新元しんもと/まき237

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まきひゃくさんじゅうはち 

文苑ぶんえんじょう

文苑ぶんえんじょう

  杨奂 员择 陆文けい はりえき 刘辰おう けい 罗志ひとししゅう ひそか 卢挚戴表もと 陈孚 冯子 ひろしまれぶん 龚璛 そうしろ珽 刘应龟 もと淮 袁易たい 鲜于くるる 郑滁孙 すえ孙 姚应凤 谢晖 われ邱衍 かたき远 杨载 杨刚ちゅう桓刘诜 龙仁おっと刘岳さる 陈旅 ほどぶん 陈绎曾 おうけい贤 范椁 やなぎ孝光たかみつ しゅぶんしゅうしゅいさお润 顾辉 马莹 叔英 吴福孙 えびすそん

  むかし金之かねゆきまつづくり文章ぶんしょうおとろえ敝,いたりもとこう问出,はじめ无愧于唐そう作者さくしゃしかこうむはついれ中原なかはらこう问之がく甚显于当世とうせいちゅう统以きさきひたなお词术,上下じょうげひゃく有余ゆうよねんしょう诗者推杨载、おそれしゅう、揭傒斯、范椁,しょう文者もんじゃ推虞しゅう、揭傒斯、溍、やなぎ贯,みな质有其文,あきらあきらしか立言りつげん君子くんし也。

  すめらぎあさむね羲以姚燧、おそれしゅう为元ぶん最盛さいせいしゃおう祯以吴莱诗配苏轼,おうかた纲以おそれしゅう诗继にわ坚,盖议论之不同ふどう如此。文章ぶんしょういん别而为爱にくいたり论定于千载之きさき,其言かた不可ふかえき也。さく文苑ぶんえんしゅう》。

  杨奂,はつめい焕,きさきあらため为奂,焕然,いぬいしゅう奉天ほうてんじんとしじゅういちははそつあい毁如成人せいじんかねまつ,举进だい

  ふとしむねきゅうねん,诏宣とくぜい课使刘中试诸儒士。奂应试东たいら,两中赋论だいいち。耶律すわえざい荐为河南かなんせいおさむ课税しょ长官,けんかど访使。奂言于耶りつすわえざい曰:“奂以书生,财赋おのれしょ长,况河南兵みなみへいあらきさき,遗民无几,すなおかり以岁がつ使つかいとく抚疮瘐,为朝廷ちょうていまんいちこれすけ。”すわえざい善之よしゆき。奂至,约束简易。ある增税ぞうぜい额为ごと,奂责曰:“へずしも欺上,尔欲わが为之也!”そく减原额四いち公私こうし便びん,谓从らいこげしょゆうざいじゅうねん,以老びょう致仕ちしざいせんてい,驿召さん议京ちょうせん抚司ごとるいじょう书,とく请而归。そつねんななじゅう。赐谥ぶん宪。

  奂博がくきょう记,读《つう鉴》,论汉せい闰,不平ふへい其事,ちょ书驳正之まさゆき文章ぶんしょう务去陈言,以蹈袭古じん为耻。赵复しょう其沉ぼつしょう、骚,出入でいり迁、かたしかきさき折衷せっちゅう于孔はじめろくせい以为ごとちょゆう《还山しゅうろくじゅうかん,《てん兴近鉴》さんかん,《せい统书》ろくじゅうかんはつ,奂从ふとそう检文,ばん误奂为英,敢私あらためまためいえいうん

  门人员择,とく奂文がく传。奂文しゅうそく择所りん订者。

  陆文けい子方こかたこう阴人,よう颖悟,はくどおり经史ひゃくいえこれがくそう咸淳きゅうねん,以春秋しゅんじゅうちゅう乡选。そうほろび。隐居つかまつのべゆう设科,有司ゆうしきょう就试,さいちゅう乡选。其对さくげんすくい流民りゅうみんさくさん,曰:择守れい,轻赋やく,议振贷;かわ贪吏さくさん,曰:きよし选法,ひとし俸给,严纠劾,拯盐ほうさくさん,曰:恤亭户,减官额,しょう职员;拯钞ほうさくさん,曰:じゅうしるしづくり,节用度ようどきん奢侈しゃしみなきりちゅう当世とうせいへい朝廷ちょうていすう使つかい以币聘之,ぶんけいろうやましはてぎょうそつねんはちじゅう

  ぶんけい为文,纵横变化,莫测其涯涘,东南学者がくしゃみなむね师之。ぞく纩先いちにち,语门じん曰:“以数こうわれしゅうじゅうねんきさき,必有へい变,われよろしそう于不しょく,勿封勿树,庶免暴骨患。”其后こう阴之みだれ,冢墓つき发,にん乃服其先ゆう《墙东类稿》じゅうかん

  どう县梁えきともじきこう文辞ぶんじあずかぶんけい齐名,ちょゆう三山みやま稿こう》、《诗传つくりどおり》。

  刘辰おうかいはじめ吉安きちやす庐陵じんそうふとし学生がくせい。廷试ごと:“济王无后,悯。忠良ただよし戕害,伤。风节竞,憾。”忤贾どうおけへいとうそうほろびつかまつちょゆう《须溪文集ぶんしゅうなおともまた能文のうぶん。吴澄评其父子ふしぶん,谓辰おう诡变なおとも浩瀚こうかんえんじ迤,みな能成よしなり一家いっかげん

  どう县黄けいから,罗志ひとし寿ことぶきそうまつゆう诗名。以荐,けい授莆でんすすむこころざしじん授天长书いんやま长。刘辰おう尝称曰:“西にしがつ五言ごごん,罗秋壶小词,它人莫能及也。”

  周密しゅうみつこう谨,其先济南じんきさき徙吴兴。みつがく问渊みやび,为宋しょう马廷鸾所るいかん丰储仓所检察。そうほろびぐう杭州こうしゅうきょみずのとからしがい杨沂ちゅう瞰碧园,あずかおう沂中、张炎、かたき远等しょう倡和。其诗感慨かんがいげき发,乐府ゆうこうゆう《蜡屐しゅう》《べん阳诗しゅう》、《苹洲渔笛谱》。ひそかちょ书甚,其《齐东语》、《みずのとからし杂语》、《绝妙こう词》,みな盛行せいこう于世。

  卢挚,处有,いち莘老,だい涿州じんいたりもとちゅう,以能文のうぶん荐。るい迁河みなみ总管。真人しんじん吴全节,だいまつたけ渎,过河みなみ,闻其ぎょうちから荐之。大德だいとくはつ,授集贤学为江东道れん访使,复入为学,迁承むねそつ

  もとはつ能文のうぶんしゃ,曰姚、卢,谓燧及挚也。古今ここんたい诗,则以挚与刘因为首。ちょゆう《疏斋しゅう》临川ていきよしはや“卢学所作しょさ诗,类魏すすむしんごと古文こぶん出入でいり《盘诰》ちゅうぼんかわらかん,而有三代虎蜼瑚琏之色。”见者莫不あらため观。挚尝曰:“きよし庙明どう,谓之いにしえしゅ门大厦,谓之华屋可也かなり不可ふか谓之いにしえふとしあつものもとさけ谓之,八珍谓之美味可也,不可ふか谓之いにしえ此,あずか古文こぶん矣。”其自げんとくりょく如此。

  戴表もと帅初,いち曾伯,庆元たてまつしゅうじんそう咸淳ちゅうとう进士おつ教授きょうじゅけん宁府。きさき迁临やす教授きょうじゅ就。大德だいとくはちねん,执政荐于あさおこり信州しんしゅう教授きょうじゅさい调婺しゅう,以疾

  はつ表元おもてもと闵宋文章ぶんしょう气萎きょう而辞骫骲,慨然がいぜん振起しんき斯文しぶん为己にん。时四明王みょうおう应麟、天台てんだい舒岳さち,并当だい儒宗,表元おもてもとみな从受业。其学はく而肆,其文きよし氵突みやび洁,蓄而はじめ发。いたりもと大德だいとく间,东南以文章ぶんしょう大家たいかめい重一しげかず时者,表元おもてもと一人ひとり而已。其门じん最知さいちめい为袁桷。桷之ぶん体裁ていさい、议论,みなほう于表もとしゃ

  表元おもてもと晚年ばんねん翰林かんりんあつまり贤以おさむせん博士はかせ职论荐,肯起。としろくじゅうななそつゆう《剡源しゅうさんじゅうかん

  陈孚,刚中,うてなしゅう临海じんいたりもとちゅうまこと以布ころもじょうだいいち统赋》,こう浙行しょう闻于あさしょじょう蔡书いんやま长。こう满,谒选きょう师。じゅうきゅうねんせいいのちはり曾以吏部なお书再使やすみなみ,选南为介。朝臣あそん荐孚博学はくがくゆう气节,调翰りん国史こくしいん编修かん,摄礼ろうちゅう,为曾ふく。陛辞,赐ひんふく,佩金以行。さんじゅうねん正月しょうがついたりやすみなみ世子せいし陈日燇以忧制不出ふしゅつ郊,陪臣ばいしん来迎らいごうまたよし阳明ちゅう门入。曾与まことかい馆,致书诘日燇以にわ及不郊迎诏之ざい,往复さん书,ちょく气壮,みなまこと笔也。使つかい还,じょ翰林かんりんまちせいけん国史こくしいん编修。みかどかたよくおけ要地ようち,而廷臣ていしん以孚みなみじん,且尚气,颇忌とげじょ建德けんとく总管ちゅうさいうつり衢州、うてなしゅう大德だいとくななねんたてまつ使つかいせん抚循ぎょう诸道。时台しゅうひでり饥。みち殣相もちこう浙行しょうげき浙东もと帅脱欢察乐振だつ欢察乐不恤民,驱协有司ゆうし,动置重典しげのりまこととげ诣宣抚使,诉其不法ふほうじゅうきゅうこと,按实抵罪,发仓振みんぜんかつしゃ众。まことまた以此致疾,そつ于家。としろくじゅうよん。赠临うみぐんこう,谥文めぐみまことてんざい过人,せい任侠にんきょう羁,其诗ぶん任意にんいやましなりこと雕斫。ゆう文集ぶんしゅうぎょう于世。

  どう时有冯子,其豪しゅんあずかまことりゃくどうまこと以为及。尝为诗谀くわ哥,及桑哥败,またつげ词臣せん引喻失当しっとうまこと发其奸状,みかど问。为文,さけたけなわみみ热,いのち侍史じしさんにん润笔以俟,すえあんやまし书,ずい纸数多寡たか,顷刻辄尽,しか不尽ふじんあい法度はっとにんまた以此しょうこれ

  ひろしまれぶんなんじ质,兴化莆田じんちちとくあきらそう贡士,はつ为兴きょう谕。かい兵乱へいらん父子ふし同居どうきょまん山中さんちゅう,饭疏饮水,そう倡和,无愠しょくとくあきらゆうしゅう曰《轩渠》,まれぶんごう《续轩みぞしゅうまたごう华山じん稿こう》。其诗げき淋漓りんり,为闽じんかんむり

  龚璛,けい,镇江じんちちみぞそうつかさ农卿,そうほろびれい北上ほくじょうぎょういたり莘县,しょく而卒。璛与おとうと力学りきがくつかまつとう时以两龚。以荐为宁こく儒学じゅがく教授きょうじゅ。迁上饶县ぬし簿,以江浙等处儒がくふくひさげ致仕ちしそつ。为文たく伟殊绝,なり一家いっかちょゆう《悔存稿こう》。

  そう无,きょきゅう晞颜。そうまつへいおこりすすむりょう平江ひらえ苏,あきらしゅせい,抢攘际,废学业。ちちこくちん,领征东まん户案牍,适病痿,无丐以身だい入海いりうみ,抵竹岛,风涛大作たいさく,无吟咏自如。いたりもとじゅうよんねんなかすすむおう约荐,以奉亲辞。ちょゆうみどりかんしゅう》。赵孟頫称其风りゅう蕴藉,みな经人どう语。また《啽呓しゅういちかん,杂咏古人こじん轶事。《鲸背ぎんいちかん,乃从ごとせい幕府ばくふ时,さくななことだん,议论讽刺,ゆう裨时せい焉。

  しろ珽,廷玉,钱塘じんとしじゅうさん,受经たいがくそくゆうごえはじめたけし衎为こう浙平あきら,荐为太平たいへいがく谕,珽勉おこり应命。秩满,迁兰けいしゅう判官ほうがん赴。其诗ぶん为时しょじゅうむらさき阳方かいたたえ其冠绝古今ここん。庐陵刘辰おうげん其苍然しゃおもんみ极尘がいおもむき兼有けんゆうやまこれおんばん归老栖霞,学者がくしゃしょうたたえ先生せんせいところちょ曰《经子类训》,曰《あつまりみどり裘》、曰《せい语》,かくじゅうかんまたこう书,ゆうすすむ风。

  刘应龟,义乌じんしょう潜心せんしん义理まなべまい以古じんそうあつしゆう间,ゆうふとしがく丞相じょうしょう马廷鸾高其才,はた以女つま,坚不まことゆかり名称めいしょう藉甚。いたりもとはつおこり为月いずみ书院やま长,ます杭州こうしゅうがくせいところちょゆう《梦稿》、《稿こう》、《听雨とめ稿こうきょうじゅうかん

  もと淮,こくいずみ,别号すい镜,临川じん,徙家邵武。以军こうかんいたり溧阳总管。つねゆう诗云:“截发搓绳聊断铠,撦旗さく带系きん创,卧薪尝胆经营りょうさら锥治溧阳。”溧阳,いたりもとじゅうさんねんます为溧しゅう,继改溧阳やめます为路。淮到しょう,乞改为直隶州,しょう苏民りょく。及去にんさく诗云:“问归行李こうり轻如沿路えんろぎん诗有いちせん。”ちょきむ囦吟》いちかん

  袁易,どおりはじめ平江ひらえ长洲じん力学りきがくもとめつかまつ进。くだりしょう使者ししゃはた荐之,えき固辞こじ,辟署せきほら书院やま长,また就,きょ吴淞,间,筑堂曰静はる,聚书まんかんこう雠。ちょせいはるどう诗集》よんかんあずかぐんじん龚璛、かく麟孙,为吴ちゅうさん君子くんし。赵孟頫尝さく《卧雪图》以美

  たいなか长,为郡がく教授きょうじゅ,别号ぐう斋,またゆう诗名。

  鲜于くるるはくつくえごうこまがくさんみんだいじんかんいたりふとつねてん簿がく书于张天锡。偶适,见にんめん车行どろ淖中,とげさとる书法。さけたけなわぎん诗作态横せいあずか赵孟頫齐めい,终元学者がくしゃ不出ふしゅつ此两あるげんはじめ頫妒其书,じゅう价购而毁传世うんちょゆうこまがく斋集》。おそれしゅう赞其ぞう曰:“敛风すな裘剑ごう,为湖山こやま图史乐。翰墨かんぼくまい、薛而有余ゆうよ,风流拟晋、そう而无怍。”しょうごと

  矜、孙端,みなのう其家がく

  郑滁孙,けいおう,处州じんそうけいてい间,とう进士だい温州うんしゅう乐清县。るい迁宗せいすすむれいろうちゅういたりもとさんじゅうねんゆう以滁孙名荐者,せい召见,授集贤直学士がくしるい擢学,乞致仕ちし归。

  おとうとすえ孙,けいせんまたとう进士だい,监西だけほこらさきすえ孙征いたり阙,そう对称むね,授翰りん国史こくしいん编修かんかい纂修国史こくしいたりそういさおゆうまつとしごととう孙曰:“しん尝仕そうそうただしねんほろび,义不にん书,书之义矣。”终不书。嘉之よしゆき,擢应奉翰林かんりん文字もじきさき为江西にし儒学じゅがくひさげ举。

  滁孙兄弟きょうだいざいとう时最ごうはくひろし学者がくしゃ翕然きゅうぜん推之。りゅうぶくふとしきさきせいころも亲赐にん以为荣,滁孙しょちょゆうだいえきほうぞうどおり赞》、《しゅうえき记玩》とう书。すえ孙有文集ぶんしゅう

  姚应凤,时和,慈溪じんゆう其才,驰聘,まいぞく笔于广众ちゅう,词锋よこはぐれ,惊一座いちざきさき以谒どうぐん袁桷,桷语曰:“ぶん受束缚,しか法度はっと不可ふか废也。”应凤颔之。,务为简严,にちえき深邃しんすいいたりもと间,尝就试省,时以龙虎だいいのち题,有司ゆうしとく应凤赋,叹曰:“此秦汉间もの也。”おけだかだいちょゆう《讷轩稿こう》。

  谢晖,彦实,资阳じん。识见通敏みちとし岁受业胡长孺门,以德业自つとむある劝习举子业,とう曰:“がく以博どおり古今ここん,资文ぎょうみみつかまつ奚所きゅう?”赵孟頫见而爱,授以书法,一临池遂得神似。文章ぶんしょう质实,みな布帛ふはくまめあわげん

  われ邱衍,ぎょうゆかりふとしまつ徙家钱塘。せいしのげ傲,こうこと节。いえ于委ちまたちゅうきょう小学しょうがく常数じょうすうじゅうにんある请谒,从楼じょうはるか谓曰:“われゆう间矣。”ちょなお书要りゃく》、《听玄しゅう》《きゅううた谱》、《十二月じゅうにがつ乐谱》。重正しげまさ气、すわえ梼杌、すすむぶん春秋しゅんじゅう诸书,けんどおり音律おんりつこう篆、隶。はつ,衍年よんじゅうめとところとも为买酒家しゅかおんな为妾。おんなゆう前夫ぜんふおんな所在しょざい,讼之,衍遭捽辱,胜忿,いん诣仇远作别。值晨とめいちしょうゆう西にしひや桥外だん桥边”これ明日あしたゆうとく遗履于桥うえしゃ西湖さいこたからいんそう权,从衍がく其投水死すいし,乃葬衍遗ぶん于后やま

  どう县仇远,ひとしきんかん溧阳しゅう教授きょうじゅ好古こうこ博雅はくが,楷书がくおう阳,りつさらぎょう书,またぜんちょゆう山村さんそんしゅう》、《批注とうひゃくいえ诗选》。

  杨载,なかひろし,其先きょけんしゅう浦城うらしろきさき徙杭しゅうようことははいたりねんよんじゅうつかまつ。户部なお书贾こくえいすう荐于あさ,以布ころも召为翰林かんりん国史こくしいん编修かんあずかおさむたけはじめ实录》。のべゆうはつひとしそう以科,载遂とう进士だい,援饶しゅうどう浮梁しゅうごと。迁宁こく总管推官。いたりせいねんそつ

  载博わたるぐん书,为文以气为之。溍平其文,ひろし而敏,ちょく而不肆。载亦谓溍曰:“ぶん,气有たかし也,しかやめみつ矣。”溍叹ふくゆうこう诗,尝语学者がくしゃ曰:“诗当取材しゅざい汉魏,而格りつ则以から为宗。”载出,はじめあらいそう诗人陋。载与おそれしゅうともぜんまいげんしゅう不能ふのうさく诗。いちにちしゅう载酒,问诗ほう于载,さけたけなわつき为集ごときさきしゅうさく诗送袁桷扈驾うえかい他人たにん,质于载,载曰:“此诗はくせい不能ふのうさく也。”ある问:“きみ谓伯せい不能ふのうさく诗,なに以有此。”载曰:“はくせいがく问高。以诗ほう授之,あまり莫能及也。”もといちだい诗,しょうおそれ、杨、范、揭云。

  どう时,うえもとゆう杨刚ちゅうしむらゆきよう志操しそう。及为こう东按察司あきらみがけ,风采凛凛りんりん。其文おく简涩,ちから凡俗ぼんぞく,为元明善あきよし叹赏。つかまついたり翰林かんりんまちせい而卒。ゆう霜月しもつきしゅうぎょう

  其甥桓,すすむなかどうぐんじんゆかり乡贡进士るい迁江浙儒がくふくひさげ举,また以文鸣。

  刘诜,かつらおう吉安きちやす庐陵じんしょうゆう文名ぶんめい江南こうなんこうだいしばしば以教かん、馆职,遗逸荐,みな报。诗文曰《かつら隐集》。かつら隐,诜别ごう也。いたりせいじゅうねんそつとしはちじゅうさん。赐谥文敏ふみとし

  どうぐん龙仁おっと观复,刘岳さるだか促,其文学ぶんがくみなあずか诜刘めいゆうしゅうぎょう。而仁おっとぶんゆういっりゅう丽,しょちょしゅうえき发前儒所发。たけさるよう荐为辽阳儒学じゅがくふくひさげ举,仁夫にぶりこう浙儒がくふくひさげ举,みな就。

  陈旅,りょう众仲,兴化莆田じんよう,笃志于学,于书无所读。よう荐者,为闽うみ儒学じゅがくかん。适御ちゅうすすむ马祖つね使つかい泉州せんしゅういち见奇。谓旅曰:“馆阁ざい也。えびす为留とどこお于此。”使つかいつとむゆうきょう师,すんでいたり,翰侍讲学おそれしゅう见其しょ为文,慨然がいぜん叹曰:“わがろうしょうきゅう付子ふし斯文しぶん矣。”そくのべいたり馆中,朝夕ちょうせき以道义学问相讲习,谓得たび这助为多。

  ちゅう书平あきら政事せいじ赵世のべりょく荐之,じょ国子くにこじょきょうきょさんねんこう满,诸生にん其去,请于あさ再任さいにん焉。もとねん为江浙儒がくふくひさげ举。いたりもとよんねんにゅう为应奉翰林かんりん文字もじいたりせい元年がんねん,迁国监丞,阶文りんろうまたねんそつねんじゅうゆうろく

  たび于文,さきしん以来いらいいたりとうそう诸从,无所きわむ其文まさたかし洁,必求あい于古作者さくしゃゆう文集ぶんしゅうじゅうよんかん。笃于师友义,まいかんおそれしゅう知己ちき。其在浙江せっこう时,しゅう归田やめすう载,岁大,请于ぎょうしょうさん政事せいじ孛术鲁翀,亲奉书币请集ぬし乡试。しゅうかん其来,とめ旬日じゅんじつ而别,惓惓以斯文相ぶんしょうつとむしゅうごとあずか学者がくしゃ语,必以たび为平せい益友えきゆういちにち,梦旅举杯しょうこう曰:“たび甚思こうまたこう忘旅也,ただしとく见尔。”すんで而,闻旅そつしゅうふか悼之。

  どう时有ほどぶん、陈绎曾者,みな名士めいしぶん以文,徽州じんつかまついたりれい外郎ういろうさく文明ぶんめい洁而せいふかしゅうまたしょう。绎曾,はくじき,处州じん,为人虽口ども而精さとし异常,诸经注疏ちゅうそ多能たのうなり诵。文辞ぶんじ汪洋おうようひろしはく,其气烨如也。かんいたり国子くにこじょきょう,论者谓,二人皆与旅相伯仲。

  泂,溉之,滕州じんしょう以文受知姚燧。荐授翰林かんりん国史こくしいん编修かん,转太つね博士はかせはいじゅう为丞しょう,闻泂めい,擢监おさむ国史こくし长史。たいじょうはつじょ翰林かんりんまちせい。以葬亲辞归。てんいんはつぶんそう开奎あきら阁,のべ天下でんか知名ちめいたかし学士がくし员。泂数进见,そう对称むねとく授奎あきら阁承せい学士がくし。泂既知遇ちぐう,乃才《辅治へん》以进。いのち预翰廷大议,どうおさむ《经世大典たいてん》。谒告归,复除翰林かんりん学士がくししょうやましおこり

  泂骨きよしかみあきら,峨冠褒衣,もち如图ちゅうじん,为文挥洒纵放,かんきさき,历游ただし庐、おうしょうしつ诸山,とめ连久,乃去。侨居济南,ゆう湖山こやまはなちく胜,构亭其间,ぶんそう尝敕おそれしゅう记之。泂尤ぜん书,篆、隶、しんくさみな见重于世。そつねんじゅうきゅうゆう文集ぶんしゅうよんじゅうかんどう时海康人やすひとおうけい贤,ごうだに,为邕しゅう教授きょうじゅぶんむねきょ海南かいなんとく其诗爱之,书“だに大字だいじ以赐,及即位そくいまた赐以ろくはな宫袍。

  范椁,とおるちちいちとくつくえ清江きよえじんいえ贫,はやははぐまもりこころざし抚之。てん资颖异,しょ诵读辄记忆。きょ则固穷守节,竭力养亲,则假阴阳わざ,以给たびしょくふけ诗文,ようりょくせいふかにん罕知しゃあずかおそれしゅうともぜんとしさんじゅうろくはじめきゃくきょう师。なかすすむただし选延いえじゅく,以荐为翰いん编修かん。秩满,だい擢海南海なんかい北道きたみちれん访司あきらすり。迁江西湖さいこ东道,选充翰林かんりん供奉ぐぶ

  だいまたあらため福建ふっけん闽海どう知事ちじ,闽俗もと污,ぶん绣局良家りょうけ为绣こう,无别ゆう甚。椁作歌さっかいちへんじゅつ其敝,れん访使以上いじょう闻,みな罢遣几,うつやまし归,てんねん,授湖みなみ北道きたみちれん访司经历,以养亲辞。明年みょうねんそつとしじゅうきゅう

  ところちょ诗文,あずかおそれしゅう、杨动、揭傒齐名。椁居かんれんただし不可ふか以私,疏食饮水,はく如也。吴澄しょう特立とくりつ独行どっこううん

  やなぎ贯,どう传,婺州浦江うらえじんようゆう异禀,颖悟过人。やや长,受学于金くつさちまた从方凤、吴思济、谢翱ゆう,肆力于古文こぶん词。以察举为江山えやま县学きょう谕,また为昌こくしゅうがくせい

  こう满,いたりきょう师,翰林かんりん学士がくし吴澄语人曰:“やなぎくん如庆うん甘露かんろ天下てんかはた其泽。”翰学うけたまわむねほど钜夫以墨いちしゃく赠之曰:“天下てんか文章ぶんしょうこんぞく矣。”のべゆうよんねんとく授湖广等处儒がくふくひさげ举,うえあらため国子くにこじょきょう。擢博士はかせ

  たい定元さだもとねん,迁太つね博士はかせ朝廷ちょうていゆうだい典礼てんれいしゅう诸儒讨论,贯酌古今ここんむべ,为之折衷せっちゅうにん咸服其精审。沅州岁贡つつみちがやよんじゅういちふねかや轻,ふねくつがえおぼれ。贯建议,请减其さんふんいち以他贡物,无覆おぼれ患。ぜん临江しゅうしゅう倜为使者ししゃしょ劾,倜官いたりしゅう贤侍读学そつとうとく谥。贯为谥议,其子纳金于贯,乞毋于临ごと。贯辞。而明其无ざい。执政よく以其はいしょく孔子こうし庙,众莫敢言,贯独毅然きぜん不可ふか而止。ゆうかみくだ于大めい,长吏しろ于朝,乞封爵。贯以为神奸蛊みん不治ふちはた为乱,した所部ところぶ禁止きんし。监察马祖つね荐贯ざいにん。疏再じょう报。

  为江西にしとう处儒がくつつみ举。抵任,吏沿旧例きゅうれい,纳米はちじゅうせき。贯谢受。道士どうし庙侵がく。书院学田がくでん为僧しょうらないしゃひゃくさんじゅう亩,悉寺而归みなみやすし仓吏坐飞语逮系ひゃく余人よにんくだりしょうげき贯谳其狱,いち讯而ふくひらたはん甚众,にんゆうふく其明まこと。秩满,谢病归,家居かきょじゅうねん,饔饔给,たい如也。いたりせい元年がんねん,召为翰林かんりんまちせいけん国史こくしいん编修かん明年みょうねんそつねんななじゅうさん。门人わたし谥文肃先生せんせい

  贯学问淹みやび,其文うすよう纾除,こと详而词核,蔚然なり一家言いっかげんこう篆籀,もりほん谓其みょう处不减李阳冰。ゆうきんおもえ录广辑》さんかん,《けいかん金石かねいし文字もじじゅうかん文集ぶんしゅうよんじゅうかん

  孝光たかみつ温州うんしゅう乐清じんしょうきょかり荡山みね,四方之士远来受学,名誉めいよ闻,やすし华以师事いたりせいななねん,诏征隐士。以秘书监著作ちょさくろう召,あずかかんしゃ图、执礼哈琅、ただしたてどう应诏,赴京师,见帝于宣ぶん阁,进《こう经图说》,みかどだい说,赐上みこと明年みょうねん,长文りんろう书监すすむそつ于官,ねんじゅうさん

  孝光たかみつ文章ぶんしょう负名当世とうせい,其文ほう古人こじんさきたい、两汉语,どる措辞そじゆう文集ぶんしゅうじゅうかん

  どう时莆田人たびとしゅぶん霆,原道はらみちつかまついたり泉州せんしゅう总管,博学はくがく能文のうぶんそう濂称其言あつし而理あきらちょ葵山きざんしゅう》。

  しゅう驰,けい远,东昌じん文章ぶんしょうみやび赡。かんつばめみなみれん访佥ごと。尝为南台みなみだい监察ふん过浙西にしにちあずか朋友ほうゆう周旋しゅうせんまいゆう往复,其书吏记于壁じょう以讽。驰召谓曰:“ひと读书所以ゆえん明人あきと伦,使つかいわがへい故旧こきゅう为御而废朋友ほうゆういち伦,其可乎?”闻者韪之。きさきそつ于官。

  しゅいさお润,泽民,平江ひらえじんちち环,长洲儒学じゅがくきょう谕。とく润工诗文,ぜん书,ゆう长于绘事。

  のべゆうまつゆうきょう师,赵孟頫荐驸马沈王以闻,ひとしそう召见,授应奉翰林かんりん文字もじどうせい诰,けん国史こくしいん编修。えいむね嗣位,为镇东行ちゅう书行しょう儒学じゅがくひさげ举。また明年みょうねんがつ大雪おおゆきうえ猎于柳林やなぎばやし,驻寿やすけんじゆき猎赋》るいまんことうえ几,えいむねぐう弑,とく润谓じん曰:“われはさみしょ长,こと两朝而不偶,いのち也。其归饮三江みえすい乎。”だんとげ弃官归。

  いたりせいじゅうねんこう浙行ちゅう书省たいらあきら政事せいじ三旦八起为行省照磨,乃进げん于三だんはち,请贷协从,以携贼党。すんで而,选为长兴いん,以病乞归。そつねんななじゅう

  子吉こよし,闭门教授きょうじゅ应张诚这聘。

  顾辉,とく润,鄞县じん。其大ちち应春,乡贡进士,ちち学海がっかい叔川,みな名士めいし

  辉幼うけたまわ家学かがくはじめじゅう岁,そくぜんぞくぶんぐん博士はかせ俞希鲁欲以神童しんどう贡,就,すんで长,肆力经史,卓然たくぜんよく以事こう见。すんで而,喟然叹曰:“われ不遇ふぐう矣,殆将以立言りつげんやめ乎!おもんみ经以载道,以纪ごといにしえぎょうあきらおうしょ藉以牖民しゃ也。”だまさくせいおもえ昼夜ちゅうや孜孜ししたれさんじゅうねん

  ちょ《释圜》いち,说约ろくじゅうさん。图徽じゅういちまれげんじゅうよんことろくじゅうようじゅうはちたいはちかいはち,辩じゅう,议じゅうよん,传七,记、论、序文じょぶん、铭各さん,杂著じゅうはち,赋六,骚じゅうきゅう,杂诗さんひゃくじゅういちごうさんじゅうかんふんさんしゅうつう谓之《まもり斋类稿こう》。

  马莹,なかめずらし建德けんとくじんしょう颖悟,せいけん经史,つくり及诸ひゃくいえ靡不淹贯。のべゆう设科,莹再举进だいそつ

  莹善为诗,措意遗词,はつなお葩泽,きさきさら脱去だっきょ边幅,ちょく窥微みょうゆう《岁迁しゅうよんじゅうかん文集ぶんしゅうじゅうかん

  叔英,彦闻,慈溪じんちちふるえそうそうただししょうきょう,门人わたし谥文洁先行せんこう

  叔英传其ちちがく,于经百氏之书皆能成诵。为文しゅん拔伟丽,奔放ほんぽうよう荐者,为晋りょう县教谕。そつゆう《赣笞ひま葺》さんかん,诗文しゅうじゅうかん

  吴福孙,ぜん,钱塘じんよう荐者,为宁こくしゅう儒学じゅがくただし。赵孟頫以ぜん书名,ぶく孙得其楷ほうみょうけんこう篆、籀。きさき授潮阳县青山あおやまようじゅん检,うつやまし归。いたりねん,赴选いたりきょう师。だい学士がくしおもね荣以ぶく孙所さくしょう楷书进于じょう,召见奎章阁,いのち近侍きんじ引金ひきがね钟酒以赐,しょうよう为馆职。ゆう沮之しゃ而止。いたりもとちゅうるい上海しゃんはい县言簿そつちょゆう《乐善斋集》、《しるし》。

  えびす渭,けい吕,绍兴诸暨じん。隐居つかまつこう诗,鲜于侁称其档远清丽,销加精密せいみつ几杜はじめ。赵孟頫重其高节,うつし《袁安卧雪图》以遗ゆうせいはるどうしゅうよんかん

  そんあかり远,あんひとしじん。颖悟该博,こう古文こぶん词。あずか贵溪ほうりしげる远、舒元えき、吴尊こうどうゆううえ饶陈立大りつだい门,ごう西にしよん先生せんせい。葺书しつ曰竹しょう孝光たかみつ举以自だいおこりゆう《俟庵しゅうさんじゅうかん