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晉書/卷099 - 维基文库,自由的图书馆 とべ转到内容ないよう

すすむしょ/まき099

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 まききゅうじゅうはち 列傳れつでんだいろくじゅうはち すすむしょ
まききゅうじゅうきゅう 列傳れつでんだいろくじゅうきゅう
まきいちひゃく 列傳れつでんだいななじゅう 

桓玄 卞範 いんなかぶん

桓玄

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  桓玄,敬道よしみちいちめい靈寶れいほうだい司馬しばあつし孽子也。其母嘗與同輩どうはいよるすわ,於月下見したみ流星りゅうせい墜銅ぼん水中すいちゅうゆるがせすんたま,冏然あきらきよしきおい以瓢せっうまとく而吞わかゆうかんとげゆう娠。及生げんゆう光照みつてるしつうらないしゃ小名しょうみょう靈寶れいほう。妳媼ごとかかえまいぬる,輒易じん而後いたりくも其重兼常かねつねゆたか甚愛これ臨終りんじゅういのち以為嗣,襲爵しゅうしゃくみなみぐんこうとしななさい溫服おんぷくおわりしゅう文武ぶんぶ叔父おじおきおきなでげんあたま曰:「此汝吏也。」げんいん涕淚ているい覆面ふくめん,眾並これ。及長,形貌なりかたち瑰奇,風神ふうじん疏朗,ひろし藝術げいじゅつぜんぞくぶんつねまけ其才,以雄ごうしょ,眾咸憚朝廷ちょうていまたうたぐ而未ようとしじゅうさんはじめはい太子たいし洗馬せばいいぬるゆうしんあとおりげん兄弟きょうだい而為もとかん

  たいもとまつ義興よしおき太守たいしゅうつうつとくこころざし。嘗登だかもちふるえさわ,歎曰:「ちちため九州きゅうしゅうはくためちょう!」棄官歸國きこく元勳げんくんもん而負そし於世,乃上疏曰:

  しん聞周こう大聖たいせい四國しこく流言りゅうげんらくあつし王佐おうさ而被そしこう,《ちまたはくゆう豺獸慨,こうきょう飄風とげあくじきみにくせいなんだいこれさきしんこうむくに殊遇しゅぐう,姻婭すめらぎごくつねよく以身報德ほうとくとうたもとじょう西平にしだいらともえしょくきたきよしらく使つかい竊號寇系頸北闕,えんりょう修復しゅうふくだいはじゆきいん灞滻懸旌趙勤王きんのういさおいちとしふとし和之かずゆきまつすめらぎもとゆうせんうつり懼,とげ乃奉じゅん天人てんにんつばさのぼりきよしあさあきらはなれすんでろうよんきょうけんきよしこう使つかい此功けん,此事なり宗廟そうびょうことあに孰念!むかしふときのえ雖迷,しょう祚無あきら邑雖昏,へいさん孽。よし茲而ごとすすむしつ危于いんかんさきしんこうだか於伊霍矣。而負じゅう既往きおうこうむそしきよときせい明王みょうおう黜陟みち聞廢ゆるがせあらわあかりこうさがせ冥冥めいめいしんけいいやそしこれぬりひらきよこしま枉之しゃ也。さきしん勤王きんのう艱難かんなんろうただしふくかつ平之ひらのくん朝廷ちょうていわか其遺しんまたふくけい也。いたり先帝せんていりゅうきゅう陛下へいか所以ゆえんつぎ明南めいなんめん,請問だんしゃだれよしよこしまだれとくよこしまあにおもんみすすむしつ永安えいあん祖宗そそうしょく,于陛一門いちもんじつ奇功きこう也。

  ころ權門けんもんもりみにく政實まさみしげる,咸稱じゅつむね,互相おうぎ,以臣兄弟きょうだいみなすすむ罪人ざいにんしんとうふくなん以苟そんせいなにがお以屍きょうふう祿ろくわか陛下へいか忘先しんだいづくりこうしんかいにしき萋菲せつしんとうとう奉還ほうかんさんふう,受戮あさしかこうしたがえさきしんかえり先帝せんてい于玄みやみみわか陛下へいかじゅつ遵先むね追錄ついろくきゅうくん,竊望しょうたれ愷悌覆ぶたおん

  疏寢ほう

  げんざい荊楚積年せきねんゆうゆう無事ぶじ,荊州刺史ししいんなかこらえ甚敬はばかこれ。及中しょれいおう國寶こくほう用事ようじはかりごとそぎじゃくかた鎮,內外騷動そうどうおうきょうゆう憂國ゆうこくげんげんせん有意ゆうい于功ぎょう,乃說なかこらえ曰:「國寶こくほうあずかきみ諸人もろびともとやめためたいただ患相へいそくみみこんすんで執權しっけんようあずかおういとぐちしょうため表裏ひょうり,其所かいえき,罔不如志。こうはくもとしゅうとせいじょうため朝野ちょうやしょじゅう,必未便びんどうただとう以君為事しごとくびきみため先帝せんていしょ拔,ちょうかたにん人情にんじょう以為まこと,咸謂くん雖有おもえ致,かたはくじんわかはつみことのりただしくんため中書ちゅうしょれいよういん顗為荊州,くんなん以處?」なかこらえ曰:「ゆうひさ矣,きみいいけいしょう安出やすいで?」げん曰:「國寶こくほう奸凶,天下てんかしょこうはくやましあくじょうごといたり而當,今日きょうこれかい,以理推之,必當ひとくんわかみつ一人ひとりしんせつおうきょう宜興いいしんすすむ,以內ただし朝廷ちょうていおのれとう悉荊すわえ眾順りゅう而下,推王ため盟主めいしゅぼくとうまたみなとうたもととう此無かいおう。此事すんでぎょう,桓文舉也。」なかこらえうたぐ未決みけつにわか而王きょうしんいたり,招仲こらえ及玄匡正きょうせい朝廷ちょうてい國寶こくほうすんで,於是へいやめげん乃求ため廣州こうしゅうかい稽王道子みちこまたはばかこれよく使ざい荊楚,じゅん其意。

  りゅうやすしはつみことのり以玄とく交廣しゅうたてたけし將軍しょうぐんたいら越中えっちゅうろうはた廣州こうしゅう刺史ししかりふしげん受命じゅめいくだり。其年,おうきょうまたあずか庾楷おこりへい討江しゅう刺史ししおう愉及譙王尚之なおゆき兄弟きょうだいげんなかこらえいいきょうごと必克とし一時いちじかいおうなかこらえきゅうげんせんにんあずか楊佺俱為ぜんほこさきぐんいたり湓口,おう愉奔於臨がわげんへん將軍しょうぐんついこれげん、佺期いたり石頭いしあたまなかこらえいたりかぶらみずうみきょうはたりゅうろうそむけきょう歸順きじゅんきょうすんで,庾楷戰敗せんぱい,奔于げんぐんすんで而詔以玄ためしゅうなかこらえとうなかみなかわえき,乃各回かくかいぶね西にしかえたむろ于尋ともしょうゆいやく,推玄ため盟主めいしゅげんはじめとくこころざし,乃連めいじょう疏申おうきょうもとめ誅尚ろうひとし朝廷ちょうていふかはばかこれ,乃免桓脩、ふくなかこらえ以相和解わかい

  はつげんざい荊州ごうたて庶憚,甚於しゅうまきなかこらえしんとうすすむころせこれなかこらえ聽。及還ひろ其聲推為盟主めいしゅげん逾自矜重。佺期ためじんおご悍,つねいいうけたまわ藉華胄,こうおもて莫比,而玄ごと以寒さい,佺期甚憾,そくよく於壇しょかさねげんなかこらえあく佺期兄弟きょうだい虓勇,こわかつげんこうふくためおのれがいきん。於是かくたてまつみことのりかえ鎮。げんまた佺期ゆうはかりごとせんゆう吞併けい,於是たむろ于夏こう

  りゅう安中あんなかみことのりげんとく荊州よんぐん,以兄えらため輔國將軍しょうぐん南蠻なんばんこうじょうなかこらえおもんばかげん跋扈ばっことげあずか佺期結婚けっこんため援。はつげんすんであずかなかこらえ、佺期ゆうすきつねしん掩襲,もとめこう其所みつる朝廷ちょうていまたよくしげる其釁すきぶん佺斯しょとくよんぐんあずかげん,佺期甚忿懼。かい姚興おかせ洛陽らくよう,佺期乃建きばこえくも援洛,みつほしあずかなかこらえきょうかさねげんなかこらえ雖外ゆい佺期而疑其心,距而もとなおおもんばかどるのうきんふく從弟じゅうてい遹屯于北さかい以遏佺期。佺期すんで不能ふのうどく舉,且不測ふそくなかこらえ本意ほんいとげいきかぶと南蠻なんばんこうじょう楊廣,佺期あに也,よく距桓えらなかこらえ聽,乃出ひろためむべたて平二へいじぐん太守たいしゅせいとりこ將軍しょうぐん。佺期おとうとつとむけいさきため江夏えなつしょう玄以げんいへいかさね而召すんでいたり,以為はかさんぐんげん於是きょうぐん西にしせいまたこえくもすくいらくあずかなかこらえしょせつ佺期受國おん而棄山陵さんりょうむべともざいこんおやりつえびすたび,逕造きん墉,使つかいなかこらえおさむ楊廣,如其なんじ以相しんなかこらえほんけいよく兩全りょうぜん既得きとくげんしょ不能ふのうきん,乃曰:「きみ沔而ぎょうとくいちにん入江いりえ也。」げん乃止。

  こう荊州大水おおみずなかこらえ恤饑しゃくら廩空竭。げんじょう其虛而伐先遣せんけんぐんかさねともえりょうやなしゅう刺史ししかく銓當これしょ鎮,みちけいなつこうげんごえくもあさ廷遣銓為おのれぜんほこさき,乃授以江なつ眾,使つかいとくしょぐん並進へいしんみつほうあにえられいため內應。えら遑遽不知ふち所為しょい,乃自齎疏しめせなかこらえなかこらええらためしつれいあずかげんしょ甚苦いたりげん曰:「なかこらえためじんとく專決せんけつつねふところ成敗せいばいけいためさくおもんばかわがあに必無ゆう矣。」

  げんすんでいたりともえりょうなかこらえ眾距ためげんしょはいげんしんいたり楊口,またはいなかこらえおとうと子道しどうまもるじょうかちいたりれいくちこうりょうじゅうなかこらえぐんすうどう距之。佺期じょうらい赴,あずかあにこうきょうげきげんげん懼其するど,乃退ぐん馬頭めず。佺期ひとしかたふくついげん苦戰くせん,佺期はいはしかえじょうなかこらえ出奔しゅっぽん酂城,げん將軍しょうぐん馮該躡佺これこうためじんしょばくおくげんなみころせこれなかこらえ聞佺,乃將すうひゃくにん奔姚きょういたりかんむりぐんじょうため所得しょとくげんれいがい

  於是とげひら荊雍,乃表もとめりょうこう、荊しゅうみことのり以玄とく荊司雍秦はりえきやすしななしゅうこう將軍しょうぐん、荊州刺史ししかりふし,以桓おさむためしゅう刺史ししげんじょう疏固そうしゅう,於是しんとくはちしゅう及楊はちぐんふくりょうしゅう刺史ししげんまた輒以えらためかんむりぐん將軍しょうぐん、雍州刺史ししとき寇賊ひらめ朝廷ちょうていなんたがえ其意,もとげん於是じゅよう腹心ふくしん兵馬へいばもり,屢上疏求討孫おんみことのり輒不もと。其後おん京都きょうとげんけんきば聚眾,そとたく勤王きんのうじつよくかん釁而すすむふくじょう疏請討之。かいおんやめはしげんまたたてまつみことのりかいげん。以偉ためしゅう,鎮夏こう司馬しば刁暢ため輔國將軍しょうぐんとくはちぐん,鎮襄桓振、すめらぎはじめじき、馮該とう戍湓こううつり沮漳蠻せん於江みなみたてたけやすしぐんさら招集しょうしゅう流人るにんたて綏安ぐんまたおけしょこおりすすむみことのりせい廣州こうしゅう刺史しし刁逵、あきら太守たいしゅかくあきらげんみなとめいいさん分有ぶんゆうぜいうんしょ,屢上ただしさち以為おのれみず

  はつ。庾楷すんで奔于げんげんもとめ討孫おん也,以為みぎ將軍しょうぐんげんすんでかいげん,楷亦しょく。楷以げんかたあずか朝廷ちょうてい構怨,こわことかつわざわい及於おのれ,乃密ゆい于後將軍しょうぐんもとあらわもとため內應。もときょうはつもとあらわしょうみことのりげんげん從兄じゅうけい石生いしゅうためふとでんちょう密書みっしょほうげんげんほんいい揚土あげつち饑饉ききんまごおんほろび,必未遑討おのれとく蓄力やしなえ眾,かん釁而どうすんで聞元あらわはたこれ,甚懼,よくたもつこうりょうちょう卞范せつげん曰:「おおやけ英略えいりゃく名振なぶり於天もとあらわこうなお乳臭にゅうしゅうりゅうろうだいしつ物情ぶつじょうわかへい近畿きんきしめせ以威しょうのりくずしいきおい翹足而待,なに有延ありのぶてきにゅうさかい蹙弱しゃ乎!」げんだいえつ,乃留其兄えら守江もりえりょうこうひょうりつ眾,しもいたりひろうつりげききょう邑,罪狀ざいじょうもとあらわげきいたりもとあらわだい懼,下船げせん而不かつはつげんすんでしつ人情にんじょう,而興はんじゅんおもんばか不為ふためようつねゆうかい旆之けいすんでひろ王師おうし甚悅,其將吏亦。庾楷はかりごと泄,おさむ縶之。いたりしゅうと孰,使つかい其將馮該、苻宏、すめらぎはじめじきさくもととう先攻せんこう譙王尚之なおゆきなおこれはいりゅうろうけいせんまいげんくだ

  げんいたりしんちんもとあらわつぶせげん入京にゅうきょう,矯詔曰:「義旗ぎき雲集うんしゅうつみざいもとあらわふとしでんやめべつゆうきょう,其解げんいきかぶと,以副義心ぎしん。」また矯詔おのれそうひゃく揆,さむらいちゅうとく中外ちゅうがいしょ軍事ぐんじ丞相じょうしょうろく尚書しょうしょごとあげしゅうまぎりょうじょしゅう刺史ししまたかり鉞、はね鼓吹こすいはんけんじゅうにんおけ左右さゆうちょう司馬しば從事じゅうじちゅうろうよんにんきのえつえひゃくにん上殿かみどのげんひょうれつふとでん道子みちこ及元あらわあく,徙道于安なるぐんがいもとあらわ於市。於是げん入居にゅうきょふとでんがいふとでんちゅうろうもうやすしたいおとうとゆうげき將軍しょうぐん邃,ふとしでんさんぐん荀遜、ぜんしゅう刺史しし庾楷父子ふし、吏部ろう袁遵、譙王尚之なおゆきとうりゅう尚之なおゆきおとうと丹陽たんよういん恢之、こうすすむはくまこと、驃騎ちょうおう誕、ふとしでんあるじ簿遁等於交こうしょぐんひろついがい恢之、まこと於道。以兄えらため安西あんざい將軍しょうぐん、荊州刺史ししりょう南蠻なんばんこうじょう從兄じゅうけいけんためひだりぼくしゃちゅうぐん將軍しょうぐんりょうせんおさむためみぎ將軍しょうぐんじょしゅう刺史しし石生いしゅうためぜん將軍しょうぐんしゅう刺史ししちょうため卞範ためけん武將ぶしょうぐん丹陽たんよういんおう謐為中書ちゅうしょれいりょうぐん將軍しょうぐん大赦たいしゃ改元かいげんためだいとおるげんゆずる丞相じょうしょう自署じしょふとじょうりょうひら西にし將軍しょうぐんしゅう刺史ししまた袞冕ふくみどりいともど綬,ぞうはんけんためろくじゅうにんけんくつ上殿かみどの入朝にゅうちょう趨,さんそう

  げんはたきょしゅうと孰,おとずれ于眾,おう謐對曰:「《おおやけひつじゆうげんしゅうこうなん以不魯?よく天下でんかいち乎周也。ねがいせい根本こんぽん,以公だん為心いしん。」げんぜん其對而不能ふのうしたがえとげだい築城ちくじょうだいかん山池やまいけ莫不壯麗そうれい,乃出鎮焉。すんでいたりしゅうと孰,固辭こじろく尚書しょうしょごとみことのりもと,而大せいみなはか焉,小事しょうじそくけつ於桓けん、卞範

  わざわいなん屢構,干戈かんか戢,百姓ひゃくしょういやおもえ一統いっとう。及玄はついたり也,黜凡佞,擢俊けん君子くんしみち備,京師けいし欣然きんぜんこう乃陵あなど朝廷ちょうていかそけ擯宰輔,豪奢ごうしゃたてよく,眾務しげるきょう,於是朝野ちょうや失望しつぼうにん不安ふあんぎょうどきかい稽饑あらげんれいにぎわいかし。百姓散在江湖采穭,內史おう愉悉召之かえ。請米,べいすんで,吏不時給じきゅうひたすらぼく道路どうろ死者ししゃじゅうはちきゅう焉。げんまたがいくれきょう太守たいしゅだかもと、輔國將軍しょうぐん竺謙謙之けんじ從兄じゅうけい高平たかひらしょうろう、輔國將軍しょうぐんりゅうかさねかさねおとうと彭城內史たけかんむりぐん將軍しょうぐんまごおわりとうみなろうこれとう北府きたごきゅうしょう也。かさねけい冀州刺史しし軌及甯朔將軍しょうぐん高雅こうがろう之子ゆきこけいせんなみ奔慕ようとくげん朝廷ちょうてい以己ひらたもとあらわこうふうあきらおおやけしょく安成やすなりぐん地方ちほうひゃくじゅう,邑ななせんひゃくひらなかこらえ、佺期こうふうかつらようこおりこう地方ちほうななじゅう,邑せんひゃくほんふうみなみぐん如故。玄以げんいあきらあらためふういきますかつらようぐんおおやけたまもの兄子せこ浚,くだため西道さいどうけんおおやけまたはつみことのりため桓溫いみなゆう姓名せいめいどうしゃいちみなあらためおく其母あきらおおやけ太夫たゆうじんもときょうねんげんいつわりひょう請平姚興,また朝廷ちょうていさくみことのりもとげんほん資力しりょく,而好ため大言たいげんすんで克行かつゆき,乃雲たてまつみことのりとめはつよくかざりそう處分しょぶんさき使さくけいはやぶねふく玩及書畫しょがとうぶつある諫之,げん曰:「書畫しょがふく玩既むべつねざい左右さゆう,且兵きょうせん危,だつゆう不意ふいとう使つかいけい而易うん。」眾咸わらい

  これさいげんけいえらそつおく開府かいふ、驃騎將軍しょうぐん,以桓おさむだい從事じゅうじちゅうろう曹靖せつ玄以げんい桓脩兄弟きょうだいしょくきょ內外,おそれけんかたぶけ天下でんかげんおさめ,乃以南いなんぐんしょう桓石やすしため西中にしなかろうはた、荊州刺史ししえらふくはじめ以公じょげん便びん作樂さくらはつそうげんなでぶし慟哭どうこくすんで而收なみだつき歡,げんしょおや仗唯えらえらすんでげん乃孤危。而不しんあとやめちょ怨滿天下でんかよくそくてい篡逆,いんなかぶん、卞範ひとしまたきょう催促さいそく,於是さきあらため授群かい琅邪おうつかさ,遷太宰だざいことれい,以桓けんためさむらいちゅうまもる將軍しょうぐん開府かいふろく尚書しょうしょごとおう謐散つねさむらい中書ちゅうしょかんりょう,桓胤中書ちゅうしょれい桓脩つねさむらいなでぐん大將軍だいしょうぐんおけがくかん教授きょうじゅひん子弟していすうひゃくにんまた矯詔其相こくそうひゃく揆,ふうみなみぐん南平みなみだいらむべてんもんれいりょう、營陽、かつらよう、衡陽、よしたてひらじゅうぐんためすわえおうあげしゅうまぎりょうひら西にし將軍しょうぐんしゅう刺史しし如故,きゅうすず備物,すわえこくおけ丞相じょうしょうやめいち遵舊てんまた諷天御前ごぜん殿どの而策授焉。げん屢偽ゆずるみことのりひゃく僚敦すすむまたうん:「とうおやくだ鑾輿乃受命じゅめい。」矯詔おくちちぬるためすわえおうみなみやすし公主こうしゅためすわえおうきさき以平いたいら西長にしおさりゅう瑾為尚書しょうしょ,刁逵ためちゅうりょうぐんおう嘏為ふとつねいん叔文ためひだりまもるすめらぎはじめじきためみぎまもる,凡眾かんごうろくじゅう餘人よにんためすわえかんぞくげんかいひら西にししゅう以平いたいら西にし文武ぶんぶはいしょう國府こくふ

  しん野人やじん仄聞そくぶんげん受九すず,乃起義兵ぎへいかさね馮該於襄はしこれ。仄有眾ななせん,于城みなみしつらえだんまつり祖宗そそうななびょう南蠻なんばんさんぐん庾彬、安西あんざいさんぐん楊道まもるこうやすしれい鄧襄はかりごとため內應。仄本なかこらえとう,桓偉すんでせきやすしいたりじょうあいだ而發,こうりょう震動しんどう。桓濟之子ゆきこあきらおこりへい于羅けんごうひらみなみ將軍しょうぐん、湘州刺史しし,以討仄為めい南蠻なんばんこうじょうひつじそうことぶきあずかいしやすしきょうおさむじょう,仄眾散,奔姚きょうあきらとうみなぐうがいちょうすなしょうとう延壽えんじゅ以亮じょうらんおこりへいおさむこれげん徙亮於衡,誅其どうはかりごと桓奧とう

  げんにせ上表じょうひょうもとめ籓,また自作じさくみことのりとめ使つかい宣旨せんじげんまた上表じょうひょうかた請,また諷天作手つくでみことのりかたとめ焉。玄好げんこうたくましにせちりけがれ簡牘,みな此類也。いい代謝たいしゃさいよろしゆうただしさち,乃密れい所在しょざいじょう臨平ひらきじょせいあきら使つかい眾官しゅう。矯詔曰:「れいみずことしょ敢聞也。斯誠相國しょうこく至德しとく故事こじ為之ためゆきおう太平たいへいこれ,於是乎始,ろく合同ごうどうえつじょうなんげん!」またいつわりうんしゅう甘露かんろくだおう成基せいきちくじょう玄以げんい歷代れきだい咸有こえ遁之,而己どく,乃征すめらぎはじめ謐六世孫希之為著作,なみきゅう其資ようみなれいゆずる而不受,ごう曰高時人じじんめいためたかしかくれ」。ふくにくけいだんぜに貨,回復かいふくあらためことみやつこかわまがえ紜,こころざし一定いっていじょうせいもりしかどうがいせいせいむさぼひなびこう奇異きいゆうあい寶物ほうもつ珠玉しゅぎょく不離ふり於手。人士じんしゆうほうしょこう及佳えんたくしゃ,悉欲おのれなおなん逼奪みな蒱博而取。しんよんはてうつりちくとおすう千里せんり,百姓佳果美竹無復遺餘。しんえつ諂譽,ぎゃく忤讜ごとあるだつ其所にくあずか其所あい

  十一月じゅういちがつげん矯制其冕じゅうゆう旒,けん天子てんし旌旗せいき警入蹕,じょうきんしゃろくうま,備ふくくるまおけ旄頭くも罕,らく儛八佾,しつらえがね虡宮けんためおうきさき世子せいしため太子たいし,其女及孫爵命これごうみな如舊せいげん乃多斥朝臣あそんため太宰だざい僚佐,また矯詔使おう謐兼ふとしたもてりょうたてまつ皇帝こうてい璽禪於己。また諷帝以禪つげびょうきょ永安えいあんみやうつりすすむ神主かんぬし於琅よこしまびょう

  はつげんおそれみかど肯為しゅみことのりまたおもんばか不可ふか,逼臨かわおうたから請帝ためしゅみことのりいん奪取だっしゅ璽。臨軒,璽已ひさげん甚喜。百官到姑孰勸玄僭偽位,げんにせゆずる朝臣あそんかた請,げん乃于城南しろみなみななさとりつ郊,登壇とうだん篡位,以玄おすつげてんひゃく僚陪れつ,而儀ちゅう不備ふび,忘稱まんさいまた不易ふえきみかどいみな。榜為ぶんつげ天皇てんのうきさきみかどうん:「すすむみかど欽若けいうんけいじゅんあきらいのち,以命于玄。おっと天工てんこうじんだい帝王ていおう所以ゆえんきょう,匪君莫治,おもんみ德司とくじ其元,うけたまわ天理てんりぶつ,必由一統いっとうなみひじり不可ふか以二くんけん不可ふか以無ぬしかわみかどかなえさんだい。爰暨かん,咸歸くんれつすすむ中葉ちゅうよう,仍世おおゆえうみ西にしみだれ皇祚こうそ殆移,九代廓寧之功,しょうあきら黜陟くんほろ禹之とく左衽さじんはた及。ふとし元之もとゆきまつ君子くんしどうきえせき釁基らんかね于隆やすわざわいのべ庶,ぜっ人倫じんりんげん雖身ざいくささわ見棄みすてはん情理じょうりかんえびすのう慨!とうたもとかつ清之きよゆきろうおもね衡撥らん績,みなおおせ憑先とく遺愛いあいげんなんこう焉!ぞくとううんかい,猥集らく推之すう,以寡昧之かかと武之たけゆきじゅう,膺革泰之やすゆきはじめたく王公おうこううえまことおおせ藉洪もととくややゆうよしゆう惕祗なつけ,罔知攸厝。くん不可ふか以久きょにんかみ不可ふか以乏きょうよう敢不たてまつ以欽きょう大禮たいれいけい良辰りょうしんしょうだん受禪じゅぜんつげるい上帝じょうてい,以永綏眾もちしきまこと萬邦ばんぽうおもんみあきられいきょう。」乃下書したがき曰:「おっとさんさいしょう天人てんにん所以ゆえん成功せいこう理由りゆう一統いっとう貞夫さだお所以ゆえんちぎり帝王ていおうきょう,其源ふか矣。さんやめ世代せだい參差しんし,雖所由しょゆうあること,其歸一也かずやちん皇考こうこうせんおう聖德せいとくだか邈,誕啟ひろしもとけいいのち攸歸,つらぬけむかし中間ちゅうかんたむろけわしどるかつ負荷ふかおおせ瞻巨しゅうぎょう,殆若つづり旒。藉否おわりうんぐうこれかいようじょ奸救おぼれ,拯拔人倫じんりんすすむ以多なんこも臻,歷數れきすうただすんで典章てんしょうからおそれなぞらえじゅつ遵漢のりようしゅうてん祿ろく於朕躬。おもんみとく不敏ふびんいのち,稽若れいてんとげますだん燎於南郊なんこう,受終於文おもえ覃斯けいねがいあずかおくちょう聿茲更始こうし。」於是大赦たいしゃ改元かいげんえいはじめたまもの天下でんかきゅう孝悌こうていりょく田人たびとさんきゅう,鰥寡孤獨こどく不能ふのう自存じそんしゃこくじん斛。其賞賜しょうしこれせいしつらえ空文くうぶん其實也。初出しょしゅつにせみことのりあらためねんためたてはじめみぎすすむおうゆう曰:「たてはじめちょうおうりんにせごう也。」またあらため為永ためながはじめふくおう莽始執權しっけんとし,其兆ごう不祥ふしょうめい僭逆如此。また下書したがき曰:「おっとさんつとむさくまろうどゆうらい矣。爰暨かん,咸建疆宇。すすむ欽若歷數れきすうぜん於朕躬,むべのり古訓こくん,授茲ちがや以南いなん康之やすゆきひらかたけんたてまつすすむみかど為平ためひらかたおうくるまはたただしついたち一如いちにょきゅうてん。」遷帝きょひろそくひねとめおうしょ鄴宮故事こじくだ永安えいあん皇后こうごうためれいりょうくん,琅邪おう為石ためしけんこうたけりょうおう遵為彭澤けんこうついみこと其父ゆたかせん皇帝こうていびょうたたえぶとびょうみなみやすし公主こうしゅためせん皇后こうごうふうますためあきらぐんおう叔父おじくもまごこれため甯都けんおう,豁孫ややだまため臨沅けんおう,豁次子じしせきやすしためみぎ將軍しょうぐんたけりょうぐんおう蔚為醴陵けんおうおくおきふとしでんせんじょうぐんおうことれいすすむ安平あびらおう故事こじ,以孫たね襲爵しゅうしゃくため吏部尚書しょうしょおき次子つぎこけんためあげしゅう刺史しししんやすぐんおうけんおとうとおさむためなでぐん大將軍だいしょうぐん安成やすなりぐんおうあに歆臨けんおう,禕富けんおうおくえらさむらいちゅう大將軍だいしょうぐん義興よしおきぐんおう,以子浚襲爵しゅうしゃくため輔國將軍しょうぐん,浚弟邈西あきらけんおうふうおう謐為たけあきらおおやけはんけんじゅうにん,卞範ため臨汝こういんなかぶんため東興とうこうこう,馮該ためぎょふくこうまたくだはじめやすぐんおおやけためけんこうちょうすなため臨湘けんこうりょうためともえたかしけんこうかくせん。其康らくたけあきらみなみあきらもち蔡、けんきょうえいおさむかんみなくだふうひゃくおおやけこうこれごう如故。またひろしすすむしょせい鎮軍ごうかくゆう。以相こくひだりちょうおう綏為中書ちゅうしょれいたかし桓謙はは庾氏ためせんじょうふとしことれいきゅう以輦じょうごうゆたかはか曰永たかしりょうおけ守衛しゅえいよんじゅうにん

  げんにゅうけんかんみや逆風ぎゃくふう迅激,旍旗かざりみなかたぶけ偃。及小かい於西どうしつらえらく殿上てんじょうほどこせ絳綾ちょう,縷黃きんためがお四角よつかどさく金龍きんりゅうとう銜五色羽葆旒蘇,群臣ぐんしん竊相いい曰:「此頗輀車,またおう莽仙ぶたながれ也。りゅうかく所謂いわゆる亢龍こうりょうゆう悔者也。」またみやつこきんしゃろくうまこれがつげん臨聽訟觀閱囚徒しゅうとつみ輕重けいちょうげんゆうみき輿こし乞者,ある恤之。其好ぎょうしょうめぐみ如此。以水とくみずのえたつ,臘于あらため尚書しょうしょかんろうためぞく曹,また增置ぞうちこうさんしょう強弩きょうどせきしゃたけまもるかん

  もときょうさんねんげんえいはじめねん也,尚書しょうしょこたえはる蒐」あやまためはるうさぎ」,凡所せきしょみなくだ黜。げん大綱たいこう,而糾摘纖ほろみな此類也。以其つまりゅうため皇后こうごうはたおさむ殿宇でんう,乃移入いにゅう東宮とうぐうまた開東かいとうわきたいらあきらこう莫及宮殿きゅうでんしょもんみなためさんどうさらづくりだい輦,ようさんせんにんすわ,以ひゃくにん舁之。せいこう畋遊,以體だい不堪ふかん乘馬じょうばまたさく徘徊はいかい輿こしほどこせてんせきれいかいどうとどこおすんでついみこと曾,うたぐ其禮もん群臣ぐんしんつねさむらいじょひろよりどころすすむてんむべ追立おいたてななびょうまたけい其父則子のりこえつ彌高やたかしゃ情理じょうりとくさるみちいよいよひろしゃおさめけい必普也。げん曰:「《れいくもさんあきらさんきよし與太よたためななしかのりふとし必居びょうしゅ也,あきらきよしみなしたたたえのり逆數ぎゃくすう知也ともやれいふとし東向こちむきひだりあきらみぎきよし。如晉しつびょうのりせんみかどざいあきらきよしれつとくざいふとしくらいあきらきよしすんで錯,ふとしよせしつとお矣。」げん曾祖そうそ以上いじょうあらわよく序列じょれつ,且以おう莽九廟見譏于前史,とげ以一びょう矯之,郊廟ときにち而已。秘書ひしょかん卞承曰:「まつり及祖,すわえ德之のりゆきちょう也。」また毀晉しょうびょう以廣だい榭。其庶ははふけ嘗,靡有定ありさだしょ日見ひみ賓客ひんきゃくゆうえんただいたりほろびいち哭而やめふく內,はい音樂おんがくげんゆう水門すいもん,飄風其儀ぶたよる,濤水にゅう石頭いしあたまだいけたりゅう壞,殺人さつじん甚多。だい風吹ふぶき硃雀もんろう上層じょうそう墜地。

  げん篡盜これ驕奢きょうしゃあら侈,遊獵ゆうりょう,以夜まましひるあにえらそうだん哭晚ゆうある一日之中屢出馳騁。せいまたきゅう暴,よび召嚴そくちょくかん咸系しょうまえきん內嘩ざつふく朝廷ちょうていからだ。於是百姓ひゃくしょうつかれ朝野あさのろう瘁,怨怒思亂おもいみだれしゃじゅうしつはちきゅう焉。於是りゅうひろしりゅうあつしなにとう共謀きょうぼうきょうふくひろしとう桓脩於京こう桓弘於廣りょうかわ太守たいしゅからし扈興、ひろのう太守たいしゅおうもととく將軍しょうぐんわらわあつ、竟陵太守たいしゅりゅう邁謀ため內應。いたりひろししゅうあんきよしほう,而邁惶遽,とげ以告げんげん震駭しんがいそくころせ扈興とうあんきよしはせとくめんふう邁重やすこういち宿しゅくまたころせこれ

  ひろしりつ義軍ぎぐんいたりちくうらげんうつりかえ上宮かみみやひゃく僚步したがえ,召侍かんみなにゅうとめしょうちゅう。赦揚、じょ、兗、あお、冀ろくしゅう桓謙征討せいとうとくかりふし,以殷なか文代ふみよ桓脩,ひたすらおか太守たいしゅはじめみぎまもる將軍しょうぐんすめらぎはじめじききた距義ぐんひろしとう於江じょうあずかたたかえ,臨陣はじめしんいたり落橋,あずかじきせんふくふくろう其首。げん聞之だい懼,乃召しょ道術どうじゅつじん推算すいさんすうためいや勝之かつゆきほう,乃問眾曰:「ちん其敗乎?」曹靖たい曰:「かみいかひと怨,しんじつ懼焉。」げん曰:「ひとある怨,かみなんためいか?」たい曰:「うつりすすむ宗廟そうびょう,飄泊しつしょだいすわえまつり及于,此其しょ以怒也。」げん曰:「きょうなん諫?」たい曰:「輦上しょ君子くんしみな以為堯舜しんなん敢言!」げんいよいよ忿懼,使つかい桓謙、なに澹之たむろ東陵とうりょう,卞範たむろくつがえ舟山ふなやま西にし,眾合まん,以距義軍ぎぐんひろしいたり蔣山,使つかい羸弱るいじゃくぬき登山とざんふんちょう旗幟きしかずどうなみまえげん偵侯かえうん:「ひろしぐんよんふさが不知ふち多少たしょう。」げんえきゆう惶,たけまもる將軍しょうぐん庾頤はい以精そつふく援諸ぐん。于時東北とうほくふうきゅう義軍ぎぐん放火ほうかけむりちりちょうたかしつづみ噪之おん震駭しんがいきょう邑。りゅうひろし鉞麾而進,けんとうしょぐんいち奔潰。げんりつおやしんじすうせんにんごえげん赴戰,とげはた其子ます兄子せこ浚出みなみわきもん西にしいたる石頭いしあたま使つかいいんなか文具ぶんぐせんそうあずかみなみ奔。

  はつげんざいしゅうと孰,はたあいほし屢有へん;篡位ゆうがつ及太しろまたにゅう羽林はばやしげん甚惡。及敗走はいそう腹心ふくしんすすむ其戰,げんひまこたえちょく以策ゆびてん。而經とくしょく左右さゆうしん以粗めしのど不能ふのうますねんすうさいだきげんむね而撫げん悲不かち

  りゅうひろし以武りょうおう遵攝まんたてくだりだいそう百官ひゃっかんりゅうあつしりゅうみちぶんまわし躡玄,誅玄しょ兄子せこ及石やすしあにけんあにひろしとう

  げんいたりひろしゅう刺史ししかくあきらこれきゅう其器よう兵力へいりょくいんなかぶんいたり望見ぼうけんげんぶね旌旗せいき輿こしふく備帝しゃ歎息たんそく曰:「はいちゅうふく可也かなり。」げん於是逼乘輿こし西上にしかみ。桓歆聚党こうこよみせんじょう內史しょかずらちょうみん擊破げきはげん於道さく起居ききょちゅう,敘其距義ぐんこといい經略けいりゃくゆび授,さんのこさくしょしょうたがえ節度せつど,以致虧喪,せんつみ。於是遑與ぐん謀議ぼうぎただふけおもえ誦述,せんしめせ遠近えんきんげんいたりこうりょうせきかんおさむちょう幔屋于城みなみしょおけ百官ひゃっかん,以卞范之ため尚書しょうしょぼくしゃ,其餘しょく多用たようけい。於是だいおさむふね,曾未さんしゅん,眾且まんろうせん器械きかい甚盛。いい其群とう曰:「きょうとうなみきよしぬりつばさしたがえちん躬,都下とか竊位しゃかたおう謝罪しゃざい軍門ぐんもん,其觀きょうとうにゅう石頭いしあたまくも霄中じん也。」

  玄以げんい奔敗これ,懼法れい肅,とげけいいか妄殺,にんはなれ怨。いんなかぶん諫曰:「陛下へいかしょう播英ほまれ遠近えんきんしょふくとげ掃平荊雍,いちただしきょうしつこえはちあら矣。すんでよりどころゆうきょく,而遇此圮うんため不足ふそく也。百姓ひゃくしょう喁喁,想望そうぼうすめらぎさわむべひろしじんふう,以收物情ぶつじょう。」げんいか曰:「かんだかいくぐうはいただししょしょうしつみみ!以天文てんもんあくかえきゅうすわえ,而群しょう惑,妄生是非ぜひほうとう糾之以猛,むべほどこせ以恩也。」げん左右さゆうしょうげんため「桓詔」,桓胤諫曰:「みことのりしゃほどこせ於辭れい以為しょういい也。かんしゅみな此言,ただ聞北とりこ以苻かたため'苻詔'みみねがい陛下へいか稽古けいこみかどそくれいまんせいほう。」げん曰:「此事やめくだりこんせん敕罷さらため不祥ふしょう。必其むべかわまちごとひら也。」荊州ぐんもり以玄播越,ある使つかいどおりひょうゆう匪寧やめげん悉不受,仍乃さられい所在しょざいひょう遷都せんと

  げんゆうげき將軍しょうぐんなん澹之、たけまもる將軍しょうぐん庾稚江夏えなつ太守たいしゅ桓道きょう就郭銓以すうせんにんもり湓口。また輔國將軍しょうぐん桓振往義聚眾,いたり弋陽,ためりゅう驤將ぐんえびす譁所やぶ單騎たんきはしかえなにりゅうみちぶんまわしとうやぶかく銓、なに澹之、かくあきら于桑落洲,しんひろげんりつふねかんひゃくはつこうりょう使つかい苻宏、ひつじそうことぶきためぜんほこさき。以鄱太守たいしゅじょためつねさむらいほしせつかい義軍ぎぐんいい曰:「諸人もろびと識天いのち,致此妄作,とげ懼禍たむろゆい不能ふのうはんきょうさんしゅう所信しょしん明示めいじちんしんわか退すさぐんかぶととうあずかこれ更始こうしかく授位にんれいしつぶんこうみずざい此,ちん食言しょくげん。」たい曰:「りゅうひろしため唱端おもりゅうあつしけいため陛下へいかしょ誅,なみ不可ふかせつ也。輒當さる聖旨せいし于何。」げん曰:「きょう使わか有功ゆうこうとう以吳きょうしょう敘。」とげ受使,にゅうぐん

  えいやぶ桓歆于曆しょかずらちょうみんまたはい歆於芍陂,歆單馬渡まわたり淮。あつしりつどうぶんまわし及下邳太もりはじめふところだまあずかげんせん于崢嶸洲。于時義軍ぎぐんすうせんげんへい甚盛,而玄懼有はい衄,つね漾輕はやぶね於舫がわ其眾莫有鬥心。義軍ぎぐんじょうふうたてつきするどそうさきげん眾大つぶせしょう輜重しちょうよる遁,かく銓歸くだげんしょうりゅうみつる、馮稚とう聚黨よんひゃくにんかさねやぶひろじょうあつしたてたけし將軍しょうぐんりゅうふところ肅討平之ひらのげんとめ永安えいあん皇后こうごう皇后こうごう于巴りょういんなかぶんざいげんかんもとめべつせんおさむ集散しゅうさんぐんいん叛玄,たてまつ奔于なつこうげん入江いりえりょうじょう,馮該すすむ使さらせんげんしたがえよくいずるかんがわとうやなしゅう刺史しし桓希,而人情にんじょう乖阻,制令せいれいくだりげん乘馬じょうば出城でしろいたりもん左右さゆう於暗ちゅう斫之,なか前後ぜんご相殺そうさい交橫,げん僅得いたりせん。於是荊州べつおうやすしさんたてまつみかど入南にゅうなん郡府ぐんぶしゃ太守たいしゅおうあがこれりつ文武ぶんぶ營衛。

  ときえきしゅう刺史しし璩使其從まご祐之ひろゆきまいり軍費ぐんぴ恬送おとうと璠喪そうりょうゆうひゃく,璩弟子でしおさむためげんたむろこうじょうさそえ玄以げんいにゅうしょくげんしたがえこれたちまいかいしゅう,恬與祐之ひろゆき迎擊げいげきげん矢下やおろし如雨。げん嬖人ちょうせん、萬蓋等以身敝玄,なみちゅうすうじゅう而死。げん,其子ます拔去ばっきょえきしゅうとくまもる馮遷抽刀而前,げん拔頭上玉じょうだまみちびけあずかこれ,仍曰:「何人なんにんよこしま?敢殺天子てんし!」遷曰:「よくころせ天子てんしぞくみみ。」とげこれねんさんじゅうろくまたいしやすし及浚とうきゅう,庾頤戰死せんしますうん:「わがあきらおう諸君しょくん勿見ころせ。」おくいたりこうりょうこれ

  はつげんざい宮中きゅうちゅうつねさとし不安ふあんわかため鬼神きじんしょ擾,其所おやうん:「こわおのれとうあずかとききおい。」もときょうちゅう,衡陽ゆうめす雞化為雄ためおはちじゅうにち而冠あまどころ。及玄建國けんこく于楚,衡陽ぞく焉,篡盜いたりはい凡八しゅん矣。其時ゆう童謠どうよううん:「ちょうみきちまたちまたちょうみき今年ことしころせろうくん後年こうねんしょ桓。」其凶ちょうかい如此。ろうくんいいもとあらわ也。

  これがつおうあがこれたてまつみかど入居にゅうきょたい。桓謙また聚眾沮中,ためげん舉哀,たてにわにせおくりなためたけ皇帝こうていあつしとう傳送でんそうげんくびふくろう於大おだいけた百姓ひゃくしょうかんしゃ莫不欣幸きんこう

  なにとうおさむ桓謙於馬あたま,桓蔚于龍しゅうみなやぶこれ義軍ぎぐんじょうかつけいすすむ、該等距戰於靈けいみちぶんまわしとうはい績,死沒しぼつしゃせん餘人よにん義軍ぎぐん退すさひろさらつくろえぶねかぶともう璩自りょうやなしゅうはたおさむかんちゅうころせ桓希。江夏えなつしょうちょう暢之のぶゆき高平たかひら太守たいしゅりゅうふところ肅攻なん澹之於西ふさがいそやぶこれ桓蔚だいおう曠守じょうみちぶんまわししん討武あきらやぶにせ太守たいしゅおうみんえいりゅう籓破桓石綏于白茅ちがや義軍ぎぐんはつひろ。桓亮ごうしゅう刺史ししおかせあきらしゅう刺史ししりゅうたかしせん討走義軍ぎぐんしんなつこうにせ鎮東將軍しょうぐん馮該とうもりなつこうあげ武將ぶしょうぐんはじめやまよりどころ魯城,輔國將軍しょうぐん桓山きゃくもり偃月るいりゅうあつしおさむ魯城,みちぶんまわしおさむ偃月るいあずかまゆみ祗列かん中流ちゅうりゅう,以防えついっ義軍ぎぐんあが赴,さけべごえどう山谷さんやたつ及午,しろ俱潰,馮該散はしなまとりこやまきゃくあつしとうひらともえりょうもう璩遣涪陵太守たいしゅぶんところしげ東下ひがししも桓放ためえきしゅうたむろえびすりょうところしげ距戰,これ敗走はいそうかえこうりょう

  熙元ねん正月しょうがつ南陽なんよう太守たいしゅ魯宗おこり義兵ぎへいかさねじょうやぶにせ雍州刺史しし桓蔚。しょ軍次ぐんじこうりょう馬頭ばとうようみかど營江。魯宗りつ眾於ならけいやぶにせ賁中ろうゆたか楷,しんいたり紀南きなんげき宗之むねゆき宗之むねゆきしつどきしょくぐんよりどころれいけいあつしりつみちぶんまわしとうやぶ馮該ぐん,推鋒而前,そく平江ひらえりょうおこりじょうやめおちい,乃與けんとうきたはしやすみかどはんせい大赦たいしゃ天下でんかただぎゃくとう就戮,みことのり特免とくめん桓胤いちにん。桓亮あきらごう鎮南將軍しょうぐん、湘州刺史しし。苻宏寇安なりいおりりょうりゅうたかしせんはた討之,ひろし走入はしり湘中。がつ,桓謙、なに澹之、ゆたか楷等奔于姚興。桓振あずかひろし出自しゅつじ溳城,かさねやぶこうりょうりゅうふところ肅自くももりひとしやぶこれこう武將ぶしょうぐんからきょう及偽輔國將軍しょうぐん桓珍,あつし於臨鄣斬にせれいりょう太守たいしゅりゅう叔祖。桓亮、苻宏ふくかんむり湘中,がいぐんもりちょう吏,だん祗討ひろし於湘ひがしこれこう武將ぶしょうぐんかくわたるあきら于益,其餘よう眾假ごうみな討平みことのり徙桓たね及諸とうあずか于新やすしょぐん

  さんねん東陽とうよう太守たいしゅいんなかぶんあずかえいよしみ太守たいしゅ駱球謀反ぼうほんよくけん桓胤ため嗣,曹靖、桓石、卞承りゅうのべとうせんしょう交結,りゅうひろし以次おさむこれなみ誅其ぞくこう桓謙走入はしりしょくしょくぞく譙縱以謙ため荊州刺史しし使つかいりつへい而下,荊楚眾多おうけんいたりえだこう,荊州刺史ししりゅうみちぶんまわしこれやなしゅう刺史ししでん歆又桓石綏,桓氏とげめつ

卞范

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  卞范けいすみかげあてじん也,識悟さとさとし當世とうせいふともとなか丹陽たんようすすむためはじめやす太守たいしゅ。桓玄しょうあずかゆう,及玄ためしゅう,引為ちょう以心膂之にんせんはかりごと密計みっけい,莫不けつこうげんはたため篡亂,以範ため丹陽たんよういん。范之あずかいんなかぶんかげせんさくいのちしん範之のりゆきためせいとりこ將軍しょうぐんつねさむらいげん僭位,以範ためさむらいちゅうはんけんじゅうにんしんごう將軍しょうぐんふう臨汝けんこう。其禪みことのりそく范之文也ふみや

  げんすんで奢侈しゃし,范之またもり營館だい以佐いのち元勳げんくんふかふところ矜伐,以富貴ふうきおごひと子弟してい慠慢,眾咸かしこ嫉之。義軍ぎぐんおこり,范之たむろへい於覆ぶね山西さんせいためりゅうあつししょはいずいげん西にしはしげんまた以范ため尚書しょうしょぼくしゃげんためりゅうあつしとうしょはい左右さゆう分散ぶんさんただ範之のりゆきざいがわげんひらめ於江りょう

いんなかぶん

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  いんなかぶん南蠻なんばんこうじょう覬之おとうと也。しょうゆう才藻さいそうよし容貌ようぼう從兄じゅうけいなかこらえこも于會稽王道子みちこそく引為驃騎さんぐん,甚相しょうまちにわかうたてはかさんぐんためもとあらわせいとりこちょうかい桓玄あずか朝廷ちょうていゆうすきげん姊,なかぶんつまうたぐ而間左遷させんしんやす太守たいしゅなかぶん于玄雖為姻親,而素交密,及聞げんひら京師けいし便びん棄郡とう焉。げん甚悅,以為はかさんぐんどきおう謐見れい而不おや,卞範おや而少れい,而寵ぐう隆重たかしげけん于王、卞矣。げんはたためみだれ使つかい總領そうりょうみことのりいのち,以為さむらいちゅうりょうひだりまもる將軍しょうぐんげんきゅうすずなかぶんやめ也。

  はつげん篡位にゅうみや,其床ゆるがせおちいぐんしつしょくなかぶん曰:「はたゆかり聖德せいとく深厚しんこう不能ふのう。」げんだいえつ。」以佐いのちおやとうとあつふうたかし輿こしふく窮極きゅうきょく綺麗きれいぼう伎妾すうじゅう絲竹いとたけぜっおんせいむさぼしわおさめ貨賄,いえるい千金せんきんつねわか不足ふそくげんためりゅうひろししょはいずいげん西にしはし,其珍寶ちんぽう玩好悉藏地中ちちゅうみなへんためいたりともえりょういんたてまつとう義軍ぎぐん,而為鎮軍ちょうてん尚書しょうしょ

  みかどはつはんせいこうひょうかい曰:「しん聞洪壑,かわ恬鱗;おどろき飆拂はやしせい柯。何者なにものいきおいじゃくのり受制於巨りょくしつほろのり以自。於理雖可とく而言,於臣じつしょ敢譬。むかし桓玄これだいまことふく逼者眾。いたり如微しんつみじつふか矣,しん能見のみ危授いのちほろび殉國じゅんこく退すさ不能ふのうあわくびはらいころもだかしゃとげ乃宴やす昏寵,叨昧にせふうじすずぶん篡事,曾無どくかた名義めいぎ以之俱淪,じょうぶし茲兼たわわむべ其極ほう,以判ちゅうよこしまかい鎮軍將軍しょうぐんりゅうひろしただしふく社稷しゃしょくだいひろぜんかし,佇一戮於ほろいのちさる三驅於大信,すんでめぐみ以首りょうまたさる以縶維。于時すめらぎ輿こしいなへだた天人てんにんやすしよう進退しんたい以僶俯從事じゅうじどうれいじんこん宸極はんせいただしんつげはじめ憲章けんしょうすんであきら品物しなものおもえきゅうしんまたえびすがおあつ以顯きょ榮次えいじ!乞解しょしょくまちざいわたしもんたがえはなれ闕庭,乃心慕戀。」みことのりもと

  なかぶんいんがつついたちあずか眾至だい司馬しば府中ふちゅうゆうろうえんじゅじゅ,顧之良久よしひさ而歎曰:「此樹ばばしゃばふくせい!」なかぶんもと有名ゆうめいもちいい必當朝政ちょうせいまたしゃこん疇昔しょけいしゃなみみな比肩ひけんつね怏怏おうおうとくこころざしゆるがせ遷為東陽とうよう太守たいしゅわたる不平ふへいりゅうあつしあいざいこうふかあいれいせっ,臨當ぐんゆうえんわたるくだりいたりとみ慨然がいぜん歎曰:「山川やまかわ形勢けいせいとうふくいちはく。」なに甚慕東陽とうようしょすべなかぶんもととう便びん道修どしょう謁,えきいんおそこれれい府中ふちゅういのち文人ぶんじんいん闡、あな寧子やすこせん構文こうぶん,以俟其至。なかぶんしつこころざし恍惚こうこつとげうたぐ其薄おのれだいいかおもえ中傷ちゅうしょうときぞく慕容ちょう南侵なんしんげん于劉ひろし曰:「桓胤、いんなかぶんなみ乃腹しんやましきたとりこ不足ふそくため。」さんねんまた以仲ぶんあずか駱球とう謀反ぼうほん,及其おとうと南蠻なんばんこうじょう叔文ふく誅。なかぶんあきらきょう其面,數日すうじつ而遇

  なかぶんぜんぞくぶんためしょじゅうしゃれいうん嘗云:「わかいんなかぶん讀書どくしょはん袁豹,のり文才ぶんさいげんはんかた。」げん其文而見しょしょう也。

ふみひょう

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  しん曰:桓玄纂凶,ちちはさみ奸回本性ほんしょう,含怒於失職しっしょくつとぞう其豕しんこうひょう以稱冤。登高とうこう發憤はっぷんかん釁而どう,竊圖非望ひぼうはじめのりかりちょう于仲こらえにわか而戮いん以逞よくとげよりどころぜんすわえ勁勇へいよしすすむ政之まさゆきりょうおそじょうかい稽之酗JT,たて其狙いつわりけいおうぎ其陵暴之しん,敢率けんひつじしょうへい內侮。てんちょうみだれきょうりょくじつしげる,逾年あいだ,奄傾すすむ祚,いいほう堯禪しゅんあらためぶつ君臨くんりんかなえぎょうほうたかしぼくねんおもんみひさしにわか而義はたでんはつ忠勇ちゅうゆうかみなり奔,はんたつ都邑とゆう廓清かくせい,逾月而凶みぞそく戮,さらのべ墜曆,ふく頹綱。神器じんぎ不可ふか以暗みきてん祿ろく不可ふか以妄しょしゃ也。おっと帝王ていおうしゃこうだか宇內,みちずみ含靈,龍宮りゅうぐうおおとりれきひょう其祥,彤雲げんせきてい其瑞,しかこう光臨こうりん大寶たいほうかつとおるおおとりめいまこと彳奚しんふくらく推之もちわか桓玄麼麼,あにあしすう哉!適所てきしょ以幹きのらんつねかたぶけむねぜっ嗣,はじめ金行かねゆきわざわいなんなりそう驅除くじょしゃ乎!

  さん曰:靈寶れいほうかくれぞくせいきょうとくしんじゅんまこと,奸回是則これのり。肆逆遷鼎,憑威たて慝。たがえてんしいたげじんくつがえそう殄國。

 まききゅうじゅうはち かえしかいいただき まきいちひゃく

ほんとうあさ作品さくひんざいぜん世界せかいぞく公有こうゆう领域いん为作しゃ逝世やめ经遠とおちょう过100ねん

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