新元しんもと/まき206

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もと善明ぜんみょう 邓文げん おそれしゅう 槃 揭傒斯 おう阳玄

もと善明ぜんみょう 邓文げん おそれしゅう 槃 揭傒斯 おう阳玄

  げん明善あきよし复初,大名だいみょう清河きよかわじんちち贡,ゆうがくぎょうるいかん枢密院すうみついんあきらみがけ,赠吏なお书,ついふう清河きよかわこおりこう,谥孝やすし

  明善あきよししょう颖悟,读书过目なり诵,及冠,ゆうまなぶ江南こうなん,受业于吴きよし,佥行枢密院すうみついんごとただし选闻其名,辟为じょうまち以宾れい选迁江西えにしゆきしょうひだりすすむまた辟为ぎょうしょうじょう。从士选讨ひら赣州贼刘贵,选俘とうさんひゃくにん明善あきよし议贷其诖误,とくぜんかつしゃひゃくさんじゅうにん。贼籍赣、きち州民しゅうみんひのとじゅうまん有司ゆうし获其せきよくかぶ连为明善あきよし请火以灭迹,ぐんとげやす。迁江みなみぎょうだいじょう,擢枢密院すうみついんあきらみがけまた转中书省左右さゆう曹椽。さき明善あきよしざい江西えにし,张瑄为行しょう参政さんせい明善あきよし马留,致米さんじゅう斛偿其直。きさき瑄败,せき其家,うす载送もと复初まいさんじゅう斛,不言ふげん偿马じき明善あきよしすわ免官めんかん久之ひさゆきこととくしろ,复为しょう曹掾。

  ひとしそうざい东宫,擢为太子たいし文学ぶんがく。及即位そくい,授翰りんまちせいけん国史こくしいん编修かん。时姚ひうち以翰りん学士がくしうけたまわむね修成しゅうせいむね、顺宗《实录》,使つかい明善あきよし总之。明善あきよししょじゅつしゃひうちりゃく为窜えき而已。ひうち尝谓ゆう题文,われのう为之,无题しゃおもんみもと复初のう为之。其推重すいちょう如此。擢翰はやしただし学士がくしせい诰同おさむ国史こくし。诏节《なお书》经文,译以进,明善あきよしあずかちょく学士がくしぶんますどう译。ますそう丞相じょうしょうてん祥子さちこ也。まいそういちへんみかど辄称ぜん曰:“みかどさんおうみちきょう莫闻。”皇太后こうたいごうすんで受尊ごう廷臣ていしん议肆赦,明善あきよし曰:“すう赦非善之よしゆきじんぶくなだめ可也かなり。”

  たてまついのち赈山东、河南かなん饥,あまり钱四まん缗。明善あきよし见彭じょうしも邳诸驿保马民饥,よく赈之,ある曰:“此为流民りゅうみん为驿也。”明善あきよし曰:“みんあずか驿有ぶん乎?《春秋しゅんじゅう义,大夫たいふ疆,以专いのち。”そつ赈之。及复いのち,执政其明决。

  すめらぎねんおさむたけはじめ实录》。明年みょうねん,迁翰りんさむらい讲学,阶中たてまつ大夫たいふのべゆうねんかい试天进士,明善あきよしたかしこう试官。殿しんがり试,またたかし读卷かんあらためれいなお书,せいあな宗法しゅうほう,以五じゅう四世思晦袭衍圣公事,じょう如所议。擢参议中书省ごと,为御孛术鲁翀しょ劾,复入翰林かんりんさむらい读学はい广行しょうさん政事せいじ

  えいむね即位そくい,召为しゅう贤侍读学すすむ翰林かんりん学士がくしすすむ阶资ぜん大夫たいふおさむひとしそう实录》。百官迎全宗御容,ゆうきょううん见,诏明ぜん为文纪之。みかど亲享たいしつれいかん进祝さつ,请署御名ぎょめいみかどいのち代署だいしょしゃさん,眷遇优渥,当世とうせい莫并焉。いたりねんそつねんじゅうよんたいじょうはつ,赠资ぜん大夫たいふ河南かなんゆきしょうひだりすすむついふう清河きよかわこおりこう,谥文さと

  明善あきよし以文あきらごう出入でいりはた、汉之间,ばんしょづくりえき邃,あずか姚燧并为いちだいぶんむねちょゆう清河きよかわしゅうさんじゅうきゅうかん

  みそ、暠。みそよしてんみずいんばん为峡しゅうどうはやそつ

  邓文ばら善之よしゆき杭州こうしゅう钱唐じん,其先ほん绵州じんぶんばらはやとしねんじゅう,试浙西にし转运かん其曹。いたりもとじゅうななねんぎょうしょう辟署杭州こうしゅう儒学じゅがくただし。秩满,调崇とくしゅう儒学じゅがくただし

  大德だいとくねん,擢应奉翰林かんりん文字もじどうせい诰,けん国史こくしいん编修かん翰林かんりん学士がくしうけたまわむね阎复于后进少しょ假借かしゃくどく推重すいちょうぶんばら,凡大せんちょみなぞく。迁修せんなりむねくずれ,预修《实录》,姚燧、おう构等阅文原稿げんこう,互有ゆび擿,きさき数日すうじつ,复取视之,不能ふのうえきいちはじめ叹服。为江浙儒がくつつみ举。

  すめらぎ庆元ねん,召除国子くにこ业。けん议更学校がっこうほうあずか执政ごううつりびょうのべゆうよんねん,擢翰りんまちせいけん国史こくしいん编修かん

  佥江みなみ浙西どう肃政れん访司ごと平江ひらえそう憾其判官ほうがん熙。つげ熙赃,やめ诬服,ぶんはられん问得实,つえそう而释熙。みずうみ州民しゅうみんはんよるきん执而逃,おいしゃ剚其みぎあばら仆地,其兄问杀なんじしゃ谁,曰:“しろ衣冠いかん长身しゃ。”语毕,其兄诉于有司ゆうし。问直初更しょこうしゃ,曰:“张福儿。”とげすわぶく儿杀じんざい,械系さんねんぶんはら阅其牍,曰:“ぶく儿不满ろくしゃく长身,且素よう左手ひだりてなに以伤みぎあばら?”鞫之,杀人しゃ张甲也,ぶく儿之冤始しろ建德けんとくみん戴汝おもんみ获盗,よるゆう其居しゃしつなんじおもんみ所在しょざいぶんはら曰:“此有。”责有推验,とく其妻おとうとかのうかぶと谋杀なんじおもんみじょうひと以为しん

  ろくねんうつり佥江东建かんみち肃政れん访使。宁国诸路ちゃ课钞さんせん锭,きさきぞういたりじゅうはちまん锭,みな凿空これみん间民逋欠,则转运使以失察罪有司ゆうし,凡五品以下官皆杖决。ぶんげんげん:“むべ罢茶使つかいしゅう县领。”报,饶州ゆうつげ欺隐かん粮者ごと,连数ひゃくにんすうねん决,ぶんはら曰:“难知,以官租为民田たみだ交易こうえきしょう户时いんじょう徭,经理时因てい租税そぜいみみ。”いのちすえせき为证,讼始いき。徽州民しゅうみんづくりこうじ币于そうてらゆう避雨しゃ见之,ともじん啖以使つかい烘焙,こと觉当ぶんげん曰:“伪造とう死者ししゃゆうななとう,烘焙应比行使こうしとうつえざい而已。”こと闻,そつ从文ばらしょ拟。州民しゅうみん谢兰僮死,兰侄かい赂其ぞくじん,诬兰杀之,狱已ぶんばらくつがえあんきさきそく释兰,而坐かい。其他たいらしょはん类此。

  いたりねん,召拜しゅう贤直学士がくし地震じしん,诏议弭灾みちぶんげんそうごと:“今治いまばり狱之かんおもんみ受成于吏,しゅう岁上けい曹,类延缓不报,かのえ死者ししゃむべまき选刑かんしゅう应决そく决,宽则释之,河北かわきた流民りゅうみん复业,朝廷ちょうてい虽计こう给钱,而有奉行ぶぎょう实,むべさん计海运支发之羡余,ずい处置仓以备凶ねん。”またげん:“ちゃほうびょうみん,乞并罢转运思。经弭じん怨,召天。”时论韪之。すすむたてまつせい大夫たいふけんさいしゅぜんちょく学士がくし

  たい定元さだもとねん贡举,并充读卷かん特命とくめいあずかはんあきら政事せいじ张珪、翰林かんりん学士がくし吴澄どう为经むしろかんにわか乞病归。ねん,召拜翰林かんりんさむらい讲学ちゅうたてまつ大夫たいふせい诰同おさむ国史こくし。旋擢岭北南道みなみどう肃政れん访使,以病赴。てん历元ねんそつねんななじゅういち

  いたりせいきゅうねんぶんはら门人、あつまり贤院だい学士がくし冯思ゆたかそうぶんげん经筵旧臣きゅうしんむべおんれい。赠中たてまつ大夫たいふこう浙行しょうさん政事せいじ、护军,ついふうみなみ阳郡こう,谥文肃。はつふとしつね议谥たけしやすしいんおもえゆたか请,あらため谥文肃焉。

  ぶんばら贫而ぎょうれんやすみなみにゅう贡,以黄きんすなぞう齿为わたし觌之れいぶんはら却之。其人曰:“清白すずしろぶつ也。”ぶんげん曰:“尔物清白すずしろ自我じが受之则污矣。”为文せいふか典雅てんがほどこせ于诰いのちしゃゆうゆたか润有たいゆうともえ西にししゅうじゅうかんこう书,あずか赵孟頫齐めい衍,こう浙儒がくふくひさげ举。

  おそれしゅうはくせい,其先成都せいとじんそう丞相じょうしょうまことぶんせい孙也。ちち汲,そう冈县じょうそうほろび,侨居临川たかしひとしとげ为崇じんじんしゅう三岁即知读收,はは杨氏口授くじゅ《论语》、《孟子もうし》、《ひだり传》,闻辄なり诵。及长,从吴きよし受学。ただし选除南台みなみだいちゅうすすむのべしゅうじゅく

  大德だいとくはつはじめいたりきょう师,以大臣だいじん荐,授大都路みやこじ儒学じゅがく教授きょうじゅじょ国子くにこじょきょうそく以师どう自任じにん,诸生时其退,まいはさみさく趋门そつ业,馆生しょうりつ诣集听讲。ひのとない艰,ふくじょさい为助きょうじょ博士はかせ,监祭殿上てんじょう,诸生ゆうよい而失礼者れいしゃしゅう请削其籍。大臣だいじん为乞めんしゅう不可ふか,曰:“国学こくがくれい义之所出しょしゅつ也,此而不治ふちなに以为きょう?”ひとしそうざい东宫,谕集勿竟其事,しゅう以状うつり詹事いん,竟黜其人,ひとしむねさら以集为贤。

  ひとしそう擢吴きよし为司业,またいのちさん政事せいじ许师けい纲领国子くにこ监事,みなよくゆうしょさら张,以副みかどしゅうりょく赞之。きさき为异论所挠,きよしとうげきしゅうまた以病めん几,じょふとつね博士はかせ丞相じょうしょうじゅうかた为院使。间从しゅう问礼,しゅう为言先王せんおう制作せいさく,以及古今ここんいんかわ治乱ちらんゆかりはいじゅう叹息,えきしん儒者じゅしゃ有用ゆうよう

  迁集贤修せんいんかい学校がっこうしゅうじょう议:“むべ使つかいもりれいもとめ经明ぎょうおさむしゃ师之,庶有しょ观感。其次则求みさおくつきんせい,而不为诡异骇ぞくしゃ,确守さき儒经说,而不敢为论者,众所敬服けいふく,而非乡愿徒者ただもの延之のぶゆき以教学者がくしゃ,则他またとうゆうしょ成就じょうじゅとも则取乡贡いたりきょう师罢归者,其议论文艺犹あし以耸动后がく。”时论韪之。ろくねんじょ翰林かんりんまちせいけん国史こくしいん编修かんひとしそう尝对左右さゆう叹曰:“儒者じゅしゃみなよう矣,おもんみおそれはくせい显擢尔。”

  えいむね即位そくいはいじゅう为相,しゅう以忧还江みなみはいじゅう知也ともや。乃言于上,使つかいもとめ于蜀,またもとめ这于江西えにしあつまり闻命趋朝,えいむねやめくずしたいじょうはつじょ国子くにこ业,迁秘书少监,天子てんしこううえ,以讲しん高年こうねんいのちしゅうあずかあつまり贤侍读学士がくしおう结,执经以从。つねとし扈从。はい翰林かんりんちょく学士がくしにわかけん国子くにこさいしゅ。尝因讲罢,论京师恃东南运粮,竭民りょく以航测,所以ゆえん宽远じん而因きょう东濒うみすう千里せんり,萑苇场也,うみしおいたり,淤为沃壤,わか筑堤捍水为田,听富民とみん欲得よくとくかんしゃごう其众ぶん授以のう万夫ばんぷこうしゃ,授以万夫ばんぷ,为万夫ばんぷ长,せんおっとひゃくおっとまた如之。いちねん、二年勿征三年视其成,以地高下こうげてい额征ねんいのち以官,じゅうねん佩之しるしとく以传孙,如军かんほう以宽东南海なんかい运,纾疲みんみかど韪其ごとしたしょう议,为廷臣ていしんしょあま

  ぶんそうざいせんていやめ集名しゅうめいすんで即位そくいいのちしゅう仍兼经筵。以先邱陇在江あるえみなみ,乞いちぐん便びんみかど曰:“なんじざいなんしょ不堪ふかん,顾今尔。”じょ奎章阁侍书学。时关中大ちゅうだい饥。みかど问集なん救民きゅうみん,对曰:“うけたまわ平日へいじつひさし人情にんじょうえんやす有志ゆうしきゅう于近こう,则怨讟兴焉。不幸ふこうだい灾之きさきせい君子くんし为治さくしんつくえ也。わか一二知民事者稍宽其禁令,使つかいとくゆうしょ为,ずいぐん县择可用かようひといんきゅうみん所在しょざいてい城郭じょうかくおさむ闾里,沟洫,げん畎亩,うすきただし敛,则流亡りゅうぼう渐至,春耕しゅんこうあき敛皆ゆうしょじょいち岁间,勿征勿徭,ふういきすんでただしとももちしょう济,四面しめん而至しゃひとし齐方いち截然せつぜんゆうほう,则三代之民将见出于空虚之野矣。”みかどしょうぜんよし进曰:“みゆきかりしんいちぐん,试以此法ぎょうさんねん间,必有以报朝廷ちょうてい。”左右さゆうある间于みかど曰:“おそれはくせいよく以此去尔。”议遂ゆう敕诸けん职不过三,めん国子くにこさいしゅ

  あつまり以入さむらいつばめ间,无益时政,且媢嫉者,乃与だい学士がくしゆるがせ鲁儿迭失とう进曰:“陛下へいかどく见,けん奎章阁,览书せきおけ学士がくし员,以备顾问,しんとう备员,こと无补报,窃恐ゆうるい圣德,乞容しんとう职。”みかど曰:“ちん无生知之ともゆきあきら,于国家こっかたい,岂能周知しゅうちたて奎章阁,おけ学士がくし员,以祖そうあきら训、古昔こせき治乱ちらん得失とくしつにち陈于まえきょうとう其悉しょがく,以辅ちんわか军国つくえ务,ゆうしょういんたいにんきょうとう责也。其勿复辞。”

  敕采辑本あさ典故てんこ,仿唐、そうかいようおさむ《经世大典たいてん》,以集あずかちゅう书平あきら政事せいじ赵世のべどう为总さいかんあつまり荐礼なお书马つね谙习きゅうあきら国子くにこ业杨宗瑞そうずい历象、地理ちりまなべみなにん总裁;翰林かんりんおさむせん谢瑞、应奉苏天爵てんしゃくふとしつね博士はかせ好文よしふみ国子くにこじょきょう陈旅、ぜん詹事いんあきらすりそう褧、通事つうじ舍人とねりおうてん,俱有见闻,裨撰录;庶几书早なりみかど以尝おさむ辽、きむそうさん,无成绩,いまおさむ大典たいてん》,れい学士がくし专率其属为之。あつまり请以翰林かんりん国史こくしいんおさむ祖宗そそう实录时百司所具事迹参订。国史こくしいんしんげん于帝曰:实录,ほうとく传于がいこと不当ふとうしめせじん。”また请国书《だつぼくあか颜》ぞうおさむふとし以来いらいこと绩,うけたまわむねとうしつうみきば曰:“《だつぼくあか颜》不可ふか传于外人がいじん。”ことみなかくくだりにわかのべ归,しゅう专领其事,さい阅岁,书成,凡八ひゃくちつすんでそう进,以目やまし丐解识,まこと,乃举书侍马祖つねだい报。

  ちゅうすすむ赵世安乘あのり间为しゅう请曰:“おそれはくせいきょきょう师久,甚贫,またやまいさいわいかりいちがいにん便びん。”みかどいか曰:“いちおそれはくせいなんじ辈不よう耶?”みかど方向ほうこうよう文学ぶんがく,以集ひろしざいはく职,じゅう听其去。しゅうごとうけたまわ诏有しょ述作じゅっさく,必以帝王ていおうみち从容讽切,问及古今ここん政治せいじ得失とくしつゆう委曲いきょくつきげんずいごと规谏。いちにちいのちしゅうくさせいふう乳母うばおっと为营おう使つかいおもね荣、巙巙传旨。二人ふたりしゅう,缪言せいふう营国こうしゅう稿こうにわか丞相じょうしょうさくせい词甚きゅうしゅう以稿以进,丞相じょうしょう愕然がくぜん问故,しゅう为所绐,そく请易稿こう进,终不げん

  龚伯璲以ざいしゅん为马つねしょよくしゅう为荐引,しゅう曰:“虽小ゆうざいしか远大またおそれとくれい终。”つね以为しかいちにち,邀集过其门,设宴,さけはん荐牍もとめしょしゅうかたこばめこれつね乐而罢。ぶんむねくずししゅうざいつげよくみなみ还,どるはて大臣だいじんはたたて妥欢じょうきよし尔为太子たいしよう至大しだい故事こじ,召诸老臣ろうしん赴上议政,しゅうざい召列。つね使つかいじんつげ曰:“ゆうごと矣。”乃谢びょう归临かわはつぶんそうざいうえはたたて其子おもね剌忒纳答剌为皇太子こうたいし,乃以妥欢じょうきよし尔乳ははおっとごとあきらむね在日ざいにち太子たいし其子,黜之江南えな,驿召翰林かんりん学士がくしうけたまわむねおもね邻帖儿、奎章阁大学士がくしゆるがせ鲁儿迷失书其ごと于《だつぼくあか颜》,またいのちしゅうくさ诏,布告ふこく中外ちゅうがいいたりはぶけたいかんみなぶんむねもとしょ信用しんようしゃ变不敢斥げん其事,つねざい讽集そく而已。はく璲后以用事ようじ败,杀其せい乃服しゅう知人ちじん

  もと统元ねん使つかい赐上みことしゅきむ织文锦二,召集しょうしゅう还,やましさく不能ふのうぎょう左右さゆうゆう以旧诏为げんしゃみかど怿曰:“此我家事かじ,岂由かれ书生耶?”いたりせいはちねんがつそつねんななじゅうゆうなな。赠江西行さいぎょうちゅう书省さん政事せいじ、护军,ついふうじん寿ことぶきぐんおおやけ,谥文やすし

  あつまりもと贫,归老きさきとう门之しょうもち于道,好事こうじしゃおこりていしゃ以待しかいしぶみこころざしぶん尝苟さくみなみあきら富民とみんめと诸王おんな为妻,たかし本位ほんい总管。すんでそつ,其子ぞく丰城あま悫求しゅう铭父たてまつちゅう统钞ひゃく锭,しゅう许,悫愧叹而去。岁,あずかおとうと槃辟书舍为しつひだりしつ书陶渊明诗,题曰すえあんみぎしつ书邵尧夫诗,题曰邵庵,しょう邵庵先生せんせいあつまり文章ぶんしょう为代かんむり,论者以唐这韩いよいよそうおう阳修ゆうみち围学录》じゅうかん子安こやすみんかんよししゅう安福やすふくしゅうしゅう

  槃,なかつねのべゆうねん进士,授吉安永やすなが丰县すすむちょうちち忧,ふくじょ,授湘乡州判官ほうがんゆう富民とみん杀人赂他人たにんすわこれおのれてい谳,槃犹しょ,杀人しゃそつ论抵。ゆうみこいたり其州,しょうしんくだ,曰:“ぼうかた。”そく,长吏以下いかみなむかえみこいたりれい敬之たかゆき。槃得放火ほうかしゃいちにん,讯之,为巫しょ使。召巫いたり,无敢ほどこせむち箠者。槃谓左右さゆう曰:“此将为大みだれむべきゅう治之はるゆき。”いち讯而ふく,乃论みこ并其とう如法にょほう。秩满,じょよしみ鱼县いん,槃已そつ

  揭傒斯,曼硕,龙兴とみしゅうじんちちらいなりそう乡贡进士,为世めい儒。いたりもとはつ,赐谥贞文先生せんせい。傒斯よう贫,读书昼夜ちゅうやたゆ父子ふし为师ともはやゆう文名ぶんめい大德だいとく间,きゃく湖南こなんもと帅赵淇号知人ちじん,见之曰:“きみ他日たじつ翰苑名流めいりゅう也。”ほど钜夫、卢挚さききさき湖南こなんれん访使,咸重,钜夫いんつま以从いもうと

  のべゆう元年がんねん,挚表荐于あさとく授翰りん国史こくしいん编修かん。时平あきら政事せいじはじめ监修国史こくし,见其しょせん功臣こうしんれつ传,叹曰:“かた谓之笔,わか他人たにんちょく誊吏牍尔!”擢应おっと翰林かんりん文字もじ,仍兼编修。迁国じょきょう,复留为应奉。ねん,请假归。たい定元さだもとねん,召还,また以丁はは忧归。

  てんねん,开奎あきら阁,擢为授经ろう,以教勋戚子弟してい。傒斯ごとかちゆきいりじき,受学しゃよく为买马,傒斯闻之,乃自おけいち马,寻复へい,以示苟取于人。ぶんそうみゆき阁中,ゆうしょ咨访,つね以字よびちゅう书奏よう儒臣,必问曰:“其材なん如揭曼硕?”间出しょじょう《奎章せいよう》,以示だいしん曰:“此朕授经ろう揭曼硕所进也。”傒斯以翰すみたから受知于帝,其宠まち亚于おそれしゅう、柯九おもえ

  とみしゅう产金,かん惑奸みんげんつのよなげきんさんひゃく。其人さい县金以献,岁课ぞういたりよんじゅうきゅう两。历年すんでひさしさん百户所存无什一,また贫不聊生,有司ゆうし责受やく于官しゃだい输之,以是やぶ产。蠲斯げん于省しん,蠲其赋,しゅう人德にんとく

  あずかおさむ《经世大典たいてん》,ぶんむねところせん《宪典》读之,顾谓近臣きんしん曰:“此岂からりつ》乎!”擢艺ぶん监丞,まいり检校书籍ごとしばしばたたえ其纯实,よく大用おおゆうかいみかどくずし而止。

  めぐみむね即位そくい,召对便殿びんでん,慰谕りょう义,赐以诸王しょふくひょうさとかくいち,迁翰りんまちせい,擢集贤学,阶中顺大夫たいふさき儒学じゅがくかん赴吏选,必移しゅう贤院こう较。いん其事于国监,监又博士はかせぶんうつり往复,动辄累月るいげつ,傒斯そうあらため其法,以事づけほんいんにんみな便びん

  いたりもと元年がんねんたてまつ诏祀きただけ、济渎、みなみ镇,便びんどう归龙兴,はく颜当こくしばしば招之,傒斯引疾固辞こじ几,みかど擢为奎章阁供奉ぐぶ学士がくし。乃即就道,いたりあらため翰林かんりんちょく学士がくし。及开经筵,さい为侍讲学どう经筵ごと,以对ひん进阶ちゅうたてまつ大夫たいふ。时新かくちょうますえつとうどく傒斯进よんとう,转九阶,异数也かずや

  いたりせいさんねん,以年ななじゅう致仕ちし,诏遣使追及ついきゅう于漷しゅうまた赐上みこと,乃还,たてまつ敕撰《あきらむねしん御殿ごてん》,赐楮币まん缗、白金はっきんじゅう两,ちゅう宫赐白金はっきんまた如之。复求许,いのち丞相じょうしょうだつだつ及执せい大臣だいじんめん谕之。傒斯曰:“使つかい揭傒斯有いちとくけんじ,诸公よう其言,而天こうむ其利,虽死于此,恨。しかなにえきゆう?”だつだついん问致しょさき,傒斯曰:“储材为先,养之于位もち隆之たかゆき时,而用周密しゅうみつ庶务きさき,则无しつざい废事患矣。”いちにちしゅう议朝どう,傒斯抗言こうげん:“とう兼行けんこう新旧しんきゅう铜钱,以救钞法へい。”执政不可ふか,傒斯べん论愈りょくだつだつ虽不よう其言,また以为忤也。

  诏修辽、きむそうさん,傒斯与为总さいかんよんねん,辽史なりたてまつ敕奖谕,仍命成金なりきんそう。傒斯とめ宿やど馆,いんとくさむやましななにちそつねんななじゅういち。时方ゆう使者ししゃいたり上京じょうきょう,赐宴きょく,以傒斯卒,あらため使者ししゃ以闻,みかど为嗟悼,赐楮币まん缗,仍给驿护其丧归。ろくねん,赠护军,ついふうあきらこおりこう,谥文やす

  傒斯为文章ぶんしょう叙事じょじ严整,语简而当。诗尤じょう婉丽みつぜん楷行、くだりくさ朝廷ちょうてい大典たいてんさつ及元勋旧とく应得铭者,必以いのち傒斯。ことかた绝域,咸慕其名,とく其文莫不以为荣云。ゆう文集ぶんしゅうじゅうかん汯。

  汯,はくぼうしょう从父いたりきょう师。补太学生がくせい。六馆士咸敬惮之,ある哗笑,闻汯くつごえ辄止。以荫授秘书郎,迁翰りん国史こくしいん编修转博士はかせさいいれ翰林かんりん为修せん,仍兼国史こくしいん编修。だいまつ北岳きただけきた镇还,はい江南こうなんこうだい监察くだり为礼外郎ういろう

  いたりもとじゅうはちねんたてまつ诏谕江西えにしかい陈友谅已おちい江西えにしとく往,あらため佥江西湖さいこ东道肃政れん访司ごとけん宁。おのれ而友谅兵にゅうすぎ关,进围けん宁,だい军退もりふくしゅう官吏かんりしょう出奔しゅっぽん,维经りゃく使ひろし颜不はななおざい。汯谒ひろし颜不はな曰:“佥事犹未ぎょう也?”汯愤曰:“此吾あずか经略致死ちし时,はたなに。”乃共议城もりごといのちけん宁总かん阮德やわらしょうせん人出ひとで战,以民へいすけ,战屡とししろがいゆう华山,汯恐贼登山とざん窥城ちゅうきょ实,おこり层楼蔽之。いのちもりしゃ锻铁为长钩,また储水ろう以俟。及贼すえやま颠,爇火烧楼,もりしゃ以长钩曳ずい濡以すい寻熄。贼穿地道じみちおさむじょう,汯命燎烟于隧熏之,隧中贼尽あいすうがつ,汯曰:“贼气やめ馁,击也。”乃槌うし劳将,众皆おどり跃请战。汯戎ふくとく战阵きさき士卒しそつこと,焚贼さん栅,明日あしたふくしゅう援兵えんぺい继至,贼宵遁。ことひらめ,经略じょう诸将こう及汯,汯亦以为

  あらため江西えにしゆきしょうろうちゅうくだり,召为こうろうちゅう,浮海趋辽东,转之やま东。せい,擢秘书少监。时察罕帖儿在らく阳,使つかい招之,うけたまわせい授刑さむらいろう,汯不就。じゅうはちねんいたりきょう师,几,あかりへい入城にゅうじょう,凡仕しゃれい南京なんきん,汯称やまし往。ひろしろくねんそつねんななじゅうさん

  溍,すすむきょう,婺州义乌じんははわらわゆう娠,梦大ぼし坠于怀,历じゅうよんがつ乃生溍。溍幼而颖异,迨学,为文笔数千言せんげん如宿稿こう弱冠じゃっかんきさき,从隐かた凤游,绝意つかまつ进,凡辟举皆就。

  のべゆうねんちゅう进士だい,廷对,以用儒、行仁ぎょうにん义为ごと。授台しゅう宁海县丞。县地濒盐场,ちん户不隶于有司ゆうしあずかみん户隶こげ、财赋しゃみな暴横自恣じし,溍一绳以ほう。吏以利害りがいしろどる顾也。ゆうきさきははつげぜん妻子さいし弑父,狱将,溍变衣冠いかん访察あずかあずか奸僧杀共おっと,而诬つげ其子,とげひらはん其狱。有名ゆうめいざいぬすめせき,而实くだりこうしゃ,邑大せい执之,图中赏格。こう无证,溍论如本りつめん死者ししゃさんじゅう余人よにん使者ししゃただしつねれん溍治じょう,凡狱讼咸溍听决,两告畏服いふく,虽老吏自以为及也。迁石せき西にし场盐运。いしせき视诸场尤难治,きょかんしゃりつ以称盘折阅及疏纵わたし贩被谴。溍莅にんよんねん,无一事いちじ吏议。

  擢绍兴路诸暨しゅう判官ほうがんめぐうみかんせんりつさんねんいちおさむかん费绌,责足于民,嬴则总事しゃわたしこれ。溍撙节浮蠹,以余钱还みんみな欢呼而去。奸民以伪钞结とう,诈取じん财,官吏かんり听其谋。こと觉,かぶ连数ひゃくいえげき溍鞫官吏かんり除名じょめいどう谋者かくつえ,其余つき释之。そつ阴置伪钞于民しろ县往さく,从者ひゃく余人よにん,溍遇诸野,しか曰:“そつ额仅さんじゅうやすとく此曹!缚送于州。”みなしょうりつ遁去。ゆう贼系钱塘狱,奸民赂狱吏私纵之,かりしょぶん书,诡为かん缉贼,逮捕たいほじゅうあまり。溍疑而讯とく其实,远近以为神明しんめい

  いたりねんちゅうすすむ马祖つね荐之,召为应奉翰林かんりん文字もじどうせい诰兼国史こくしいん编修かん,转国博士はかせ为江浙等处儒がくつつみ举。としろくじゅうゆうなな,亟请致仕ちしにわか召修辽、きむそうさんちょうはは忧不赴。溍性至孝しこう,营冢ゆう驯虎さちふくじょ,以秘书少监致仕ちし几,ちゅう书右丞相じょうしょうおもね尔直はんひだり丞相じょうしょう太平たいへいりょく荐之,复拜翰林かんりんちょく学士がくしせい诰同おさむ国史こくし,寻兼经筵讲官。召见慈仁殿どのみかど语朵尔直はん曰:“ぶんしんねんおいただしよろしざいちん左右さゆう。”はちねん,擢侍讲学うえ疏求归田さと俟报而行。みかど使者ししゃおい,及武りん驿,あつしさこ还职。きゅうねんなつはじめとく请南还,こう浙行しょう丞相じょうしょう达识じょうむつみ尔承せいおこり溍商议中书省ごと,以疾固辞こじそつねんはちじゅうゆういち。赠江西行さいぎょうしょうさん政事せいじ、护军,ついふう江夏えなつこおりこう,谥文献ぶんけん

  溍天姿すがたかいとくざいしゅう县以清白すずしろ月俸げっぽう给,いたり鬻产。及为さむらい从,ていりつ无所とう权要门,せいたたえ溍清节如冰壶だまじゃく,纤尘どる污。其学はく极群书,剖析疑难,さき儒所发。文章ぶんしょう布置ふち谨严,援据せいきり。凡典さつ诰命,铺述功德くどくやめ溍手。海内かいだいもとめ文者もんじゃにちかかと于门,虽殊かた绝域,また实重焉。ゆうしろ损斋稿こうさんじゅうさんかん,《义乌こころざしななかん,笔记いちかんあずさ杭州こうしゅうどううみ盐州ごと

  おう阳玄,はらいさお,其先ほん庐陵じんきさき浏阳。ちち龙生,刲股以疗ははやましひだり丞相じょうしょうちぇあきら闻其めい,招之,以母ろうかんどうしゅう教授きょうじゅそつげんよう岐嶷。はち岁,はは授以《こう经》、《论语》、小学しょうがく诸书,俱成诵。使者ししゃぎょう县,玄以げんい童子どうじ见,いのち赋梅はな诗,たてなりじゅうしゅばん归,ぞういたりひゃくしゅ,见者叹异やや长,从宋故老ころう习为词章,经史ひゃくいえ靡不研究けんきゅう

  のべゆうねんとう进士だい,授岳しゅう平江ひらえしゅうどう,调太平たいへい芜湖县尹。县多うたぐ狱,ひさし决。げん察其じょうみな为平はんみん翕然きゅうぜん颂之。あらためたけ冈县いんのぞきにんはじめ逾月,赤水あかみずふとししん两洞蛮聚众相おさむげん单骑、从にんみち抵其谕之,獠人弃兵ふく,罗拜马首曰:“わが曹非かしこほう,缘诉ごと于县,县官为直,はん以差繇赋敛困わが,乃发愤就みみ不意ふい烦我清廉せいれんかんらい。”げん喻以祸福,两洞蛮皆听命。

  召国博士はかせ,迁国监丞。致和元年がんねん,迁翰りんまちせいけん国史こくしいん编修かん。时文むね自立じりつ于大げんてのひらしるし,摄院ごと日直にっちょく内廷ないていてん发诏れい书檄。すんで而改もとてん历,こう庙、けんきさきたて储、肆赦ぶんみなげんしょせん拟,复条时政すうじゅうこと以闻,为帝しょさい纳。明年みょうねんおけ艺文监。以清もちかんきょぶんむね亲署げん为艺ぶんしょう监。たてまつ诏篡おさむ《经世大典たいてん》,迁太监,检校书籍。

  もと统元ねんあらため佥太つねれい仪院ごとはい翰林かんりんちょく学士がくし,编修よんあさ《实录》,にわかけん国子くにこさいしゅ。召赴なか议事,擢侍讲学,复兼国子くにこさいしゅきさきいたりもとねん,以病乞归。みかどまことはい翰林かんりん学士がくし,复求みかど仍不まことめん其朝贺礼。いたりせい改元かいげんさら张庶政事せいじゆう不便ふべんしゃしゅう议廷ちゅうげん极言无隐。科目かもく复,沮者甚众,げんそうゆうりょく几,谢病归,复起为翰りん学士がくし

  诏修辽、きむそうさんいのち为总さいかん。凡史论、赞及进呈ひょうかなでみなげん为之,他人たにん莫能ぞく笔。ねんみかど以玄历仕るいあさ,且有修史しゅうしこう,谕丞しょうちょう授爵じゅしゃく秩,拟拜翰林かんりん学士がくしうけたまわむね,及入そううえたたえかい再三さいさんやめ而乞致仕ちしみかど复不まことだいそうじょ福建ふっけんかど访使,ぎょう浙西,やましさく,乃请かり归。复拜翰林かんりん学士がくしうけたまわむねたてまつ敕定けいりつ,寻乞致仕ちし,陈情恳切,とく授湖广行ちゅう书省みぎすすむ致仕ちし,赐白だまたば带,给俸赐以终其将行まさゆきみかど复降むねとめ,仍前翰林かんりん学士がくしうけたまわむね,进阶こうろく大夫たいふ

  じゅうよんねんなんじ、颍盗おこり蔓延まんえん南北なんぼくげんじょう招捕さくせんこととう不能ふのうようじゅうななねんはるさい致仕ちし。时将大赦たいしゃ天下でんかせん赴内げんひさびょう不能ふのうくつ丞相じょうしょう传诣かた舆至のべはる阁下,异数也かずやねんじゅうがつそつねんはちじゅう,赠崇じん昭德あきのり推忠守正もりまさ功臣こうしんだいつかさはしらこくついふうすわえこくおおやけ,谥曰ぶん

  げん历官よんじゅうねん,两为さいしゅろくにゅう翰林かんりんさん拜承はいしょうむね,两知贡举,及读まきかん朝廷ちょうていだか文典ぶんてんさつげんしゅぶんむね时诏为许衡神どう当世とうせい知名ちめいみな敛手推玄,以为文章ぶんしょう道德どうとくげんしょう也。及请かりみなみ归,おこり为翰りん学士がくしうけたまわむねげん固辞こじ,时册立さくりつ皇太子こうたいしめぐみむねしゅ诏谕げん曰:“ちんゆういち要事ようじまちきょういたり赞成。”げんはじめりょくやましいり,其为みかどしょ宠眷如此。げん无子,以从达老为后,さきげんそつげん文集ぶんしゅうひゃくかん,毁于へい,仅存《けい斋集》じゅうかん于后じん掇拾うん

  しん曰:“げん明善あきよし诸人,ぎょう义之かたみやび,议论ただしじき政事せいじ明通あけどおり谓台阁名しんどく文学ぶんがく擅名当世とうせい也。其后危素よし书生致位宰相さいしょうゆう文学ぶんがくじゅうめいばん节不终,并其ぶん为后しょ菲薄,惜哉!”