『時をかける少女』の筒井康隆と、『ハレンチ学園』の永井豪が組んで1971年に送り出した絵本『三丁目が戦争です』が、初刊行当時の文と絵でスローガンから復刊された。この2人なら内容はちょっぴりエッチなドタバタコメディ? それともSFチックなヒーローもの? まったく違う。「戦争」という、人類の歴史と切り離せない現象を鋭く風刺したストーリーで、刊行から50年以上が経った今も強烈なメッセージを放ち続けている。
もしかしたら今、世界中が「三丁目」になっているのかもしれない。どういうことか? 物理的な現実の世界も、電子的な仮想の世界も含めてありとあらゆる場所で、『三丁目は戦争です』に描かれた「戦争」が起こっているか、起ころうとしているということだ。
『三丁目が戦争です』の舞台はタイトルにある三丁目。そこには団地があり住宅地もあって大勢の人たちが暮らしている。子どもたちも大勢いるが、その中にあって住宅地に暮らす月ちゃんという女の子は“ガキ大将”のような存在で、三丁目にある公園を住宅地の女の子たちと占拠し、団地の男の子たちを脅かして追い返していた。
団地の子どものシンスケは、月ちゃんの横暴を許せず、月ちゃんや仲間の女の子たちがいる公園に乗り込んでいく。お父さんから教わった、昔は男の方が女より強かったという話を月ちゃんにぶつけて主導権を取り戻そうとするが、今は違うといって月ちゃんはシンスケの顔をひっかき、血まみれにして追い返す。
そこから対立は「男の子対女の子」から「団地対住宅地」へと発展して、果てに血で血を洗う戦争という最悪の事態へと突入する。
子どものケンカが戦争にまで及ぶのはエスカレーションが過ぎるが、元からくすぶっていた火種がちょっとしたアクシデントで燃え上がり、争いに発展していくことは歴史の上でもたびたび起こっている。それを筒井康隆ならではの風刺的なストーリーで描いてみせたのが『三丁目が戦争です』という作品だ。テレビショーの中での疑似イベント的な対決が、本当の戦闘に発展した『48億の妄想』の着想を、子ども向けに使ったものだとも言える。
ここで気にしたいのが、三丁目が戦争にまで至った火種についてだ。ひとつには、経済力の高い人が低い人を見下す厄介な心理があって、絵本ではそれが団地と住宅地の激突をもたらした。格差がもたらす対立は今も水面下を漂っていて、そびえたつタワーマンションの住人が古くからの住人と対立するような話がときおり漏れ出てくる。
男の子と女の子の対立も、単純な二項対立を越えマイノリティも含んで多様化する中で複雑化している。誰が敵で誰が味方だと考えず、誰もがお互いを尊重し合えば済む話なのかもしれないが、パリ五輪でのボクシング競技で取り沙汰された性別をめぐる騒動が、さまざまな憶測を呼んで広がっていったことを見れば、簡単にはまとまらないと分かる。
住環境の違いや属性の差が戦争に直結するとは考えにくいが、「戦争というものは、もとはといえば、ほんとうにつまらない、ちっぽけなことがきっかけになって、おこってしまうのです」と書かれているように、ちょっとした対立がさらなる対立を呼んで行き着いた先に、戦争が待っていることを心に留めておく必要がある。
現実の世界なり、ネットの世界でくすぶっているあらゆる火種を、話し合い理解し合うことで消せれば最高だが、「おまけに、戦争がすきなひとがいて、こういうひとが、どうもこまりますね」とも書かれているように、人はなかなかひとつにまとまれない。結果、訪れる「三丁目」のような事態。こうなると、「もう、どうしようもないのです。みんながよろこぶようなおわりかたには、ぜったいになりません」。
だからこそ、『三丁目は戦争です』という絵本が存在する。家族も友だちも敵対していた人たちも関係なく被害者になる状況を描いた筒井康隆によるストーリーが、戦争の理不尽さをこれでもかと訴えかけてくる。読めば自分だけは絶対に火種を燃やさないようにしようと思えてくるだろう。