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史記しき/まき085

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 こごめげん賈生列傳れつでん だいじゅうよん 史記しき
まきはちじゅう りょ韋列でん だいじゅう
刺客しかく列傳れつでん だいじゅうろく 

りょ


りょ

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りょ韋者,翟大賈人也。往來おうらい販賤うりいえるい千金せんきん

はたあきらおうよんじゅうねん太子たいし。其四じゅうねん,以其次子じし安國やすくにくんため太子たいし安國やすくにくん有子ゆうこじゅう餘人よにん安國やすくにくんゆうしょ甚愛ひめたて以為せい夫人ふじんごう曰華夫人ふじん華陽かよう夫人ふじん安國やすくにくんちゅうおとこ名子なごすわえすわえはは曰夏ひめ,毋愛。すわえためはたただし於趙。しんすうおさむちょうちょう甚禮すわえ

すわえはたしょ庶孽まごしつ於諸こうくるまじょうすすむようにょうきょしょこま不得意ふとくいりょ韋賈邯鄲かんたん而憐,曰「此奇貨きかきょ」。乃往すわえせつ曰:「われのう大子だいごもん。」すわえわらい曰:「且自大君おおきみもん,而乃だいわれもん!」りょ韋曰:「知也ともやわれかど待子まちこもん而大。」すわえこころ所謂いわゆる,乃引あずかすわふかりょ韋曰:「はたおうろう矣,安國やすくにくんため太子たいし。竊聞安國やすくにくん愛幸あいこう華陽かよう夫人ふじん華陽かよう夫人ふじんのうりつてき嗣者どく華陽かよう夫人ふじんみみ今子いまこ兄弟きょうだいじゅう餘人よにんまた居中きょちゅう甚見こうひさしつ諸侯しょこうそく大王だいおう薨,安國やすくにくんりつためおう則子のりこ毋幾あずか長子ちょうし諸子しょし旦暮たんぼざい前者ぜんしゃそうため太子たいし矣。」すわえ曰:「しか為之ためゆき柰何?」りょ韋曰:「ひんきゃく於此,ゆう奉獻ほうけん於親及結賓客ひんきゃく也。韋雖ひん,請以千金為子西游,こと安國やすくにくん及華夫人ふじん立子たつこためてき嗣。」すわえ頓首とんしゅ曰:「必如くんさく,請得ぶんしんこくあずかきみ共之ともゆき。」

りょ韋乃以五百金與子楚,ためしんようゆい賓客ひんきゃく;而復以五百金買奇物玩好,たてまつ而西ゆうはたもとめみる華陽かよう夫人ふじん姊,而皆以其ぶつけんじ華陽かよう夫人ふじんよしげんすわえけんさとしゆい諸侯しょこう賓客ひんきゃくへん天下でんかつね曰「すわえ也以夫人ふじんためてんにち夜泣よなきおもえ太子たいし及夫じん」。夫人ふじん大喜だいぎ韋因使其姊せつ夫人ふじん曰:「われ聞之,以色事いろごとじんしゃしょくおとろえ而愛たゆこんおっと人事じんじ太子たいし,甚愛而無以此のみゆい於諸子中こなかけんこうしゃ,舉立以為てき而子おっとざいのりじゅうみことおっとひゃくさいこれ所子ところごしゃためおうおわりしつぜい,此所謂いわゆる一言而萬世之利也。繁華はんか樹本きもとそくしょくおとろえあいたゆのち,雖欲ひらけいちなおとく乎?今子いまこすわえけん,而自ちゅうおとこ也,とくためてき,其母またとくこう夫人ふじん夫人ふじんまこと以此拔以ためてき夫人ふじんそく竟世ゆうちょう於秦矣。」華陽かよう夫人ふじん以為しかうけたまわ太子たいしあいだ從容しょうようげんすわえしつ於趙しゃぜっけん來往らいおうしゃみなたたえほまれ。乃因涕泣ていきゅう曰:「わらわこうとくたかし後宮こうきゅう不幸ふこうねがい得子とくこすわえりつ以為てき嗣,以讬わらわ。」安國やすくにくんもと,乃與夫人ふじんこくだまやく以為てき嗣。安國やすくにくん及夫じんよしあつ遺子いしすわえ,而請りょ韋傅すわえ以此名譽めいよえきもり於諸こう

りょ韋取邯鄲かんたんしょひめ絕好ぜっこうぜんまいしゃあずかゆうすわえしたがえ韋飲,而說いんおこりためことぶき,請之。りょ韋怒,ねんぎょうやめやぶいえためすわえよく以釣,乃遂けんじ其姬。ひめ匿有至大しだい生子おいごせいすわえとげたてひめため夫人ふじん

はたあきらおうじゅうねん使つかいおう齮圍邯鄲かんたんきゅうちょうよくころせすわえすわえあずかりょ韋謀,行金こうきんろくひゃくきんもりしゃ吏,とくぬげほろび赴秦ぐんとげ以得ちょうよくころせすわえ妻子さいしすわえ夫人ふじんちょう豪家ごうかおんな也,とく匿,以故母子ぼし竟得かつはたあきらおうじゅうろくねん,薨,太子たいし安國やすくにくんりつためおう華陽かよう夫人ふじんためおうきさきすわえため太子たいしちょうまたたてまつすわえ夫人ふじん及子せいかえりしん

はた王立おうりついちねん,薨,謚為孝文たかふみおう太子たいしすわえだいりつためそうじょうおうそうじょうおうしょはは華陽かようきさきため華陽かようたいきさきははなつひめたかし以為なつふとしきさきそうじょうおう元年がんねん,以呂韋為丞相じょうしょうふうため文信ふみのぶこうしょく河南かなん洛陽らくようじゅうまん

そうじょうおう即位そくいさんねん,薨,太子たいしせいりつためおうみことりょ韋為相國しょうこくごうしょうなかちち」。しんおう年少ねんしょうふとしきさき時時ときどき竊私どおりりょ韋。韋家僮まんにん

とう有信ありのぶりょうくんすわえ有春ありはるさるくんちょうゆう平原ひらはらくんひとしゆうはじめ嘗君,みな下士かし賓客ひんきゃく以相かたぶけりょ韋以しんつよし,羞不如,また招致しょうち厚遇こうぐういたり食客しょっきゃくさんせんにん諸侯しょこう多辯たべん,如荀きょう著書ちょしょぬの天下でんかりょ韋乃使其客人人ひとびとちょしょ聞,しゅうろん以為はちらんろくろんじゅうじゅうあまり萬言まんげん。以為備天萬物ばんぶつ古今ここんことごう曰呂春秋しゅんじゅうぬの咸陽もんかか千金せんきん其上,のべ諸侯しょこうゆう賓客ひんきゃく有能ゆうのうぞうそんいちしゃ千金せんきん

始皇帝しこうていえきたけしふとしきさきいんとめりょ韋恐さとし及己,乃私もとめだいかげじん嫪毐以為舍人とねりたて倡樂,使つかい毐以其陰闕桐而行,れいふとしきさき聞之,以啗ふとしきさきふとしきさき聞,はてほしわたしとくりょ韋乃しん嫪毐,いつわりれいじん以腐ざいつげ韋又かげいいふとしきさき曰:「こといつわりくさのりとくきゅうごとちゅう。」ふとしきさき乃陰あつたまものおもくさしゃ吏,いつわりろん,拔其須眉ため宦者,とげさむらいふとしきさきふとしきさきわたしあずかどおりぜっあいゆうふとしきさきおそれ人知じんちいつわりぼくとう避時,徙宮居みやい雍。嫪毐つねしたがえ賞賜しょうし甚厚,ことみなけつ於嫪毐。嫪毐僮數せんにんしょきゃくもとめ宦為嫪毐舍人とねりせん餘人よにん

はじめすめらぎななねんそうじょうおうははなつふとしきさき薨。孝文たかふみおうきさき曰華ふとしきさきあずか孝文たかふみおう會葬かいそうことぶきりょうなつふとしきさきそうじょうおうそう芷陽,なつふとしきさきどくべつそうもりひがし,曰「ひがしもち吾子あご西にしのぞむわれおっとこうひゃくねんつくりとうゆうまんいえ邑」。

はじめすめらぎきゅうねんゆうつげ嫪毐じつ宦者,つね與太よたきさきわたしみだれ生子おいごにんみな匿之。與太よたきさきはかりごと曰「おうそく薨,以子ため」。於是しんおう吏治,とく情實じょうじつことれん相國しょうこくりょ韋。九月くがつえびす嫪毐さんぞくころせぶときさき所生しょせい兩子ふたご,而遂遷太きさき於雍。しょ嫪毐舍人とねりみなぼつ其家而遷しょくおうよく誅相こくため其奉先王せんおうこうだい,及賓きゃく辯士べんしためゆうせつしゃ眾,おうにん致法。

はたおうじゅうねんじゅうがつめん相國しょうこくりょ韋。及齊じんちがやこげせつしんおうはたおう乃迎ふとしきさき於雍,かえりふく咸陽,而出文信ふみのぶこう就國河南かなん

としあまり諸侯しょこう賓客ひんきゃく使者ししゃしょうもち於道,請文しんこうしんおうおそれ其為へん,乃賜文信ふみのぶこうしょ曰:「きみなにこう於秦?はたふうくん河南かなんしょくじゅうまんくんなんおや於秦?ごうしょうなかちち。其與ぞく徙處しょく!」りょ韋自ややおかせおそれ誅,乃飲酖而はたおうしょいかりょ韋、嫪毐みなやめ,乃皆復歸ふっき嫪毐舍人とねり遷蜀しゃ

はじめすめらぎじゅうきゅうねんふとしきさき薨,謚為みかどふとしきさきあずかそうじょうおう會葬かいそう茝陽。

評論ひょうろん

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ふとしおおやけ曰:韋及嫪毐とうとふうごう文信ふみのぶこうひとつげ嫪毐,毐聞しんおうけん左右さゆう未發みはつ上之うえの雍郊,毐恐おこり,乃與とうはかりごと,矯太きさき璽發そつ以反蘄年みやはつ吏攻毐,毐敗亡はいぼうはしついこれこう畤,とげめつ其宗。而呂韋由此絀矣。孔子こうし所謂いわゆる「聞」しゃ,其呂乎?

さくかくれじゅつさん韋釣しつすわえ華陽かようりつ嗣,邯鄲かんたんけんじおんな。及封河南かなん,乃號なかちち。徙蜀懲謗,かか金作きんさく。籌策既成きせい富貴ふうき斯取。

ほん作品さくひんざいぜん世界せかいぞく公有こうゆう领域いん为作しゃ逝世やめ经超过100ねん,并且于1929ねん1がつ1にちぜん出版しゅっぱん

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