「まさか、こんなことになるなんて……」
寂しげに丸められた小さな背中を抱きしめながら、憂いと共に息を吐き出した。
結婚を来週に控えたタイミングで――目尻に涙を浮かべ、スヤスヤと眠る幼い少女を娘に迎えることになろうとは。
◇◇◇
堅牢な砦と豊かな自然に溢れるアンソン辺境伯領。
ライラット王国の東の国境を守る重責を担う土地である。
そして、そのアンソン辺境伯領に昨日やって来たばかりの私の名前は、アネット・ランディル。来週には結婚式を迎えてアネット・アンソンとなる。
ランディル侯爵家の長女として生まれた私は、家同士の繋がりを強めるためにアンソン辺境伯に嫁いで来たのだ。
ことの始まりは両家の祖父の代まで遡る。
まだ戦が多く国が安定していなかった時代、死地を何度も共に乗り越えた祖父たちは、まさに戦友と呼ぶにふさわしい関係を築いていた。やがて平穏な時代が訪れ、長く親交を深めてきた祖父たちは、いつか両家が名実ともに家族となれるといいと酒の席でよく話したそうな。
そして同じ年の孫が生まれて間も無く、あっという間に縁談がまとまった。その孫というのが私たち、アネットとクロヴィス・アンソン様というわけだ。
辺境の地を守るアンソン辺境伯と、王都で近衛騎士団を率いるランディル侯爵家。両家の婚姻は、ライラット王国の軍事力をより強めることが期待され、祖父たちとよき友人関係にあるという先代国王陛下にもお墨付きをもらっている。
つまり、私たちは生まれた時から政略結婚が決まっていたのだ。
とはいえ、王都に居を構えるランディル侯爵家と、東西に長いライラット王国の東端に位置するアンソン辺境伯領は遠く、どれだけ急いでも馬車で十五日はかかる。
アンソン家は国境を守る重要な任についているため、中々領地を離れることは叶わず、かといってこちらから簡単に遊びに行けるほどの距離でもなく――当の私たちは長年手紙でのみ交流を重ねてきた。
アンソン辺境伯領にやって来た昨日までに、クロヴィス様とお会いしたのはたったの一度。十五歳を迎える年に王城で開催されるデビュタントのパーティでのことだった。
当時、なかなか社交の場に出てこられないクロヴィス様は、女嫌いだとか、熊のような巨漢だとか、根も葉もない噂をされていた。
あの日のことは忘れられない。
領地を出てはるばる王都にやって来たクロヴィス様とようやく会うことができる。そう思うと心が躍った。
手紙では不器用ながらも私を思いやる言葉を綴ってくれる心優しい人だと感じていた。
一体、将来の旦那様はどのようなお方なのだろう。
期待と一抹の不安を胸に抱いてクロヴィス様と初対面を果たした私は――あっけなく恋に落ちた。
初めて顔を合わせたクロヴィス様は、スラリとした長身で、同年代の中でも特段大人びて見えた。細身ながらも、服の上からでも分かる無駄のない筋肉は、日々の鍛錬を怠らない彼の勤勉さを表しているようだった。
艶やかで美しい銀髪は、彼が動くたびにサラリと揺れて目を惹きつけ、キリッとした紫の瞳に映し出される私の顔は、真っ赤に染まっていた。
気のせいでなければ、自惚でなければ、クロヴィス様もどこか頬を赤らめている様子で、私たちはぎこちなく挨拶を交わした後、ダンスホールでファーストダンスを踊った。
クロヴィス様は言葉は少なかったけれど、一挙手一投足から私への気配りを感じ、ますます私の想いを加速させた。
結婚前に会えたのはこの時だけ。けれど、私はクロヴィス様の妻となれることを心から楽しみにしていた。
そして私たちは十八歳となり、いよいよ結婚する運びとなった。
ところが、ドキドキ、ワクワクと胸を高鳴らせ、馬車での長旅を終えてようやくアンソン辺境伯領に到着した私を迎えたのは、険しい顔をしたクロヴィス様だった。
◇◇◇
「えっ……落石事故、ですか?」
到着して早々、長旅を労われながら通された応接間にて聞かされたのは衝撃的な内容だった。
「ああ。我がアンソン家の遠縁にあたる家のものだ。我々の結婚式に参列するため、こちらに向かっている時に起きた事故だ。知らせを受けて駆けつけたときにはもう……」
悔しそうに拳を握るクロヴィス様は、三年前からさらに背が伸びて逞しい男性に成長されていた。精悍なお顔を歪ませ、クロヴィス様は話を続けた。
「亡くなった夫妻には幼い娘がいる。幸い、その子は屋敷で留守番をしていたようで無事なのだが……夫妻の両親は共にすでに他界していて、兄弟もいないということだ」
「そんな……」
話によると、残された少女の名前はフィーナ。まだ四歳の幼い女の子だという。
突然、両親を失い、きっとその事実も受け入れられないであろう彼女の心を思うと、胸が締め付けられるように痛んだ。
「フィーナは、どうなるのですか?」
尋ねる声が震えてしまう。カタカタと震える手を胸の前でぎゅっと握りしめた。
「我が家に連なる家門の養子に迎えることになるだろう。屋敷に一人にしてはおけないので、事故現場を訪れた足でそのまま彼女を迎えに行った。今はこの屋敷の一室で過ごしている」
「そうですか……安心いたしました。私が会うことは叶いますでしょうか?」
そう申し出ると、クロヴィス様は驚いたように目を見開いた。
「ああ、もちろんだ。情けないことだが、俺は幼子の相手をしたことがなく、どう接していいものか思い悩んでいた。疲れているところ申し訳ないが、今からフィーナの部屋へ向かおう」
「はい」
そうして案内された部屋を訪れると、大きなベッドの中央で、大きなウサギのぬいぐるみを抱いた少女がちょこんと座っていた。部屋の片隅には、フィーナのお世話係だという侍女が控えていた。
突然知らない場所に連れられて、きっと不安でいっぱいだろう。
帰らない両親、知らない大人――
気がつけば、皺が寄るほどギュウっとウサギのぬいぐるみを抱きしめる小さな身体をそっと包み込んでいた。
「大丈夫。大丈夫よ」
安心させるように声をかけ、絹糸のように細く美しい銀色の髪を撫でる。クロヴィス様の遠縁とあり、髪色がクロヴィス様とそっくりだ。
頭を撫でているうちに、強張っていた身体は次第に解れていき、恐る恐るといった様子で私の服の裾を掴んでくれた。縋るようなその手を見て、決心が固まった。
「クロヴィス様、私……この子の母親になりたいです」
まっすぐにクロヴィス様を見据えると、クロヴィス様は僅かに目を見開いた後、優しい笑みを浮かべた。
「そう言ってくれるか。実は、俺もこの子を我が家の養子として迎えたいと考えていた。だが、アネットの意思に反して迎えることはできないと思っていたのだ。その……俺たちは来週結婚式を迎え、夫婦として歩み始める。結婚してすぐに子持ちとなるのだ。夫婦としても未熟で、これからという時に、受け入れてもらえるのかと思い悩んでいたのだが……ふ、余計な心配だったな。俺が知っているアネットがフィーナを見捨てるわけがなかった」
「クロヴィス様……」
そうか、クロヴィス様もフィーナの親となる決意を固めていらしたのね。
私こそ、長年の文通でクロヴィス様の心根が優しく思いやりに満ちていることを知っている。きっと、クロヴィス様なら受け入れてくれると、信じていた。
「妻として、母として……その役割を果たすことができるか、正直不安ではあります。ですが、夫婦となるのですもの。一人でその責を負うわけではありません。私たち二人で、悩み、壁にぶつかりながらも、家族として歩んでいければいいなと、私はそう思います」
フィーナがすぐに私たちを親だと思うことは難しいだろう。
けれど、彼女がのびのびと健やかに育つことができるように、全力を尽くそう。
そう想いを込めてフィーナを抱きしめると、応えるようにキュッと抱きしめ返してくれた。
儚く壊れてしまいそうな小さな身体。
親となる責任は重大だ。
まさか結婚早々子持ちになるとは思いもよらなかったが、きっと、クロヴィス様となら素敵な家庭を築いていける。
こうして私たちは、結婚式の準備と並行し、フィーナとの養子縁組の手続きを進めることとなった。