げんふみ/まき186

維基文庫ぶんこ自由じゆうてき圖書館としょかん
 まきいちひゃくはちじゅう もとまきいちひゃくはちじゅうろく
列傳れつでんだいななじゅうさん
まきいちひゃくはちじゅうなな 

ちょう楨 かえり暘 ちんじん なる遵 曹鑑 ちょう

ちょう[编辑]

ちょう楨字やくなか,汴人。よう刻苦こっく讀書どくしょのぼりもとすべ元年がんねん進士しんしだい,授彰とくろくごと,辟河南かなんゆきしょうじょう。楨初めと祁氏,祁生富家ふうか,頗驕たて楨貧,不為ふためれいごう卺踰がつそく。祁之けい訟于かん,且污楨以黯昧ごと左右さゆうかん聽之,楨因うつやまし不出ふしゅつとどこおあん俱積。たいらあきら政事せいじがつ魯帖いか曰:「ちょう楨,つよしかい也,あになんじ曹所とう耶!」ろうちゅうとらしゃ禿かぶろ謁而しゃ,乃起。范孟ためみだれ,矯殺がつ魯帖とう城中じょうちゅうだい擾,楨暮よるすがじょういずるとくめん

踰年,じょだか郵縣いんもん無私むし謁。縣民けんみんちょうひさげりょうなおにん俠,武斷ぶだんきょうきょくいちにちいたりけんゆうしょしょく,楨執つき其罪じょう里中さとなか受其そもそもしゃ,咸來訴焉,乃杖而徙にん以為かいまもりじょうせんいぬつまちぇため其小しょ譖,しいたげ,其鬼憑七歲女詣縣訴楨,備言じょうしかばね瘞舍,楨率吏卒そく其所,はつとくしかばねかかわいぬ及小,鞫之,みなふく辜,にん以為神明しんめい焉。

るいじょちゅうせいいん判官ほうがんいたりせいはちねんはいかん察御,劾太じょうおもね乞剌欺罔つみ,并言:「明里あけさとただしおもね、也里きばつき魯不はなみな陛下へいかきょう戴天讎,はくがおぞくころせ宗室そうしつよしみおう、郯王いちじゅうくち,稽之いにしえほうとうふくもん誅,而其(つま兄弟きょうだいなおつかまつ于朝,[1]むべきゅう誅竄。べつおびえはなおもねけんかんまたむべとお貶。こんわざわい迭見,盜賊とうぞく蜂起ほうきうみ寇敢於要くん,閫帥敢於玩寇,わか不振ふしん舉,こわゆうとうまつはん噬臍ぜいせいわざわい。」聽。

及毛とうとおちい山東さんとううえ疏陳じゅうわざわい根本こんぽんわざわいゆうろく征討せいとうわざわいゆうよん歷數れきすう其弊:いち曰輕大臣だいじん曰解けんつなさん曰事安逸あんいつよん曰杜げん曰離人心じんしんろく曰濫けいごく所謂いわゆる根本こんぽんわざわいろく也。其言ごと安逸あんいつわざわいりゃく曰:「しん伏見ふしみ陛下へいか以盛ねんにゅう纂大すべくつ艱難かんなん而登大寶たいほう因循いんじゅん治安ちあんあずかぼうおもんばか寬仁かんじん恭儉きょうけんやや如初。こん天下てんかいい多事たじ矣,うみ內可いいやすし矣,天道てんとういいへんつね矣,民情みんじょういいなん矣,陛下へいか警省ときせん兢惕厲之也。陛下へいかむべ臥薪嘗膽がしんしょうたん奮發ふんぱつ悔過,おもえ祖宗そそう創業そうぎょうなん,而今墜亡えき,於是而修じつとくのり以答天意てんい,推至誠しせいのり以回人心じんしん。凡土木どぼくろう聲色こわいろこうつばめやすし鴆毒戒,みなよろしつう撤勇あらためゆう不盡ふじんしゃまたむべぼうほろもりやや,而禁於未然みぜん,黜宮おんなせつ浮費,かしこてん恤人。而陛乃安焉處,如天太平たいへい無事ぶじ,此所謂いわゆる根本こんぽんわざわい也。」いたりわかまき調度ちょうど羣策,不明ふめい賞罰しょうばつ將帥しょうすい所謂いわゆる征討せいとうわざわいよん也。其言不明ふめい賞罰しょうばつわざわいりゃく曰:「しん伏見ふしみ調ちょうへいろくねんはつ紀律きりつほうまたげきすすむむべ將帥しょうすいいんはいためこうゆびむなしため大小だいしょうしょう謾,上下じょうげしょう,其性情せいじょう不一ふいつ,而邀こうもとめしょうそくどう以有くつがえぐんはたざんみんはた怯懦きょうだはた貪婪どんらんはた,曾無懲戒ちょうかいしょけいしょにわとりけんいちそら,貨財俱盡。及其めん諛游せつはん克復こくふく受賞じゅしょうこん克復こくふく,悉為あら墟,河南かなんつつみふうさんせんあまりさとこおりけん星羅せいら棋布,さい輸錢こくすうひゃくまんけい,而今所存しょぞんしゃふうおかのべとうふうじ、偃師さんよんけん而已。りょう淮之きた大河たいがみなみ所在しょざい蕭條しょうじょうおっとゆう有人ゆうじんゆうざいしかもち軍旅ぐんりょとぼし,餽餉竭,こん寇敵やめいたりさかいかたにんごといたりしょゆう寒心かんしん,如此而望軍旅ぐんりょとぼし,餽餉竭,使つかいてんあわゆうきん朝夕ちょうせき存亡そんぼう不能ふのうたもてきょう以地(ちから)〔かた有限ゆうげんこれ[2]而供將帥しょうすい無窮むきゅうよく哉。其為けいらんかいまたやめ危矣。陛下へいかごとふつもとめぶくめしそうけし,以天壽てんじゅぶし而禁ほふおさむみな虛名きょめい也。こん天下てんか殺人さつじん矣,陛下へいか泰然たいぜん,而曰われはた以是もとめぶくぶくなん而至哉。潁上寇,はじめゆい白蓮びゃくれん,以佛ほうさそえ眾,おわりかざりけん,以兵抗拒こうきょ其所むこう駸駸しんしんかしこ,其勢いたり於亡われ社稷しゃしょく、燼吾國家こっかやめ也。堂堂どうどう天朝てんちょうおもえやすしみだれ,而反ためかいみだれ,其禍いたりむご,其毒いたりふか,其關繫至だい有識者ゆうしきしゃ為之ためゆき扼腕やくわん有志ゆうししゃ為之ためゆき痛心つうしん,此征討せいとうわざわい也。」疏奏,しょう權臣けんしんあく其訐じき

じゅういちねんじょ僉山南道みなみどう肅政かどおとずれごといたりそく劾中しょさん政事せいじ也先はな樞密院すうみついん副使ふくしだつだつしょさむらいやつやつろうけんあやま國之くにゆきざいまたほうほうただし,孛羅じょう駐兵ちゅうへい大同だいどう,察罕じょう駐兵ちゅうへい洛陽らくよう,而毛よりどころ山東さんとういきおい京畿けいき,二將玩寇不進,ぽう以爭すすむ、冀為事しごと,搆兵しょうおさむ,互有勝負しょうぶ朝廷ちょうてい乃遣也先はなだつだつやつやつ往解すんで受命じゅめい前進ぜんしん。楨又げん其「むさぼ懦庸ひなび,苟懷安之やすゆきけい憂國ゆうこく致身ちゅう朝廷ちょうていしょう使いえしゃく憾,きょうこころ討賊,此國大事だいじいいよろしふうはせでんはし,而乃迂回うかい退すさ懾,枉道のべやす以西いせいにょうきょくすう千里せんり遲遲ちち而行,使つかいりょうぐん日夜にちやかたきころせはじむ庶肝のうぬりじつさんにんこれしょ致也,むべきゅう殛之,以救危」。またほう。楨乃慨然がいぜん嘆曰:「天下てんかごと不可ふかため矣。」そく辭去じきょきょ河中かわなかやす邑山谷間たにまゆいちがや僅容ひざゆうおとずれこれしゃふくごと時事じじただしたい流涕りゅうてい而已。

じゅうよんねん,孛羅じょうはん闕,皇太子こうたいしきょ冀寧,そうじょさんぜんまたじょ翰林かんりん學士がくしみなおこり。擴廓じょうはた輔皇太子たいしにゅう討孛じょう使つかいでん皇太子こうたいしむねたまもの以上いじょうみこと,且訪時事じじ,楨復しょ曰:「こんつばめちょうひとし魯之さかい大河おおかわ內外,ちょう淮南ワイナンきた,悉為おか墟,せき陝之所存しょぞんいくこうひだりおもえ荐食うえこく,湘漢荊楚がわしょくいんめい僭號,こうわがゆうへんわがおそれごうこくみぎぞくさんせい二王におうとくおもえれん於趙,寇、賈之於漢乎?京師けいしいちざんかりゆう不逞ふてい,崛起草きそうさわ名義めいぎみこと君父くんぷ,倡其せつ於天ごうはたなに以處乎!まもり京師けいししゃのう不能ふのう,禦外侮がいぶしゃのうしん不能ふのう退すさ紛紛ふんぷんせきせき神分かみわけこころざしだつ國家こっかことのう不為ふためごうゆう乎!こころざし曰『不備ふびおそれ不可ふか以為』,ぼく惓惓ためげんしゃけんじ忠之ただゆき道也みちやしかためげん大要たいよう有三ゆうぞう君父くんぷ一也かずや;扶社稷しゃしょく也;衞生えいせいれい三也みつや。請以近似きんじしゃひね其一まもるおおやけよりどころこくいたり於不ちち其父;ちょうゆうすなおかへん,其臣なり、兌平不可ふかいいこう,而後いたり於不くん其君;から肅宗りゅう播之ちゅう,怵於よこしまはかりごととげなりれい武之たけゆき篡。千載せんざいした,雖有さとしべん百出ひゃくしゅつ不能ふのうためゆき嗚呼あああに以不鑒之乎!しかわれ聞之,てんこれしょはい驟也,驟其とくこころざし,肆其ちょうらく使つかい忘其覺悟かくごしん安之やすゆき也,あつ其毒而降ばっ也。てんとげ其欲,みんいや其汰,而鬼しんどるぶく也。其能ひさ乎?ごうらんかん焉,はかりごと萬全ばんぜんのりぜん矣。詢之輿こしきゅうのり其變不測ふそくじょのり其釁必起,つう往來おうらい使つかいたち其上下之したのじょうとく其情,のりとく其策矣。孔子こうし曰:『くんくんしんしんちちちち。』こん九重在上者如寄,あおみやざいしたしゃ如寄,なまみんゆう國家こっか也,ふかおもえ而熟けい哉!」擴廓じょうふかおさめ其說,用事ようじかつゆうなりこうさんねんそつ

かえり[编辑]

かえり暘字彥溫,汴梁じんしょうせい,其母楊氏ゆめあさ日出ひので東山とうざんじょうゆうけい雲來うんらい掩之,めい暘。がく師傳しでん,而精さとひとのぼりいたるじゅん元年がんねん進士しんしだい,授同潁州ごと,鉏奸げききょうにん敢以年少ねんしょうえき山東さんとうしおそういたり潁,恃勢ため不法ふほう,暘執以下いかごくどきしゅうけんたてまつしお甚謹,頤指いし使,輒奔走ほんそう,暘獨不為ふためこごめうたてだい都路みやこじ儒學じゅがくひさげ舉,うえ

いたりもとねんじゅういちがつ,杞縣じん范孟はかりごと不軌ふきいつわりためみことのり使いたり河南かなんしょうちゅうころせたいらあきらがつ魯帖ひだりすすむこうれつれんおとずれ使かんしゃはなそうかん撒里あさ,召官ぞく及去しゃしょ而用,以段輔為ひだりすすむ使つかい暘北もり黃河こうがこう,暘力こばめしたがえぞくいか,繫於ごく,眾叵測所為しょい,暘無懼色。やめ而賊はい,污賊しゃみなざい,暘獨めんどうさとゆうくれ炳者,嘗以翰林かんりんまちせいちょうおこりぞくよび炳司とりれき,炳不敢辭。時人じじん為之ためゆき曰:「かえり暘出かく炳無こう。」暘自此名譽めいよ赫然。明年みょうねんうたて國子くにこ博士はかせはいかん察御,及入しゃだいしんそう曰:「此即河南かなんこうぞくしゃ也。」みかど曰:「好事こうじきょうよろしかず為之ためゆき。」たまもの以上いじょうみことやめ而辭かん養親ようしん汴上,おやすんで歿,いえしょく久之ひさゆき

いたりせいねんじょ僉河みなみれんおとずれごと[3]行部ゆくべ西京にしぎょう,以法なわちょうおうかんぞくむさぼ暴者,おう三遣使請,不為ふためどうせんやすしけんゆう殺人さつじんしゃづる引數ひきすうじゅうにんいち讞得其情,つきしゃく。沁州民しゅうみんかくなかだまためじんしょころせ有司ゆうし以蒲察山とうこれ,暘察其誣,蹤跡とく其殺じんしゃやまとげ不死ふしろくねんうたて僉淮あずまれんおとずれごとあらためせんぶんかくかんしょ博士はかせけんけいむしろやく文官ぶんかん

ななねん,遷右つかさごとじゅんこう酋長しゅうちょうらくまごもとめ內附,請立宣撫せんぶ,及置ぐんけんいちじゅうさんしょ,暘曰:「古人こじんゆうごとむち雖長,及馬はら使つかいぐんけんはてしつらえ有事ゆうじすくえのりらいすくいのりやめ中國ちゅうごく而事がいえびす所謂いわゆる虛名きょめい而受じつわざわい也。」あずかひだりすすむりょおもえまこと抗辨こうべん甚力,丞相じょうしょう太平たいへいわらい曰:「ごとぜん戇如此,なにしょうこう乃爾よこしましか其策はてはた焉出?」暘曰:「其酋ちょう宣撫せんぶ,勿責其貢使者ししゃたまもの以金帛,あし矣。」そつしたがえ暘言。京師けいし苦寒くかんゆう丐訴丞相じょうしょうまえ丞相じょうしょうさくかわふく,仍覈在官ざいかん所藏しょぞうがわふくすう,悉給貧民ひんみん。暘曰:「宰相さいしょうとう以廣ずみ天下でんか為心いしんかわふくのう幾何きか,而欲きゅうよこしま!莫若ろくかんひだるしゃややにぎわいみみ。」丞相じょうしょうさとる而止。雲南うんなん叛,みことのり元帥げんすいじゅつりつ遵道往喻いくいのちたいらあきら政事せいじまた渾將へい討之,ことひさしこう二人ふたりじょう疏紛紜,中書ちゅうしょよくざいじゅつりつ,暘曰:「かれごとしろ,而專ざいいちにんあにほう乎?きょう一諭之而一討之,かれはたなにしょ適從てきじゅうしかまた使者ししゃつみ也。」みずうみ廣行ひろゆきしょうひだりすすむすなはんそつ,其子すなてきぽうため中書ちゅうしょじょう,請奔丞相じょうしょう以沙てきゆう兄弟きょうだいもと,暘曰:「こうしゃにん同情どうじょう,以其ゆう兄弟きょうだい而沮其請,所以ゆえん孝治こうじ天下でんか也。」とげしたがえこれこううみ猺賊入寇にゅうこうみことのり朵兒ただ)〔はんはたおもえ播楊元帥げんすいぐん以討[4]暘曰:「えきぐん而將諳教れいこわ不能ふのう決勝けっしょう若命わかめい楊就すべ其眾,かれえつ於恩いのち,必能こう所謂いわゆる以夷狄攻夷狄いてき中國ちゅうごく利也としや。」みかどしたがえこう竟無こう

はちねん,陞左いん外郎ういろう中書ちゅうしょよう暘言,そん河間こうまあまりしお萬引まんびき以裕みんこうぞぬさ壅不ぎょう,廷議こうじぬさ五百萬錠易銀實內藏,暘復不可ふか曰:「富商ふしょうだい賈,つきえき其鈔於私しょうみんなん哉!」ろくがつ,遷參議さんぎ樞密院すうみついんごとどきかたこくめずらしみことのりこう浙行しょうさん政事せいじ朵兒ただ)〔はん〕討之,一軍いちぐんみなぼつ,而朵ただ)〔はんしょうざい,暘曰:「將之まさゆきしつ,其罪かたとうしか所部ところぶみな北方ほっぽう習水せんこれ死地しちみみむべつの海濱かいひんみん習水利者きけものとりこ。」すんで而國めずらしひとしたがえ朵兒ただ)〔はんはし京師けいし請降,暘曰:「くにちんやめはいわが王師おうしまたかかわわがおうしんちからこごめ而來,しんくだ也。必討以令四方しほう。」朝廷ちょうていかたごと姑息こそくそつしたがえ其請,はて屢叛,如暘ごと。遷御うてなごとにわかふく參議さんぎ樞密院すうみついんごと十二月じゅうにがつ,陞樞密院すうみついん判官ほうがん

きゅうねん正月しょうがつてん河西かさいれんおとずれ使うえあらためれい尚書しょうしょかいひらきはし本堂ほんどう皇太子こうたいし就學しゅうがく,召暘ためさんぜんいく,遷翰はやしただし學士がくしどうおさむ國史こくし,仍兼まえしょく。暘言:「師傅しふとうあずか皇太子こうたいし東西とうざいしょうこう授書,其屬また以次れつすわきょ中座ちゅうざ,以待至尊しそん臨幸りんこうしかのり師道しどうたて矣。」眾言人人ひとびとことそつしたがえ暘議。にわか以疾やめみかどひだり司郎しろうちゅうちょう璉賜しろ金文きんぶんあやぎぬ受。はつ,暘在うえだつだつあましゅうかえ,且入しょう中書ちゅうしょ參議さんぎちょう頤、員外いんがいろうきび謁暘わたしだい,致脫だっめいじぞくくさみことのり,暘辭曰:「丞相じょうしょうはたためしゅう事業じぎょう入相いりあいみことのりとういのちしんくさこんぞくひつ於暘,おそれるい丞相じょうしょう賢也けんや。」頤曰:「わかみかどいのち為之ためゆき奈何いかん?」暘曰:「事理じりじゅんまたとう固辭こじ。」頤知不可ふかこごめ,乃已。じゅうねん正月しょうがつ,遷四川行省參知政事,じゅうねんのぞき刑部おさかべ尚書しょうしょじゅうねんさいじょ刑部おさかべ尚書しょうしょ,凡さん遷,みな以疾

じゅうななねん,授集けん學士がくしけん國子くにこさいしゅ使者ししゃせり,暘輿やましいたり京師けいし于南じょうおこりときうみ內多,暘上さんさくいち曰振紀綱きこう,二曰選將材,さん曰審形勢けいせい。亹亹すう千言せんげん以為老生ろうせい常談じょうだん不能ふのうよう十一月じゅういちがつ,以集けん學士がくしとく大夫たいふ致仕ちしきゅうはん終身しゅうしん受。明年みょうねん,乞骸こつ,僑居ひろしゅう,徙蔚しゅうまた徙宣とくみなあいだせき避兵,ひろ大同だいどう,及關陝小やすし來居くりいかいなつけん皇太子こうたいし冀寧,つよおこりきょすうがつふくかえなつけんじゅうななねんそつねんろくじゅうさん

ちんひとしおうへりくだこころざし[编辑]

ちんじんやま,汴人也。其父安國やすくにつかまつためつねしゅうすすむりょういんじんせい嗜學,はやしたがえ南方なんぽうゆう文名ぶんめい

いたりせい元年がんねん舉復ぎょうじん春秋しゅんじゅう中河なかがわ南鄉なんごうみつぐ明年みょうねんかいこころみざい前列ぜんれつ,及對策たいさくだい廷,とげさきがけ多士たしたまもの進士しんし及第きゅうだい,授翰はやしおさむせんどうせい誥,けん國史こくしいん編修へんしゅうかんれきふとしびょうしょれいふとしつね博士はかせ,遷翰りんまちせい山東さんとう肅政かどおとずれごと,擢監察御ふくため山北さんぽく肅政かどおとずれ副使ふくし,召拜翰林かんりんちょく學士がくし,陞侍こう學士がくしじょ參議さんぎ中書ちゅうしょしょうごと

じゅうねんがつみかどよくおさむうえみや闕,こうやくだいきょう仁上にがみ疏,其略曰:「古人こじんくん不幸ふこうぐう艱虞多難たなんこれ,孰不よく奮發ふんぱつ有為ゆういなりこう,以光ふく祖宗そそうこれぎょう。苟或じょうたてまつ於天どうしも不順ふじゅん於民しん緩急かんきゅうしつよろし,舉措とう,雖以此道もちみつる守成しゅせいなおある致亂,而況よくばち亂世らんせいはんせい乎!おっとうえみや闕,はじめ先帝せんていおさむ於累あさけい兵火へいか,焚燬殆盡,しょにんごと,此陛所為しょい日夜にちや痛心つうしんしょむべ亟圖きょうふくしゃ也。しかこん四海しかいやすしかさ痍未瘳,倉庫そうこつげむなし財用ざいようはた竭,乃欲つかれみん以供大役たいやくはい其耕耨,而荒其田そのだうねなに扼其ふえ而奪くえ,以速其斃乎!陛下へいかついおもんみ祖宗そそうみや闕,ねん茲在茲,しかおもえ今日きょうしょとうきょうふく,乃有だい於此しゃ假令たというえみや闕未ふくかたさまたげ於陛しょ使つかいいん而違天道てんとうしつ人心じんしんある致大ぎょう隳廢,則夫のりお天下てんかしゃまた祖宗そそう天下てんかなまみんしゃまた祖宗そそうなまみん陛下へいかまたやすにん而輕(じゅう)〔棄〕乎![5]ねがい陛下へいか以生やしなえ民力みんりょく為本ためもと,以恢復かいふく天下でんかためつとむ信賞必罰しんしょうひつばつ,以驅さく英雄えいゆうおや正人まさととおよこしま佞,以圖はかりごとどうおっと如是にょぜのりうけたまわ平之ひらのかん不日ふじつ咸復,詎止うえみや闕而やめ乎!」疏奏,みかど嘉納かのう

じゅうさんねん十二月じゅうにがつはいしょさむらいとき宦者正使せいしほおはなあずか宣政のぶまさ使槖驩,內恃皇太子こうたいしそとゆい丞相じょうしょう搠思かんおごほしいまま不法ふほうかん察御でんこうゆずるうえあきら暴其,忤皇太子たいし左遷させん吐蕃せん慰司經歷けいれき。它御れんあきらろん諫,みながいじょ仁上にがみ疏皇太子たいしごと:「糾劾槖驩、はなかんよこしまとうごと,此非わたしげん,乃天下之したの公論こうろんだいしん審問しんもんゆう悉,ふる以上いじょうけいこん殿下でんかたまものしょう察,輒加沮抑,擯斥ひんせき詰責きっせきだいしん使つかい姦臣かんしん蠹政じょうとくたち於君ちちのりまた矣。おっと天下でんかしゃ祖宗そそう天下てんかだい諫者,祖宗そそうこれしょ建立こんりゅう,以たてほろ,而於天下でんかおもたい諫之ごと一切いっさい卹,どく不念ぶねん祖宗そそう乎!且殿下職したしょくぶんとめ於監こくなでぐんといやすぜん而已,此外予奪よだつ賞罰しょうばつこれけん自在じざい君父くんぷ今方いまがた毓德春宮とうぐう,而使諫臣ゆいしたきょうじん肆志,あにおもんみ君父くんぷようきょ,而天蒼生そうせいまたはた奚望!」疏上,皇太子こうたいしいかれい大夫たいふろうてきすなさとしひとし,以謂「たいしんしょげん雖是,ただし槖驩とう俱無ごと糾言不實ふじつやめあずかじょむかしひろしそうため皇太子こうたいしけん中書ちゅうしょれいくるる密使みっし,凡軍國重くにしげごとごう奏聞そうもんしゃ,乃許上聞じょうぶんどくわが今日きょう如是にょぜ也」。仁乃じんのふくじょう疏言:「しょ劾,とく田野でんやあいだ殿下でんかしょ詢,不出ふしゅつみや牆之がい所以ゆえんぜんにんしゃとめえん其姦。むかしからとくむねうんひとげん杞姦よこしまちんこと不覺ふかく』。使つかいとくむねはやさとし,杞安とくしょう杞之かんよこしま當時とうじ知之ともゆきどくとくむね不知ふちなんじこんにんまたみなかんよこしま,舉朝知之ともゆき在野ざいや知之ともゆきてん下知げじどく殿下でんか未知みちみみ。且裕むねすんでりょうぐん國重くにしげごとよろしせん閱其つなわかいたりだい諫封あきら御前ごぜんひらき拆,かり使つかい必皆經由けいゆ東宮とうぐう君父くんぷあるゆうしつ,諫臣ゆうごと太子たいししょう使聞奏乎,使つかい聞奏乎?使つかい聞奏,のりきず其父しん使つかい聞奏,のりおちいちち於惡,殿下でんかしょうやすしょしょ!如知此說,のり今日きょう糾劾あきらむべ阻矣,むべ斥矣,斥其じん而美其除,不知ふちしょげんため天下でんか國家こっか乎,ため一身いっしんかん爵乎?斥者來者らいしゃごとげんしゃ無窮むきゅう,而美じょ有限ゆうげん殿下でんかまたやすしょしょ?」じん疏既さいうえそく辭職じしょく,而御いたり吏卒みな閑。於是皇太子こうたいし以其ごと聞,ぼくはな、槖驩乃皆辭退じたい。而天子てんしれいろうてきすな諭旨ゆしじんとうじんふく上書うわがき天子てんし曰:「祖宗そそう以天でん陛下へいかこん壞亂かいらん不可ふかすくいやく,雖曰天運てんうん使しかまた陛下へいかけいしょう不明ふめいこれしょ致也。且區たてなお不能ふのうじょきょう於大おだいしゃねがい陛下へいか俯從だい諫之ごと擯斥ひんせきにんれい其以辭退じたいためめいなり其姦けい使つかいうみ內皆陛下へいか信賞必罰しんしょうひつばつにんはじめのり將士しょうし孰不效力こうりょく天下てんかぜん,而有以還祖宗そそうこれきゅう〕。[6]わかなお優柔不斷ゆうじゅうふだんのりしんやすしゆう餓死がし于家,ちかいあずかこれどうあさ,牽聯及禍,以待後世こうせい正人まさと同罪どうざい。」しょかなで天子てんしだいいか,而是さむらいこくおおとりまたうえ疏,げんにん必當斥,於是だいしんろうてきすな以下いかみな左遷させん,而祖じんため甘肅かんせいゆきしょうさん政事せいじときてん極寒ごっかんころもたん甚,以弱おんなたく於其ともしゅあつし即日そくじつ就道。

明年みょうねんなながつ,孛羅じょういれ中書ちゅうしょため丞相じょうしょうじょ仁山にやま北道ほくどう肅政かどおとずれ使,召拜國子くにこさいしゅ,遷樞密すうみつ副使ふくしるいじょう疏言軍政ぐんせい利害りがいむくい辭職じしょくじょ翰林かんりん學士がくしとげはい中書ちゅうしょまいり政事せいじ天下てんからんやめ甚,而祖じんせい剛直ごうちょくぐうごとあずかときおさむ論議ろんぎすうごう,乃超授其かいさかえ祿ろく大夫たいふ,而仍還翰林かんりんため學士がくしひろ遷太つね禮儀れいぎいん使

じゅうななねん大明だいめいへいやめ山東さんとう,而朝廷方うたぐ擴廓じょうゆうしんしんせんりつなでぐんいんそう兵馬へいば以備じん乃與翰林かんりん學士がくしうけたまわむねおうまちせい哻、編修へんしゅう肅,ふく上書うわがきごと:「こんしゃみなみぐんおかせおちいぜんひとし踰月而逼畿甸,朝廷ちょうてい雖命丞相じょうしょう也速出師すいし軍馬ぐんばすうしょう勢力せいりょく危,而中原なかはらしょぐんひだり牽右掣,調度ちょうどしつよろしきょうじょうよんめん,茫無へい蔽,むねしゃ安危あんきせいざい今日きょうしんとう以為馭天下之したのぜいとうろん其輕じゅう強弱きょうじゃく遠近えんきん先後せんごむべにかわ於一へん,狃於わだち前日ぜんじつみなみぐんへきざい一方いっぽう,而擴くるわじょう近在きんざいひじわきいきおいはた竊持國柄くにがらよろしせん於致討,のりみなみぐんどお而輕,而擴くるわじょうきん重也しげやこん擴廓じょういきおいやめきゅう蹙,而南ぐん突至,いきおいはた不利ふり於宗しゃよろしせん於救なんのり擴廓じょうじゃく而輕,みなみぐんきん重也しげや陛下へいか寬仁かんじん涵育,皇太子こうたいし賢明けんめい英斷えいだんとう此之むべしん其輕じゅう強弱きょうじゃくあらためつるさらちょう,而撫ぐんしょかんまたむべ以公天下でんか為心いしんしん時制じせいよろしこん擴廓じょうとうあずか離散りさんあにのうふくわかとめぶんばち一軍いちぐん逼襲,必就とりこ,其餘かれちゅう調ちょういちおう軍馬ぐんばれい其倍道東どうとうゆき勤王きんのう赴難,あずか也速とうこえぜいしょう援,仍遣重臣じゅうしんふんどうせんさとし催督,庶幾しょきとくよろし。如復にかわ於前せつどう以言しゃため擴廓じょうゆうせつ,而鉗天下でんかくち不幸ふこう猝有意外いがいへん朝廷ちょうていまたとく聞,而天下之したのごと矣。」しょじょうほう

十二月じゅうにがつひとしまた上書うわがき皇太子こうたいしげん:「近日きんじつくだみことのりそぎ河南かなん軍馬ぐんばこれけん,雖所當然とうぜんしか此項軍馬ぐんばおわりためみなみぐんこれしょしつらえ使其有もとぎゃくこれこころあさ廷以忠臣ちゅうしんまち,其心愧沮,はたなんしょほどこせこんゆう所見しょけん,遽以此名かれわか甘心かんしん以就此名,其害ゆう不可ふかげんしゃあさ廷苟善用ぜんようあにところすけしかひとみな知之ともゆき而不敢言しゃまことおそれ誣以受財ゆうせつ罪名ざいめいところあきらゆき也。きょう聞擴くるわじょう上書うわがき疏,あきら其心きょく其心ぜっ朝廷ちょうてい,以待朝廷ちょうていひらけさと當今とうぎんため朝廷ちょうていけいしゃたたかえもり、遷三ごと。以言乎戰,のり其掎かくいきおい;以言乎守,のりもち其勤おう;以言乎遷,のりかり其藩まもるこれりょく極力きょくりょくつとむ厲使ぎょうなおこわおそばんあに使つかいすうまんこれ,棄置於一方いっぽうとう危急ききゅうあきむねしゃ存亡そんぼう,僅在旦夕たんせき不幸ふこう一日有唐玄宗倉卒之出,のり祖宗そそうひゃくねんむねしゃ朝廷ちょうてい而棄,此時雖欲碎首ころせなにずみ於事!こんふく避忌,おもんみ以宗しゃ存亡そんぼう為重ためしげたてまつ疏以聞。」疏上,またほう

じゅうはちねんあき大明だいめいへいしんあつ近郊きんこうゆうむねいのちじん及同僉太つね禮儀れいぎいんことおうへりくだこころざしとうふとびょう神主かんぬししたがえ皇太子こうたいしきたぎょうじんとう乃奏曰:「天子てんしゆう大事だいじのりしゅ以行,したがえ皇太子こうたいし非禮ひれい也。」みかどしかこれかえまもりふとしびょう以竢いのちにわか天子てんしきた奔,じん守神まもりがみぬしはてしたがえ八月はちがつにちきょうじょうやぶはたけんとくもんため亂軍らんぐんしょがいねんじゅう

じん一目いちもくすがめ,貌寢,たんやせ,而語おときよしあきら議論ぎろんえらしかつよしただし不可ふかはんしゃ。其學はく而精,天文てんもん地理ちりりつれきへいじょう術數じゅっすうひゃくいえせつみなどおり其要。ためぶん簡質,而詩(やすし)〔きよしうらら[7]しょうでん

おうへりくだこころざし文敏ふみとし,惲之曾孫そうそん也。以廕授侍通事つうじ舍人とねりれき隰州判官ほうがんだいやすしけんいん,擢陝西行さいぎょうだいかん察御るい遷僉かんちゅう河西かさい山北やまきた三道肅政廉訪司事,にゅうためこう部員ぶいん外郎ういろう,遷禮ろうちゅうはいかん察御。劾詹ごとらん奚、たいらあきらむべわらわみな逆臣ぎゃくしん子孫しそんとうへいしょ遐裔。のぞきたいしょうかんため江西えにしかどおとずれ副使ふくし,召僉ふとつね禮儀れいぎいんごと

きょうしろもり公卿くぎょうそうへりくだしむらどく家居かきょ衣冠いかん而坐。其友ちゅうせいいん判官ほうがんおうつばさらいつげ曰:「しんあさ寬大かんだいおもんみ不死ふし,且仍與かん,盍出まいかんげんじょう。」へりくだこころざし艴然斥之曰:「きみすんで不忠ふちゅうまたさそえ人為じんい不義ふぎ耶!」いん戒其曰:「なんじ謹繼われむね。」そくとう井中いなか

なり[编辑]

なり遵字よしみ叔,南陽なんようみのる縣人けんじん也。ようさとさとる讀書どくしょ日記にっきすうせんひゃくこととしじゅうちちいえひんつとむはい學問がくもん十能じゅうのう文章ぶんしょうとき郡中ぐんちゅう先輩せんぱい進士しんし業者ぎょうしゃ,遵欲ため,以不あいほどしきため患。いちにち憤然ふんぜん曰:「四書ししょ五經ごきょうわれ也。ぶん逾於かんかんやなぎ區區くく舉之さくなになん哉。」かい楊惠はつとうだいらいいんみのる,遵乃しょ所作しょさすうじゅうへんこれめぐみなでまき大喜だいぎ曰:「以此取だい,如拾あくたみみ。」

いたりじゅんからしいたり京師けいし,受春秋しゅんじゅうぎょう於夏鎮,とげにゅうなりひとし為國ためくに子生こなじときひねたびためじょきょう其文,すう以語于奎あきらかくさむらいしょ學士がくしおそれしゅうしゅう亟欲これたびれい以己俾遵はせまいしゅうしゅうかたゆうやまし遵來,さこ而視,曰:「てきかんせいぶん今見いまみせい貌,おおやけ輔器也。われろう矣,こわ及見,なまとう自愛じあい重也しげや。」げんみつる改元かいげんちゅう進士しんしだい,授將つかまつろう翰林かんりん國史こくしいん編修へんしゅうかん明年みょうねんあずかおさむたいじょうあきらそうぶんむねさんあさ實錄じつろくこういたりもとよんねんますおうたてまつ翰林かんりん文字もじねん,辟御だいじょう

いたりせい改元かいげん,擢太つね博士はかせ明年みょうねんてん中書ちゅうしょ檢校けんぎょうひろはいかん察御扈從こしょういたり上京じょうきょううえふうごとげん天子てんしむべまき起居ききょせつ嗜慾,以保養ほようせい躬,せい躬安則宗のりむねしゃやす矣。げん甚迫きりみかどあらためようしょうぜんまたげんだい察四ごといち差遣さけんだいしんえつしょくといごと曰左遷御もりふさがげん;三曰御史不思盡言,循敍もとめすすむ;四曰體覆廉訪聲蹟不實,けん混淆こんこうみかどみな嘉納かのうさとしだいしん曰:「遵所げん甚善,みな風紀ふうききゅうぶんまわし也。」とくたまものじょうみこと旌其ちゅう。遵又げんこう火災かさいとうにぎわい卹,及劾魯忽あか不法ふほうじゅうことみなしたがえこれふくじょうふうごとげん時務じむよんこといち曰法祖宗そそう曰節財用ざいようさん曰抑奔競,四曰明激勸。そういれみかどたたえ善久ぜんく命中めいちゅうしょそく以行。これさいげんごと并舉劾凡ななじゅう餘事よじみなゆび訐時へい執政しっせいしゃあくさんねん刑部おさかべいん外郎ういろうため陝西せんせいゆきしょういん外郎ういろう,以母びょうねんちょうはは

はちねん,擢僉淮東肅政かどおとずれごとあらためれいろうちゅうたてまつ使つかい山東さんとう、淮北察守れいかしこいやとく循良しゃきゅうにんむさぼ懦者じゅういちにんそうきゅうにんしゃたまものじょうみこと幣帛へいはく,仍加あらわ擢;其二そのじじゅういちにん悉黜

きゅうねんあらため刑部おさかべろうちゅうひろ遷御うてなごとどきだいしんゆう嫉贓吏多以父母ちちははめんしゃけんろん今後こんご官吏かんり,凡被あん劾贓わたし,雖父母ちちははもとそう,須竟其獄,庶惡じんこうめん。遵曰:「惡人あくにんかたいかしかあずか人倫じんりん孰重。且國家こっか以孝天下でんかやすししつ罪人ざいにんせんひゃく不可ふか使天下でんか有無うむおや吏。」大夫たいふ其言。陞戶さむらいろう

じゅうねん,遷中しょみぎ司郎しろうちゅうとき刑部おさかべごく按久而不けつしゃせきすうひゃく,遵與其僚ぶん閱之,きょう輕重けいちょうかくとう其罪,いくのこことときゆうれい輸粟かんゆう匿其かんざい而入あわとくななひんざつ流者ながれものため怨家しょつげ有司ゆうし輸粟れいゆうあずかこれぶん,遵曰:「うれかん鬻爵,やめ盛典せいてんきょうまたうれかんあずか姦淫かんいんこれにん,其將なん以為。必奪其敕,かえ其粟,ちょためれい,乃可。」しょう臣從しんじゅうじょこう尚書しょうしょさきかわけつ白茅ちがや,鄆城、すみやすしみなためきょひたあるげんとう築堤ちくてい以遏水勢すいせいあるげん必疏南河みなみかわみち以殺水勢すいせい,而漕うん使賈魯ごと:「必疏南河みなみかわふさが北河きたがわ使つかいふくみちやくだいきょうがい不能ふのうやめ。」廷議莫能けつ。乃命遵偕だいつかさみのり禿かぶろ魯行かわ其疏ふさがこれかた以聞。

じゅういちねんはるすみやすし、曹、濮、汴梁、大名だいみょうぎょうすう千里せんり以量地形ちけい高下こうげはかきし以究水勢すいせいあさふかへん閱史せきひろしさい輿論よろん,以謂かわみち不可ふかとくふく,其議ゆうはち。而丞しょうだつだっやめ先入せんにゅう賈魯げん,及遵與禿かぶろ魯至,ちからひね不可ふか,且曰:「すみやすし、曹、鄆,れんとし饑饉ききんみん聊生,わかじゅうまんにん於此こわ後日ごじつゆうまたゆうじゅう於河患者かんじゃ。」だつだっいか曰:「なんじいいみんはたはん耶!」たついたりとり辨論べんろんおわり不能ふのういれ明日あした執政しっせいしゃいい遵曰:「おさむかわやく丞相じょうしょうやめじょう,且有じんにん其責矣,おおやけ其毋多言たげんこうためりょう。」遵曰:「うでだん不可ふかえき也。」ゆかりとげためだい河間こうまとうしょてんうんしお使はつなんじ、汴ぐん富商ふしょううんつかさよりゆきなんじやすしぬすめおこりおかせ汴境,朝廷ちょうてい調ちょうへい往討,くくふねうんかて,以故ぶねかじ不通ふつうしょう販遂ぜっ。遵隨ごとしょよろしくにみなしゅう

じゅうよんねん調しらべたけあきらそうかんたけあきらじゅう二年為沔寇所殘燬,みん於兵疫者じゅうろくなな,而大江上こうじょうみなげきぬすめ阻絕,よねただししょうゆう民心みんしん遑遑。遵言於省しんかりぐんもうかまんじょうつの勇敢ゆうかんほこせん,截兵さかい,且戰且行かつゆき,糴粟於太ひらめ中興ちゅうこうみんよりゆき以全かつしゃ眾。かいしょうしん出師すいし,遵攝しょうごと,於是しょうちゅう府中ふちゅうおもんみいちにん,乃遠斥候せっこうふさが城門じょうもんせきみんためへいとくせん餘人よにんしつらえ萬夫ばんぷちょうよんはいもりよんもん所以ゆえんため防禦ぼうぎょ備甚いたり號令ごうれい嚴肅げんしゅく賞罰しょうばつあかりとうぞくせん往來おうらい江中えなかおわり敢近がんじょうよりゆき以安。

じゅうねん,擢江みなみぎょうだいしょさむらい,召拜參議さんぎ中書ちゅうしょしょうごとどき河南かなんぞくすう渡河とか而北,焚掠こおりけん上下じょうげわかつねこと。遵率左右さゆう僚佐,もち其牘詣丞相じょうしょうげん曰:「こん天下あもりしゅうけんらん過半かはん河北かわきたこれみんやややすしゃ,以天塹黃かわためさわ賊兵ぞくへい雖至,不能ふのう飛渡とんど所以ゆえん剝膚しいずい以供ぐんもうか而無ふか怨者,河南かなんみんなおとく其室也。こんぞくきた渡河とか而官ぐん禦,大河たいがけんやめ不能ふのうもり河北かわきたみんふくなんしょ恃乎?河北かほく民心みんしんいちゆら國勢こくせいはた如之なに!」畢,哽咽不能ふのうごと宰相さいしょうやめみな為之ためゆき揮涕,乃以にゅうそうみかどみことのりそく使つかいざいもりかわ將帥しょうすい,而守禦自また頗嚴。

さきみずうみこう倪賊,しつじゅんおう之子ゆきこ,而遣じん請降,もとめため廣行ひろゆきしょうたいらあきら朝臣あそんよくもとしゃはん,遵曰:「たいらあきらこれしょく宰相さいしょう也。うけたまわ平之ひらの,雖德望とくぼう漢人かんどそもそも而不あずかこん叛逆はんぎゃくぞくはさみぜい要求ようきゅうけい以與,如綱紀こうきなに!」ある曰:「王子おうじせいすめらぎ嫡孫ちゃくそん也,もと棄之あずかぞくおやおや道也みちや。」遵曰:「項羽こううふとおおやけよく烹之以挾高祖こうそ高祖こうそ乃以ぶんあつものこたえ奈何いかんこん以王はい天下でんか大計たいけい乎!」眾皆韙其ろんじょしょさむらいにわかふくいれ中書ちゅうしょためさん政事せいじはなれしょうろくにち丞相じょうしょうごとけつだいのり曰「しゅうとしょうなるこれ」,眾莫あかつき其意,及遵はい執政しっせい曰:「だい政事せいじこん可決かけつ矣。」

じゅうななねんます中書ちゅうしょひだりすすむかいぜん大夫たいふふんしょうあきらとく太平たいへいざいしょう,以事忤皇太子たいし皇太子こうたいしふか銜之,ほしこれ而未ゆう以發,以為遵及さん政事せいじちょうちゅうみな太平たいへいとう也,遵、ちゅう兩人りょうにんのり太平たいへいとうじゅうきゅうねん用事ようじしゃうけたまわもちふうむね,嗾寶坻縣いん鄧守れいおとうと鄧子初等しょとう,誣遵與參政さんせいちょうちゅう參議さんぎしょういさおとうろくにんみな受贓,皇太子こうたいしいのちだい大宗たいそうせいとうかんざつといきたえ鍊使なりごく,遵等竟皆つえ中外ちゅうがい寃之。じゅうよんねんだいしん辯明べんめい遵等みな誣枉,みことのりふくきゅうかえ其所授宣敕。

曹鑑[编辑]

曹鑑克明こくめいあてたいらじん穎悟えいごひと,舉止異常いじょうすんでかんむりみなみゆうどおり五經ごきょう大義たいぎ

大德だいとくねんよう翰林かんりん侍講じこう學士がくし郝彬こもため鎮江淮海書院しょいんやまちょうじゅういちねんみなみぎょうだいちゅうすすむれんつね辟為じょうちょう內艱,ふくおこりじょうじょきょうぶんしょいのちともなえおくやすみなみ使者ししゃ,沿途といなん倡和,應答おうとう如響,使者ししゃ歎服,以為中國ちゅうごく有人ゆうじん

いたりねん,授江浙行しょう左右さゆういん外郎ういろう明年みょうねんたてまつむねくく釋氏しゃくし白雲しらくもむね,稽檢ゆうかたすうがつ而事しゅう,纖豪擾。たいじょうななねん[8]遷湖廣行ひろゆきしょう左右さゆういん外郎ういろうとき丞相じょうしょうゆるがせ剌歹怙勢ほしいままたて,妄為ぶく,僚屬おおかしこ避,かんぐうごと徇理輒行,どく不為ふためかいたわわ湖北こほくかどおとずれ舉鑑むべきょ風紀ふうきほう

てんれき元年がんねん調しらべこう浙財ふくそうかんぞく淮、浙大すいみん以菑つげかんそん其賦什ろくなな勢家せいけいん而詭めんしゃかん覈實,さとしれいくび輸。もとすべねん,陞同僉太つね禮儀れいぎいんかん典故てんこいたるこんいにしえ,凡禮樂れいがく度數どすう名物めいぶつ,罔不周知しゅうちいんしゅうあきらそう皇后こうごう祔廟ごと,援禮よりどころけいべん析詳あきら君子くんしおおこれいたりもと元年がんねん,以中大夫たいふ陞禮尚書しょうしょにわかかんやまし而卒,ねんろくじゅうついふう譙郡こうおくりなぶんきよし

かん天性てんせい純孝すみたか親族しんぞく貧乏びんぼうしゃしゅう卹恐れきかんさんじゅうねん,僦屋以居。歿之いえあまり貲,ただ蓄書すうせんかんみなかんしゅ較定。かんため詩賦しふなお騷、まさ作文さくぶんほう西にしかんまいへんなり學者がくしゃそう相傳そうでん誦。ゆう文集ぶんしゅう若干じゃっかんまきぞう于家。

かんにんみずうみこう員外いんがいゆうじょう顧淵はく,以辰すないちつつみ餽鑑,かん漫爾おけ篋笥ちゅうはんのちいんほっあい藥劑やくざいめいじ,乃有黃金おうごんさんりょうざつ其中,かん驚歎きょうたん曰:「ふちはく以我ためなん如人也!」ふちはくやめ歿,かんよび其子。其廉まき欺如此。

ちょう[编辑]

ちょう翥字なか舉,すすむやすしじん。其父ため吏,したがえせい江南こうなん調しらべにょうしゅうあんひとしけんてんまたため杭州こうしゅう鈔庫副使ふくし

翥少其才雋,豪放ごうほう不羈ふきこう踘,音樂おんがく以家ぎょうくず其意,其父以為。翥一旦いったん翻然ほんぜんあらため曰:「大人おとな勿憂,こん請易ぎょう矣。」乃謝きゃく閉門へいもん讀書どくしょ晝夜ちゅうや暫輟,いん受業じゅぎょう於李そん先生せんせいそんあんひとし江東こうとうだい儒也,其學でん於陸きゅうふち,翥從ゆう道德どうとくせいいのちせつしょ研究けんきゅういくとめくいまたしたがえかたきどお先生せんせいがくとお於詩最高さいこう,翥學つき音律おんりつおく,於是翥遂以詩文しぶん知名ちめいいちやめ而薄ゆう維揚,きょ久之ひさゆき學者がくしゃ及門甚眾。

いたりもとまつどうぐんでんいわお起居ききょ中書ちゅうしょこも翥隱いっいたりせいはつ,召為國子くにこじょきょうふんきょうじょうせいひろ退すさきょ淮東,かい朝廷ちょうていおさむりょうきむそうさんおこりため翰林かんりん國史こくしいん編修へんしゅうかんなりれきおうたてまつおさむせん,遷太つね博士はかせ,陞禮儀れいぎいん判官ほうがんまた遷翰りんちょく學士がくし侍講じこう學士がくし,乃以侍讀じどくけんさいしゅ。翥勤於誘掖ゆうえき後進こうしんぜっがけがん以師どう自尊じそんよう學者がくしゃらく親炙しんしゃゆう以經請問しゃ,必歷舉眾せつ為之ためゆき折衷せっちゅう論辯ろんべんさいざつ談笑だんしょういや所得しょとく而後やめ

嘗奉むねまい中書ちゅうしょしゅう時政ときまさ,眾論蜂起ほうき,翥獨默然もくぜん丞相じょうしょう搠思かん曰:「ちょう先生せんせい平日へいじつこのみろんごといまいち不出ふしゅつなん耶?」翥對曰:「諸人もろびとみな是也これやただしことぜいゆう緩急かんきゅう施行しこうゆう先後せんござい丞相じょうしょうしょけつみみ。」搠思かん善之よしゆき明日あしたじょしゅうけん學士がくしにわか以翰りん學士がくしうけたまわむね致仕ちしかいさかえ祿ろく大夫たいふ

孛羅じょう入京にゅうきょう也,いのち翥草みことのりそぎだつ擴廓じょう官爵かんしゃく,且發へい討之,翥毅しかしたがえ左右さゆうあるすすむ,翥曰:「われひじだんぴつ不能ふのうみさお也。」天子てんし其意不可ふかだつ,乃命學士がくし為之ためゆき。孛羅じょう雖知また以為怨也。及孛じょうすんで誅,みことのり乃以翥為河南かなんゆきしょうたいらあきら政事せいじ,仍翰りん學士がくしうけたまわむね致仕ちしきゅうぜん俸終其身。じゅうはちねんさんがつそつねんはちじゅう

翥長於詩,其近たい長短ちょうたんゆうこうぶん如詩,而每以文自負じふつねじん曰:「われ於文やめ矣,ぶたわれ嘗搆おもえとく任意にんいぞくひつ而已。」它日,翰林かんりん學士がくしすな剌班しめせ所為しょいぶん,請易置數ちすうおもえしゃうつりおわり就。すな剌班曰:「先生せんせい於文,あになおひつじ耶,なにおもえこれ也?」翥因しょうだいわらいぶた翥平ぜん諧謔かいぎゃくだん吐語,輒令じん失笑しっしょう一座いちざつきかたぶけにゅう其室,しげるしか春風しゅんぷう中也ちゅうや所為しょい詩文しぶん甚多。たけ夫子ふうし。及死,くにとげほろび,以故其遺藳不でん。其傳しゃゆう律詩りっしらく,僅さんかん。翥嘗しゅうへいきょう以來いらいふしごと人為じんいしょ,曰忠義ちゅうぎろく識者しきしゃ韙之。

校勘こうかん[编辑]

  1. 而其(つま兄弟きょうだいなおつかまつ于朝 よりどころほん書卷しょかん四一順帝紀至正八年是歲條刪。
  2. きょう以地(ちから)〔かた有限ゆうげんこれ したがえきたかんほんあらため
  3. じょ僉河みなみれんおとずれごと 按下ぶん所見しょけん西京にしぎょうちょうおうせんやすしけん、沁州みなため河東かとうさん西道さいどう所轄しょかつうたぐ河南かなんがかり河東かわとうあやま
  4. 朵兒ただ)〔はん〕 よりどころほん書卷しょかん四一順帝紀至正八年是歲條、まき一四三泰不華傳及明史卷一二三方國珍傳改。したどうるいへんやめこう。「朵兒ただはんぞうため金剛こんごう吉祥きっしょう」。
  5. 陛下へいかまたやすにん而輕(じゅう)〔棄〕乎 したがえきたかんほんあらため
  6. 而有以還祖宗そそうこれきゅう〕 よりどころほん書卷しょかんよんほおはなでん
  7. 而詩(やすし)〔きよしうらら したがえきたかんほんあらため
  8. たいじょうななねん 按泰ていよんねんこううん:「ななあやま。」

ほん明朝みんちょう作品さくひんざいぜん世界せかいぞく公有こうゆう领域いん为作しゃ逝世やめ经遠とおちょう过100ねん

Public domainPublic domainfalsefalse

 まきいちひゃくはちじゅう かえしかいいただき まきいちひゃくはちじゅうなな