イギリスの連合王国を構成する公国Principalityで,グレート・ブリテン島南西部の半島状地域。面積2万0761km2,人口290万(2001)。主都カーディフ。地名は古英語(アングロ・サクソン語)でアングロ・サクソン人以外を指す〈異邦人〉に由来するため,ウェールズ語ではキムルCymruと呼ぶ。北はアイリッシュ海,南はブリストル海峡,西はカーディガン湾からセント・ジョージ海峡で限られ,東は1536年の合同時に設定された境界線によってイングランドと接する。ほぼ全域が古生代の岩石からなり,カンブリア山地を中心に準平原状の高原が卓越するが,北西部にはイングランド,ウェールズ両地方の最高峰スノードン山(1085m)がそびえる。気候は本島の西岸に位置するため,偏西風の影響を直接受けて温和であり,特に北部の山地では年降水量が2500mm以上に達する。こうした自然条件のため,農牧業はおもに海岸平野で盛んであり,酪農や野菜の促成栽培が営まれている。それ以外の山地部は羊,肉牛の粗放的放牧地帯となっている。ウェールズは鉱産資源に恵まれ,ことに13世紀から採掘されていた南ウェールズ炭田は,産業革命以後,大規模に開発され,無煙炭の輸出やカーディフ,ニューポートなどの製鉄業の立地をみた。しかし近年では,南西部のミルフォード・ヘーブンに原油基地が,スウォンジーや内陸部に軽工業の工業団地がそれぞれ建設され,南ウェールズ工業地帯の性格は変化しつつある。行政的には,1974年に歴史的な13州が廃され,新たな8州に再編された。地理的には,工業化の進んだ南部,カーナーボン城をはじめ観光資源に富む北部・西部の海岸地方,伝統的な言語・生活が維持されている中部山地地方の3地域に区分される。イングランドとの長い抗争の歴史を反映し,現在でも独自の文化,たとえばウェールズ語による詩の朗読,歌唱などの芸術祭を保持している。ウェールズ語は英語と同等の地位にあり,人口の約2割にあたる54万人(1971)が使用可能で,北部や西部では日常語として残っている。また宗教も英国国教会から分離し,メソディスト派が中心である。
執筆者:長谷川 孝治
歴史
異邦人の国
ウェールズには先史時代からケルト系のブリトン人(キムリ人)の小部族が分立していたが,1世紀後半以後ローマの支配下に入った。5世紀初めローマの支配が終わると,再び分立に立ち返り,北部のグウィネッズ,中東部のポーイズ,南西部のディベッドなどの王国が有力となった。5世紀半ばに始まるアングロ・サクソン人のブリタニア侵入によって,イングランドの地のブリトン人はその支配下に入ったが,ウェールズのブリトン人は天険の地形を利して自立を保持した。〈ウェールズ人(ウェルシュWelsh)〉とは,古英語で〈異邦人〉を意味する。かつてはブリタニアの支配者であったブリトン人は,イギリス人(アングロ・サクソン人)に圧せられてウェールズの地に押しこめられ,よそ者と呼ばれるにいたったのである。以後のウェールズの歴史は,イングランドとの絶えざる闘争のうちに,しだいに自立を失っていく歴史である。
7世紀前半グウィネッズの王カドワロンは,当時アングロ・サクソンの七王国に覇をとなえていたノーサンブリアを撃破して威を示したが,彼はまもなく敗死し,ウェールズ人のブリタニア回復の望みは断たれた。8世紀後半にはイングランドのマーシア王オファは,ほぼ今日のウェールズ国境に長大な土塁を築いてウェールズ人の反撃を封じた。9~10世紀のウェールズでは全海岸にわたってバイキングの略奪が行われたが,この外圧も一因となって,グウィネッズを中心に分立小王国間に統合の気運が生じた。9世紀半ば,大王と称されたロードリは,北部および中部ウェールズを統一,イングランドと戦って譲らず,バイキングをも撃破した。このことはウェールズ人の民族意識の高揚をもたらし,いくつかの英雄詩が成文化され,またブリトン人の起源をローマから古代のトロイアに求める壮大な建国伝説が成立した。
しかし9世紀末以降,イングランドがアルフレッド大王およびその後継諸王のもとで統一されたことは,ウェールズに大打撃を与えた。ウェールズの諸首長は相次いでイングランド王を宗主と仰ぎ,その下風に立つにいたった。この中で10世紀前半親イングランド政策をとってウェールズの安定をはかり,慣習法の成文化を行ったヒウェル・ザが著名である。10世紀末からバイキングの攻撃は再び激しくなり,ウェールズは甚だしく荒廃したが,11世紀半ばグウィネッズ王グリフィズは,イングランド王エドワード懺悔王時代の混乱に乗じて,再三にわたってイングランド軍を破り,オファの塁壁をこえて東方に領土を拡大したが,彼も結局敗死した。
ノルマン・コンクエスト以後
1066年の〈ノルマン・コンクエスト〉によりイングランドを征服した後,ウィリアム1世はウェールズ国境に三つの辺境伯をおいてウェールズに侵入した。しかしウェールズ諸首長はやがて反撃に転じ,イングランドのスティーブン王時代の内乱に乗じて自立を回復した。続く12世紀後半ヘンリー2世時代にもしばしば反乱をおこしてイングランドを悩ませた。しかし1170年ころからヘンリー2世はアイルランド征服に着手するため対ウェールズ懐柔策に転じ,南ウェールズの首長リースに率いられた諸首長は,イングランドとの友好関係に入ることになった。
13世紀に入ると,大首長と称されたルーウェリン・アープ・イオーワースがウェールズの大半を勢力下に収め,イングランドのジョン王およびヘンリー3世を悩ませたが,13世紀半ばその庶子グリフィズの子ルーウェリン・アープ・グリフィズが台頭,イングランドの内紛を機にウェールズ全土に覇権を樹立し,はじめて〈プリンス・オブ・ウェールズ〉を称した。彼はしばしばイングランドを脅かしたので,ヘンリー3世をついだエドワード1世は1277年および82年の再度にわたってルーウェリンを討伐,ついに彼を敗死させ,ウェールズ各地の反乱を鎮定して全土を支配下に収めた。ここにウェールズの自立の歴史は幕を閉じ,その主権を象徴する〈プリンス・オブ・ウェールズ〉の称は,エドワード1世の長子エドワード(後のエドワード2世)に与えられた。
ウェールズではその後もしばしば独立回復を求める反乱がおこったが,チューダー朝の始祖ヘンリー7世がウェールズ人の血統をひき,かつ彼がボズワースの戦で対立者のリチャード3世を敗死させて即位したとき,多数のウェールズ人の援助を受けたこともあって,ウェールズ人はチューダー朝諸王を単にイングランドだけでなく,みずからの王と認め,ここにイングランドとウェールズの関係は好転した。そして次のヘンリー8世時代の1536年〈合同法〉により,ウェールズにイングランドと同じ法,自治制度,代議制がしかれ,また全土が州に分けられ,法制上はイングランドに合体するにいたった。
執筆者:青山 吉信
合同以後
その後地主層や教育のある層を中心にイングランドとの一体化は順調に進んだ。1746年には議会立法用語としてのイングランドにウェールズが含まれることが法律で定められ,19世紀には南部を中心とした工業化を背景に,イングランドの影響力も著しく深まった。他面,北部,西部農村地帯の庶民の日常会話は依然ウェールズ語に支配され,18世紀後半以降の福音運動とともに,大衆教化の手段としてウェールズ語が重視されるようになる。19世紀後半にはアイルランドやスコットランドの自治権運動の影響もあって,教育・宗教面を主眼に独自性回復の動きが表面化し,教育行政を扱うウェールズ庁設置(1906)や英国国教会のウェールズでの特権廃止(1914)に結実する。戦間期の経済不況,失業問題や,自由党に代わって選挙区を掌握した労働党の消極的姿勢等から低迷を続けた運動も,第2次大戦後の繁栄と中央集権の進行に対する反感の高まりを背景に復活し,1966年にはウェールズ担当大臣とウェールズ庁が設けられ,67年のウェールズ言語法によって,2世紀ぶりにイングランドはウェールズを含まないことになった。1925年に結成されたウェールズ国民党Plaid Cymruも60年代後半以降力を伸ばし,79年にはウェールズ自治権拡充法案が住民投票にかけられた。もっとも同法案の賛成がわずか11%だった点にもうかがわれるように,スコットランドと比べ政治的ナショナリズムの色彩は希薄で,ウェールズ国民党の勢力も伸び悩みが続いていた。しかし,スコットランドおよびウェールズへの大幅な分権と権限移譲を公約に掲げた労働党が97年5月総選挙で圧勝した結果,同年9月にウェールズ分権法案の可否を問う住民投票が実施される運びとなった。カーディフに地域議会を設置し,教育・保健・運輸・住宅行政などに関する独自の規則制定権など大幅な自主権を与える内容ではあるが,同じ9月に住民投票が実施されたスコットランド分権法案に比べて,独自の立法権や税率変更権などの強い自主権規定は見送られた。それでも賛成票はようやく50.3%に達したにとどまり,分権化の方向は決定されたものの,60~70%を超える賛成票のあったスコットランドとの温度差は無視できない。ウェールズ地域議会は99年5月に発足した。
執筆者:水谷 三公