あまり気が進まなかったものの、就職しないことには自宅へと強制送還である。
ミハルは午後一時からの予定に一時になってから向かっていた。それでなくともレースに負けたミハルは気が重かったというのに、余計な小言まで聞かされるかと思うと足取りも軽快にとはならなかった。
実をいうとミハルの実家は事業をしていて、かなりの資産家である。正真正銘のお嬢様であった彼女は就職などしなくとも両親に怒られることはない。だからこそミハルは今の今まで面談すら受けていなかったのだ。両親からやかましく言われる同級生たちとは明らかに切迫感が違っている。かといってミハル自身は実家での安穏とした生活など望んでいなかった。
慌ただしく進路指導室へと入室。担当教員は以前と変わらずグレンである。
「さてミハルさん、どうでしたかね? 楽しめましたか?」
ニヤリとしているグレンは結果を知っているようだ。
嫌味にも聞こえる問いかけだった。素直に認めるのは何だか悔しい。けれど、レースを楽しめたのは事実だし、出場して良かったとも思える。
「ええまあ。負けちゃいましたけど……」
学校の連勝記録を止めてしまったことは特に気にしていない。それはグレンも同じだったようで、彼はその件に関して何も言わなかった。
「ミハルさん、宇宙は広いのですよ。航宙機に関してもそう。セントグラード航宙士学校だけで宇宙が回っているわけではありませんからね?」
「先生は知っていたんですよね? 私が負けるかもしれないってこと……」
「もちろん、知っていましたよ。記念大会とのことでティーンエイジクラスにまで軍部がエントリーしていたことや、十一連勝はミハルさんでなければ無理だってことも。ただ私は連勝記録なんてどうでも良いと考えていました。だから既に進路を決めていたニコル君を指名していたのです。それにミハルさんが航宙士の道から外れようと考えていたとは露も思いませんでしたし」
やはり謀られていたらしい。上手く乗せられたのはミハルも分かっていたけれど、それでもミハルはレースを楽しめた。ここ何年間で一番楽しかったのだ。
「で、心境の変化はありましたか? 大道具係が貴方の生きる道ではないこと。分かって頂けましたか?」
アナウンサーですと呟く。しかし、直ぐにミハルは顔を振った。
「私は誰よりも航宙機が好きです! 誰よりも上手く飛びたいです!」
気付いた本心を堂々と伝える。それは小さな頃から変わらない気持ちだった。
「それは良かった。でしたら、ちょうど良い話がミハルさんに来ていますよ……」
言ってグレンはテーブルに資料を映す。何枚も一度に表示したものだから、机は隙間なく資料に埋め尽くされていた。
「これは……?」
ミハルの目の前に表示された資料データには推薦入所申込書とある。
「これはレース協会からメールで送られてきたものです。先のレースを見られた協会の方が貴方を特待生にしようと考えたらしいですね」
グランプリレース協会はその名の通りレースを運営する組織だ。公的ギャンブルであるレースには免許がなければ出場できない。また免許はレース協会が運営するレーサー養成所を卒所しないことには発行されないのだ。一攫千金を狙えるレーサーは人気のある職種であり、養成所は毎年大勢のパイロットが受験する。一般受験ならば百人に一人しか合格できない狭き門なのだが、推薦入所申込書があれば受験など必要なかった。
「でも私は負けましたよ……?」
「確かにパンフレットには一位のパイロットは特待生の審査対象になるとありましたね。ですが一位だった彼女は軍人ですし、貴方は一般の出場者で最上位ですから」
彼女ね――――とミハルは薄い目をグレンに向けた。
どこまで知っているのか疑問に思う。真偽が微妙な情報を元に自分を誘導したのだと思えてならない。それこそ人生を左右する大切な問題であったというのに……。
「これ……私には必要ありません!」
「えっ? とても良いお話ですよ? 性格的にもミハルさんはレーサー向きだと思いますけれど。それともご両親の意向というものでしょうかね? まあ貴方が航宙士の道を歩むというのなら、行き先は幾らでもありますけど……」
ミハルはレースに出たくない理由として、そんな風に話していた。けれど、実際はそこまで厳しいこともなく、両親はミハルのやりたいようにさせてくれる。
「私は航宙軍訓練所に進もうと決めましたから!」
ポカンとした表情のグレン。全く予想外だったらしい。彼女ならまず間違いなくレーサー養成所の門を叩くと考えていたのに。
航宙軍訓練所はGUNSの下部組織だ。専用の訓練施設を持つ訓練漬けの部隊である。ただ歴とした部隊であることから、彼らの出撃可能性は否定されていない。基本的には半年間の戦闘訓練を施される部隊であり、訓練を満了した者は晴れて実戦部隊へと転属する仕組みである。
「ミハルさん、本気ですか? 卒業生にレーサーの方が何人もいらっしゃいますけど、皆さんいずれも素晴らしい生活を送られていますよ?」
「グレン先生、経済的なことなら気にしません。私の実家は結構裕福なんで! それよりも負けっぱなしは私の性分じゃない。絶対に勝たなきゃ駄目なんです!」
グレンは頭を抱えている。どうやら薬が効きすぎたらしい。レースへの参加はミハルに航宙機への興味を持たせるためだけの処方箋であったはず。しかし、現実は彼女の眠れる闘争本能を目覚めさせる結果となった。
「私はアイリス・マックイーンに勝ちたい!!」
ミハルは感じたままをグレンに告げた。それは志望動機に他ならない。負けた相手よりも、レースを観戦しただけのパイロットを彼女はターゲットに選んでいた。
「ミハルさん、ちょっと待ってください。貴方はジュリアさんにではなく、アイリス・マックイーン少尉に喧嘩を売るつもりですか!?」
完全に斜め上を行くミハルにグレンは戸惑いを隠せない。GUNS最強と誉れ高いエースパイロットに挑もうとするとは露も考えていないことだ。
ミハルならば木星が誇るパイロットになれるとグレンは疑わない。それこそレーサーを目指してくれたのなら、歴史に名を刻むパイロットになれたはずだと。
「当然ですよ! 私はアイリス・マックイーンにフライトを馬鹿にされたんです! 彼女が私のフライトを認めない限り、私の気が収まることはありません!」
どうにも本気らしい。ミハルの負けん気の強さを知っていたから、グレンはレースへの出場を促しただけ。けれど、まさか軍部を代表するエースにまで対抗心を燃やすとは想定外も甚だしい。
長い溜め息をついてから、グレンは徐に語り出した。
「実をいうとアイリス・マックイーン少尉は我が校の卒業生なのですよ。妹のジュリアさんは他校を卒業されておりますけど……」
どうやらアイリス・マックイーンはミハルの先輩であったようだ。ミハルのレース運びを詳しく見ていたのは後輩であることが理由なのかもしれない。
「八年前ですかね……。彼女は貴方と同じティーンエイジクラスに出場し、圧倒的勝利を収めました。当然のこと特待生としてレース協会から誘いを受けたのですが、貴方と同じようにアイリスさんはその話を蹴ってしまったのです。レースに出場する前は特待生からレーサーになると息巻いていたにもかかわらず……」
グレンの話には矛盾を覚える。ミハル自身はレーサーになるつもりなどなかったから、レース協会からの推薦状は不要だった。けれども、レーサーを目指していた彼女にはそれが必要だったはず。
「どうしてですか……?」
自然と問いを返していた。自身と同じ道を選んだわけ。望んでいた推薦状を蹴った理由について。
「貴方と同じです。き上げた自信が崩壊したらしいですね。レースにこそ勝ちましたが、彼女は人生を変えるほどのフライトを見てしまったようです……」
言われてミハルは理解した。アイリスもまた何かを見たのだと。同じような性格をした人間であれば、同じような結論を出したはず。思い描く将来像よりも重要なものを見つけたに違いない。
「グレン先生、それならやはり私はあの人に勝たなくちゃなりません。将来のこととか関係ない。私が自信を持って飛び続けるには彼女に認められるしかありませんから!」
毅然と答えるミハルにグレンは眉根を寄せた。何とか説得する術を考えている。アイリスの現状を見る限り、彼女が才能を生かし切れているとは思えなかったからだ。
「貴方の心意気を否定するつもりはないのですけれど、仮に貴方がそれを達成したとき、再び航宙機に対する熱意を失ってしまうんじゃないかと危惧しています。また貴方の才能が軍部に埋もれてしまうことも懸念されます。一時的な感情による目的など、長い人生には不利益であることの方が多いのですからね……」
グレンの指摘は妥当であり、正しいとも思う。だが、ミハルは首を振った。一時的な感情には違いなかったが、彼女は航宙機パイロットとして生きる道にそれが必要だと信じて疑わない。避けて通るようなルートはミハルに用意されていなかった。
「先生、どうかお願いします! 今の私に目的を達成したあとのことなんか分かりません。だけど私は軍部に進みたい! 一番にならなきゃ駄目なんです! 負けるのは絶対に嫌! この先も私が銀河を飛び回るのであれば、あの人に勝つしかありません!」
グレンにとっては幼稚な理由でしかなかった。しかし、若きパイロット特有の熱い想いも彼は理解している。長年に亘る教員生活において、そういった真っ直ぐな想いをグレンは事あるごとに見てきたのだ。
「全く貴方という人は……。まあ分かりました。言っても聞かないでしょうし、その方向で進めましょうか……。ただし、軍部は貴方が想像している以上に厳しい場所ですよ? 航宙軍に入ることはこの星系を守護する一角を担うこと。訓練だけで逃げ出してしまう者も大勢いるのですから……」
実際に訓練所へ進んだ者の五人に一人は志半ばで退役している。現在、軍部の敵となる者は宙域を荒らす宇宙海賊に限られていたが、それでも訓練の過酷さはGUNS創設当初から何も変わっていない。
「任せてください! 必ずや彼女に勝ちます! 絶対に倒して見せますから! 私は先生の期待に応えます!」
とても進路を決めたとは思えない台詞。今の話を理解したようには見えない笑顔。
この日、グレンの溜め息が途切れることはなかった……。