戦後の昭和20年、30年代では、絶大な力を持っているのは新聞だが、とりわけ知識人が愛読していたのは朝日新聞だ。それと週刊誌だった。
テレビが普及して力を持ってきたのは、昭和30年代の後半からだったろうか。娯楽がそうなかった時代は、映画が力を持っていた。
昭和30年代から40年代にかけて、テレビが普及して映画が陰りを見せ始めていたが、原作が映画化されると本が売れたものだ。
僕と妹、伊藤紀子の共著で「ぼくどうして涙がでるの」が、第二書房から初刷が発売されたのは昭和40年1月25日のことだ。それがたちまちのうちに増刷を重ねている。
僕の兄姉は姉がひとり、次が僕で妹が二人。紀子は末娘だった。母親が肺炎で咳が強かったのか、未熟児で産まれたが、戦時中でミルクも手に入れにくい時代だったのによくぞ育ったものだ。
目がぱっちりと大きくてかわいい子だったので、僕は紀子を可愛がっていた。すぐ下の昭子は頭のいい子だったが、気が強くて僕とは気が合わなかった。姉はおばあさん子で、祖父が溺愛していて隠れてお菓子を与えたりどこかに連れて行ったりしていた。
紀子が突然、心臓発作に襲われたのは、昭和36年のクリスマスの夜だった。憎帽弁閉鎖不全症という病名で、手術をしなければ長くは生きられないということで、その頃、榊原仟(しげる)先生という心臓外科の権威がおられる東京女子医大病院に診てもらうために訪れた。
当時は心臓手術を手がけている病院は日本に数えるほどしかなく、東京女子医大に患者が日本中から押し寄せていた。
入院の手続きをしたものの、ベッドが空くのは1年先かもしれないと言われ、目の前が真っ暗になる思いがした。
幸いにも半年ほど待って女性ばかりの8人部屋の401号室に入ることができた。ところが医者の都合で手術日が決まっていたのが何度も変更されたので妹はやけくそになっていた。
僕は思いあまって朝日新聞の読者の投稿欄「読者のひろば」に「妹に激励の手紙を」という手紙を送った。その文面が良かったのか、昭和37年10月3日(水)の朝日新聞の「読者のひろば」のトップに載った。西暦でいえば1962年のことだから、今から49年も前のことだ。切り抜き帳が赤茶けてしまって読めないかもしれないが我ながら名文だ。
その反響の凄さといったらなかった。病院でも大スターが入院しているのかと思ったほどだ。
それがまた記事になり、そして本になったときも、朝日が大きく取り上げてくれたものだから、ありとあらゆるマスコミが記事にしてくれた。そして、最後は日活で映画化になり、その頃、日本心臓血圧研究所の建物が新築されたこともあって、榊原先生の一声で撮影は病院内で撮らせてくれた。その上、カメラマンを手術室に入れてくれて榊原先生が執刀しているところを撮らせてくれた。
劇映画で現実に手術面を撮らせてくれるなんていうことは、これが最初で最後だろう。
書名は「ぼくどうして涙がでるの」。これは、同室の5歳の坊やが手術室に運ばれていくときに最後に残した言葉だった。401号室には、手術室に運ばれて行く時に患者が泣いたり、見送る人が泣いたりすると死ぬというジンクスがあり、それを坊やが知っていて涙をこらえているのに、自然に涙があふれてくるので看護婦さんに聞いた言葉だった。
映画化されるとき、書名が変わると本は売れない。この本も大出版社から発行していたら、何十万部と売れただろうが、朝日の記事がきっかけでベストセラーになった。
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