hideのドキュメンタリー映画『hide 50th anniversary FILM JUNK STORY』の公開が始まった。未見なのでその内容には触れないが、hideが逝ってもう17年も経ったかと思うとやはり感慨深いし、彼と付き合った濃密な10年間の記憶も蘇る。
少しは(苦笑)。
備忘録とは<忘れるのに備える記録>であり、要は記憶すべき事柄を簡単にメモするための個人的な雑記帳、を指す。とある別仕事の準備で現在、過去に書いた膨大な原稿や備忘録を読み直しているのだけれど、私の場合、備忘録に記す前に喪失しちゃってる記憶が尋常ではない。当時の私は致死量をはるかに超えるインタヴュー原稿を抱えた上に、リアル『酒呑み日記』の日々だったから、まったくもって残念な脳細胞なのだ。
思えばhideと私の共通語は「ロック」と「酒」だけという、男の子そのものの付き合いだっただけに、馬鹿馬鹿しい呑んだくれエピソードは忘れるほど沢山ある。機会があれば紹介するが、今回はなぜ私がhideを大好きだったのかを想い出してみた。
そういえばhideを語る際、生前(←このい方、嫌だ)も現在も変わらず私は<「なんじゃこりゃあ!?」魂>というフレーズを、必ず多用する。だって彼のロック観そのものだから、だ。文句あるか。
もう一気に想い出すぞ、俺は――。
小学生時代のhideが、大好きな玩具のミクロマンをさしおいて、初めて買ってもらった「稼働も発進も合体もしねえ、ペラペラの紙1枚とビニール盤しか入ってないシングル」は、『ビューティフル・サンデー』だった。しかもよりにもよって、<本家>ダニエル・ブーンでも<あからさま>な田中星児でもない、「間違って買って凄え嫌な想いをした(苦笑)」トランザムのヴァージョンを、わざわざ買うか?
ちなみに歌謡曲ではやはり、当時の小学生の常・フィンガー5にハマったという。
「LP全曲唄えるのよ(嬉笑)。あの頃の歌謡曲ってさ、向こうの曲を勝手に日本語詞にして唄ってるのがLPに入ってるじゃない? だから俺、未だにモンキーズ聴いてもフィンガー5の曲だと思って日本語で唄っちゃうの。恰好悪ぃぃぃぃぃ(泣笑)」
中学校に入る頃には富田勲など、時代はシンセサイザーというものの存在自体が流行りかけていた。皆から<博士>と呼ばれ、後に本当に博士となり特許を獲りまくった、hideの当時の友だちは、シンセまで既に自作していたらしい。学研の回し者か。
そしてその<博士>は塚本信也の『鉄男』みたいな部屋に住んでおり、そんな「機械の中にいるようなシチュエーション」を恰好いいと思ったhideを含む同級生たちは、こぞって大型ゴミ収集日にブラウン管やガラクタの争奪戦を繰り返したのだった。
「<博士>はちゃんとした必然性があって機械を置いてるわけだけど、俺も含めた周りの奴は単に憧れただけだから、部屋中ガラクタだらけにしてるだけ――だからすぐ片付けられちゃうの、親に。くくくく」
そんなhide少年がロックに目醒めたのは中学2年、KISSのライヴ盤『アライヴII』だった。友だちに録音してもらったカセットで曲だけずーっと聴き続け、初めてジャケを見せてもらったら「なんじゃこりゃあ!?」。血を吐くジーン・シモンズの写真は「怖くて見れんかった(至福笑)」という。
すっかりKISSの虜になったhide少年は、横須賀からはるばる東京・御茶ノ水まで遠征して古本屋や《ロック座》で『ML』『ロックショウ』のBNや洋書を買い漁ると共に、「電車の乗り方もその時初めて知った」そうだ。
にもかかわらず1978年春のKISS再来日公演を観ることは叶わなかった。理由は例の、ジーン&ポール・スタンレーの<ヤっちゃった子のアソコ写真コレクション>癖だった。
「ウチ美容室だから女性週刊誌沢山置いてあって、親がそれ読んで『行っちゃいかん』と」
わはは。それでもhide少年はその後、「KISSの記事読みたくて買ってた音専誌の他の頁も見てるうちに、知らぬ間にレコードを借りたり買ったりFMのエアチェックをするように」なる。