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明治東京異聞-トウケイかトウキョウか-東京の読み方
The Wayback Machine - https://web.archive.org/web/20081006151436/http://www.soumu.metro.tokyo.jp:80/01soumu/archives/0715tokei.htm

明治めいじ東京とうきょう異聞いぶん〜トウケイかトウキョウか〜東京とうきょうかた

かつて、東京とうきょうが「トウケイ」とばれていたことがあったときましたが、本当ほんとうですか?

いちこく首都しゅとふたつのかた。ちょっと意外いがいなこの事実じじつ追求ついきゅうしてみると、人々ひとびと明治めいじというあたらしい時代じだいにどのようにったか、その多様たようせいりになってきます。

「トウケイ」みにこめられた心意しんいいていきましょう。

東京とうきょう」という語彙ごいについて

今日きょう日本にっぽん首都しゅと東京とうきょうを「トウケイ」とぶことは、まずないだろう。ただ、明治めいじ初年しょねんからじゅう年代ねんだいごろまでは、「トウキョウ」とともに「トウケイ」というかた存在そんざいした。

もともと「東京とうきょう」という語彙ごい自体じたいは、「ひがしほうにある」という意味いみで、中国ちゅうごくかん洛陽らくよう、あるいはきたそう開封かいふうをさし、西京にしぎょう長安ながやすたいする呼称こしょうとしてもちいられた。

きょう」には「キョウ」のほかに、「京師けいし(ケイシ)」のように「ケイ」と場合ばあいがある。より専門せんもんてきにいえば、「キョウ」は呉音ごおん、「ケイ」は漢音かんおんでのかたである。

呉音ごおんとは、古代こだい中国ちゅうごく地方ちほう揚子江ようすこう下流かりゅう)から伝来でんらいしたおとで、おお僧侶そうりょによりもちいられた。「こう=ギョウ」とするかたである。また漢音かんおんとは、とうだい長安ながやすいま西安しーあん地方ちほうもちいられた発音はつおんで、遣唐使けんとうし留学生りゅうがくせいなどによって奈良なら時代じだい平安へいあん初期しょき輸入ゆにゅうされた。「こう=コウ」とするかたである。こちらは、おもかん学者がくしゃもちいられた。

式亭しきてい三馬さんば浮世うきよゆか』のなかに、漢字かんじ呉音ごおん漢音かんおんれた場面ばめんがある。髪結床かみゆいどこへやってきた儒者じゅしゃあなくそが、世事せじうといにもかかわらず博識はくしきぶりを誇示こじする場面ばめんである。

咄家はなしか(はなしか)ゝゝとなんでも(か)のさへづければよいこととおもふが、咄家はなしか(はなしか)とうんては湯桶ゆとうくん(ゆとうよみ)だ。咄(はなし)はくんなり。いえ(か)は漢音かんおんだ。呉音ごおんではいえ(け)とよむてな。儒学じゅがく漢音かんおん国学こくがく呉音ごおんでよむが、またふつ(ぼうず)のほうなども呉音ごおんでよむ。(中略ちゅうりゃく)すでにふるかた(こほうか)後世こうせい(こうせいか)は漢音かんおんじょう(にでうけ)万葉まんよう(まんえふけ)は呉音ごおんで唱へる。とうことべんへぬとは、ハテ残念ざんねん閔子騫(びんしけん)

式亭しきてい三馬さんば浮世うきよゆかはつへん まきうえ

おな漢字かんじおな意味いみもちいる場合ばあいであっても、呉音ごおんむか、漢音かんおんむかは、学問がくもん系統けいとうにより、それぞれにみならわしかたがあったことがうかがえる。『浮世うきよゆか』の儒者じゅしゃあなくそは、かべにはりつけてある寄席よせのちらしをて、「今昔こんじゃく物語ものがたり(いまむかしものがたり)」を「コンセキブツゴ」、「朝寝坊あさねぼうゆめひさ(あさねぼうむらく)」を「チョウシンボウボウラキュウ」と漢音かんおんみ、勘違かんちがいしたうえでしょうむずかしく講釈こうしゃくしてみせる、その滑稽こっけいさのなかに、儒者じゅしゃ漢音かんおんもちいるという慣例かんれいてとれる。

たしかに、江戸えど時代じだい漢学かんがくしゃ太宰だざい春台しゅんだいは、『読要りょう』のなかで「長安ながやす西京にしぎょう(セイケイ)西都さいとしょうシ、洛陽らくよう東京とうきょう(トウケイ)東都とうとしょうス」と、きょう漢音かんおんんでいる。また一方いっぽうで、『にち葡辞しょ』では、東方とうほう意味いみで「Tôqio」のかたり収録しゅうろくされている。

このように、日本にっぽんで「東京とうきょう」が地名ちめいとなる以前いぜんから、「東方とうほう」という意味いみでの「東京とうきょう」という語彙ごい存在そんざいした。そして、「きょう」には漢音かんおん「ケイ」、呉音ごおん「キョウ」ととおりのかたがあり、学問がくもん系統けいとうによって、漢音かんおん呉音ごおんをそれぞれ使つかける慣例かんれいがあった。こうした背景はいけいから「東方とうほう東京とうきょう」のかた一定いっていせず、「トウケイ」とも「トウキョウ」ともみならわされていたであろうとかんがえられるのである。

地名ちめい東京とうきょう」はどうまれたか?

慶応けいおうよんねんいちはちろくはちなながつじゅうななにち、「まん親裁しんさい億兆おくちょうヲ綏撫ス」と天皇てんのう親政しんせいかかげた詔書しょうしょされ、そのなかで江戸えどは「東国とうごくだいいちだい鎮、四方しほう輻輳ふくそう」であるとして、「自今じこん江戸えどたたえシテ東京とうきょうトセン」と、江戸えど東京とうきょう改称かいしょうされた。そして、それまで京都きょうと御座所ござしょとした天皇てんのう東京とうきょう行幸ぎょうこうし、そのままつづけた結果けっか事実じじつじょう遷都せんとおこなわれた。こうして「きょう=みやこ」はひがしうつったのである。

このとき、江戸えど東京とうきょうしょうすることとなったが、そこにりがながあるわけでもなく、かたについて「トウキョウ」「トウケイ」のどちらを採用さいようすべきかについては、根拠こんきょとなるような法令ほうれいたわけでもなかった。

ここで、明治めいじ初年しょねん小説しょうせつに「東京とうきょう」が登場とうじょうする場合ばあい、そこにされた仮名がな注目ちゅうもくすると、「トウキョウ」み「トウケイ」みとも、それぞれしょれいをあげることができる。

「トウキョウ」
「トウケイ」

さて、ここで「東京とうきょう(とうけい)」が多用たようされている小説しょうせつ注目ちゅうもくしてみたい。関連かんれん部分ぶぶんしてみると、つぎのようになる。

以上いじょう饗庭あえば篁村こうそん当世とうせい商人しょうにん気質きしつさんまき 明治めいじじゅうきゅうねん 便宜上べんぎじょう適宜てきぎ読点とうてんおぎなった)

東京とうきょう相場そうば失敗しっぱいし、大阪おおさかながれついたおとこはなしである。「トウケイ」みとともに、当時とうじの「東京とうきょうじん」がどのようにられていたか、その一端いったんがうかがえるはなしである。

この作品さくひんのほかにも、「トウケイ」みを多用たようする作者さくしゃである饗庭あえば篁村こうそんは、安政あんせいねんいちはち江戸えど下谷しもたに竜泉寺りゅうせんじ質屋しちやなんまれた。少年しょうねん時代じだい見習みならいとしてんだ日本橋にほんばし質屋しちやは、かいかし本屋ほんやであったためそのほんみあさり、雑学ざつがく基礎きそきずいたという。その読売新聞よみうりしんぶん就社へ入社にゅうしゃし、編集へんしゅう記者きしゃとして活動かつどうする。明治めいじじゅう年代ねんだいはいると、根岸ねぎしきょをかまえ、根岸ねぎし重鎮じゅうちんとなっていく。根岸ねぎしとは、明治めいじじゅう年代ねんだい東京とうきょう根岸ねぎし付近ふきん在住ざいじゅうした旧派きゅうは文人ぶんじんたちの一団いちだんのことで、一時期いちじき幸田こうだ露伴ろはんなども参加さんかしていたという。

このように、明治めいじ初年しょねんからじゅう年代ねんだいごろまでは、「トウキョウ」みも「トウケイ」みも混在こんざいしており、小説しょうせつのなかには、積極せっきょくてきに「トウケイ」みを採用さいようするものがあったことがうかがえる。

「トウケイ」をめぐる証言しょうげん

江戸えど風俗ふうぞく考証こうしょう分野ぶんや足跡あしあとのこした三田村鳶魚みたむらえんぎょは、「トウケイ」みについて、つぎのようにれている。

明治めいじじゅうねんごろまでは、頑強がんきょうにトウケイという老輩ろうはいおおかった。さすがに幕府ばくふ瓦解がかいして、江戸えどんだあとへ、遠国おんごく他国たこくから人間にんげんばかりがはばをする東京とうきょう出来できたのは、感慨かんがいこたえなかったろう。きょうをケイとんで、京都きょうときょうおとげる、ケフとんでもキョウとんでも上方かみがたくさい、そこをきらってトウケイ、無理むりにもそうんで、鬱憤うっぷんを霽らすのだったろう。

(『人物じんぶつ談義だんぎ江戸えど流行りゅうこう昭和しょうわじゅうはちねん

これは、明治めいじ戯作げさくしゃ南新みなみしんについて、「あずまケイといったなか一人ひとり相違そういない」とひょうしている文章ぶんしょういちせつである。とんびぎょ説明せつめいによれば、南新みなみしんとは南新みなみしんほり丁目ちょうめ住居じゅうきょしたことによるペンネームで、本名ほんみょう谷村たにむらかなめすけという。幕府ばくふ御数寄屋坊主おすきやぼうずいえまれて柳営りゅうえい茶道さどうつとめたのち、戊辰戦争ぼしんせんそうにも参戦さんせんしたという経歴けいれきぬしである。こうした、江戸えどたいする執着しゅうちゃくきゅう幕府ばくふへの追慕ついぼじょうから、「きょう=キョウ」という上方かみがたふうきらい、「きょう=ケイ」とむ、頑強がんきょうな「ご老輩ろうはい」が存在そんざいしたことをしるしている。

他方たほう、『東京とうきょう繁盛はんじょう』をはじめ、東京とうきょう風俗ふうぞくかんする随筆ずいひつ評論ひょうろん多数たすうのこしたじん木村きむら荘八しょうはちは、つぎのようにべている。

東京とうきょうがいつ帝都ていととなりまた東京とうきょう」というになったか、ということは、衆知しゅうちはちじゅう年来ねんらい史実しじつで・・いまさらぼくが喋々ちょうちょうするまでもない・・いまでは京都きょうと西京にしぎょうというひとも、その習慣しゅうかんもなくなったようだが、この「西京にしぎょう」こそは、しん東京とうきょう」にたいして、明治めいじ初年しょねんごろに庶民しょみんあいだ旧都きゅうとびならした、むかしをいとおしむひとつの愛称あいしょうであっただろう。

東京とうきょうもその発音はつおん正規せいきかたをされずに「とうけい」となまってばれる場合ばあいすくなくなかった。これもいまではそうひと習慣しゅうかんもなくなったであろう。

(『東京とうきょう風俗ふうぞく昭和しょうわじゅうよんねん

「トウケイ」というのはなまったかたであって正規せいきかたではない、いまではそうひと習慣しゅうかんもなくなった、というのである。おなじく「トウケイ」みにれた箇所かしょであるが、とんびぎょとはその位置いちづけかたことなっていることがみとれよう。明治めいじさんねんいちはちなな〇)、八王子はちおうじせんにん同心どうしん家柄いえがらまれ、維新いしんにかつての御家人ごけにん居住きょじゅう下谷しもたに御徒おかちまち少年しょうねんごし、終生しゅうせい幕臣ばくしん末裔まつえい(まつえい)であることをほこりにしていたとんびぎょと、明治めいじじゅうろくねんいちはちきゅうさんまれ、文明開化ぶんめいかいか謳歌おうか明治めいじ中期ちゅうきに、開化かいか中心ちゅうしん日本橋にほんばしで、商人しょうにんとして成長せいちょうした荘八しょうはち。「トウケイ」みにたいする二人ふたり温度おんどは、かれらの世代せだいによるのと同時どうじに、それぞれのまれそだった環境かんきょうが、すくなからず影響えいきょうしているようで興味深きょうみぶかい。

歴史れきしとしての「トウケイ」

東京とうきょうは「トウキョウ」「トウケイ」のとおりにまれ、旧幕きゅうばく時代じだいをしのぶひとなかには「トウケイ」おおかったというわけだが、いつしかそんなふうひとはいなくなり、「トウキョウ」が正規せいきかたとして位置いちづけられていった。明治めいじさんじゅう年代ねんだいはい教科書きょうかしょ国定こくていとなったさいには、その国語こくご教科書きょうかしょにおいて「東京とうきょう」の仮名がなは、「トーキョー」と統一とういつてき表記ひょうきされている。

旧幕きゅうばく時代じだいをしのぶ頑強がんきょうな「ご老輩ろうはい」たちの世代せだいわり、それにともない「トウケイ」みが淘汰とうたされていったのも自然しぜん摂理せつりといえようか。今日きょうでは、「トウケイ」はすっかり死語しごとなってしまったが、開府かいふよんひゃくねんをむかえ、あらためて「トウケイ」みにこだわりつづけた人々ひとびとおもいをはせてみると、新旧しんきゅうみの当時とうじ諸相しょそうかびあがってくることであろう。

明治めいじねん発行はっこう築地つきじ居留きょりゅうけん

明治4年発行の築地居留地「地券」写真しゃしん1-A 明治めいじねん発行はっこう築地つきじ居留きょりゅうけん
築地居留地「地券」の題字部分写真しゃしん1-B 築地つきじ居留きょりゅうけん」の題字だいじ部分ぶぶん
写真しゃしん1-A
明治めいじねん発行はっこう築地つきじ居留きょりゅうけん
題字だいじが “FOREIGN SETTLEMENT,TOKEI” と印刷いんさつしてある。
写真しゃしん1-B
同上どうじょう知事ちじ署名しょめい拡大かくだい
“Tokeifu Yuri Kimimasa(東京とうきょう由利ゆり公正きみまさ)”とある。

明治めいじ9ねん発行はっこう築地つきじ居留きょりゅう地所じしょ証文しょうもん

明治9年発行の築地居留地「地所証文」(英文)写真しゃしん2-A 明治めいじ9ねん発行はっこう築地つきじ居留きょりゅう地所じしょ証文しょうもん」(英文えいぶん
築地居留地「地所証文」の知事署名部分写真しゃしん2-B 築地つきじ居留きょりゅう地所じしょ証文しょうもん」の知事ちじ署名しょめい部分ぶぶん
写真しゃしん2-A
明治めいじ9ねん発行はっこう築地つきじ居留きょりゅう地所じしょ証文しょうもん
写真しゃしん2-B
同上どうじょう知事ちじ署名しょめい拡大かくだい
題字だいじは、TOKEIだが、知事ちじ署名しょめいは、“Kusumoto Masataka TokiofuGon Chiji(楠本くすもと正隆まさたか東京とうきょうけん知事ちじ)”となっている。

明治めいじ20ねん発行はっこう築地つきじ居留きょりゅうけん」(英文えいぶん

明治20年発行の築地居留地「地券」(英文)写真しゃしん3-A 明治めいじ20ねん発行はっこう築地つきじ居留きょりゅうけん」(英文えいぶん
築地居留地「地券」の知事署名部分写真しゃしん3-B 築地つきじ居留きょりゅうけん」の知事ちじ署名しょめい部分ぶぶん
写真しゃしん3-A
明治めいじ20ねん発行はっこう築地つきじ居留きょりゅうけん
題字だいじが“FOREIGN SETTLEMENT,TOKIO”となっている。
写真しゃしん3-B
同上どうじょう知事ちじ署名しょめい拡大かくだい
“Takasaki Goroku Tokiofu chiji高崎たかさきろく東京とうきょう府知事ふちじ)”とある。
参考さんこう文献ぶんけん
東京とうきょう公文書こうぶんしょかん Tokyo Metropolitan Archives