げんふみ/まき210

維基文庫ぶんこ自由じゆうてき圖書館としょかん
 まきひゃくきゅう もとまきひゃくじゅう
列傳れつでんだいきゅうじゅうなな
かん 

そとえびすさん はるこく うらないじょう 暹國 つま哇 瑠求 さん嶼 うまはちとうこく

はる[编辑]

はるこくため西南せいなんえびす不知ふちなんしゅ。其地ゆうせっだい及去成都せいととおしゃまた不知ふち其方幾里いくさと也。其人ゆう城郭じょうかくいおり以居,ゆうぞう以乘,ふねいかだ以濟。其文字もじ進上しんじょうしゃ用金ようきんうつし用紙ようし又次またじよう檳榔びろうぶたあがやく而後どおり也。

いたりもとはちねんだい、鄯闡とうせん慰司元帥げんすい乞䚟だついんとう使はるこく,招諭其主內附。よんがつ,乞䚟だついんとうしるべ其使价博らい,以聞。

じゅうねんがつかん剌失さと、乞䚟だついんとう使其國,もちみことのりさとし曰:「あいだしゃだい、鄯闡とうせん慰司元帥げんすい乞䚟だついんしるべ王國おうこく使价博まい京師けいし,且言嚮至王國おうこくただし其臣嘗見おうまたよくかんわれ大國たいこく舍利しゃりちん矜憫遠來えんらいそく使つかいらい使つかい覲見,またれいたてかん舍利しゃりえき詢其しょらい,乃知おうゆう內附くに雖云とお一視同仁いっしどうじんこんさいかん剌失さと及禮ろう中國ちゅうごくしん使乞䚟だついんこうろう中國ちゅうごくしん副使ふくししょううんしつ往諭王國おうこくまことのう謹事だいれい子弟してい若貴わかたか近臣きんしん僚一らい,以彰わが國家こっか外之そとゆきよしようあつしえいこう乃之きゅういたりわか用兵ようへいおっとだれしょこうおう其思。」

じゅうねんよんがつたてやすしやすなで使天爵てんしゃくげんとく金齒きんば頭目とうもくおもねかくげん曰:「乞䚟だついん使つかいはる,乃故ちちおもね必所ゆび也。いたりもときゅうねんさんがつはるおう恨父おもね必,りょうへいすうまんらいおかせちちおもね必而去。とくやめあつけんじ其國,乃得しゃくよしはる中部ちゅうぶ落之じんなお羣狗みみしゃはるおもねてきはちとうきゅうにんいたり,乃候國家こっか動靜どうせい也。こん白衣はくい頭目とうもくおもねかく親戚しんせきあずかはるため鄰。嘗謂いれはるゆうさんみちいちよしてんいちよし驃甸,一由阿郭地界,俱會はる江頭えがしらじょうまたおもねかくちかし戚阿ひさげはんざいはるてのひら甸,かくまんあまりよく內附。おもねかくねがいさき招阿ひさげはん及金くだしゃ,以為引道。」雲南うんなんしょういんごとはるおうくだこころ使つかいかえし必須ひっす征討せいとう六月ろくがつ樞密院すうみついん以聞。みかど曰:「しゅうとなるこれ。」じゅういちがつ雲南うんなんしょうはじめほう:「じんさがせ伺國使消息しょうそく,而蒲ぞく阻道,こんがまじんくだみちやめどおり金齒きんば千額總管阿禾探得國使達緬俱安。」

じゅうよんねんさんがつはるじん以阿禾內,怨之,おさむ其地,よくりつ寨騰えつえい昌之まさゆきあいだときだい理路りろこうむせんゆるがせだい理路りろそうかんしん苴日、そう千戶脫羅脫孩奉命伐永昌之西騰越、かば、驃、おもねあきら金齒きんばくだ部族ぶぞくちゅう劄南甸。おもね禾告きゅうゆるがせとうひる夜行やこうあずかはるぐんぐういち河邊かわべ,其眾やくよんまんぞうはちひゃくうままんひきゆるがせとうぐんななひゃくにんはる人前ひとまえ乘馬じょうばぞう步卒ほそつぞうかぶと負戰まけいくさろうりょうつくりはさみ大竹おおたけ筩,おけたんやりすうじゅう於其ちゅうじょうぞうしゃ以擊とげゆるがせ都下とかれい:「ぞく眾我寡,とうさき衝河きたぐん。」おやりつひゃくはちじゅういちためいちたいしん苴日以ひゃくさんじゅう三騎傍河為一隊,だつだつ孩以一百八十七人依山為一隊。交戰こうせん良久よしひさぞく敗走はいそうしん苴日おいさん,抵寨もん,旋濘而退。ゆるがせ南面なんめん賊兵ぞくへいまんあまりにょう官軍かんぐんしん苴日はせむくいゆるがせふくれつためさんじんしんいたり河岸かわぎしげきまた敗走はいそうついやぶじゅうなな寨,逐北いたり窄山こう轉戰てんせんさんじゅうあまりさとぞく及象あい蹂死しゃみつるさんきょみぞ日暮ひぐれゆるがせ中傷ちゅうしょうとげおさむへい明日あしたおいいたりせんがく及而還。捕虜ほりょ甚眾,ぐんちゅう以一帽或一兩靴一氊衣易一生口。其脫しゃまたためおもね禾、おもねあきら邀殺,しゃいく官軍かんぐん負傷ふしょうしゃ雖多,おもんみいちこうむぐん一象不得其性被擊而斃,[1]死者ししゃ

じゅうがつ雲南うんなんしょう雲南うんなんしょみちせん慰使元帥げんすいおさめそく剌丁りつこうむ、爨、僰、些軍さんせんはちひゃくよんじゅう餘人よにんせいはるいたり江頭えがしらふか蹂酋くびほそ安立あだち寨之しょ,招降其磨ほっとうさん百餘寨土官曲蠟蒲折戶四千、はじめすりあいりょいちせんすり柰蒙ただしさとこたえはち剌戶まんこうむせわし甸土かんはじめ祿ろく堡戶いちまんだん禿かぶろひゃく,凡さんまんせんひゃく,以天ねつかえ

じゅうななねんがつおさめそく剌丁とうじょうげん:「はるこく輿地よち形勢けいせいみなざいしんちゅう矣。さきたてまつむねわか重慶たーちんもろぐんたいらしかこう有事ゆうじはるこくいま四川已底寧,請益へい征之まさゆき。」みかど以問丞相じょうしょうだつさとだつうみだつさとだつうみ曰:「陛下へいかはついのちはつごう剌章及四川與阿里海牙麾下士卒六萬人征緬,こんおさめそく剌丁とめ欲得よくとくまんにん。」みかど曰:「矣。」そくいのち樞密すうみつつくろえかぶとへいおさむ武備ぶびせんはた出師すいし五月ごがつみことのり雲南うんなんゆきしょうはつ四川しせんぐんまんにんいのちやく剌海りょうあずかぜんところはたどうせいはるじゅうきゅうねんがつみことのりおもえ、播、じょしょぐん及亦奚不薛諸蠻夷ばんいとうしょはつ士卒しそつせいはる

じゅうねんじゅういちがつ官軍かんぐんはる克之かつゆきさきみことのりむねおうしょうわれこたえみぎすすむふとしぼくまいり政事せいじ也罕てききん將兵しょうへいせいはるねんきゅうがつ大軍たいぐんはつちゅうけいじゅうがついたりみなみ甸,ふとしぼくよし必甸進軍しんぐん十一月じゅういちがつあいわれこたえいのち也罕てききんみち於阿むかしこういたる鎮西ちんぜいおもね禾江,みやつこぶねひゃく下流かりゅういたり江頭えがしらじょうだんはるじん水路すいろしょう一軍從驃甸徑抵其國,與太よたぼくぐんかいれいしょしょう分地ぶんちおさむやぶ其江あたまじょうげきころせまん餘人よにんべつれい元帥げんすいげん)〔袁〕世安よやす以兵もり其地,[2]せきかて餉以きゅうぐん使つかい輿地よち奏上そうじょう

じゅうねんじゅういちがつはるおう鹽井しおい大官たいかんおもね必立しょういたりふとしおおやけじょうよくらいおさめ款,ためはじめ乃甸白衣はくい頭目とうもく䚟塞阻道,とくぎょう謄馬たくしゃしんいちへんらいつげ,驃甸かん匿俗乞報上司じょうしめんぐん馬入ばにゅうさかい,匿俗きゅう榜遣謄馬たくかい江頭えがしらしろ招阿必立しょう赴省,且報鎮西ちんぜいたいらはるうららかわとうせん慰司、宣撫せんぶ[3]三摻持榜至江頭城付阿必立相、せわしちょくぼくざんにん以兩がつりょうぐんらい江頭えがしらじょう宣撫せんぶりつこうむぐんいたり驃甸しょう議事ぎじおもね必立しょう乞言於朝廷ちょうていくだむねもと其悔しかこう大官たいかん赴闕。朝廷ちょうていひろ鎮西ちんぜいたいらはる宣撫せんぶたち魯花あかけん招討使おびえれつ使其國。

じゅうさんねんじゅうがつ,以招討使はり萬為征緬副都元帥,也先てつせいはる招討たち魯花あか,千戶張成征緬招討使,なみとら。敕造せんせん將兵しょうへいろくせんにんせいはる,俾禿滿まんおびため元帥げんすいそうこれ雲南うんなんおう以行しょうみぎすすむあい魯奉むねせいおさむ金齒きんば、察罕迭吉れんばちぐんいちせんにんこれがつはつちゅうけいつぎいたり永昌えいしょうあずかせいはるしょうかんかいけいおもねむかし甸,ぐん五百人護送招緬使怯烈至太公城。じゅうよんねん正月しょうがついたりせわし乃甸。はるおうため庶子しょしそくそく古里ふるさとしょしゅう於昔さとおびえこたえ剌之またがい嫡子ちゃくしさんにんあずか大官たいかんなみしゅうとうよん人為じんいぎゃく雲南うんなんおうしょいのちかんおもねなんこたえとうまた受害。がつおびえれつせわし乃甸とうぶねとめもとおくぐんひゃくにん于彼。雲南うんなんしょう請今あきすすむ討,聽。すんで而雲みなみおうあずかしょおうすすむせいいたりがまあまななせんあまりはるはじめひらめ,乃定さいみつげかたぶつ

大德だいとく元年がんねんがつ,以緬おうてきだてひろし哇拿阿すすむつつみきば嘗遣其子しんあいはちてきたてまつおもて入朝にゅうちょう,請歲輸銀ゆぎんせんひゃくりょう、帛せんひき、馴象じゅうかてまんせきみことのりふうてきだてひろし哇拿阿すすむつつみきばためはるおうたまものぎんしるししんじあいはちてきためはるこく世子せいしたまもの以虎

さんねんさんがつはるふく世子せいしたてまつおもていれしゃひね部民ぶみんため金齒きんばころせかすめりつみな貧乏びんぼう,以致じょうきょうきんぬさ不能ふのう如期輸納。みかど憫之,とめいのちあいだとしみつぎぞう,仍賜ころもかえよんねんよんがつ使つかいしんしろぞう

五月ごがつてきだてひろし哇拿阿すすむつつみきばため其弟おもね哥也とうしょころせ,其子くつあさ剌哥撒八逃詣京師けいしれいせわしかん禿かぶろ魯迷しつりつ往問其罪。蠻賊與八よはちひゃく媳婦こくどおり,其勢ちょう甚。せわしかん禿かぶろ魯迷しつ請益へいまたいのち薛超兀而とう將兵しょうへいまんせんにん征之まさゆき,仍令諸王しょおう闊闊節制せっせい其軍。六月ろくがつみことのりりつくつあさ剌哥撒八ためおうたまもの以銀しるしあきなながつはるぞくおもね哥也おとうとしゃとう九十一人各奉方物入朝,いのちにんおけちゅうけいしゃひとしらいうえはちがつはるこくおもねよしきばとうこんおとうと赴闕,げんころせぬしつみやめせいはるへい

ねんきゅうがつ雲南うんなんまいり政事せいじだかけい宣撫せんぶ使察罕はなふく誅。はつけいとうしたがえ薛超兀而かこえはる兩月わち城中じょうちゅうたきぎしょく俱盡,いきおいはたけいとう受其じゅうまいない,以炎暑えんしょ瘴疫ためやめ,輒引へいかえ誅之。じゅうがつはる使つかい入貢にゅうこう

うらないじょう[编辑]

うらないじょうきん瓊州,順風じゅんぷう舟行しゅうこういちにち抵其こくいたりもとあいだこう南西なんせいどうせん慰使なり旺嘗請兵さんせんにんうまさんひゃくひき征之まさゆきじゅうねん,(みぎ)〔ひだりすすむ唆都以宋ひらめひといたりうらないじょう[4]かえげん其王しつさと咱牙しんあいはち剌〔あさ〕哈迭かわらゆう內附[5]みことのりくだとら,授榮祿ろく大夫たいふふううらないぐすくぐんおうじゅうろくねん十二月じゅうにがつ兵部ひょうぶさむらいろう教化きょうかてきそうかんはじめけいもと、萬戶孫勝夫與唆都等使占城,さとし其王入朝にゅうちょう

じゅうななねんがつうらないじょう國王こくおうたからだん拏囉耶卭みなみ詙占囉耶遣使みつげかたぶつたてまつおもてくだじゅうきゅうねんじゅうがつ朝廷ちょうてい以占じょう國主こくしゅ孛由剌者われ曩歲使つかい來朝らいちょうしょうしん內屬,とげいのちひだり)〔みぎすすむ唆都とうそく其地りつしょう以撫安之やすゆき[6]すんで而其てきせんこくまけかたどるふくまんなんこころざし、千戶皇甫傑使暹國,せん慰使ゆうえいけんたけなわとう使つかいはちこくふねけいうらないじょうみなへいせいみかど曰:「ろうおう無罪むざいぎゃくいのちしゃ乃其與一よいち蠻人ばんじんみみ。苟獲此兩じんとう曹彬故事こじ百姓ひゃくしょういちにん。」

十一月じゅういちがつうらないじょうぎょうしょうかんりつへい廣州こうしゅう航海こうかいいたりうらないぐすくこう港口こうこうきたれんうみうみつくりゆう小港こみなとつう其國大州おおず東南とうなんとめさん西にしつくり木城きじょう官軍かんぐん海岸かいがんたむろちゅううらないじょう兵治へいじ木城きじょう四面しめんやくじゅうあまりさとおこりろうたな立回たちまわかいさんこずえほうひゃく餘座よざ又木またぎ城西じょうさい十里じゅうりけん行宮あんぐう,孛由剌者われおやりつじゅうへいたむろもり應援おうえんくだりしょう鎮撫ちんぶ天祐てんゆうそう賈甫招之,なな往,おわり不服ふふく十二月じゅうにがつ,招真臘國使そく魯蠻請往招諭,ふくあずか天祐てんゆうはじめ偕行,とく其回しょうん:「やめおさむ木城きじょう,備甲へいこく請戰。」

じゅうねん正月しょうがつぎょうしょう傳令でんれいぐんちゅう,以じゅうにち夜半やはん發船はっせんおさむじょういたり分遣ぶんけん瓊州やすなで使ひねなかたちそうかんりゅうきんそう把栗はりつぜん以兵千六百人由水路攻木城北面;そうちょうあきら、百戶趙達以三百人攻東面沙觜;しょうかんさんせんにんぶんさんみちおさむ南面なんめん舟行しゅうこういたり天明てんめいはくがんためふう濤所碎者じゅうななはちぞくひらき木城きじょうみなみもんけん旗鼓きこまん餘人よにんじょうぞうしゃすうじゅうまたぶんさんたいむかえてきせき交下。いたりうまぞく敗北はいぼく官軍かんぐんにゅう木城きじょうふくあずか東北とうほくぐんごうげきころせ溺死できししゃすうせんにんまもりじょうきょう餉餽しゃすうまんにん悉潰國主こくしゅ行宮あんぐうしょうくら廩,ころせえいけんたけなわとうあずか其臣逃入山にゅうざんじゅうななにちせいへいおさむ大州おおずじゅうきゅうにち國主こくしゅ使ほうこたえしゃらいもとめ二十日はつかへい至大しだいしゅう東南とうなんほうこたえしゃかいもと其降,免罪めんざいじゅういちにちにゅう大州おおずまたはくおもえ兀魯はんしゃらいげん:「たてまつ王命おうめい[7]國主こくしゅ太子たいしとうらい。」ぎょうしょうでんげき召之,官軍かんぐんふくちゅうしろがいじゅうさんにち其舅たからだつ禿かぶろはなとうさんじゅう餘人よにんたてまつ國王こくおうしんぶつざつぬのひゃくひきだいぎんさんじょうしょうぎんじゅうななじょう、碎銀いちためしつらい款。また獻金けんきん九節標槍曰:「國主こくしゅほっらいやまいのうすすむさき使其槍らい,以見誠意せいい長子ちょうしてきさんにち請見。」しょうかん却其ぶつたからだつ禿かぶろはな曰:「受,うす也。」ぎょうしょう不可ふか却,しゅうとれいおさむおけ,乃以上聞じょうぶん

たからだつ禿かぶろはなふくれい其主だい四子利世麻八都八德剌、だい五子世利印德剌來見,且言:「さきゆうへいじゅうまんもとめせんこんみなはい。聞敗へいげんてききずやめ國主こくしゅ頰中今小いまこいよいよ,愧懼能見のみ也,先遣せんけん二子來議赴闕進見事。」しょうかんうたぐ其非真子しんじ,聽其還。さとし國主こくしゅはやくだ,且以といやましためやめせん林子りんこぜんそう把栗はりつぜんいさおけん偕往覘之。二子ふたございさきぜんとう入山にゅうざんりょうほど國主こくしゅじんらいこばめはてたからだつ禿かぶろはないいぜん曰:「國主こくしゅ遷延せんえん肯出くだこんはん揚言ようげんよくころせわがつげしょうかんらいのりらいわがとう以往いおう。」ぜんとうかい營。またころせなんこころざしすめらぎはじめすぐるとうひゃく餘人よにん

がつはちにちたからだつ禿かぶろはなまたいたりげん:「われ祖父そふはく、叔,ぜんみなため國主こくしゅいたりわれけいこん孛由剌者われころせ而奪其位,わが左右さゆう大指おおざすわがじつ怨之。ねがい禽孛よし剌者われてき父子ふし,及大拔撒以獻。請給だい元服げんぷくしょく。」ぎょうしょうたまもの衣冠いかんなでさとし以行。じゅうさんにちきょうらないじょう唐人とうじん曾延とうらいげん:「國主こくしゅ逃於大州おおず西北せいほくからすこうさん,聚兵さんせんあまり,并招集しょうしゅうぐんへいいたり不日ふじつはたあずか官軍かんぐん交戰こうせん。懼唐じん泄其ごとはたつきころせこれのべとうさとし而逃らい。」じゅうにちたからだつ禿かぶろはな宰相さいしょうほうまごたち及撮及大とうにんらいくだくだりしょうかん引曾のべとうたからだつ禿かぶろはなつめ,曰:「のべとうかんほそじん也,請繫縲之。國主こくしゅぐんみなつぶせやす敢復せん?」またげん:「こんしゅうぐんじゅうしょまいしゅう一人ひとり招之。きゅうしゅう水路すいろ,乞行しょうあずかひねやすなで及寶だつ禿かぶろはなかく一人乘舟招諭攻取。陸路りくろのり乞行しょうかんひねやすなであずかおのれ往禽國主こくしゅてき及攻其城。」ぎょうしょうなおしんじ其言,調しらべへいいちせんたむろ半山はんやまとうぜんとくけんとうりょうぐんひゃくにんあずかたからだつ禿かぶろはなどう赴大しゅうすすむ討,やくゆうきゅうのりほう半山はんやまぐん

ぜん等比とうひいたり城西じょうさいたからだつ禿かぶろはなやくあいだぎょう北門きたもんじょうぞう入山にゅうざん官軍かんぐん諜者曰:「國主こくしゅ實在じつざいからすこう山立やまだち寨,聚兵やくまんあまり使つかい交趾、臘、闍婆とうこくへい,及徵まろうどりゅうきゅうしゅうとうぐんいたり。」じゅうろくにち萬戶張顒等領兵赴國主所棲之境。じゅうきゅうにち,顒兵ちかみず)〔しろじゅうさと[8]ぞく浚濠塹,こばめ大木たいぼく官軍かんぐんちょう距奮げきやぶ其二そのじせんあまり眾。轉戰てんせんいたり木城きじょう山林さんりん阻隘不能ふのうしんぞくつくり截歸ぐんみなことたたかえとげほどけかえ營。くだりしょうとげせいぐん聚糧,そう木城きじょうそうかんりゅうきんせんりゅう涓、たけさかえもり禦。

じゅういちねんさんがつろくにち,唆都りょうぐんかいじゅうにちこう淮省しょじょ唆都ぐん萬戶忽都虎等至占城唆都舊制行省舒眉蓮港,營舍えいしゃ燒盡しょうじんはじめ官軍かんぐんやめかい二十日はつかゆるがせとられい百戶陳奎招其國主來降。じゅうななにちうらない城主じょうしゅおう通事つうじしゃらいしょうおさめくだゆるがせとらとうさとしれい父子ふしたてまつおもてすすむけんじ國主こくしゅぶんろう卭大ともえみなみとうらいしょう唆都じょとろけ其國,ひん以獻,來年らいねんとう備禮ぶつれい嫡子ちゃくし入朝にゅうちょうよんがつじゅうにち國主こくしゅれい其孫ずみ勒蟄、ぶんろう卭大ともえみなみとうたてまつおもて款。

これねんいのちたいらあきら政事せいじおもねさとかいきばたてまつ鎮南おうだつ歡發へいかり道交どうこう趾伐うらないじょうはてぎょう

[编辑]

暹國,とうなりそうもと貞元さだもとねんしん金字こんじひょうよくちょう廷遣使いたり其國。其表いたりやめ先遣せんけん使ぶたかれこれ知也ともやたまものらい使つかいもときん佩之,使つかい急追きゅうついみことのり使どう往。以暹じんあずか麻里あさざときゅうあい讎殺,いたりみな歸順きじゅんゆうむねさとし暹人「勿傷麻里あさざと,以踐なんじげん」。

大德だいとくさんねん,暹國主上しゅじょうごと,其父在位ざいい朝廷ちょうてい嘗賜くらくつわ白馬はくば及金縷衣,乞循舊例きゅうれい以賜。みかど以丞しょうかんさわこたえ剌罕ごとかれ小國しょうこく而賜以馬,おそれ其鄰忻都やからそし朝廷ちょうてい」,仍賜きん縷衣,たまもの以馬。

つま[编辑]

つま哇在海外かいがいうらないじょうえきとお泉南せんなんとうぶねうみ行者ぎょうじゃさきいたりうらないじょう而後いたり其國。其風俗ふうぞく土產みやげ不可ふかかんがえだいりつ海外かいがいしょしげるこくたから於中こく,而其じんのりみにくかいじょうせいげんあずか中國ちゅうごく不能ふのうしょうどおりなでゆうよんえびす,其出海外かいがいしょしげるしゃおもんみつま哇之やくためだい

いたりもとじゅうきゅうねんがつみことのり福建ふっけんゆきしょうじょ弼、またくろ迷失、こうきょうたいらあきら政事せいじせいつま哇;かい福建ふっけん江西えにしみずうみこうさんぎょうしょうへいまんしつらえ左右さゆうぐん元帥げんすいせいぎょうじょうまんよんはつぶねせんそうきゅうかていちねん、鈔四まんじょうくだとらじゅうきむよんじゅうぎんひゃくきむころもだんひゃくはしよう備功しょうまたくろ迷失とう陛辭。みかど曰:「きょうとういたりつま哇,あきらつげ其國軍民ぐんみん朝廷ちょうていはつあずかつま哇通使往來おうらい交好,とげみことのり使はじめみぎすすむこれめん,以此しん討。」きゅうがつぐんかいけいもと。弼、またくろ迷失りょうしょうごと,赴泉しゅうきょうりつ輜重しちょうけいもととうぶねわたるうみ十一月じゅういちがつ福建ふっけん江西えにしみずうみ廣三こうぞうしょうぐんかい泉州せんしゅう十二月じゅうにがつなぎさ啟行ひろゆき

さんじゅうねん正月しょうがついたり構欄やま方略ほうりゃくがつまたくろ迷失、まご參政さんせいさきりょう本省ほんしょうまくかん并招さとしつま哇等しょせん慰司かんきょく出海でうみきば、楊梓、ちょんただし,萬戶張塔剌赤等五百餘人,せんじゅうそうさき往招さとしこれ大軍たいぐんつぎしん吉利よしとしもん。弼、きょうしんいたりつま哇之もり並足なみあしあずかまたくろ迷失とうふんぐんがん水陸すいりく並進へいしん。弼(きょう)〔あずかまご參政さんせいそち元帥げんすいうみ[9]萬戶寗居仁等水軍,もり並足なみあしよしえびすきば港口こうこういたりはちせつ澗。きょうあずかまたくろ迷失そち元帥げんすいてい鎮國、萬戶脫歡等馬步軍,もり並足なみあし陸行りくこう。以まんさるもとためぜんほこさきふく元帥げんすいとらとう哥,まん褚懷とおただしとうじょう鑽鋒せんゆかりえびすきば,於麻喏巴歇浮はり前進ぜんしん,赴はちせつ澗期かい

招諭つま宣撫せんぶかんげんつま哇主むこ罕必闍耶舉國おさめくだ罕必闍耶不能ふのうはなれぐんさきれい楊梓、あましゅうはなちょんただし引其宰相さいしょうむかし剌難こたえ吒耶とうじゅう餘人よにん來迎らいごう三月さんがついちにちかいぐんはちせつ澗。澗上せっもりはんおう下通しもとおり莆奔大海たいかい,乃爪哇咽のど必爭また其謀しんまれやすしかん沿河はくぶね觀望かんぼう成敗せいばい再三さいさん招諭くだくだりしょう於澗しつらえ偃月營,とめ萬戶王天祥守河津,とらとう哥、ただしとう領水りょうすいぐんてい鎮國、しょう鎮撫ちんぶりんしんとうりょうぐん水陸すいりく並進へいしんまれやすしかん懼,棄船よい遁,鬼頭おにがしら大船おおぶねひゃくそうれい元帥げんすいうみまん寗居ひとしてい珪、高德こうとくまことちょう受等鎮はちせつ澗海こう

大軍たいぐんかたすすむ罕必闍耶遣使らいつげかずらろうおうついころせいたりあさ喏巴歇,請官ぐんすくいまたくろ迷失、ちょう參政さんせいさき往安慰土罕必闍耶,てい鎮國引軍赴章せっ援。きょうしんいたりあさ喏巴歇,却稱かずらろうへい未知みち遠近えんきんきょうかいはちせつ澗。またくろ迷失ひろほう賊兵ぞくへい今夜こんやとういたり,召興赴麻喏巴歇。

ななにちかずらろうへい三路攻土罕必闍耶。八日ようか黎明れいめいまたくろ迷失、まご參政さんせいりつ萬戶李明迎賊於西南,不遇ふぐうきょうあずかだつ歡由東南とうなんあずかぞくせんころせすうひゃくにん奔潰山谷さんやにちちゅう西南せいなんぞくまたいたりきょう再戰さいせんいたり晡,またはいじゅうにちふんぐんため三道伐葛郎,じゅうきゅうにちかいこたえ哈,聽砲ごえ接戰せっせんとらとう哥等水軍すいぐん泝流而上,またくろ迷失とうゆかり西道さいどうきょうとうよし東道とうどうしん罕必闍耶ぐんつぎ其後。じゅうきゅうにちいたりこたえ哈。かずらろう國主こくしゅ以兵じゅうあまりまん交戰こうせんいたりれんさんせんぞくはい奔潰,ようにゅうかわ死者ししゃすうまんにんころせせん餘人よにん國主こくしゅにゅう內城こばめもり官軍かんぐんかこえこれ,且招其降。ゆう國主こくしゅ哈只かずらとうなでさとしれいかえ

よんがつにち罕必闍耶還其地,入貢にゅうこうれい,以まんこねただひのとあましゅうはなりつへいひゃく護送ごそうじゅうきゅうにち罕必闍耶背叛はいはん逃去,とめぐんこばめせんこねただひのとあましゅうはなしょうじょう馮祥みなぐうがいじゅうよんにちぐんかえとく哈只かずらとう妻子さいしかんぞくひゃく餘人よにん,及地戶籍こせきところじょう金字こんじひょう以還。こと弼、こうきょうでん

瑠求[编辑]

瑠求,ざい南海なんかいひがし。漳、いずみきょうぶく四州界內彭湖諸島,あずか瑠求相對そうたいまた不通ふつう天氣てんき清明せいめいもちかくれやくわかけむりわかきり,其遠不知ふちいく千里せんり也。西南せいなん北岸ほくがんみなすいいたり彭湖ややひくきん瑠求そくいい落漈,漈者すい趨下而不かい也。凡西岸せいがん漁舟ぎょしゅういた彭湖やめぐう颶風ぐふう發作ほっさ漂流ひょうりゅう落漈,かいしゃひゃくいち。瑠求,在外ざいがいえびす最小さいしょう而險しゃ也。かんから以來いらいしょ近代きんだいしょしげる舶不聞至其國。

いたりもとじゅうはちねんきゅうがつうみせんふく萬戶楊祥請以六千軍往降之,聽命そくとげこれ朝廷ちょうていしたがえ其請。つぎゆう書生しょせいくれこころざししゃじょうげん生長せいちょう福建ふっけん熟知じゅくち海道かいどうびょう,以為わかよくおさむ,且就彭湖發船はっせん往諭,そう水勢すいせいしかこうきょうへいばん也。ふゆじゅうがつ,乃命楊祥たかし宣撫せんぶ使給金きゅうきんこころざしれい部員ぶいん外郎ういろう,阮鑒へい部員ぶいん外郎ういろうなみきゅうぎん,往使瑠求。みことのり曰:「おさむなで江南こうなんやめじゅうななねん海外かいがいしょしげる罔不しんぞくおもんみ瑠求邇閩さかい曾歸しゃ請即へいちんおもんみ祖宗そそう立法りっぽう,凡不にわくに先遣せんけん使招諭,らいのり按堵如故,いやのり必致征討せいとうこんとめ其兵,いのち楊祥、阮鑒往諭なんじこくはてのう慕義來朝らいちょうそんなんじこくまつしかはじむ庶;わかこうじゅん自恃じじ險阻けんそふね奄及,おそれ後悔こうかいしか其慎これ。」

じゅうきゅうねんさんがつじゅうきゅうにちなぎさ澳舟ぎょういたり海洋かいよう中正ちゅうせいひがし望見ぼうけん有山ありやまちょう而低しゃやくじゅうさとさちしょう瑠求こく,鑒稱不知ふちてきさちじょう小舟こふねいたるてい山下やました,以其じん眾,おやじょうれいぐんかんりゅううるうとうひゃく餘人よにん以小ぶねじゅういちそうぐんりょう三嶼人陳煇者登岸。岸上きしかみじん眾不あかつきさん嶼人ため其殺死者ししゃさんにんとげかえよんがつにちいたり彭湖。さちせめ鑒、こころざしやめいた瑠求」文字もじ二人ふたりしたがえ明日あしたこころざし蹤跡,覔之ゆう也。さきこころざし嘗斥ごとさちなまことようこうほし富貴ふうき,其言誕妄なんしんじいたりうたぐさちがいさち顧稱こころざしはつげん瑠求不可ふか往,いまさちやめいたり瑠求而還,こころざし懼罪逃去。こころざし妻子さいし訴于かんゆうむね發祥はっしょう、鑒還福建ふっけんおけたいこうぐう赦,竟其ごと

なりそうもとさださんねん福建ふっけんしょうたいらあきら政事せいじだかきょうごと今立いまだてしょう泉州せんしゅう,距瑠もとめためちか伺其消息しょうそくあるよろし招宜必它調ちょう兵力へいりょくきょう請就きんためし九月くがつこうきょうしょう鎮撫ちんぶちょうひろしふくしゅうしんぐん萬戶張進赴瑠求國,禽生こういちひゃくさんじゅう餘人よにん

さん[编辑]

さん嶼國,きん瑠求。いたりもとさんじゅうねんいのちせんじん招誘たいらあきら政事せいじはくがおとうげん:「しんとうあずか識者しきしゃ,此國みんひゃくゆういたり泉州せんしゅうため商賈しょうこしゃ去年きょねんにゅう瑠求,軍船ぐんせん其國,國人くにびと餉以糧食りょうしょくかんわが將校しょうこう它志也。乞不使つかい。」みかどしたがえこれ

うまはちとうこく[编辑]

海外かいがいしょしげるこくおもんみ八兒與俱藍足以綱領諸國,而俱あいまたためはちさわ泉州せんしゅういたり其國やくじゅうまんさと。其國いたりおもねごうだい王城おうじょう水路すいろとく便びんふうやくじゅうにちいたあまりこく最大さいだい

いたりもとあいだぎょう中書ちゅうしょしょうひだりすすむ唆都とうたてまつ璽書じゅうつう,招諭しょしげるいくうらないじょううま八兒國俱奉表稱藩,あまり俱藍諸國しょこくしたくだり省議しょうぎ使つかいじゅうにん往諭みかど曰:「唆都とうしょせん也,わかちんいのちとく擅遣使。」

じゅうろくねん十二月じゅうにがつ廣東かんとん招討たち魯花あか楊庭璧招俱藍。

じゅうななねんさんがついたり其國。國主こくしゅ必納てきれい其弟肯那却不剌木しょうしょかいかいくだおもてにわ璧以すすむげんらいとし使つかい入貢にゅうこうじゅうがつ,授哈撒兒うみきば俱藍こくせん慰使,偕庭璧再往さいおう招諭。

じゅうはちねん正月しょうがつ泉州せんしゅう入海いりうみぎょうさんがつ,抵僧伽耶かやさん[10]舟人ふなびとていしんとう以阻ふうとぼしかてすすむ往馬はちこくあるかり陸路りくろ以達俱藍こくしたがえこれよんがついたりはちこく新村しんむら馬頭めずとうがん。其國宰相さいしょういんてきいい:「かんじん此來甚善,本國ほんごくせんいた泉州せんしゅうかんまた慰勞いろう以為ほうこん何事なにごといたり此?」にわ璧等つげ其故,いん及假どうことうまいんてき乃託以不どおりためあずか其宰しょうおもねさとしょうまたげんかりみちおもねさとまた以它ごと五月ごがつ二人ふたりのみいたりかんへいじんれい其官しゃためどおり情實じょうじつ:「乞為たち朝廷ちょうていわがいち心願しんがんため皇帝こうていやつわが使つかいさつさとひのと入朝にゅうちょうわがだい必闍あか赴算だんはなげん國主こくしゅ也。つげへんさんだんせきわが金銀きんぎんさんつま孥,またよくころせわがわが詭辭とくめんこんさんだん兄弟きょうだいにんみな聚加いちこれあずか俱藍交兵;及聞天使てんしらいたい眾稱本國ほんごくひん陋。此是妄言ぼうげん。凡回回國かいこくきんたま寶貝ほうがいつき本國ほんごく,其かいかいつきらい商賈しょうこ。此間諸國しょこくみなゆうくだこころわかうまはちすんでわが使つかいじんしょ招之,使つかいつき。」哈撒うみきばあずかにわ璧以阻風いたり俱藍,とげかえ。哈撒うみきば入朝にゅうちょうけいことじゅう一月俟北風再舉。いたりあさ廷遣使令しれいにわ獨往どくおう

じゅうきゅうねんがつ,抵俱あいこく國主こくしゅ及其相馬そうまあいあさとうむかえはい璽書。三月さんがつ其臣しゅくおもね里沙りさせわしさとはちてき入貢にゅうこうとき也里ゆたか兀咱撒里及木そく蠻主ごうあさとうまたざい其國,聞詔使いたりみなしょうりつらいつげねがいおさめとしぬさ使つかいにゅう覲。かいたちこくまたひといん俱藍ぬし乞降,にわ璧皆したがえ其請。よんがつかえいたり旺國。にわ璧復せつ其主せわしのぼるいたり剌國,國主こくしゅかんはちてきむかえ使者ししゃにわ璧因喻以大意たいいかん八的即日納款稱藩,其臣哈散、はやさとにん入朝にゅうちょう

じゅうねんうま八兒國遣僧撮及班入朝;がつはたいたり上京じょうきょうみかどそく使つかい迓諸

じゅうさんねん海外かいがいしょしげるこく以楊にわ璧奉みことのり招諭,いたりみな諸國しょこく凡十:曰馬はち,曰須もん,曰僧きゅうさと,曰南無力むりょく,曰馬らん,曰那旺,曰丁しか,曰來らい,曰急らんまた䚟,曰蘇剌,みな使つかいみつげかたぶつ

校勘こうかん[编辑]

  1. おもんみいちこうむぐん よりどころもとぶんるいまき四一經世大典序錄征伐補。新元しんもとやめこう
  2. げん)〔袁〕世安よやす みち光本みつもとあずかもとぶんるいまき四一經世大典序錄征伐合,したがえあらため
  3. 鎮西ちんぜいひらはるうららかわとうせん慰司宣撫せんぶ 按本書卷しょかんろくいち地理ちりこころざし鎮西ちんぜいたいらはるふもとがわとう隸金とうしょ宣撫せんぶかんいちさん三怯烈傳有「鎮西ちんぜいたいらはるふもとがわとう宣撫せんぶ」。此處ここらうららうたぐためふもとなまり
  4. みぎ)〔ひだりすすむ唆都 よりどころほん書卷しょかんいちせいきのいたるもとじゅうねんはちがつからしじょうまきいちきゅう唆都でんあらためるいへんやめこう
  5. しつさと咱牙しんあいはち剌〔あさ〕哈迭かわら よりどころほん書卷しょかんいちいちせいきのいたるもとじゅう八年十月己酉條及元文類卷四一經世大典序錄征伐補。新編しんぺんやめこう
  6. ひだり)〔みぎすすむ唆都 よりどころほん書卷しょかん一一世祖紀至元十八年十月己酉條、まきいちきゅう唆都でんあらためるいへんやめこう
  7. たてまつ王命おうめい 按元ぶんるいまき四一經世大典序錄征伐作「たてまつ王命おうめい」。みち光本みつもと
  8. みず)〔しろ 從道つぐみち光本みつもとあらため
  9. 弼(きょう)〔あずかまご參政さんせい みち光本みつもとあずかもとぶんるいまき四一經世大典序錄征伐合,したがえあらため
  10. そう伽耶かやさん 新編しんぺんうん:「耶為譌。一作いつさくそうとぎ剌,だいから西域せいいきさくそう伽羅きゃらこん曰錫蘭山あららぎやま。」
 まきひゃくきゅう かえしかいいただき かん

ほん明朝みんちょう作品さくひんざいぜん世界せかいぞく公有こうゆう领域いん为作しゃ逝世やめ经遠とおちょう过100ねん

Public domainPublic domainfalsefalse