日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい 「国分寺こくぶんじ跡あと」の解説かいせつ 国分寺こくぶんじ跡あとこくぶんじあと 群馬ぐんま県けん:群馬ぐんま郡ぐん群馬ぐんま町まち東国分ひがしこくぶん村むら国分寺こくぶんじ跡あと[現在地げんざいち名めい]群馬ぐんま町まち東国分ひがしこくぶん・引間ひきま、前橋まえばし市し元総社もとそうじゃ町まち榛名はるな(はるな)山やまの南東なんとう麓ふもとで、染谷そめや(そめや)川かわと牛うし池ち(うしいけ)川かわに挟はさまれた洪ひろし積せき台地だいち、標高ひょうこう一いち二に八はちメートルに所在しょざいする上野うえの国分こくぶ僧そう寺跡てらあと。上野うえの国分寺こくぶんじ跡あととして国くにの史跡しせきに指定してい。遺跡いせきは東国分ひがしこくぶん(ひがしこくぶ)字じ村前むらさき(むらまえ)、引間ひきま(ひきま)字じ石堂いしどう(いしどう)・字じ妙見みょうけん(みようけん)、前橋まえばし市し元総社もとそうじゃ(もとそうじや)町まち字じ小見おみ(おみ)にまたがる。高燥こうそうな台地だいち上じょうに位置いちし、西にしに僧そう寺てら、東ひがしに尼寺あまでらが東西線とうざいせん上じょうにそれぞれの南みなみ辺べをそろえ、五ご四よん〇メートル(五ご町まち)を隔へだてて配置はいちされた。大正たいしょう初年しょねん頃ごろには僧そう寺跡てらあとの位置いちが知しられており、尼寺あまでらの位置いちも大正たいしょう末まつ年ねんに推定すいていされるに至いたった。大正たいしょう期きの調査ちょうさ記録きろくによると、僧そう寺跡てらあとは金堂こんどう跡あとに一いち〇個こほどの礎石そせき(内陣ないじん礎石そせきは三さん重じゅうの造みやつこ出だしがある)と土ど壇だん、塔とう跡あとに心しん礎いしずえと一いち四よん個この礎石そせきおよび土ど壇だんがあってそれぞれの建物たてもの規模きぼは復原ふくげんされ、また、中門ちゅうもん・南みなみ門もん・東門ひがしもんの地点ちてんに数個すうこの礎石そせきが確認かくにんされることや、道路どうろと畑はたけの区画くかくに寺てら域いきの痕跡こんせきが残のこることなどから、方かた二に町まちの寺てら域いき規模きぼも比較的ひかくてき明瞭めいりょうに把握はあくされていた。 国分寺こくぶんじ跡あとこくぶんじあと 山口やまぐち県けん:下関しものせき市し長ちょう府ふ国分寺こくぶんじ跡あと[現在地げんざいち名めい]下関しものせき市し大字だいじ豊浦とようら村むら周防灘すおうなだに沿そって南北なんぼくに延のびる狭長きょうちょうな亀かめ(かめ)ノ甲きのえ(こう)台地だいちの西にし隅すみに近ちかく、長門ながと鋳い銭ぜに所しょ跡あと東方とうほうの地ち、標高ひょうこう約やく一いち〇メートルの段丘だんきゅうに長門ながと国分寺こくぶんじが造営ぞうえいされていた。神かみ亀ひさし五ご年ねん(七なな二に八はち)聖武天皇しょうむてんのうは諸国しょこくに最さい勝かち王おう経けいを分わかち、天平てんぴょう九きゅう年ねん(七なな三さん七なな)に国こくごとに釈迦しゃか一体いったいを造つくらせ、同どう一いち三さん年ねん諸国しょこくに勅みことのりして国分寺こくぶんじ・国分こくぶ尼寺あまでらを建立こんりゅうさせた。しかし天平てんぴょう勝かち宝たから八はち年ねん(七なな五ご六ろく)にはすべてにわたっては完成かんせいされておらず、発願ほつがん者しゃである聖武天皇しょうむてんのうの忌日きじつまでに建立こんりゅうを終おわるよう各国かっこくに督励とくれいが出だされ(続ぞく日本にっぽん紀き)、およそ三さん年ねん後ごにすべてが完成かんせいしたといわれる。 国分寺こくぶんじ跡あとこくぶんじあと 佐賀さが県けん:佐賀さが郡ぐん大和やまと町まち国分こくぶ村むら国分寺こくぶんじ跡あと[現在地げんざいち名めい]大和やまと町まち大字だいじ尼寺あまでら字じ国分こくぶ北方ほっぽう約やく一いちキロの位置いちに山やまをひかえ、南みなみは平地ひらちの水田すいでんが開あけるという緩なる傾斜地けいしゃちに位置いちする。天平てんぴょう一いち三さん年ねん(七なな四よん一いち)聖武天皇しょうむてんのうによって諸国しょこくに国分寺こくぶんじ建立こんりゅうの詔勅しょうちょくが出だされ、造みやつこ寺てらをすすめたが、肥前ひぜんにおいていつ完成かんせいしたかは明確めいかくでない。現在げんざい、礎石そせきの一部いちぶが残存ざんそんし、瓦かわらも多おおく出土しゅつどし、寺てら域いきの東方とうほう約やく一いち五ご〇メートルの所ところから国分寺こくぶんじの瓦かわらを焼やいた瓦かわら窯かま跡あとも発見はっけんされている。 国分寺こくぶんじ跡あとこくぶんじあと 熊本くまもと県けん:熊本くまもと市し今村いまむら国分寺こくぶんじ跡あと[現在地げんざいち名めい]熊本くまもと市し出水しゅっすい一いち丁目ちょうめ・神水本くわみずほん町まち肥後ひご国分寺こくぶんじは現在げんざいの出水しゅっすい(いずみ)一いち丁目ちょうめ・神水本くわみずほん(くわみずほん)町まちにまたがり、二町ふたまち四方しほうの寺てら域いきをもっていた。現在げんざいの国分寺こくぶんじ本堂ほんどう下かに講堂こうどうの西南せいなん端はしの礎石そせき七ななつが残のこる。また熊野くまの神社じんじゃには塔とうの心しん礎いしずえが残のこるが、これは明治めいじ時代じだいに動うごかされている。熊野くまの神社じんじゃより北西ほくせい部ぶの現在げんざいの国分寺こくぶんじの南側みなみがわに塔とう跡あとが発見はっけんされ、塔とうを取巻とりまく回廊かいろう跡あとなども発見はっけんされた。塔とうの東ひがしにあったと推定すいていされる金堂こんどうは未み調査ちょうさである。塔とうの北きたには講堂こうどう・僧房そうぼう・小坊こぼう子こが配置はいちされる。出土しゅつどする瓦かわらの様式ようしきからみて平安へいあん時代じだい末期まっきまで存続そんぞくしていたことは確実かくじつで、鎌倉かまくら時代じだい初期しょきまで瓦葺かわらぶきの建物たてものが存続そんぞくしていた可能かのう性せいもある。 出典しゅってん 平凡社へいぼんしゃ「日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい」日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけいについて 情報じょうほう