精選せいせん版ばん 日本にっぽん国語こくご大だい辞典じてん 「たち」の意味いみ・読よみ・例文れいぶん・類語るいご たち 〘 名詞めいし 〙 女性じょせいどうしの同性愛どうせいあいで、男性だんせいの役やくをする人ひと。[初出しょしゅつの実例じつれい]「レスビアンの世界せかいでは、男役おとこやくをたちといい、女おんな役やくはねこと呼よぶ」(出典しゅってん:暗室あんしつ(1976)〈吉行よしゆき淳之介じゅんのすけ〉二に四よん) 出典しゅってん 精選せいせん版ばん 日本にっぽん国語こくご大だい辞典じてん精選せいせん版ばん 日本にっぽん国語こくご大だい辞典じてんについて 情報じょうほう | 凡例はんれい
日本にっぽん大だい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ) 「たち」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ タチたちJacques Tati(1907―1982) フランスの映画えいが監督かんとく、俳優はいゆう。パリ郊外こうがい、セーヌ・エ・オワーズ県けん(現在げんざいのイブリーヌ県けん)ペック生うまれ。本名ほんみょうはジャック・タチシェフJacques Tatischeff。家族かぞくはパリで額縁がくぶち工房こうぼう兼けん販売はんばい店てんを営いとなんでいた。父方ちちかたの祖父そふはロシア人じんで伯爵はくしゃくの称号しょうごうをもつ。母方ははかたの祖父そふは画家がかゴッホと交流こうりゅうもあった額縁がくぶち職人しょくにんだった。一人ひとり息子むすこジャックは家業かぎょうを継つぐべく店みせでの見習みならいや国立こくりつ工芸こうげい学校がっこうへの受験じゅけん準備じゅんびを命めいじられていたが、1925年ねんから騎兵きへい連隊れんたいで兵役へいえきについたことと、1928年ねんにラグビーのクラブ・チーム、ラシン・クラブ・ド・フランス(RCF)に加入かにゅうしたことが、彼かれの人生じんせいの方向ほうこう性せいを決定けっていづけた。軍隊ぐんたいやスポーツにおける体験たいけんは、当人とうにんがまじめであればあるほどにじみ出でる身体しんたい動作どうさの滑稽こっけい(こっけい)さをタチに教おしえ、それをとらえる観察かんさつ眼めを育はぐくむ機会きかいを与あたえたのだ。1930年ねん、チーム主催しゅさいの舞台ぶたいで、初はじめて「スポーツ・ミュエ」(無声むせいスポーツ。テニス選手せんしゅなどの動作どうさにみられる滑稽こっけいさを誇張こちょうして演えんじ、観客かんきゃくの笑わらいを誘さそうもの)なるパントマイムを披露ひろう。以降いこうも舞台ぶたいを重かさねながら、1935年ねんには芸げいの題だいを「スポーツの印象いんしょう」に変更へんこう、芸名げいめい「ジャック・タチ」を名なのるようになる。 知名度ちめいどを高たかめ、ヨーロッパ各地かくちへの巡業じゅんぎょうの旅たびにも出でたタチだが、レビュー全盛ぜんせい時代じだいが終おわりを迎むかえつつあることは誰だれの目めにも明あきらかだったため、並行へいこうして短編たんぺん映画えいがの習作しゅうさくを何なん本ほんかつくったものの、満足まんぞくのいく出来映できばえとはならなかった。結局けっきょく、タチのパフォーマンスが映画えいがと融合ゆうごうを果はたすのは、第だい二に次じ世界せかい大戦たいせん後ごに、彼かれ自身じしんが監督かんとく、脚本きゃくほん、主演しゅえんを兼かねた短編たんぺん『郵便ゆうびん配達はいたつの学校がっこう』École des Facteurs(1947)においてであり、その後ごも、監督かんとく、脚本きゃくほん、主演しゅえんをタチが兼任けんにんする体制たいせいが堅持けんじされる。同どう作さくで主人公しゅじんこうとして登場とうじょうしたタチ演えんじる自転車じてんしゃ乗のりのスピード狂きょう郵便ゆうびん配達はいたつ人じんフランソワのキャラクターは、続つづく最初さいしょの長編ちょうへん『のんき大将たいしょう脱線だっせんの巻まき』(1949)に継承けいしょうされたが、好評こうひょうを博はくした同どう作さくのシリーズ化かを拒絶きょぜつし、タチは次つぎ作さく『ぼくの伯父おじさんの休暇きゅうか』(1952)を世よに問とう。海辺うみべの避暑ひしょ地ちに集つどう人々ひとびとのなかに謎なぞの中年ちゅうねん紳士しんしユロ氏しを置おき、彼かれが不本意ふほんいながら巻まき起おこす混乱こんらんをほのぼのとしたタッチで描えがく同どう作さくは、その年としのルイ・デリュック賞しょうやカンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさい国際こくさい批評ひひょう家か賞しょうを受賞じゅしょう。チャップリンのように能動のうどう的てきに笑わらいを引ひき起おこす存在そんざいではなく、意図いとせざる結果けっかとして周囲しゅういに笑わらいをもたらす受動じゅどう的てきな存在そんざいであるユロ氏しは、その後ご、良よくも悪わるくもタチの代だい名詞めいし的てきな存在そんざいとして人々ひとびとの記憶きおくに刻きざまれることになった。 タチ=ユロ氏しの名声めいせいは、続つづく初はつのカラー作品さくひん『ぼくの伯父おじさん』(1958)で頂点ちょうてんに達たっする。前作ぜんさくでは謎なぞ(なぞ)のままだったユロ氏しのバックグラウンドが本ほん作さくでいくらか明あきらかになった。ユロ氏しはパリ下町したまちの古ふるいアパルトマンで気きままな独身どくしん生活せいかつを送おくり、対照たいしょう的てきに滑稽こっけいなまでにモダンな住宅じゅうたくで暮くらす兄あにの尽力じんりょくにもかかわらず、就職しゅうしょくを世話せわされた工場こうじょうや、異性いせいへの紹介しょうかいが計画けいかくされたパーティーで失敗しっぱいばかり繰くり返かえす。1958年ねんのカンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさい審査しんさ員いん特別とくべつ賞しょうやアカデミー最優秀さいゆうしゅう外国がいこく語ご映画えいが賞しょうなどに輝かがやいた本ほん作さくの成功せいこうは、タチ=ユロ氏しを国際こくさい的てきな著名ちょめい人じんに押おし上あげ、タチはその余勢よせいを駆かってフランス映画えいが史上しじょう最大さいだい級きゅうの問題もんだい作さく『プレイタイム』(1967)の製作せいさくに乗のり出だす。パリの東ひがしバンセンヌ近郊きんこうの広大こうだいな敷地しきちに超ちょうモダンな建築けんちく群ぐんからなる巨大きょだいセットが組くみ立たてられ、撮影さつえい期間きかんは足あしかけ3年ねん、資金しきん不足ふそくによる中断ちゅうだんも何なん度どか繰くり返かえされ、結局けっきょく、総そう製作せいさく費ひ15億おくフランと当初とうしょの予定よていの4倍ばいもの予算よさんをかけてようやく作品さくひんは完成かんせい。今日きょうではタチの完全かんぜん主義しゅぎ的てき演出えんしゅつを徹底てっていさせた傑作けっさくとの評価ひょうかも確立かくりつしているが、作品さくひんの中心ちゅうしんであるはずのユロ氏しの存在そんざい感かんを、むしろ希薄きはくにさせる演出えんしゅつの方向ほうこう性せいもあって、当時とうじは多おおくの観客かんきゃくや批評ひひょう家かを戸惑とまどわせ、商業しょうぎょう的てきに大だい失敗しっぱい。タチに多おおくの借金しゃっきんを負おわせ、その後ごの映画えいが作づくりに深刻しんこくな足あしかせとなった。 続つづく『トラフィック』(1971)は、ユロ氏しを主人公しゅじんこうとする最後さいごの映画えいがとなり、最後さいごの作品さくひんとなった『パラード』(1974)では、往年おうねんの十じゅう八はち番ばんである「スポーツの印象いんしょう」を再現さいげんするなど、彼かれを育そだてたレビューの世界せかいへオマージュが捧ささげられた。晩年ばんねんも映画えいが作づくりへの情熱じょうねつは衰おとろえず、脚本きゃくほん「コンフュージョン」を書かき上あげたが、それを映画えいが化かする体力たいりょくと時間じかんは残のこされておらず、肺はい血栓けっせんによって1975年ねんの生涯しょうがいを閉とじた。[北きた小路しょうじ隆志たかし]資料しりょう 監督かんとく作品さくひん一覧いちらん郵便ゆうびん配達はいたつの学校がっこう L'école des facteurs(1947)のんき大将たいしょう脱線だっせんの巻まき Jour de fête(1947)新しんのんき大将たいしょう Jour de fête(1949)ぼくの伯父おじさんの休暇きゅうか Les vacances de Monsieur Hulot(1952)ぼくの伯父おじさん Mon oncle(1958)プレイタイム Playtime(1967)トラフィック Trafic(1971)パラード Parade(1974)『坂尻さかじり昌平しょうへい監修かんしゅう『ジャック・タチ』(1999・エスクァイア マガジン ジャパン)』▽『マルク・ドンデ著ちょ、佐々木ささき秀一ひでかず訳やく『タチ――「ぼくの伯父おじさん」ジャック・タチの真実しんじつ』(2002・国書刊行会こくしょかんこうかい)』[参照さんしょう項目こうもく] | ぼくの伯父おじさん 出典しゅってん 小学館しょうがくかん 日本にっぽん大だい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)日本にっぽん大だい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)について 情報じょうほう | 凡例はんれい
ブリタニカ国際こくさい大だい百科ひゃっか事典じてん 小しょう項目こうもく事典じてん 「たち」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ タチTati, Jacques [生せい]1908.10.9. ルペック[没ぼつ]1982.11.5. パリフランスの映画えいが監督かんとく,俳優はいゆう。本名ほんみょう Jacques Tatischeff。機械きかい化かが進すすむ現代げんだい社会しゃかいと葛藤かっとうする人間にんげんの姿すがたをコミカルに描えがいた作品さくひんで知しられる。監督かんとくした長編ちょうへん映画えいが全ぜん 6作さくで脚本きゃくほんと主演しゅえんも担当たんとう,うち 4作品さくひんで名物めいぶつキャラクター「ユロ氏し」を演えんじている。プロのラグビー選手せんしゅを経へて,1930年代ねんだいにミュージックホールで運動うんどう選手せんしゅのパントマイムを演えんじるようになり,映画えいがにも出演しゅつえん。第だい2次じ世界せかい大戦たいせん中ちゅうはフランス陸軍りくぐんで兵役へいえきについた。初期しょきの短編たんぺん監督かんとく作品さくひん『郵便ゆうびん配達はいたつの学校がっこう』L'Ecole des factuers(1947)をベースに,『のんき大将たいしょう脱線だっせんの巻まき』Jour de fête(1948)で長編ちょうへんデビューを果はたす。長編ちょうへん第だい2作さくの『ぼくの伯父おじさんの休暇きゅうか』Les Vacances de Monsieur Hulot(1953)では,長身ちょうしんにパイプをくわえた,とぼけた味あじのある主人公しゅじんこう「ユロ氏し」が初はつ登場とうじょう。海辺うみべのリゾートで休暇きゅうかを過すごす中流ちゅうりゅう階級かいきゅうを風刺ふうしし,高たかい評価ひょうかを得えた。せりふ重視じゅうしの従来じゅうらい路線ろせんではなく,体からだの動うごきや癖くせ,視覚しかく的てきなギャグ,間あいだのとり方かたなどをいかした短みじかい場面ばめんを積つみ重かさねることで,現代げんだい社会しゃかいの滑稽こっけいさや質感しつかんを表現ひょうげんした。 出典しゅってん ブリタニカ国際こくさい大だい百科ひゃっか事典じてん 小しょう項目こうもく事典じてんブリタニカ国際こくさい大だい百科ひゃっか事典じてん 小しょう項目こうもく事典じてんについて 情報じょうほう