げんふみ/まき196

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 まきいちひゃくきゅうじゅう もとまきいちひゃくきゅうじゅうろく
列傳れつでんだいはちじゅうさん
まきいちひゃくきゅうじゅうなな 

忠義ちゅうぎよん

がおはな[编辑]

がおはなまれいにしえこうむ。倜儻ゆう大志たいしいたりせいねんよしこく子生こなじとうみぎ牓進だいいちにん,授翰はやしおさむせん調しらべ河南かなんゆきしょういん外郎ういろうじゅういちねん,遷江西行さいぎょうしょう左右さゆう司郎しろうちゅう。蘄黃じょひさしてる來寇らいこうひろしがおはなせん守之もりゆきこうためざいみちわらわでんじゅうろくねんのぞき江西えにしかどおとずれ副使ふくしころ召還しょうかん,授益都路みやこじいたる魯花あか,遷山東さんとうれんおとずれ使再轉さいてんため中書ちゅうしょまいり政事せいじ

じゅうはちねんみことのりあずかしょさむらいこくおおとりどう經略けいりゃく江南こうなんいたりたてやすし江西えにしひねともりょう克明こくめい來寇らいこう,而平あきら政事せいじおもね魯溫すなとうみなよる遁。くにおおとり時分じぶん鎮延ひらめしろおちい,遁去。がおはな曰:「わがうけたまわせいらい此,はたなにちかいあずか此城どう存亡そんぼうみみ。」いのちちくかくもんじょう前後ぜんごこばめせんろくじゅうよんにちすんで大敗たいはいぞく眾。

明年みょうねん召還しょうかん,授山ひがしせん慰使,再轉さいてん樞密院すうみついんごとたいらあきら山東さんとうこうしょうまもり禦益大明だいめいへいあつさかいひろしがおはな捍城力戰りきせんしろおちい,而平あきら政事せいじがおはなかえつげ其母曰:「忠孝ちゅうこう不能ふのう兩全りょうぜんゆうおとうと當為とういおわりやしなえ。」はいはは,趨官しゃすわ堂上どうじょう主將しゅしょうもと聞其けん,召之再三さいさん往。すんで而面ばくひろしがおはな曰:「わが元朝がんちょう進士しんしかん至極しごくひんしんかくため其主。」不屈ふくつ

さき,其妻おもね魯真,れきよび家人かじんつげ曰:「わがおっと受國おんわがまたふうじひとしこく夫人ふじんこんこといたり此,ただゆうみみ。」家人かじん莫不歎息たんそく泣下。やめ而普がおはなおとうとつまかくだき幼子おさなご,及婢わらわおぼれしゃ南井なおいおもね魯真ほっ,而井はまのど不可ふかようとげだきとうしゃ北井きたい。其女及妾おんなまごおんなみなずいおぼれ焉。

ゆうさるさかえしゃたいらあきら山東さんとうこうしょうまもりあずまあきらさかえみるれつぐんみなくだつげ其父曰:「人生じんせい世間せけん不能ふのうぜん忠孝ちゅうこうしゃ也。」ちち曰:「なにため?」さかえ曰:「城中じょうちゅうへいしょう不敵ふてきせんそく萬人之命由兒而廢,ただしゆう一死いっし報國ほうこくみみ。」とげけい

閔本[编辑]

本字ほんじむねさきかわ內人。せいつよし正敏まさとしきゅう,而刻こころざし於學。としとく推擇ためれいれい大夫たいふはなほんざい,辟以ためじょうひらたはん寃獄,甚有ごえ。擢御だいあきらすりころ,遷樞密院すうみついんごとはいかん察御,遷中しょひだりつかさごとてんため吏部尚書しょうしょうつりけいみな能見のみしょうほんもとひん,且有やまし,嘗上あきら乞謝ごとまことみことのり授集けん侍講じこう學士がくし

大明だいめいへいうす京師けいしほんいい其妻ほど曰:「國事こくじいたり此,われ知之ともゆきひさ矣。愧不能ふのうりつ功補こうすけむくい,敢愛六尺軀苟活哉!」ほど曰:「きみのうちゅうわがなおゆうあい於君乎!」ほん乃朝ふくあずかほど北向きたむき再拜さいはい大書たいしょ于屋かべ曰:「もとなかたてまつ大夫たいふあつまりけん侍講じこう學士がくし閔本。」とげかく縊焉。二女じじょちょうしんしん次女じじょおんな見本みほんよびてん號泣ごうきゅうまた縊於其傍。

ゆうはいじゅうしゃかん里人さとびと也,聞善。以材るいかんいたり翰林かんりん國史こくしいんごとため太子たいしけいへいいたりはいじゅういい家人かじん曰:「われ始祖しそうみあいはくふう河東かわとうこうしゃ[1]與太よたどうことおうあせふとしおうあせおさむしょ部落ぶらくわれ引數ひきすうじゅうはせ西にし北方ほっぽうふとし使じんついとい,曰:『むかししゃあずか皇帝こうていどうことおうあせおうあせいまやめほろびよく為之ためゆきほうかたきのりみかど乃天いのちよくあらためごとみかどのりわれしんゆうしょにん避之於遠,以沒われせいみみ。』此吾げん也。且吾祖生そうさくばく,其言なお如此,こんわれ生長せいちょう中原なかはら讀書どくしょ國學こくがく,而可不知ふち大義たいぎ乎!きょうわれ上世じょうせい受國厚恩こうおんいたりわれまたしょく祿ろくこん其國やぶなおにんこれあずか其苟せい如死。」とげ赴井。其家じん瘞之しゃひがし,悉以其書せき焚之ため殉云。

ちょう弘毅こうき[编辑]

ちょう弘毅こうきじんきょうていすすむしゅうじんしょう好學こうがくいえまずししょやとい於巨しつひるのりためやくよるのりしょ讀之,ある閔其こころざしただし使つかいそう其事而不やく焉。嘗受けい於臨かわきよしはじめ辟翰りん書寫しょしゃ再轉さいてんため國史こくしいん編修へんしゅうかん調しらべだいらくしょれい大明だいめいへい入京にゅうきょうじょう弘毅こうき嘆息たんそく曰:「忠臣ちゅうしん不二ふじくん烈女れつじょ不二夫ふじお,此古也。わがいまりょく不能ふのうすくい社稷しゃしょくただしゆう一死いっし報國ほうこくみみ。」乃與つまかいみな縊。

其子きょう中書ちゅうしょかん勾,あずか妻子さいし訣曰:「いまじょう輿こしきた奔,わが父子ふししょく祿ろく不能ふのうこう尺寸しゃくすんりょくわれ父母ちちははやめなおなに敢愛乎!」あるとめ曰:「わが曹官卑,なに如此。」きょうしか曰:「しか非我ひが也。いにしえしゃ忠義ちゅうぎじんかくつきしんあにといしょくたかし卑乎!」とげおおやけふく北向きたむき再拜さいはいまた縊死いし

きょう女官にょかんやつねんじゅうななきょうほうだい泣,てきとなりおうな數輩すはいらいそうりつ避,曰:「わがてきじん,避將なんこれ。」聽,おうなほっりょく挽之,おんな曰:「人生じんせい在世ざいせい便びんひゃくさいまた一死いっし。」乃潛入せんにゅう中堂なかどうかい衣帶いたいけい

ていたま[编辑]

ていたま,徽州歙縣じんようさとさとる嗜學,すんでちょう,覃思ろくけいゆう邃於春秋しゅんじゅうぜっつかまつすすむ,而勤於教。學者がくしゃ門人もんじん受業じゅぎょうしゃ眾,しょきょいたり不能ふのうよう學者がくしゃしょうあずかそく其地搆師山もろやま書院しょいん以處焉。

たまため文章ぶんしょうこと雕刻煅煉,流傳りゅうでん京師けいし,揭徯斯、おうげん咸加しょうしょういたりせいじゅうよんねん朝廷ちょうていじょだま翰林かんりんまちせいたてまつ大夫たいふ使者ししゃたまもの以御しゅめいぬさ,浮海ちょうたまやましおこり,而為ひょう以進曰:「めい爵者,祖宗そそう所以ゆえんのこ陛下へいか使つかいあずか天下てんか賢者けんじゃ共之ともゆきしゃ陛下へいかとくわたしじんまちせいしょくしん其才,敢受。さけあずかぬさ天下てんかしょ以奉陛下へいか陛下へいかとく以私あずかひとさけあずかぬさしん敢辭也。」たますんでつかまつのり家居かきょにち以著しょためしょしょちょゆうしゅうえき纂註。

じゅうななねん大明だいめいへいにゅう徽州,守將しゅしょうはたよう致之,たま曰:「われあにことせいしゃ耶!」いんかかわしゅう久之ひさゆき親戚しんせき朋友ほうゆう攜具餉之,のり從容しょうようためつき歡,且告以必死ひっしじょう。其妻聞之,使つかい曰:「きみ苟死,われ其相したがえ地下ちか矣。」たま使いい曰:「わかはてしたがえわれわれ其無憾矣。」明日あした衣冠いかん北向きたむき再拜さいはい縊而

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冔字いんなでしゅうきん谿人。博學はくがくあかりけいぜんぞくぶんゆうちょう於詩。いたりせいじゅうななねんようひだり丞相じょうしょう太平たいへいかなで,授淮南ワイナンゆきしょうあきらみがけくだりじょ國子くにこじょきょう,遷太つね博士はかせてん國子くにこ博士はかせ,陞監すすむ,擢翰りんまちせいけん國史こくしいん編修へんしゅうかん

じゅうはちねんきょうじょうすんでやぶ,冔歎曰:「わが以儒致身,るいこうむくにおんためかぶと代言だいげんきんりんこんたて無我むが戮,なにめん目見まみ天下でんか乎!」とげ赴井而死,ねんろくじゅういちゆう詩文しぶんでん于世。

かしわじょうきよしなんじくんことぶきこうむ古人こじんいえれきくつしょこうきょかんしょいたり,以廉のうちょごえいたり正中せいちゅうるい遷為福建ふっけんゆきしょう左右さゆう司郎しろうちゅうくだり省治しょうじふくしゅうじゅうななねん大明だいめい以騎へいすぎせき邵武,以舟よし海道かいどうおもむき閩,奄至城下じょうかかしわじょうきよしなんじじょう不可ふかもり,引妻わらわすわろうじょう慷慨こうがいいい曰:「丈夫じょうぶこく婦人ふじんおっと義也よしや今城いましろ且陷,われ必死ひっし於是,わかとうのうわれしたがえ乎?」みな泣曰:「ゆう而已,こころざし也。」縊而死者ししゃろくにん

ゆうじゅうさいおんな不能ふのうのり紿之曰:「なんじ稽顙はいふつ,庶保わが恙也。」はじめはいそく挈米囊壓ちちおうなだき其幼つくりりつ以泣,かしわじょうきよしなんじ熟視じゅくし,歎曰:「ちちこくははおっとわらわあずかおんなしたがえちちしゃ也,みなとうなんじさん歲兒さいじ,於義なんしょしたがえ乎?ためむねまつけい可也かなり。」乃命おうなだき匿旁きんみんしゃ,而斂きんたま𢌿これ曰:「そくゆう緩急かんきゅう以此贖兒いのち。」ゆうごろへい入城にゅうじょうそく舉燈もえ四圍しい窻火大發だいはつとげ焚死。

迭里わたる[编辑]

迭里わたる實字じつじはつかいかいじんせいつよしかいことはは至孝しこうとしよんじゅうなおつかまつあるとい,曰:「われにんしゃわれはは以去也。」以宿衞しゅくえいねんろう,授行宣政のぶまさいんたかしきょう,三遷為漳州路達魯花赤,きょさんねんみん甚安

どきひね有定ありさだよりどころぜん閩,はちぐんせいみなよう其私じん以總せい朝廷ちょうていいのちかんとくゆう所與しょよ大明だいめいへいすんでふくしゅうきょう泉州せんしゅうみなおさめ款。ある以告,迭里わたるじつ仰天ぎょうてん歎曰:「われざいさんひんくにおんあつ矣,其何以報乎!報國ほうこくおんしゃゆう而已。」ほろびなに,吏走しろ招諭使者ししゃいたり,請出じょう迓之,迭里わたるじつ從容しょうよう曰:「しかだい往,われぎょう矣。」乃詣ちょうごとおおやけふく北面ほくめん再拜さいはい畢,引斧斫其しるしぶんまただい書手かきてばん曰「大元おおもと臣子しんし」。そくいれ端坐たんざ,拔所佩刀はかせ,剚喉ちゅう以死。すんでなお執刀しっとう按膝すわ儼然げんぜん如生ぐんみんしょう聚哭にわちゅう,斂其かばねそう東門ひがしもんがい

時又ときまたゆう獨步どっぽひのとしゃかいかいじんきゅう進士しんしるいかん僉廣あずまれんおとずれごとゆうりょふくしゃため江西えにしゆきしょう左右さゆうごとみな閑居かんきょぐうふくしゅう。而復以行しょういのち長樂ながらけんいんふくしゅうすんで獨步どっぽひのと曰:「われ兄弟きょうだいさんにんみなかたじけな進士しんし,受國おんよんじゅうねんこん雖無かんもりしかだいふし所在しょざい,其可はずかしめ乎!」以石繫其こしとうふくまた曰:「われしょくくん祿ろくこん雖攝かんわか以死報國ほうこくのり以見先人せんじん于地。」引繩ひきなわけい獨步どっぽひのとけい曰穆魯丁しゃかんたてやすし;曰海魯丁しゃかん信州しんしゅうさき またみな國難こくなんうん

ほおさいいんはな[编辑]

ほおさいいんはなとくちゅう,肅良ごうだいじんゆう膂力りょりょくぜん騎射きしゃよしそくいにしえあか授利ひさげてん再轉さいてんため正院しょういん判官ほうがんるい遷同樞密院すうみついんごと,遷翰りん學士がくしひろ陞承むねたまものとらけんじゅんぐん合浦がつぽぜんひとししょ軍民ぐんみんまん元帥げんすいじょだいつかさみのりためみねきたぎょうしょうみぎすすむ,陞平あきら政事せいじ

いたりせいじゅうよんねん甘肅かんせいゆきしょう以孛じょう矯弒皇后こうごう皇孫こうそんひとしろごとたいらあきら政事せいじ速答そくとうそくよくしょさとし眾榜,ほおさいいんはな不可ふか曰:「此大事だいじなんとく輕信けいしんきょうけん公文こうぶん。」そつしょ牓。すんで而果妄傳。かい皇太子こうたいしなでぐん冀寧,うけたまわせいはいほおさいいんはな翰林かんりん學士がくしうけたまわむね,遷集けんだい學士がくしまたため宣政のぶまさいん使とげはい中書ちゅうしょたいらあきら政事せいじ大明だいめいへい逼京みことのりほおさいいんはな以兵もりじゅんうけたまわもん,其所りょうへい僅數ひゃく羸卒而已。乃嘆息たんそくいい左右さゆう曰:「國事こくじいたり此,われただしあずか此門どう存亡そんぼう也。」しろおちい,以見主將しゅしょうただ請速しょうこごめ主將しゅしょういのちとめ營中,おわり不屈ふくつころせこれ

ちょういさお[编辑]

ゆうちょういさおしゃそんちゅう溫州うんしゅうじんせいごう爽,せいふとおつすうかいみだれ,以策經略けいりゃく使こくおおとりうけたまわせい授庸福建ふっけんゆきしょういん外郎ういろうへいすぎせき

ころけいこと赴京よししんふとおつすうじゅんみかど喜之よしゆき,擢祕しょしょうかん皇太子こうたいし立大りつだいなでぐんいんいのちいさお團結だんけつぼうさん,遷同僉將さくいんごとまたじょ刑部おさかべ尚書しょうしょ,仍領團結だんけつかいしょ寨既くだいさおもり駱駝らくだだに從事じゅうじだんただし請援於擴くるわじょうほういさおどく堅守けんしゅこばめせん,眾將つぶせいさおこころざしやめ而寨みんすぐるいさお,以見主將しゅしょういさお不屈ふくつあずかただしどうころせ

ちょうこうれい[编辑]

ちょうこうれいけいてい蠡州じんせいりつさんはつためし吏於戶部とべ,辟中しょじょう,授戶主事しゅじ,擢江みなみぎょうだいかん察御ふくいれ戶部とべためいん外郎ういろうはいかん察御また入戶にっとためろうちゅう,陞侍ろうじょ京畿けいきこげうん使建議けんぎおけ於通しゅうじゅう講究こうきゅうこげうんびょうしるためなりほうにんみな便びん除戶のぞきど尚書しょうしょ國家こっかおおゆえ財用ざいようむなしとぼしこうれいのう撙節浮費,國家こっか用度ようどよりゆき以給。はい參議さんぎ中書ちゅうしょしょうごと,遷治しょさむらいためりょうぎょうしょうひだりすすむくだりとめため樞密すうみつ副使ふくし

いたりせいじゅうねんとげはい中書ちゅうしょまいり政事せいじとき京師けいしだいひだる天壽てんじゅぶし廟堂びょうどうほっよう事大じだいうたげかいこうれいごと:「こんみん父子ふしゆうしょうしょくしゃ君臣くんしんとうおさむしょう,以弭大患たいかんうたげかいむべつね。」聽,乞謝ごと,乃以しゅうけんだい學士がくし致仕ちしきゅうぜん家居かきょ。擴廓じょう扈從こしょう皇太子こうたいしかえきょう,輸山東さんとうあわ以遺あさとうと,饋好れいむぎひゃくせきこうれい受。

じゅうななねんふくおこりため中書ちゅうしょたいらあきら政事せいじひろ論議ろんぎごうしゃせいとくふうちょうこくこう大明だいめいへい入京にゅうきょうじょうあるつとむ其謁大將たいしょうこうれいしかこれ曰:「わが小吏しょうり,致位きょくひん,爵上こうこんろう矣,恨無以報こくしょかけおもんみ一死いっしみみ。」數日すうじつ大將たいしょう召好れい肯行,舁至ひとしもんこう不屈ふくつ而死,ねんななじゅう

中書ちゅうしょまいり政事せいじかくいさおまた舁至ひとしもん,眾叱おがめいさお曰:「しんかくため其主,われぶんなにはいゆう!」しょうこごめ而死。

かくいさお[编辑]

いさおまことちゅうこうむよしこく學生がくせいしゃく出身しゅっしんるい遷為陝西せんせいゆきだいかん察御あずか同列どうれつ劾知樞密院すうみついんごと也先じょう左遷させん中興ちゅうこうそうかん判官ほうがん。其後也先じょう以罪黜,召拜かん察御るいてん參政さんせい中書ちゅうしょ,其節義せつぎあずかこうれいなみうん

校勘こうかん[编辑]

  1. 河東かわとうこう 松雪まつゆきひとししゅうまきななゆるがせさく河東かとうぐんおおやけ」,るいへんよりどころぐんうたぐ

ほん明朝みんちょう作品さくひんざいぜん世界せかいぞく公有こうゆう领域いん为作しゃ逝世やめ经遠とおちょう过100ねん

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