1947(昭和22)年には16,090車(21,792トン)、翌1948(昭和23)年には13,475車(51,514トン=『東武鉄道六十五年史』)と信じられない物量の建設資材がこの路線を使って米軍住宅建設予定地へと送り込まれました。その突貫工事の甲斐あって上級士官用住宅は1948(昭和23)年6月に完成し、アメリカ合衆国第18代大統領ユリシーズ・グラントの名前を冠して「グラントハイツ」と命名されました。
▲啓志線は田柄川(現在は暗渠)に沿って農地の中を通っていた。この写真を撮影した34年前にはまだところどころに道床跡が残っており、そのルートを同定することも可能だった。彼方にグラントハイツの象徴である暖房工場の2本煙突が見える。'74.6
クリックするとポップアップします。
また、上板橋駅北部信号所とグラントハイツを結ぶこの路線は、進駐軍側の建設工事責任者ヒュウ・ケーシー中尉の名前を取り、それに縁起の良さそうな漢字を当てはめて「啓志線」と称されることとなります。ただ、現在のところ鉄道側の一次資料でこの「啓志線」の記載があるものは発見されておらず、あくまで通称であったのかもしれません。
グラントハイツは総面積1.8k㎡、建物数730、世帯数約1200の巨大住宅地で、同じ東上線沿線の朝霞キャンプが独身兵士向けの住居であったのに対してこちらは上級士官向けの家族住宅でした。一戸に必ずメイドが一人つき、関連する日本人従業員も5000人に達したと伝えられています(承前『練馬区史』)。なおかつ、学校、教会はもとより、劇場、プール、ドライブイン、電話局、ローラースケート場、ゴルフ練習場まで備え、それこそアメリカの小都市をそのまま日本に移したような様相を呈していたのです。私が今回ご紹介する写真を撮影した1974(昭和49)年の時点では、すでに住民は立川・横田基地へと移ったあとでしたが、広い街路と塀のない芝生の庭の大きな“ハウス”、それに、そこここに残された英文の標識類に、立ちすくむ思いがしたのを鮮明に覚えています。
▲同じく上の写真の地点の上板橋方。宅地化が進んでいたとはいえ、まだまだ“空地”のまま放置されたような線路跡が散見された。'74.6
クリックするとポップアップします。
ところでこの「啓志線」では建設工事中から“旅客列車”が運行されてきました。関係者の通勤の便を図る目的もあったのかもしれませんが、1947(昭和22)年12月(『東武鉄道六十五年史』によるが、同書の別頁および『東武鉄道百年史』では6月)から翌1948(昭和23)年2月まで、東武鉄道では国鉄からガソリンカー10輌を借り受け、池袋?啓志間をなんと30分間隔でシャトル輸送を行っています。残念ながらこの事実は敗戦後の鉄道輸送を克明に記録した『鉄道終戦処理史』にもいっさい記載がなく、使用された車輌も含め、今後の一次資料発掘による解明が待たれます。
▲国鉄の戦後処理を生々しく伝える随一の文献『鉄道終戦処理史』(日本国有鉄道外務部/1957=昭和32年)に見る進駐軍専用列車運転本数。東上線関連では品川?朝霞、横浜港?朝霞、池袋?朝霞にかなりの本数の列車設定が見てとれる。関東地方の一部のみを抜粋。
クリックするとポップアップします。
▲真新しい国鉄スハ43系客車を牽いて東上線を行く東武鉄道37号機。朝霞便とも考えられるが、この時点ではまだ啓志線は実用されていたはずで、当時としてはハイクラスな43系を借り入れていることからも、この列車がひょっとすると「啓志」発着の士官専用列車なのかも知れない。'54.10.17 下板橋 P:石川一造
さらに連合軍側はこのガソリンカーを池袋から山手線経由で東京駅まで直行させる計画を持っていたものの「諸般の事情により実現しなかった」(『東武鉄道六十五年史』)とされています。もしこの直通運転が実現していれば、わが国の鉄道史に残る記録となったに違いありません。