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ウェールズとは? 意味や使い方 - コトバンク

ウェールズ英語えいご表記ひょうき)Wales

翻訳ほんやくWales

デジタル大辞泉だいじせん 「ウェールズ」の意味いみみ・例文れいぶん類語るいご

ウェールズ(Wales)

英国えいこくグレートブリテンとう南西なんせい半島はんとうじょう地方ちほう中心ちゅうしん都市としカーディフ。もとケルトひとくにがあったが、1284ねんイングランド併合へいごうし、イングランドの皇太子こうたいしプリンス‐オブ‐ウェールズのる習慣しゅうかんとなった。南部なんぶでは石炭せきたんし、製鉄せいてつなどの工業こうぎょう発達はったつ

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精選せいせんばん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてん 「ウェールズ」の意味いみみ・例文れいぶん類語るいご

ウェールズ

  1. ( [英語えいご] Wales ) イギリスだいブリテンしま南西なんせい地域ちいきふるくはケルトじんくにがあり、いちはちよんねんイングランドに併合へいごう以後いご、イギリスの皇太子こうたいしはプリンス‐オブ‐ウェールズを称号しょうごうとしている。面積めんせきやくまん平方へいほうキロメートル。

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ウェールズ
Wales

イギリスの連合れんごう王国おうこく構成こうせいする公国こうこくPrincipalityで,グレート・ブリテンとう南西なんせい半島はんとうじょう地域ちいき面積めんせき2まん0761km2人口じんこう290まん(2001)。しゅカーディフ。地名ちめい英語えいごアングロ・サクソン)でアングロ・サクソンじん以外いがいす〈異邦いほうじん〉に由来ゆらいするため,ウェールズではキムルCymruとぶ。きたはアイリッシュうみみなみブリストル海峡かいきょう西にしはカーディガンわんからセント・ジョージ海峡かいきょうかぎられ,ひがしは1536ねん合同ごうどう設定せっていされた境界きょうかいせんによってイングランドとせっする。ほぼ全域ぜんいき古生代こせいだい岩石がんせきからなり,カンブリア山地さんち中心ちゅうしんじゅん平原へいげんじょう高原こうげん卓越たくえつするが,北西ほくせいにはイングランド,ウェールズりょう地方ちほう最高峰さいこうほうスノードンさん(1085m)がそびえる。気候きこう本島ほんとう西岸せいがん位置いちするため,偏西風へんせいふう影響えいきょう直接ちょくせつけて温和おんわであり,とく北部ほくぶ山地さんちではとし降水こうすいりょうが2500mm以上いじょうたっする。こうした自然しぜん条件じょうけんのため,のうまきぎょうはおもに海岸かいがん平野へいやさかんであり,酪農らくのう野菜やさい促成そくせい栽培さいばいいとなまれている。それ以外いがい山地さんちひつじ肉牛にくぎゅう粗放そほうてき放牧ほうぼく地帯ちたいとなっている。ウェールズは鉱産こうさん資源しげんめぐまれ,ことに13世紀せいきから採掘さいくつされていたみなみウェールズ炭田たんでんは,産業さんぎょう革命かくめい以後いごだい規模きぼ開発かいはつされ,無煙炭むえんたん輸出ゆしゅつやカーディフ,ニューポートなどの製鉄せいてつぎょう立地りっちをみた。しかし近年きんねんでは,南西なんせいのミルフォード・ヘーブンに原油げんゆ基地きちが,スウォンジー内陸ないりく軽工業けいこうぎょう工業こうぎょう団地だんちがそれぞれ建設けんせつされ,みなみウェールズ工業こうぎょう地帯ちたい性格せいかく変化へんかしつつある。行政ぎょうせいてきには,1974ねん歴史れきしてきな13しゅうはいされ,あらたな8しゅう再編さいへんされた。地理ちりてきには,工業こうぎょうすすんだ南部なんぶ,カーナーボンじょうをはじめ観光かんこう資源しげん北部ほくぶ西部せいぶ海岸かいがん地方ちほう伝統でんとうてき言語げんご生活せいかつ維持いじされている中部ちゅうぶ山地さんち地方ちほうの3地域ちいき区分くぶんされる。イングランドとのながこうそう歴史れきし反映はんえいし,現在げんざいでも独自どくじ文化ぶんか,たとえばウェールズによる朗読ろうどく歌唱かしょうなどの芸術げいじゅつさい保持ほじしている。ウェールズ英語えいご同等どうとう地位ちいにあり,人口じんこうやく2わりにあたる54まんにん(1971)が使用しよう可能かのうで,北部ほくぶ西部せいぶでは日常にちじょうとしてのこっている。また宗教しゅうきょう英国えいこく国教こっきょうかいから分離ぶんりし,メソディスト中心ちゅうしんである。
執筆しっぴつしゃ

ウェールズには先史せんし時代じだいからケルトけいのブリトンじん(キムリじん)のしょう部族ぶぞく分立ぶんりつしていたが,1世紀せいき後半こうはん以後いごローマの支配しはいはいった。5世紀せいきはじめローマの支配しはいわると,ふたた分立ぶんりつかえり,北部ほくぶのグウィネッズ,中東ちゅうとうのポーイズ,南西なんせいのディベッドなどの王国おうこく有力ゆうりょくとなった。5世紀せいきなかばにはじまるアングロ・サクソンひとブリタニア侵入しんにゅうによって,イングランドののブリトンじんはその支配しはいはいったが,ウェールズのブリトンじん天険てんけん地形ちけいして自立じりつ保持ほじした。〈ウェールズじん(ウェルシュWelsh)〉とは,英語えいごで〈異邦いほうじん〉を意味いみする。かつてはブリタニアの支配しはいしゃであったブリトンじんは,イギリスじん(アングロ・サクソンじん)にあっせられてウェールズのしこめられ,よそものばれるにいたったのである。以後いごのウェールズの歴史れきしは,イングランドとのえざる闘争とうそうのうちに,しだいに自立じりつうしなっていく歴史れきしである。

 7世紀せいき前半ぜんはんグウィネッズのおうカドワロンは,当時とうじアングロ・サクソンのなな王国おうこくをとなえていたノーサンブリア撃破げきはしてしめしたが,かれはまもなくはいし,ウェールズじんのブリタニア回復かいふくのぞみはたれた。8世紀せいき後半こうはんにはイングランドのマーシアおうオファは,ほぼ今日きょうのウェールズ国境こっきょう長大ちょうだいるいきずいてウェールズじん反撃はんげきふうじた。9~10世紀せいきのウェールズではぜん海岸かいがんにわたってバイキング略奪りゃくだつおこなわれたが,この外圧がいあつ一因いちいんとなって,グウィネッズを中心ちゅうしん分立ぶんりつしょう王国おうこくあいだ統合とうごう気運きうんしょうじた。9世紀せいきなかば,大王だいおうしょうされたロードリは,北部ほくぶおよび中部ちゅうぶウェールズを統一とういつ,イングランドとたたかってゆずらず,バイキングをも撃破げきはした。このことはウェールズじん民族みんぞく意識いしき高揚こうようをもたらし,いくつかの英雄えいゆう成文せいぶんされ,またブリトンじん起源きげんをローマから古代こだいトロイアもとめる壮大そうだい建国けんこく伝説でんせつ成立せいりつした。

 しかし9世紀せいきまつ以降いこう,イングランドがアルフレッド大王だいおうおよびその後継こうけい諸王しょおうのもとで統一とういつされたことは,ウェールズにだい打撃だげきあたえた。ウェールズのしょ首長しゅちょう相次あいついでイングランドおう宗主そうしゅあおぎ,その下風かふうつにいたった。このなかで10世紀せいき前半ぜんはんおやイングランド政策せいさくをとってウェールズの安定あんていをはかり,慣習かんしゅうほう成文せいぶんおこなったヒウェル・ザが著名ちょめいである。10世紀せいきまつからバイキングの攻撃こうげきふたたはげしくなり,ウェールズははなはだしく荒廃こうはいしたが,11世紀せいきなかばグウィネッズおうグリフィズは,イングランドおうエドワード懺悔ざんげおう時代じだい混乱こんらんじょうじて,再三さいさんにわたってイングランドぐんやぶり,オファの塁壁るいへきをこえて東方とうほう領土りょうど拡大かくだいしたが,かれ結局けっきょくはいした。

1066ねんの〈ノルマン・コンクエスト〉によりイングランドを征服せいふくしたのち,ウィリアム1せいはウェールズ国境こっきょうみっつの辺境へんきょうはくをおいてウェールズに侵入しんにゅうした。しかしウェールズしょ首長しゅちょうはやがて反撃はんげきてんじ,イングランドのスティーブンおう時代じだい内乱ないらんじょうじて自立じりつ回復かいふくした。つづく12世紀せいき後半こうはんヘンリー2せい時代じだいにもしばしば反乱はんらんをおこしてイングランドをなやませた。しかし1170ねんころからヘンリー2せいアイルランド征服せいふく着手ちゃくしゅするためたいウェールズ懐柔かいじゅうさくてんじ,みなみウェールズの首長しゅちょうリースにひきいられたしょ首長しゅちょうは,イングランドとの友好ゆうこう関係かんけいはいることになった。

 13世紀せいきはいると,だい首長しゅちょうしょうされたルーウェリン・アープ・イオーワースがウェールズの大半たいはん勢力せいりょくおさめ,イングランドのジョンおうおよびヘンリー3せいなやませたが,13世紀せいきなかばその庶子しょしグリフィズのルーウェリン・アープ・グリフィズが台頭たいとう,イングランドの内紛ないふんにウェールズ全土ぜんど覇権はけん樹立じゅりつし,はじめて〈プリンス・オブ・ウェールズ〉をしょうした。かれはしばしばイングランドをおどかしたので,ヘンリー3せいをついだエドワード1せいは1277ねんおよび82ねん再度さいどにわたってルーウェリンを討伐とうばつ,ついにかれはいさせ,ウェールズ各地かくち反乱はんらん鎮定ちんていして全土ぜんど支配しはいおさめた。ここにウェールズの自立じりつ歴史れきしまくじ,その主権しゅけん象徴しょうちょうする〈プリンス・オブ・ウェールズ〉のしょうは,エドワード1せい長子ちょうしエドワード(のエドワード2せい)にあたえられた。

 ウェールズではそのもしばしば独立どくりつ回復かいふくもとめる反乱はんらんがおこったが,チューダーあさ始祖しそヘンリー7せいがウェールズじん血統けっとうをひき,かつかれがボズワースのせん対立たいりつしゃのリチャード3せいはいさせて即位そくいしたとき,多数たすうのウェールズじん援助えんじょけたこともあって,ウェールズじんはチューダーあさ諸王しょおうたんにイングランドだけでなく,みずからのおうみとめ,ここにイングランドとウェールズの関係かんけい好転こうてんした。そしてつぎのヘンリー8せい時代じだいの1536ねん合同ごうどうほう〉により,ウェールズにイングランドとおなほう自治じち制度せいど代議だいぎせいがしかれ,また全土ぜんどしゅうけられ,法制ほうせいじょうはイングランドに合体がったいするにいたった。
執筆しっぴつしゃ

その地主じぬしそう教育きょういくのあるそう中心ちゅうしんにイングランドとの一体化いったいか順調じゅんちょうすすんだ。1746ねんには議会ぎかい立法りっぽう用語ようごとしてのイングランドにウェールズがふくまれることが法律ほうりつさだめられ,19世紀せいきには南部なんぶ中心ちゅうしんとした工業こうぎょう背景はいけいに,イングランドの影響えいきょうりょくいちじるしくふかまった。他面ためん北部ほくぶ西部せいぶ農村のうそん地帯ちたい庶民しょみん日常にちじょう会話かいわ依然いぜんウェールズ支配しはいされ,18世紀せいき後半こうはん以降いこう福音ふくいん運動うんどうとともに,大衆たいしゅう教化きょうか手段しゅだんとしてウェールズ重視じゅうしされるようになる。19世紀せいき後半こうはんにはアイルランドやスコットランドの自治じちけん運動うんどう影響えいきょうもあって,教育きょういく宗教しゅうきょうめん主眼しゅがん独自どくじせい回復かいふくうごきが表面ひょうめんし,教育きょういく行政ぎょうせいあつかうウェールズちょう設置せっち(1906)や英国えいこく国教こっきょうかいのウェールズでの特権とっけん廃止はいし(1914)に結実けつじつする。せんあいだ経済けいざいきょう失業しつぎょう問題もんだいや,自由党じゆうとうわって選挙せんきょ掌握しょうあくした労働党ろうどうとう消極しょうきょくてき姿勢しせいとうから低迷ていめいつづけた運動うんどうも,だい2大戦たいせん繁栄はんえい中央ちゅうおう集権しゅうけん進行しんこうたいする反感はんかんたかまりを背景はいけい復活ふっかつし,1966ねんにはウェールズ担当たんとう大臣だいじんとウェールズちょうもうけられ,67ねんのウェールズ言語げんごほうによって,2世紀せいきぶりにイングランドはウェールズをふくまないことになった。1925ねん結成けっせいされたウェールズ国民党こくみんとうPlaid Cymruも60年代ねんだい後半こうはん以降いこうりょくばし,79ねんにはウェールズ自治じちけん拡充かくじゅう法案ほうあん住民じゅうみん投票とうひょうにかけられた。もっともどう法案ほうあん賛成さんせいがわずか11%だったてんにもうかがわれるように,スコットランドとくら政治せいじてきナショナリズムの色彩しきさい希薄きはくで,ウェールズ国民党こくみんとう勢力せいりょくなやみがつづいていた。しかし,スコットランドおよびウェールズへの大幅おおはば分権ぶんけん権限けんげん移譲いじょう公約こうやくかかげた労働党ろうどうとうが97ねん5がつそう選挙せんきょ圧勝あっしょうした結果けっか同年どうねん9がつにウェールズ分権ぶんけん法案ほうあん可否かひ住民じゅうみん投票とうひょう実施じっしされるはこびとなった。カーディフに地域ちいき議会ぎかい設置せっちし,教育きょういく保健ほけん運輸うんゆ住宅じゅうたく行政ぎょうせいなどにかんする独自どくじ規則きそく制定せいていけんなど大幅おおはば自主権じしゅけんあたえる内容ないようではあるが,おなじ9がつ住民じゅうみん投票とうひょう実施じっしされたスコットランド分権ぶんけん法案ほうあんくらべて,独自どくじ立法りっぽうけん税率ぜいりつ変更へんこうけんなどのつよ自主権じしゅけん規定きてい見送みおくられた。それでも賛成さんせいひょうはようやく50.3%にたっしたにとどまり,分権ぶんけん方向ほうこう決定けっていされたものの,60~70%をえる賛成さんせいひょうのあったスコットランドとの温度おんど無視むしできない。ウェールズ地域ちいき議会ぎかいは99ねん5がつ発足ほっそくした。
執筆しっぴつしゃ


ウェールズ
Nym Wales
なま没年ぼつねん:1905-97

アメリカの女性じょせいジャーナリスト。本名ほんみょうはヘレン・フォスター。ミズーリしゅううまれ。コロンビア大学ころんびあだいがく卒業そつぎょう中国ちゅうごくおとずれ,上海しゃんはいでエドガー・スノーり,執筆しっぴつ活動かつどうをはじめる。1932ねんスノーと結婚けっこんした。37ねん,スノーののちってのべやすはいり,主著しゅちょ中国ちゅうごく革命かくめい内部ないぶ》(1939)をく。スノーの《中国ちゅうごくあかほし》の中国ちゅうごくやく西行さいぎょう漫記》とあわせて《ぞく西行さいぎょう漫記》として中国ちゅうごくにもやくされ,解放かいほう実情じつじょう世界せかい紹介しょうかいする役割やくわりたした。理知的りちてき対象たいしょう理解りかいしようとする態度たいどつよく,その特色とくしょく聞書ききがきによる伝記でんきにもっともたくみに発揮はっきされた。中国共産党ちゅうごくきょうさんとういんたちの伝記でんきあつめた《あかちり》(1952)がある。日本にっぽん帝国ていこく主義しゅぎたたかい,中国ちゅうごく亡命ぼうめいして海陸かいりくゆたかソビエトにも参加さんかした朝鮮ちょうせんじん革命かくめいキム・サン(本名ほんみょうちょうこころざしらく)の伝記でんき《アリランのうた》(1941)は53ねん日本にっぽんへも紹介しょうかいされ,日本にっぽん植民しょくみん支配しはい民族みんぞく独立どくりつ運動うんどうらせるうえでおおきな影響えいきょうあたえた。1949ねんスノーと離婚りこん,アメリカに居住きょじゅうして著作ちょさく発表はっぴょう中国ちゅうごく民衆みんしゅう救済きゅうさい目指めざした合作がっさくしゃ運動うんどうで,ノーベル平和へいわしょう候補こうほにもなった。
執筆しっぴつしゃ

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百科ひゃっか事典じてんマイペディア 「ウェールズ」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

ウェールズ

英国えいこく,グレート・ブリテンとう南西なんせいめる地方ちほう地名ちめい語源ごげん英語えいごアングロ・サクソンじん以外いがいす〈異邦いほうじん〉で,ウェールズでは〈キムル〉とばれる。行政ぎょうせいてき地理ちりてきにイングランドにふくめることもある。2まん780km2。306まん3456にん(2012)。ほとんどがカンブリア山地さんちばれる丘陵きゅうりょうせい地帯ちたいで,最高さいこうてんスノードンやま。その北西ほくせいにアングルシーとうがある。ふるくは森林しんりんがおおっていたが,いまはわずかにたにあいのみにのこり,だい部分ぶぶんはヒースなどの荒野あらの粗放そほう牧羊ぼくようおこなわれる。南部なんぶのヘルシニアけい山地さんち石炭せきたんそう埋蔵まいぞうし,みなみウェールズ炭田たんでんとなり,これを基盤きばんにカーディフ,ロンダ,スウォンジーなどの工業こうぎょう都市とし成立せいりつ経済けいざい活動かつどう中心ちゅうしんをなす。住民じゅうみんケルトじんけいで,英国えいこくこく教徒きょうとウェールズはなすものがおおい。はらじゅうケルトもろぞくは5世紀せいきごろ大陸たいりくから渡来とらいしたアングロ・サクソンじん圧迫あっぱくされ,13世紀せいきまつにはエドワード1せいによって侵入しんにゅうがはじまり,以後いごながくイングランドとのこうそうつづけたが,16世紀せいきヘンリー8せいとき法制ほうせいじょうもイングランドに統合とうごうされた。しかし自治じちけんもとめるうごきは根強ねづよく,1997ねんがつ住民じゅうみん投票とうひょうによって独立どくりつ議会ぎかい設置せっち承認しょうにんされた。しん議会ぎかいは1999ねんがつにカーディフに開設かいせつされた。
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山川やまかわ 世界せかいしょう辞典じてん 改訂かいてい新版しんぱん 「ウェールズ」の解説かいせつ

ウェールズ
Wales

グレート・ブリテンとう西部せいぶ地方ちほう。イングランド,スコットランド,きたアイルランドとともに連合れんごう王国おうこく形成けいせい元来がんらいはケルトけいブリトンじん居住きょじゅうしていたが,新来しんらいアングロ・サクソンひと圧迫あっぱくけ,13世紀せいきにはイングランドのエドワード1せい侵入しんにゅうたいして,頑強がんきょう抵抗ていこう国王こくおうがわ譲歩じょうほによって,イギリス皇太子こうたいしを「プリンス・オヴ・ウェールズ」と慣習かんしゅうはじまった。1536ねんヘンリ8せい治世ちせい合同ごうどうほうによってイングランドに併合へいごう。19世紀せいき以後いごのイギリス工業こうぎょう進展しんてんにあたって,南部なんぶ炭鉱たんこう不可欠ふかけつのエネルギーの供給きょうきゅうげんとなる。そのあいだ,ウェールズ復興ふっこう中心ちゅうしん自治じちもとめる運動うんどう根強ねづよつづけられ,住民じゅうみん投票とうひょう結果けっか,1999ねん独自どくじ地方ちほう議会ぎかい開設かいせつされた。

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旺文社おうぶんしゃ世界せかい事典じてん さんていばん 「ウェールズ」の解説かいせつ

ウェールズ
Wales

イギリス,グレートブリテンとう西にしひろくつき半島はんとう
農耕のうこうすくなく,牧畜ぼくちく石炭せきたんぎょうおも産業さんぎょうとする。住民じゅうみんはケルトけいブリトンじんで,サクソンじん侵入しんにゅう以後いご,イングランドに圧迫あっぱくされつづけ,エドワード1せいにより1284ねんイングランドに併合へいごうされた。なお,このとき皇太子こうたいしとなる王子おうじ誕生たんじょうしたため,皇太子こうたいし称号しょうごうとしてプリンス−オブ−ウェールズがもちいられることになった。言語げんご人口じんこうの30%以上いじょうがケルトけいのウェールズもちいている。

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世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん旧版きゅうばんうちウェールズ言及げんきゅう

【イギリス】より

…ノルウェーかい北海ほっかい,イギリス海峡かいきょうによってヨーロッパ大陸たいりくからへだてられ,イギリス諸島しょとう大半たいはんめる。しゅしまであるグレート・ブリテンとう面積めんせきやく23まんkm2で日本にっぽん本州ほんしゅうとほぼひとしく,行政ぎょうせいじょうイングランドウェールズスコットランドの3地域ちいき区分くぶんされている。このほかアイルランドとう北東ほくとうきたアイルランドやアイリッシュうみマンとう,イギリス海峡かいきょうチャンネル諸島しょとうふくむ。…

【カンブリア山地さんち】より

…イギリス,ウェールズ地方ちほう山地さんち総称そうしょうめい。カンブリアはウェールズの古称こしょう。…

※「ウェールズ」について言及げんきゅうしている用語ようご解説かいせつ一部いちぶ掲載けいさいしています。

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