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ドイツ革命(ドイツカクメイ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

ドイツ革命かくめいみ)ドイツカクメイ

デジタル大辞泉だいじせん 「ドイツ革命かくめい」の意味いみみ・例文れいぶん類語るいご

ドイツ‐かくめい【ドイツ革命かくめい

だいいち大戦たいせん末期まっきの1918ねん戦況せんきょう悪化あっかロシア革命かくめい影響えいきょうのもとで、ドイツにこった革命かくめい。11月のキール軍港ぐんこう水兵すいへい反乱はんらんはじまり、労働ろうどうしゃ運動うんどう展開てんかい多数たすう社会しゃかい民主党みんしゅとうエーベルト臨時りんじ政権せいけん樹立じゅりつして帝政ていせい廃止はいし共和きょうわせいをしいた。1919ねん8がつワイマール憲法けんぽう制定せいてい十一月じゅういちがつ革命かくめい

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ドイツ‐かくめい【ドイツ革命かくめい

  1. じゅういちがつかくめい(じゅういちがつ革命かくめい[ ]

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ドイツ革命かくめい (ドイツかくめい)

ドイツだいみかどせいドイツ帝国ていこく)を崩壊ほうかいさせ,ワイマール共和きょうわこく成立せいりつ一応いちおう終結しゅうけつをみた革命かくめい。ドイツじゅういちがつ革命かくめい,また〈1918-19ねんのドイツ革命かくめい〉ともばれる。ただし最近さいきんでは,だい1大戦たいせんちゅうから戦後せんごにかけての大衆たいしゅう行動こうどう発展はってん注目ちゅうもくして,大戦たいせんからワイマール共和きょうわこく一応いちおう安定あんていをみた20ねんないし23,24ねんまでをとおしてかんがえることがおおい。

1914ねん8がつだい1大戦たいせん勃発ぼっぱつすると,ドイツでは,戒厳かいげん状態じょうたい布告ふこくされる一方いっぽう,〈防衛ぼうえい戦争せんそう遂行すいこうのための一致いっち協力きょうりょく体制たいせいとして〈城内きうち平和へいわBurgfriede〉が成立せいりつした。それまでだいみかどせい敵対てきたい関係かんけいにあったドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとうも,戦争せんそう予算よさん協賛きょうさん戦争せんそう体制たいせい一翼いちよく構成こうせいした。その重要じゅうよう推進すいしんりょくとなったのは,戦時せんじストライキ中止ちゅうししたレギーン労働ろうどう組合くみあい指導しどうであった。しかし,ルール重工業じゅうこうぎょうかいやユンカーなどだいみかどせい支配しはいそう中心ちゅうしん領土りょうど拡大かくだいうごきがたかまる一方いっぽう戦争せんそう長期ちょうきのもとで食糧しょくりょう不足ふそくとインフレがすすむと,労働ろうどうしゃあいだに〈城内きうち平和へいわ〉への不満ふまんがしだいにたかまり,各地かくちでストライキや婦人ふじん中心ちゅうしんとした食糧しょくりょう騒動そうどうきるようになった。社会しゃかい民主みんしゅ党内とうない開戦かいせん当初とうしょから存在そんざいした〈帝国ていこく主義しゅぎ戦争せんそう反対はんたいもしだいに勢力せいりょくつよめ,戦争せんそう支持しじによる抑圧よくあつ排除はいじょこうして,17ねん4がつ,ついにドイツ独立どくりつ社会しゃかい民主党みんしゅとう結成けっせいした。どうとうは,ハーゼカウツキー平和へいわ主義しゅぎてきとう指導しどうから,ローザ・ルクセンブルク,カール・リープクネヒト中心ちゅうしんとする反戦はんせん革命かくめいスパルタクスまで,さまざまなながれから構成こうせいされていた。

 ロシアに革命かくめい勃発ぼっぱつしたこの1917ねんは,ドイツでも大衆たいしゅう行動こうどう大戦たいせん最初さいしょ高揚こうようせたとしとなった。4月のベルリンの軍需ぐんじゅ工場こうじょう中心ちゅうしん食糧しょくりょう配給はいきゅう削減さくげん反対はんたいしてこったストライキでその中心ちゅうしんとなったのは,旋盤せんばんこうR.ミュラー周囲しゅうい結集けっしゅうした金属きんぞく労働ろうどう組合くみあい工場こうじょう代表だいひょうしゃ職場しょくば委員いいんたちからる,独立どくりつ社会しゃかい民主党みんしゅとうけい革命かくめいてきオプロイテrevolutionäre Obleuteであった。つづいてなつには,水兵すいへいたちのあいだに,どうとうとも一定いってい関連かんれんをもちつつ,かくかん糧食りょうしょく委員いいんかい中心ちゅうしんとして,平和へいわ待遇たいぐう改善かいぜんもとめる運動うんどうひろがった。さらによく18ねん1がつには,ドイツがわ強硬きょうこう態度たいどによるソビエト・ロシアとの講和こうわ交渉こうしょう難航なんこう抗議こうぎし,併合へいごう償金しょうきん平和へいわもとめる全国ぜんこくてきなストライキが,オーストリアつづいて勃発ぼっぱつした。しかしこうした一連いちれん大衆たいしゅう行動こうどうは,ぐんによる弾圧だんあつ一定いってい待遇たいぐう改善かいぜんによって収束しゅうそくされ,戦争せんそう体制たいせいおおきくるがすにはいたらなかった。

ブレスト・リトフスク条約じょうやくによるたいソビエト・ロシア講和こうわ,ドイツぐん総力そうりょく結集けっしゅうした西部せいぶ戦線せんせんでのだい攻勢こうせい失敗しっぱいわり,敗戦はいせん決定的けっていてきになると,1918ねん10がつ当時とうじ国政こくせい中枢ちゅうすうにあった軍部ぐんぶ要請ようせいにより,社会しゃかい民主党みんしゅとうふく中道ちゅうどうしょとう基盤きばんとしたマックス・フォン・バーデンこうMax Prinz von Baden(1867-1929)内閣ないかく成立せいりつした。新内しんないかくは,議会ぎかい主義しゅぎ君主くんしゅせい方向ほうこうで〈うえからの改革かいかく〉をすすめる一方いっぽう,アメリカ大統領だいとうりょうウィルソンに講和こうわさるおこなった。講和こうわ交渉こうしょう難航なんこうするあいだ海軍かいぐん司令しれい出撃しゅつげき命令めいれいくだすと,水兵すいへいはこれを拒否きょひ,11月4にちにはキール軍港ぐんこう水兵すいへい弾圧だんあつこうして反乱はんらんがった。反乱はんらんは,戦争せんそうつか平和へいわつよもとめていた労働ろうどうしゃ兵士へいし呼応こおうするところとなり,急速きゅうそく各地かくち波及はきゅう労働ろうどうしゃ兵士へいし評議ひょうぎかいろうへいレーテ)が革命かくめい機関きかんとして各地かくち誕生たんじょうした(レーテ運動うんどう)。7にちバイエルン王国おうこく首都しゅとミュンヘン独立どくりつ社会しゃかい民主党みんしゅとうアイスナー指導しどうのもとに革命かくめい勃発ぼっぱつ,9にちにはベルリンで革命かくめいこり皇帝こうていウィルヘルム2せい退位たいい,ここにだいみかどせい崩壊ほうかいした。ベルリンで革命かくめい中心ちゅうしんとなったのは,革命かくめいてきオプロイテ,スパルタクスとう反戦はんせん諸派しょはで,労働ろうどうしゃ評議ひょうぎかい議長ぎちょうには前者ぜんしゃのミュラーが選出せんしゅつされた。これにたいして,エーベルトシャイデマン社会しゃかい民主党みんしゅとう指導しどうは,したからの革命かくめいうごきをおされないとてとると,どうとう労働ろうどう組合くみあい組織そしきりょくささえられつつ,〈共和きょうわこく〉と〈団結だんけつ〉を合言葉あいことばに,兵士へいし支持しじをも主導しゅどうけんにぎり,りょう社会しゃかい民主党みんしゅとう連立れんりつ政権せいけん(エーベルト,ハーゼを中心ちゅうしんとする〈人民じんみん委員いいん評議ひょうぎかい〉)を成立せいりつさせた。

 労働ろうどうしゃ兵士へいし革命かくめい直面ちょくめんして,軍部ぐんぶは,社会しゃかい民主党みんしゅとうむすんでこれをおさえようとし(11がつ10日とおかのエーベルト=グレーナー協定きょうてい),産業さんぎょうかいは,労働ろうどう組合くみあいむすんで資本しほん主義しゅぎ体制たいせい維持いじ経済けいざい政策せいさくへの発言はつげんけん確保かくほをはかった(11月15にちシュティンネス=レギーン協定きょうてい)。このシュティンネス=レギーン協定きょうてい中央ちゅうおう労働ろうどう共同きょうどうたい協定きょうていZentralarbeitsgemeinschaftともよばれる)では,労働ろうどう組合くみあいはじめて対等たいとう交渉こうしょう相手あいてとしてみとめられ,また8あいだ労働ろうどう承認しょうにんされた。しかしルール地方ちほうでは,戦争せんそうちゅうさんぐん一体いったいのきびしい弾圧だんあつ体制たいせいのもとで酷使こくしされてきた炭鉱たんこう労働ろうどうしゃが,労働ろうどう時間じかんのいっそうの短縮たんしゅく賃上ちんあげをもとめて,かく炭鉱たんこう従業じゅうぎょういん集会しゅうかい従業じゅうぎょういん委員いいんかい中心ちゅうしんにストライキ運動うんどう展開てんかいした。大衆たいしゅうの〈直接ちょくせつ行動こうどう〉をとなえてその先頭せんとうったサンディカリストは,炭鉱たんこう労働ろうどうしゃあいだでしだいに勢力せいりょくひろげた。他方たほう軍部ぐんぶは,休戦きゅうせん協定きょうていにのっとって帰国きこくしてくる前線ぜんせん部隊ぶたい期待きたいをかけ,これに依拠いきょしてろうへいレーテを圧殺あっさつしようとはかった。また,ブルジョアしょ政党せいとうは,内部ないぶさい編成へんせいげつつ,普通ふつう選挙せんきょにもとづく憲法けんぽう制定せいてい国民こくみん議会ぎかい選挙せんきょ要求ようきゅうし,革命かくめいから疎外そがいされていたなかあいだそう支持しじあつめつつあった。

 こうした緊迫きんぱくした空気くうきなかで,12月中旬ちゅうじゅん,ベルリンで全国ぜんこくろうへいレーテ大会たいかい開催かいさいされた。大会たいかいでは社会しゃかい民主党みんしゅとう過半数かはんすうめ,革命かくめいてきオプロイテやスパルタクスブント(スパルタクス改称かいしょう)の主張しゅちょうする〈レーテ体制たいせい〉を退しりぞけて,国民こくみん議会ぎかい選挙せんきょ早期そうき実施じっし決定けっていした。しかし大会たいかい同時どうじに,社会しゃかい民主党みんしゅとう指導しどう意向いこうはんして,軍隊ぐんたい民主みんしゅ石炭せきたんぎょうとう社会しゃかいSozialisierungをもとめる決議けつぎ採択さいたくし,労働ろうどうしゃ兵士へいし大衆たいしゅうきゅう体制たいせい社会しゃかいてき基盤きばん根本こんぽんてき改革かいかくもとめていることをあきらかにした。これにたいして軍部ぐんぶは,クリスマスにベルリンでおきた人民じんみん海兵かいへいだん事件じけん武力ぶりょく制圧せいあつ失敗しっぱいすると,社会しゃかい民主党みんしゅとう政府せいふ(この事件じけんでのどうとう態度たいど不満ふまんとして独立どくりつ社会しゃかい民主党みんしゅとう下野げや)の支持しじのもとに,はん革命かくめい復員ふくいん軍人ぐんじん主体しゅたいとした義勇軍ぎゆうぐん(フライコールFreikorps)の結成けっせい強力きょうりょくすすめた。

 よく19ねん1がつ,ベルリンの革命かくめいが,同派どうはけい警視総監けいしそうかん罷免ひめん契機けいきにエーベルト政府せいふ打倒だとうがると,政府せいふは,社会しゃかい民主党みんしゅとうけい労働ろうどうしゃ動員どういんする一方いっぽう義勇軍ぎゆうぐん投入とうにゅうしてこれを鎮圧ちんあつした(〈いちがつ蜂起ほうき〉)。そのなかで,前年ぜんねんまつスパルタクスブントにブレーメンひとし左翼さよく急進きゅうしん合流ごうりゅうして結成けっせいされたドイツ共産党きょうさんとう指導しどうしゃローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトは虐殺ぎゃくさつされた。2がつワイマールに招集しょうしゅうされた国民こくみん議会ぎかいは,1がつ選挙せんきょで38%の得票とくひょうりつ社会しゃかい民主党みんしゅとうのエーベルトを共和きょうわこく大統領だいとうりょう選出せんしゅつ,また,どうとう自由じゆう主義しゅぎ左派さは民主党みんしゅとうカトリック中央ちゅうおうとうからる〈ワイマール連合れんごう政府せいふ成立せいりつさせた。これにたいして,ベルリン,ルール地方ちほうをはじめ各地かくち大都市だいとし工業こうぎょう地帯ちたいでは,大衆たいしゅうが,はん革命かくめいへの危機ききかんと,根本こんぽんてき改革かいかくすすめない政府せいふ社会しゃかい民主党みんしゅとうへの幻滅げんめつとをつよめ,ろうへいレーテによった革命かくめい勢力せいりょくひろげた。ミュンヘンでは,2がつにアイスナーがはん革命かくめい暗殺あんさつされたあとの激動げきどうなかで,4がつはじめアナーキストのランダウアーらによって〈バイエルンレーテ共和きょうわこく〉が宣言せんげんされ,まもなく共産党きょうさんとうがその指導しどうけんにぎった。シャイデマンのひきいるワイマール連合れんごう政府せいふは,一定いっていの〈社会しゃかい立法りっぽう大衆たいしゅう分裂ぶんれつさせつつ,義勇軍ぎゆうぐん各地かくち派遣はけんして各個かっこ撃破げきはすすめ,5がつはじめにはバイエルン・レーテ共和きょうわこく武力ぶりょく制圧せいあつされた。そして7がつ国民こくみん議会ぎかいは〈ドイツこく憲法けんぽう〉(〈ワイマール憲法けんぽう〉)を採択さいたくした。

1920ねん3がつ前々まえまえがつ発効はっこうしたベルサイユ条約じょうやくにもとづく兵力へいりょく削減さくげん契機けいきとして,きゅうぐん将校しょうこうやユンカーを中心ちゅうしんとする反共はんきょう和国わこく勢力せいりょくが〈カップ一揆いっき〉をおこすと,大統領だいとうりょうエーベルトをはじめとする社会しゃかい民主党みんしゅとう閣僚かくりょうやレギーンのひきいる労働ろうどう組合くみあいはゼネストをびかけ,労働ろうどうしゃはゼネストにがった。ルール地方ちほう中部ちゅうぶドイツでは,革命かくめい中心ちゅうしんとした労働ろうどうしゃ一揆いっき支持しじ国防こくぼうぐん部隊ぶたい武装ぶそう闘争とうそう圧倒あっとうした。しかし一揆いっき崩壊ほうかいすると,政府せいふ国防こくぼうぐん投入とうにゅうしてこの〈ルール赤軍せきぐん〉に流血りゅうけつ弾圧だんあつくわえた。いで21ねん3がつ政府せいふ中部ちゅうぶドイツ鉱工業こうこうぎょう地帯ちたい保安ほあん警察けいさつ部隊ぶたい派遣はけんすると,労働ろうどうしゃはストライキと武装ぶそう闘争とうそうがった。カップ一揆いっきさいまずしい民衆みんしゅう支持しじのもとに義賊ぎぞくてき活動かつどうをくりひろげたマックス・ヘルツは,労働ろうどうしゃ部隊ぶたい中心ちゅうしんてき存在そんざいとなった。前年ぜんねん共産党きょうさんとうから排除はいじょされた左翼さよく反対はんたい結成けっせいした共産きょうさん主義しゅぎ労働ろうどうしゃとう,また,独立どくりつ社会しゃかい民主党みんしゅとう左派さは合同ごうどうして大衆たいしゅう政党せいとうとなった共産党きょうさんとうりょうとうは,この〈さんがつ行動こうどう〉に主導しゅどうてき参与さんよし,その敗北はいぼくにより手痛ていた打撃だげきけた。

 1923ねん賠償ばいしょう問題もんだいはっするフランスぐんのルール占領せんりょうとそれへの〈消極しょうきょくてき抵抗ていこう〉のなかでインフレが極度きょくど昂進こうしんすると,労働ろうどうしゃは8がつ共産党きょうさんとうけい革命かくめいてき経営けいえい評議ひょうぎかいびかけにこたえてゼネストにはいり,クーノ政府せいふ退陣たいじんをかちとった。産業さんぎょうかいをバックとする国民党こくみんとう出身しゅっしんしん首相しゅしょうシュトレーゼマンは,22ねんまつ以降いこう閣外かくがいにあった社会しゃかい民主党みんしゅとう入閣にゅうかくでゼネストを収束しゅうそくさせ,いで9がつには消極しょうきょくてき抵抗ていこう中止ちゅうしするとともに非常ひじょう事態じたい宣言せんげんして,労働ろうどう時間じかん実質じっしつてき延長えんちょう中心ちゅうしんとするマルクの安定あんていさくすすめた。10月ザクセン,チューリンゲンでしゃどもりょうとうむすんで〈労働ろうどうしゃ政府せいふ〉を形成けいせいすると,政府せいふ国防こくぼうぐん派遣はけんしてこれをおさえた。コミンテルン指導しどうのもとにすすめられた共産党きょうさんとう武装ぶそう蜂起ほうき計画けいかくは,孤立こりつしたハンブルクでのバリケードせんわった(〈ドイツのじゅうがつ〉)。労働ろうどうしゃは,失業しつぎょう増大ぞうだいするなか抵抗ていこうりょくうしなっていった。他方たほう,インフレにくるしむなかあいだそう支持しじあつめて躍進やくしんしたヒトラーのナチとうも,11月,〈ミュンヘン一揆いっき〉の挫折ざせつおさまれた。こうして,ワイマール共和きょうわこくは,ブルジョア政党せいとう産業さんぎょうかいヘゲモニーのもとで社会しゃかい民主党みんしゅとう労働ろうどう組合くみあい一定いってい地位ちい確保かくほした体制たいせいとして,よく24ねん賠償ばいしょう問題もんだい解決かいけつとドイツ経済けいざい安定あんていをはかるドーズあん国際こくさいてき承認しょうにんて,相対そうたいてき安定あんていむかえることとなる。
執筆しっぴつしゃ

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日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ) 「ドイツ革命かくめい」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

ドイツ革命かくめい
どいつかくめい
Deutsche Revolution ドイツ

1918ねん11月、ドイツにおいて、皇帝こうていしょ王侯おうこうわれた革命かくめい。「じゅういちがつ革命かくめい」ともよばれるが、ドイツ帝国ていこくからワイマール共和きょうわこくいたるこの民主みんしゅ主義しゅぎ革命かくめい性格せいかくをめぐる、1950ねんごろからの論議ろんぎのなかで革命かくめいてき移行いこう重視じゅうしされ、「1918~19ねんのドイツ革命かくめい」ととらえられている。移行いこう終了しゅうりょう時点じてんについては見解けんかいかれるが、一般いっぱんには19ねん1がつ19にち国民こくみん議会ぎかい選挙せんきょひとつのみとめている。ワイマールに招集しょうしゅうされた国民こくみん議会ぎかいが、ベルサイユ条約じょうやく受諾じゅだくしてドイツの国際こくさいてき地位ちい確定かくていするとともに、しん憲法けんぽう制定せいていして内政ないせいじょう基礎きそえたからである。

吉田よしだ輝夫てるお

経過けいか

1918ねん1がつ労働ろうどうしゃだいストライキにしめされるように、だいいち世界せかい大戦たいせん長期ちょうきともない、ドイツ国民こくみん犠牲ぎせいえがたく、平和へいわへの期待きたいつよまった。同年どうねん8がつ西部せいぶ戦線せんせんやぶれると、軍部ぐんぶ全面ぜんめんてき崩壊ほうかいおそれて独裁どくさいてき支配しはいゆずり、10月、はじめて議会ぎかいもとづくマックス・フォン・バーデン政府せいふ成立せいりつし、和平わへい交渉こうしょうはじめるとともに民主みんしゅてき改革かいかく着手ちゃくしゅした。だが和平わへい交渉こうしょうははかどらず、国民こくみんには皇帝こうていウィルヘルム2せい退位たいい要求ようきゅうするこえたかまった。ドイツ海軍かいぐんは、このような状況じょうきょう無視むしして、イギリス艦隊かんたい決戦けっせんいどもうと、艦隊かんたい出撃しゅつげきめいじた。これにたいし、水兵すいへいたちは「出撃しゅつげき」に反抗はんこうし、11月4にちキール軍港ぐんこう反乱はんらん労働ろうどうしゃ連帯れんたいしてレーテRäte(評議ひょうぎかい。「ソビエト」のドイツ語どいつごやく)を形成けいせいした。この運動うんどうはたちまち港湾こうわん都市とし波及はきゅうし、内陸ないりくにも拡大かくだいした。

 1918ねん11月7にち、バイエルン王国おうこく首都しゅとミュンヘンに革命かくめいこり、王制おうせい打倒うちたおされ、ろうへいレーテが権力けんりょく掌握しょうあくした。また、11月9にち、ベルリンにゼネストがこった。マックス・フォン・バーデンは皇帝こうてい退位たいいもとめたが、要領ようりょうないため、みずからの責任せきにん皇帝こうてい退位たいい宣言せんげんし、社会しゃかい民主党みんしゅとうのエーベルトに宰相さいしょうしょくゆずった。よく10日とおか皇帝こうていはオランダに亡命ぼうめいした。11にち連合れんごうこくとのあいだ休戦きゅうせん条約じょうやく調印ちょういんされた。一方いっぽう、その前日ぜんじつ10日とおか、ベルリンろうへいレーテ大会たいかい人民じんみん委員いいん政府せいふ承認しょうにんした。これは社会しゃかい民主党みんしゅとう独立どくりつ社会しゃかい民主党みんしゅとうから構成こうせいされたが、これを指導しどうしたエーベルトは、当面とうめん課題かだいを、秩序ちつじょ維持いじ国民こくみん生活せいかつ保障ほしょう国民こくみん議会ぎかい準備じゅんび、さらに平和へいわ条約じょうやく締結ていけつき、このため軍部ぐんぶ官僚かんりょう資本しほんなどの協力きょうりょく不可欠ふかけつとしたのである。

 すでに1918ねん10がつ資本しほん革命かくめい予想よそうし、労働ろうどう組合くみあいとの接触せっしょくはじめ、11月15にちには労資ろうし協定きょうていむすび、8あいだ労働ろうどう労働ろうどう組合くみあい承認しょうにんなど大幅おおはば譲歩じょうほをして労働ろうどうしゃ体制たいせいないにつなぎとめようとした。労働ろうどうしゃのなかには社会しゃかい主義しゅぎ実現じつげんもとめるこえつよく、とくにルールの炭鉱たんこう労働ろうどうしゃ鉱山こうざんぎょうの「社会しゃかい」を要求ようきゅうした。だが政府せいふ社会しゃかい委員いいんかい設置せっちするにとどまり、12月中旬ちゅうじゅん全国ぜんこくろうへいレーテ大会たいかい即時そくじ社会しゃかい」を決議けつぎしても、資本しほん主義しゅぎ経済けいざい正常せいじょうしたうえで「社会しゃかい」するとして、熱意ねついしめさなかった。

 人民じんみん委員いいん政府せいふ最高さいこう権力けんりょく掌握しょうあくしたが、従来じゅうらい行政ぎょうせい機関きかん依存いぞんし、これまでの官僚かんりょう技術ぎじゅつてき専門せんもんとして更迭こうてつしなかった。軍部ぐんぶにもボリシェビズムすなわち急進きゅうしん分子ぶんし抑圧よくあつする役割やくわりあたえられた。1918ねん12月16~20にち全国ぜんこくろうへいレーテ大会たいかいはいわゆる「ハンブルク項目こうもく」を決議けつぎし、ぐん徹底的てっていてき解体かいたい、「国民こくみんぐん」の創設そうせつなどを要求ようきゅうしたが、エーベルトはこれを無視むししただけでなく、よく19ねん1がつ19にち国民こくみん議会ぎかい選挙せんきょ決定けっていさせ、レーテを圧殺あっさつしたのである。

吉田よしだ輝夫てるお

終息しゅうそく

エーベルトが、ドイツ軍国ぐんこく主義しゅぎ支柱しちゅうであった反動はんどう勢力せいりょく同盟どうめいしたことが判然はんぜんとすると、独立どくりつ社会しゃかい民主党みんしゅとう政府せいふから離脱りだつした。どうとう左派さはスパルタクスだんは、政府せいふとの対決たいけつ姿勢しせいつよめ、1918ねん12がつまつ共産党きょうさんとう結成けっせいし、翌年よくねん1がつ選挙せんきょボイコットを決定けっていした。冒険ぼうけん主義しゅぎしゃ活動かつどう積極せっきょくした。一方いっぽう社会しゃかい民主党みんしゅとうのノスケは義勇軍ぎゆうぐん(フライコール)の先頭せんとうってベルリンにはいった。19ねん1がつ15にち共産党きょうさんとう指導しどうしゃカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクはかれらの殺害さつがいされた。以後いご、ノスケの軍隊ぐんたい各地かくちでレーテをしつぶし、ストライキを鎮圧ちんあつした。3月、ベルリンのゼネストも義勇軍ぎゆうぐん抑圧よくあつされた。5月、ミュンヘンのレーテ共和きょうわこく政府せいふぐんによって打倒だとうされたが、これはレーテ運動うんどうにとどめをしたといってよい。

 このような状況じょうきょうのなかで1919ねん1がつ19にち国民こくみん議会ぎかい選挙せんきょおこなわれた。比例ひれい代表だいひょうせい採用さいようされ、20さい以上いじょう男女だんじょ有権者ゆうけんしゃの90%じゃく投票とうひょうした。選挙せんきょ結果けっかは、だいいち世界せかい大戦たいせんまえ基本きほんてき政党せいとう構造こうぞう変化へんかしていないことをしめした。19ねん2がつ、ワイマールに国民こくみん議会ぎかい招集しょうしゅうされた。大統領だいとうりょうにエーベルトが選出せんしゅつされ、社会しゃかい民主党みんしゅとう中央ちゅうおうとう民主党みんしゅとうによる「ワイマール連合れんごう政府せいふ形成けいせいされた。これら3とうはマックス・フォン・バーデン政府せいふ支柱しちゅうであった。こうしてドイツ革命かくめいは、主要しゅよう局面きょくめんまくじる。

吉田よしだ輝夫てるお

革命かくめい規定きてい

ドイツ革命かくめいについては、ドイツ民主みんしゅ共和きょうわこく旧東きゅうとうドイツ)では1950年代ねんだい、プロレタリアてき手段しゅだん方法ほうほうでなされたブルジョア民主みんしゅ主義しゅぎ革命かくめい規定きていされた。ドイツ連邦れんぽう共和きょうわこくきゅう西にしドイツ)では1950年代ねんだい社会しゃかい民主党みんしゅとうにはプロレタリア独裁どくさい志向しこうする勢力せいりょくとの同盟どうめいによる社会しゃかい革命かくめいか、保守ほしゅ勢力せいりょくとの同盟どうめいによる議会ぎかいせい共和きょうわこっかの二者択一にしゃたくいつしかなかったとされ、エーベルトの保守ほしゅ勢力せいりょくとの同盟どうめい弁護べんごされたが、60年代ねんだい以後いごレーテ運動うんどう注目ちゅうもくあつめ、これとむすくことで伝統でんとうてき権力けんりょく構造こうぞう民主みんしゅされたのではないか、とろんじられた。レーテ運動うんどうについては、1950年代ねんだい東欧とうおう諸国しょこく労働ろうどうしゃ自治じちとの関連かんれんさい検討けんとうされ、60年代ねんだいから70年代ねんだいには西欧せいおうしん左翼さよく直接ちょくせつ民主みんしゅ主義しゅぎ可能かのうせい模索もさくするなかで、レーテ運動うんどうあらためて注目ちゅうもくされた。1980年代ねんだいまつから90年代ねんだいにかけて、冷戦れいせんわり、ソ連それん東欧とうおう社会しゃかい主義しゅぎこく政権せいけん崩壊ほうかいすると、それまで研究けんきゅう主導しゅどうしてきたマルクス主義まるくすしゅぎがわでも、暗黙あんもく前提ぜんていとされたロシア革命かくめい基準きじゅんとする見方みかたがくずれ、革命かくめいでの女性じょせい役割やくわり大衆たいしゅう意識いしき問題もんだいなどにも視野しやひろげられ、自由じゆう研究けんきゅうがみられるようになった。

吉田よしだ輝夫てるお

『A・ローゼンベルクちょ足利あしかが末男すえおやく『ヴァイマル共和きょうわこく成立せいりつ』(1969・みすず書房しょぼう)』野村のむらおさむへん『ドイツ革命かくめい』(1974・平凡社へいぼんしゃ)』『クララ・ツェトキンちょ栗原くりはらたすくやく『カールとローザ――ドイツ革命かくめい断章だんしょう』(1975・大月書店おおつきしょてん)』『セバスティアーン・ハフナーちょ山田やまだよしあきらやく裏切うらぎられたドイツ革命かくめい――ヒトラー前夜ぜんや』(1989・平凡社へいぼんしゃ)』はやし健太郎けんたろうちょ『ドイツ革命かくめい』(1990・山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ)』

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百科ひゃっか事典じてんマイペディア 「ドイツ革命かくめい」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

ドイツ革命かくめい【ドイツかくめい】

1918ねん11月キール軍港ぐんこう水兵すいへい反乱はんらん契機けいきこり,ドイツ帝政ていせい崩壊ほうかいさせた革命かくめい革命かくめい政治せいじてき自由じゆう平和へいわ要求ようきゅうして開始かいしされた。この革命かくめいによってさんこく同盟どうめいがわ完全かんぜんにくずれ,だい大戦たいせん終止符しゅうしふたれた。帝政ていせい崩壊ほうかいドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとう独立どくりつ社会しゃかい民主党みんしゅとうからなる人民じんみん委員いいん政府せいふ成立せいりつしたが,軍部ぐんぶ官僚かんりょう資本しほんなどのきゅう勢力せいりょくのこった。これらきゅう勢力せいりょく連合れんごうした社会しゃかい民主党みんしゅとうたいして,スパルタクスだんなど革命かくめいは,各地かくち成立せいりつしたろうへい評議ひょうぎかい(レーテ)の権力けんりょく樹立じゅりつざし,革命かくめい社会しゃかい革命かくめい転化てんかさせようとした。両者りょうしゃは1919ねんいちがつ闘争とうそう対決たいけつしたが革命かくめい敗北はいぼくし,その指導しどうしゃR.ルクセンブルクとK.リープクネヒトころされた。こうして革命かくめいワイマール共和きょうわこく成立せいりつわった。
関連かんれん項目こうもくアイスナーキール国民こくみん自由党じゆうとうシャイデマンだい世界せかい大戦たいせんドイツ共産党きょうさんとうドイツ帝国ていこくドイツ独立どくりつ社会しゃかい民主党みんしゅとうハートフィールドピークブレスト・リトフスク条約じょうやくプロレタリア演劇えんげきマクシミリアン

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山川やまかわ 世界せかいしょう辞典じてん 改訂かいてい新版しんぱん 「ドイツ革命かくめい」の解説かいせつ

ドイツ革命かくめい(ドイツかくめい)
Deutsche Revolution

ドイツ帝国ていこくから,ヴァイマル共和きょうわこくへの移行いこうをもたらした1918~19ねん民主みんしゅ主義しゅぎ革命かくめいだいいち世界せかい大戦たいせん長期ちょうきともない,独裁どくさいけん掌握しょうあくしていた軍部ぐんぶも,西部せいぶ戦線せんせんでの敗退はいたい譲歩じょうほ余儀よぎなくされ,18ねん10がつには議会ぎかいにもとづく政府せいふ成立せいりつして,うえからの民主みんしゅ着手ちゃくしゅした。しかし,11月はじめのキール軍港ぐんこう水兵すいへい反乱はんらんはじまる蜂起ほうきがベルリンにおよび,11月10にち人民じんみん委員いいん政府せいふ樹立じゅりつをみた。革命かくめいきゅう進化しんかきら社会しゃかい民主党みんしゅとうは,社会しゃかい主義しゅぎ革命かくめい指向しこうするスパルタクスだん独立どくりつ社会しゃかい民主党みんしゅとう左派さはなどの革命かくめいとの主導しゅどうけんあらそいで,きゅう勢力せいりょく妥協だきょう,19ねんいちがつ闘争とうそうでは革命かくめい武力ぶりょく弾圧だんあつ国際こくさい条件じょうけんにもたすけられて政権せいけん確保かくほした。6月,ヴァイマルに国民こくみん議会ぎかい召集しょうしゅうされ,共和きょうわせいのもとで資本しほん主義しゅぎさい編成へんせいおこなわれていくことになった。

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ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん 「ドイツ革命かくめい」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

ドイツ革命かくめい
ドイツかくめい
November Revolution

だい1世界せかい大戦たいせん末期まっきにドイツで発生はっせいし,帝政ていせいたおした革命かくめい。 11月革命かくめいともいう。戦場せんじょうでの敗北はいぼく経済けいざい麻痺まひ結果けっか,1918ねん 11月3にちのキール軍港ぐんこうにおける水兵すいへい反乱はんらん発端ほったんとくにドイツの都市とし革命かくめいひろがり,各地かくちろうへい評議ひょうぎかい誕生たんじょうした。 11月7にちのミュンヘンの革命かくめいは9にちにベルリンのゼネストに波及はきゅうし,軍隊ぐんたい一部いちぶ革命かくめいがわてんじ,社会しゃかい民主党みんしゅとうの P.シャイデマンが共和きょうわこく宣言せんげんおこなった。同月どうげつ 10にちにウィルヘルム2せいはオランダに亡命ぼうめい政権せいけんをとった社会しゃかい民主党みんしゅとう中心ちゅうしん人民じんみん代表だいひょう委員いいんかいは,11にち連合れんごうこく休戦きゅうせん協定きょうていむすんだ。しかし社会しゃかい民主党みんしゅとう指導しどうは,きゅう軍部ぐんぶちからをかり,スパルタクスだんなどの反乱はんらん鎮圧ちんあつした。 19ねん1がつ 19にち選挙せんきょによりワイマール共和きょうわこく政権せいけん誕生たんじょうした。

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旺文社おうぶんしゃ世界せかい事典じてん さんていばん 「ドイツ革命かくめい」の解説かいせつ

ドイツ革命かくめい
ドイツかくめい
Die Deutsche Revolution

1918ねんだいいち世界せかい大戦たいせん敗戦はいせんこったドイツの民主みんしゅ主義しゅぎ革命かくめい
大戦たいせん末期まっきのドイツでは,ロシア革命かくめい影響えいきょうもあり,民主みんしゅてきしょ運動うんどうのほか,急進きゅうしんてき左派さはのスパルタクスだん中心ちゅうしん社会しゃかい革命かくめい運動うんどうすすんだ。国民こくみん生活せいかつ極度きょくど窮乏きゅうぼう敗戦はいせん背景はいけいに,1918ねん10がつまつ,キール軍港ぐんこう水兵すいへい反乱はんらんこると,各地かくちろうへい評議ひょうぎかい(レーテ)が形成けいせいされた。ベルリンでは11月9にち穏和おんわのドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとう革命かくめい合流ごうりゅうして共和きょうわせい樹立じゅりつがなり,10日とおか皇帝こうていはオランダに亡命ぼうめいし,人民じんみん代表だいひょう委員いいんかい政府せいふ成立せいりつ,11にち連合れんごうこく休戦きゅうせん成立せいりつした。しかし,その実権じっけん穏和おんわ掌握しょうあくし,軍部ぐんぶ援助えんじょ政府せいふ左派さは武力ぶりょく弾圧だんあつ,1919ねんがつにはスパルタクスだん蜂起ほうき鎮圧ちんあつされ,2がつヴァイマル(ワイマール)でエーベルトを大統領だいとうりょうとするヴァイマル共和きょうわこく成立せいりつした。

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世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん旧版きゅうばんうちドイツ革命かくめい言及げんきゅう

【ドイツ共産党きょうさんとう】より

…18ねん12月,スパルタクスブントが独立どくりつ社会しゃかい民主党みんしゅとうから分離ぶんりすると,両者りょうしゃは12月31にち合同ごうどうしてドイツ共産党きょうさんとう創設そうせつした。 ルクセンブルクら指導しどうドイツ革命かくめい長期ちょうきてき過程かてい想定そうていしていたが,党員とういんおおくは当時とうじ革命かくめい状況じょうきょう過大かだい評価ひょうかし,国民こくみん議会ぎかい選挙せんきょ不参加ふさんか決定けってい,19ねん前半ぜんはん各地かくち蜂起ほうきくわわった。共産党きょうさんとうしょう勢力せいりょくであったが,政府せいふ・ブルジョアそう革命かくめい進展しんてん阻止そしする観点かんてんから,あらゆる蜂起ほうきやゼネストをスパルタクスのむすびつけきびしく弾圧だんあつ,19ねん1がつにルクセンブルク,リープクネヒトが,3がつにはヨギヘスLeo Jogiches(1867‐1919)がはん革命かくめいぐん殺害さつがいされ,とう有能ゆうのう指導しどうしゃうしなった。…

※「ドイツ革命かくめい」について言及げんきゅうしている用語ようご解説かいせつ一部いちぶ掲載けいさいしています。

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