目次 大戦中の大衆行動と反戦諸派 十一月革命 革命の終焉 ドイツ第 だい 二 に 帝 みかど 制 せい (ドイツ帝国 ていこく )を崩壊 ほうかい させ,ワイマール共和 きょうわ 国 こく の成立 せいりつ で一応 いちおう の終結 しゅうけつ をみた革命 かくめい 。ドイツ十 じゅう 一 いち 月 がつ 革命 かくめい ,また〈1918-19年 ねん のドイツ革命 かくめい 〉とも呼 よ ばれる。ただし最近 さいきん では,第 だい 1次 じ 大戦 たいせん 中 ちゅう から戦後 せんご にかけての大衆 たいしゅう 行動 こうどう の発展 はってん に注目 ちゅうもく して,大戦 たいせん 期 き からワイマール 共和 きょうわ 国 こく が一応 いちおう の安定 あんてい をみた20年 ねん ないし23,24年 ねん までを通 とお して考 かんが えることが多 おお い。
大戦 たいせん 中 ちゅう の大衆 たいしゅう 行動 こうどう と反戦 はんせん 諸派 しょは 1914年 ねん 8月 がつ ,第 だい 1次 じ 大戦 たいせん が勃発 ぼっぱつ すると,ドイツでは,戒厳 かいげん 状態 じょうたい が布告 ふこく される一方 いっぽう ,〈防衛 ぼうえい 戦争 せんそう 〉遂行 すいこう のための一致 いっち 協力 きょうりょく の体制 たいせい として〈城内 きうち 平和 へいわ Burgfriede〉が成立 せいりつ した。それまで第 だい 二 に 帝 みかど 制 せい と敵対 てきたい 関係 かんけい にあったドイツ社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう も,戦争 せんそう 予算 よさん に協賛 きょうさん し戦争 せんそう 体制 たいせい の一翼 いちよく を構成 こうせい した。その重要 じゅうよう な推進 すいしん 力 りょく となったのは,戦時 せんじ のストライキ 中止 ちゅうし を打 う ち出 だ したレギーン ら労働 ろうどう 組合 くみあい 指導 しどう 部 ぶ であった。しかし,ルール重工業 じゅうこうぎょう 界 かい やユンカーなど第 だい 二 に 帝 みかど 制 せい の支配 しはい 層 そう を中心 ちゅうしん に領土 りょうど 拡大 かくだい の動 うご きが高 たか まる一方 いっぽう ,戦争 せんそう の長期 ちょうき 化 か のもとで食糧 しょくりょう 不足 ふそく とインフレが進 すす むと,労働 ろうどう 者 しゃ の間 あいだ に〈城内 きうち 平和 へいわ 〉への不満 ふまん がしだいに高 たか まり,各地 かくち でストライキや婦人 ふじん を中心 ちゅうしん とした食糧 しょくりょう 騒動 そうどう が起 お きるようになった。社会 しゃかい 民主 みんしゅ 党内 とうない に開戦 かいせん 当初 とうしょ から存在 そんざい した〈帝国 ていこく 主義 しゅぎ 戦争 せんそう 〉反対 はんたい 派 は もしだいに勢力 せいりょく を強 つよ め,戦争 せんそう 支持 しじ 派 は による抑圧 よくあつ と排除 はいじょ に抗 こう して,17年 ねん 4月 がつ ,ついにドイツ独立 どくりつ 社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう を結成 けっせい した。同 どう 党 とう は,ハーゼ ,カウツキー ら平和 へいわ 主義 しゅぎ 的 てき な党 とう 指導 しどう 部 ぶ から,ローザ・ルクセンブルク ,カール・リープクネヒト を中心 ちゅうしん とする反戦 はんせん 革命 かくめい 派 は のスパルタクス派 は まで,さまざまな流 なが れから構成 こうせい されていた。
ロシアに革命 かくめい が勃発 ぼっぱつ したこの1917年 ねん は,ドイツでも大衆 たいしゅう 行動 こうどう が大戦 たいせん 下 か 最初 さいしょ の高揚 こうよう を見 み せた年 とし となった。4月のベルリンの軍需 ぐんじゅ 工場 こうじょう を中心 ちゅうしん に食糧 しょくりょう 配給 はいきゅう の削減 さくげん に反対 はんたい して起 お こったストライキでその中心 ちゅうしん となったのは,旋盤 せんばん 工 こう R.ミュラー の周囲 しゅうい に結集 けっしゅう した金属 きんぞく 労働 ろうどう 組合 くみあい の工場 こうじょう 代表 だいひょう 者 しゃ ・職場 しょくば 委員 いいん たちから成 な る,独立 どくりつ 社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう 系 けい の革命 かくめい 的 てき オプロイテrevolutionäre Obleuteであった。続 つづ いて夏 なつ には,水兵 すいへい たちの間 あいだ に,同 どう 党 とう とも一定 いってい の関連 かんれん をもちつつ,各 かく 艦 かん の糧食 りょうしょく 委員 いいん 会 かい を中心 ちゅうしん として,平和 へいわ と待遇 たいぐう の改善 かいぜん を求 もと める運動 うんどう が広 ひろ がった。さらに翌 よく 18年 ねん 1月 がつ には,ドイツ側 がわ の強硬 きょうこう 態度 たいど によるソビエト・ロシアとの講和 こうわ 交渉 こうしょう の難航 なんこう に抗議 こうぎ し,無 む 併合 へいごう ・無 む 償金 しょうきん の平和 へいわ を求 もと める全国 ぜんこく 的 てき なストライキが,オーストリア に続 つづ いて勃発 ぼっぱつ した。しかしこうした一連 いちれん の大衆 たいしゅう 行動 こうどう は,軍 ぐん による弾圧 だんあつ や一定 いってい の待遇 たいぐう 改善 かいぜん によって収束 しゅうそく され,戦争 せんそう 体制 たいせい を大 おお きく揺 ゆ るがすには至 いた らなかった。
十一月 じゅういちがつ 革命 かくめい ブレスト・リトフスク条約 じょうやく による対 たい ソビエト・ロシア講和 こうわ 後 ご ,ドイツ軍 ぐん が総力 そうりょく を結集 けっしゅう した西部 せいぶ 戦線 せんせん での大 だい 攻勢 こうせい が失敗 しっぱい に終 お わり,敗戦 はいせん が決定的 けっていてき になると,1918年 ねん 10月 がつ ,当時 とうじ 国政 こくせい の中枢 ちゅうすう にあった軍部 ぐんぶ の要請 ようせい により,社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう を含 ふく む中道 ちゅうどう 諸 しょ 党 とう を基盤 きばん としたマックス・フォン・バーデン公 こう Max Prinz von Baden(1867-1929)内閣 ないかく が成立 せいりつ した。新内 しんない 閣 かく は,議会 ぎかい 主義 しゅぎ 君主 くんしゅ 制 せい の方向 ほうこう で〈上 うえ からの改革 かいかく 〉を進 すす める一方 いっぽう ,アメリカ大統領 だいとうりょう ウィルソンに講和 こうわ の申 さる 出 で を行 おこな った。講和 こうわ 交渉 こうしょう が難航 なんこう する間 あいだ ,海軍 かいぐん 司令 しれい 部 ぶ が出撃 しゅつげき 命令 めいれい を下 くだ すと,水兵 すいへい はこれを拒否 きょひ ,11月4日 にち にはキール軍港 ぐんこう の水兵 すいへい が弾圧 だんあつ に抗 こう して反乱 はんらん に立 た ち上 あ がった。反乱 はんらん は,戦争 せんそう に疲 つか れ平和 へいわ を強 つよ く求 もと めていた労働 ろうどう 者 しゃ ・兵士 へいし の呼応 こおう するところとなり,急速 きゅうそく に各地 かくち に波及 はきゅう ,労働 ろうどう 者 しゃ ・兵士 へいし 評議 ひょうぎ 会 かい (労 ろう 兵 へい レーテ )が革命 かくめい の機関 きかん として各地 かくち に誕生 たんじょう した(レーテ運動 うんどう )。7日 にち バイエルン王国 おうこく の首都 しゅと ミュンヘン で独立 どくりつ 社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう のアイスナー の指導 しどう のもとに革命 かくめい が勃発 ぼっぱつ ,9日 にち にはベルリンで革命 かくめい が起 お こり皇帝 こうてい ウィルヘルム2世 せい は退位 たいい ,ここに第 だい 二 に 帝 みかど 制 せい は崩壊 ほうかい した。ベルリンで革命 かくめい の中心 ちゅうしん となったのは,革命 かくめい 的 てき オプロイテ,スパルタクス派 は 等 とう の反戦 はんせん 諸派 しょは で,労働 ろうどう 者 しゃ 評議 ひょうぎ 会 かい の議長 ぎちょう には前者 ぜんしゃ のミュラーが選出 せんしゅつ された。これに対 たい して,エーベルト ,シャイデマン ら社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう 指導 しどう 部 ぶ は,下 した からの革命 かくめい の動 うご きを抑 おさ え切 き れないと見 み てとると,同 どう 党 とう と労働 ろうどう 組合 くみあい の組織 そしき 力 りょく に支 ささ えられつつ,〈共和 きょうわ 国 こく 〉と〈団結 だんけつ 〉を合言葉 あいことば に,兵士 へいし の支持 しじ をも得 え て主導 しゅどう 権 けん を握 にぎ り,両 りょう 社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう の連立 れんりつ 政権 せいけん (エーベルト,ハーゼを中心 ちゅうしん とする〈人民 じんみん 委員 いいん 評議 ひょうぎ 会 かい 〉)を成立 せいりつ させた。
労働 ろうどう 者 しゃ ・兵士 へいし の革命 かくめい に直面 ちょくめん して,軍部 ぐんぶ は,社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう と結 むす んでこれを抑 おさ えようとし(11月 がつ 10日 とおか のエーベルト=グレーナー協定 きょうてい ),産業 さんぎょう 界 かい は,労働 ろうどう 組合 くみあい と結 むす んで資本 しほん 主義 しゅぎ 体制 たいせい の維持 いじ と経済 けいざい 政策 せいさく への発言 はつげん 権 けん の確保 かくほ をはかった(11月15日 にち のシュティンネス =レギーン協定 きょうてい )。このシュティンネス=レギーン協定 きょうてい (中央 ちゅうおう 労働 ろうどう 共同 きょうどう 体 たい 協定 きょうてい Zentralarbeitsgemeinschaftともよばれる)では,労働 ろうどう 組合 くみあい が初 はじ めて対等 たいとう の交渉 こうしょう 相手 あいて として認 みと められ,また8時 じ 間 あいだ 労働 ろうどう 日 び が承認 しょうにん された。しかしルール地方 ちほう では,戦争 せんそう 中 ちゅう ,産 さん 軍 ぐん 一体 いったい のきびしい弾圧 だんあつ 体制 たいせい のもとで酷使 こくし されてきた炭鉱 たんこう 労働 ろうどう 者 しゃ が,労働 ろうどう 時間 じかん のいっそうの短縮 たんしゅく と賃上 ちんあ げを求 もと めて,各 かく 炭鉱 たんこう の従業 じゅうぎょう 員 いん 集会 しゅうかい ・従業 じゅうぎょう 員 いん 委員 いいん 会 かい を中心 ちゅうしん にストライキ運動 うんどう を展開 てんかい した。大衆 たいしゅう の〈直接 ちょくせつ 行動 こうどう 〉を唱 とな えてその先頭 せんとう に立 た ったサンディカリストは,炭鉱 たんこう 労働 ろうどう 者 しゃ の間 あいだ でしだいに勢力 せいりょく を広 ひろ げた。他方 たほう ,軍部 ぐんぶ は,休戦 きゅうせん 協定 きょうてい にのっとって帰国 きこく してくる前線 ぜんせん 部隊 ぶたい に期待 きたい をかけ,これに依拠 いきょ して労 ろう 兵 へい レーテを圧殺 あっさつ しようとはかった。また,ブルジョア諸 しょ 政党 せいとう は,内部 ないぶ で再 さい 編成 へんせい を遂 と げつつ,普通 ふつう 選挙 せんきょ にもとづく憲法 けんぽう 制定 せいてい 国民 こくみん 議会 ぎかい 選挙 せんきょ を要求 ようきゅう し,革命 かくめい から疎外 そがい されていた中 なか 間 あいだ 層 そう の支持 しじ を集 あつ めつつあった。
こうした緊迫 きんぱく した空気 くうき の中 なか で,12月中旬 ちゅうじゅん ,ベルリンで全国 ぜんこく 労 ろう 兵 へい レーテ大会 たいかい が開催 かいさい された。大会 たいかい では社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう が過半数 かはんすう を占 し め,革命 かくめい 的 てき オプロイテやスパルタクスブント (スパルタクス派 は が改称 かいしょう )の主張 しゅちょう する〈レーテ体制 たいせい 〉を退 しりぞ けて,国民 こくみん 議会 ぎかい 選挙 せんきょ の早期 そうき 実施 じっし を決定 けってい した。しかし大会 たいかい は同時 どうじ に,社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう 指導 しどう 部 ぶ の意向 いこう に反 はん して,軍隊 ぐんたい の民主 みんしゅ 化 か と石炭 せきたん 業 ぎょう 等 とう の社会 しゃかい 化 か Sozialisierungを求 もと める決議 けつぎ を採択 さいたく し,労働 ろうどう 者 しゃ ・兵士 へいし 大衆 たいしゅう が旧 きゅう 体制 たいせい の社会 しゃかい 的 てき 基盤 きばん の根本 こんぽん 的 てき 改革 かいかく を求 もと めていることを明 あき らかにした。これに対 たい して軍部 ぐんぶ は,クリスマスにベルリンでおきた人民 じんみん 海兵 かいへい 団 だん 事件 じけん の武力 ぶりょく 制圧 せいあつ に失敗 しっぱい すると,社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう 政府 せいふ (この事件 じけん での同 どう 党 とう の態度 たいど を不満 ふまん として独立 どくりつ 社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう は下野 げや )の支持 しじ のもとに,反 はん 革命 かくめい 派 は の復員 ふくいん 軍人 ぐんじん を主体 しゅたい とした義勇軍 ぎゆうぐん (フライコールFreikorps)の結成 けっせい を強力 きょうりょく に推 お し進 すす めた。
翌 よく 19年 ねん 1月 がつ ,ベルリンの革命 かくめい 派 は が,同派 どうは 系 けい の警視総監 けいしそうかん の罷免 ひめん を契機 けいき にエーベルト政府 せいふ 打倒 だとう に立 た ち上 あ がると,政府 せいふ は,社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう 系 けい の労働 ろうどう 者 しゃ を動員 どういん する一方 いっぽう ,義勇軍 ぎゆうぐん を投入 とうにゅう してこれを鎮圧 ちんあつ した(〈一 いち 月 がつ 蜂起 ほうき 〉)。その中 なか で,前年 ぜんねん 末 まつ スパルタクスブントにブレーメン 等 ひとし の左翼 さよく 急進 きゅうしん 派 は が合流 ごうりゅう して結成 けっせい されたドイツ共産党 きょうさんとう の指導 しどう 者 しゃ ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトは虐殺 ぎゃくさつ された。2月 がつ ワイマールに招集 しょうしゅう された国民 こくみん 議会 ぎかい は,1月 がつ の選挙 せんきょ で38%の得票 とくひょう 率 りつ を得 え た社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう のエーベルトを共和 きょうわ 国 こく 大統領 だいとうりょう に選出 せんしゅつ ,また,同 どう 党 とう と自由 じゆう 主義 しゅぎ 左派 さは の民主党 みんしゅとう ,カトリック の中央 ちゅうおう 党 とう から成 な る〈ワイマール連合 れんごう 〉政府 せいふ を成立 せいりつ させた。これに対 たい して,ベルリン,ルール地方 ちほう をはじめ各地 かくち の大都市 だいとし や工業 こうぎょう 地帯 ちたい では,大衆 たいしゅう が,反 はん 革命 かくめい への危機 きき 感 かん と,根本 こんぽん 的 てき 改革 かいかく を進 すす めない政府 せいふ ・社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう への幻滅 げんめつ とを強 つよ め,労 ろう 兵 へい レーテによった革命 かくめい 派 は が勢力 せいりょく を広 ひろ げた。ミュンヘンでは,2月 がつ にアイスナーが反 はん 革命 かくめい 派 は に暗殺 あんさつ されたあとの激動 げきどう の中 なか で,4月 がつ 初 はじ めアナーキストのランダウアー らによって〈バイエルン ・レーテ共和 きょうわ 国 こく 〉が宣言 せんげん され,まもなく共産党 きょうさんとう がその指導 しどう 権 けん を握 にぎ った。シャイデマンの率 ひき いるワイマール連合 れんごう 政府 せいふ は,一定 いってい の〈社会 しゃかい 化 か 〉立法 りっぽう で大衆 たいしゅう を分裂 ぶんれつ させつつ,義勇軍 ぎゆうぐん を各地 かくち に派遣 はけん して各個 かっこ 撃破 げきは を進 すす め,5月 がつ 初 はじ めにはバイエルン・レーテ共和 きょうわ 国 こく も武力 ぶりょく 制圧 せいあつ された。そして7月 がつ ,国民 こくみん 議会 ぎかい は〈ドイツ国 こく 憲法 けんぽう 〉(〈ワイマール憲法 けんぽう 〉)を採択 さいたく した。
革命 かくめい の終焉 しゅうえん 1920年 ねん 3月 がつ ,前々 まえまえ 月 がつ に発効 はっこう したベルサイユ条約 じょうやく にもとづく兵力 へいりょく 削減 さくげん を契機 けいき として,旧 きゅう 軍 ぐん 将校 しょうこう やユンカーを中心 ちゅうしん とする反共 はんきょう 和国 わこく 勢力 せいりょく が〈カップ一揆 いっき 〉をおこすと,大統領 だいとうりょう エーベルトをはじめとする社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう 閣僚 かくりょう やレギーンの率 ひき いる労働 ろうどう 組合 くみあい はゼネストを呼 よ びかけ,労働 ろうどう 者 しゃ はゼネストに立 た ち上 あ がった。ルール地方 ちほう や中部 ちゅうぶ ドイツでは,革命 かくめい 派 は を中心 ちゅうしん とした労働 ろうどう 者 しゃ が一揆 いっき 支持 しじ の国防 こくぼう 軍 ぐん 部隊 ぶたい を武装 ぶそう 闘争 とうそう で圧倒 あっとう した。しかし一揆 いっき が崩壊 ほうかい すると,政府 せいふ は国防 こくぼう 軍 ぐん を投入 とうにゅう してこの〈ルール赤軍 せきぐん 〉に流血 りゅうけつ の弾圧 だんあつ を加 くわ えた。次 つ いで21年 ねん 3月 がつ ,政府 せいふ が中部 ちゅうぶ ドイツ鉱工業 こうこうぎょう 地帯 ちたい に保安 ほあん 警察 けいさつ 部隊 ぶたい を派遣 はけん すると,労働 ろうどう 者 しゃ はストライキと武装 ぶそう 闘争 とうそう に立 た ち上 あ がった。カップ一揆 いっき の際 さい 貧 まず しい民衆 みんしゅう の支持 しじ のもとに義賊 ぎぞく 的 てき 活動 かつどう をくりひろげたマックス・ヘルツは,労働 ろうどう 者 しゃ 部隊 ぶたい の中心 ちゅうしん 的 てき 存在 そんざい となった。前年 ぜんねん ,共産党 きょうさんとう から排除 はいじょ された左翼 さよく 反対 はんたい 派 は が結成 けっせい した共産 きょうさん 主義 しゅぎ 労働 ろうどう 者 しゃ 党 とう ,また,独立 どくりつ 社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう 左派 さは と合同 ごうどう して大衆 たいしゅう 政党 せいとう となった共産党 きょうさんとう の両 りょう 党 とう は,この〈三 さん 月 がつ 行動 こうどう 〉に主導 しゅどう 的 てき に参与 さんよ し,その敗北 はいぼく により手痛 ていた い打撃 だげき を受 う けた。
1923年 ねん ,賠償 ばいしょう 問題 もんだい に発 はっ するフランス軍 ぐん のルール占領 せんりょう とそれへの〈消極 しょうきょく 的 てき 抵抗 ていこう 〉の中 なか でインフレが極度 きょくど に昂進 こうしん すると,労働 ろうどう 者 しゃ は8月 がつ ,共産党 きょうさんとう 系 けい の革命 かくめい 的 てき 経営 けいえい 評議 ひょうぎ 会 かい の呼 よ びかけにこたえてゼネストに入 はい り,クーノ政府 せいふ の退陣 たいじん をかちとった。産業 さんぎょう 界 かい をバックとする国民党 こくみんとう 出身 しゅっしん の新 しん 首相 しゅしょう シュトレーゼマンは,22年 ねん 末 まつ 以降 いこう 閣外 かくがい にあった社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう の入閣 にゅうかく でゼネストを収束 しゅうそく させ,次 つ いで9月 がつ には消極 しょうきょく 的 てき 抵抗 ていこう を中止 ちゅうし するとともに非常 ひじょう 事態 じたい を宣言 せんげん して,労働 ろうどう 時間 じかん の実質 じっしつ 的 てき 延長 えんちょう を中心 ちゅうしん とするマルクの安定 あんてい 策 さく を推 お し進 すす めた。10月ザクセン,チューリンゲンで社 しゃ 共 ども 両 りょう 党 とう が結 むす んで〈労働 ろうどう 者 しゃ 政府 せいふ 〉を形成 けいせい すると,政府 せいふ は国防 こくぼう 軍 ぐん を派遣 はけん してこれを抑 おさ えた。コミンテルン の指導 しどう のもとに進 すす められた共産党 きょうさんとう の武装 ぶそう 蜂起 ほうき 計画 けいかく は,孤立 こりつ したハンブルク でのバリケード戦 せん に終 お わった(〈ドイツの十 じゅう 月 がつ 〉)。労働 ろうどう 者 しゃ は,失業 しつぎょう が増大 ぞうだい する中 なか で抵抗 ていこう 力 りょく を失 うしな っていった。他方 たほう ,インフレに苦 くる しむ中 なか 間 あいだ 層 そう の支持 しじ を集 あつ めて躍進 やくしん したヒトラーのナチ党 とう も,11月,〈ミュンヘン一揆 いっき 〉の挫折 ざせつ で抑 おさ え込 こ まれた。こうして,ワイマール共和 きょうわ 国 こく は,ブルジョア政党 せいとう ・産業 さんぎょう 界 かい のヘゲモニー のもとで社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう ・労働 ろうどう 組合 くみあい も一定 いってい の地位 ちい を確保 かくほ した体制 たいせい として,翌 よく 24年 ねん の賠償 ばいしょう 問題 もんだい の解決 かいけつ とドイツ経済 けいざい の安定 あんてい をはかるドーズ案 あん の国際 こくさい 的 てき な承認 しょうにん を経 へ て,相対 そうたい 的 てき な安定 あんてい 期 き を迎 むか えることとなる。執筆 しっぴつ 者 しゃ :三宅 みやけ 立 だて