新元しんもと/まき155

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 まきいちひゃくじゅうよん 新元しんもと
まきいちひゃくじゅう 列傳れつでんだいじゅう
まきいちひゃくじゅうろく 


さいてんあか贍思ひのとおさめそくひしげひのと がらす ゆるがせからし ぬの魯海きばかどまれけん かどまれけん れん惠山えさんかいきば 闊闊けんわらわ

さいてんあか贍思ひのと[编辑]

さいてんあか贍思ひのといちめいがらすかいかい人別にんべつ閹伯なんじ裔。べつあんはくなんじしゃ西域せいいき諸國しょこくみことかい回教かいきょうぬしめい也。さいてんあかなおはなげん貴族きぞく。贍思ちょううんあずか中國ちゅうごく孔子こうしどうけいげんため教主きょうしゅどう中國ちゅうごくあなとうとうんちち馬丁ばていふとしせい西域せいいき,贍思ひのとりつせんむかえけんじぶんひょうしろ鶻。いのちちょく宿衛しゅくえいたまものごうさいてんあか而名。ふとしむね即位そくい,授豐、きよしくもさん州都しゅうとたち魯花あかあらためふとはらたいら陽三ようぞうたち魯花あか,遷燕きょうだんごとかんけんむね即位そくいいのちあずかとう剌渾ぎょうろくごとあらためつばめきょうそうかん。旋擢ほん採訪さいほう使多惠たえせい

ちゅうすべ元年がんねんたて十路宣撫司改燕京路宣撫使。ねんはい中書ちゅうしょたいらあきら政事せいじいたりもと元年がんねんため陝西せんせい、四川行省平章政事,蒞官さんねん增戶ますときゅうせんひゃくろくじゅうぐんいちまんせんひゃくじゅう、鈔ろくせんひゃくじゅうじょう屯田とんでんかてきゅうまんななせんじゅうせき,撙節かくかいさんひゃくさんじゅういちじょう中書ちゅうしょ奏聞そうもんたまものぎんせんりょういのち陝西せんせい、四川行院大小官並聽節制。

ななねんあらためぐんまえぎょう尚書しょうしょしょうごと,鎮よんがわそうよしみてい守將しゅしょう昝萬壽與賽典赤對壘,さいてんあか推誠まち萬壽まんす心服しんぷくいく召還しょうかん。萬壽請置酒爲好,左右さゆうなんさいてんあか竟往。さけいたり左右さゆうふく勿飲,さいてんあかわらい曰:「なんじとうなにこれしょう。昝將ぐんのうどくわがあにのうつきどく我國わがくに!」

萬壽まんす歎服。はちねん大軍たいぐんかこえじょうみことのりかくみちしんへい牽制けんせいさい內赤あずか僉省あずか僉省ていかなえ水陸すいりくなみいたりよしみじょうたていかだだん其浮きょう戰艦せんかんじゅうはちかんひろいのちぎょうしょうごと於興もとしゅ饋運。

じゅうねんにゅう覲,みかどいいさいてんあか曰:「雲南うんなんちん嘗親いたり。其地委任いにんしつかん使つかいとおじん不安ふあんよくせん謹厚きんこうしゃなでこれ如卿しゃ。」さいてんあか受命じゅめい退すさあさ雲南うんなん輿こし以上いじょうみかどだいせつはい雲南うんなんゆきしょうたいらあきら政事せいじたまもの鈔五じゅう緡。

どき南平なべら禿かぶろ魯鎮雲南うんなん,惑於左右さゆうげんさいてんあかいたり,必奪其權,せい兵備へいびさいてんあか其子おさめそくひのとさき謁禿魯,請曰:「天子てんしいのちしんやす輯雲みなみこん敢專,請王一人來人議其事。」禿かぶろ魯聞,遽詈其下曰:「いくためなんじやからしょあやま。」明日あしたしんしん撒滿、たて哈乃とういたりさいてんあかといしょうれいたい曰:「われとうあずかおさめそくひしげひのと偕來,なおおとうと也,請以れい。」みな名馬めいばためにえ拜跪はいき甚恭,かんしゃだい駭。さいてんあかしつらええんつき金銀きんぎんさけあずかこれ明日あしたらいしゃさいてんあかいい曰:「二君雖宗王親臣,有名ゆうめい爵,不可ふか國事こくじよくこごめためぎょうしょうだんごとかん,以未見みけんおう,敢擅授。」請いちにんかえむくいしたがえこれ禿かぶろ魯大えつゆかり是政これまされい一聽賽典赤所爲。

じゅうねんそう:「雲南うんなんしょえびすなずらえせん慰司兼行けんこう元帥げんすいごとなみ受行しょう節制せっせい。」またそう:「哈剌あきら雲南うんなん壤地相等そうとう,而州けんみなまんせん戶主こしゅむべあらためおけれいちょう。」なみしたがえこれ雲南うんなんぞく男女だんじょあい配偶はいぐうおやのりさいはる地元じもとくわあさうるちいね子弟してい不知ふち讀書どくしょさいてんあかきょう媒妁ばいしゃくどおりこん死者ししゃ爲之ためゆきかん槨奠さいまたきょうみん播種はしゅため陂池以防ひでり澇,創建そうけん孔子こうしびょう明倫めいりんどう,以經授學しゃよし舊習きゅうしゅうややじょ雲南うんなん以貝ためぜにはつぎょう鈔法,みん不便ふべんさいてんあか奏聞そうもん,俾仍其舊。また山路やまじけわしとお盜賊とうぞくそうおけ鎮,まい鎮設かんいちにんひゃく一人ひとりぐう盜賊とうぞくどうかすめのりざい

ゆう怨家はし京師けいし誣告ぶこくさいてんあかせん僭數ごとみかどいのち械送さいてんあかたい其罪。すんでいたりさいてんあかだつ械諭曰:「なんじ不知ふちじょう便宜べんぎいのちわがうたぐわがせん僭。こんもらいなんじざい,且官のう竭忠贖乎?」みな叩頭こうとうしゃちかい以死ほう

交趾叛服はんぷくつね廣行ひろゆきへい討之,しつさいてんあか使じんさとし以逆じゅん禍福かふく,且約ため兄弟きょうだい。其王おやいたり雲南うんなんさいてんあかこうむかえまち賓禮ひんれいれいとげ乞永爲藩ためはんふく

蘿槃甸叛,いのちさいてんあかけいゆう憂色ゆうしょく左右さゆう其故,さいてんあか曰:「われゆうゆうなんじやからおかせほこさきかぶら不幸ふこうこう而死。またゆうなんじやから劫掠ごうりゃく使つかいみん聊生みみ。」槃城,三日不降諸將欲攻之,さいてんあか不可ふか使つかいさとしえつさんにち仍不くだしょはたいか請進へいまた不可ふかにわか將校しょうこうゆうごとじょうじょう而上しゃさいてんあかだいいかかねどめ,召まんせめ曰:「天子てんしいのちやすなで雲南うんなん嘗命わが殺戮さつりく主將しゅしょういのち而擅おさむ,於軍ほうとう誅。」しか左右さゆうばくしょしょう叩頭こうとう,請俟城下じょうかにち軍法ぐんぽう從事じゅうじ槃酋聞之曰:「たいらあきら寬仁かんじん如此,われこばめいのち不祥ふしょう。」乃出くだよししょえびす翕然きゅうぜん款服。こうみなみわしたかひだりこう維屏、みぎこう岑從きょうせきよんじゅうまん來聽らいちょういのちえびす酋入,必有獻納けんのうさいてんあかこぼしぶんたまものしたがえかんある以贍貧民ひんみんあきつよしところまた以酒しょくろうしょ酋,せい衣冠いかんくつ襪,えき其卉ふく草履ぞうりしゅうみなかんえつ

いたりもとじゅうろくねんそつねんななじゅうきゅう百姓ひゃくしょうちまた哭。交趾遣使者ししゃひとしおとろえ致祭,其祭文さいぶんゆうなまわがそだてわが慈父じふ慈母じぼこれうんみかどおもえさいてんあかこうみことのり雲南うんなんしょうしんもり其成ぶんまわし,勿擅あらため大德だいとく元年がんねんおくもりじんうんやすどおすみ功臣こうしんふとし開府かいふどうさんつかさうえばしらこくついふう雍國こうおくりなちゅう懿。後進こうしんふう咸陽おうあらためおくりなちゅうめぐみおさめそく剌丁;哈散,こう東道とうどうせん慰使、元帥げんすいゆるがせからしそくひのと兀默さとたてあきらそうかんゆるがせそく雲南うんなんゆきしょうたいらあきら政事せいじ

おさめそくひしげひのと[编辑]

おさめそくひしげひのとるいかんちゅうたてまつ大夫たいふ雲南うんなんせん慰使元帥げんすいいたりもとじゅうよんねん,遷大金齒きんばとうしょせん慰使元帥げんすい,以兵抵金かば驃、きょく蠟、はるこく,招降じょう乃木のぎひろしこうむじょう巨木きょぼく禿かぶろすりほっとうとりでかんきょく臘溝おりみんよんせんはじめすりあいりょみんいちせんすり奈蒙ただしくろこたえはち剌民まんこうむ甸甫祿ろくみんいちまんだん禿かぶろみんまん。以馴ぞうじゅう入貢にゅうこう賜金しきんじゅうりょうぜんかさね將士しょうししょう賚有じゅうななねん,授資とく大夫たいふ雲南うんなんゆきしょうひだりすすむひろ遷丞。建言けんげんさんこといち雲南うんなんぶんまわし措所づくりきんうす貿易ぼうえきびょうみんいちいい雲南うんなんゆうぎょうはぶけまたゆうせん慰司そちきんせん慰;やめやめ,而元帥げんすいなおそんぎょうしょうすんでけんりょう軍民ぐんみんのり元帥げんすいとうやめいちいい官吏かんり子弟してい入質にゅうしちだい吏弟とうとうやめなみしたがえこれじゅういちねんしんさかえ祿ろく大夫たいふたいらあきら政事せいじしたがえ皇子おうじたく歡征交趾,たまものぎんせんりょう雲南うんなんぞくなおおに相傳そうでん劚土いちしゃくのり死者ししゃ旋踵。おさめそくひしげひのとつげ誡之,使つかい劚土しゃ以聞,於是ちくひさげぼうけんいおりしゃみな避忌。じゅうはちねんはい陝西せんせいゆきしょうたいらあきら政事せいじおさめそくひしげひのと受代雲南うんなんじんはんきんためぞうまつこれじゅうきゅうねんそつおく推誠とく功臣こうしんふとしひらけもうかただしどうさんつかさうえばしらこく中書ちゅうしょひだり丞相じょうしょうついふう岐國こうおくりなさだ簡。後進こうしんふうのべ安王やすおうあらためおくりなせんやすしじゅうにんはくがお中書ちゅうしょたいらあきら政事せいじがらすすなてき雲南うんなんゆきしょうひだりすすむおもねさかえふとしつね禮儀れいぎいん使はくがお察兒,中書ちゅうしょたいらあきら政事せいじおくもりまこと治安ちあんめぐみ功臣こうしんふとし開府かいふどうさんつかさうえばしらこく中書ちゅうしょ丞相じょうしょうついふうじたてまつもとおうおくりなちゅうけん

がらす[编辑]

がらするいかん福建ふっけんゆきしょうあいだ政事せいじけん泉州せんしゅうきょうりょうぐんびょうがくおけ學田がくでんまたちくきょう、莆田とうけんうみ塘爲こう,以贍貧民ひんみん,閩人頌之。 いたり元年がんねんあらためこう浙行しょうたいらあきら政事せいじりょうこう淮等しょざいそうかんごととしひだるざいまいじゅうまんせき賤糶また購米ひゃくせきひだるしゃねんふゆ京師けいしまたとし祲詔こう浙行しょう每歲まいさい海運かいうんまいひゃくさんじゅうまんせき使つかいはるうんじゅうはちまん,以よんがついたり京師けいしいち愕然がくぜん,曰:「凡海うん夏至げしためぽうはる東北とうほくふうやすのうずみごと。」がらす曰:「われ奉天ほうてんいのち敢緩,即時そくじ開運かいうん。」よんがつ海道かいどう萬戶府以狀聞,うんまい五十五石赴都倉訖,官民かんみんしょうけいとき淮財はつだてがらすにゅう覲,太皇太后たいこうたいこうろう而遣いたりはんさい輸增さんじゅうさんまんじょう太皇太后たいこうたいこうたまものむろにしきふすま大官たいかんじょうみこと以爲ちょう賚焉。後來こうらいそつ於官。

ゆるがせからし[编辑]

ゆるがせからしさいてんあかだい三子みつご也。以世しんちょく宿衛しゅくえいせいぜん應對おうたいいたりもとじゅうよんねん,授兵ろうちゅうため河南かなんとうせん慰司どう河南かなんぬすめ官軍かんぐん緝捕しつゆるがせからしひとげきさとしゆうにんらいくだゆるがせからしたまもの以冠ふくかえ,招其とういく,偕盜さきがけじゅうあまりやからいたりはいにわ,瞻視異常いじょう左右さゆうおどろきこわしつ措,ゆるがせからし使吏其姓名せいめいためみん,以飲食いんしょくたまものいのち服役ふくえき左右さゆうぐんぬすめ聞之,そうつぎ款附。じゅういちねん,授雲みなみしょみちてんうん使るい遷汴はりそうかんさんじゅうねん,授兩浙鹽うん使

大德だいとく元年がんねん,擢江東道とうどうせん慰使。あらため陝西せんせいゆき生活せいかつじょう禦史ちゅうすすむまたあらため雲南うんなんゆきしょうみぎすすむときはりおうまつ以皇曾孫そうそん鎮雲みなみゆるがせからしじょうしょ不便ふべんごとしろ於梁おうあらためおう不可ふかゆるがせからしあずかひだりすすむりゅうただしはせかえ京師けいしみことのりおうところそう施行しこう。於是びょうみんせい,劃除はじめつきごうみん避徭やくとうたかしおうもうか宿衛しゅくえいゆるがせからし按舊がくしょもとしゃ,悉籍ためみん宿衛しゅくえいさんふんうまりゅうしゅう謀反ぼうほんことさとし王將おうしょうしゃくゆるがせからしあずかせい反復はんぷくけん鞫,つき奸狀,これぐんかて支給しきゅうみちゆう遠近えんきん,吏夤えんため奸,ゆるがせからしせきぐん姓名せいめい及倉廩之所在しょざいさらばん支給しきゅうへいとげかわぜっ

さきさいてんあかたて孔子こうしびょうおけさい,及卒,ため大德寺だいとくじ所有しょゆうゆるがせぶん奪還だっかんれいしょみちあまねたてびょうがく文教大ぶんきょうだいぎょう

こうみなみ酋沙やつもときょう悍,嘗受そうきむしるしゆるがせからし使つかい招之,とめすうがつ,酋請還。ゆるがせからし曰:「なんじほしかえおさめいんらい。」酋不とくやめ,以印じょうゆるがせからしおけ酒宴しゅえんろう使つかい齎印にゅう覲。 ねんはる酋負かた不服ふふくゆるがせからしひとさとし曰:「わがろうさいてんあか之子ゆきこ,一切奉先人訓汝國所不便事,當爲とういなんじさら。」はる酋聞みん使者ししゃ偕至,けんじしろぞういち,曰:「此象古所ふるところゆうこんおう聖德せいとく而來,敢效かたぶつ。」ゆるがせからし奏聞そうもんみかどだいえつにわかゆう附會ふかい讖以惑王しゃゆるがせからしあずかりゅうただし密奏みっそうみかど使者ししゃ按問,誅之。ゆるがせからし偕使しゃにゅう覲。

はちねんあらため四川行省左丞。またあらため江西えにしゆきしょう至大しだい元年がんねんはいさかえ祿ろく大夫たいふこう西行さいぎょうしょうたいらあきら政事せいじ明年みょうねん,以母ろう乞養そつ於家。てんれき元年がんねんおくもりとくせんめぐみさとしせい功臣こうしんうえばしらこく、雍國こうおくりなちゅう簡。

はくくいちゅうけいたち魯花あかきょくれつ湖南こなんみちせん慰使。

ふみしん曰:もとすえ歙人文節ぶんせつためひろしてい府知事ふちじごう酋饋以金文きんぶんせつ卻這。酋怒曰:「きみさいてんあか耶?乃不受金われきん。」さいてんあかため蠻夷ばんいしょじゅう如此,雖鄭さんすわえまご叔敖なん以尚以哉!

ぬの魯海きば[编辑]

ぬの魯海きばかしこわれじんきばはちうみきばちちきちだいうみきば,俱以こうため其國しん

ぬの魯海きばねんじゅう八隨亦都護內附,たかし宿衛しゅくえいふとし西にしせいぬの魯海きば扈從こしょう避勞たまものたまものひつじ、氈收,また以西いせいりょうきくじるおんな耶律はいふとしくずれあげちょう避短かみなりかんこくせん使つばめきょうそう理財りざい使つかいかえそうひじりふとしきさき聞其れん謹,請於ふとし這宗,使つかいかん沐邑,凡軍つぶせざいつばめきょう中山なかやましゃ悉統すべこれまたたまもの中山ちゅうざんてんしゃ園田そのだみんじゅう,授真正路まさじいたる魯花あか

ふとしむねさんねんはいつばめみなみしょみちかどおとずれ使,佩金とらたまものみんじゅういく,授斷ごとかんときだんごとかんとくせんせいころせぬの魯海きばまき於用けいゆうあやまなぐ人死ひとじにしゃ,吏論以重ほう,其子號泣ごうきゅうしんだいぬの魯海きば戒吏,使つかいばくおく於市,懼則ころせこれ。其子懼色,乃曰:「あやまなぐ人死ひとじにじょう有可ゆかはら而能孝義たかよし誅。」とげなみしゃく使つかいぎん以資そううめ

法制ほうせい未定みていやつ有罪ゆうざいしゅとくせんころせぬの魯海きば其非ほう不能ふのうすくえ,嘗出きん贖死しゃすうじゅうにん。隸軍せきしゃはばか於行やく往往おうおうつのひとだいまた逃歸にげかえしゃ朝廷ちょうていじょうせいつのだいしゃつえひゃく逃歸にげかえしゃいのちぬの魯海きばあずかだんごとかんぼくただ按順てんとうとくつのひとだいしゃまんいちせん,逃者じゅういちにんぬの魯海きば憫而そうみなとく輕減けいげんゆうひのと多産たさんとみいたりそく逃者,のり曰:「此而ころせなに以懲!」其執ほうたいらまことるい如此。

即位そくいしんしん宣撫せんぶじゅうみちいのちぬの魯漲きば使じょうてい富民とみん出錢でせんかしじんしゃ逾時ばい其息,ぬの魯海きば使いき如本而止,ちょためれいなかみつる鈔法ぎょう,以金銀きんぎん爲本ためもとほんいたり,乃降しん鈔。じょう金銀きんぎん,鈔不可ふかとくぬの魯海きば幕僚ばくりょうけいさわ往謂たいらあきらおうぶんすべ曰:「むかしたてまつつえむね金銀きんぎん悉送上京じょうきょうてい南北なんぼく要衝ようしょう商賈しょうこ甚多,こんきゅう鈔既やめしん鈔不くだなに爲政いせい。且以金銀きんぎん爲本ためもとあにわか以民爲本ためもと乎!」ぶんすべ不能ふのうだつたてくだ鈔五せんじょうみんよりゆき以濟。にわか遷順とくとうせん慰使,佩金とら來朝らいちょうみかどいのちすわ慰勞いろうたまものうみひがしひょう鶻。いたりもとねんあきそつねんろくじゅうきゅう

はつぬの魯海きばはいかどおとずれ使いのち下之したのまれけんてきせい曰:「われ聞古以官ためせいてん其以れんためわれ宗之むねゆきせい乎。」子孫しそんみなせいれんつかまつすすむしゃむべやや汰之,せい曰:「ぬの魯海きばこう子孫しそんまたちんしょ,蜚汝しょとうあずか也。」大德だいとくはつおくただしどうさんつかさだいつかさついこくおおやけおくりなこう懿。

じゅうさんにんまれ閔,蘄黃とうせん慰使;まれけんまれじょ中書ちゅうしょたいらあきら政事せいじみずうみ廣行ひろゆきしょうひだりすすむまれねがいまれ魯;まれみつげ昭文あきふみかんだい學士がくしあざみこくおおやけまれちゅうまれくくおもね魯渾うみきば廣德ひろのりたち魯花あかまごじゅうさんにんあらわつかまつ

かどまれけん[编辑]

かどまれけんぜんはじめいちめい忻都。ようさきがけでんとめ凡兒ぼんじきゅうさいいえやつよんにんぬすめうま逃,すんでほうとうぬの魯海きばしょうづけ有司ゆうしまれけん泣諫どめ,俱得めんまた嘗侍はは居中きょちゅうさんゆうやつよいあくげんまれけん曰:「以我よう也。」そくおくごくつえみな有識ゆうしきとしじゅうきゅうさむらい於潛ていおんぐうことぜっまれけんあつしこう以史,しゃくていいちにちぽう讀《孟子もうし》,聞召,ふところしょ以進。とい:「讀何しょ?」たい曰:「《孟子もうし》。」またとえ孟子もうし大義たいぎたい曰:「ひね王道おうどうあきら義利よしとしさまたげいちうし,推恩四海しかい。」嘉之よしゆき曰廉孟子もうこゆかり知名ちめいあずか近臣きんしんこうしゃまえまれけんこし三矢みつやゆうほっ以射しゃまれけん曰:「なんじ以我ため不能ふのう耶?ただしわれゆみりょくあやかじゃくみみ。」左右さゆう授以勁弓,さんはつ連中れんちゅうしゅうおどろきふく曰:「文武ぶんぶざい也。」

受京ちょう分地ぶんちいのちまれけんため宣撫せんぶ使きょうちょうひかえせい隴蜀,おうはんぶん左右さゆうはつざつ羌戎ごう難治なんじまれけんこうもとめびょうそもそもきょう扶弱。ひましたがえめい儒許衡、姚樞とうおとずれどうしゅ請用衡提舉京ちょう學校がっこう教育きょういく人材じんざいため根本こんぽんけいくにせいためしゃ隸籍。きょうちょうごうきょうれいかくくだりまれけんいたり,悉令ちょせきため儒。貧民ひんみんかし富家ふうかぜにいたりほんいき相當そうとうおさむ其本,また以息ためけんてんうたてせめつぐなえごうひつじ羔利。のり虐待ぎゃくたいかち其毒。まれ憲正のりまさ其罪,つぐなえ勿過ほんいきみなけん焚之,ちょためれい

はつせい受命じゅめいけんそう經理けいり河南かなんせきみぎ。讒者いいおうじんせん擅不ほういたりいのちおもねあいこたえりゅう太平たへいけんかく所部ところぶよう酷吏こくりぶんりょう其事,大開おおひらきつげ訐。まれけん曰:「宣撫せんぶ事由じゆうおのれ有罪ゆうざいとうどくにん,僚屬なにあずか。」及事竟,ざいしゃけんむねきゅうねんせい渡江とのえかこえ鄂州,まれけん引儒せいひゃくあまりはいふく軍門ぐんもんいんごと:「王師おうし渡江とのえ,凡土じんむべかんため贖還,以廣しめせとく。」したがえかえしゃひゃく餘人よにんけんそうきょう聞至,まれけんけい曰:「殿下でんかふとし嫡孫ちゃくそん先皇せんのうははおとうとめぐみはじむりつ歸心きしんこんだいぎょう奄棄萬國ばんこく神器じんぎ無主むしゅねがいそく不正ふせいだい,以安天下でんか。」しかこれ,且命まれけん先行せんこうしん事變じへんたい曰:「りゅう太平たへい、霍魯歡在せきひだり,渾都うみざいろくばん太平たいへいせいけんいつわりもとかしこ殿下でんか英武ひでたけ,倘倚せきちゅう形勢けいせい連結れんけつしょしょうのり不可ふかせいむべちょうりょう弼往覘人せい向背こうはい。」したがえこれこうりょう弼自せきちゅうそうりゅうふとし平等びょうどうはんじょうそつ如希けんげんおもねさと哥構らん北邊ほくへん使つかいだつゆるがせおもえ僉兵かわついたちてい名士めいしばん,嘗奉そうひじりふとしきさきいのちさむらいおもねさと講讀こうどくだつゆるがせおもえいか槃不おのれ,械之,まれけんしろ於世而釋むねおうとう察兒,ひがし諸侯しょこうちょう也,せいよく招徠なん其使,まれけん請行。とう察兒えんまれけんまれけん從容しょうようせつ曰:「大王だいおうぞくみこともちじゅう發言はつげん推戴すいたいだれ敢不きょう?」とう察兒したがえ其議。かえそうおどろき曰:「此大事だいじきょうなん輕率けいそつ如此。」たい曰:「《論語ろんごいい:「ときしかこうげんしんしょごとまたおもんみ其時みみ。」

どきねんいたり開平かいへい宗室そうしつ諸王しょおう勸進かんじんせい謙讓けんじょうたかしまれけんふく以天人事じんじ進言しんげん,且曰:「おもねさと哥於殿下でんかためははおとうと留守るすりん專制せんせいゆうねんある覬望神器じんぎこと不可測ふかそくむべはやてい大計たいけい。」良久よしひさ曰:「われけつ矣。」明日あしたとげそくたてもとなかみつるまれけんじょうげん:「高麗こうらいおう世子せいし亻典久留ひさどめ京師けいしこん聞其ちちむべたてためおうかえくに,以恩ゆい。」またげん:「むべ使つかいあずかそうこうこのみ,敕諸ぐんきた。」みかどみなしたがえこれ

はつぶんかんためじゅうみち,乃並きょうちょう四川しせんため一道いちどう,以希けんため宣撫せんぶ使りゅう太平たへい、霍魯歡聞じょうえききゅういたりきょうちょうはかりごとためへんこういちにちまれけんいたりしつぬの詔書しょうしょ使つかいやす慰慰ろくばんいくだんごとかん闊闊使つかいらいつげ:「渾都うみやめはんころせしょ使者ししゃ朵羅,ひとやくみつさとえんしゃ於成,乞台はな於青かく以兵來援らいえんまたあずかこうむ西にしぐんおく魯官兀奴ゆるがせとうきんせいつきおこりしんぐん。且雞太平たいへい、霍魯歡同俱」まれけんとくむくい,召僚ぞくいい曰:「上新かみしん即位そくい責任せきにんわれとうせいため今日きょうはやためけい,悔將及。」まんりゅうくろきょう兆治中高鵬霄、はなしゅういんふみこう,掩捕太平たいへいちぇ魯歡及其とうこれ,悉置於獄。ふくりゅうくろ誅密さとしゃ總帥そうすいおもんみせい誅乞だいはな以驛聞。どきせきちゅうへいいのちひろしおもんみりょうりつしん、鞏諸ぐん進駐しんちゅうろくばんおもんみ以未たてまつみことのりためまれけんそくかいしょいちとらぎんしるし授之,づけぎんいちまんせんりょう以充こうしょう出庫しゅっこ幣制へいせいぐんころもおもんみ感激かんげき遂行すいこうまたはつしょくそつさら戍,及在余丁よちょう,推節制せっせいしょぐんこうむまんはちはる將之まさゆきいい曰:「きみしょ將之まさゆきしゅ訓練くんれんろくばんへいしらげ,勿與そうほこさきただしちょうこえぜい使つかいとくひがしのり大事だいじずみ矣。」かいゆうみことのり大赦たいしゃまれけんいのちしぼふと平等びょうどう於獄,かばね於通衢,ぽう出迎でむかえみことのり人心じんしんとげやす。乃遣使劾停赦行けいちょう調ちょうしょぐん、擅以おもんみためとうざいみかどふか善之よしゆき,曰:「《けい所謂いわゆるくだりけん,此其ごと也。」べつ賜金しきんとら使節しせつせいしょぐん,且詔曰:「ちんきょう以方めんこれけんこととうしたがえよろしゆるがせかかわつねせいすわしつごと。」

西川にしかわぞく鄰奧魯官,はた舉兵おう渾都うみはちはるこれけい其黨五十余人於乾州獄,おくにんいたりきょうちょう,請殺二人ふたり自分じぶん必死ひっしまれけんいい僚憲いい僚佐曰;「渾都うみ不能ふのうじょうぜいひがしらいおもんばかこんしゅうこころざしいちなおふところはんがわかれ其將こうしゅうあるべつせいこころためがいほそわかいん其懼なみひろししゃく使つかい感恩かんおん效力こうりょく,就發其餘ひのと,往隸はちはる上策じょうさく也。」ひも鄰見おく魯官とくしゃくはて大喜だいぎもちきりさとし其屬,人人ひとびとかんえつ

渾都海知かいちきょうちょうゆう備,とげ渡河とか西にし趨甘しゅうおもねあいこたえふくりんりつへいおうまた使つかいひも鄰兄宿やどあつしためしょ招其おとうと。於是成都せいとそちひゃくいえやつきょう元帥げんすいせわしだいあおきょそちひろしおもんみただし、欽察,俱遣使げん人心じんしん危懼きくこと不可測ふかそくまれけん使つかいさとし兩川りょうかわしょしょう夙憚けん威名いめいみなしたがえいのちとき朝議ちょうぎよく棄兩がわ退すさきょうもとまれけんそう曰:「四川しせんやめじょう成功せいこう後悔こうかい及。」みかどそくはいまれけん中書ちゅうしょみぎすすむあるきしんしょく中書ちゅうしょしょうごと。渾都うみおもねあいこたえごうぐん而東,しょしょうしゅとし河西かさい大震たいしんかい親王しんのうあい及汪おもんみはちはるとうごうへいふくせん大敗たいはい,俘斬りゃくつきふくろう叛首於京ちょうこと聞,みかどだい獎這,曰:「まれけん男子だんし也。」しんおがめたいらあきら政事せいじたまものたくいちまれけんねんはじめさんじゅうくも

まれけんそう:四川降民皆散處山谷,むべさる敕軍吏禁止きんし俘掠,たがえしゃ千戶以下與犯人同罪。またきん諸人もろびと販易せいこうゆかりよんかわとげやすくだしゃえきしゅまたやめかいしおしょ摘軍,及京兆諸處無籍戶戍靈州屯田者,以寬民力みんりょくいん察獲そうちょう炳震、王政おうせいにん,以母おいねがいたまもの矜放,まれけんみなこれよしためしょあずかそう四川制置使餘玠,さとし以天どう人事じんじ。玠得しょかん愧,ふくけいどう。鞏昌そちげん,鎮戎しゅうゆう謀叛ぼうほんしゃれん引四ひゃく餘人よにんまれけんしょう推之,おもんみ誅首あくにんそうすすむりゅうせい以瀘しゅうくだつきけいまえくだそうしゃすうひゃくにんまちほうまれけんそうしゃく,且致しょ宰相さいしょうまちせい以思,とうとく其死りょくそう將家しょうかぞくざいきたしゃまれけんとしきゅうかてつかまつ於宋しゃ子弟していとくえつかいしょう父母ちちははにんみなかん

招括北京ぺきんしょぐん牛馬ぎゅうば以濟河西かさいまれけんそう曰:「せきちゅう凋瘵やめきょくさい不堪ふかんやく。」そういれとくふくねん

まれけんちちぬの魯海きばため順德じゅんとくひとし宣撫せんぶ使入朝にゅうちょうめんそう曰:「臣子しんしまれけんあやまこうむ獎拔,おんさとし其分,且事せん,輒恐ひらけ釁。」みかど曰:「ちんよく大用おおゆうまれけんひさ矣,だいなん地代じだいしゃきょう疑懼ぎく。」

璮反,ことれんおうぶんみつるたいらあきらちょう璧素まれけんくんめいいんごと:「ぶんすべためちょうえきれんまれけんこも引,とげ至大しだいよう。且關中形ちゅうがた勝之かつゆきまれけんとく民心みんしんゆうしょうていちょうりょう弼爲輔。此事むべせききよしおもんばか。」みかど曰:「まれけんようごとちんちん其心。ていりょう弼皆せいなにとら焉。」しょく憐人とらためどうきょうもとごとすわほうとうかい赦免しゃめんまれけんあく其爲けんようとら乃爲飛語ひご,譖希けんよし璮叛,またへいせん蓄異こころざしみかど惑之,命中めいちゅうしょすすむみなみごうだいまれ憲行のりゆきしょう,且複けん其事,そつ無實むじつみことのりまれけんかえ京師けいし,陛見,そう曰:「かたせき叛亂はんらんがわしょくやすしかわしょくやすしこときゅうほししんずいむべ行事ぎょうじはかりごとざいとめざいしんしん請逮けい有司ゆうし。」みかどなで禦床曰:「當時とうじげん天知あまちちん知之ともゆききょうなんざい!」慰諭良久よしひさすすむはい中書ちゅうしょたいらあきら政事せいじ

いちにち夜半やはん,召希けんにゅう禁中きんちゅう從容しょうようどう藩邸はんていきゅうこといん及趙璧所ごとまれけん曰:「むかしおさむ鄂時,賈似どうさく木柵もくさくたまきじょう一夕いっせき而成,陛下へいか扈從こしょうしょしん曰:われやすとく如似道者どうしゃようりゅう秉忠、ちょうえきしん曰:「山東さんとうおうぶんすべ才智さいち也,こんため幕僚ばくりょうみことのりといしんしんたいまた聞之,じつ嘗識其人。」みかどはじめしゃく

まれけん在中ざいちゅうしょ舉綱維,綜核名實めいじつ,冗濫,たっそもそもこう當時とうじ翕然きゅうぜんしょうまた建言けんげん:「國家こっかひらきそう以來いらい,凡納及始いのちしん,鹹令もりいたりこんしょうろくじゅうねんしゅうけんちょう吏皆其皂僮奴,むべさらはり使つかい考課こうか黜陟。」乃議ぎょう遷轉ほう

いたりもと元年がんねんちょうははゆうりつ親族しんぞくぎょう西にしれいしゃくいん入口いりくちしゃさんにち,慟則嘔血,不能ふのうおこりしんくさいおり於墓がわおさむ以憂せい未定みていよくすすむこれすんでいたり,聞號つうごえ,竟不にんごといくゆうみことのりだつじょうおこりふくまれけん雖不敢違いのちしかそくもとふく從事じゅうじにゅう必縗絰。及喪ちちまた如之。

奸臣かんしんおもねことりょう左右さゆう碚,せんそうざいかい其黨しょうおさむみかど命中めいちゅうしょ推覆,しゅうかしこ其權,莫敢といまれけんきゅう其事,以狀聞。つえおもね合馬おうまやめ所領しょりょう有司ゆうしみかどさとしまれけん曰:「吏廢ほう而貪,みんしゅぎょう而逃,こうきゅうようざい贍費さきあさ患此ひさ矣。きょうとう爲相ためすけちん此憂。」たい曰:「陛下へいかきよしなおしゅんしんとうのう以臯すえきびちぎりみち輔佐ほさ太平たいへい實力じつりょくおぼれしょく今日きょう小康しょうこうあし也」いんろん及魏ちょうたい曰:「忠臣ちゅうしんりょうしんなんだいこれ。顧人主用しゅよう不用ふようなんじ。」ゆう內侍でんむね內朝どうげんぼうこととうなんじまれけん曰:「此閹宦預せいやや不可ふかけい也。」とげにゅうそうつえ

げんしゃろん丞相じょうしょうてんさわおやとうぬのれつ中外ちゅうがいけんもりみことのりやめてんさわ政事せいじ使つかいまち鞫問。まれけんしん曰:「てんさわごと陛下へいかひさしてんさわふかししゃ如陛陛下へいか以其づけ大事だいじようため輔相,小人こども一旦いったんゆうげん陛下へいかとう察其こころ迹,はてゆう肆橫しゃ乎?今日きょうしんじしんしん進言しんげん他日たじつゆうろんしんしゃしんまた遭疑矣。しんとう備員政府せいふ陛下へいかうたぐしんじわか此,なに敢自てんさわすんでやめまたとうやめしん。」みかど良久よしひさ曰:「きょう且退ちんおもえこれ。」明日あしたみかど召諭まれけんこととげかい

またろん四川しせんそち欽察しゃみかど敕中しょ使つかい誅之。明日あしたまれけんふくそうみかどいか曰:「なおしかおそかい耶!」たい曰:「欽察だいそち,以一小人こどもげん誅之,民心みんしん必駭,むべ逮至京師けいし與論よろんしゃ廷對,しかこうあかり其罪於天,誅之ばん。」みことのり使つかいいぬい按問,こと無實むじつ,欽察とくめん

まれけんまいそうみかどまえろんごとげきせつなしょうかいことみかど曰:「きょうむかしことちんおうしょよう受。こんため天子てんししん,乃爾きょう耶!」まれけんたい曰:「おうごとけい天下てんかごとじゅういちあるめんしたがえ天下てんかはた受其がいしん蜚不自愛じあい也。」

かた請煉だい,敕中しょきゅうしょ需。まれけん以秦、かん故事こじそう,且曰:「堯、しゅんことぶき國大こくだい也。」みかど曰:「しか。」とげ卻之。どきかたみことれい國師こくしみかどいのちまれけん受戒じゅかいたい曰:「しん受孔戒矣。」みかど曰:「孔子こうしまたゆう戒耶?」たい曰:「ためしんとうちゅうためとうこう孔子こうし戒,如是にょぜ而已。

ねんはじめけん禦史だいつぎしつらえかくみちひさげけい按察ときおもね合馬おうませんそうざい,乃曰:「庶務しょむせめなりしょみちぜにたにづけうたてうんこん如此なわことなんよし辦?」まれけん曰:「だてだい察,古制こせい也,內則彈劾だんがい奸邪,そとそくおとずれもとめみん瘼,裨益ひえき國政こくせいだい於此。わかこれ使つかい上下じょうげせん瓷貪暴,ことあにしゅう耶!おもね合馬おうま不能ふのうたいななねんみことのりしゃく京師けいしけいしゅう西域せいいきじん匿贊馬丁ばてい用事ようじさきあさるいきょまんため怨家しょつげけいだいごくすんでしゃく矣,まれけんざいつげじつあずか其事。あきくるまかえうえ,怨家訴於みかどまれけんどうばんしょ,曰:「てん莫測,あにこう其不しょ以苟めん耶。」まれけんにゅう,以詔しょためごとみかど曰:「みことのりしゃくしゅうみみあにゆうみことのりしゃく匿贊馬丁ばてい耶?」たい曰:「しゃく匿贊馬丁ばていしんとうまた聞有此詔。」みかどいか曰:「なんじ等號とうごうしょう讀書どくしょ,臨事乃爾むべなんざい?」たい曰:「しんとうかたじけなため宰相さいしょう有罪ゆうざいとうやめ退ずさ。」宰相さいしょう有罪ゆうざいとうやめ退ずさ。」みかど曰:「ただししたがえなんじごと。」そくあずかひだり丞相じょうしょう耶律どうやめいたりななねん也。いちにちみかどとい侍臣じしん:「まれけんきょなんため?」侍臣じしん讀書どくしょたいみかど曰:「讀書どくしょかたちんしょきょうしか讀之而不肯用,多讀たどくなんため?」せめ其不ふくもとめ進也しんやおもね合馬おうまいん讒之曰:「まれけんあずか妻子さいし宴樂えんらくなんじ。」みかど變色へんしょく曰:「まれけん清貧せいひんなにしたがええんしつらえ?」まれけんゆうやましみかどげん須用すなとうときすなとうさいなん家人かじんもとめ於外。おもね合馬おうまあずかこれきん,且致みつまれけん卻之曰:「使つかい此物はてのうかつじんわれおわり以奸じん所與しょよふく也。」みかど聞而たまものみぎ丞相じょうしょうやすわらわそうまれ憲行のりゆきしょう河西かさいみかど曰:「河西かさい諸王しょおう分地ぶんちまれけんほうげん,於朕ひさし肯曲したがえあに聽諸王命おうめいしゃ。」かい嗣國おうあたま輦哥鎮遼げんしゃ謐其擾民不便ふべんじゅういちねんみことのりおこりまれけんため北京ぺきんゆきしょうたいらあきら政事せいじかた輿こしにゅうたまものすわみかどぬるさとし良久よしひさ,且曰:「りょう霅戶したすうまん諸王しょおう分地ぶんちしょかれみなもときょういのちきょう往,たいちん此意可也かなり。」故事こじ親王しんのう使者ししゃ傳令でんれいむね官立かんりつ聽。まれけんいたりはじめかわ正之まさゆき

ゆう西域せいいきじん自稱じしょう駙馬,營於じょうがいけい富民とみん,誣其祖父そふ嘗貸いきぜにさくつぐなえ甚急。民訴みんそこれぎょうはぶけまれけんいのちおさむこれ。其人いか每次まいじうま入省にゅうしょうどうすわ榻上。まれけんいのち扌座跑,而問曰:「ほう無私むしごくなんじ何人なんにん,敢擅けい良民りょうみん。」れい械之。其人惶懼もとめあい國王こくおうまた爲之ためゆき請,乃令其待たいとげよる遁。にわかみことのりあたま輦哥歸國きこくまれけん獨行どっこうしょうごとあさ廷降鈔買ろくせんひゃくまれけんかい於東おひがししゅうとくともあまりせんさんひゃくまれけん曰:「上之うえののりわか炫。」そくあずかぐん及者,以其ちょくかえかんちょう公主こうしゅ及駙入朝にゅうちょうたてりょうはつみん牛車うしぐるま其所徵求ちょうきゅういたりまんせんかんまれけんえん公主こうしゅ從者じゅうしゃ飲食いんしょく及希けん曰:「わが天子てんし宰相さいしょうなんじ庖人。」駙馬いか起立きりつまれけん面責めんせき曰:「駙馬畋獵,くにせい也。みんざいわがやめはせそう矣。」駙馬おどろきにゅうつげ公主こうしゅ公主こうしゅいんまれけんしゅ,曰:「從者じゅうしゃ擾民,われ知也ともや。請以鈔まん五千貫還斂民之直,こう勿遣使者ししゃ。」貴人きじんみな莫敢たて

じゅうねんみぎすすむおもねさとかいきば下江しもえりょう地形ちけいじょう於朝,請命重臣じゅうしん開府かいふ鎮之。みかどきゅう召希けんかえ使つかいぎょうしょう荊南,たまものすわさとし曰:「荊南いれわが版籍はんせきよく使新附しんぷしゃ感恩かんおん來者らいしゃむこう,且令そう人知じんちわがあさゆうしん如此,またあし以戢其心。みなみ卑濕,ひらききょうよろしこん大事だいじ付託ふたくきょう。」たまもの以養きょしゃうまじゅう以給從者じゅうしゃまれけん曰:「しんごと懼才識淺ちか不能ふのうしょう大任たいにんなに敢辭やまししか敢辭しんたまもの。」ふくゆうみことのりれいまれけんうけたまわ制度せいどさんひん以下いかかん

まれけんおかせあつ疾驅しっく以進。いたり鎮,おもねさとかいきばりつ其屬郊迎,もちはいちりちゅう,荊人だい駭,通商つうしょう販,きょうじょがいへいみん安堵あんどくびろくそう宣撫せんぶせいおけ二司幕僚能任事者,以備採訪さいほう,仍擇じゅう餘人よにんずいざい授職。左右さゆうなんまれけん曰:「こんみな國家こっか臣子しんし也,なによう致疑。」そうかんれい謁大,必廣致珍玩。まれけんこばめこれ,且語曰:「なんじ等身とうしん仍故かんある遷擢,とうねん聖恩せいおんせつりょくほうこういましょ饋者,わかみなおのれぶつわがこれため蜚義;一或系官事同盜竊;わか斂於みん不爲ふため無罪むざい。」みな感激かんげきしゃまたれい敢殺俘獲しゃ,以故殺こさつ平民へいみんろんためぐんしょ瞄,やまい而棄これしゃもとじんおさむやしなえびょう癒,故主こしゅとくふくゆうたてちぎりけんしつうり妻子さいししゃじゅう其罪,乃沒入ぼつにゅう其直。さきこうりょうじょう瀦水陂,以禦てきまれけんいのちけつとく良田よしだすうまんうねふん貧民ひんみんはつすなくらあわ不入ふにゅうかんせきしゃじゅう萬斛ばんこく,以賑公安こうあんひだる大綱たいこうすんで舉,乃選教官きょうかんおけ經籍けいせき,且日おやまいこうしゃ,以厲しょせい

西南せいなんけいほら及思、播田楊二重慶たーちんせいおけ使ちょうじょうおう,俱越境えっきょう請降。こと聞,みかど曰:「さきあさ蜚用へい不能ふのうとくこんまれけんのうれいすうせんひゃくさとがい越境えっきょうおさめ,其治可知かち矣。」せき吏得こうりょうじん私書ししょ敢發,上之うえの樞密すうみつはつ於帝まえ,其中有ちゅうう曰:「かえりはつみん聊生。

皇帝こうていれん丞相じょうしょう鎮荊みなみあにおもんみじんやや德化とっか昆蟲こんちゅう草木くさき,鹹被さわ矣。」みかど曰:「まれけん嗜殺じんのう你也。」まれけんやましひさしいよいよじゅうねんはる近臣きんしんただしぶん忠言ちゅうげん:「こうりょうしめねつ,如希けんびょうなに?」乃召まれけんかえこうりょうみんごう泣遮どうとめあいあずかぞうけんほこらまれけん囊橐蕭然しょうぜんみかど其貧,とくたまもの白金はっきんせんりょう、鈔まんかん

五月ごがつ至上しじょうふとしつねきょうでん忠良ただよしらいといやましまれけんいい曰:「うえ聖上せいじょうりゅう天下てんかにせ根本こんぽんきん聞龍おかのこ延燒えんしょうみん,此常ごとみみまき勿令妄談地理ちりしゃ惑動上意じょうい。」いくはてゆう以徙けん都邑とゆう上奏じょうそうしゃ樞密すうみつ副使ふくしちょうえき中書ちゅうしょひだりすすむちょうぶんけんあずかこれ廷辯,ちからげん不可ふかみかどえつ明日あした,召忠良質りょうしつ其事。忠良ただよし以希けんたいみかど曰:「まれけんびょう甚,なおおもんばか及此耶。」とげどめみことのりせいあげしゅう名醫めいいおうなか明視めいしまれけんやましすんでいたりまれけんふく其藥,のうつえ而起,みかどいいまれけん曰:「きょうとくりょうやましこういよいよ矣。」たい曰:「ぜんやく以療しんやまし,苟能戒慎かいしんのりまこと如聖さとししつらえある肆情たてよくりょうなんえき?」ぶた以醫諷諫也。

會議かいぎりつ門下もんかしょうみかど曰:「さむらいちゅうまれけん不可ふかちゅう使つかい諭旨ゆし曰:「くらいかこれにん以功きょうすわ而論どういたりしょうちゅうことゆう必須ひっすそうかた輿こし以入可也かなり。」まれけんそう曰:「しんやましなんそく恤。輸忠效力こうりょく生平おいだいら所願しょがん。」皇太子こうたいしまたひと諭旨ゆし曰:「うえいのちきょうりょう門下もんかしょうはばか群小ぐんしょうわれためきょうじょ。」しか竟爲おもね合馬おうましょ沮。

じゅうろくねんはるたまものまんかんみことのりふくいれ中書ちゅうしょまれけんしょうやましあつ皇太子こうたいし侍臣じしんといやましいん詢治どうまれけん曰:「きみ天下でんかざい用人ようにんよう君子くんしそくよう小人こどもそくらんしんびょう雖劇,於天。ところ甚憂しゃだい奸專せい群小ぐんしょうおもねあやまくに豁民がいみんやまいだいしゃ殿下でんかむべひらけたいきゅうためへいじょしか感激かんげきやく矣。」戒其曰:「丈夫じょうぶ義勇ぎゆうため禍福かふくあずか於己,いい臯、夔、きびちぎりでんしゅう、召爲不可ふか及,自棄じき也。天下てんかごと苟無牽制けんせいさんだいふく也。」また曰:「なんじ讀《鈥梁おおやけでん》乎?りょう公有こうゆうだいぶしため不肖ふしょうしょ墜,なんじやからむべまき!」

じゅうななねんじゅういちがつゆう大星おおぼし隕一地正寢之旁,りゅう光照みつてる久之ひさゆきかためつゆうまれけんそつねんじゅう

まれけん在中ざいちゅうしょそうくだはたりゅうせいじょう謁,まれけんおとうとまれみつぎため通報つうほうまれ憲方のりかた讀書どくしょこたえまれみつぎせいふくもとめみるまれけんちゅうすわいのちせいいれせい再拜さいはいまれけん一言いちげんせいもとめ退ずさいい曰:「此我這私たくなんじよくゆうしょひね明日あしたとういたり政事せいじどうわが。」せい,愧赧無人むじんしょくいくそうふとしがくしょなまそでいれまれけん肅容いれれい甚恭。しょおとうとといまれけん曰:「われ國家こっか大臣だいじん,嚬笑けい天下でんか輕重けいちょうせい叛臣也,おりはずかしめこれれい其知君臣くんしんいたりかんみな誦法孔子こうししゃわがれい敬之たかゆきのり儒術はた掃地矣。」丞相じょうしょうはく也顔嘗曰:「れんおおやけ男子だんしちゅう男子だんし宰相さいしょうちゅう宰相さいしょう也。」其惟ふくまれけん如此。

大德だいとくはちねんおく忠清ただきよいきとく功臣こうしんふとしでん開府かいふどうさんつかさついふうこくおおやけおくりな文正ふみまさおく推忠運動うんどうしんふとし開府かいふどうさんつかさうえばしらこくつねおうおくりな如故。

ろくにんまこと,僉遼とうしょゆき中書ちゅうしょごとつとむうてなしゅうそうかんまこと中書ちゅうしょたいらあきら政事せいじあつまりけんだい學士がくしまこと,邵武そうかんつね,禦史ちゅうすすむあつし江西えにしとうしょゆき中書ちゅうしょしょうさん政事せいじ陝西せんせいゆきしょうひだりすすむ從弟じゅうていまれけん

かどまれけん[编辑]

まれけんたちはじめいちめいちゅううみきば伯父おじぬの魯海きば嘗曰:「つよしはてとうだいわれ。」ねんじゅうあまりあずか從兄じゅうけいまれけんどうさむらい出入でいり禁中きんちゅう小心しょうしんまきひそかいたりもとはつ北部ほくぶ諸王しょおうかかわころせ使者ししゃせい使まれけん往諭まれけんせん上意じょういむねじょうとおるおう悔謝,ためしつらええんおくてんかさねいちかさね白金はっきんいちしゃくかえそうみかどたまもの以禦ぜんひろしんちゅう大夫たいふ兵部ひょうぶ尚書しょうしょ

ひだり丞相じょうしょうはくがおそうそく渡江とのえじゅうねんはる,授希賢禮よしのり尚書しょうしょ,佩金とらあずかこうさむらいろうちゅう范、氦書すすむしばむらさきしば持國もちくにしょ使そう三月さんがつへいいぬいたり廣德ひろのりぐんどくまつせきもりせきしゃ不知ふちため使かさね而殺守將しゅしょうちょう濡以ためおのれこう受賞じゅしょう知廣ともひろとくぐん明年みょうねんそうほろびちょう濡殺みことのりのこ使つかいまもるまれけんせき濡家あずかこれまれけんねんじゅうきゅう

れん惠山えさんかいきば[编辑]

れん惠山えさんかいきばこうあきらおもね魯渾うみきば之子ゆきこ也。惠山えさんかいきばよう言及げんきゅうちち輒泣養母ようぼきゅう敝衣へいい糲食,以爲はじ母親ははおやあい毀逾れいとし弱冠じゃっかん大臣だいじんよくこもにゅう宿衛しゅくえい曰:「われちちごと以通けいごうれん孟子もうし今方いまがたしつらえねがい讀書どくしょ以科だいすすむ。」乃入國學こくがく積分せきぶん

いたり元年がんねんとう進士しんしだい,授承ごとろうどうじゅんしゅうごとゆうゆみたくみつつみ舉馬とげ怙勢だつ州民しゅうみん同列どうれつかしここれ惠山えさんかいきばいたりそく讞其ごとかえみんようようこもしゃ召入かんあずかおさむえいむね顯宗けんそう實錄じつろくひろはい監察かんさつ禦史,こうあきら劾中しょしょうしんむさぼ猥,同列どうれつ曰:「倘以言責げんせきざいわれしょく也。」すんでまた劾奏明里あけさとただしおもね不當ふとうまつりふとしびょう遷都せんとすいかん,疏會どおりかわつつみ灤、うるし二水にすいまたおさむきょうひがし閘。こよみ秘書ひしょすすむかいぶくそうかんちゅううえ疏言,むかいふつざい蠹俗。時論じろん韙之。淮東かどおとずれごと,遷彙浙行しょう左右さゆういん外郎ういろう,僉河ひがし河南かなん江西えにしかどおとずれごと,擢江みなみぎょう禦史だい經歷けいれき時山ときやまひがししお法大ほうだい壞,以選のぞきてんうん使がつようさいしょう賚金、ぬさうえみこと

いたりせいさんねんはつくだり郊禮,召拜さむらい使明年みょうねんあずかおさむりょうきむそうさん。遷崇文太ぶんたかんため河南かなんゆきしょうみぎすすむ。遷湖廣行ひろゆきしょうみぎすすむ。以武あきらしつもり連坐れんざすんで而事しろ,遷江西行さいぎょうしょうみぎすすむ,就除本道ほんどうれんおとずれ使いく江西えにし省治しょうじまたおちい惠山えさんかいきばはし福建ふっけん久之ひさゆきじょ僉江浙行樞密院すうみついんあらためはい福建ふっけんゆきしょうみぎすすむきょとしあまりたてまつみことのりかえしょうごと,且督ぜいよし海道かいどう供給きょうきゅう京師けいし。遷行宣政のぶまさいん使明年みょうねんはい翰林かんりん學士がくしうけたまわむねせい兼修けんしゅう國史こくしそつねんななじゅうゆういち

ふみしん曰:渾都うみ扔重へいおもねひろしかつ哥,あずかりゅう太平たへい、霍魯歡相ひょうさとれんまれけん以一書生しょせい,拄其あいだけつ猶豫ゆうよひら大亂たいらんいい智勇ちゆう矣。及爲宰相さいしょう,劃爲宰相さいしょう,劃除蠢弊,あずかみん休息きゅうそくただししか以古大臣だいじんことおのれにん元之もとゆき理學りがくめいしんまれけん一人ひとり而已。やすわらわゆるがせ其次也。

闊闊[编辑]

闊闊,きよしほん蔑里よし部族ぶぞくさと罕哈さとあつしこれ。其俗驍勇,ぜん騎射きしゃしょぞくはばかくにはつ舉族內附。補助ほじょきょせんていせん闊闊ため近侍きんじ聞王みさごけん,避兵きょしゅう使つかいせいいたりもん以治どういのち闊闊與かどまれけんみな師事しじすんで而闊闊出使於外,迨還,而鶚やめくだりおもえ慕不しょくしゃ累日るいじつ聞而けんこうけんそうふく召鶚いたりかくはやし,仍命闊闊受學。まいだんおこりもりかざりかんむりふくみさごゆずる,闊闊ふか悔悟かいご明日あしたころもじゅん以進,みさご乃悅。

けんむねねんたてまついのち僉諸軍籍ぐんせき,以丁たけしさんおおしゃたかししょいたりへんせきたわわるいにんみな德之のりゆき。及還,みかどえついのちりょうさんきょうたくみきょく

即位そくいとく授中しょひだりすすむ。遷大めい宣撫せんぶ使とき璮據ずみみなみした故事こじしゅうてい中書ちゅうしょしょうまちほう。闊闊與參議さんぎがらすいにしえろんはかりごと大名だいみょうきんすみみなみ便宜べんぎ從事じゅうじ以伏叛黨,一切重囚皆命戮之於市。」時論じろんしょう其明けついく,以疾そつねんよんじゅう

けんわらわ[编辑]

けんわらわなが叔。しょうはじめ十歲即從王鄂遊。及長たてまついのち入國にゅうこくがくふくしたがえもと衡遊。弱冠じゃっかんにゅうさむらい禁廷きんてい,授中じゅん大夫たいふさむらいたてまつ禦,遷中大夫たいふどうおさむ起居ききょちゅうたてまつ使つかいずみみなみ楊桓けんとげりょくこもいたりもとじゅうさんねん,授嘉大夫たいふれい尚書しょうしょ,遷吏尚書しょうしょ,秩未滿みまんとく授通大夫たいふ、禦史。じゅうよんねん扈從こしょう東征とうせい有功ゆうこう,遷燕南河みなみかわ北道ほくどう肅提けい按政かどおとずれ使じゅうはちねん,授正大夫たいふつばめ南河みなみかわ北道ほくどう肅政かどおとずれ使はい河南かなんゆきしょうたいらあきら政事せいじえき召赴闕,はい,以疾そつねんさんじゅうきゅう