゆういん外郎ういろう三月さんがつおもね合馬おうまはい魯霍まごためみぎ丞相じょうしょうふくためひだりいん外郎ういろう,謁告九月くがつ中書ちゅうしょでんむねただしあずか參政さんせい咱喜魯丁とう偕至みかどまえもん曰:「なんじとうみなとう於阿合馬おうまのう無罪むざい乎?」せい曰:「しん嘗阿おもんみほうしたがえみみ。」かい日暮ひぐれくるまかえ內,俱械繫于闕東すき。踰數日すうじつかんとうふく誅,ふく械繫せい于拱まもる魯霍まご曰:「うえ嘗謂りゅうただしころも白衣はくいぎょうすみあなじゅうねんいい廉潔れんけつしゃ。」乃免

じゅうねんはる樞密院すうみついんそうため經歷けいれき,陞參議さんぎ樞密院すうみついんごとじゅうねんくわ哥既りつ尚書しょうしょしょう,擢為戶部とべさむらいろう,陞戶尚書しょうしょ。嘗舉覈河あいだしおうんかん虧課ごといくおちい于罪,乃移やましじゅうはちねんくわ哥敗,かんさわため丞相じょうしょうふく擢為戶部とべ尚書しょうしょ,陞參議さんぎ尚書しょうしょしょうやめ,仍參議さんぎ中書ちゅうしょしょうごと湖南こなみせん慰庶いんそう廕不誣告ぶこく其兄匿亡そう官金かんきんせい其誣,つみ,仍官其兄。すみ南張なんばりどう知子ともこもとめためりょう淮運使せい其不たたえどるあずかちょうとげさく飛語ひご搆其ごとみかど召正つめ曰:「匿金ごとざいみぎそう廕事ざいひだり參議さんぎ乃幕ちょうみぎ而舉ひだりやすし無私むし乎?」せいべんおりあきらこととげしゃく

さんじゅうねんだいそうためさむらい中書ちゅうしょしょうそうため吏部尚書しょうしょやめ而復とめためさむらい,遷江南こうなんこうだいちゅうすすむ大德だいとく元年がんねんあらためどう樞密院すうみついんごとひろため雲南うんなんゆき中書ちゅうしょしょうひだりすすむみぎすすむせわし兀突魯迷しつ請征はるせい以為不可ふかにわか俱被ちょうまた極言きょくげん不可ふかしたがえはてこう雲南うんなんみんとし金銀きんぎんきんちゅうけいじょう邑戶こうのり詭稱逃亡とうぼう,甸寨とおしゃ季秋きしゅうそくかんりょうへい往徵,人馬じんば芻糧,往返これさい以萬けいしょかん必重まいないしょうしん,乃得徵收ちょうしゅう金銀きんぎんすう,必十,而拆閱之すうまた如之;其送迎そうげい饋贐,また如納かんすうしょしゃまた以銅ざつぎんちゅう納官のうかんせいくび疏其へいきゅうかんばかり,俾土かんまいかん輸納,其弊はじめかわはじめいたりかんもうか𧴩ひゃくななじゅうまんさく白銀はくぎんひゃくじょうよんねんとく𧴩いちせんななじゅうまんさくかねひゃくじょうぎんさんせんじょう

ななねんあきかえ清州きよすはちねんろくがつ,以左すすむぎょうしょう江西えにしふゆじゅうがつあらためこう浙。たけはじめ即位そくい,召為中書ちゅうしょひだりすすむ,陞右すすむねんたて尚書しょうしょしょう[3]こんやめかえじんむね即位そくい,召諸老臣ろうしんにゅう國事こくじせいまい闕言八事やごと:一曰守成憲,曰重しょうだいさん曰辨よこしまただし,四曰貴名爵,曰正かんろく曰開げんなな曰慎賞罰しょうばつはち曰節財用ざいようかいぎょう赦改もとしゅうぎょう

ひとしそうはつせいふうどう天下でんかせいあずかしょ老臣ろうしんひねさんちからきょるい致仕ちしもとはいさかえ祿ろく大夫たいふたいらあきら政事せいじ中書ちゅうしょしょうごととき經理けいり河南かなん、淮、浙、江西えにし民田たみだぞうちゃしおがくせい極言きょくげん不可ふかどるしたがえとし大旱たいかんむぎこくしゅ不入ふにゅうたいしんごと,燮理其人,かんよこしまこうむ蔽,みん寃滯,感傷かんしょう和氣わきしょ致。ゆうむね會議かいぎたいらあきらはじめ曰:「燮理せめ,儒臣どくはじめ一人ひとり,請避けん。」たいらあきらゆるがせひのと曰:「たいしん不能ふのう明察めいさつ奸邪,臧否時政ときまさかえつめ。」せいげん:「たいしょう一家いっかとう同心どうしんけんじかえぜん而行,あにようぶん耶!」はじめゆらくび,竟如ゆるがせひのとごとみぎ丞相じょうしょうじょう迭兒でんむねれんおとずれけんふとしじゅう按事しつ自今じこんもと專決せんけつろくひん以下いかかんたいらあきらゆるがせひのとはじめはたぎょうせいげん:「ただしとうひとほう不可ふかえき也。」こととげのべゆうろくねんそつおくせんりょくさん功臣こうしんひかり祿ろく大夫たいふつかさはしらこくちょうこくおおやけおくりなちゅうせん

秉德,かん祕書ひしょかんすすむれきへいこうさむらいろう為安ためやすけいそうかん;秉仁,以廕ためちゅう書架しょかかくかん勾,るいかんこう尚書しょうしょ致仕ちし

しゃゆずる[编辑]

しゃゆずるなかかず,潁昌じんよしゆうざいいさむきむ貞祐ていゆうあいだため義軍ぎぐんせんゆずるよう穎悟えいご好學こうがく,及壯,推擇ため吏,せん司令しれいくにへいそうたてゆき中書ちゅうしょしょう於江西にしゆずる以選ためれい調しらべ河間こうまとうてんうんしお經歷けいれき

さきかまどざい軍籍ぐんせきしゃ,悉除其名,以丁多寡たかためがく輸鹽,其後顧舊だいため煑鹽,而顧ぜに甚薄。ゆずるげん:「ぐんすんで落籍らくせきためみんとうあずかきゅうかまどひとしやくすんでれい代役だいやくあによろしふくうす其傭,使つかいおもこま乎?自今じこん顧人,必厚あずかちょく,乃聽。」さき逃亡とうぼうりつれいつつみおさめ其鹽,ゆかりごう強者きょうしゃ以計まぬかれ,而貧じゃくいよいよこまゆずるれいけんぶつりょく多寡たか甲乙こうおつ以均

擢南だい,舉湖廣行ひろゆきしょうたいらあきら政事せいじ哈剌哈孫こたえ剌罕ため大夫たいふ山東さんとうれんおとずれ使ちんたかしさちためちゅうすすむみぎいん外郎ういろうだか昉可にんかぜけん。劾江浙省しん聽詔きょう及不法事ほうじみかど使つかいざつとえすんで款服,みことのりれい讓與じょうよ俱來,にんみな危之,ゆずる恬然てんぜんわか無事ぶじしゃだいつな以之えき

大德だいとくあいだみことのりりつ陝西せんせいゆきだい,以讓ためごと,凡御ふうあきら及文うつり,其可一決いっけつ于讓。にゅうため中書ちゅうしょしょうみぎつかさごと,遷戶部員ぶいん外郎ういろうときひがししょうくもゆたかとう州民しゅうみんひだる,乞糴鄰郡,憲司けんじ懼其販鬻ため,閉其糴,こと聞于あさゆずるしつらえ法立ほうりゅうきん,閉糴しゃ有罪ゆうざい,三州之民賴以全活者甚眾。

よんねん,授宗せいろうちゅう,擢監察御,遷中しょしょうみぎいん外郎ういろうため廣行ひろゆきしょう左右さゆう司郎しろうちゅうどき廣西ひろせりょうこう岑雄、せいもととう,屢相讎殺,ため患。ゆずるいい:「此曹だい懷柔かいじゅうむべちからきそえひろし其法以羈縻之,使つかいいたり跳梁ちょうりょう可也かなりわか乃舍中國ちゅうごく有用ゆうようみんそうえんあら不毛ふもうちょうさく也。」いんしょ榜招さとし,以攜其黨。みずうみ廣宣ひろのぶ慰使はりこく建言けんげん江南こうなんなつみつぐゆずる極言きょくげん其非便びん。遷河南かなんゆきしょう左右さゆう司郎しろうちゅうこう淮屯戍軍じゅうあまりまん親王しんのうぶん鎮揚しゅうみな以兩淮民ぜいきゅう不足ふそくのりこげ於湖ひろ江西えにしとし會計かいけいりょう淮,僅少きんしょうさんじゅうまんせきゆずる請以淮鹽さんじゅうまん引鬻おさむ其價鈔以きゅうぐんしょく不勞ふろうどおうん公私こうし便びん

至大しだい元年がんねんうたて戶部とべさむらいろうとききょうくら主計かずえ吏,以倉廩多ひびおもんみひさまい壞,請覆ぬかしいな其上,いんもめしょべいちゅう,以給內外こうじん宿衞しゅくえいしゃゆずる察其奸,以藳秸易,奸弊悉除。ねんはい西臺にしだいおさむしょさむらいさんねんはいしょさむらいうえあらためどう樞密院すうみついんごとひろ拜戶はいど尚書しょうしょひとしそうざい東宮とうぐう,以讓さきあさ舊人きゅうじん,召見たまものしゅ,以示眷注。よんねんあらため刑部おさかべ尚書しょうしょ

じんむね即位そくいゆずるせい大夫たいふにゅうしゃたまもの以巵しゅゆずる痛飲つういんみかど曰:「ひとげんろう尚書しょうしょいんなにいん耶?」ゆずる曰:「きみたまもの敢違也。」すくなころよい不能ふのうりついのち扶出つばさゆずるしゃみかど曰:「ろう尚書しょうしょまこといん也。」はつ尚書しょうしょしょうしん搆殺留守るすていおもねしかおもえらんせき其家,中外ちゅうがい寃之;尚書しょうしょしょうやめゆうちょく其寃しゃゆずるあきら其事,以所せき貲產きゅうかえこれゆうむね:六部事疑不決者,須讓ども,而後上聞じょうぶん。於是戶部とべさらてい鈔法,れい正禮しょうふだぶんゆずるみなあずか焉。刑部おさかべゆうあんゆずるしょ,而誤ようしるし,吏懼,とげわたしこうゆずるしょことさとしそん於事,且憐吏以ざいはいとげ曰:「われしょ也。」其寬厚かんこうるい此。ゆずるじょうげん:「古今ここんゆう天下でんかしゃみなゆうりつ以輔堂堂どうどうせいあさ,詎可無法むほう以準使つかい吏任其情、みんかか其毒乎!」みかど嘉納かのう。乃命中書ちゅうしょしょう纂集典章てんしょう,以讓せいりつがく使つかいため校正こうせいかんたまものあおねずみ裘一かさねさむらいえんふくろくかさね

ねん朝廷ちょうてい以吏とどこおこと[4]せめ曹案如程しゃれいしたゆずる曰:「けいごくぜにこく、銓選ひろし以歲がつなおおもんばかしつあにりつ以常ほう乎!」乃入しろ于宰しょう,曰:「尚書しょうしょごと是也これや。」ゆかりけい獨得どくとくせめ稽違。はい陝西せんせいゆきしょうさん政事せいじいくはい西臺にしだいさむらいいのちはじめみことのりやめ西臺にしだいふくりつ,就拜さむらいよんねんじゅうがつそつ于官,ねんろくじゅうゆうろくおくせいたてまつ大夫たいふ河南かなんゆきしょうさん政事せいじついふうひねとめぐんおおやけおくりなけんきよし好古こうこたてまつせい大夫たいふくつがえじつつかさひさげ舉。

かんわか[编辑]

かんわかまれけん定滿さだみつしろじんゆかりたけまもる授通めぐみかわどうしょごとひらきかわ有功ゆうこうみことのりたまものにしきころもいちかさね。遷留守司もりじごとひろ陞經れきあざみしゅうあらため中書ちゅうしょひだりつかさごとときかんしょう昏鈔しゃほっのうめいがい以所しょう鈔為にせ鈔,使つかいかんしゃ誣服。ごくすんでわか其寃,くつがえこれとくめん死者ししゃじゅう餘人よにん。遷刑ろうちゅうつつみ舉諸たから鈔庫,擢吏ろうちゅう

じんむね即位そくい故事こじ,凡潛てい官吏かんりつぎ遷轉,わか歲月さいげつてい其資ひんとげちょためれいすめらぎけい元年がんねん,遷內だいごとあらため刑部おさかべさむらいろうひろ擢中しょひだり司郎しろうちゅうとききん民田たみだりょうはんしゃ抵死。わか曰:「むかしひとしせんおう囿,ぽうよんじゅうころせ其麋鹿しかしゃ,如殺じんつみ孟子もうしこれ。」眾以ためしかとげけい其刑。とき參政さんせい曹鼎しん辭職じしょくみかど曰:「わかこうかんわかれんつとむあし矣,なにようため!」つぎいのちわか參議さんぎ中書ちゅうしょしょうごとてつ迭兒ためみぎ丞相じょうしょう,以憎あい進退しんたい百官ひゃっかん,恨若おのれ以事,みかど其枉,聽。拜戶はいど尚書しょうしょのべゆうろくねんいのち河間こうまとうしゅう輕重けいちょうかくとく其情,ふくはい參議さんぎ中書ちゅうしょしょうごと丞相じょうしょうてつ迭兒ふく入相いりあい,以舊憾誣わかざいよくころせこれみかどしたがえふくそうだつ其官,除名じょめい歸鄉ききょうさと

いたりさんねんみことのりゆき其寃。たい定元さだもとねんいのちふく其官,ひろはい刑部おさかべ尚書しょうしょ,遷湖こうしょうさん政事せいじくだりあらため詹事すすむはちがついのち宣撫せんぶこう浙,ふくとめためさむらいときひだり丞相じょうしょうたおせ剌沙擅威ぶく,以事誣侍また憐珍とうしも樞密すうみつごく敢言其寃,わか以計そうひだり丞相じょうしょうたおせ剌沙ためみぎ大夫たいふ,其事とげかいさんねん,擢浙西にしれん使くだりはい河南かなんしょうひだりすすむかいぶんそうひら內難,わか畫策かくさくちゅうみかど嘉之よしゆきすすむせい大夫たいふ

てんれきさんねん,遷淮西にしこう北道きたみちれんおとずれ使九月くがつ,以疾そつねんろくじゅうはちおくとく大夫たいふこう浙等しょゆき中書ちゅうしょしょうひだりすすむうえまもるぐんついふう南陽なんようぐんおおやけおくりなさだ肅。

ちょう[编辑]

ちょう魯字希顏きがん,霸州ぶんやす縣人けんじんちち趾,祕書ひしょしょうかんおくれい尚書しょうしょ魯為じん風采ふうさいはしそうざいふとしがく力學りきがく如寒のべゆうはつためきょうぶんしょすすむねん,遷將さくいんあきらすりななねん,辟為だいじょう中書ちゅうしょしょうじょう,於朝廷ちょうてい典章てんしょう故實こじつ律令りつりょう文法ぶんぽう練習れんしゅう。臨事明敏めいびん果斷かだん執政しっせい。及典銓選,たいらまこと無私むしにん不服ふふく。擢工主事しゅじ,遷中しょしょう檢校けんぎょうかん,咸著のうめい

たいじょうちゅうはいかん察御とき大禮たいれい舉,魯言:「天子てんしおやほこら郊廟,所以ゆえんどおりせいまことぎゃくぶく釐,なま烝民,阜萬ぶつ,百王不易之禮也。むべ鑒成けんこうもとめ故事こじたいえつ以格じゅん嘏。」みかど嘉納かのう焉。もとゆうれい禁中きんちゅういのち有司ゆうしはりとうやまためらく魯上ごと:「つばめやす怠惰たいだはじめ荒淫こういんもとたくみちん玩,はつ奢侈しゃしはしかんとうごと雖微,而縱耳目じもくほっのりじょう累日るいじつがつあかり。」疏聞,遽命やめこれたまもの魯酒いちじょうみこと,且命大夫たいふでんむね,以嘉忠直ただなお

宰相さいしょうたおせ剌沙みつせん命令めいれい使つかい中外ちゅうがいあずか魯又じょうげん:「いにしえ人君じんくんはたゆうげん也,必先おもんばかこれ於心,咨之於眾,けつ於故ろう大臣だいじんしか斷然だんぜんくだりきよしわかあせ不可ふかはんゆうどくしん咨眾はかりごとしゃ也。」ほうたおせ剌沙雖剛狠,またふく其敢ごとゆうちょうねん致仕ちし,其子請預かげ其官,而執政しっせいしゃ為之ためゆき魯駁其非,こととげどめ。遷樞密院すうみついんごとあらためほんいん經歷けいれき。致和はつ,陞奉せい大夫たいふ參議さんぎ樞密院すうみついんごと

てんれきちゅう,遷樞密院すうみついん判官ほうがんあらため兵部ひょうぶさむらいろうちょうちちゆう特旨とくしおこりためどう樞密院すうみついんごと固辭こじ就。ふくじょふくため樞密すうみつ判官ほうがんもち節治せつじ四川しせん軍馬ぐんばさとしじょう威德いとくだい閱于郊,ひろし簡有ほう士卒しそつふところ其恩しんいく,遷中じゅん大夫たいふ刑部おさかべさむらいろう樞密院すうみついんふくそうため其院判官ほうがん久之ひさゆきため河間こうまうたてうんしお使じょがいきょう法度はっとおさむ飭,ぜっ巡察じゅんさつ奸,しょうしゅうけんくりやでんおくのここれかまど商人しょうにん不便ふべんさいとげだいぞうひままたわりおのれ俸,りつ僚吏しん孔子こうしびょういのち吏往こうみぎせい雅樂ががく,聘工春秋しゅんじゅうしゃく奠,ろんしょう

魯由したがえかん久典ひさのりきむこくまいうつうつらくやましあつし,棄官歸京ききょういたりもとさんねんきゅうがつそつねんじゅうゆうさんおくよしみ大夫たいふれい尚書しょうしょ天水てんすいぐんこうおくりなぶんきよし

りゅういさおあつし[编辑]

りゅういさおゆたかじゅんはじめだい興人こうじんおこり中書ちゅうしょしょうせん使大德だいとくじゅういちねん,以年ろう,授從つかまつろう、內宰つかさあきらみがけかんけんきょうせいみやまた調しらべうけたまわつとむろうてのひらしょれいいく,陞奉くん大夫たいふ、內宰つかさすすむたてまつちゅうむねしるし河南かなんみん逋糧,とくゆたか輒平其價,れい鈔以つぐなえみん甚便ふく陞朝れつ大夫たいふのべ福司ふくじすすむたてまつむねだいほこらだけ瀆。かえ,遷中けん大夫たいふどう知大ともひろ都路みやこじそうかんごと。輦轂したきょうおくひろししげるとくゆたか措置そちゆうほうみんよう擾。遷甄ようしょうかん,陞亞ちゅう大夫たいふれいさむらいろうふく陞嘉大夫たいふどうじょう都留つる守司もりじごとしょうげき糴糧,みん以價不時ふじ,遞相觀望かんぼうとくゆたかれい曰:「かていれ,吏有敢為かんいへいしゃつみ。」於是かて踰期而集。うたてだいつかさみのりすすむこうせきいちとくぬるほしこうてい典禮てんれいしゅうためなりしょ畢,にわか授通大夫たいふながたいらそうかん

えいひらとうてんれき兵革へいかくきょみんとくゆたか為政いせいいちねん[5]而戶こうぞうくら廩實,とげきょう學校がっこう以育人材じんざい,庶事畢舉。とし大旱たいかん,禱而さい以不歉。灤、うるし二水にすいためがい有司ゆうしとしはつみん築堤ちくていとくゆたか曰:「流亡りゅうぼうはじめしゅう,而又やく是重これしげこまみん也。」とげやめ其役,而水またふくいたりゆうごうみん武斷ぶだん于鄉さとぜん吏莫敢治,とくゆたか按得其罪,ろん如法にょほうつえしょ其過于門,竟以みちふく誅。ながたいらちくこく也,くにはつこおりまもる楊阿だい請于あさ[6]おくりなはくえびす曰清めぐみ,叔齊曰仁惠じんけいためびょう以祠,而祠れいなお也。とくゆたか請命有司ゆうし春秋しゅんじゅうろうれい致祭,したがえこれちょためしきたまものびょうがく曰聖きよしろん韙之。

いたりじゅんよんねんそつねんろくじゅうきゅうおくせい大夫たいふれい尚書しょうしょうえけいくるまじょう、彭城ぐんこうおくりな清惠きよえ

じょうおそとくまこと[编辑]

じょうおそとくまことしんじはじめ,絳州じんてんさわつかまつきむためかんぐんおうたいまご拔絳しゅうてんさわざい俘中,みちへい死者ししゃ,輒涕泣收瘞之,おびまごれい佩金,授雲しゅう御衣おんぞきょくじんたくみそうかん[7]ちち鼐,つかまついたり潞州しゅう

とくまことれきかん太子たいしりつさらすすむ至大しだい元年がんねんあらため詹事いんごとねん,遷家れいつかさすすむじんむね以為謹恪,つねたまものしゅ帛,とくさむらい左右さゆうかずこもそく嘗語じんちょう事前じぜんゆうあわなえたね而萌偶出,いちくきそう,眾以ためよしみ禾,陞家れいよんねんせんため河東かとうさん西道さいどうせん慰司どうげきかん吏,ひろしぜい斂,上計あげ京師けいしにゅうみかどかたしょくたまもの以餕あまり,擢工尚書しょうしょはいあらため陝西せんせいゆきだいしょさむらい

のべゆう元年がんねん,遷京畿都こげうん使ねんはい遼東りゃおとんどう肅政かどおとずれ使うえ疏言ごと,其略曰勞諸王しょおう以懷其心,ぼう出入でいり以嚴みやきんたて諫官以遠いえん讒佞,たかし舉以求人きゅうじんざいたてつねひら備荒びこうねん,汰僧どう以寬民力みんりょく,舉賢りょう以勵忠孝ちゅうこうそもそも奢侈しゃし以厚風俗ふうぞく,及拯鈔法、たっ冗官じょうかんとうごとほう而卒,ねんじゅうさん

はたおこりむね[编辑]

はたおこりむねもときょう,其先じょう黨人とうじん徙廣ひらめふかし)〔洺〕みずけん[8]曾大ちちとうかねへいおこり,窾山麓さんろくためほらたてまつ其親以居,はた窾大ほら,匿其さとちゅうひゃくにん閉之,うししゅまちへいへいにゅうさくおもんみ其親ぞく,曰:「孝士たかし也。」しゃく里人さとびと曰:「はたちちせい。」

おこりむね生長せいちょうへいあいだがくしょしたがえとくちちじゅんそぎやなぎため簡,うつし以授なり誦,そぎさらしょとしじゅうななかいりつこうむ古學こがくがく輒成,辟武まもるやくちゅうすすむとう察兒あい其才,遷中だいわけ[9]尚書しょうしょしょう專制せんせいさらちょうおこりむねぶん嚴密げんみつしょ泄。

じんむね即位そくいやめ尚書しょうしょしょうてん中書ちゅうしょわけ[10]るい太子たいし家令かれいてん簿かんうえごと:「東宮とうぐうかんぞく輔導ほどう德義とくぎざいところおさむ也。」朝廷ちょうてい。遷南だいたてやすしみずあるじつわざわい而有そもそもあるわざわい而訴わざわいおこりむね微行びこうとくじつにん以為神明しんめい

ぶんそうはつだていのちじゅんおうせいはちばんしょくしょうじょうだいこばめいのちひらめおこりむね極言きょくげんたけあきら重鎮じゅうちんとう備上りゅう親王しんのう不可ふかとおちからどめ。及王いれみかどいい曰:「はちばんこれぎょうはたもときょういくためしつけい。」其後はちばんかえ敢擾於道路どうろしゃ朝議ちょうぎ以起宗治むねはるしょく幕府ばくふ忘其めい,曰秦もときょうみかど引筆あらため曰起むね,其眷ちゅう如此。はい中臺ちゅうたい,劾中すすむ和尚おしょう受人婦人ふじん、賤買けんかんほうおこりむねしたがえだいかんいれ,跽辨久之ひさゆき,敕令おこりおこりそうおこりかい日暮ひぐれ明日あした立太子りったいしゆう赦,おこりそうまたそう:「つみ和尚おしょう以正國法こくほう。」和尚おしょうふく辜。みかど曰:「ためとう如是にょぜ矣。」もとかいたまものただまごふくれいあずかだいうたげまた劾閩けんぼく咱耳竊父わらわ以逃,其父憤死ふんし,瀆亂てんつねりゅうみねみなみつきげんいみなみな聽用。ゆうそういちかん

遷都せんとこげうん使みかど召諭曰:「こげ輸事はい闕,よりゆき治之はるゆきなんじ。」だしためなでしゅうそうかんいたりかん有司ゆうしきょうちょう甚盛,もん其費しょしたがえ小吏しょうり敢隱,曰:「辦於みん。」とげ亟使,几席僅給而已。かん僚佐ゆうえんしゅうなりれいそくとめよしさとし眾曰:「わがもと農家のうかやす儉約けんやくつとむ安靜あんせい,庶使われみん。」きょいちさい,以老かん明年みょうねん,以兵尚書しょうしょ致仕ちしきょいちさいそつおくりなあきら肅。

よんにんひとし,銓,鐸,鏞。ひとし西臺にしだい;鏞,のべ徽寺經歷けいれき;銓,しょうじょう;鐸蚤そつ

校勘こうかん[编辑]

  1. 四川廉訪僉事闊闊木 ほん書卷しょかんいち按札でんゆう「授闊闊朮かんちゅうれんおとずれ僉事」。按廉おとずれ僉事がかり肅政かどおとずれかん陝西せんせいかん中道ちゅうどう肅政かどおとずれ曾隸陝西せんせい四川しせんゆきしょう。「とうかかりうけらなまり
  2. 觀音かんのんやつ)〔〕 よりどころほん書卷しょかん七英宗紀至治元年二月丁巳、まききゅうやすしていみかどきのいたるさんねんじゅう二月己未條及卷一二四塔本傳附鎖咬兒哈的迷失傳改。るいへんやめこう
  3. ねんりつ尚書しょうしょしょう 按元たけはじめたて尚書しょうしょしょうことざい至大しだいねん此處ここらしつしょ年號ねんごうみち光本みつもとさく至大しだいねんふくりつ尚書しょうしょしょう」。
  4. 二年朝廷以吏多滯事 こううん:「あん此傳じんむね即位そくい以後いごちょ年號ねんごうだつ文也ふみや。」
  5. とくゆたか為政いせいいちねん はらそら闕,したがえきたかんほん
  6. 楊阿だい 按本書卷しょかんいちよんとうほんでんとうほん,「ひと以其こうあげじんぜんしょう曰揚こう」。おもねたいがかりとうほんまご,如冠以其たたえとうさくあげおもねだい」。うたぐ「楊」ためあげなまり
  7. くもしゅう きたかんほんさく「霍州」。
  8. 廣平ひろへいふかし)〔洺〕みずけん よりどころどうえんるい稿こうまき四三秦起宗神道碑改。按本書卷しょかんはち地理ちりこころざし,洺水,はらさと廣平ひろへいしゅうぞくけん
  9. 遷中だいわけ みちえんるい稿こうまき四三秦起宗神道碑云:「以通習國文字もじいれかんゆかりたけまもるだい留守るす陞太だい中書ちゅうしょしょうやく。」よりどころ
  10. てん中書ちゅうしょわけ 見本みほんまき校勘こうかん[きゅう]。

ほん明朝みんちょう作品さくひんざいぜん世界せかいぞく公有こうゆう领域いん为作しゃ逝世やめ经遠とおちょう过100ねん

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 まきいちひゃくななじゅう かえしかいいただき まきいちひゃくななじゅうなな