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70'sバイブレーション!Museum Talk | Museum of Modern Music 1960年代からの日本の音楽シーンをまるごと記憶するアーカイブ
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70'sバイブレーション!

ミュージアムトーク・アーカイブ

なぎら健壱けんいち(シンガーソングライター)

1960年代ねんだいにアメリカでのブームをけて日本にっぽんでもがりをせていったフォークソング。

60年代ねんだいから70年代ねんだいのシーンをリードしたフォークソング、その歴史れきしとスピリットをかたくす。

2013.04.06 [sat] @横須賀よこすか美術館びじゅつかん 司会しかい前田まえださちたけ

わってったフォークソング

——70年代ねんだいは、自由じゆう時代じだいだったといわれていますが、ロックとフォークにはかべがあったんですね。
rc kandagawa
なぎら
ここがフォークのかれになっていきます。71ねんから72ねんですね。そのころ若者わかものというのは、ギターをけなければ非国民ひこくみんだみたいなことをわれてますので(笑)。72ねんごろむかえますと、各社かくしゃどんどんフォークの新人しんじんはじめます。
かぐやひめっていうのはデビューしたとき、コミックソングをうたってましたからね。それがこうのメンバーになって「神田かんだがわ」なんていううたします。そして井上いのうえ陽水ようすいがデビューしますね。これは元々もともとアンドレ・カンドレという名前なまえでした。グループみたいですけど個人こじんでやっていまして、まったくれず、かずばずのひとで、さいデビューをします。そしてそのころになると「神田かんだがわ」が流行はやり、RCサクセションの「ぼくきな先生せんせい」なんかが流行はやって、一大いちだいフォークブームをむかえるようになるんですね。
いろいろコンサートがおこなわれて、73ねんくらいをむかえると、さきほどいました、こういうブームのすえですね。ブームというのは流行はやればすたれるときがあるんですね。ここまでおおきなブームにしてしまったということの一番いちばんおおきな存在そんざいは、やはりこれは吉田よしだ拓郎たくろうさんです。拓郎たくろうさんがいなきゃ、そんなブームがきなかったから、大変たいへんひとでしたね。うたもうまい、ギターもうまい、そして深夜しんや放送ほうそうなんかでも人気にんきナンバーワンということで、あのほうがいなければ無理むりでした。
拓郎たくろうさんがめたあとに、エレックレコードはちょっとちが方向ほうこうきます。軟派なんぱ路線ろせんわれましたけど、かわいそうに生田いくたたかし太郎たろうなんかパンタロンをはかされて、そういうふうにおんなにキャーキャーわれる路線ろせんたせよという。わたしはじめておんなにキャーキャーわれているのをたのは、吉田よしだ拓郎たくろうさんでしたね。当時とうじしんじられないかもしれないけど、キャーとわれちゃいけなかったんです、URCのほうはね。でもおんなたちは、キャーとって、自分じぶんたちのお目当めあての拓郎たくろうさんをくと、全員ぜんいんかえっちゃうんですね。これは早晩そうばんおそかれはやかれブームはわるなとわたしおもいましたね。つまりってることはなにかというと、一大いちだいブーム、そして若者わかもの全部ぜんぶきつけた、そこの影響えいきょう拓郎たくろうさんにはあったんです。これはわる意味いみじゃないです。素晴すばらしい。ところがダメにしたのも、やっぱり拓郎たくろうさんなんですね。ききてとしをどんどんわかくしてしまいました。
それまではやれ反戦はんせんとか、いろいろちょっとプロテストする、社会しゃかい抗議こうぎしてなきゃいけなかったんですね、フォークというのは。それから時事じじ、これをトピカルソングといますね。つまりうたう新聞しんぶんのように、かつての瓦版かわらばんともいますけど、ニュースせいってなきゃいけなかった。高田たかだわたるさんなんかはよくそういうのをやって時代じだいってました。「自衛隊じえいたいにゅうろう」もそうですね。
kagawa
ところがつぎ世代せだいになると、そんなものはいらないんですね。ギターさえはじければいいんです。ギターの音色ねいろがすれば、どれもがフォークになります。そうなりますと、たとえば加川かがわりょうさんの「教訓きょうくんⅠ」のようなうたがいらなくなっちゃった。そこになに意味いみがいらなくなっちゃった。そうするとうたっている本人ほんにんたちも、つらくなってくるんですよ。一番いちばんつらくなっちゃったのは岡林おかばやし信康のぶやすさんですよ。フォークの神様かみさまなんてわれちゃって、あがめられて。岡林おかばやしさんが恋愛れんあいうたなんかうたうと、かえれコールがこるわけですよ。人間にんげんですから喜怒哀楽きどあいらくをうたってしかるべきなんです。ところがそういううたをうたうと「かえれ」ってわれるんですね。なにをうたえばいいんだと。「社会しゃかい抗議こうぎしたいことがあるだろう」とわれるわけです。いい加減かげんイヤになりますね。高田たかだわたるさんもそうです。高石たかいし友也ともやさんもそうです。おおくのひとは、そういうってきますね。
agata
それでついにみんな、自由じゆうなことをやらせてくれとめていきます。URCの連中れんちゅうも、うっとうしいからもう勘弁かんべんしてくれとめていく。なにわたしこのんでこういううたつくったりうたったりしたくないんだと。斉藤さいとう哲夫てつおさんもそうかな。そのときに「いらっしゃい、いらっしゃい」と手招てまねきしたのが、ベルウッドというレーベルです。あがたもりぎょさんの『噫無情むじょう』なんかそうですね。
かたやエレックはファンのとしをどんどんわかくしちゃったもので、にっちもさっちもいかなくなりますね。まりちゃんズなんていうグループがいたり、ずうとるび、あの座布団ざぶとんはこびの山田やまだくんがいたんですね。ああいうものをはじめたから、エレックファンもちょっと戸惑とまどうんですね。
chudoku
それでどんどんダメになっていくんですよ。これは時期じきわるかったですね。ダメになるURCとダメになるエレックがおな会社かいしゃになっちゃうんですね。わたしの「悲惨ひさんたたかい」といううたがヒットをします。あれはLPがURCの発売はつばいで、シングルばんはエレックです。こんなことがありたんですね。
そんなふうにフォークがどんどんってわられていって、そこにはプロテストもトピカルもいりません。くるまいていて耳障みみざわりがなければいいんですね。ということは、真剣しんけん必要ひつようがなくなったんです。ジーッとしてかなくても、こっちからはいってこっちへけていって、心地好ここちよければいいというきょくになります。ということで、路頭ろとうまよったのがフォークシンガーです。
かなしかったのは、そのまえに「テレビにない」ってっちゃったんですよ、フォークシンガーは。「テレビにてたまるか。5ばんあるうたを2ばんだけうたえ? 冗談じょうだんじゃない。歌謡かようきょくじゃあるまいし」と。5ばんあるうたは5ばんまでうたわせろ。テレビカメラのほうにくなんて、金輪際こんりんざいやらないからねなんてって、拒否きょひしました。
それを最初さいしょはじめたのは高石たかいし友也ともやさんです。それにならっちゃったのが吉田よしだ拓郎たくろうさん。岡林おかばやし信康のぶやすさんもそう。みんなないとったんですね。ところが仕事しごとがなくなると、そんなことってられません。「ディレクター、昨日きのうまでのことはなしにして、どうにかしてもらえませんかね」「冗談じょうだんじゃない。おれたちが一番いちばんほしかった時代じだいに、おまえ拒否きょひしたじゃないか。いまはもう下火したびになって、使つかってもしょうがないよ」ということで、テレビからも拒否きょひされます。
おおきなコンサートがまずなくなりますね。かつては泉谷いずみやしげる、チェリッシュ、いつつのあか風船ふうせん遠藤えんどう賢司けんじ、なぎら健壱けんいちなんていう不思議ふしぎなコンサートがあったりしました。そういうものもどんどんなくなっていきます。
そのころになると、ライブハウスが日本にっぽんちゅうにどんどんできてきます。実際じっさいのところコンサートも激減げきげんして、それしかんでもらえないんですよ。わたし全国ぜんこくのライブハウスへきましたよ。1けんじゃとてもペイできませんから、3、4けんまわりますね。80ねんごろのギャラが、1ステージ2まんか3まんですよ。結構けっこうもらうじゃないかとおもいますか? 10かいやれば30まんえんじゃないかと。これは、アゴあしまくらみです。つまりアゴ、ものですね。あし旅費りょひまくらというのはまりです。これをきますと、10日間にちかんやって、東京とうきょうに1まんえんってかえれればいいでほうです。これはこまったなあとおもってる矢先やさきにテレビの仕事しごとて。わたしかたくなにまもってましたよ、テレビにちゃいけないというのをね。あるたら、高石たかいし友也ともやさんがティッシュのコマーシャルにてるんですよ(笑)。あれ、おかしいんじゃないかなあとおもって。拓郎たくろうさんはフジカラー(笑)。
でもね、すっごいこだわりはありましたね。イヤだなあって。でも仕事しごとないもんなぁということで、結局けっきょくはテレビにるようになったんです。最初さいしょは、「フォークシンガー」というかんむりがつくと、すくなからず抵抗ていこうはありました。それを、まあいいじゃないかと。テレビにるとガタガタひとが、わたしたいして生活せいかつしてくれるのかと。それにづいたのはわたし泉谷いずみやしげる、山本やまもとコウタロー、武田たけだ鉄矢てつや。この4にんでしたね。あとは、まだまだかたくなで、90年代ねんだいむかえたときに、わたし耳元みみもとで、「なぎら、テレビにたのしい?」と、皮肉ひにくまじえてったやつがいるんですわ。ああ、かわいそうなひとだなあと。いまだにそのひとは、すごいテレビにたいらしいんですよ(笑)。
そういう時代じだいをフォークはてまいりました。簡単かんたんですが、そんなとこかな。ただ日本にっぽんとアメリカのフォークにおおきなちがいがあったのは、アメリカのフォークブームはポップスに吸収きゅうしゅうされることはなく、ベトナム戦争せんそうがなくなったときに崩壊ほうかいしていくんですね。日本にっぽんはそれの模索もさくであり、流行はやりであったがために、うたったひともいるでしょうし、カッコつけのひともいたとおもいます。ベトナム戦争せんそうをそんなに顕著けんちょ如実にょじつかんじていたひとというのは、アメリカよりも格段かくだんすくないですね。だから日本にっぽんのフォークの衰退すいたいというのは、アメリカとはちがったかたちでやってたということなんですね。
huchi
——ありがとうございます。うたまじえながら非常ひじょう興味深きょうみぶかいフォークのおはなしでした。そろそろお時間じかんですが、最後さいごにお誕生たんじょうの4がつ16にちあたらしいアルバムのおはなしすこし。
なぎら
風致ふうち空地くうち』、ふういたそら地面じめんという。いままでの内容ないようは、どっちかというとウエスタンテイストなんですけど、それとはちがったきょく構成こうせいしています。面白おもしろいアルバムだとおもいます。よかったらいてやってください。ありがとうございました。

Artist Profile アーティスト紹介

なぎら健壱

なぎら健壱けんいち Kenichi Nagira

なぎら・けんいち 1952ねん東京とうきょう銀座ぎんざきゅう木挽こびきまち)にまれる。以来いらい下町したまちそだつ。高石たかいしともや、西岡にしおかたかし、高田たかだわたるらに影響えいきょうけ、フォークソングに傾倒けいとうし、1970ねん岐阜ぎふ中津なかつがわおこなわれた全日本ぜんにほんフォークジャンボリーに出演しゅつえんしたことをきっかけにデビュー。1972ねんファーストアルバム「万年床まんねんどこ」をリリース。趣味しゅみおおく、カメラ、散歩さんぽ自転車じてんしゃ落語らくご飲酒いんしゅ、がらくた収集しゅうしゅう、など・・・。現在げんざいはコンサート、ライブ活動かつどうほか独特どくとくのキャラクターでテレビ、ラジオ、映画えいが、ドラマの出演しゅつえんや、新聞しんぶん雑誌ざっしとう執筆しっぴつでも活躍かつやくかずおおくの著書ちょしょは、むかし生活せいかつ記録きろくした「下町したまち小僧こぞう」など下町したまちをテーマにしたものがおおく、そのような写真しゃしんしゅうしている。下町したまち研究けんきゅうには、驚異きょうい記憶きおくりょくするど分析ぶんせきりょく発揮はっきし、追随ついずいゆるさない。近年きんねんは、下町したまちげた番組ばんぐみ出版しゅっぱんぶつ非常ひじょうおおい。下町したまち住人じゅうにん風物ふうぶつまつりなどへの愛情あいじょう人一倍ひといちばいつよい。Oがた、おひつじ
なぎら健壱けんいち official website

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