新元しんもと/まき183

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 まきいちひゃくはちじゅう 新元しんもと
まきいちひゃくはちじゅうさん 列傳れつでんだいはちじゅう
まきいちひゃくはちじゅうよん 

ちぇあきらそう欽其 りゅうせん しんちょうきょうなか 楊居ひろしきょ 楊朵ただ教化きょうか はな しょうはいじゅう

ちぇあきら[编辑]

ちぇあきらなかぶん大同だいどうひろしゅうじん,一名燕帖木兒,せい警敏,せいざいせんおか召見,おう對稱たいしょうむねいのちぼく鄰吉歹將ゆう戍淮みなみ。蔔鄰きち歹甚敬禮けいれい使つかいあきら覘敵形勢けいせいあきらせんかさねしょ俘獲。にわかひのとちちゆうかさね授金ためそうかんなかみつる元年がんねんあらため西京にしぎょう參議さんぎせん慰司ごと嘗命やすわらわ舉漢じん識治からだしゃいちにんやすわらわ舉斌,にゅうちん時政ときまさ得失とくしつ,甚合みかど

どきみかど銳意えいいあきら危言讜論,めん是非ぜひしょいみな避。みかどこううえ,嘗召あきらあきら下馬しもうまあゆみしたがえみかどいのちこれいんといため大體だいたいとうなんさきあきら以任相對そうたいみかど曰:「なんじためわが舉可ため相者そうしゃ。」あきら以安わらわふみてんさわたいみかど默然もくぜん良久よしひさあきら曰:「陛下へいかあに以臣猥鄙,しょ舉未まことおおやけゆうしょ惑歟?こん近臣きんしん鹹在,乞采しゅげん陛下へいかさい。」みかど俞其請,あきらたてうま揚言ようげん曰:「敕問やすわらわ爲相ためすけ可否かひ?」しゅう歡呼かんこまんさいみかどえつとげなみしょうにんじょあきら左右さゆう司郎しろうちゅうまいすすむ,必與近臣きんしん偕,其所けんじかえ,雖執政しっせい大臣だいじんゆうとく聞者,故人こじんかいおもねごう馬立うまたてせいこくよう使つかいせんそうざいいち以掊かつ爲事しごとあきら曰:「あずか其有聚斂しんやすしゆうぬすめしん」於帝ぜん屢斥其奸。

いたりもとよんねんため東平とうへいそうかんねん大兵だいひょうみなみせいみちことぶきはり兵士へいしゆう撤民せきとう赤子あかご於地以死,斥於あきらあきらはせいい主將しゅしょう曰:「いたりてきさかい,而先ころせわれみん國有こくゆうつねけいなんじまたとうすわ。」於是兵士へいし于獄,しゅ莫敢はんとしだい祲,せい如常ねんあきらはせそうめんふく請於あさとくこうぞぬさじゅう萬緡以賑民饑。ろくねんじょどう樞密院すうみついんごと

大軍たいぐんかこえじょういのちあきら河南かなんゆきしょうごとかたおさむ鹿しかかどさんあきら曰:「峴山西にしまんやまきた抵漢こう築城ちくじょう浚塹,以絕餉援,のりじょうすわせい矣。」調ちょう曹、濮民ひのと屯田とんでん南陽なんようあきらやめ以近へいみん以爲便びんまた戶部とべきゅうはま、棣、あお、滄鹽けんづけぎょうはぶけつのみん以米貿之,仍增價ぞうか糴。遠近えんきん輸販しゃ輻輳ふくそう,饋餉不勞ふろう而集。敕河みなみ四路籍兵二萬以赴襄樊,あきらはせそう曰:「河南かなんしょう而調しげるじつ不堪ふかんいのちげん其半ためよろし。」したがえこれじょうすんでてんよしみ大夫たいふ,仍僉ゆき中書ちゅうしょしょうごと

じゅういちねんみことのり丞相じょうしょうはくがおそう改行かいぎょうしょうため河南かなんせん慰司,ちゅうたてまつ大夫たいふ賜金しきんとらたかしせん慰使。はくがおすんで渡江とのえふんめいじおもねさとかい涯定湖南こなみ,以斌貳之にのはいゆき中書ちゅうしょしょうさん政事せいじ

じゅうねんじゅうがつかこえ潭州,あきらおさむ西北せいほくてつ壩。おもねさとかい涯中流矢ながれや不能ふのうぐんあきらりつしょしょうよるしゅう壩下,黎明れいめい畢登,せん不利ふりあきら曰:「かれしょうとし而驕,こん焚其かくろうだん其援どう,塹城ためさんしゅうのりじょうとく。」しょしょうしかこれ。乃銜まい以待てつ壩,にんせき芻稭はしご其樓,且堅木柵もくさく壩上。つめだん大軍たいぐんぬの雲梯うなて而上,あきらはさみたて先登せんとうだつ木柵もくさくよりどころおもねさとかい涯持しゅろう曰:「此城,おおやけ力也りきや。」あきら曰:「潭人きもやぶ矣。わか斂兵すすむもと其來くだのり土地とち人民じんみんみなわがゆうみずうみ以南いなんれんじょうすうじゅうでんげき而定,わかたてへいきゅうおさむかれ噍類,とく空城そらじょうなにえき!」おもねさとかい涯從ひと開示かいじ禍福かふくしろ人出ひとでくだしょはたいか其久こう,咸欲ほふこれあきら喻以きょう本意ほんいしょしょう曰:「百姓ひゃくしょうとう如公せつへい必誅。」あきら曰:「かれかくため其主みみむべ旌之,以勸しゃ。」しょしょう乃止。潭人德之のりゆきためりつせいほこら

じゅうさんねんたてまつみことのりさとし廣西ひろせひろいのちかえ湖南こなんやす、湘鄉ぞくしゅうりゅうちょうとうちょうとらとう所在しょざい蜂起ほうき,及事ひらめどう僚議つき戮降しゃ,以懲はんがわあきらただし按誅くびあくおびえ從者じゅうしゃしゃくじゅうよんねん,遷行しょうみぎすすむしんかいぜん大夫たいふ

じゅうねん,召入覲。ときおもね合馬おうま擅權,廷臣ていしん莫敢ごとあきらしたがえみかどいたり察罕淖爾,みかどとい:「江南こうなん各省かくしょう吏治如何いか?」あきらたい治安ちあんみちざいとくじんこん所用しょよう其人。よし極言きょくげんおもね合馬おうま奸蠹,一門子弟並爲要官。みかど乃令大夫たいふしょう樞密すうみつ副使ふくし孛羅按問,黜其おやとうけんかく其不法事ほうじやめ天下でんかうたてうんうみ內稱かいあきらまたげんおもねろうかわらひのとだいしん劾其ぬすめかんぜにごとなお竟,こんふく授江淮參政さんせいなに以儆貪吏。みことのりやめこれてきなお書留かきとめゆめえんしゃもとあきらげん:「こう行事ぎょうじいたりじゅう,而省しんいちにん通文みちふみぼくしゃ。」乃遷あきらこう淮行しょうひだりすすむすんでいたり,凡蠹こくびょうみんせい,悉革,仍條以聞。おもね合馬おうまへい其疏うえ時江ときえ淮行しょうたいらあきら政事せいじおもねさとはくまたあずかおもね合馬おうまゆうすきおもね合馬おうま乃誣阿さとはくあずかあきらぬすめ河南かなん營田かんかてよんじゅうまんせきいのち刑部おさかべ尚書しょうしょちゅう按其ごと,逮營ひさげひかえあん牘宋欽其下獄げごく。欽其不承ぶしょう。以酷けい訊之,あらためおもね合馬おうまえきいかふく北京ぺきんゆきしょうさん政事せいじちょう澍等よんにんざつ治之はるゆきあきらあずかおもねさとはく俱論ひろしそうざい東宮とうぐう聞之,ぽうしょくとうちょ惻然,吏止やめ及矣。天下てんか冤之。としじゅうろく至大しだいはつおく推忠ぶし功臣こうしんふとしでん開府かいふどうさんつかさついふうていこくおおやけおくりなちゅうあつし

さんにん良知りょうちたけしおんみなため顯官けんかん

そう欽其[编辑]

そう欽其しゃ敬之たかゆきさるしゅうじんはつためじょうおもねさとかい涯器,擢河みなみ營田つつみひかえあん牘。こうようたばまたえんごと逮之,みちそつぶん瓚,てんれきちゅうためれいさむらいろう

りゅうせん[编辑]

りゅうせんはくせん,其先潞州じん徙陽きょくちちくんきん河南かなんしょうじょう博學はくがく知名ちめいあずかもとこうといともぜんせん沈毅ちんき清介せいすけゆう經世けいせいこころざし宣撫せんぶちょういさおてるいたり河東かとう而器かえあさこもため中書ちゅうしょしょうじょうとげしたがえ國子くにこさいしゅもと衡受がくはついのちため河北かほく河南かなんどう巡行じゅんこうすすむのう副使ふくし

いたりもとじゅうねんにゅうため中書ちゅうしょ戶部とべろうちゅう改行かいぎょうしょうろうちゅうしたがえ丞相じょうしょうはくがお平江ひらえみなみはくがお嘗使せんまいだいけんじとし召見,おう對稱たいしょうむねたまものふくちょうこう南平みなみだいらいのちせん沙汰ざたこう淮冗かん,其所そんかわ,悉合公論こうろんじょ松江まつえいくどう浙西せん慰司ごと在官ざいかんねんめぐみなみちょ。遷江淮行しょう參議さんぎ,擢江西湖さいこ東道とうどうひさげけい按察使

じゅうねんにゅうためれい尚書しょうしょ,遷吏ときはたやすみなみせんじょうげん曰:連年れんねん日本にっぽんこれやく百姓ひゃくしょう愁戚,かん擾攘。今春こんしゅんとまやめこう軍民ぐんみん歡聲かんせい如雷。やす南小みなみこくに臣事しんじゆうねんとしみつぎ嘗愆あたりそちせいごときょうへいかれいん避竄海島うみしま使つかいだい舉無こう將士しょうしきずざんいままたしたれいさいせい,聞者莫不恐懼きょうくきょうへい必須ひっすてん中原なかはらひらなお盛夏せいか,交廣えん瘴之毒氣どくけがいじん,甚於兵刃へいじんこんなながつかい諸道しょどうへい於靜こういたりやすみなみ病死びょうし必衆。緩急かんきゅうぐうてきなに以應またやす南無なむかて水路すいろなんどおりめん陸運りくうん。一夫擔米五鬥,往還おうかんしょくがいかんとく其半。わかじゅうまんせきもちいよんじゅうまんにんとめきょういちがつぐんかて搬載,ふねりょうぐん須,通用つうようろくじゅうまんにん廣西ひろせ湖南こなん調度ちょうどしきかずみん離散りさんれいきょうやくまた不能ふのう辦。きょうみずうみこうみつ邇溪ほら寇盜嘗多。まんいち奸人伺隙,大兵だいひょういちじょうきょせいへん,雖有とめ人馬じんばつかれじゃくおとろえろうそつなん應變おうへん。請與かれちゅうへいかんふか知事ちじからだしゃ商量しょうりょうまんぜん方略ほうりゃくしかはたふく蹈前わだち矣。

及再せい日本にっぽんせんまたうえげん曰:きんふくおけせいひがしぎょうはぶけ再興さいこう日本にっぽんこれ,此役いき安危あんきけい焉。唆都けんうらないじょうおもねさとかい涯言ひら交趾,さんすう年間ねんかんひろ江西えにし供給きょうきゅうせんせきぐん須糧うん官民かんみんだい擾,廣東かんとん群盜ぐんとうなみおこりかんへいとおわたるこううみ瘴毒死傷ししょう過半かはんれんへいかいやすみなみあずかわがせっさかい,蕞爾しょうくに親王しんのうひさげへい深入ふかいり未見みけんほうこう,唆都ためぞくしょころせ羞辱。きょう日本にっぽん海洋かいようまん,疆土闊遠,こくこん此出じつためくつけわしたて不遇ふぐうふういた彼岸ひがん倭人わじんしゅ猥多,かれへいよんしゅうわが無援むえんまんいち不利ふりよくはつすくいへい,其能飛渡とんど耶?ずい高麗こうらいさんだい舉,ひゃく萬太宗親征高麗,雖取すうじょう而還,ぞうつい悔。且高麗こうらい平壤ぴょんやんしょしろみなきょ陸地りくち中原なかはらとお,以二こくしゅうなお不能ふのうかつきょう日本にっぽんへきざいうみすみあずか中國ちゅうごくしょうかか萬里ばんり哉!疏入ふく聞。

じゅうさんねん十二月じゅうにがつ中書ちゅうしょ省議しょうぎさら鈔用ぜにせんけんじ曰:はら交鈔しょおこりかんから以來いらいみな嘗有。そう紹興しょうこうはつぐん餉不まましみやつこ此以さそえしょうたびため沿邊糴買けい銅錢どうせんえき於賚擎,みん甚便ややゆうとどこお礙,そくようぜになおそん古人こじんははしょうけんにちぞうがつえき,其法ひたへい欲求よっきゅう目前もくぜん速效そっこう未見みけん良策りょうさくしん鈔必よく創造そうぞうようけんきゅう鈔,ただあらためかわ名目めいもくきむ銀作ぎんさくほんしょうひっさげ軍國ぐんこくささえようふくそもそもそん,三數年後亦如元寶矣。鑄造ちゅうぞう銅錢どうせんまたとうしょうきわむはたかんずいとうきむそうとしびょうちょざいさくまち縷陳るちんくにあさはいぜにやめひさし一旦いったんくだりこうためとおけい大抵たいてい民權みんけんぶつ,其要妄用はじめわかよくずみおか壑之ようおもんみ鑄造ちゅうぞうじきそもそもまたひさへい矣。てきくわ哥謀りつ尚書しょうしょしょう,以專國柄くにがらぜにとげやめ

じゅうねんよししゅうけん學士がくしじょちゅうすすむぎょうだいごと時江ときえ浙行しょう丞相じょうしょうせわしだい,悍戾たてほしいままゆうせんいちにち大夫たいふあずかちゅうすすむ出城でしろてん軍船ぐんせんゆう軍船ぐんせんあしちょうりょうつめためぎょうしょうかんしょ使まいあげしゅうくつがえじつせわしたいむくいふく伺台ちゅうたがえしつだいかんみな竦懼,かげもとめかいおもんみせん屹然きつぜん不動ふどうせわしいにしえだいいか宣之のぶゆきけいあげしゅうごくまたれいさけつとむよなげきんとうかん及錄ごとかん以罪めんしゃ誣告ぶこくぎょうだい沮壞ぜにかて,聞於あさ,必欲おけせん死地しち朝廷ちょうていためおけごく於行しょう,鞫其ごとせん及御ろくにん俱就逮,すんでとうぶねぎょうしょうれつ兵衛ひょうえきんこれいたりそくぶんしょ使つかい往來おうらいきゅうがつついたちせん剄於ぶねちゅう

せん將行まさゆきしょ後事こうじ緘付したがえまことれい勿啓せん其書曰「さわいか大臣だいじん,誣構成こうせいざいあにのうあずかけいだん小人こども交口べん訟、こごめひざ於怨まえためだいしんよし受辱,とう引決いんけつただし以身殉國じゅんこくため恨耳。嗚呼ああてん乎!じつ鑒此しん。」べつゆう文書ぶんしょげんせわしたい罪狀ざいじょう,其稿塗抹とまつ不能ふのう識,せんともぜんしょさむらい霍肅ため敘次其文,讀者どくしゃ悲之。

せんすんで引決いんけつぎょうしょうしろ於朝,以爲せんざいじゅう自殺じさつ前後ぜんご構成こうせい其事しゃろうちゅうちょう斯立也。斯立,すみみなみあきらおかじんためぎょうしょういん外郎ういろうせんため參議さんぎそうとく甚歡。斯立すわ阻格江南えな鈔法,尚書しょうしょしょういのちせんつえせんためにん其事,かし斯立ばついたり斯立徇上かんしゅうおさむせんざい時論じろんうすのべゆうよんねんまことじょうせん行實ぎょうじつだい以聞,おくぜん大夫たいふちゅうすすむうえまもるぐんついふう彭城ぐんこうおくりなちゅうけん

つとむうえ蔡、臨潁けんいん自得じとく,杞縣ぬし簿

はたちょうきょう[编辑]

はたちょうきょう河南かなん洛陽らくようじんせい倜俶ゆう大志たいし在京ざいきょうちょうやめ聞其めいすんで即位そくい,以布ころもちょういたり京師けいしちょうきょうひさしふうぶしこうろんごとあずかりゅうせんどうざい宿衛しゅくえい

尚書しょうしょしょうりつおもね合馬おうませんせいちょうきょう上書うわがき曰:「しん戇,のう識阿合馬おうま,其爲政いせい擅生殺人さつじんにんかしこはばかこれかた莫敢ごとしか怨毒またやめ甚矣。かん禁絕きんぜつ異議いぎもりふさが忠言ちゅうげん,其情はたちょうだかわたし蓄逾公家くげ,覬覦非望ひぼう,其事かんただしたく。《春秋しゅんじゅう人臣じんしんしょう,請及其未はつ誅之。」こと中書ちゅうしょしょうおもね合馬おうま便びん佞,ぜん伺人主意しゅい左右さゆうへんためすくいかいこととげしかゆかりだい恨長きょうじょ興和こうわせんとくどうてつ冶事,竟誣以折閱課がく,逮長きょう吏,せき其家さんつぐなえかんまた使つかい獄吏ごくりころせこれ獄吏ごくり濡紙ふさが其口はな即死そくしいくおうちょころせおもね合馬おうまみかどさとる其奸,斫棺戮屍。而長きょう冤終しろ

ちょうきょうしたがえなかやまはじめためたてやすし判官ほうがん,聞長きょう冤狀,そく自棄じきかんおもね合馬おうまふく誅,姚燧あずか執政しっせいごと:「なか以諸ちち冤,肯仕,むべこも。」ぎょうだいさむらい裴道げん舉爲あきらしゅうしゅういたりもとさんじゅうねんそつ於官。

仲子なかこしたがえりゅうつかまついたり南台みなみだいしょさむらい循史;したがえとく中書ちゅうしょまいり政事せいじしたがえりゅうあずかおさむ經世けいせい大典たいてん》,ゆめ其父といちょうきょうごとやめげん於史かんいなしたがえりゅう乃以おうげん所作しょさ家傳かでん上之うえの

楊居ひろし きょ[编辑]

楊居ひろしひろしあずまあきら莘縣じん。辟中しょしょうじょう,擢左みぎ司郎しろうちゅうるい遷江浙行しょう參議さんぎにゅうため中書ちゅうしょしょうさん政事せいじせい剛直ごうちょくくわ哥爲そうせいいん使さいわいすすむしゃにゅうまかないそくとくかんきょひろし在中ざいちゅうしょしょうつねさいそもそもくわ哥怒,及拜尚書しょうしょみぎ丞相じょうしょう,誣以ざいころせこれせき其家,おもんみ其子しゅうけんちょく學士がくしくん連坐れんざきょひろし死時しにどきねんじゅう

おとうときょ簡,したがえそうるい遷唐しゅうしゅう有能ゆうのうめいくわ哥伏誅,上訴じょうそけい冤,みことのりかえところせきさんかん其二そのじまごきょ簡子ます翰林かんりん國史こくしいんけん閱官。きょひろし從弟じゅうていきょよし浦東ほとうじょうしおつかさすすむまたゆう吏能。

楊朵ただ[编辑]

楊朵ただ河西かさいやすしなつじんちちしき臘唐兀台,きゅうごとひろしそうはやそつひろしそうくずしりゅうぶくふとしきさきざい東宮とうぐうとい左右さゆう曰:「しき臘唐兀台有子ゆうこ?」以朵ただ及其おとうと教化きょうかたい。乃命教化きょうかさむらいたけはじめ,朵兒たださむらいじんむね

なりむねくずれひとしそうふところけいにゅうやすし內難,さきいのち朵兒ただはじめいたり京師けいしあずかみぎ丞相じょうしょう哈哈まごじょうけい。及仁そういたるいのち朵兒ただりょう禁衛きんえいおやかい禦帶以賜。じんむねため皇太子こうたいし,授家れいすすむ旦夕たんせきさむらいがわいたり廢休はいきゅう沐。たけはじめ聞其けん,召見皇太子こうたいしためさきよう曰:「此人まことにん大事だいじしか剛直ごうちょく寡合。」みかどしかこれ

じんむね即位そくい朝臣あそんあやまくにしゃはたつき誅之,朵兒ただ曰:「爲政いせい而尚ころせ帝王ていおう也。」ひとしむねかん其言,とめ誅脫とらだっとう。它日あずか中書ちゅうしょたいらあきらはじめろんもとしたがえ人材じんざいはじめ以朵ほけためだいいち拜禮はいれい尚書しょうしょはつ尚書しょうしょしょう改作かいさく至大しだいぎん鈔,一當中統鈔二十五,またどうため至大しだいぜにいたりやめこれ。朵兒ただ曰:「ほうゆう便びんいな不當ふとう立法りっぽう人爲じんいはいおけ。鈔固とうはいぜにあずかこうじぬさしょうけん而用,いにしえ道也みちやくに棄寶,みんしつぜに遽廢也。」げん不盡ふじんよう時論じろん韙之。遷宣徽副使ふくし請爲だいかんみかどもと

ゆうげん近臣きんしん受賄しゃみかどいか其非しょとうげんはた誅之。ちゅうすすむちょう叩頭こうとう諫,聽,朵兒ただ從容しょうようげん曰:「いさかいしんひさ矣,ちょう真中まなかすすむ也。」みかどえつ,竟用珪言,且拜朵兒たださむらい。嘗侍えん群臣ぐんしんある談笑だんしょう逾常,而朵ただどくせいしょくみかど爲之ためゆきあらためよう。遷中すすむたいらあきらちょう閭以つまびょう,謁告かえり江南えなだつみん河渡ごうど,朵兒ただ以失大體だいたい,劾罷江東こうとう西にしたてまつ使つかい斡來しょうしょく,朵兒ただ劾而つえ

おさめ璘以げん忤旨,みかどいか,朵兒ただすくいいち曰至はちきゅうそう,曰:「しんへんまもるおさめ璘,まことねがい陛下へいかゆうころせ諫臣。」みかど曰:「ためきょうなだめこれ左遷させん昌平しょうへいれい。」朵兒ただまたげん:「以御おさむきょう邑,不可ふかしゃただし以言ごと左遷させんこわ後來こうらい引以ため戒,莫肯つきげん矣。」它日みかど讀《さだかんせいよう》,朵兒たださむらいがわみかど顧謂曰:「せいいにしえのこ直也なおやちんやす得用とくよう?」たい曰:「ちょくよしふとそうふとしそう聽,しるし雖直奚益!」みかどわらい曰:「きょうざいおさめ璘耶?とう赦之,なりなんじじきめい。」

ゆう上書うわがきろん朝廷ちょうてい闕失,而觸宰相さいしょうしゃ宰相さいしょういかはたかなでころせこれ。朵兒ただ曰:「詔書しょうしょくもげん不當ふとう無辜むここんわか此,なに以示しん於天はてころせしんまた其職矣。」みかどさとるしゃく昭文あきふみかん大學だいがくすすむかいさかえ祿ろく大夫たいふどきいちひんしゃじょうあいだ邀贈さきおう爵。あるいい朵兒ただ倚眷たかしむべ奏請そうせい。曰:「いえほろかんこうぎわぐういたり此,やめ懼弗たたえきょう敢多もとめ乎!且我爲之ためゆきなに以風厲徼こうしゃ!」遷中せいいん使いくふくためちゅうすすむ

はつてつ叠兒ようきょうひじりふとしきさきむね,召爲中書ちゅうしょみぎ丞相じょうしょう上意じょうい也,きょりょう有罪ゆうざいたくやめすんで而,衎緣近臣きんしんさい入相いりあい,恃勢むさぼしいたげちゅう外切がいせつしか莫敢はつ其奸。朵兒ただ慨然がいぜん以糾劾爲おのれにんかいちょう弼子ごくおこり,朵兒ただれんとくてつ叠兒受贓ろくまんかん,其大やつまた受數せんつげかん察御だまりゅうじょうじょ元素げんそ按實にゅうそう。而御また輦真べつはつ其他わたしざいじゅう餘事よじみかどほんあくてつ叠兒,いたりふるえいかみことのり逮問,てつ叠兒はし匿太きさき宮中きゅうちゅうみかどため禦酒しゃ數日すうじつ,以待けつごく,誅其だいやつすうにんてつ叠兒おわり不能ふのう,朵兒只持ただもちきゅう。徽政いんしん以太きさきむね,召朵ただいたり宮門きゅうもんせめたい曰:「まちざい奉行ぶぎょう祖宗そそうほう,必得罪人ざいにん敢違ふとしきさきむね也。みかど仁孝にんこうおそれ忤太きさきただしだつ其丞しょう印綬いんじゅ,而遷朵兒ただしゅうけん學士がくしなおすう以台ごとおとずれこれたい曰:「しんしょくごと敢與聞。ところねんしゃてつ叠兒雖去くんがわはんため東宮とうぐう師傅しふざい太子たいし左右さゆうおそれ售其奸,のりゆう不可ふかかちげんしゃ。」

じんむねくずれえいむねざいりょう暗中あんちゅうてつ叠兒ふくしょうそくせんふときさきむね,召朵ただいたり徽政いんあずかほろせい使しつれつもん大夫たいふだつ忒哈ざつ鞫之,せめ以韙むねつみ,朵兒ただ曰:「恨不なんじ以謝天下でんかはてたがえぶときさきむねなんじひさしゆう今日きょう耶!」てつ叠兒また使つかい同時どうじためしゃ人證じんしょう其獄,朵兒ただにんつば曰:「なんじとうみな備位かぜけん,顧爲けん彘事耶!」すわしゃみな慚俯くびそくにゅうそう朵兒ただ於國門外もんがいころせこれひるみそじん恟懼。えいむね即位そくいみことのり天下でんか以誣妄大臣だいじんつみ

朵兒ただしょうあずかあに教化きょうか友愛ゆうあいあにこと寡嫂有禮ありのり兄子せこ如己家人かじん。及死,權臣けんしんほしだつ其妻りゅうあずかひとりゅう剪發毀容,ちかい以免。おくおもえじゅん功臣こうしんきむむらさきこう祿ろく大夫たいふうえばしらこくついふうなつこくおおやけおくりなじょう愍。

はなかんいたり河東かわとうれんおとずれごとゆうころせ誣怨しゃごくなりはな讞之曰:「以じゅう歲兒さいじじゅういちそうやめうたぐゆうかれ以斧ころせかたきじん,必盡力じんりょくなに創痕そうこんあさはん不入ふにゅうはだ耶?」そつとく其情,ひらたはんこれてんれきはつ陝西せんせいへいにゅう河東かわとう戰沒せんぼつ仆皆したがえ教化きょうかようごとたけはじめ于潛ていたけはじめそうへい北邊ほくへん,以成むねしょたまものだましるしためれい使つかい教化きょうかふところ大德だいとくじゅうねん教化きょうかにゅうそう軍事ぐんじ,且請頒歲たまものたいきょう其券した教化きょうか憤怒ふんぬせめ曰:「太子たいし躬擐かぶと胄,ぼうまんそとよりゆきとしたまもの以給軍旅ぐんりょもちい奈何いかん靳之?恨不とくめんしつなんじざい于天。」引所持しょじ撾擊

及成むねくずれ教化きょうかやましいたりふところしゅうじんむね,請即入朝にゅうちょう。內難とげたいらたけはじめ即位そくい群臣ぐんしん以次召見,もん教化きょうか:「たいきょう孰爲なんじしょげきしゃ?」敕誅,以其家產かさんたまもの教化きょうかたい曰:「ことざい赦前,不可ふかてきしつ大信たいしん於人。いたり以其家產かさんたまものしんしんゆう敢奉みことのり。」たけそうよしみ歎,したがえこれちょうはいどうたいいんごと

至大しだいねんだいそうため江南えな北道ほくどう肅政かどおとずれ使にゅうみかどえつ曰:「此朕左右さゆうしゅなにれいとお。」とめためしょうさくいん使ねんそつとしさんじゅうさんおくこうぶしせんちゅう翊載功臣こうしんだいつかさきむむらさきこう祿ろく大夫たいふうえばしらこくなつこくおおやけおくりなじょうさとし衍飭,かん察御

しょうはいじゅう[编辑]

しょうはいじゅうちぎりせき抹氏。

かいうしやつつかまつきむため北口きたぐちせん大兵だいひょう南下なんかどう戍之はた招燈必舍遁,うしやつどくそちさんせんにん夜襲やしゅうだい營,力戰りきせんかつ,乃開せきおさめくだふとしいのちうしやつついかさね招燈必舍,及諸ひらめ、灤,くだこれしたがえ大軍たいぐんおさむひらめ、灤、だんじゅんふか、冀等しゅうした昌平しょうへいけん及紅にしひらいただきしょ寨,またへいはいきんへい於邦くん甸,以功ためまゆみしゅう軍民ぐんみん元帥げんすいくるま西にしせいえきおくたけゆみいしゆみつるかくいちまん,擢擅、じゅん昌平しょうへいまん,仍管たかぼうじんたくみそつかんうしやつおとうとろうかわらため禿かぶろ魯花,かさねまゆみしゅう節度せつど使つかいあずかかねじんせんぼつ

青山あおやまかさねまんしたがえ丞相じょうしょうはくがおひらそうかん湖北こほくひさげけい按察使ちち哈剌じょうしょうこと太子たいし真金まがねてん東宮とうぐう宿衛しゅくえい擅州,そつ

はいじゅう嘗從なりむねきたせいゆかりまゆみしゅういりためれいろうちゅうどう知大ともひろ都路みやこじそうかんごとまた中山ちゅうざん同憂どうゆうかんぞくじんそういずるきょふところはじめみち中山なかやまゆうどうかん譖於近侍きんじいいはばかむかえこうろうみみじんむね頷之,てき見田みた中老ちゅうろうおうなもんかん孰賢,おうなたい:「ゆうしょう,奔喪かえ,禱其そくらい。」みかど乃釋。

たけはじめ即位そくいおこりふく中書ちゅうしょしょうひだり司郎しろうちゅうため河間こうまそうかん,召充みぎまもるりつ使,遷戶尚書しょうしょはいちゅうすすむすめらぎけい元年がんねん,遷陝西行さいぎょう中書ちゅうしょしょうみぎすすむのべゆうさんねんにゅうはい中書ちゅうしょたいらあきら政事せいじやめためてんみずいん使こよみたかしさちいん使かいぎんあおさかえ祿ろく大夫たいふはいじゅう在中ざいちゅうしょ,頗牽制けんせいてつ叠兒所爲しょいまたはつ其奸贓諸辜。てつ恨之,とげあずか朵兒ただどう誣陷。えいむね曰:「人命じんめいいたりじゅうむべ倉卒そうそつ二人ふたり罪狀ざいじょう未明みめいとうしろきょうひじりみやづけとうつかさしょう讞,わかはて有罪ゆうざい,誅之ばん。」てつ叠兒竟殺なみせき其家。はいじゅうゆうなかしゃそう其屍さんにちそつおさむそう

てつ叠兒かい地震じしんかぜれつ,敕廷臣ていしんしゅう弭災みちあつまりけんだい學士がくしちょう珪、中書ちゅうしょ參議さんぎかいかい抗言こうげん於坐,いいしょう、楊及しょう冤死,じつ致沴はし。聞者しつしょくげんおわりとくたち。及珪はいたいらあきらつげ丞相じょうしょうはいじゅう曰:賞罰しょうばつ不當ふとう,枉抑しん不可ふか以爲わか肅、楊等冤,なに亟爲あきらゆき?」とげ請于えいむねおく楊朵ただかんおくりなたいじょうはつおくはいじゅう守正もりまさ佐治さじ功臣こうしんふとしたもてただしどうさんつかさはしらこくついふう冀國こうおくりなちゅう湣。しょう、楊死いちねんくさり咬兒哈的迷失、觀音かんのんたもてまたためてつ叠兒瑣南しょがい

ふみしん曰:「おもね合馬おうまころせちぇあきらしんちょうきょうせわしいにしえだいころせりゅうせんみなえん吏事,ちゅう以危ほういたりてつ叠兒ころせしょうはいじゅう、楊朵ただのり母后ぼこうめいじ,以快其報復ほうふくわたし,雖明如世だん如英むね不能ふのうしょく其奸而戮嗚呼ああちょう國家こっかしゃまき勿爲憸人しょ蔽哉。」