デジタル大辞泉だいじせん 「川田かわた小一郎こいちろう」の意味いみ・読よみ・例文れいぶん・類語るいご かわだ‐こいちろう〔かはだこイチラウ〕【川田かわた小一郎こいちろう】 [1836~1896]実業じつぎょう家か。土佐とさの人ひと。岩崎いわさき弥太郎やたろうが創立そうりつした九十九つくもつくも商会しょうかい(後ごの三菱みつびし商会しょうかい)に幹部かんぶとして参加さんか、鉱山こうざん事業じぎょうを統括とうかつし、三菱みつびし財閥ざいばつ創業そうぎょう期きの功労こうろう者しゃとして活躍かつやくした。後のちに日本銀行にっぽんぎんこう総裁そうさいに就任しゅうにんして強つよい指導しどう力りょくを発揮はっき、「日銀にちぎんの法王ほうおう」と呼よばれた。また高橋たかはし是清これきよを登用とうようするなど、人材じんざいの育成いくせいにも力ちからを注そそいだ。 出典しゅってん 小学館しょうがくかんデジタル大辞泉だいじせんについて 情報じょうほう | 凡例はんれい
朝ちょう日にち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてん 「川田かわた小一郎こいちろう」の解説かいせつ 川田かわた小一郎こいちろう 没年ぼつねん:明治めいじ29.11.7(1896) 生年せいねん:天保てんぽう7.8.24(1836.10.4) 明治めいじ時代じだいの実業じつぎょう家か。土佐とさ(高知こうち)藩はん郷士ごうし川田かわた恒ひさし之の丞すすむの次男じなん。明治維新めいじいしんのさい別べつ子こ銅山どうざん差さし押おさえ事件じけんで広瀬ひろせ宰おさむ平たいらに協力きょうりょくし住友すみとも家かの鉱山こうざん事業じぎょうを継続けいぞくさせる。このとき広瀬ひろせから鉱山こうざん経営けいえいの有利ゆうり性せいを学まなんだともいわれている。土佐とさ藩はんの土佐とさ商会しょうかいを通つうじて岩崎いわさき弥太郎やたろうと知しり合あい,九十九つくも商会しょうかい,三川みかわ商会しょうかい,三菱みつびし商会しょうかいの設立せつりつ,運営うんえいで弥太郎やたろうを補佐ほさする。明治めいじ8(1875)年ねん弥太郎やたろうが社長しゃちょうとなった郵便ゆうびん汽船きせん三菱みつびし会社かいしゃでは管かん事ごとを務つとめ,鉱山こうざん,炭鉱たんこうの買収ばいしゅうや経営けいえい,石炭せきたん販売はんばいなどで活躍かつやくし三菱みつびし財閥ざいばつの基礎きそを築きずいた。弥太郎やたろうの死しと日本郵船にっぽんゆうせんの設立せつりつ,岩崎いわさき弥之助やのすけの家政かせい改革かいかくなどを機きに三菱みつびしから退しりぞく。22年ねん大蔵おおくら大臣だいじん松方まつかた正義まさよしの要請ようせいにより日本銀行にっぽんぎんこう総裁そうさいに就任しゅうにん。1890年代ねんだいにおける市中しちゅう銀行ぎんこうのオーバーローンを背景はいけいに傑出けっしゅつした大だい総裁そうさいとして金融きんゆう界かいに君臨くんりんする。また日にち清しん戦争せんそうの戦費せんぴ調達ちょうたつを円滑えんかつにした。他方たほう山本やまもと達雄たつお,高橋たかはし是清これきよ,井上いのうえ準之助じゅんのすけ,土方ひじかた久ひさ徴ちょうら,その後ごの日本銀行にっぽんぎんこうや財界ざいかい,政界せいかいを担になった有為ゆういな人材じんざいを日本銀行にっぽんぎんこうに集あつめた。ほとんど出勤しゅっきんしない総裁そうさい,下駄げたの音おとで公定歩合こうていぶあいを変更へんこう,高橋たかはし是清これきよを庇護ひごしたなどエピソードは豊富ほうふ。三菱みつびし財閥ざいばつにおいては石川いしかわ七なな財ざいと共ともに創業そうぎょうの2傑すぐるといわれ,日本銀行にっぽんぎんこう総裁そうさいとしては明治めいじのロろーマ法王まほうおうといわれている。23年ねん帝国ていこく議会ぎかいの開設かいせつに当あたり勅みことのり選せん貴族きぞく院いん議員ぎいんとなる。28年ねん男爵だんしゃく。同行どうこう総裁そうさい在職ざいしょく中ちゅうに没ぼつ。<参考文献>吉野よしの俊彦としひこ『日本銀行にっぽんぎんこう史し』2巻かん,『歴代れきだい日本銀行にっぽんぎんこう総裁そうさい論ろん』,安藤あんどう良雄よしお『ブルジョワジーの群像ぐんぞう』 (佐藤さとう政則まさのり) 出典しゅってん 朝ちょう日にち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてん:(株)かぶしきがいしゃ朝日新聞あさひしんぶん出版しゅっぱん朝ちょう日にち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてんについて 情報じょうほう
新しん訂てい 政治せいじ家人かじん名めい事典じてん 明治めいじ~昭和しょうわ 「川田かわた小一郎こいちろう」の解説かいせつ 川田かわた 小一郎こいちろうカワダ コイチロウ 肩書かたがき貴き院いん議員ぎいん(勅みことのり選せん),日本銀行にっぽんぎんこう総裁そうさい 生年月日せいねんがっぴ天保てんぽう7年ねん(1836年ねん) 出身しゅっしん地ち土佐とさ国こく土佐とさ郡ぐん旭あさひ村むら(高知こうち市し) 経歴けいれき土佐とさ藩士はんし分ぶんとなり、明治めいじ元年がんねん藩はん領りょう伊予いよ国こく川之江かわのえ銅山どうざんの朝廷ちょうてい奉還ほうかんをめぐる争議そうぎに敏腕びんわんを振ふるい、藩はん内ないの勧業かんぎょう、鉱山こうざん、通商つうしょう事務じむを担当たんとう。藩はん営土佐さ商会しょうかいの岩崎いわさき弥太郎やたろうと知しり合あい、4年ねん廃藩置県はいはんちけん後ご同どう商会しょうかいを岩崎いわさきに譲ゆずり、岩崎いわさきが三菱みつびし商会しょうかいとして経営けいえいするのを援け、以後いご20年間ねんかん三菱みつびし財閥ざいばつ創業そうぎょうに尽力じんりょくした。22年ねん日本銀行にっぽんぎんこう総裁そうさい、23年ねん勅みことのり選せん貴き院いん議員ぎいん、28年ねん男爵だんしゃく。29年ねん病気びょうきで日銀にちぎんを辞任じにんした。 受賞じゅしょう勲くん三さん等とう〔明治めいじ28年ねん〕 没ぼつ年月日ねんがっぴ明治めいじ29年ねん11月8日にち 出典しゅってん 日外にちがいアソシエーツ「新しん訂てい 政治せいじ家人かじん名めい事典じてん 明治めいじ~昭和しょうわ」(2003年刊ねんかん)新しん訂てい 政治せいじ家人かじん名めい事典じてん 明治めいじ~昭和しょうわについて 情報じょうほう
デジタル版ばん 日本人にっぽんじん名めい大だい辞典じてん+Plus 「川田かわた小一郎こいちろう」の解説かいせつ 川田かわた小一郎こいちろう かわだ-こいちろう 1836-1896 明治めいじ時代じだいの実業じつぎょう家か。天保てんぽう(てんぽう)7年ねん8月がつ24日にち生うまれ。もと土佐とさ高知こうち藩士はんし。明治めいじ3年ねん藩はん営の大坂おおさか商会しょうかいで岩崎いわさき弥太郎やたろうと知しりあう。翌年よくねん岩崎いわさきが九十九つくも(つくも)商会しょうかい(のちの三菱みつびし商会しょうかい)を設立せつりつすると,石川いしかわ七なな財ざい(しちざい)とともに岩崎いわさきをたすけ,三菱みつびし財閥ざいばつの興隆こうりゅうにつくす。おもに鉱山こうざん・炭鉱たんこう事業じぎょうを統括とうかつ。22年ねん第だい3代だい日本銀行にっぽんぎんこう総裁そうさい。貴族きぞく院いん議員ぎいん。明治めいじ29年ねん11月7日にち死去しきょ。61歳さい。 出典しゅってん 講談社こうだんしゃデジタル版ばん 日本人にっぽんじん名めい大だい辞典じてん+Plusについて 情報じょうほう | 凡例はんれい
367日にち誕生たんじょう日大にちだい事典じてん 「川田かわた小一郎こいちろう」の解説かいせつ 川田かわた 小一郎こいちろう (かわだ こいちろう) 生年月日せいねんがっぴ:1836年ねん8月がつ24日にち明治めいじ時代じだいの実業じつぎょう家か。日銀にちぎん総裁そうさい1896年ねん没ぼつ 出典しゅってん 日外にちがいアソシエーツ「367日にち誕生たんじょう日大にちだい事典じてん」367日にち誕生たんじょう日大にちだい事典じてんについて 情報じょうほう