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舊唐書/卷3 - 维基文库,自由的图书馆 とべ转到内容ないよう

きゅうとうしょ/まき3

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 ふとしむねじょう きゅうとうしょ
本紀ほんぎだいさん ふとしむね
こうはじめじょう 

さだかんよんねん[编辑]

よんねんはる正月しょうがつおつていじょう道行みちゆきぐんそうかんやすし大破たいは突厥,ずい皇后こうごうしょう及煬みかどまご正道せいどうおくいたり京師けいし癸巳きし武德たけのり殿どのきたいん

がつおのれこう溫湯ぬるゆかぶとたつやすしまたやぶ突厥於陰さん,頡利あせけいどお遁。丙午ひのえうまいたり溫湯ぬるゆきのえとら大赦たいしゃたまものにちみん尚書しょうしょ戴胄以本かん檢校けんぎょう吏部尚書しょうしょさんあずか朝政ちょうせいふとつねきょうしょう瑀為大夫たいふあずかおさむしん參議さんぎ朝政ちょうせい大夫たいふ西河にしがわぐんおおやけゆたか彥博ため中書ちゅうしょれい

さんがつかのえたつだい同道どうどう行軍こうぐんふくそうかんちょうたから相生あいおいとりこ頡利あせけんじ於京かぶとさる尚書しょうしょみぎぼくしゃ、蔡國こうもり如晦薨。かぶとうま,以俘頡利つげ於太びょう

なつよんがつちょうとりじゅんてんもんぐん吏執頡利以獻とし西北せいほくしょしげる咸請じょう尊號そんごうためてんあせ」,於是くだ書冊しょさついのち其君ちょうのりけんしょう

あきなながつ甲子きのえねついたちにちゆう蝕之。うえいいぼうげんよわいしょう瑀曰:「ずいぶんなんとうぬし?」たい曰:「克己こっきふくれい勤勞きんろうおもえせいまいいちすわあさあるいたり昃。ひん已上いじょう,引之ろんごと宿衛しゅくえいこれにんつて餐而しょく。雖非せいからだ仁明にんみょうまた勵精しゅ也。」じょう曰:「おおやけとく其一,未知みち其二そのじ。此人せいいたり察而しん不明ふめいおっとこころくらそくあきらゆう不通ふつういたり察則うたぐ於物。以欺寡得いいぐん不可ふか信任しんにんことみな自決じけつ,雖勞かみがたのうつきあい於理。朝臣あそん既知きち上意じょういまたふく直言ちょくげん宰相さいしょうやめうけたまわ受而やめちんしか。以天こうあに獨斷どくだんいちにんおもんばかちんかたせん天下でんかざいため天下でんかつとむ委任いにんせめなりかくつき其用,庶幾しょき於理也。」いんれい有司ゆうし:「みことのり敕不便びん於時,そくむべ執奏しっそうとくじゅんむね施行しこう。」

はちがつ丙午ひのえうまみことのりさんひん已上いじょうふくむらさきひん已上いじょうふくろくひんななひん以綠,はちひんきゅうひん以青;婦人ふじんしたがえおっとしょくきのえとら兵部ひょうぶ尚書しょうしょだいくにこうやすしため尚書しょうしょひだりぼくしゃ

きゅうがつ庚午こうごれいおさむ瘞長じょうみなみ骸骨がいこつ,仍令致祭。みずのえうまれい明王みょうおう聖帝せいていけんしん烈士れっし墳墓ふんぼとく芻牧,春秋しゅんじゅう致祭。

ふゆじゅうがつみずのえたつこう隴州,きょく赦隴、岐しゅうきゅうふくいちねんからしうしこうりょう於貴いずみこくかぶとたつこうりょう於魚龍川りゅうがわ鹿しかけんじ於大おだいやすみや甲子きのえねいたり隴州。つちのえとらせいけつ罪人ざいにんとくむち,以明どうあなあなはりやいとこれしょ兵部ひょうぶ尚書しょうしょこうくんしゅう參議さんぎ朝政ちょうせい

十二月じゅうにがつからし開府かいふどうさんつかさ、淮安おう神通じんずう薨。きのえとらこうあきらおう麴文たい來朝らいちょう

これさいだん死刑しけいじゅうきゅうにんいく致刑措。ひがしいたり於海,みなみいたる於嶺,みながい閉,行旅こうりょ賚糧焉。

さだかんねん[编辑]

ねん正月しょうがつみずのととりだい蒐於こんあきらいけ蕃夷ばんいくんちょう咸從。へいおやけんじ禽於大安だいあんみやおのれこうひだりぞうたまものさんひん已上いじょう帛,にん輕重けいちょうみずのとちょうしゅう使請封ぜんおのれとりふうすめらぎおとうともとひろしため鄶王,元名もとなため譙王,れい夔為おうげんさちためもとおうもとあかつきためみつおうかのえいぬふう皇子おうじ愔為はりおうさだためかんおう,惲為郯王,ためすすむおうまきためさるおう,囂為おう,簡為だいおう

なつよんがつみずのえたつだいおう簡薨。以金帛購中國人ちゅうごくじんいんずいらんぼつ突厥しゃ男女だんじょはちまんにんつきかえ其家ぞく

ろくがつきのえとら太子たいししょうあたらしあきらけんこうつな薨。

なながつかぶとたつ使つかい毀高うららしょりつきょうかんおさむずいじん骸骨がいこつまつり而葬つちのえさるはつれい天下でんかけつ死刑しけい必三くつがえそう在京ざいきょうしょつかさくつがえそう,其日なおしょくしん蔬食,內教ぼう及太つね舉樂。

きゅうがつおつうしたまものぐんかんだい武德たけのり殿どの

ふゆじゅうがつみぎまもる大將軍だいしょうぐんじゅん州都しゅうととく北平きたひらぐんおうおもね什缽苾卒。

十二月じゅうにがつみずのえとらこう溫湯ぬるゆみずのとりょう於驪やま丙午ひのえうまたまもの新豐しんゆたか高年こうねん帛有つちのえさるいたり溫湯ぬるゆ

さだかんろくねん[编辑]

六年春正月乙卯朔,にちゆう蝕之。

がつへいいぬおけさん官員かんいん戊子ぼしはつおけりつがく

さんがつつちのえたつこうきゅう成宮なるみや

六月ろくがつおのれ,酆王もととおる薨。からしこうおう囂薨。

ふゆじゅうがつおついたりきゅう成宮なるみや

十二月じゅうにがつつらおやろく囚徒しゅうとかえり死罪しざいしゃひゃくきゅうじゅうにん於家,れい明年みょうねん秋末あきすえ就刑。其後おう畢至,みことのり悉原これさいとうこう羌前內屬しゃさんじゅうまんくち

さだかんななねん[编辑]

ななねんはる正月しょうがつ戊子ぼしみことのり曰:「宇文うぶん及弟さとし及、司馬しばいさお戡、裴虔どおりはじめけいもとれい、楊覽、からたてまつよしうしかたひろしげんさとし、薛良、うま舉、もとたけいたるたかしほんたかししつちょう愷、もとひろじんれいきつねぎょうたちせきとくかたくつがえひとし大業おおわざねん,咸居れつしょくあるおんゆいいちだいにんおも一時いちじ;乃包藏ほうぞう兇慝,罔思忠義ちゅうぎ,爰在江あるえ遂行すいこう弒逆,つみひゃく閻、ちょう,釁深ふくろう獍。雖事前代ぜんだい歲月さいげつやめひさし,而天下之したのあく古今ここんどう棄,むべおけ重典しげのり,以勵臣節しんせつ。其子孫しそんなみよろし禁錮きんこ,勿令敘。」うえせいやぶじんらくまい》。からしうしたまものきょうじょうさんにちちょうしげるあめおつとり,薛延陀遣使來朝らいちょうかのえとら秘書ひしょかん檢校けんぎょうさむらいちゅうちょうためさむらいちゅう癸巳きしちょくふとしはたつかまつろうあつしふう渾天黃道こうどうそうおけ於凝あきらかく

なつがつみずのとこうきゅう成宮なるみや

はちがつ山東さんとう河南かなんさんじゅうしゅう大水だいすい使つかい賑恤しんじゅつ

ふゆじゅうがつ庚申こうしんいたりきゅう成宮なるみや

十一月じゅういちがつひのとうし,頒新定しんじょう五經ごきょう》。みずのえたつ開府かいふどうさんつかさひとしこくおおやけちょうまごためそら

十二月じゅうにがつへいたつかり於少りょうはらみことのり以少ろうさいもり如晦、もり淹、つなはか

さだかんはちねん[编辑]

はちねん正月しょうがつみずのとみぎまもる大將軍だいしょうぐんおもね吐苾そつからしうしみぎたむろまもる大將軍だいしょうぐんはり討東、西にしほらはん獠,平之ひらのみずのえとらいのち尚書しょうしょみぎぼくしゃやすし特進とくしんしょう瑀楊きょうひとしれい尚書しょうしょおう珪、大夫たいふ韋挺、鄜州だいとくちょうすめらぎはじめいっあげしゅうだいとくちょうかさねほまれかそけしゅうだいとくちょうちょうあきらりょうしゅうだいとくだいあきらみぎりょうぐん大將軍だいしょうぐん竇誕、太子たいしひだり庶子しょしもりせいりん綿わたしゅう刺史ししりゅういさお黃門こうもんさむらいろうちょうひろしさとし使四方しほうかんしょう風俗ふうぞく

がつおつ皇太子こうたいし元服げんぷく丙午ひのえうまたまもの天下でんかさんにち

さんがつかのえたつこうきゅう成宮なるみや

五月ごがつつらついたちにちゆう蝕之。ちょううしうえはつふくつばさぜんかんむり臣服しんぷく進德しんとくかんむり

なながつはじめ以雲麾將ぐんかいためしたがえさんひん。隴右山崩やまくずれ大蛇おろち屢見。山東さんとう河南かなん淮南ワイナン大水おおみず使つかい賑恤しんじゅつ

はちがつ甲子きのえねゆうほし孛於むなし、危,れき於氐,じゅういちがつ上旬じょうじゅん乃滅。

きゅうがつちょううし皇太子こうたいし來朝らいちょう

ふゆじゅうがつみぎ驍衛大將軍だいしょうぐん、褒國こうだんこころざしげんげき吐谷渾,やぶこれつい奔八ひゃくあまりさと甲子きのえねいたりきゅう成宮なるみや

十一月じゅういちがつつらみぎぼくしゃだいくにこうやすし以疾かん,授特進とくしんちょう,吐谷渾寇りょうしゅうおのれうし,吐谷渾拘わがくだりにゅうちょう道德みちのり

十二月じゅうにがつからしうしいのち特進とくしんやすし兵部ひょうぶ尚書しょうしょこうくんしゅう刑部おさかべ尚書しょうしょにんじょう王道おうどうむねりょう州都しゅうととくだいあきらとうためだいそうかんかくそちぶんどう以討吐谷渾。みずのえこしおうやすしため雍州まきおつみかどしたがえぶと上皇じょうこう閱武於城西にしこれさいかめ茲、吐蕃、こうあきらおんなこくいしこく使つかい朝貢ちょうこう

さだかんきゅうねん[编辑]

きゅうねんはるさんがつ,洮州羌叛,ころせ刺史ししあな長秀ながひでみずのえうま大赦たいしゃまいさとおけちょういちにんにんおつとり鹽澤しおざわみちそうかんだかこしきせい大破たいは叛羌眾。かのえとら,敕天下戶げこりつさんとうつきますくだおけためきゅうとう

なつよんがつみずのえとらかんこくけんじ獅子じし

閏月じゅんげつちょうしげるにちゆう蝕之。癸巳きしだいそうかんやすしほうくんしゅうだいあきらにんじょう王道おうどうむねやぶ吐谷渾於うしこころうずたか

五月さつき乙未おとみまたやぶこれ於烏うみつい奔至かしわかいふくそうかん薛萬ひとし、薛萬徹又破之於赤水源,其名おうじゅうにんかのえふとし上皇じょうこうくずし於大おだいやすみやみずのえやすしひら吐谷渾於西海さいかいこれじょう其王慕容ふくまこと。以其慕容じゅんこうくだふうため西平にしだいらぐんおうふく其本こく

あきなながつきのえとらぞうおさむふとしびょうためろくしつ

ふゆじゅうがつかのえとらそう高祖こうそふとしたけ皇帝こうてい於獻りょうつちのえさる,祔於ふとしびょうからしうしひだりぼくしゃこく公房こうぼうげんよわい開府かいふどうさんつかさあまり如故。

十二月じゅうにがつかぶといぬ,吐谷渾西平郡へごおりおう慕容じゅんこうため其下しょ弒,兵部ひょうぶ尚書しょうしょこうくんしゅうりつやすなでこれ,仍封じゅん光子こうしだく曷缽ためかわみなもとぐんおう使つかいすべ其眾。みぎこう祿ろく大夫たいふそうこくおおやけしょう瑀依きゅう特進とくしんふくれいさんあずか朝政ちょうせい

さだかんじゅうねん[编辑]

じゅうねんはる正月しょうがつみずのえ尚書しょうしょひだりぼくしゃぼうげんよわいさむらいちゅうちょうじょうはりちんひとししゅうずいだいみことのりぞう於秘かくみずのとうし,徙封ちょうおうもとけいため荊王,魯王もとあきらためかんおうていおうもとれいためじょおうじょおうもとよしみためかんおう,荊王もとのりため彭王,滕王もと懿為ていおうおうもと軌為霍王,豳王もとおおとりため虢王,ひねおうもとけいためどうおうおうれい夔為つばめおうしょくおうつとむためくれおうこしおうやすしためおうつばめおうゆうためひとしおうはりおう愔為しょくおう,郯王惲為蔣王,かんおうさだためえつおうさるおうまことためおう

なつろくがつ,以侍ちゅうちょうため特進とくしん,仍知門下もんかしょうごとみずのえさる中書ちゅうしょれいゆたか彥博ため尚書しょうしょみぎぼくしゃかぶといぬふとしつねきょう安德あんとくぐんおおやけ楊師どうためさむらいちゅうおのれ皇后こうごうちょうまごくずし於立まさし殿どの

ふゆじゅういちがつかのえとらそう文德ふみのり皇后こうごう於昭りょう

十二月じゅうにがつみずのえさる,吐谷渾河みなもとぐんおう慕容だく曷缽來朝らいちょうおつおやろく京師けいし囚徒しゅうとこれさいせき內、河東かわとう疾病しっぺいいのち賚藥療之。

さだかんじゅういちねん[编辑]

じゅう一年春正月丁亥朔,徙鄶おうもとひろしため鄧王,譙王元名もとなため舒王。癸巳きしおうやすしため雍州まきひだりたけしこう大將軍だいしょうぐんかのえ,頒新律令りつりょう於天さく山宮やまのみやきのえとらぼうげんよわいとうしんところおさむれい》。みことのり所司しょし行用ぎょうよう

がつちょうみことのり曰:

おっと生者しょうじゃ天地てんち大德だいとくことぶきしゃおさむたんいちなまゆうななしゃくかたちことぶきひゃくよわいためげん,含靈稟氣,莫不どう焉,みなどく自然しぜん不可ふか以分がいくわだて也。以《れいうん:「きみ即位そくい而為椑」。そうしゅううん:「ろうわが以形,いきわが以死。」あに聖人せいじんどお鑒,つうけんふか識?末代まつだいやめらいあきら闢蓋寡,靡不矜黃みことおもんばか白駒しろこまなみかかわゆう慕遐ねんいいくもしゃえきじょう,羲輪ちゅう軌同おもむき,其蔽甚矣。ゆうずいうみ內橫りゅう豺狼さいろう肆暴,吞噬黔首。ちんとうたもと發憤はっぷん情深なさけぶか拯溺,扶翼ふよくすみ斯塗ずみよりゆきあおいひろしくだ鑒,股肱ここうせんりょくつつみけんゆび麾,天下てんかだいじょう。此朕宿志しゅくし,於斯やめ畢。なおおそれにち子子孫孫ししそんそん,習於流俗りゅうぞくなお循常れいよんじゅう櫬,ひゃくまつこれろう百姓ひゃくしょうたかしあつえんりょういまあずかため此制,つとむしたがえ儉約けんやく,於九嵕之さんあしようかん而已。せき以歲がつやや而備木馬もくばぬりしゃ桴葦龠,ことあい古典こてん不為ふためようまたいのち功臣こうしんあるふかふねかじあるはかりごとてい帷幄いあくある摧行じんどうすみ艱危,かつなりおおとりぎょうついねんざいむかしなんにち忘之!使つかい逝者無知むち,咸歸寂寞せきばくわか營魂有識ゆうしきかえ如疇曩,きょとめしょうもちまたぜん乎!かん使しょうしょう陪陵,またきゅう以東いとうえんあつしおわりよしおん深厚しんこう古人こじんあにあやわが哉!自今じこんやめ功臣こうしんみつ戚及とくぎょうしゃ,如有薨亡,むべたまもの塋地いちしょ,及以使つかい窀穸ときごと闕。所司しょし此營備,しょうちん焉。


甲子きのえねこう洛陽らくようみやいのちさい漢文かんぶんみかど

さんがつへいいぬついたちにちゆう蝕之。ちょうくるまいたり洛陽らくようへいさるあらためらくしゅうため洛陽らくようみやからしだい蒐於こう城澤しろさわみずのとうしかえみや

なつよんがつ甲子きのえねふるえいぬいはじめ殿どのぜんえんじゅじゅへいとらみことのり河北かほく淮南ワイナン舉孝悌淳あつしけん時務じむ;儒術該通,ため師範しはん文辭ぶんじ秀美ひでみざいこらえ著述ちょじゅつあかり政體せいたいじんなみこころざしぎょうおさむりつためきょう閭所推者,きゅうでんまい洛陽らくようみや

ろくがつきのえとら尚書しょうしょみぎぼくしゃおそれこくおおやけゆたか彥博薨。ちょうさいわい明德あきのりみやおのれじょうせい諸王しょおうためふう刺史ししつちのえたつじょうせい勛臣ためふう刺史ししあらためふうにんじょう王道おうどうむねため江夏えなつぐんおうちょうぐんおうたかしきょうため河間こうまぐんおうおのれあらためふうもとおうもとさちためおう

あきなながつみずのとだい霪雨。谷水たにみず溢入洛陽らくようみやふかよんしゃく,壞左わきもん,毀宮てらじゅうきゅうしょらくすい溢,漂ろくひゃくいえかのえとらみことのり以災いのち百官ひゃっかんじょうふうごと極言きょくげん得失とくしつちょうとりくるまかえみやみずのえとらはい明德めいとくみや及飛山宮やまのみやげん圃院,ふんきゅう遭水いえ,仍賜帛有丙午ひのえうまおさむろうくんびょう於亳しゅうせんあまびょう於兗しゅうかくきゅう十戶享祀焉。りょう武昭たけあきおうふくきんはかじゅうたかし守衛しゅえい,仍禁芻牧きこり

きゅうがつちょうかわ溢,壞陜しゅう河北かほくけん,毀河ちゅう潭。こうしろ司馬しばばん以觀たまもの遭水いえあわ帛有

ふゆじゅういちがつからしこうふところしゅう乙未おとみかり於濟げん丙午ひのえうまくるまかえみや

十二月じゅうにがつからしとり,百濟王遣其太子隆來朝。

さだかんじゅうねん[编辑]

じゅうねんはる正月しょうがつ乙未おとみ,吏部尚書しょうしょ高士こうしかどとうじょう氏族しぞくこころざしいちひゃくさんじゅうかんみずのえとらまつくさむらしゅう地震じしん,壞人いおりしゃゆう壓死あっししゃ

がつおつくるまかえきょうみずのとかんとぎばしら,勒銘以紀功德くどく甲子きのえねよるろう獠反,夔州とくひとし善行ぜんこう討平おつうし陜州,新橋しんばしこう河北かほくけんまつなつ禹廟。ちょうしげる柳谷やなぎやとみかん鹽池しおいけつちのえとら,以隋鷹揚おうようろうはた堯君もとちゅう於本あさおくかばのしゅう刺史しし,仍錄其子孫しそん

うるうがつかのえたつついたちにちゆう蝕之。へいいぬいたり洛陽らくようみや

なつがつみずのえさるぎんあおこう祿ろく大夫たいふ永興りょうごけんおおやけおそれみなみそつ

ろくがつかのえはつおけ玄武げんぶもん左右さゆう

あきなながつみずのととり,吏部尚書しょうしょさるこくおおやけ高士こうしれんため尚書しょうしょみぎぼくしゃ

ふゆじゅうがつおのれかり於始ひらめたまものだかねんあわ帛有乙未おとみいたりはじめたいらおのれ,百濟遣使貢金甲雕斧。

十二月じゅうにがつからしみぎたけこう將軍しょうぐん上官じょうかんふところじん大破たいはさん獠於かべしゅう

さだかんじゅうさんねん[编辑]

じゅう三年春正月乙巳朔,謁獻りょうきょく赦三原縣及行從大闢罪。丁未ていみいたりけんじりょうつちのえうまぼうげんよわいため太子たいししょう

がつへいとま世襲せしゅう刺史しし

さんがつおつうしゆうほし孛于畢、すばる

なつよんがつつちのえとらこうきゅう成宮なるみやかぶとさるおもね結社けっしゃなんじはん營,ふく誅。みずのえとらくもせきもえしゃ方丈ほうじょうひる如灰,よるのり有光ありみつとう草木くさき於上そく焚,歷年れきねん而止。ふゆあめいたりがつきのえとら,避正殿どのれい五品以上上封事,げんぜんやめやくふん使賑恤しんじゅつさる冤屈,乃雨。

ろくがつへいさるふうすめらぎおとうともと嬰為滕王。

あきはちがつからしついたちにちゆう蝕之。かのえたつたてみぎたけこう大將軍だいしょうぐん州都しゅうととくふところぐんおうおもえため突厥あせりつ所部ところぶけんきば於河きた

ふゆじゅうがつかぶとさるいたりきゅう成宮なるみや

十一月じゅういちがつからしさむらいちゅう安德あんとくぐんおおやけ楊師どうため中書ちゅうしょれい

十二月じゅうにがつひのとうし,吏部尚書しょうしょひねこくおおやけこうくんしゅうため交河どう行軍こうぐんだいそうかんそちこうあきらおつふう皇子おうじぶくためちょうおうみずのえうま,巂州とくおうこころざしどお有罪ゆうざいふく誅。みことのり於洛、そうかそけじょひとしなみはたかばひとししゅう並置へいちつねひらくらおのれうし,吐谷渾河みなもとぐんおう慕容だく曷缽ぎゃくおんなみずのえたつかり於咸

これさい,滁州ごと:「野蠶くわごしょくかしわなりまゆだい如柰,其色みどり,凡ろくせんひゃくななじゅうせき。」高麗こうらいしん西にし突厥、吐火かんこく安國やすくになみ斯、疏勒、于闐、焉耆、こうあきらはやし邑、こんあきら及荒ふく蠻酋,そう使つかい朝貢ちょうこう

さだかんじゅうよんねん[编辑]

じゅうよんねんはる正月しょうがつかのえはついのち有司ゆうし讀時れいきのえとらさいわいたかしおうやすしたく。赦雍しゅう及長やすごくだい闢罪やめ

がつちょううしさいわい國子くにこがくおやしゃく奠,赦大まんねんけいしゅう國子くにこさいしゅ以下いか學生がくせいだかだい精勤せいきんしゃいちきゅうたまもの帛有かのえたつひだり驍衛將軍しょうぐん、淮陽おう道明みちあきおくひろ公主こうしゅ於吐たに渾。みずのえうまこう溫湯ぬるゆからしいたり溫湯ぬるゆ乙未おとみみことのり以梁すめらぎただし、褚仲しゅうぐまやすせい、沈重,ちん沈文おもねしゅう弘正ひろまさちょうずいなん妥、りゅう焯、りゅう炫等前代ぜんだいめい儒,學徒がくとくだり其義,いのちもとめ其後。

さんがつつちのえうまおけやすしさく大使たいし,以護突厥。

なつがつみずのえいぬ,徙封つばめおうれい夔為魯王。

ろくがつおつとり大風おおかぜ拔木。おのれうし,薛延陀遣使求婚きゅうこん乙未おとみ,滁州野蠶くわごなりまゆ,凡收はちせんさんひゃくせき

はちがつ庚午こうご新作しんさくじょうじょうみや癸巳きし,交河どう行軍こうぐんだいそうかんこうくんしゅう平高ひらたかあきら,以其おけ西にししゅう

きゅうがつみずのときょく赦西しゅうだい闢罪。おつ,於西しゅうおけ安西あんざいまもる

ふゆじゅうがつおのれみことのり以贈そら河間こうまもとおうたかしきょうおく東道とうどうだいぎょうだい尚書しょうしょみぎぼくしゃ、鄖節こういん開山かいさんおくみん尚書しょうしょ、渝襄こうりゅうまさしかいとうはいきょうだか祖廟そびょうにわ

閏月じゅんげつ乙未おとみさいわいどうしゅうかぶとたつかり於堯やまかのえいぬいたりどうしゅうへいたつ,吐蕃使つかいけんじ黃金おうごんせんきん求婚きゅうこん

十一月じゅういちがつ甲子きのえねついたち日南にちなんいたり有事ゆうじ於圓おか

十二月じゅうにがつひのととり,交河どう旋師。吏部尚書しょうしょひねこくおおやけこうくんしゅうこうあきらおう麴智もりけんじとし於觀いさお殿どのぎょういんいたりれいたまものさんにちおつ高麗こうらい世子せいししょうけん來朝らいちょう

さだかんじゅうねん[编辑]

じゅうねんはる正月しょうがつちょうしげる,吐蕃其國しょう祿ろくひがしさんぎゃくおんなちょううしれい尚書しょうしょ江夏えなつ王道おうどうむねおく文成ふみなり公主こうしゅ吐蕃。からしこう洛陽らくようみや

さんがつつちのえさるさいわいじょうじょうみや庚午こうごはつじょうじょうみや

なつよんがつからしみことのり以來いらいねんがつ有事ゆうじ泰山たいざん所司しょししょうていせい

五月ごがつみずのえさるなみしゅうそうどう及老じんとうこうひょう,以太げんおうぎょうしょいん明年みょうねんとうふうやめねがい臨幸りんこううえ於武しげる殿どのたまものえんいん從容しょうよういい侍臣じしん曰:「ちんしょうざいふとしはら群聚ぐんしゅうはくおどけあつ往寒逝,はたさんじゅうねん矣。」かい中有ちゅうう舊識きゅうしきうえしゃそうあずかみちきゅう以為わらいらくよしいい曰:』他人たにんげんあるゆうめん諛。おおやけとうちん故人こじんじつ以告ちん即日そくじつ政教せいきょう,於百姓ひゃくしょうなん如?人間にんげんとくやまし耶?」みなそう:「即日そくじつ四海しかい太平たへい百姓ひゃくしょう歡樂かんらく陛下へいか力也りきやしんとうねんにちいちにちただし眷戀ひじり不知ふちやまし。」いんかた請過なみしゅううえいい曰:「飛鳥あすか故鄉こきょうなお躑躅つつじ徘徊はいかいきょうちん於太げんおこりよしとげてい天下てんかふくしょうしょうゆうかんまことしょ忘。岱禮わか畢,ある冀與おおやけとうしょう。」於是賜物たまものかくゆうへい,百濟王扶餘璋卒。みことのりりつ世子せいし扶餘慈嗣其父,仍封ためたいかたぐんおう

ろくがつつちのえさるみことのり天下でんかもろしゅう,舉學綜古今ここん及孝悌淳あつし文章ぶんしょうしゅうことしゃなみ以來いらいねんがつそうしゅう泰山たいざんおのれとりゆうほし孛於ふとほろはんろうへいたつとまふう泰山たいざん,避正殿どの以思とがめいのちしょくげんぜん

あきなながつかぶといぬ,孛星めつ

ふゆじゅうがつからしだい閱於闕。みずのえたつさいわいたかしからしうしかえみや

十一月じゅういちがつみずのえいぬはいきょうちょうみずのえさるかえ京師けいしみずのととり,薛延陀以どうぼくこつかい紇、靺鞨、霫之眾度ばくたむろ於白道川みちかわいのち營州とくちょう儉統所部ところぶへいあつ其東さかい兵部ひょうぶ尚書しょうしょ勣為ついたちかた行軍こうぐんそうかんみぎまもる大將軍だいしょうぐんだいあきらためれいしゅう道行みちゆきぐんそうかんりょう州都しゅうととくかさねほまれためりょうしゅう道行みちゆきぐんそうかんふんどう以御

十二月じゅうにがつ戊子ぼしついたちいたり洛陽らくようみやかぶとたつ勣及薛延陀戰於諾真水まみず大破たいは斬首ざんしゅさんせんきゅうまんせんひき,薛延陀跳而遁。勣旋破突厥おもえゆいだいけんとりこ男女だんじょせんくちひつじしょう

さだかんじゅうろくねん[编辑]

じゅうろくねんはる正月しょうがつからしみことのり在京ざいきょう及諸しゅう死罪しざい囚徒しゅうとはい西にししゅうため流人るにんひつじたちまえしょしゃ,徙防西にししゅうけん中書ちゅうしょさむらいろうこう陵子りょうこ岑文ほんため中書ちゅうしょさむらいろうせん機密きみつ

なつろくがつからしみことのりふくかくれおうたてしげる曰隱太子たいしあらためふううみりょう剌王元吉もとよし曰巢剌主。

あきなながつつちのえうまつかさそらちょうこくおおやけため尚書しょうしょひだりぼくしゃはりこくおおやけげんよわいためそら

きゅうがつちょう特進とくしんていこくおおやけちょうため太子たいしふとし門下もんかしょうごと如故。

ふゆじゅういちがつへいたつかり於岐やまからしとり使つかいさいずいぶんみかどりょうちょうしげるうたげ武功ぶこうおんな於慶ぜん宮南みやみなみもんさけたけなわうえあずか父老ふろうとう涕泣ていきゅうろんきゅうこと老人ろうじんとう遞起ためまいそうじょうまんさいことぶきうえかくつきいちはい庚午こうごいたり岐州。

十二月じゅうにがつみずのとこう溫湯ぬるゆかぶとたつかり於驪やまかげかん晦冥かいめいかこえへい斷絕だんぜつ上乘じょうじょうだか望見ぼうけんよくしゃ其罰,おそれ虧軍れい,乃回くつわ入谷いりたに以避これさい高麗こうらい大臣だいじんぶたぶん弒其くんだかたけ而立じりつたけ兄子せこぞうためおう

さだかんじゅうななねん[编辑]

じゅうななねんはる正月しょうがつつちのえたつみぎまもる將軍しょうぐんだい州都しゅうととくりゅうらん謀反むほんこし太子たいしふとしていこくおおやけちょう薨。つちのえさるみことのり圖畫ずがちょうこくおおやけとう勛臣じゅうよんにん於凌けむりかく

さんがつへいたつひとし州都しゅうととくひとしおうゆうころせちょうけんまんてんぐん韋文よりどころひとししゅうもりみことのり兵部ひょうぶ尚書しょうしょ勣、刑部おさかべ尚書しょうしょりゅういさおはつへい討之。へいいたり兵曹へいそうもりぎょうさとこれ而降,とげたまもの於內さむらいしょうちょう,熒惑もりこころぜんほしじゅうきゅうにち而退。

なつよんがつかのえたつついたち皇太子こうたいし有罪ゆうざいはいため庶人。かんおうもとあきら、吏部尚書しょうしょこうくんしゅうなみすわあずかれんはかりごとふく誅。へいいぬたてすすむおうおさむため皇太子こうたいし大赦たいしゃたまものさんにちちょう中書ちゅうしょれい楊師どうため吏部尚書しょうしょおのれうしちょうこくおおやけちょうまご太子たいしふとしつかさそらはりこく公房こうぼうげんよわい太子たいしふとしでん特進とくしんそうこくおおやけしょう太子たいしふとしたもて兵部ひょうぶ尚書しょうしょ英國えいこくこう勣為太子たいし詹事,仍同中書ちゅうしょ門下もんかさんひんかのえとらうえおや謁太びょう,以謝うけたまわいぬい癸巳きしおうやすし以罪くだ爵為ひがし萊郡おう

五月ごがつおつうしみことのり舉孝れんしげざいのう

六月ろくがつおのれついたちにちゆう蝕之。みずのえうま改葬かいそうずいきょうみかどちょうとり尚書しょうしょみぎぼくしゃ高士こうしれん致仕ちしみことのり以為開府かいふどうさんつかさどう中書ちゅうしょ門下もんかさんひん

閏月じゅんげつつちのえうま,薛延陀遣其兄子せこ突利しつらえけんじまんひきうし駝一まんひつじじゅうまん以請こんもとへい,徙封ひがし萊郡おうやすしためじゅんおう

あきなながつかのえたつきょうじょうなまりげんうん:「うえ棖棖取じん心肝しんかん,以祠天狗てんぐ。」遞相おどろき悚。うえ使つかいあまねせんさとし月餘げつよ乃止。ちょうとりつかさそら太子たいしふとしでんはりこく公房こうぼうげんよわい以母ゆう罷職ひしょく

はちがつこう尚書しょうしょ、鄖國こうちょうあきらため刑部おさかべ尚書しょうしょさんあずか朝政ちょうせい

きゅうがつみずのと,徙庶じんうけたまわいぬい於黔しゅう

ふゆじゅうがつちょうぼうげんよわいおこりふく本職ほんしょく

十一月じゅういちがつおのれ有事ゆうじ南郊なんこうみずのえうまたまもの天下でんかさんにち。以涼しゅうみずせききょく赦涼しゅうなみろくきょうじょう及諸しゅうけいしゅう所原ところはらなだめ

さだかんじゅうはちねん[编辑]

じゅうはちねんはる正月しょうがつみずのえとらこう溫湯ぬるゆ

なつよんがつからしこうきゅう成宮なるみや

あきはちがつ甲子きのえねいたりきゅう成宮なるみやちょうしげるつねさむらいきよしえんおとこりゅう洎為さむらいちゅう中書ちゅうしょさむらいろうこう陵子りょうこ岑文ほん中書ちゅうしょさむらいろうしゅうなみため中書ちゅうしょれい

きゅうがつ黃門こうもんさむらいろう褚遂りょうさんあずか朝政ちょうせい

ふゆじゅうがつからしうしついたちにちゆう蝕之。かぶとたつはつおけ太子たいしろう官員かんいんきのえとらこう洛陽らくようみや安西あんざいまもるかくたかしつとむそちめつ焉耆,其王突騎ささえおく行在所あんざいしょ

十一月じゅういちがつみずのえとらくるまいたり洛陽らくようみやかのえいのち太子たいし詹事、英國えいこくこう勣為遼東りゃおとんどう行軍こうぐんそうかん柳城やなしろれい尚書しょうしょ江夏えなつぐん王道おうどうそうふくこれ刑部おさかべ尚書しょうしょ、鄖國こうちょうあきらため平壤ぴょんやんどう行軍こうぐんそうかん,以舟萊州,ひだりりょうぐんつねなに、瀘州とくひだりなんとうふくこれはつ天下でんかかぶと召募しょうぼじゅうまんなみおもむき平壤ぴょんやん,以伐だかうらら

十二月じゅうにがつからしうし,庶人うけたまわ乾死ひじに

さだかんじゅうきゅうねん[编辑]

じゅうきゅうねんはるがつかのえいぬうえおやすべろくぐんはつ洛陽らくようおつみことのり皇太子こうたいしとめじょうしゅうかんこく開府かいふどうさんつかささるこくおおやけ高士こうしれん太子たいしふとしでんあずかさむらいちゅうりゅう洎、中書ちゅうしょれいうまあまね太子たいししょう詹事ちょうこうなり太子たいしみぎ庶子しょしだか輔五人同掌機務;以吏尚書しょうしょ安德あんとくぐんおおやけ楊師どうため中書ちゅうしょれいおくいんためたい,謚曰ちゅうれついのち所司しょしふう,葺祠どう春秋しゅんじゅうほこら以少ろううえためぶん以祭

さんがつみずのえたつうえはつじょうしゅう,以司太子たいしふとしけん檢校けんぎょうさむらいちゅうちょうこくおおやけちょうまご中書ちゅうしょれい岑文ほん、楊師どうしたがえ

なつよんがつみずのとちかい於幽しゅう城南しろみなみいんだいきょうろくぐん以遣丁未ていみ中書ちゅうしょれい岑文ほんそつ於師。みずのと遼東りゃおとんどう行軍こうぐんだいそうかん英國えいこくこう勣攻ぶた牟城,やぶこれ

五月ごがつひのとうしくるまわたりりょうかぶとさるうえおやりつ鐵騎てっきあずか勣會かこえ遼東りゃおとんじょういん烈風れっぷう發火はっかいしゆみ,斯須じょう上屋うわや及樓みなつき,麾戰れいとう,乃拔

ろくがつへいたついたりやす市城いちしろちょう高麗こうらいべつはたこう延壽えんじゅこうめぐみそちへいじゅうまん來援らいえんやす,以拒王師おうし勣率へい奮擊,うえ高峰こうほう引軍臨之,高麗こうらいだいつぶせころせ不可ふか勝紀かつのり延壽えんじゅとう以其眾降,いん名所めいしょさいわいさんためちゅう蹕山,こくせききのいさお焉。たまもの天下でんかだいにち

あきなながつ勣進ぐんおさむやす市城いちしろいたりきゅうがつかつ,乃班

ふゆじゅうがつへいたつにゅう臨渝せき皇太子こうたいしじょうしゅうむかえ謁。つちのえうまかんたけだいこくせき以紀功德くどく

十一月じゅういちがつつらこうかそけしゅうみずのととり大饗おわいかえ

十二月じゅうにがつつちのえさるこうなみしゅうさむらいちゅうきよしえんおとこりゅう洎以ざいたまものこれさい,薛延陀真珠しんじゅ毗伽あせ

さだかんじゅうねん[编辑]

じゅうねんはる正月しょうがつうえざいなみしゅうちょううしだいきょうまごふくとぎ黃門こうもんさむらいろう褚遂りょうとうじゅうにん,以ろくじょう巡察じゅんさつ四方しほう,黜陟官吏かんりかのえたつきょく赦並しゅううたげしたがえかん及起義元よしもとしたがえたまものあわ帛、きゅうふくゆう

三月さんがつおのれくるまいたり京師けいしおのれうし刑部おさかべ尚書しょうしょていこくおおやけちょうあきら謀反むほん,誅。

閏月じゅんげつ癸巳きしついたちにちゆう蝕之。

なつよんがつ甲子きのえね太子たいしふとしちょうこくおおやけちょうまご太子たいしふとしでんはりこく公房こうぼうげんよわい太子たいしふとしたもてそうこくおおやけしょう瑀各調ちょうまもるこれしょくみことのりもと

ろくがつ兵部ひょうぶ尚書しょうしょかたあんこうちぇあつしれい特進とくしん英國えいこくこう擊破げきは薛延陀於うつとくぐん山北さんぽく前後ぜんご斬首ざんしゅせんきゅうとりこ男女だんじょさんまん餘人よにん

あきはちがつ甲子きのえねふう皇孫こうそんためひねおうおのれこうれいしゅう庚午こうご涇陽とみてつ勒回紇、拔野いにしえどうぼくこつ濫葛、おもえゆいおもね跌、ちぎり苾、跌結、渾、斛薛とうじゅう一姓各遣使朝貢,そうしょう:「のべ陀可あせ事大じだいこく部落ぶらくがらす不知ふちしょ奴等やつらかくゆう分地ぶんち不能ふのう逐延陀去,歸命きみょう天子てんし,乞置かんかん。」みことのりかいれいしゅう

きゅうがつかぶとたつてつ勒諸部落ぶらく俟斤、頡利はつとう使つかいしょうつぎ而至れいしゅうしゃすうせんにん來貢らいこうかたぶついん請置吏,咸請至尊しそんためあせ。於是北荒きたあら悉平,ため五言詩勒石以序其事。からしれいしゅう地震じしんゆうごえ

ふゆじゅうがつぜん太子たいしふとしたもてそうこくおおやけしょう瑀貶しょうしゅう刺史ししへいいぬいたりれいしゅう

さだかんじゅういちねん[编辑]

じゅういちねんはる正月しょうがつみずのえたつ開府かいふどうさんつかささるこくおおやけ高士こうしれん薨。ちょうとりみことのり以來いらいねんがつ有事ゆうじ泰山たいざんきのえとらたまもの京師けいしさんにち

がつみずのえさるみことのり以左おかあきらぼくなつおおやけひつじだかこくはりあかふくしょう高堂こうどうせい、戴聖、もう萇、あな安國やすくにりゅうむかいてい眾、もりはるうまとおるしょくてい康成やすなりふくまきなにきゅうおう肅、おう輔嗣、もりもと凱、はんやすしとうじゅういちにん代用だいよう其書,たれ於國胄,自今じこん有事ゆうじ於太がくなみいのちはいとおるせんあま廟堂びょうどうちょううし皇太子こうたいし於國がくしゃくさい

なつよんがつおつうし,營太和宮かずのみや於終みなみうえあらためためみどりほろみや

五月さつき戊子ぼしさいわいみどりほろみや

ろくがつみずのとつかさちょうこくおおやけ授揚州都しゅうととく

あきなながつかのえ建玉たてぎょくはなみや於宜くんけん鳳凰ほうおうこくかのえいぬいたりみどりほろみや

はちがつみずのえいぬみことのり以河きた大水おおみずとまふうぜんからしほねみきこく使つかいみつぎ名馬めいばちょうとりふう皇子おうじあかりため曹王。

ふゆじゅういちがつみずのと,徙封じゅんおうやすしため濮王。

十二月じゅうにがつつちのえとらひだり驍衛大將軍だいしょうぐんおもねしゃしかみぎ驍衛大將軍だいしょうぐんちぎり苾何りょく安西あんざいまもるかくたかしつとむつかさみのりきょう楊弘れいため琯山どう行軍こうぐんだいそうかん,以伐かめ茲。これさい,墮婆とうおつはなりんおく播、ひつじどういしなみ斯、かんこく、吐火おもね悉吉とうどおえびすじゅうきゅうこくなみ使つかい朝貢ちょうこうまた於突厥之きたいたり於回紇部落ぶらくおけえきろくじゅうろくしょ,以通北荒きたあら焉。

さだかんじゅうねん[编辑]

じゅうねんはる正月しょうがつかのえとら中書ちゅうしょれいしゅうそつつかさちょうこくおおやけけん檢校けんぎょう中書ちゅうしょれい尚書しょうしょ門下もんかしょうごとやめ刑部おさかべさむらいろうちぇひとしため中書ちゅうしょさむらいろうまいりつとむつちのえいぬこう溫湯ぬるゆつちのえさるかえみや

がつぜん黃門こうもんさむらいろう褚遂りょうおこりふく黃門こうもんさむらいろう中書ちゅうしょさむらいろうちぇひとし除名じょめいはい流連りゅうれんしゅうみずのとうし西番にしのばんすな缽羅まもるりつ眾歸,以其俟斤こごめ裴祿ため忠武ただたけ將軍しょうぐんけんだい俟斤。つちのえうま,以結こつおけけんこんみやことくおつさいわいたまはなみやおつたまものしょけい高年こうねんあつやましあわ帛有おのれ,蒐於華原かはら

よんがつきのえとら,磧外蕃人ばんじんそうまき馬出うまだしかいうえ親臨しんりんだんけつしかこう咸服。ちょうみぎたけこう將軍しょうぐんりょうけんかたげきまつがい蠻,しも部落ぶらくななじゅうしょ

五月ごがつかのえみぎまもるりつちょうおうげんさくげきみかどふく帝國ていこく大破たいは其王おもねじゅん及王とうとりこ男女だんじょまんせんにん牛馬ぎゅうばまんあまり以詣闕。使つかいかた娑婆しゃば於金飆門づくりのべねんくすり。吐蕃さん擊破げきはちゅう天竺てんじくこく使つかいけんじとし

ろくがつみずのととり特進とくしんそうこくおおやけしょう瑀薨。

あきなながつみずのとつかさそらはりこく公房こうぼうげんよわい薨。

はちがつおのれとりついたちにちゆう蝕之。

九月くがつおのれ黃門こうもんさむらいろう褚遂ため中書ちゅうしょれい

じゅうがつみずのといたりたまはなみや

十一月じゅういちがつつちのえいぬまゆ、邛、みやびさんしゅう獠反,みぎまもる將軍しょうぐんりょうけんかた討平かのえちぎりそちくつ哥、奚帥しゃなみりつ其部內屬。以契ためまつばくとく,以奚おけにょうらくとく

十二月じゅうにがつおつ增置ぞうち殿中でんちゅうさむらいかん察御かくいんだいてらおけひらことじゅういん

閏月じゅんげつひのとうしついたちこん山道さんどうそうかんおもねしゃしかくだしょみつしょがつやぶかめ茲大ばちとうじゅうしろとりこすうまんくちかめ茲王訶黎ぬのしつ畢以かめ茲平,西域せいいき震駭しんがい副將ふくしょう薛萬徹脅於闐王伏闍信入朝。みずのとしんおう其相さん千金春秋及其子文王來朝。これさいしん女王じょおうきん善德ぜんとく冊立さくりつ其妹とくためしんおう

さだかんじゅうさんねん[编辑]

じゅうさんねんはる正月しょうがつからし,俘龜茲王訶黎ぬのしつ畢及其相とうけんじ於社びょう

がつへいいぬおけよういけとく,隸安西都さいとまもるちょう西にし突厥肆葉まもるあせ使つかい來朝らいちょう

さんがつへいたつおけゆたか州都しゅうととくふゆあめいたり於此がつおのれ乃雨。からしとり大赦たいしゃちょうしげる,敕皇太子たいし於金えきもん聽政。これがつ日赤にっせきひかり

よんがつおのれさいわいみどりほろみや

五月ごがつつちのえうま太子たいし詹事、英國えいこくこう勣為たたみ州都しゅうととくからしとり開府かいふどうさんつかさまもるこくおおやけやすし薨。おのれうえくずし於含ふう殿どのねんじゅうのこみことのり皇太子こうたいし即位そくい於柩まえむべもちいかんせい不發ふはつ庚午こうごきゅうしょうすべ勁兵したがえ皇太子こうたいしさきかえきょうはつろくかぶとよんせんにん分列ぶんれつ於道及安もんつばさしたがえ乃入;だいぎょう御馬おんま輿こししたがえかんさむらい如常。みずのえさるはつ

ろくがつかぶといぬついたち,殯於太極たいきょく殿どの

はちがつへい,百僚上謚曰文皇帝,びょうごうふとしむねかのえとらそうあきらりょううえもと元年がんねんはちがつあらためじょう尊號そんごう曰文たけきよし皇帝こうてい天寶てんぽうじゅうさんがつあらためじょう尊號そんごうため文武ぶんぶ大聖たいせい大廣おおひろこう皇帝こうてい

ひょう[编辑]

ふみしん曰:しんかんぶん皇帝こうていはつあと聰明そうめい神武じんむ。拔人物じんぶつそくわたし於黨,こころざしぎょうそく咸盡其才。所以ゆえんこごめ突、じょうおそゆかり仇敵きゅうてき而願かたぶけこころ膂;しゅうりゅう洎,疏遠而卒ひとし衡。おわりたいらやすしかいりょうよし斯道しどう。嘗試ろんいしずえじゅんくもきょうむし螽躍。雖堯、しゅんきよし不能ふのうよう檮杌、きゅう而治ひらりょけん不能ふのうためなつ桀、いんからし而昌もり君臣くんしんさい遭遇そうぐう斯難,以至こじ剖心,むしりゅうすじ擢,りょうよし遭值也。以房、さとし逾於おか、軻,とげのうみことぬしひさしみんしゃ,遭時也。ある曰:以太宗之むねゆきけんしつあい於昆おとうとしつきょう於諸なに也?曰:しかしゅん不能ふのうじんよんざい,堯不能ふのうくん硃,斯前こころざし也。とうかみ堯任讒之ねんたてしげるこうにち,茍除かしこ逼,孰顧ぶんくずれへんこれきょうあいだようはつぽう懼「毀巢」これやすしおそれしゃくぬのうたいうけたまわいぬいせいちち不能ふのううつり也。わかぶんすめらぎじょうもうか於哲嗣,騁志於高うらら用人ようにん如貞かんはつおさめ諫比

ちょうきょうしゅうはつしゅう成之しげゆき世襲せしゅうわがゆうのこ妍;較漢文かんぶんかん武之たけゆき恢弘,かれ慚德。あと其聽だん不惑ふわくしたがえぜん如流,千載せんざいたたえ一人ひとり而已!

さん曰:あきらはつけいこく一門いちもんさんひじりぶんてい高位こういとも於不れいかん、蔡既誅,なりかん道正みちまささだかんふういたこんうたえい