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東南亞地區
The Wayback Machine - https://web.archive.org/web/20110117074140/http://www.mst.org.tw:80/Magazine/magazinep/The%20Rest/60.%E6%9D%B1%E5%8D%97%E4%BA%9E%E5%9C%B0%E5%8D%80%E4%BD%9B%E5%83%8F%E5%B1%95.htm

東南とうなん地區ちくたいこくはる甸、えつ南佛なんふつぞうてん

 
                               たいみなみ藝術げいじゅつ學院がくいんふく教授きょうじゅ はんあきらぶん
  釋迦牟尼しゃかむにやく於西もとまえ世紀せいき左右さゆう創建そうけん佛教ぶっきょう興起こうき於印てき佛教ぶっきょう文化ぶんか
てき發展はってんあずか影響えいきょう涵蓋りょうせいしゅう地區ちく向東むかいひがしでんいたる中國ちゅうごくけい韓國かんこくいた日本にっぽんいち般而
げんしょう此路せんため大乘だいじょう佛教ぶっきょう系統けいとう印度いんど佛教ぶっきょうざいつてにゅう中國ちゅうごくてき同時どうじ,另有いち路線ろせん
ゆかり印度いんど直接ちょくせつけいはじめひしげわんでんにゅう東南とうなん地區ちくいたりしょうよし出土しゅつどてき大乘だいじょう佛教ぶっきょう文物ぶんぶつ
證明しょうめい。另外,印度いんど上座かみざ佛教ぶっきょうこうみなみでんいたり斯里らん卡,爾後じごさいでんいたる東南とうなん地區ちく
,此一路線統稱為南傳佛教,やくじゅうさん世紀せいき左右さゆう,這南でんてき上座かみざほとけ
きょうやめなりため東南とうなん地區ちく宗教しゅうきょう信仰しんこうてき主力しゅりょくいたり今日きょう依然いぜんきょうもり
  現在げんざいわが們所いいてき東南とうなん地區ちく國家こっか包括ほうかつはる甸、うまらい西にしたいこくりょうこく
こうわたこしみなみしるしあまあずか菲律まろうどとう諸國しょこくしか而此てき佛教ぶっきょう文物ぶんぶつてん以泰こくはる
あずかえつみなみ三國的佛教造像為主。
  ざいえつ南方なんぽうめんはたはじめすめらぎみなみせいひゃくえつこれ,於西もとまえいちよんねん設立せつりつ南海なんかい
廣州こうしゅう)、かつらりんうつりん)、ぞうぐん日南にちなんそくざいこんえつみなみ北部ほくぶさんぐん,受中國直くになお
せってき管轄かんかつ,其後雖先成立せいりつしょうてき王朝おうちょうただし大抵たいてい而言,えつみなみ一直與中國保
もちみつきりてき關係かんけいふか中國ちゅうごく文化ぶんかてき影響えいきょう不同ふどう於東おひがしみなみ其他地區ちくてき發展はってんこし
みなみいたるこん仍以大乘だいじょう佛教ぶっきょう較占優勢ゆうせい佛教ぶっきょう藝術げいじゅつてき表現ひょうげん題材だいざいあずかみやつこぞう風格ふうかくみなふかちゅう
國風くにぶりあじ
  ゆかりたいぞくもうぞくとう民族みんぞくしょ組成そせいてきたいこくやくざいじゅうさん世紀せいき左右さゆう建立こんりゅうたいぞくさい
はつてき王朝おうちょう──もとたい王朝おうちょう中國ちゅうごく史料しりょうしょうため暹),繁榮はんえいじゅうさんいたりじゅう世紀せいき
接受せつじゅしたがえ斯里らん傳來でんらいてき上座かみざ佛教ぶっきょう,奠定りょうたいこく佛教ぶっきょう發展はってんてき基礎きそ。以阿
瑜陀耶(またたたえ大城おおしろため中心ちゅうしん建立こんりゅうてきおもね瑜陀耶王こくいちさんいちいちななろくなな
こうきた發展はってん兼併けんぺいもとたいひかえせいりょう湄南河中かわなかしたゆう和馬かずまらい半島はんとう相當そうとうだいてきいち
部分ぶぶんじゅうろく世紀せいき中葉ちゅうよう,受緬甸侵略しんりゃく一時いちじしつ統一とういつまた恢復かいふく獨立どくりつ,於一
ななろく七年再度受到緬甸攻擊而滅亡。いたりいまてきたいこく王朝おうちょうやく於此建立こんりゅうひしげ
一世いっせいいちななはちいちはちきゅうねん在位ざいいうつり曼谷,正式せいしき建立こんりゅう所謂いわゆるてき曼谷王朝おうちょう
佛像ぶつぞう頭頂とうちょうじょうゆう焰狀かざりぶつ,蛋臉,まゆ毛成けなりゆみじょう,俯視微笑びしょうそう
かざりあずか遊行ゆぎょうふつてきみやつこぞう題材だいざいなりためたいこく佛像ぶつぞうてき主要しゅよう特徵とくちょう
  以緬甸族ためぬし包含ほうがん撣族、もうぞくとう民族みんぞくしょ組成そせいてきはる甸,おそ至一しいちよんよん
としゆかりはる甸族建立こんりゅう最初さいしょ統一とういつてき國家こっか──がまあま王朝おうちょう勢力せいりょく範圍はんい包括ほうかつ現在げんざいはる
甸的大部たいぶ地區ちくいち○五七年征服猛族所建的直通王國,接受せつじゅもうぞく文化ぶんか
とうがまあま王朝おうちょうごくもりいち,其勢力せいりょく也曾先後せんご伸展しんてんいたりたいこく北部ほくぶたちいたたいこく南部なんぶ
於一八七年因元世祖出兵攻伐而滅亡。其後しょしょう王朝おうちょう同時どうじ並存へいそん,如於みなみ
はる甸的もうぞく建立こんりゅう勃固王朝おうちょういちはちなないちさんきゅうねん),該王あさあずかくらい於上
はる甸的おもねかわら王朝おうちょうしたがえじゅう四世紀末到十五世紀初相互展開激烈戰爭;あるあいつぎなり
だて,如建於一さん一年的東固王朝國王莽應龍在一五五六年佔領泰的清邁
王朝おうちょういちろく三年左右進攻阿瑜陀耶等泰族王國成為大國,滅亡めつぼう於一なな
ねん而代これてき雍籍きば王朝おうちょうまたたたえみつぎ榜王あさいちなないちはちはちねん
),曾於そおいちななろく七年時再入侵阿瑜陀耶,いちなな八五年併吞位於緬甸西南部
てきおもねひしげ王國おうこく爾後じごれきさんえいはる戰爭せんそう,於二次大戰後獨立成為今日的緬甸
あるもといんためかく民族みんぞく長期ちょうきしょ於相互攻てきそう戰中せんちゅう佛像ぶつぞうてき臉部出現しゅつげん種族しゅぞくてき
表徵ひょうちょうなりためはる甸佛ぞうてき最大さいだい特色とくしょく
  しか而在歷史れきし發展はってんてき歲月さいげつちゅうわが們不なん發現はつげんやすしはるてき疆界,ずいちょ兩國りょうこくこく
ちからてききょう盛時せいじゆう變遷へんせん文化ぶんか發展はってん相互そうご影響えいきょう佛教ぶっきょうづくりぞうまた如此。なりため今日きょうひがし
みなみ地區ちく宗教しゅうきょう信仰しんこう主力しゅりょくてきみなみでんてき上座かみざ佛教ぶっきょう藝術げいじゅつ表現ひょうげん題材だいざい釋尊しゃくそんづくりぞう
ため主要しゅようてき內容,其次僧侶そうりょ供養くようじんとう,而不有我ありが們熟悉的菩薩ぼさつづくりぞう
此次てんてき佛教ぶっきょうづくりぞう作品さくひんちゅう,雖有しょうてき現代げんだい作品さくひんただし祂們如實にょじつてきてい現當げんとう
特有とくゆうてき面相めんそうあずか獨特どくとくてきかざりぶつ值得わが們細ほそてきしなあじ作為さくい認識にんしき東南とうなんふつ
きょうてき第一步だいいっぽ