900人以上が死んだ翌週、ジョーンズタウンの集会場の一部が崩落した。(PHOTOGRAPH BY NEW YORK TIMES CO., GETTY IMAGES)
1978年、南米の国ガイアナで、ジム・ジョーンズというたった1人の牧師のせいで、901人の米国人と8人のガイアナ人が死ぬという事件が起きた。「ジョーンズタウン」でのこの悲劇は、米国史上最大の犠牲者を出した事件の一つに数えられている。
死亡者と生存者は、同情されるどころか多くの批判を浴びせられ、ジョーンズの教会「人民寺院(ピープルズ・テンプル)」に所属したのは自己責任で、「頭がおかしい人」というレッテルを貼られた。しかし実際には、不満や混乱の時代のなか、ジョーンズタウンの指導者だったジム・ジョーンズは人々の心に響くようなメッセージを語り、多くの信者を獲得することに成功したのだった。
さらに彼の考え方は、他の公民権運動家によって正当化されていた。ガイアナでジョーンズは、平等で自給自足の社会というビジョンを実現するユートピアを提供した。
カリスマ性が非常に強かったジョーンズは、多くの米国人が聞きたがっていたことを語った。既存の政治とベトナム戦争に幻滅していた急進派の若者たちは、ジョーンズが推進する社会主義の原則に賛同した。
黒人も多く集まり、一時はジョーンズの教会の80~90%が黒人で占められていたほどだった。ジョーンズの活動の大部分は公民権運動に関連し、礼拝スタイルまで伝統的な黒人教会のそれを手本にしていた。ジョーンズ自身、黒人や韓国人の子どもを養子にしていることをアピールし、自らも黒人であると主張した。(参考記事:「米黒人拘束死事件は「現代のリンチ」だ、根底に暴力の歴史」)
大虐殺に至るまでの数カ月、数年間をたどってみると、ジョーンズタウンに加わった人々の頭がおかしかったわけでも、熱狂的なカルト信者だったわけでもないことは明らかだ。むしろこの人々は、より公正でより良い世界を作ろうと願っていたのであり、ジョーンズタウンはその理想を実現する場を提供していたにすぎない。
それがなぜ悲劇的な結末を迎えてしまったのだろうか。人民寺院の事件とはいったい何だったのか。
ギャラリー:900人超が犠牲に、「人民寺院」事件の真相と無惨な現場 写真9点(写真クリックでギャラリーページへ)
1976年、サンフランシスコのオフィスでカメラに向かってポーズを取るジム・ジョーンズ。(PHOTOGRAPH BY JANET FRIES, GETTY IMAGES)
人種平等の理想
1954年、ジム・ジョーンズは米インディアナ州で、後に人民寺院と呼ばれるようになる教会を開いた。人民寺院は、社会主義、共産主義、キリスト教に基づき、平等を推進して、様々な人種の人々を引き寄せた。ジョーンズはエンターテイナーのような堂々とした振る舞いで人々を改宗させ、心霊治療を行って信者を集めた。
会員の大部分が黒人で占められていた教会は、人種平等を目指し、黒人の宗教的伝統を取り入れた。これに関して、ジョーンズタウンと人民寺院についての著書のある学者のレベッカ・ムーア氏は、「文化的にも人種的にも黒人の運動だった」と指摘する。
ジョーンズのカリスマ性とビジョンは、俳優のジェーン・フォンダや公民権運動家のヒューイ・P・ニュートンといった著名な活動家の注意を引き付けた。カリフォルニア州サンフランシスコの政治団体にも支援され、1965年に、人民寺院はサンフランシスコに移転する。
ガイアナの密林への移住
ところが、一連の報道でジョーンズの心霊治療の嘘が暴かれ、さらに虐待の疑いが持ち上がると、ジョーンズはこれを米国が人民寺院と自分を貶めようとしている兆候だと感じるようになる。ジョーンズの薬物使用がその疑心暗鬼をさらに強め、政府は教会を狙っているとか、ファシストに転向しようとしているなどと思い込んだ。
やがてジョーンズと教会指導部は、自分たちの未来は米国外にしかないと確信する。
1974年、人民寺院はガイアナの密林に土地を取得した。ガイアナの公用語は米国と同じ英語であり、人種もアフリカ系、アジア系、先住民族の子孫などが入り混じっていたことから、多人種のユートピアを作るには最適の場所だと、ジョーンズは信じた。そして、ここで自分たちの価値観を生きるための農業コミューンを建設する計画を立てた。
1977年夏、ジム・ジョーンズは人民寺院の教会員たちを大量に引き連れてガイアナに移住した。
次ページ:ジョーンズタウンでの暮らし
ここから先は、「ナショナル ジオグラフィック日本版」の
会員*のみ、ご利用いただけます。
会員* はログイン
-
定期購読などの詳細
-
Web無料会員の登録
*会員:年間購読、電子版月ぎめ、
日経読者割引サービスをご利用中の方、ならびにWeb無料会員になります。