ティト・オーティズ物語ものがたり黄金おうごん時代じだいへん――べいスポーツかいのスターに

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競技きょうぎわくまいスポーツかいのスターにのぼりつめたオーティズ 【(C) 2012 Zuffa. LLC.】

 2000ねんがつ当時とうじのMMAを状況じょうきょういまとはちがっていた。ほとんど名前なまえられていなかった25さいのハンティントンビーチ出身しゅっしん若者わかものは、おなじく名前なまえられていなかったヴァンダレイ・シウバと対戦たいせんするために東京とうきょうへと旅立たびだった。このころ試合しあいまえのPRツアーはもちろん、FOXスポーツも、さらにESPNやYahooですら試合しあいげることはなかった。

 インターネットや一部いちぶ雑誌ざっしにはMMAに注目ちゅうもくするものもあったが、団体だんたい資金しきん不足ふそくくるしんでいた。しかし、そのようなことは、2000ねんがつ14にちおこなわれた試合しあいにはなん影響えいきょうおよぼさなかった。オーティズはシウバに3−0の判定はんてい勝利しょうり。オーティズは自身じしん最後さいごたおしたおとこ―フランク・シャムロック―が返上へんじょうしたベルトをにすることとなった。

相手あいてたおすことでファンをたのしませたい

 彗星すいせいのごとくあらわれたもとレスリング選手せんしゅがチャンピオンとなることで、MMAかい活性かっせいした。というのも、かれ才能さいのうめぐまれていただけでなく、その金髪きんぱつと“あくガキ”てきなパーソナリティが、コアなファンだけでなく、一般いっぱんのスポーツファンや、女性じょせい子供こどもにもアピールできるものだったからだ。人々ひとびと格闘技かくとうぎもファイターも大好だいすきだが、そのパーソナリティこそがもっともファンを魅了みりょうする要素ようそであるのは間違まちがいない。そして、モハメド・アリやハルク・ホーガンを崇拝すうはいするオーティズは、カリスマてきなパーソナリティをそなえていた。

「ファンをたのしませること重要じゅうようだとおもった」
 そうかれは2007ねんかたった。
「それがおれ仕事しごとだ。おれがUFCに参戦さんせんしたときから、UFCはエンターテインメントだった。もちろんファイトはファイトだが、そこにエンターテインメントもある。オクタゴンにはいるとき、おれ自分じぶんたましいのすべてをささげている。トレーニングに妥協だきょうはしないから、自分じぶんのやることには自信じしんっている。つねに100パーセントでたたかっているし、相手あいてたおすことでファンをたのしませたい。最前さいぜんせき観戦かんせんしてくれているひとも、テレビでペイ・パー・ビューを購入こうにゅうして観戦かんせんしてくれているひと関係かんけいなくね。ティト・オーティズの試合しあいはいつでも素晴すばらしいとかんじてもらえればいいな」

 オーティズは近藤こんどうゆうおのれ相手あいてはつ防衛ぼうえいせん成功せいこうさせた2000ねん12がつ以降いこう、のちにライトヘビーきゅう名前なまえわる205ポンドきゅうのトップに君臨くんりんつづけた。しかしそれには様々さまざま側面そくめんからのたすけがあり、2001ねんにUFCを買収ばいしゅうしたZuffaの協力きょうりょくかせなかった。そしてオーティズのキャリアに一番いちばん影響えいきょうおよぼしたのは、オーティズのもとマネジャーであり、UFCの陣頭じんとう指揮しきをとったデイナ・ホワイトだった。

“マネジャー”デイナ・ホワイトとの出会であ

 デイナはオーティズについて2002ねんのインタビューでこうこたえている。「かれたたかうときはそこにすべてを集中しゅうちゅうさせ、本当ほんとうのファイターになる。しかしオクタゴンのそとでは面白おもしろく、ファンをたのしませる青年せいねんだよ。ティトにはひろ人々ひとびとれられる人望じんぼうがある」

 ティトは本当ほんとうにそんな人望じんぼうあつ人物じんぶつであったし、初期しょきのUFCをおもこすとき、その名前なまえかならあたまかぶ存在そんざいとなった。試合しあいまえのトラッシュトークや、試合しあいちゅうのグラウンド&パウンド、そして試合しあい着用ちゃくようする対戦たいせん相手あいてたいするメッセージがかれたてぃーシャツからも、かれ人柄ひとがられる。そして、エヴァン・タナー、エルヴィス・シノシック、そしてウラジミール・マティシェンコにたいする3連勝れんしょうて、UFC最大さいだいのスターとなった。

かれ本当ほんとうによくやってくれた」とデイナはかたった。「タナーとの試合しあいかれにとって一番いちばんのプレッシャーだったとおもう。あの試合しあい当時とうじとしては最大さいだいとなる5000にんもの大観たいかんしゅなかおこなった。そして、マンダレイ・ベイでの「UFC33」もすごいプレッシャーだったはずだ」

 しかし、そのふたつよりもおおきいプレッシャーが、もなくかれおそかろうとしていた。かれにとって最大さいだいのプレッシャーは、UFCのパイオニアである、ケン・シャムロックとの対戦たいせんであり、オーティズにとっては、当時とうじのMMA史上しじょう最大さいだいとなる大観たいかんしゅまえで、スポットライトをびる機会きかいとなった。

MMA史上しじょう最大さいだいとなる大観たいかんしゅまえでのだい一番いちばん

ケン・シャムロックせん当時とうじラスベガスの一番いちばん観客かんきゃく動員どういんすう記録きろく 【スポーツナビ】

 新旧しんきゅうのスターがしのぎをけずったこのいちせんは、オーティズにとってかれ状況じょうきょうえた試合しあいになった。ぼくにとってオーティズの一番いちばん記憶きおくのこっている姿すがたは、ホテルの宴会えんかいじょう使つかって、コーチのドン・ハウスを相手あいてに、ミットちとコンディショニング・ドリルでみずからをんでいる姿すがただ。BB・キングがかつてったように、かれはそのとき、『ボスになるための代償だいしょう』をはらっていたのだ。そしてシャムロックを3ラウンドTKOでくだし、2002ねん11がつ22にちかれ本当ほんとうにボスとなった。

みな僅差きんさ試合しあいになると予想よそうしていたし、ケンはタフだったしつよかった」そう2003ねんオーティズはかたった。「ただ、おれがこの試合しあいけてどれだけ努力どりょくして成長せいちょうしたか、ケンを評価ひょうかしていたひとたちはらなかっただろう。そして「UFC40」をたとき、人々ひとびとはMMAのあらたな側面そくめん目撃もくげきした。
 試合しあいみなが『シャムロックを圧倒あっとうしていたな』とってくれた。チャンプになりたいなら、それを必要ひつようがある。あのよる、ケンには王者おうじゃになる資格しかくはなかった。おれかれ以上いじょう努力どりょくしたからな」

 ティト・オーティズは世界一せかいいちだった。かれはライトヘビーきゅう王者おうじゃで、MMAのかおだった。そしてかれは、競技きょうぎわくえて、スポーツかい全体ぜんたいのスターとなったはじめての選手せんしゅだった。しかし、王国おうこく崩壊ほうかいするときせまっていた。ランディ・クートゥアと、チャック・リデルが虎視眈々こしたんたんかれのベルトをねらっていた。

Text by Thomas Gerbasi
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