日本 復帰 への道
【
Ⅰ.
Ⅱ.
Ⅲ.アメリカによる
Ⅳ.
Ⅴ.
Ⅵ.
Ⅶ.
Ⅰ.琉球 処分 と〈ヤマト世 〉
その
ここでは、
1.沖縄 県 の誕生
1879(明治 12)年 、日本 の一 県 となった沖縄 でしたが、行政 は、鍋島 直 彬 (なべしまなおよし)(初代 )、上杉 茂憲 (うえすぎもちのり)(第 2代 )ら中央 から派遣 される県令 (後 の県知事 )を中心 に行 われました。
廃藩置県 の後 は、琉球 処分 に不満 をもつ士族 や、先 島 分 島 問題 で緊張 関係 にあった清国 への配慮 などから、明治 政府 は急激 な改革 を避 け、琉球 国 時代 の〈旧慣 温存 〉の施策 を図 る慎重 な姿勢 をとりました。一方 で、学校 の設立 や教科書 『沖縄 對話 』を使用 した日本語 教育 など、日本人 としての教育 に力 を入 れていきました。
1895(明治 28)年 、日 清 戦争 での勝利 により、両国 間 で懸案 となっていた先 島 分 島 問題 が解決 すると、明治 政府 は沖縄 の同化 政策 に力 を入 れるようになります。その後 沖縄 は、急速 に日本 の国家 体制 に組 み込 まれていきました。
1895(
2.明治 政府 と近代 化
Ⅱ.沖縄 戦 と〈アメリカ世 〉のはじまり
1945(昭和 20)年 3月 、米 軍 がついに沖縄 に上陸 しました。日本 本土 防衛 の最後 の〈砦 〉とされた沖縄 では、その後 約 3カ月 にわたって日米 両 軍 による激 しい戦闘 が繰 り広 げられました。
沖縄 戦 は日米 双方 で20万 人 もが命 を落 とす壮絶 な戦 いでしたが、県民 も約 4人 に1人 が犠牲 になりました。沖縄 戦 の特徴 の一 つは、軍人 よりも民間 人 のほうに多 くの犠牲 が出 たことでした。また、混乱 する戦場 においては自国 軍 によって住民 が殺害 されたり、死 に追 い込 まれたりする出来事 も発生 しました。大日本帝国 の一員 として戦争 の一端 を担 った沖縄 でしたが、このような悲惨 な経験 から、戦争 を生 き抜 いた人々 は「2度 と戦争 はしてはいけない」という思 いを強 く抱 くようになりました。この戦争 体験 を抜 きに戦後 の沖縄 社会 を考 えることはできません。
日本 とは歴史 も文化 も制度 も違 う〈アメリカ世 〉の下 、人々 は何 を思 い、どう行動 したのでしょうか? ここでは、敗戦 から講和 条約 締結 までの占領 期 の沖縄 社会 の変遷 を紹介 します。
1.〈ヤマト世 〉の終 わり
その
9月7
No | |||
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1 | 1.〈ヤマト |
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17 | 0000071118 | ||
18 | 0000112235 (14-11-3) |
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19 | 0000112255 (78-12-1) |
||
20 | 0000017549 | ||
21 | 0000112188 (02-49-1) |
||
22 | 0000112257 (79-16-1) |
2.新 たな時代 の幕開 け
No | |||
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2 | |||
23 | 0000061090 | ||
24 | [ |
0000026526 | |
25 | 0000062834 | ||
26 | 0000062820 | ||
27 | 0000072859 | ||
28 | [ |
0000112235 (14-10-4) |
|
29 | [ |
0000112240 (15-56-2) |
|
30 | [ |
0000112240 (15-56-3) |
3.〈冷戦 〉と日本 からの分離
アメリカは、日本 の降伏 以前 から、戦争 に勝 った場合 の沖縄 の処遇 をどうするか議論 していました。その中 でも軍部 は、太平洋 地域 の安全 保障 を確保 するためには沖縄 をアメリカの信託 統治 下 におくべきだと主張 していました。
1946(昭和 21)年 1月 29日 、日本 占領 軍 の最高 司令 官 であるマッカーサーは、北緯 30度 以南 の南西諸島 を日本 から分離 する決定 を下 しました。その結果 、沖縄 は本土 とは全 く違 う道 を歩 むことになります。日本 本土 で実施 された、新 憲法 の発布 を含 む数々 の民主 化 政策 は、沖縄 には適用 されませんでした。
やがて、ソ連 による原爆 開発 、中華人民共和国 の成立 など、東 アジアにおける共産 主義 諸国 との〈冷 たい戦争 〉が激 しさを増 してくると、アメリカは当初 の日本 非 武装 化 の方針 を捨 て、日本 を軍事 的 同盟 者 として育成 する方向 へと方針 転換 しました。その方針 の前提 となったのが、〈日本 の再 軍備 〉〈米 軍 駐留 〉のほか、〈沖縄 の分離 支配 〉でした。
この基本 方針 に基 づいて、沖縄 では基地 建設 が本格 化 し、米 軍 政府 の民 政府 への改編 、地元 中央 政府 の設置 など、長期 安定 統治 のための足固 めが進 められました。
そして、1952(昭和 27)年 、日本 が講和 条約 によって独立 国 として国際 社会 に復帰 した時 、沖縄 は正式 に日本 から分離 され、アメリカの施政 権 下 に置 かれることになりました。
1946(
やがて、
この
そして、1952(
No | |||
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3 | 〈 |
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31 | 『 |
0000025268 | |
32 | ( |
0000017550 | |
33 | 0000112183 (115-15-3) |
||
34 | 0000112182 (114-33-4) |
||
35 | Conversation between General of the Army MacArthur and Mr. George F. Kennan 1948 | 0000030208 | |
36 | マッカーサー |
0000112208 (05-34-1)) |
|
37 | R00001152B |
Ⅲ.アメリカによる統治 体制 の強化
アメリカ政府 は、沖縄 の基地 を半永久 的 に使用 する方針 を固 めると、本格 的 な恒久 基地 建設 に取 りかかりました。そして、1952(昭和 27)年 の講和 条約 で正式 に沖縄 の施政 権 を獲得 すると、次々 に布令 を発 して土地 の強制 収用 を開始 しました。しかし、こうした強硬 政策 はやがて住民 からの反発 を招 き、効果 的 な基地 の運用 にも支障 をきたすようになります。そこで米 軍 はさまざまな施策 を実施 して、統治 体制 の安定 化 を図 ろうとしました。
しかし、米 軍 がいかに統治 体制 を安定 化 させようとしても、軍事 を優先 させる政策 には違 いなく、統治 者 と被 統治 者 の利害 が対立 することがしばしばでした。
ここでは、講和 後 のアメリカの軍事 優先 政策 とそれがもたらした住民 生活 へのさまざまな影響 をを中心 に紹介 します。
しかし、
ここでは、
1.〈太平洋 の要 石 〉と〈島 ぐるみ闘争 〉
1952(昭和 27)年 の講和 条約 後 、軍 用地 使用 の法的 根拠 を確固 たるものにするため、米 軍 は地主 と正式 に契約 を結 ぼうとしました。しかし、米 軍 が提示 した地代 の安 さと契約 期間 の長 さなどにより、当初 、契約 に応 じる地主 はほとんどいませんでした。そこで米 軍 は、新 たな布令 を発 して、1953(昭和 28)年 の真和 志 村 安謝 ・銘 苅 や小禄 村 具志 を皮切 りに、武装 兵 を出動 させて次々 と土地 を接収 していきました。
1954(昭和 29)年 3月 、米 軍 政府 は、接収 した軍 用地 に対 しては地 料 を一括 で払 うという方針 を発表 しました。これを土地 の買 い上 げと見 た住民 はこれに反発 し、方針 を撤回 するよう要請 しました。そして、1955年 には伊江 村 真謝 、宜野湾 村 伊佐 浜 などで強制 収用 が実施 されました。
1956(昭和 31)年 6月 、米 軍 による軍 用地 政策 をおおむね是認 する米国 議会 の勧告 が出 されると、激 しい反対 運動 がまたたく間 に沖縄 全土 に広 がりました。この〈島 ぐるみ闘争 〉は、日本 復帰 運動 とも相 まって激 しさを増 していきました。これを受 けて、米 当局 は1958年 頃 から沖縄 統治 政策 の見直 しに着手 しました。その中 で、必要 な基地 の権利 を確保 した上 で施政 権 を返還 するという「飛 び地 」返還 構想 も浮上 していました。
1954(
1956(
No | |||
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1 | 〈 |
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38 | 0000112226 (07-83-1) |
||
39 | [ |
0000112183 (115-07-1) |
|
40 | 0000112227 (08-10-2) |
||
41 | 0000108753 (012099) |
||
42 | メルビン・M・プライスを |
0000108919 (057736) |
|
43 | R00020536B | ||
44 | プライス |
0000030365 | |
45 | 0000108868 (044255) |
||
46 | [ |
0000108926 (058901) |
|
47 | プライス |
R00020577B | |
48 | R00047799B | ||
49 | 0000108928 (059384) |
||
50 | Memo for Dulles from Robertson | U90006116B | |
51 | ドル |
0000112303 (10-49-2) |
2.〈民主 主義 のショーウィンドー〉
アメリカは、戦争 の教訓 から、戦後 は軍国 主義 日本 を非 武装 ・民主 国家 にすることを基本 目標 にしました。その方針 に基 づいて、日本 本土 では、〈婦人 参政 権 付与 〉〈労働 組合 法 の制定 〉〈教育 制度 改革 〉など民主 化 政策 を実行 しました。沖縄 でも効果 的 な基地 運用 のためには、地元 の協力 だけでなく、日本 を含 めた国際 社会 の理解 が不可欠 でした。そのために、沖縄 を〈民主 主義 のショーウィンドー〉にしようとしました。
ただし、1950(昭和 25)年 に出 された沖縄 統治 の基本 方針 「琉球 列島 米 国民 政府 に関 する指令 」に明記 されているように、米国 は「軍事 的 必要 の許 す範囲 」において「民主 主義 の原則 により設立 された立法 、行政 、司法 の機関 による自治 」を促進 することとなっていました。沖縄 における民主 化 政策 には始 めから制約 があったのです。
ただし、1950(
No | |||
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2 | 〈 |
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52 | 0000088098 | ||
53 | [ |
0000112221 (07-21-3) |
|
54 | 『 |
U00001261B | |
55 | 『 |
U00000290B | |
56 | [琉米 |
0000086520 (46-024) |
|
57 | “Okinawan Showcase” The New Republic (December 301957) フライマス・コレクション | 0000024187 | |
58 | 0000108713 (000729) |
||
59 | 0000112037 (21-11-3) |
||
60 | US Policy toward the Ryukyu Islands | U90005149B |
3.軍事 優先 政策 の弊害
Ⅳ.復帰 運動
しかし、
ここでは、
1.あいまいな地位
アメリカ施政 権 下 の沖縄 の地位 はあいまいなものでした。
アメリカは琉球 列島 が日本 の領土 であり、琉球 住民 の国籍 が日本 にあることは否定 していませんでした。しかし、琉球 諸島 への出入 りは、米 軍 によって厳 しく管理 されており、琉球 住民 が日本 本土 へ渡航 する際 にはパスポートが必要 でした。
また、沖縄 の船舶 は、掲揚 すべき国旗 がなかったため、「国際 信号 旗 D旗 」という旗 を掲揚 して航行 していましたが、国際 的 には通用 せず、1962(昭和 37)年 4月 、インドネシアのモロタイ島 海域 で操業 中 のマグロ漁船 「第 1球 陽 丸 」が国籍 不明 を理由 にインドネシア海軍 から銃撃 を受 け、死傷 者 が出 るという事件 が発生 しました。
その後 、日米 両国 による交渉 の結果 、1967(昭和 42)年 7月 からようやく日 の丸 の掲揚 が認 められるようになりました。
アメリカは
また、
その
2.〈祖国 への道 〉
1952(昭和 27)年 の講和 条約 で、沖縄 が日本 本土 から切 り離 されることが明 らかになると、日本 への復帰 運動 が高 まりました。1953(昭和 28)年 1月 には沖縄 教職員 会 や沖縄 県 青年 団 協議 会 など23団体 が参加 して全島 的 な「沖縄諸島 祖国 復帰 期成 会 」が結成 されました。しかし、この運動 は、米 軍 当局 からの強 い圧力 にあい、やがて自然 消滅 しました。
こうして一時 沈滞 した復帰 運動 でしたが、1950年代 後半 に軍 用地 問題 に端 を発 した〈島 ぐるみ闘争 〉が起 こると、運動 は再 び息 を吹 き返 しました。1960(昭和 35)年 4月 には、教職員 会 、労働 組合 、政党 、PTA、遺族 連合 会 など幅広 い団体 が参加 して、「沖縄 県 祖国 復帰 協議 会 」(復帰 協 )が結成 され、運動 の中心 を担 いました。この頃 からはまた、賃金 水準 、税制 、社会 保障 制度 などでの本土 との格差 是正 の観点 から復帰 のメリットを強調 する傾向 も強 まっていきました。
こうして
3.さまざまな復帰 論
1950年代 後半 の島 ぐるみ闘争 において住民 の不満 の強 さを目 の当 たりにした米 軍 当局 は、それまでの統治 政策 を軌道 修正 しました。軍 用地 料 の一括払 いの断念 のほか、外資 導入 促進 のためのドル切 り替 え、日本 政府 からの技術 援助 の導入 、西表島 の日米 共同 開発 など、本土 との格差 是正 のための措置 に積極 的 に取 り組 んでいきました。
そのような流 れの中 、当時 、 長年 沖縄 の政権 を握 っていた沖縄 自由民主党 は、復帰 を唱 える前 に、種々 の障害 を取 り除 くことが先決 だとして、〈自治 の拡大 〉〈渡航 制限 の撤廃 〉〈日本 政府 援助 の拡大 〉などを一 つ一 つ実績 を積 み重 ねながら「祖国 との実質 的 な一体化 」を達成 することを方針 として打 ちだしました。一方 、〈日 の丸 掲揚 〉〈渡航 制限 の撤廃 〉〈主席 公選 の実現 〉〈国政 参加 〉などを掲 げて運動 を推進 していた野党 は、「現状 を肯定 するもの」として与党 を批判 しました。このように、復帰 運動 のあり方 をめぐっては住民 の間 で意見 の対立 も見 られました。
そのような
No | |||
---|---|---|---|
3 | さまざまな |
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88 | 1957 |
0000002347 | |
89 | 1958 |
0000002351 | |
90 | 1963 |
0000002363 | |
91 | 1968 |
0000002377 | |
92 | U90006002B | ||
93 | 25-3-115 | ||
94 | [キャラウェイの |
0000025873 | |
95 | 0000112307 (12-17-4) |
Ⅴ.日米 による沖縄 返還 交渉
しかし、
ここでは、
1.交渉 の始 まり
1962(昭和 37)年 3月 、ケネディ大統領 は「琉球 は日本 の一部 」と明言 し、〈沖縄 新 政策 〉を発表 しました。1964(昭和 39)年 4月 には「日米 協議 委員 会 」「日米 琉技術 委員 会 」が設置 され、日本 と沖縄 との「一体化 」政策 が推 し進 められました。こうして、高度 経済 成長 を背景 に沖縄 に対 する日本 政府 の関与 が深 まるにつれて、沖縄 問題 は日米 間 の重要 な議題 となっていきました。1965(昭和 40)年 8月 には、戦後 初 めて現役 首相 として沖縄 を訪問 した佐藤 首相 は、「沖縄 の祖国 復帰 が実現 しない限 り、わが国 にとって戦後 は終 わっていない」と演説 しました。
沖縄 返還 を本格 的 に検討 し始 めたアメリカ政府 は、1966(昭和 41)年 までに基地 機能 の確保 を条件 に施 政権 返還 に応 じることは可能 との結論 を出 しました。そしてついに、1967(昭和 42)年 11月の日米 首脳 会談 において、両 3年 以内 に返還 の時期 について決定 することが合意 され、沖縄 返還 は現実 のものとなりました。
No | |||
---|---|---|---|
3 | さまざまな |
||
96 | 0000073582 | ||
97 |
0000002351 (055655) |
||
98 |
0000096822 (11-103) |
||
99 | 0000002377 | ||
100 | Our Ryukyus Bases 1966 | U90006002B | |
101 | 25-3-115 | ||
102 | 0000025873 |
2.1969年 -米 側 の交渉 戦略
1969(昭和 44)年 6月 、ワシントンで沖縄 返還 の日米 交渉 が正式 に始 まり、11月に予定 されていた日米 首脳 会談 での最終 合意 を目指 しました。その際 、最 も難航 したのが、有事 の際 の〈基地 の自由 使用 〉〈核兵器 の再 持込 み〉と返還 に伴 う〈財政 補償 〉でした。軍事 的 側面 では、アメリカ政府 は早々 と核兵器 撤去 の決定 をしていながら、交渉 の最終 段階 までその〈切 り札 〉を使 って、日本 政府 から譲歩 を引 き出 していました。結果 として、基地 の自由 使用 は共同 声明 と同日 に行 われた佐藤 首相 による「一方 的 な声明 」、核 の再 持 ち込 みは、秘密 合意 議事 録 という形 で結実 することになりました。また、財政 的 な側面 についても、アメリカは返還 によって財政 的 な負担 を負 うようでは米 国民 や議会 の承諾 が得 られないと主張 して、日本 側 に相当 額 の負担 を強 いました。
No | |||
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2 | 1969 |
||
103 | U90007004B | ||
104 | U90007004B | ||
105 | “As Okinawa GoesSo Goes Japan” 1969( |
U90005482B | |
106 | U90008139B | ||
107 | 0000108792 (023281) |
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108 | 0000108833 (034604) |
3.財政 交渉
このいわゆる〈
No | |||
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3 | |||
109 | 0000000793 | ||
110 | [ |
U90007159B | |
111 | [VOAの |
U90007159B | |
112 | 0000097003 | ||
113 | キッシンジャー |
0000074401 |
Ⅵ.復帰 への道 ~最終 章
1969(昭和 44)年 11月、日米 首脳 会談 において、長年 県民 が求 めてきた日本 復帰 が正式 に決 まりました。その頃 すでに復帰 に向 けた準備 は進 んでいましたが、首脳 会談 以降 、一段 と加速 されました。しかし、長年 のアメリカ統治 により、沖縄 には本土 とは違 う制度 が数多 く存在 しており、制度 調整 や県政 移行 の作業 は難航 しました。ある人 に言 わせるとそれは「四角 いパイプと丸 いパイプをうまくつなぐ」ようなものでした。 一方 、琉球 処分 や敗戦 の時 と同 じように、この歴史 的 な〈世 替 わり〉を前 に社会 的 な不安 も広 がり、復帰 についての考 えは立場 によってさまざまでした。
ここでは、復帰 が決 まってから復帰 するまでの約 2年 半 の沖縄 社会 に焦点 をあてて紹介 します。
ここでは、
1・2.制度 調整 と県政 移行
1967(昭和 42)年 11月の第 2次 佐藤 ・ジョンソン会談 の後 、1968(昭和 43)年 3月 に「高等 弁務 官 に対 する日米 琉諮問 委員 会 」が設置 され、復帰 に向 けた準備 がスタートしました。1969(昭和 44)年 の日米 共同 声明 で1972年 返還 が決 まると、翌 1970(昭和 45)年 3月 には「復帰 準備 委員 会 」が設立 され、琉球 列島 米 国民 政府 (USCAR)の機能 を琉球 政府 や日本 政府 に移譲 するための協議 が行 われました。
日本 政府 は1970(昭和 45)年 11月から三 次 にわたって「復帰 対策 要綱 」を決定 しました。それには、日本 政府 の対 沖縄 施策 、本土 法 の適用 のほか、沖縄 に対 する国 の具体 的 政策 が示 され、国費 学生 制度 、ハンセン病 患者 の保護 、沖縄開発庁 設置 、通貨 交換 レート、琉球 政府 および関係 機関 の取 り扱 い等 、246項目 が盛 り込 まれました。琉球 政府 も1971(昭和 46)年 1月 、復帰 に広 く県民 の意思 を反映 させる目的 で、各界 の代表 的 人物 50人 余 りで構成 された「復帰 対策 県民 会議 」を設置 しました。
アメリカ統治 時代 の琉球 政府 は、行政 ・司法 ・立法 の三権 が分立 し、司法 権 を行使 していたことなど、国家 的 要素 もかなりの範囲 で認 められていたため、本土 の都道府県 のような地方 公共 団体 とは異 なった性質 を持 っていました。復帰 の際 には、琉球 政府 の持 つ機能 をそのまま沖縄 県 へ移行 することはできませんでした。そのため、県政 移行 には多 くの複雑 で困難 な作業 が伴 いました。
アメリカ
3.複雑 な思 い
1969(昭和 44)年 11月の「日米 共同 声明 」や1971(昭和 46)年 6月 の「沖縄 返還 協定 」に見 られるように、日米 交渉 の結果 は多 くの沖縄 県民 が求 めていた〈基地 のない平和 な沖縄 〉とは程遠 いものでした。
1971(昭和 46)年 11月の返還 協定 の国会 承認 を前 に、屋良 主席 は県民 の声 を国会 に訴 えるべく「復帰 措置 に関 する建議 書 」を携 えて上京 しました。しかし、返還 協定 は主席 の到着 を待 つことなく衆議院 特別 委員 会 で強行 採決 され、県民 の声 は国会 に届 きませんでした。
その頃 、米 軍 支配 からの解放 を〈復帰 〉に託 して国家 に拠 り所 を求 めた復帰 運動 自体 が誤 りだったとする〈反 復帰 論 〉も台頭 しました。
琉球 処分 による日本 への編入 以降 、日本 を祖国 とみなす思 いは多 くの人 に共有 されていたとはいえ、このように、1972(昭和 47)年 の日本 への復帰 は、多 くの県民 が複雑 な思 いを胸 に迎 えることになりました。
1971(
その
No | |||
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3 | |||
127 | 0000094157 | ||
128 | 「 ( |
08-107 | |
129 | 「われわれは |
0000096819 (08-107) |
|
130 | T00009489B | ||
131 | R00001220B | ||
132 | H020100642 | ||
133 | 0000108848 (038814) |
||
134 | 0000105865 |
Ⅶ.新生 沖縄 県
1972(昭和 47)年 5月 15日 、27年間 に及 んだアメリカ統治 が終 わりを告 げ、沖縄 は日本 に復帰 しました。
これまで見 たように、〈世 替 わり〉により生 じるであろう急激 な変化 に対応 するため、国 も琉球 政府 も復帰 前 からさまざまな対策 を講 じてきました。しかし、米 軍 基地 再編 にともなう軍 雇用 員 の大量 解雇 、ドルショックによる急激 な円 高 など、沖縄 をとりまく国内 ・国際 情勢 は想定 を超 えるような変化 を沖縄 にもたらしました。そして、復帰 後 に記念 事業 の一 つとして行 われた沖縄 国際 海洋 博覧 会 や本土 との格差 是正 を基調 とした数次 にわたる沖縄 振興 策 などは、県民 の生活 だけでなく、県土 の姿 をも大 きく変 えていきました。しかしまた、日本 復帰 から40年 が経 った今 なお変 わらない問題 もあります。
ここでは、復帰 後 に沖縄 がたどってきた道 を振 り返 り、長年 の願 いだった復帰 がもたらしたものは何 だったのかを考 えます。
これまで
ここでは、
1.1972・5・15
1972(昭和 47)年 5月 15日 午前 0時 、沖縄 全島 にサイレンと汽笛 が鳴 り響 き、沖縄 は復帰 の日 を迎 えました。
しかし、その思 いは複雑 でした。琉球 政府 が要求 した「即時 無条件 全面 返還 」はかなわず、日米 同盟 の再編 の下 、沖縄 の米 軍 基地 はそのまま残 りました。と同時 に、在 沖 米 軍 基地 の再編 合理 化 も行 われ、基地 従業 員 の大量 解雇 が断行 されました。インフレや通貨 切替 による損失 などとも相 まって県民 の間 で〈復帰 不安 〉が広 がっていました。
復帰 の日 の朝 、日本 政府 と沖縄 県 主催 の「沖縄 復帰 記念 式典 」が東京 と沖縄 で同時 開催 されている中 、与儀 公園 では沖縄 県 祖国 復帰 協議 会 主催 の「沖縄 処分 抗議 、佐藤 内閣 打倒 5.15県民 総 決起 大会 」が開 かれました。 沖縄 県 にとって、この日 はとても慌 ただしい一 日 となりました。早朝 6時 15分 から第 1回 沖縄 県議会 (臨時 )を開催 し、議長 及 び副 議長 を選出 した他 、県政 移行 に必要 な予算 や条例 等 を可決 しました。また、県 庁舎 前 で「沖縄 県庁 」表札 の除幕 式 と開 庁 式 を行 うとともに、各部 課長 及 び全 職員 に辞令 を交付 し、新生 沖縄 県 の体制 を整 えました。
この日 に施行 された復帰 特別 措置 法 により、「従前 の沖縄 県 は、当然 に、地方 自治 法 に定 める県 として存続 するもの」とされ、琉球 政府 の行政 主席 を県知事 、立法院 議員 を県議会 議員 とみなし、沖縄 県 は地方 公共 団体 として新 たなスタートを踏 み出 しました。その後 6月 25日 に、県知事 ・県議 選挙 の投票 が行 われ、その結果 、戦後 初代 県知事 に屋良 朝 苗 (やらちょうびょう)氏 が当選 し、44人 の議員 が誕生 しました。
しかし、その
この
No | |||
---|---|---|---|
1 | 1972・5・15 | ||
135 | 1972( |
0000108854 (040393) |
|
136 | 『 |
G00014042B | |
137 | 0000097005 | ||
138 | [5.15 |
0000108854 (040495) |
|
139 | Okinawa Reversion: Local Reaction 1972( |
U90008121B |
2.復帰 と経済
1972(
3.基地 従業 員 の大量 解雇
しかし、1969(
4.海洋 博 と社会 変化
1975(昭和 50)年 7月 から半年 間 、「海 -その望 ましい未来 」をテーマに沖縄 国際 海洋 博覧 会 (海洋 博 )が開催 されました。植樹 祭 、若 夏 国体 に続 く最大 の国家 的 な復帰 記念 事業 であった海洋 博 は、沖縄 の復帰 とともに、沖縄 の特色 (青 い海 ・亜熱帯 ・独特 の文化 )を国内外 に広 め、観光 立 県 として歩 みだす契機 となりました。
海洋 博 の開催 が決 まると、高速 道路 などの大 規模 開発 が急 ピッチで進 められました。これらの関連 公共 事業 は、本土 との格差 是正 を解消 する経済 振興 の起爆 剤 として期待 された一方 、当時 の社会 問題 となっていた物価 上昇 、環境 破壊 及 び本土 資本 の土地 買 い占 め等 を引 き起 こした原因 としてみなされました。そのため海洋 博 開催 に反対 する世論 も起 こりました。
海洋 博 是 か非 かの賛否 両論 が渦巻 く中 、政府 や本土 企業 を中心 に開催 準備 が進 められていく状況 に対 して、沖縄 県 は、単 に場所 を提供 するだけでなく、県民 が一体 となって積極 的 に参加 する必要 性 を感 じ、独自 で出展 することを決 めました。そして、県民 から資金 を募 り、自 らの言葉 で沖縄 の歴史 と文化 を伝 える「沖縄 館 」を完成 させました。
5.ナナサンマル
1978(
6.残 された基地 問題
7.沖縄 振興 策
8.明日 への〈選択 〉
かつて沖縄 の先人 は、常 に進取 の気概 をもち、海外 との交易 を通 じて経済 的 自立 を図 り、平和 で心 豊 かな生活 を営 み、独自 の文化 を開花 させ、一 国 としての歴史 を歩 んでいました。しかしながら近世 以降 には、薩摩 の琉球 入 りをはじめ、近代 の明治 政府 による琉球 処分 、悲惨 な沖縄 戦 、戦後 の米 軍 統治 など、暗 いイメージの歴史 もありました。こうした歴史 的 経験 を通 じて、県民 は、自 ら立 ち上 がろうとする内 発 性 と沖縄 人 (ウチナーンチュ)としての自覚 を育 み、日本 復帰 を実現 させました。(※)
そして、それから40年 の歳月 が流 れ今 の沖縄 があります。その間 に県民 の意識 や価値 観 も変 わりました。沖縄 の岐路 となった復帰 とは何 だったのか? 琉球 と日本 、国益 と民意 、支援 と負担 、開発 と自然 ・・・、さまざまな利害 と価値 観 がぶつかる中 で、国 や県 そして県民 は何 を選択 してきたのか? また、その選択 の結果 によって、社会 そして県民 の生活 や意識 がどのように変化 してきたのか? 公文書 館 には、その手 がかりが残 されています。
そして、それから40