日本語はつくづく不思議だ。不思議だけど、それが愛おしかったりもする。
私は大学院修士課程で日本語学を専攻していた、いわゆる「ことばオタク」だ。なんだかんだ言いながらも大学院では真面目に語彙の研究をしていたし、修士論文もしっかり書いて修了した。
とは言え、現在はそれらとは全く縁のない民間企業に勤めている。そのため今となっては、他の人よりちょっとだけ「ことば」に対するアンテナが立ちやすい、ただの「オタク」に成り下がってしまっている。だから私は、「ことばオタク」。
研究の世界からは離れてしまったし、今後そこに戻る予定も特に無いが、「ことば」とりわけ「日本語」に対する思い入れは、相変わらず自身のアイデンティティとして残っている。
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大学・大学院在学中は様々なご縁に恵まれ、日本語を学ぶ留学生と関わる機会が多かった。彼/彼女らから日本語の不思議な点、難しい点などを沢山聞いて来たが、その中でも比較的多かったのが「文字の種類の多さ」である。
ひらがな、カタカナ、漢字、更にはローマ字。
果てには、アラビア数字(「100」など)だけでなくローマ数字(「Ⅳ」「ⅲ」など)が使われることも時々あるし、ギリシャ文字(「α」など)や記号が使われることもある。
国立国語研究所の「ことば研究館」(https://kotobaken.jp/qa/yokuaru/qa-155/)によると、ここまで多くの種類の文字が使われる言語は、世界中を見渡してもかなり稀だそうだ。
私はこれだけの文字体系の多さに立ち向かっている日本語学習者を傍から眺めて、「これだけの量よく覚えられるよなぁ」とか「自分(母語話者)の場合は、どうやって使いこなせるようになったんだっけ……?」と不思議に思うこともあった。
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母語話者ですらどうやって使いこなしているかさっぱり分からない、複数の日本語の文字。
しかし母語話者だからこそ、日本語のそれぞれの文字には「何となく」、だけど「多くの人に伝わる」雰囲気があるように思える。
ひらがなは何となく「やわらかい」。それに「やさしい」。もともとにほんごを母国語とする人、そうでない人に関わらず、はじめて勉強する文字。「やさしい」ということばは、「優しい」とも「易しい」ともいえるかもしれない。
対して、カタカナはどことなく「スタイリッシュ」。日本語のネイティブ・ノンネイティブに関わらず、オリジナルの意味が伝わらなくてコミュニケーションが難しくなることもあるし、どことなくカッコつけたようなニュアンスが伝わってくる。特定のジャンルにしかユーザーが居ないような専門用語も、カタカナのことばが多かったりする。
伝われば「身内」、そうでなければ「アウトサイダー」、そんな気持ちになるかもしれない。
そして漢字は「柱」。ひらがなやカタカナだけの世界でも日本語を理解し話すことも可能だが、漢字を使用することによって、表現の世界がグッと拡大する。
でも、完全に習得するには多大な時間と努力が必要。たとえ日本に生まれ育っていても、義務教育という長い期間で、少しずつ沢山の漢字を勉強する。中には同音異義語もあり、なかなか一筋縄では行かないけど、日本語を勉強する上で回避不可能だったりもする。
以上は、あくまでも私が普段感じている印象を挙げたまでだ。
人によって印象は異なるかもしれないが、普段日本語を使用する皆さんの中にも、知らず知らずのうちに似たようなイメージが根付いているのではなかろうか。
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日本語に限らず、ことばを身につけ自由に操れるまでのレベルに達することは、決して簡単ではない。
しかしそれを超えた先には、こんな雰囲気のことばで伝えたい、書きたいなどといったことばの「空気感」を感じ取れるようになるだろうし、その「空気感」を完全に操れる域に達するには、たとえ母語話者であっても果てしない道だと考える。
今回は日本語の文字の種類を一例として挙げたが、それ以外にも、ことばの「空気感」を操る手段は沢山あるだろう。
ことば(日本語)を愛する者として、私は一介の「ことばオタク」を超えて空気感をも操れる「ことばマスター」になりたいし、そのための研鑽の1つとして、これからも自身の想いを書き連ねていきたい。