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日本復帰への道 – 沖縄県公文書館
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過去かこ展示てんじかい

日本にっぽん復帰ふっきへのみち

平成へいせい24ねん5がつ15にちから8がつ19にちまで、日本にっぽん復帰ふっき40周年しゅうねん記念きねん特別とくべつてん日本にっぽん復帰ふっきへのみち」を当館とうかん展示てんじしつにて開催かいさいしました。
戦前せんぜんの〈ヤマト〉から戦後せんごの〈アメリカ〉をて、ふたたび〈ヤマト〉へもどみちのりとその沖縄おきなわかえります。とくに、住民じゅうみんあいだで〈祖国そこく日本にっぽん〉という意識いしきはどのように芽生めばえていったのか、アメリカ統治とうち県民けんみんもとめたものはなにか、復帰ふっきしてわったもの、わらなかったものはなにか、などのいに記録きろく資料しりょうせまります。
展示てんじ構成こうせい
Ⅰ.琉球りゅうきゅう処分しょぶんと〈ヤマト
Ⅱ.沖縄おきなわせんと〈アメリカ〉のはじまり
Ⅲ.アメリカによる統治とうち体制たいせい強化きょうか
Ⅳ.復帰ふっき運動うんどう
Ⅴ.日米にちべいによる沖縄おきなわ返還へんかん交渉こうしょう
Ⅵ.復帰ふっきへのみち最終さいしゅうあきら
Ⅶ.新生しんせい沖縄おきなわけん

Ⅰ.琉球りゅうきゅう処分しょぶんと〈ヤマト

いまからちょうど140 ねんまえの1872(明治めいじ5)ねん明治めいじ政府せいふによって、それまで独立どくりつ国家こっかとしてやく450 年間ねんかんつづいた琉球りゅうきゅうこく解体かいたいされ、琉球りゅうきゅうはん設置せっちされました。その7 ねんの1879(明治めいじ12)ねんには廃藩置県はいはんちけんにより、琉球りゅうきゅうはん廃止はいしされ沖縄おきなわけん誕生たんじょうしました。
その日本にっぽんは〈富国強兵ふこくきょうへい〉〈殖産しょくさん興業こうぎょう〉のスローガンのした近代きんだい国家こっかづくりにちかられ、沖縄おきなわ例外れいがいなくその体制たいせいまれていくことになります。そして、さまざまな分野ぶんや近代きんだい達成たっせいした日本にっぽんは、やがてにちしん戦争せんそうにち戦争せんそう勝利しょうりし、だい1 世界せかい大戦たいせんでは戦勝せんしょうこく一員いちいんになったことで大国たいこく仲間入なかまいりをたします。そのにちちゅう戦争せんそうだい2 世界せかい大戦たいせん戦争せんそうみちをつきすすみ、ここ沖縄おきなわだい2 世界せかい大戦たいせん最後さいご決戦けっせんじょうとなりました。
ここでは、琉球りゅうきゅう処分しょぶんからだい2 世界せかい大戦たいせん開戦かいせんまでのやく70 年間ねんかん、つまり琉球りゅうきゅうこく終焉しゅうえんから大日本帝国だいにっぽんていこくの〈ヤマト〉へのわりのなかで、〈日本人にっぽんじん〉になっていく過程かてい紹介しょうかいします。

1.沖縄おきなわけん誕生たんじょう

1879(明治めいじ12)ねん日本にっぽんいちけんとなった沖縄おきなわでしたが、行政ぎょうせいは、鍋島なべしまただしあきら(なべしまなおよし)(初代しょだい)、上杉うえすぎ茂憲もちのり(うえすぎもちのり)(だい2だい)ら中央ちゅうおうから派遣はけんされる県令けんれい県知事けんちじ)を中心ちゅうしんおこなわれました。
廃藩置県はいはんちけんのちは、琉球りゅうきゅう処分しょぶん不満ふまんをもつ士族しぞくや、さきとうぶんとう問題もんだい緊張きんちょう関係かんけいにあった清国きよくにへの配慮はいりょなどから、明治めいじ政府せいふ急激きゅうげき改革かいかくけ、琉球りゅうきゅうこく時代じだいの〈旧慣きゅうかん温存おんぞん〉の施策しさくはか慎重しんちょう姿勢しせいをとりました。一方いっぽうで、学校がっこう設立せつりつ教科書きょうかしょ沖縄おきなわ對話たいわ』を使用しようした日本語にほんご教育きょういくなど、日本人にっぽんじんとしての教育きょういくちかられていきました。
1895(明治めいじ28)ねんにちしん戦争せんそうでの勝利しょうりにより、両国りょうこくあいだ懸案けんあんとなっていたさきとうぶんとう問題もんだい解決かいけつすると、明治めいじ政府せいふ沖縄おきなわ同化どうか政策せいさくちかられるようになります。その沖縄おきなわは、急速きゅうそく日本にっぽん国家こっか体制たいせいまれていきました。
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1 沖縄おきなわけん誕生たんじょう
1 公文こうぶんろく 明治めいじ12ねん4がつ各局かくきょく ないかく書記官しょきかんきょく[琉球りゅうきゅうはんはい沖縄おきなわかかおけク]
1879ねん明治めいじ12)4がつ4にち 国立こくりつ公文書こうぶんしょかんぞう
0000044390
2 明治めいじ12ねん 琉球りゅうきゅうはん処分しょぶんかんいちぎょう 1879(明治めいじ12)ねん 熊谷くまがい次郎じろう T00021952B
3 沖縄おきなわ對話たいわ 1880(明治めいじ13)ねん 沖縄おきなわけん学務がくむ T00016128B
4 沖縄おきなわけん日誌にっしじゅう 1881ねん明治めいじ14)~1882ねん明治めいじ15)上杉うえすぎくにけん T00001124B
5 だい日本にっぽん管轄かんかつ分地ぶんち 1900(明治めいじ33)ねん 後藤ごとうつね太郎たろう T00015907B

2.明治めいじ政府せいふ近代きんだい

明治めいじ政府せいふによる同化どうか政策せいさく国家こっか近代きんだい並行へいこうしておしすすめられ、沖縄おきなわにもそのなみせました。そのひとつが徴兵ちょうへい制度せいど税制ぜいせい改革かいかくでした。1898(明治めいじ31)ねんの「徴兵ちょうへいれい」によるにち戦争せんそう出兵しゅっぺい、1899(明治めいじ32)ねんの「土地とち整理せいり事業じぎょう」による個人こじん土地とち所有しょゆう認可にんかとそれにともな課税かぜいなど、しん制度せいどにより人々ひとびと生活せいかつおおきく変化へんかしていきました。
一方いっぽう沖縄おきなわ本土ほんど民衆みんしゅうあいだでは、偏見へんけん反発はんぱつう、感情かんじょうてきなあつれきがしょうじていました。そのようななか言論げんろんじんは、さまざまな主張しゅちょう展開てんかいしました。たとえば、太田おおたちょうじき(おおたちょうふ)(「琉球新報りゅうきゅうしんぽう創設そうせつしゃ)は、日本人にっぽんじん同等どうとう市民しみんけんるためには、外形がいけいじょう日本人にっぽんじん同様どうようふるまうべきとし、クシャミですらかれらをまねよ、とする〈同化どうかろん〉をつよ主張しゅちょうしました。また、伊波いは普猷ふゆう(いはふゆう)は、日本人にっぽんじん沖縄おきなわじんはそのみなもとおなじくするという、「にち琉同ろん」をとなえながらも、沖縄おきなわ固有こゆう文化ぶんか歴史れきし検証けんしょうし、そこにたか価値かち見出みいだしていきます。
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2・3 明治めいじ政府せいふ近代きんだい戦争せんそうへのみち
6 碎部測量そくりょう簿 八重山郡與那國村字鬚川田 1900(明治めいじ33)ねん
臨時りんじ沖縄おきなわけん土地とち整理せいり事務じむきょく
0000077108
7 記念きねんじょう 年代ねんだい不明ふめい 臨時りんじ沖縄おきなわけん土地とち整理せいり事務じむきょく T00022298B
8 明治めいじさんななはちねんにち戦争せんそう日記にっき とうあいだめぐみさかえ T00020716B
9 伊波いは普猷ふゆう琉球りゅうきゅう』 1911(明治めいじ44) T00013794B
10 廣津ひろつ和朗かずおちょ「さまよへる琉球りゅうきゅうじん」にたいする沖縄おきなわ青年せいねん同盟どうめいからの抗議こうぎしょ
中央公論ちゅうおうこうろんだい41ねんだい5ごうだい460ごう 1926(大正たいしょう15)ねん
T00013281B
11 砂糖さとう関税かんぜいせきスル陳情ちんじょうしょ 1937(昭和しょうわ12)ねん 沖縄おきなわけんのうかい 産業さんぎょう団体だんたい 0000042271
12 沖縄おきなわけん産出さんしゅつ黒糖こくとう白下しろしたとう及分みつとう消費しょうひぜい改正かいせいせきスル陳情ちんじょうしょ
昭和しょうわ11ねん7がつ13にち 沖縄おきなわけんのうかいほか団体だんたい
0000042271
13 食料しょくりょう増産ぞうさん決戦けっせん 1943(昭和しょうわ18)ねん 0000066088
14 標準ひょうじゅん励行れいこう委員いいん嘱託しょくたくス 1939(昭和しょうわ14)ねん 宮城みやぎぶん関係かんけい文書ぶんしょ辞令じれいしょとう 0000048791
15 感謝かんしゃじょう 1942(昭和しょうわ17)ねん 宮城みやぎぶん関係かんけい文書ぶんしょ辞令じれいしょとう 0000048794
16 10.10空襲くうしゅう 1944(昭和しょうわ19)ねん10がつ10にち ゴードン・ワーナー文書ぶんしょ 0000071401

Ⅱ.沖縄おきなわせんと〈アメリカ〉のはじまり

 1945(昭和しょうわ20)ねん3がつべいぐんがついに沖縄おきなわ上陸じょうりくしました。日本にっぽん本土ほんど防衛ぼうえい最後さいごの〈とりで〉とされた沖縄おきなわでは、そのやく3カ月かげつにわたって日米にちべいりょうぐんによるはげしい戦闘せんとうひろげられました。
沖縄おきなわせん日米にちべい双方そうほうで20まんにんもがいのちとす壮絶そうぜつたたかいでしたが、県民けんみんやく4にん1人ひとり犠牲ぎせいになりました。沖縄おきなわせん特徴とくちょうひとつは、軍人ぐんじんよりも民間みんかんじんのほうにおおくの犠牲ぎせいたことでした。また、混乱こんらんする戦場せんじょうにおいては自国じこくぐんによって住民じゅうみん殺害さつがいされたり、まれたりする出来事できごと発生はっせいしました。大日本帝国だいにっぽんていこく一員いちいんとして戦争せんそう一端いったんになった沖縄おきなわでしたが、このような悲惨ひさん経験けいけんから、戦争せんそういた人々ひとびとは「2戦争せんそうはしてはいけない」というおもいをつよいだくようになりました。この戦争せんそう体験たいけんきに戦後せんご沖縄おきなわ社会しゃかいかんがえることはできません。
日本にっぽんとは歴史れきし文化ぶんか制度せいどちがう〈アメリカ〉のした人々ひとびとなにおもい、どう行動こうどうしたのでしょうか? ここでは、敗戦はいせんから講和こうわ条約じょうやく締結ていけつまでの占領せんりょう沖縄おきなわ社会しゃかい変遷へんせん紹介しょうかいします。

1.〈ヤマト〉のわり

 べいぐんは1945(昭和しょうわ20)ねん3がつ沖縄おきなわ上陸じょうりくすると海軍かいぐんぐん政府せいふ布告ふこくだい1ごう権限けんげん停止ていし」(通称つうしょう「ニミッツ布告ふこく」)を公布こうふし、住民じゅうみんたいして日本にっぽん行政ぎょうせいけん停止ていしされたことを通告つうこくしました。
そのやく3カ月かげつにわたる死闘しとうすえ沖縄おきなわせん勝利しょうりをおさめたべいぐんは、すぐに日本にっぽん本土ほんど攻略こうりゃく準備じゅんびかりました。しかし、8がつ15にち大日本帝国だいにっぽんていこく政府せいふはついに「ポツダム宣言せんげん」を受諾じゅだくして無条件むじょうけん降伏ごうぶくし、だい2世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつすることになりました。
9月7にち沖縄おきなわでは現地げんちぐん同士どうしによる降伏ごうぶく文書ぶんしょ調印ちょういんしきおこなわれ、沖縄おきなわせん正式せいしきまくじました。 ここに、琉球りゅうきゅう処分しょぶんからやく70 ねんおよんだ〈ヤマト〉がわりをげました。
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1 1.〈ヤマト〉のわり
17 米国べいこく海軍かいぐんぐん政府せいふ布令ふれいだい1ごう(ニミッツ布告ふこく) 1945(昭和しょうわ20)ねん 0000071118
18 防空壕ぼうくうごうとおり、こわれたかべなにもない敷地しきち 1945(昭和しょうわ20)ねん まい空軍くうぐん写真しゃしん 0000112235
(14-11-3)
19 目抜めぬどおりをあてもなくさまよう、年老としおいた沖縄おきなわじん 1945(昭和しょうわ20)ねん5がつ30にち まい海兵かいへいたい写真しゃしん 0000112255
(78-12-1)
20 降伏ごうぶく文書ぶんしょ 1945(昭和しょうわ20)ねん9がつ7にち 米国べいこく国立こくりつ公文書こうぶんしょかん 0000017549
21 琉球りゅうきゅう降伏ごうぶく 1945(昭和しょうわ20)ねん まい陸軍りくぐん写真しゃしん 0000112188
(02-49-1)
22 日本にっぽんぐん降伏ごうぶくしたことを通訳つうやくからよろこ沖縄おきなわ地元民じもとみん 1945(昭和しょうわ20)ねん8がつ15にち まい海兵かいへいたい写真しゃしん 0000112257
(79-16-1)

2.あらたな時代じだい幕開まくあ

 日本にっぽんがポツダム宣言せんげん受諾じゅだくしたおなじ8がつ15にちべいぐんかく収容しゅうようしょから戦前せんぜんけん会議かいぎいん校長こうちょうなどをあつめ、べいぐん政府せいふへの諮問しもん機関きかんである「沖縄おきなわ諮詢しじゅんかい」を設置せっちしました。9月20にちには、沖縄おきなわ本島ほんとう収容しゅうよう地区ちくはじめての選挙せんきょ市会しかい議員ぎいん選挙せんきょ)が実施じっしされました。この選挙せんきょでは、戦前せんぜんつうじてもはじめて女性じょせい参政さんせいけんあたえられるなど、人々ひとびと民主みんしゅ主義しゅぎくにアメリカを実感じっかんさせるものでもありました。
沖縄おきなわ諮詢しじゅんかいは1946(昭和しょうわ21)ねん4がつに「沖縄おきなわみん政府せいふ」に改編かいへんされ、本格ほんかくてき住民じゅうみん自治じち組織そしき発足ほっそくしました。やがて、政治せいじてきいとなみも活発かっぱつになり、「沖縄おきなわ民主みんしゅ同盟どうめい」「沖縄おきなわ人民じんみんとう」「社会党しゃかいとう」「民主党みんしゅとう」「共和党きょうわとう」など、政党せいとう次々つぎつぎ結成けっせいされました。人々ひとびと戦後せんご沖縄おきなわのありかたについて活発かっぱつ議論ぎろんわしました。
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2 あらたな時代じだい幕開まくあ
23 沖縄おきなわ諮詢しじゅんかい会議かいぎろく 01-2 1945(昭和しょうわ20)ねん08がつ30にち 0000061090
24 沖縄おきなわみん政府せいふのメンバー] 年代ねんだい不明ふめい 照屋てるや榮一えいいち文書ぶんしょ 0000026526
25 沖縄おきなわ人民じんみんとうかんする書類しょるいつづり 1948(昭和しょうわ23)ねん1がつ~ pp.1-90 pp.91-182 0000062834
26 沖縄おきなわ民主みんしゅ同盟どうめいかんする書類しょるい 1948(昭和しょうわ23)ねん1がつ沖縄おきなわ群島ぐんとう政府せいふ総務そうむ行政ぎょうせい 0000062820
27 共和党きょうわとうかんする書類しょるい 1950(昭和しょうわ25)ねん11月6にち沖縄おきなわ群島ぐんとう政府せいふ総務そうむ行政ぎょうせい 0000072859
28 なみうえ] 1948(昭和しょうわ23)ねん まい空軍くうぐん写真しゃしん 0000112235
(14-10-4)
29 選挙せんきょ様子ようす] 1948(昭和しょうわ23)ねん まい空軍くうぐん写真しゃしん 0000112240
(15-56-2)
30 屋根やねき] 1948(昭和しょうわ23)ねん まい空軍くうぐん写真しゃしん 0000112240
(15-56-3)

3.〈冷戦れいせん〉と日本にっぽんからの分離ぶんり

 アメリカは、日本にっぽん降伏ごうぶく以前いぜんから、戦争せんそうった場合ばあい沖縄おきなわ処遇しょぐうをどうするか議論ぎろんしていました。そのなかでも軍部ぐんぶは、太平洋たいへいよう地域ちいき安全あんぜん保障ほしょう確保かくほするためには沖縄おきなわをアメリカの信託しんたく統治とうちにおくべきだと主張しゅちょうしていました。
1946(昭和しょうわ21)ねん1がつ29にち日本にっぽん占領せんりょうぐん最高さいこう司令しれいかんであるマッカーサーは、北緯ほくい30以南いなん南西諸島なんせいしょとう日本にっぽんから分離ぶんりする決定けっていくだしました。その結果けっか沖縄おきなわ本土ほんどとはまったちがみちあゆむことになります。日本にっぽん本土ほんど実施じっしされた、しん憲法けんぽう発布はっぷふく数々かずかず民主みんしゅ政策せいさくは、沖縄おきなわには適用てきようされませんでした。
やがて、ソ連それんによる原爆げんばく開発かいはつ中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく成立せいりつなど、ひがしアジアにおける共産きょうさん主義しゅぎ諸国しょこくとの〈つめたい戦争せんそう〉がはげしさをしてくると、アメリカは当初とうしょ日本にっぽん武装ぶそう方針ほうしんて、日本にっぽん軍事ぐんじてき同盟どうめいしゃとして育成いくせいする方向ほうこうへと方針ほうしん転換てんかんしました。その方針ほうしん前提ぜんていとなったのが、〈日本にっぽんさい軍備ぐんび〉〈べいぐん駐留ちゅうりゅう〉のほか、〈沖縄おきなわ分離ぶんり支配しはい〉でした。
この基本きほん方針ほうしんもとづいて、沖縄おきなわでは基地きち建設けんせつ本格ほんかくし、べいぐん政府せいふみん政府せいふへの改編かいへん地元じもと中央ちゅうおう政府せいふ設置せっちなど、長期ちょうき安定あんてい統治とうちのための足固あしがためがすすめられました。
そして、1952(昭和しょうわ27)ねん日本にっぽん講和こうわ条約じょうやくによって独立どくりつこくとして国際こくさい社会しゃかい復帰ふっきしたとき沖縄おきなわ正式せいしき日本にっぽんから分離ぶんりされ、アメリカの施政しせいけんかれることになりました。
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3 冷戦れいせん〉と日本にっぽんからの分離ぶんり
31 琉球りゅうきゅう列島れっとうかんする民事みんじハンドブック』1944(昭和しょうわ19)ねん11月 米国べいこく海軍かいぐん 0000025268
32 天皇てんのうメッセージ)Emperor of Japan’s Opinion Concerning the Future of the Ryukyu Islands 0000017550
33 中国ちゅうごく売却ばいきゃくされるべいぐん戦時せんじ余剰よじょうひん 1946(昭和しょうわ21)ねん 10がつ 31にち まい海軍かいぐん写真しゃしん 0000112183
(115-15-3)
34 にある海軍かいぐん航空こうくう施設しせつ空中くうちゅうなな写真しゃしん 1948(昭和しょうわ23)ねん10がつ20にち まい海軍かいぐん写真しゃしん 0000112182
(114-33-4)
35 Conversation between General of the Army MacArthur and Mr. George F. Kennan 1948 0000030208
36 マッカーサー将軍しょうぐん 嘉手納かでな基地きちにて 1950(昭和しょうわ25)8がつ1にちねん まい陸軍りくぐん写真しゃしん 0000112208
(05-34-1))
37 琉球りゅうきゅう列島れっとうまい国民こくみん政府せいふかんする指令しれい 1950(昭和しょうわ25)ねん12月5にち 極東きょくとうぐん R00001152B

Ⅲ.アメリカによる統治とうち体制たいせい強化きょうか

 アメリカ政府せいふは、沖縄おきなわ基地きち半永久はんえいきゅうてき使用しようする方針ほうしんかためると、本格ほんかくてき恒久こうきゅう基地きち建設けんせつりかかりました。そして、1952(昭和しょうわ27)ねん講和こうわ条約じょうやく正式せいしき沖縄おきなわ施政しせいけん獲得かくとくすると、次々つぎつぎ布令ふれいはっして土地とち強制きょうせい収用しゅうよう開始かいししました。しかし、こうした強硬きょうこう政策せいさくはやがて住民じゅうみんからの反発はんぱつまねき、効果こうかてき基地きち運用うんようにも支障ししょうをきたすようになります。そこでべいぐんはさまざまな施策しさく実施じっしして、統治とうち体制たいせい安定あんていはかろうとしました。
しかし、べいぐんがいかに統治とうち体制たいせい安定あんていさせようとしても、軍事ぐんじ優先ゆうせんさせる政策せいさくにはちがいなく、統治とうちしゃ統治とうちしゃ利害りがい対立たいりつすることがしばしばでした。
ここでは、講和こうわのアメリカの軍事ぐんじ優先ゆうせん政策せいさくとそれがもたらした住民じゅうみん生活せいかつへのさまざまな影響えいきょうをを中心ちゅうしん紹介しょうかいします。

1.〈太平洋たいへいようよういし〉と〈しまぐるみ闘争とうそう

 1952(昭和しょうわ27)ねん講和こうわ条約じょうやくぐん用地ようち使用しよう法的ほうてき根拠こんきょ確固かっこたるものにするため、べいぐん地主じぬし正式せいしき契約けいやくむすぼうとしました。しかし、べいぐん提示ていじした地代じだいやすさと契約けいやく期間きかんながさなどにより、当初とうしょ契約けいやくおうじる地主じぬしはほとんどいませんでした。そこでべいぐんは、あらたな布令ふれいはっして、1953(昭和しょうわ28)ねん真和まさかずしむらむら安謝あじゃめいかり小禄ころくむら具志ぐし皮切かわきりに、武装ぶそうへい出動しゅつどうさせて次々つぎつぎ土地とち接収せっしゅうしていきました。
1954(昭和しょうわ29)ねん3がつべいぐん政府せいふは、接収せっしゅうしたぐん用地ようちたいしてはりょう一括いっかつはらうという方針ほうしん発表はっぴょうしました。これを土地とちげと住民じゅうみんはこれに反発はんぱつし、方針ほうしん撤回てっかいするよう要請ようせいしました。そして、1955ねんには伊江いえむら真謝まじゃ宜野湾ぎのわんむら伊佐いさはまなどで強制きょうせい収用しゅうよう実施じっしされました。
1956(昭和しょうわ31)ねん6がつべいぐんによるぐん用地ようち政策せいさくをおおむね是認ぜにんする米国べいこく議会ぎかい勧告かんこくされると、はげしい反対はんたい運動うんどうがまたたくあいだ沖縄おきなわ全土ぜんどひろがりました。この〈しまぐるみ闘争とうそう〉は、日本にっぽん復帰ふっき運動うんどうともあいまってはげしさをしていきました。これをけて、べい当局とうきょくは1958ねんごろから沖縄おきなわ統治とうち政策せいさく見直みなおしに着手ちゃくしゅしました。そのなかで、必要ひつよう基地きち権利けんり確保かくほしたうえ施政しせいけん返還へんかんするという「返還へんかん構想こうそう浮上ふじょうしていました。
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1 太平洋たいへいようよういし〉と〈しまぐるみ闘争とうそう
38 沖縄おきなわ訪問ほうもんさい全島ぜんとう視察しさつをする国防こくぼう次官じかんハンナ 1953(昭和しょうわ28)ねん まい陸軍りくぐん写真しゃしん 0000112226
(07-83-1)
39 沖縄おきなわ訪問ほうもんしたニクソンふく大統領だいとうりょう] 1953(昭和しょうわ28)ねん11月20にち まい海軍かいぐん写真しゃしん 0000112183
(115-07-1)
40 非番ひばんに「はちがつじゅう茶屋ちゃや」をおとずれる琉球りゅうきゅうぐん兵士へいし 1954(昭和しょうわ29)ねん7がつ20にち まい陸軍りくぐん写真しゃしん 0000112227
(08-10-2)
41 軍用ぐんよう接収せっしゅう 宜野湾ぎのわん伊佐いさはま 「かねいちねん土地とちまんねん」ののぼり 1955(昭和しょうわ30)ねん7がつ 琉球りゅうきゅう政府せいふ写真しゃしんしん 0000108753
(012099)
42 メルビン・M・プライスを団長だんちょうとするべい下院かいん軍事ぐんじぐん用地ようち問題もんだい調査ちょうさだん7にんらいおき  1955(昭和しょうわ30)ねん10がつ23にち 琉球りゅうきゅう政府せいふ写真しゃしん 0000108919
(057736)
43 宜野湾ぎのわんむら伊佐いさはま立退たちのけしゃたいする代替だいたい購入こうにゅう資金しきん関係かんけい書類しょるい 1956(昭和しょうわ31)ねん3がつ 琉球りゅうきゅう政府せいふ法務局ほうむきょく土地とち R00020536B
44 プライス勧告かんこく 1956(昭和しょうわ31)ねん6がつ9にち 米国べいこく下院かいん軍事ぐんじ委員いいんかい特別とくべつ分科ぶんか委員いいんかい 0000030365
45 ぐん用地ようち四原則貫徹住民大会各市町村単位で開催かいさい 1956(昭和しょうわ31)ねん6がつ20日はつか 琉球りゅうきゅう政府せいふ写真しゃしん 0000108868
(044255)
46 ぐん用地ようちよん原則げんそく貫徹かんてつ大会たいかいかく市町村しちょうそん単位たんい開催かいさい] 1956(昭和しょうわ31)ねん 6がつ20日はつか 琉球りゅうきゅう政府せいふ写真しゃしん 0000108926
(058901)
47 プライス勧告かんこくとその反論はんろん 1956(昭和しょうわ31)ねん7がつ よん原則げんそく貫徹かんてつ実践じっせん本部ほんぶ R00020577B
48 収用しゅうよう宣告せんこくしょ 布令ふれい109ごう 宜野湾ぎのわんむら 収用しゅうよう委員いいんかい裁決さいけつ 1956(昭和しょうわ31)ねん12月 琉球りゅうきゅう政府せいふぐん用地ようち関係かんけい事務所じむしょ R00047799B
49 那覇なは市長しちょう選挙せんきょ立会たちあい演説えんぜつかい 1958(昭和しょうわ33)ねん1がつ4にち 琉球りゅうきゅう政府せいふ写真しゃしん 0000108928
(059384)
50 Memo for Dulles from Robertson U90006116B
51 ドルえ 1958(昭和しょうわ33)ねん 9がつ16にち USCAR写真しゃしん 0000112303
(10-49-2)

2.〈民主みんしゅ主義しゅぎのショーウィンドー〉

 アメリカは、戦争せんそう教訓きょうくんから、戦後せんご軍国ぐんこく主義しゅぎ日本にっぽん武装ぶそう民主みんしゅ国家こっかにすることを基本きほん目標もくひょうにしました。その方針ほうしんもとづいて、日本にっぽん本土ほんどでは、〈婦人ふじん参政さんせいけん付与ふよ〉〈労働ろうどう組合くみあいほう制定せいてい〉〈教育きょういく制度せいど改革かいかく〉など民主みんしゅ政策せいさく実行じっこうしました。沖縄おきなわでも効果こうかてき基地きち運用うんようのためには、地元じもと協力きょうりょくだけでなく、日本にっぽんふくめた国際こくさい社会しゃかい理解りかい不可欠ふかけつでした。そのために、沖縄おきなわを〈民主みんしゅ主義しゅぎのショーウィンドー〉にしようとしました。
ただし、1950(昭和しょうわ25)ねんされた沖縄おきなわ統治とうち基本きほん方針ほうしん琉球りゅうきゅう列島れっとうまい国民こくみん政府せいふかんする指令しれい」に明記めいきされているように、米国べいこくは「軍事ぐんじてき必要ひつようゆる範囲はんい」において「民主みんしゅ主義しゅぎ原則げんそくにより設立せつりつされた立法りっぽう行政ぎょうせい司法しほう機関きかんによる自治じち」を促進そくしんすることとなっていました。沖縄おきなわにおける民主みんしゅ政策せいさくにははじめから制約せいやくがあったのです。
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2 民主みんしゅ主義しゅぎのショーウィンドー〉
52 琉球りゅうきゅう政府せいふ創立そうりつ式典しきてん関係かんけい書類しょるい 1952(昭和しょうわ27)ねん3がつ pp.1-90 pp.91-180 pp.181-275 0000088098
53 琉球りゅうきゅう政府せいふ創立そうりつ式典しきてん]1952(昭和しょうわ27)ねん4がつ1にち まい陸軍りくぐん写真しゃしん 0000112221
(07-21-3)
54 今日きょう琉球りゅうきゅうだい1かんだい1ごう 1957(昭和しょうわ32)ねん10がつ まい国民こくみん政府せいふ広報こうほうきょく U00001261B
55 まもりれいひかり創刊そうかんごう 1959(昭和しょうわ34)ねん1がつ 高等こうとう弁務べんむかん U00000290B
56 [琉米親善しんぜん日付ひづけ不明ふめい 宮城みやぎ悦二郎えつじろう写真しゃしん 0000086520
(46-024)
57 “Okinawan Showcase” The New Republic (December 301957) フライマス・コレクション 0000024187
58 はねむら仲尾次なかおし電気でんき水道すいどう農道のうどう落成らくせいしき 1963(昭和しょうわ38)ねん1がつ24にち 琉球りゅうきゅう政府せいふ写真しゃしん 0000108713
(000729)
59 佐敷さしきむら兼久かねく高等こうとう弁務べんむかん資金しきん贈呈ぞうてい 1971(昭和しょうわ46)ねん6がつ4にち USCAR写真しゃしん 0000112037
(21-11-3)
60 US Policy toward the Ryukyu Islands U90005149B

3.軍事ぐんじ優先ゆうせん政策せいさく弊害へいがい

 べいぐん統治とうち琉球りゅうきゅう政府せいふ三権分立さんけんぶんりつかたちをとっていましたが、「軍事ぐんじてき必要ひつようゆる範囲はんい」でのものでした。たとえば、琉球りゅうきゅう政府せいふちょうである行政ぎょうせい主席しゅせきは1968ねんまでは公選こうせんではなく、民政みんせいふく長官ちょうかん(のちの高等こうとう弁務べんむかん)による任命にんめいせいでした。また、立法院りっぽういん琉球りゅうきゅう政府せいふ立法りっぽう機関きかん)は、べい国民こくみん政府せいふはっする布令ふれい布告ふこくなどに抵触ていしょくしない範囲はんいでしか法律ほうりつ制定せいていすることができませんでした。さらに、米兵べいへい犯罪はんざい軍法ぐんぽう会議かいぎあつかわれ、琉球りゅうきゅう政府せいふ裁判所さいばんしょ関与かんよすることができませんでした。住民じゅうみん同士どうし事件じけんでも、べいぐん支配しはいおおきな影響えいきょうのある事件じけんは、地元じもと裁判所さいばんしょからべい国民こくみん政府せいふ裁判所さいばんしょ移送いそうされました。そして、べい当局とうきょく批判ひはんするような出版しゅっぱんぶつ禁止きんししたり、「このましからざる人物じんぶつ」の渡航とこう拒否きょひしたりするなどの措置そちがとられることもしばしばでした。住民じゅうみん次第しだいにこのような軍事ぐんじ優先ゆうせん政策せいさく制度せいど不満ふまんつのらせていきます。
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3 軍事ぐんじ優先ゆうせん政策せいさく弊害へいがい
61 「ミード報告ほうこく」 1956(昭和しょうわ31ねんねん8がつ22にち ミシガン州立しゅうりつ大学だいがく文書ぶんしょ 0000074832
62 琉球大学りゅうきゅうだいがくおとずれたロデリック陸軍りくぐん次官じかんら]1956(昭和しょうわ31)ねん11月 9にち まい陸軍りくぐん写真しゃしん 0000112233
(08-85-1)
63 上山うえやま中学生ちゅうがくせい轢殺れきさつ事故じこ無罪むざい判決はんけつたいする県民けんみん抗議こうぎ大会たいかい] 1963(昭和しょうわ38)ねん5がつ 琉球りゅうきゅう政府せいふ写真しゃしん 0000108918
(057603)
64 タイトル 学童がくどうれきさつ事故じこ無罪むざい判決はんけつならびに渡航とこう制限せいげんについて(提訴ていそ)1963(昭和しょうわ38)ねん 平良たいら幸市こういち文書ぶんしょ 0000061857
65 松岡まつおかまさし行政ぎょうせい主席しゅせき視察しさつ 読谷よみたんむらおやこころざし小型こがたトレーラー落下らっか事件じけん現場げんば 1965(昭和しょうわ40)ねん6がつ12にち 琉球りゅうきゅう政府せいふ写真しゃしん 0000108764
(016667)
66 友利ともり・サンマ事件じけん移送いそう裁判さいばんはつ公判こうはん 1966(昭和しょうわ41)ねん10がつ5にち 琉球りゅうきゅう政府せいふ写真しゃしん 0000108786
(021295)
67 沖縄おきなわ100まんさけ嬉野うれしの京子きょうこ写真しゃしんしゅう』1968(昭和しょうわ43)ねん 新日本しんにほん出版しゅっぱんしゃ T00020646B
68 どくガス即時そくじ撤去てっきょ要求ようきゅう、アメリカのカンボジア侵略しんりゃく反対はんたい県民けんみんそう決起けっき大会たいかい 1970(昭和しょうわ45)ねん5がつ23にち 琉球りゅうきゅう政府せいふ写真しゃしん 0000108839
(036171)

Ⅳ.復帰ふっき運動うんどう

 戦後せんごすぐの沖縄おきなわでは〈帰属きぞく問題もんだい〉、つまり日本にっぽん復帰ふっきすべきか、独立どくりつすべきか、それとも国連こくれん信託しんたく統治とうちにおかれるべきかについてさまざまな議論ぎろんわされました。やがてアメリカによる長期ちょうき支配しはい確定かくていして軍事ぐんじ優先ゆうせん政策せいさくがとられるようになると、世論せろん大半たいはん独立どくりつ信託しんたく統治とうちではなく、日本にっぽんへの復帰ふっきとなえるようになりました。また、講和こうわ条約じょうやくでもたらされた、日本にっぽんにもアメリカにもぞくさないというあいまいな地位ちい住民じゅうみん復帰ふっきへとかりたてる要因よういんになりました。
しかし、べいぐん当初とうしょ基地きち機能きのう維持いじ施政しせいけん保持ほじ不可分ふかぶんかんがえていたため、日本にっぽん復帰ふっき運動うんどうはアメリカの施政しせいけんたいする挑戦ちょうせんととらえ、きびしく弾圧だんあつしました。べいぐん施政しせいけんたて強権きょうけんてき政策せいさくおこなえばおこなうほど、県民けんみん日本にっぽん復帰ふっきもとめるこえたかまっていきました。やがてアメリカ政府せいふは、沖縄おきなわ政策せいさく見直みなおしを余儀よぎなくされます。
ここでは、復帰ふっき運動うんどうたかまりとアメリカによる政策せいさく変更へんこう、その過程かてい形成けいせいされていった住民じゅうみん復帰ふっきたいするかんがかたなどを紹介しょうかいします。

1.あいまいな地位ちい

 アメリカ施政しせいけん沖縄おきなわ地位ちいはあいまいなものでした。
アメリカは琉球りゅうきゅう列島れっとう日本にっぽん領土りょうどであり、琉球りゅうきゅう住民じゅうみん国籍こくせき日本にっぽんにあることは否定ひていしていませんでした。しかし、琉球りゅうきゅう諸島しょとうへの出入でいりは、べいぐんによってきびしく管理かんりされており、琉球りゅうきゅう住民じゅうみん日本にっぽん本土ほんど渡航とこうするさいにはパスポートが必要ひつようでした。
また、沖縄おきなわ船舶せんぱくは、掲揚けいようすべき国旗こっきがなかったため、「国際こくさい信号しんごうDはた」というはた掲揚けいようして航行こうこうしていましたが、国際こくさいてきには通用つうようせず、1962(昭和しょうわ37)ねん4がつ、インドネシアのモロタイとう海域かいいき操業そうぎょうちゅうのマグロ漁船ぎょせんだい1きゅうまる」が国籍こくせき不明ふめい理由りゆうにインドネシア海軍かいぐんから銃撃じゅうげきけ、死傷ししょうしゃるという事件じけん発生はっせいしました。
その日米にちべい両国りょうこくによる交渉こうしょう結果けっか、1967(昭和しょうわ42)ねん7がつからようやくまる掲揚けいようみとめられるようになりました。
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1 あいまいな地位ちい
69 琉球りゅうきゅう列島れっとう米国べいこくぐん政府せいふ最初さいしょ発行はっこうした旅行りょこう証明しょうめいしょ比嘉ひか善雄よしおのパスポート) 1948(昭和しょうわ23)ねん7がつ28にち 比嘉ひかこくろう 0000010120
70 強制きょうせい送還そうかんしゃ名簿めいぼ 1952(昭和しょうわ27)ねん~1964(昭和しょうわ39)ねん 出入でいりいき管理かんり事務所じむしょ R00026707B
71 出入でいり管理かんり パスポートを確認かくにんする職員しょくいん 1961(昭和しょうわ36)ねん6がつ29にち 琉球りゅうきゅう政府せいふ写真しゃしん 0000108886 (049075)
72 異議いぎ申立もうしたてしょつづり 1961(昭和しょうわ36)ねん 琉球りゅうきゅう政府せいふ警察けいさつきょく出入でいり管理かんり警備けいび R00027850B
73 Kyuyo Maru報告ほうこくしょ 0000084807
74 [Kyuyo Maru 写真しゃしん 1962(昭和しょうわ37)ねん]USCAR公安こうあんきょく文書ぶんしょ 0000084807
75 ぜん船舶せんぱくしん船舶せんぱくはた掲揚けいよう 1967(昭和しょうわ42)ねん7がつ1にち 琉球りゅうきゅう政府せいふ写真しゃしん 0000108796
 (024392)

2.〈祖国そこくへのみち

 1952(昭和しょうわ27)ねん講和こうわ条約じょうやくで、沖縄おきなわ日本にっぽん本土ほんどからはなされることがあきらかになると、日本にっぽんへの復帰ふっき運動うんどうたかまりました。1953(昭和しょうわ28)ねん1がつには沖縄おきなわ教職員きょうしょくいんかい沖縄おきなわけん青年せいねんだん協議きょうぎかいなど23団体だんたい参加さんかして全島ぜんとうてきな「沖縄諸島おきなわしょとう祖国そこく復帰ふっき期成きせいかい」が結成けっせいされました。しかし、この運動うんどうは、べいぐん当局とうきょくからのつよ圧力あつりょくにあい、やがて自然しぜん消滅しょうめつしました。
こうして一時いちじ沈滞ちんたいした復帰ふっき運動うんどうでしたが、1950年代ねんだい後半こうはんぐん用地ようち問題もんだいはしはっした〈しまぐるみ闘争とうそう〉がこると、運動うんどうふたたいきかえしました。1960(昭和しょうわ35)ねん4がつには、教職員きょうしょくいんかい労働ろうどう組合くみあい政党せいとう、PTA、遺族いぞく連合れんごうかいなど幅広はばひろ団体だんたい参加さんかして、「沖縄おきなわけん祖国そこく復帰ふっき協議きょうぎかい」(復帰ふっききょう)が結成けっせいされ、運動うんどう中心ちゅうしんにないました。このころからはまた、賃金ちんぎん水準すいじゅん税制ぜいせい社会しゃかい保障ほしょう制度せいどなどでの本土ほんどとの格差かくさ是正ぜせい観点かんてんから復帰ふっきのメリットを強調きょうちょうする傾向けいこうつよまっていきました。
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2 祖国そこくへのみち
76 国旗こっき掲揚けいようかんする請願せいがん 1952(昭和しょうわ27)ねん6がつ 琉球りゅうきゅう政府せいふ文教ぶんきょうきょく庶務しょむ R00164307B
77 沖縄諸島おきなわしょとう祖国そこく復帰ふっき期成きせいかい趣意しゅいしょ 1953(昭和しょうわ28)ねん1がつ 沖縄おきなわ市町村しちょうそんちょう協議きょうぎかい T00015439B
78 復帰ふっききょう 会議かいぎろく 1960(昭和しょうわ35)ねん 復帰ふっききょう文書ぶんしょ R10000360B
79 復帰ふっききょう 会議かいぎろく 1966(昭和しょうわ41)ねん 復帰ふっききょう文書ぶんしょ R10000372B
80 アイゼンハワー大統領だいとうりょうらいおき 沿道えんどう人々ひとびと 抗議こうぎ活動かつどう 1960(昭和しょうわ35)ねん6がつ19にち 宮城みやぎ悦二郎えつじろう写真しゃしん

0000096834

(23-057)

81 4がつ28にち沖縄おきなわデー 祖国そこく復帰ふっき県民けんみんそう決起けっき大会たいかい 1962(昭和しょうわ37)ねん4がつ29にち 宮城みやぎ悦二郎えつじろう写真しゃしん

0000096826

(15-050)

82 復帰ふっきデモ(祖国そこく復帰ふっき県民けんみんそう決起けっき大会たいかい) 1964(昭和しょうわ39)ねん4がつ29にち 宮城みやぎ悦二郎えつじろう写真しゃしん 0000096826
(15-097)
83 主席しゅせき公選こうせん自治じちけん獲得かくとく県民けんみん大会たいかい(復帰ふっききょう主催しゅさい) 立法院りっぽういんぜん 1964(昭和しょうわ39)ねん6がつ26にち 琉球りゅうきゅう政府せいふ写真しゃしん 0000108738
(007774)
84 平和へいわいの青少年せいしょうねんみなみ日本にっぽん大会たいかい 1965(昭和しょうわ40)ねん11月 琉球りゅうきゅう政府せいふ写真しゃしん 0000108766
(015731)
85 祖国そこく復帰ふっきだい行進こうしんだん 1965(昭和しょうわ40)ねん 4がつ27にち 琉球りゅうきゅう政府せいふ写真しゃしん 0000108769
(016647)
86 きょうこうほう阻止そし抗議こうぎ県民けんみん大会たいかい 1967(昭和しょうわ42)ねん 1がつ28にち 琉球りゅうきゅう政府せいふ写真しゃしん 0000108808
(027616)
87 祖国そこく復帰ふっき要求ようきゅうだい行進こうしん 1969(昭和しょうわ44)ねん4がつ27にち 琉球りゅうきゅう政府せいふ写真しゃしん 0000108822
(031592)

3.さまざまな復帰ふっきろん

 1950年代ねんだい後半こうはんしまぐるみ闘争とうそうにおいて住民じゅうみん不満ふまんつよさをたりにしたべいぐん当局とうきょくは、それまでの統治とうち政策せいさく軌道きどう修正しゅうせいしました。ぐん用地ようちりょう一括払いっかつばらいの断念だんねんのほか、外資がいし導入どうにゅう促進そくしんのためのドルえ、日本にっぽん政府せいふからの技術ぎじゅつ援助えんじょ導入どうにゅう西表島いりおもてじま日米にちべい共同きょうどう開発かいはつなど、本土ほんどとの格差かくさ是正ぜせいのための措置そち積極せっきょくてきんでいきました。
そのようなながれのなか当時とうじ長年ながねん沖縄おきなわ政権せいけんにぎっていた沖縄おきなわ自由民主党じゆうみんしゅとうは、復帰ふっきとなえるまえに、種々しゅじゅ障害しょうがいのぞくことが先決せんけつだとして、〈自治じち拡大かくだい〉〈渡航とこう制限せいげん撤廃てっぱい〉〈日本にっぽん政府せいふ援助えんじょ拡大かくだい〉などをひとひと実績じっせきかさねながら「祖国そこくとの実質じっしつてき一体化いったいか」を達成たっせいすることを方針ほうしんとしてちだしました。一方いっぽう、〈まる掲揚けいよう〉〈渡航とこう制限せいげん撤廃てっぱい〉〈主席しゅせき公選こうせん実現じつげん〉〈国政こくせい参加さんか〉などをかかげて運動うんどう推進すいしんしていた野党やとうは、「現状げんじょう肯定こうていするもの」として与党よとう批判ひはんしました。このように、復帰ふっき運動うんどうのありかたをめぐっては住民じゅうみんあいだ意見いけん対立たいりつられました。
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3 さまざまな復帰ふっきろん
88 1957年度ねんど行政ぎょうせい主席しゅせき施政しせい方針ほうしん 1956(昭和しょうわ31)ねん5がつ15にち琉球りゅうきゅう政府せいふ公報こうほう 0000002347
89 1958年度ねんど行政ぎょうせい主席しゅせき施政しせい方針ほうしん 1957(昭和しょうわ32)ねん5がつ7にち琉球りゅうきゅう政府せいふ公報こうほう 0000002351
90 1963年度ねんど行政ぎょうせい主席しゅせき施政しせい方針ほうしん 1962(昭和しょうわ37)ねん5がつ2にち琉球りゅうきゅう政府せいふ公報こうほう 0000002363
91 1968年度ねんど行政ぎょうせい主席しゅせき施政しせい方針ほうしん 1967(昭和しょうわ42)ねん5がつ19にち琉球りゅうきゅう政府せいふ公報こうほう 0000002377
92 祖国そこく復帰ふっきへのみち 沖縄おきなわ自由民主党じゆうみんしゅとう U90006002B
93 復帰ふっき反対はんたい 星条旗せいじょうき掲揚けいようした男性だんせい2めい 1961ねん4がつ21にち 宮城みやぎ悦二郎えつじろう写真しゃしん 25-3-115
94 [キャラウェイの自治じち神話しんわスピーチ “Autonomy is a myth″ 1963ねん3がつ5にち 0000025873
95 だい1かい日米にちべい技術ぎじゅつ委員いいんかい 1964ねん7がつ15にち USCAR写真しゃしん 0000112307
(12-17-4)

Ⅴ.日米にちべいによる沖縄おきなわ返還へんかん交渉こうしょう

 日本にっぽん政府せいふにとって、明治めいじ以来いらい自国じこく領土りょうど一部いちぶであった沖縄おきなわ返還へんかん実現じつげんするというのは、講和こうわ条約じょうやく締結ていけつ直後ちょくごからの課題かだいでした。交渉こうしょう議題ぎだいとしての提案ていあんこころみますが、ぎゃくにアメリカ政府せいふから「沖縄おきなわかえせというのなら日本にっぽん極東きょくとう安全あんぜん保障ほしょうにもっと貢献こうけんせよ」とせまられ、防衛ぼうえいりょく増強ぞうきょうにコミットできない日本にっぽん政府せいふは、沖縄おきなわ問題もんだいれることをけざるをませんでした。
しかし、沖縄おきなわでの復帰ふっき運動うんどうたかまりをけて、1960年代ねんだいはいると、日米にちべい関係かんけい安定あんていひいては極東きょくとう全体ぜんたい安定あんていのためには沖縄おきなわ問題もんだいけてとおれないとの認識にんしき日米にちべいりょう政府せいふはじめるようになります。アメリカ政府せいふは1966(昭和しょうわ41)ねんまでには、沖縄おきなわ問題もんだいをこのまま放置ほうちすると、ちか将来しょうらい基地きち機能きのう維持いじできなくなるとの危機ききかんち、検討けんとうはじめました。その結果けっか基地きち機能きのうそこなわないことを条件じょうけん施政しせいけん返還へんかん可能かのうとの結論けつろんされました。アメリカ政府せいふにとって沖縄おきなわ返還へんかんは、「すべきかどうか」ではなく、「いつ」「どのように」という課題かだいわっていきました。
ここでは、現在げんざい沖縄おきなわ基地きち問題もんだいにもつうじる、日米にちべいりょう政府せいふによる返還へんかん交渉こうしょう内実ないじつせまります。

1.交渉こうしょうはじまり

 1962(昭和しょうわ37)ねん3がつ、ケネディ大統領だいとうりょうは「琉球りゅうきゅう日本にっぽん一部いちぶ」と明言めいげんし、〈沖縄おきなわしん政策せいさく〉を発表はっぴょうしました。1964(昭和しょうわ39)ねん4がつには「日米にちべい協議きょうぎ委員いいんかい」「日米にちべい技術ぎじゅつ委員いいんかい」が設置せっちされ、日本にっぽん沖縄おきなわとの「一体化いったいか政策せいさくすすめられました。こうして、高度こうど経済けいざい成長せいちょう背景はいけい沖縄おきなわたいする日本にっぽん政府せいふ関与かんよふかまるにつれて、沖縄おきなわ問題もんだい日米にちべいあいだ重要じゅうよう議題ぎだいとなっていきました。1965(昭和しょうわ40)ねん8がつには、戦後せんごはじめて現役げんえき首相しゅしょうとして沖縄おきなわ訪問ほうもんした佐藤さとう首相しゅしょうは、「沖縄おきなわ祖国そこく復帰ふっき実現じつげんしないかぎり、わがくににとって戦後せんごわっていない」と演説えんぜつしました。
沖縄おきなわ返還へんかん本格ほんかくてき検討けんとうはじめたアメリカ政府せいふは、1966(昭和しょうわ41)ねんまでに基地きち機能きのう確保かくほ条件じょうけんほどこせ政権せいけん返還へんかんおうじることは可能かのうとの結論けつろんしました。そしてついに、1967(昭和しょうわ42)ねん11月の日米にちべい首脳しゅのう会談かいだんにおいて、りょう3ねん以内いない返還へんかん時期じきについて決定けっていすることが合意ごういされ、沖縄おきなわ返還へんかん現実げんじつのものとなりました。
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3 さまざまな復帰ふっきろん
96 国家こっか安全あんぜん保障ほしょう会議かいぎアクションメモだい133ごう 1962(昭和しょうわ37)ねん3がつ ケネディ大統領だいとうりょう文書ぶんしょ 0000073582
97 佐藤さとう栄作えいさく総理そうり大臣だいじんらいおき [あいさつ] 1965(昭和しょうわ40)ねん8がつ19にち 琉球りゅうきゅう政府せいふ写真しゃしん佐藤さとう栄作えいさく総理そうり大臣だいじんらいおき  琉球りゅうきゅう政府せいふ写真しゃしん

0000002351

(055655)

98 佐藤さとう栄作えいさく総理そうり大臣だいじんらいおき沿道えんどう] 1965(昭和しょうわ40)ねん8がつ19にち 宮城みやぎ悦二郎えつじろう写真しゃしん

0000096822

(11-103)

99 佐藤さとう栄作えいさく総理そうり大臣だいじんらいおき抗議こうぎ] 1965(昭和しょうわ40)ねん8がつ19にち 琉球りゅうきゅう政府せいふ写真しゃしん 0000002377
100 Our Ryukyus Bases 1966 U90006002B
101 みん政府せいふへの通達つうたつかんする書類しょるい 1967(昭和しょうわ42)ねん 琉球りゅうきゅう政府せいふ渉外しょうがい 25-3-115
102 若泉わかいずみけいからロストウ大統領だいとうりょう特別とくべつ補佐ほさかん手書てがきメモ 0000025873

2.1969ねんまいがわ交渉こうしょう戦略せんりゃく

 1969(昭和しょうわ44)ねん6がつ、ワシントンで沖縄おきなわ返還へんかん日米にちべい交渉こうしょう正式せいしきはじまり、11月に予定よていされていた日米にちべい首脳しゅのう会談かいだんでの最終さいしゅう合意ごうい目指めざしました。そのさいもっと難航なんこうしたのが、有事ゆうじさいの〈基地きち自由じゆう使用しよう〉〈核兵器かくへいきさい持込もちこみ〉と返還へんかんともなう〈財政ざいせい補償ほしょう〉でした。軍事ぐんじてき側面そくめんでは、アメリカ政府せいふ早々そうそう核兵器かくへいき撤去てっきょ決定けっていをしていながら、交渉こうしょう最終さいしゅう段階だんかいまでその〈ふだ〉を使つかって、日本にっぽん政府せいふから譲歩じょうほしていました。結果けっかとして、基地きち自由じゆう使用しよう共同きょうどう声明せいめい同日どうじつおこなわれた佐藤さとう首相しゅしょうによる「一方いっぽうてき声明せいめい」、かくさいみは、秘密ひみつ合意ごうい議事ぎじろくというかたち結実けつじつすることになりました。また、財政ざいせいてき側面そくめんについても、アメリカは返還へんかんによって財政ざいせいてき負担ふたんうようではべい国民こくみん議会ぎかい承諾しょうだくられないと主張しゅちょうして、日本にっぽんがわ相当そうとうがく負担ふたんいました。
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2 1969ねんまいがわ交渉こうしょう戦略せんりゃく
103 国家こっか安全あんぜん保障ほしょう決定けっていメモランダムだい13ごう U90007004B
104 沖縄おきなわ返還へんかん交渉こうしょう戦略せんりゃく文書ぶんしょ U90007004B
105 “As Okinawa GoesSo Goes Japan” 1969(昭和しょうわ44)ねん9がつ2にち 国家こっか安全あんぜん保障ほしょう文書ぶんしょかん U90005482B
106 沖縄おきなわ返還へんかん省庁しょうちょうあいだ調整ちょうせいかんするケース・スターディ pp.1-60 pp.61-117 U90008139B
107 松岡まつおかまさし主席しゅせき日米にちべい共同きょうどう声明せいめいたいする談話だんわ発表はっぴょう 1967(昭和しょうわ42)ねん11月16にち 琉球りゅうきゅう政府せいふ写真しゃしん 0000108792
(023281)
108 屋良やらちょうなえ主席しゅせき日米にちべい共同きょうどう声明せいめいたいする声明せいめい発表はっぴょう 1969(昭和しょうわ44)ねん11月22にち 琉球りゅうきゅう政府せいふ写真しゃしん 0000108833
(034604)

3.財政ざいせい交渉こうしょう

 沖縄おきなわ返還へんかん交渉こうしょう本格ほんかくしたころ、アメリカはベトナム戦争せんそう出費しゅっぴにあえいでおり、沖縄おきなわ返還へんかんにかかる一切いっさい経費けいひ日本にっぽん政府せいふ負担ふたんすべきだと主張しゅちょうしていました。一方いっぽう当時とうじ貿易ぼうえき黒字くろじ経済けいざい収支しゅうし好調こうちょうだった日本にっぽん政府せいふにとっては、国民こくみんに「沖縄おきなわをカネでもどした」という印象いんしょうをもたれないようにする必要ひつようがありました。交渉こうしょう難航なんこうしましたが、最終さいしゅうてき日本にっぽん政府せいふが3おく2せんまんドルを支払しはらうとして、「沖縄おきなわ返還へんかん協定きょうてい」が公式こうしきむすばれました。しかし、実際じっさいには、べいぐん自発じはつてきはらうとされていたぐん用地ようち原状げんじょう回復かいふく400まんドルや短波たんぱ放送ほうそうきょくヴォイス・オブ・アメリカ(VOA)の国外こくがい移転いてん1600まんドルなどを日本にっぽんがわ負担ふたんすることが秘密裏ひみつり合意ごういされていました。
このいわゆる〈密約みつやく〉については、政府せいふ設置せっちした、有識者ゆうしきしゃ委員いいんかい報告ほうこくしょ(2010ねん3がつ)で「広義こうぎ密約みつやく」と認定にんていされました。
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3 財政ざいせい交渉こうしょう
109 財政ざいせい補償ほしょうかんする柏木かしわぎ・ジューリック覚書おぼえがき 0000000793
110 沖縄おきなわ返還へんかん協定きょうていだい4じょうだい3こうについての論議ろんぎ要約ようやく] 1971(昭和しょうわ46)ねん6がつ12にち オフラハーティ文書ぶんしょ U90007159B
111 [VOAの国外こくがい移転いてんかんする覚書おぼえがき] 1971(昭和しょうわ46)ねん6がつ11にち オフラハーティ文書ぶんしょ U90007159B
112 屋良やらちょうなえ日誌にっし1971ねん6がつ18にち 0000097003
113 キッシンジャー大統領だいとうりょう補佐ほさかん訪日ほうにちようメモ 0000074401

Ⅵ.復帰ふっきへのみち最終さいしゅうあきら

1969(昭和しょうわ44)ねん11月、日米にちべい首脳しゅのう会談かいだんにおいて、長年ながねん県民けんみんもとめてきた日本にっぽん復帰ふっき正式せいしきまりました。そのころすでに復帰ふっきけた準備じゅんびすすんでいましたが、首脳しゅのう会談かいだん以降いこう一段いちだん加速かそくされました。しかし、長年ながねんのアメリカ統治とうちにより、沖縄おきなわには本土ほんどとはちが制度せいど数多かずおお存在そんざいしており、制度せいど調整ちょうせい県政けんせい移行いこう作業さぎょう難航なんこうしました。あるひとわせるとそれは「四角しかくいパイプとまるいパイプをうまくつなぐ」ようなものでした。 一方いっぽう琉球りゅうきゅう処分しょぶん敗戦はいせんときおなじように、この歴史れきしてきな〈わり〉をまえ社会しゃかいてき不安ふあんひろがり、復帰ふっきについてのかんがえは立場たちばによってさまざまでした。
ここでは、復帰ふっきまってから復帰ふっきするまでのやく2ねんはん沖縄おきなわ社会しゃかい焦点しょうてんをあてて紹介しょうかいします。

1・2.制度せいど調整ちょうせい県政けんせい移行いこう

 1967(昭和しょうわ42)ねん11月のだい2佐藤さとう・ジョンソン会談かいだんのち、1968(昭和しょうわ43)ねん3がつに「高等こうとう弁務べんむかんたいする日米にちべい諮問しもん委員いいんかい」が設置せっちされ、復帰ふっきけた準備じゅんびがスタートしました。1969(昭和しょうわ44)ねん日米にちべい共同きょうどう声明せいめいで1972ねん返還へんかんまると、よく1970(昭和しょうわ45)ねん3がつには「復帰ふっき準備じゅんび委員いいんかい」が設立せつりつされ、琉球りゅうきゅう列島れっとうまい国民こくみん政府せいふ(USCAR)の機能きのう琉球りゅうきゅう政府せいふ日本にっぽん政府せいふ移譲いじょうするための協議きょうぎおこなわれました。
日本にっぽん政府せいふは1970(昭和しょうわ45)ねん11月からさんにわたって「復帰ふっき対策たいさく要綱ようこう」を決定けっていしました。それには、日本にっぽん政府せいふたい沖縄おきなわ施策しさく本土ほんどほう適用てきようのほか、沖縄おきなわたいするくに具体ぐたいてき政策せいさくしめされ、国費こくひ学生がくせい制度せいどハンセン病はんせんびょう患者かんじゃ保護ほご沖縄開発庁おきなわかいはつちょう設置せっち通貨つうか交換こうかんレート、琉球りゅうきゅう政府せいふおよび関係かんけい機関きかんあつかとう、246項目こうもくまれました。琉球りゅうきゅう政府せいふも1971(昭和しょうわ46)ねん1がつ復帰ふっきひろ県民けんみん意思いし反映はんえいさせる目的もくてきで、各界かくかい代表だいひょうてき人物じんぶつ50にんあまりで構成こうせいされた「復帰ふっき対策たいさく県民けんみん会議かいぎ」を設置せっちしました。
アメリカ統治とうち時代じだい琉球りゅうきゅう政府せいふは、行政ぎょうせい司法しほう立法りっぽう三権さんけん分立ぶんりつし、司法しほうけん行使こうししていたことなど、国家こっかてき要素ようそもかなりの範囲はんいみとめられていたため、本土ほんど都道府県とどうふけんのような地方ちほう公共こうきょう団体だんたいとはことなった性質せいしつっていました。復帰ふっきさいには、琉球りゅうきゅう政府せいふ機能きのうをそのまま沖縄おきなわけん移行いこうすることはできませんでした。そのため、県政けんせい移行いこうにはおおくの複雑ふくざつ困難こんなん作業さぎょうともないました。
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1,2 制度せいど調整ちょうせい
114 日米にちべい諮問しもん委員いいんかい会議かいぎろく 1968~1970ねん 琉球りゅうきゅう政府せいふ企画きかく R00005383B
115 会議かいぎろく 復帰ふっき対策たいさく特別とくべつ委員いいんかい だい42かい議会ぎかい 定例ていれい 1970(昭和しょうわ45)ねん 琉球りゅうきゅう政府せいふ立法院りっぽういん記録きろくだい R00158286B
116 復帰ふっき対策たいさく要綱ようこう 1970(昭和しょうわ45)ねん11がつ20日はつか~1971(昭和しょうわ46)ねん9がつ3にち 琉球りゅうきゅう政府せいふ人事じんじ委員いいんかい R00155456B
117 民政みんせい移転いてんスケジュール 1970(昭和しょうわ45)ねん 琉球りゅうきゅう政府せいふ復帰ふっき対策たいさくしつ R00098656B
118 沖縄おきなわ復帰ふっきともな特別とくべつ措置そちかんする法律ほうりつ昭和しょうわ46ねん 法律ほうりつだい129ごう
1971(昭和しょうわ46)ねん12月31にち 内閣ないかく官房かんぼう 国立こくりつ公文書こうぶんしょかん
0000044135
119 復帰ふっき準備じゅんび委員いいんかい発足ほっそくしき 1970(昭和しょうわ45)ねん3がつ24にち USCAR写真しゃしん 0000112137
(64-21-1)
120 復帰ふっき対策たいさく県民けんみん会議かいぎ だい1かい 1971(昭和しょうわ46)ねん1がつ16にち 琉球りゅうきゅう政府せいふ写真しゃしん 0000108844
(037538)
121 身分みぶん引継ひきつぎあん 返還へんかんともなう「琉球りゅうきゅう政府せいふ公務員こうむいん」のしょ問題もんだいてん 官公労かんこうろう建設けんせつ支部しぶ 0000099152
122 復帰ふっきともな琉球りゅうきゅう政府せいふ公務員こうむいん身分みぶん引継ひきつぎにかんする要請ようせいしょ 1971(昭和しょうわ46)ねん8がつ 復帰ふっき対策たいさくしつ R00163385B
123 公文こうぶん書類しょるい引継ひきつぎ要領ようりょう 1972ねん1がつ22にち 琉球りゅうきゅう政府せいふ企画きかくきょく総務そうむ R00004972B
124 べい国民こくみん政府せいふへの文書ぶんしょ移譲いじょう要請ようせい 1972ねん1がつ 琉球りゅうきゅう政府せいふ企画きかくきょく総務そうむ R00004972B
125 琉球りゅうきゅう政府せいふ閉庁へいちょうしき 1972(昭和しょうわ47)ねん5がつ13にち 琉球りゅうきゅう政府せいふ写真しゃしん 0000108854
(040404)
126 復帰ふっきまであと1にち」 1972(昭和しょうわ47)ねん5がつ14にち 琉球りゅうきゅう政府せいふ写真しゃしん 0000108854
(040378)

3.複雑ふくざつおも

 1969(昭和しょうわ44)ねん11月の「日米にちべい共同きょうどう声明せいめい」や1971(昭和しょうわ46)ねん6がつの「沖縄おきなわ返還へんかん協定きょうてい」にられるように、日米にちべい交渉こうしょう結果けっかおおくの沖縄おきなわ県民けんみんもとめていた〈基地きちのない平和へいわ沖縄おきなわ〉とは程遠ほどとおいものでした。
1971(昭和しょうわ46)ねん11月の返還へんかん協定きょうてい国会こっかい承認しょうにんまえに、屋良やら主席しゅせき県民けんみんこえ国会こっかいうったえるべく「復帰ふっき措置そちかんする建議けんぎしょ」をたずさえて上京じょうきょうしました。しかし、返還へんかん協定きょうてい主席しゅせき到着とうちゃくつことなく衆議院しゅうぎいん特別とくべつ委員いいんかい強行きょうこう採決さいけつされ、県民けんみんこえ国会こっかいとどきませんでした。
そのころべいぐん支配しはいからの解放かいほうを〈復帰ふっき〉にたくして国家こっかどころもとめた復帰ふっき運動うんどう自体じたいあやまりだったとする〈はん復帰ふっきろん〉も台頭たいとうしました。
琉球りゅうきゅう処分しょぶんによる日本にっぽんへの編入へんにゅう以降いこう日本にっぽん祖国そこくとみなすおもいはおおくのひと共有きょうゆうされていたとはいえ、このように、1972(昭和しょうわ47)ねん日本にっぽんへの復帰ふっきは、おおくの県民けんみん複雑ふくざつおもいをむねむかえることになりました。
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3 複雑ふくざつおも
127 各種かくしゅビラ 1969(昭和しょうわ44)ねん10がつ 沖縄おきなわけん祖国そこく復帰ふっき協議きょうぎかいほか 0000094157
128 沖縄おきなわ沖縄おきなわじんのものだ!われわれは日本にっぽん復帰ふっきいそがない」
琉球りゅうきゅう議会ぎかい新聞しんぶん広告こうこく) 1969(昭和しょうわ44)ねん10がつ10にち 平良たいら幸市こういち文書ぶんしょ
08-107
129 「われわれは日本にっぽん復帰ふっきいそがない!」かみひかりビル 1969(昭和しょうわ44)ねん11月11にち 宮城みやぎ悦二郎えつじろう写真しゃしん

0000096819

(08-107)

130 新川しんかわあきら思想しそう葬送そうそう」『しん沖縄おきなわ文学ぶんがく』 18ごう 1970ねん12がつごう 沖縄おきなわタイムスしゃ T00009489B
131 返還へんかん協定きょうていとうたいする要請ようせいしょ 1971(昭和しょうわ46)ねん5がつ 琉球りゅうきゅう政府せいふ渉外しょうがい R00001220B
132 沖縄おきなわ返還へんかん協定きょうてい 了解りょうかい覚書おぼえがき合同ごうどう委員いいんかいのためのメモ] 1971(昭和しょうわ46)ねん6がつ17にち H020100642  
133 屋良やらちょうなえ行政ぎょうせい主席しゅせき記者きしゃ会見かいけん 返還へんかん協定きょうてい調印ちょういん 1971(昭和しょうわ46)ねん6がつ17にち 琉球りゅうきゅう政府せいふ写真しゃしん 0000108848
(038814)
134 復帰ふっき措置そちかんする建議けんぎしょ 1971(昭和しょうわ46)ねん11月18にち 琉球りゅうきゅう政府せいふ渉外しょうがい 0000105865

Ⅶ.新生しんせい沖縄おきなわけん

 1972(昭和しょうわ47)ねん5がつ15にち、27年間ねんかんおよんだアメリカ統治とうちわりをげ、沖縄おきなわ日本にっぽん復帰ふっきしました。
これまでたように、〈わり〉によりしょうじるであろう急激きゅうげき変化へんか対応たいおうするため、くに琉球りゅうきゅう政府せいふ復帰ふっきまえからさまざまな対策たいさくこうじてきました。しかし、べいぐん基地きち再編さいへんにともなうぐん雇用こよういん大量たいりょう解雇かいこ、ドルショックによる急激きゅうげきえんだかなど、沖縄おきなわをとりまく国内こくない国際こくさい情勢じょうせい想定そうていえるような変化へんか沖縄おきなわにもたらしました。そして、復帰ふっき記念きねん事業じぎょうひとつとしておこなわれた沖縄おきなわ国際こくさい海洋かいよう博覧はくらんかい本土ほんどとの格差かくさ是正ぜせい基調きちょうとした数次すうじにわたる沖縄おきなわ振興しんこうさくなどは、県民けんみん生活せいかつだけでなく、県土けんど姿すがたをもおおきくえていきました。しかしまた、日本にっぽん復帰ふっきから40ねんったいまなおわらない問題もんだいもあります。
ここでは、復帰ふっき沖縄おきなわがたどってきたみちかえり、長年ながねんねがいだった復帰ふっきがもたらしたものはなにだったのかをかんがえます。

1.1972・5・15

 1972(昭和しょうわ47)ねん5がつ15にち午前ごぜん0沖縄おきなわ全島ぜんとうにサイレンと汽笛きてきひびき、沖縄おきなわ復帰ふっきむかえました。
しかし、そのおもいは複雑ふくざつでした。琉球りゅうきゅう政府せいふ要求ようきゅうした「即時そくじ無条件むじょうけん全面ぜんめん返還へんかん」はかなわず、日米にちべい同盟どうめい再編さいへんした沖縄おきなわべいぐん基地きちはそのままのこりました。と同時どうじに、ざいおきまいぐん基地きち再編さいへん合理ごうりおこなわれ、基地きち従業じゅうぎょういん大量たいりょう解雇かいこ断行だんこうされました。インフレや通貨つうか切替きりかえによる損失そんしつなどともあいまって県民けんみんあいだで〈復帰ふっき不安ふあん〉がひろがっていました。
復帰ふっきあさ日本にっぽん政府せいふ沖縄おきなわけん主催しゅさいの「沖縄おきなわ復帰ふっき記念きねん式典しきてん」が東京とうきょう沖縄おきなわ同時どうじ開催かいさいされているなか与儀よぎ公園こうえんでは沖縄おきなわけん祖国そこく復帰ふっき協議きょうぎかい主催しゅさいの「沖縄おきなわ処分しょぶん抗議こうぎ佐藤さとう内閣ないかく打倒だとう5.15県民けんみんそう決起けっき大会たいかい」がひらかれました。 沖縄おきなわけんにとって、このはとてもあわただしいいちにちとなりました。早朝そうちょう615ふんからだいかい沖縄おきなわ県議会けんぎかい(臨時りんじ)を開催かいさいし、議長ぎちょうおよふく議長ぎちょう選出せんしゅつしたほか県政けんせい移行いこう必要ひつよう予算よさん条例じょうれいとう可決かけつしました。また、けん庁舎ちょうしゃまえで「沖縄おきなわ県庁けんちょう表札ひょうさつ除幕じょまくしきひらきちょうしきおこなうとともに、各部かくぶ課長かちょうおよぜん職員しょくいん辞令じれい交付こうふし、新生しんせい沖縄おきなわけん体制たいせいととのえました。
この施行しこうされた復帰ふっき特別とくべつ措置そちほうにより、「従前じゅうぜん沖縄おきなわけんは、当然とうぜんに、地方ちほう自治じちほうさだめるけんとして存続そんぞくするもの」とされ、琉球りゅうきゅう政府せいふ行政ぎょうせい主席しゅせき県知事けんちじ立法院りっぽういん議員ぎいん県議会けんぎかい議員ぎいんとみなし、沖縄おきなわけん地方ちほう公共こうきょう団体だんたいとしてあらたなスタートをしました。その6がつ25にちに、県知事けんちじ県議けんぎ選挙せんきょ投票とうひょうおこなわれ、その結果けっか戦後せんご初代しょだい県知事けんちじ屋良やらちょうなえ(やらちょうびょう)当選とうせんし、44にん議員ぎいん誕生たんじょうしました。
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1 1972・5・15
135 日本にっぽん政府せいふ主催しゅさい沖縄おきなわ復帰ふっき記念きねん式典しきてん 那覇なは市民しみん会館かいかん
1972(昭和しょうわ47)ねん5がつ15にち 琉球りゅうきゅう政府せいふ写真しゃしん
0000108854
(040393)
136 沖縄おきなわ祖国そこく復帰ふっき記念きねん式典しきてん記録きろく』 1972(昭和しょうわ47)ねん12月 内閣ないかく総理そうり大臣だいじん官房かんぼう G00014042B
137 屋良やらちょうなえ日誌にっし 1972(昭和しょうわ47)ねん5がつ15にち 0000097005
138 [5.15県民けんみんそう決起けっき大会たいかい 復帰ふっききょう主催しゅさい] 1972(昭和しょうわ47)ねん5がつ15にち 琉球りゅうきゅう政府せいふ写真しゃしん 0000108854
(040495)
139 Okinawa Reversion: Local Reaction 1972(昭和しょうわ47)ねん5がつ17にち 国務省こくむしょう文書ぶんしょ U90008121B
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  新生しんせい沖縄おきなわけん始動しどう
140 だいいちかい沖縄おきなわ県議会けんぎかい臨時りんじ午前ごぜん615ふん開催かいさい 1972(昭和しょうわ47)ねん5がつ15にち 琉球りゅうきゅう政府せいふ写真しゃしん 0000108854
 (040364)
141 県庁けんちょう書類しょるいはつ決裁けっさいする屋良やらちょうなえ知事ちじ 1972(昭和しょうわ47)ねん5がつ15にち 琉球りゅうきゅう政府せいふ写真しゃしん 0000108854
 (040352)
142 沖縄おきなわ県庁けんちょう表札ひょうさつ除幕じょまくしき 1972(昭和しょうわ47)ねん5がつ15にち 琉球りゅうきゅう政府せいふ写真しゃしん 0000108854
 (040382)
143 けんしん部長ぶちょう辞令じれい交付こうふ 1972(昭和しょうわ47)ねん5がつ15にち 琉球りゅうきゅう政府せいふうつし 0000108854
 (040402)
144 会議かいぎ結果けっか報告ほうこくについて 1972(昭和しょうわ47)ねん5がつ 沖縄おきなわ県議会けんぎかいけん財政ざいせい P00018950B
145 だいかいちょう議事ぎじろく[ちょう議事ぎじろくだいかいだい35かい] 1972(昭和しょうわ47)ねん5がつ けん企画きかくしつ 0000067335
146 知事ちじ当選とうせん証書しょうしょうつし)[屋良やらちょう苗氏みょうじ選挙せんきょ資料しりょう] 1972(昭和しょうわ47)ねん6がつ29にち けん選挙せんきょ管理かんり委員いいんかい T00003098B

2.復帰ふっき経済けいざい

 日本にっぽん復帰ふっきとともに、通貨つうかはドルから日本円にほんえん切替きりかわられることになりました。ところが、1971(昭和しょうわ46)ねん8がつ、いわゆるニクソン・ショックによって、変動へんどう相場そうばせい導入どうにゅうされると、ドルの価値かち急速きゅうそく下落げらくしていきました。復帰ふっきひかえていた沖縄おきなわでは、ドルからえん交換こうかんするがくることが予測よそくされたため、住民じゅうみんあいだ不安ふあんひろがりました。
琉球りゅうきゅう政府せいふは、この通貨つうか問題もんだいによって沖縄おきなわあたえる影響えいきょう最小限さいしょうげんにすべく日本にっぽん政府せいふたいして抜本ばっぽんてき措置そちをとるよう要請ようせいしました。また、復帰ふっきたずに即時そくじ切替きりかえ実施じっしするようもとめるこえこりましたが、実現じつげんしませんでした。
1972(昭和しょうわ47)ねん5がつ12にち交換こうかんレートは305えん決定けっていされました。変動へんどう相場そうばせい移行いこうまえ為替かわせレートとの差額さがくぶんは、政府せいふ特別とくべつ給付きゅうふきんとして補償ほしょうすることが決定けっていしましたが、その一方いっぽうで、社会しゃかい不安ふあん便乗びんじょう値上ねあげなどから急激きゅうげき物価ぶっか上昇じょうしょうがおこりました。
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2 復帰ふっき経済けいざい
147 特定とくてい物資ぶっし安定あんていかんする書類しょるい 1971(昭和しょうわ46)ねん 琉球りゅうきゅう政府せいふ生産せいさん R00060451B
148 通貨つうか個人こじん保有ほゆう確認かくにん作業さぎょう ドル差損さそん補償ほしょう 琉球銀行りゅうきゅうぎんこう大道だいどう支店してんまえ
1971(昭和しょうわ46)ねん10がつ9にち 琉球りゅうきゅう政府せいふ写真しゃしん
0000108851
 (039547)
149 通貨つうか即時そくじ切替きりかえにかんする要請ようせいしょ 1971(昭和しょうわ46)ねん12月 琉球りゅうきゅう政府せいふ渉外しょうがい R00001215B
150 沖縄おきなわ地方ちほう同盟どうめい48あいだスト 1ドル360えん賃金ちんぎん換算かんさん保障ほしょう要求ようきゅう 南西なんせい航空こうくうしゃ
1972(昭和しょうわ47)ねん2がつ1にち 琉球りゅうきゅう政府せいふ写真しゃしん
0000108855
 (040680)
151 通貨つうか切替きりかえようえん 沖縄おきなわ輸送ゆそうトラックのれつ
1972(昭和しょうわ47)ねん5がつ2にち 琉球りゅうきゅう政府せいふ写真しゃしん
0000108853
 (040209)
152 物価ぶっか行政ぎょうせい陳情ちんじょう関係かんけい  昭和しょうわ48年度ねんど けん企画きかく県民けんみん生活せいかつしつ H000011347

3.基地きち従業じゅうぎょういん大量たいりょう解雇かいこ

 沖縄おきなわべいぐん基地きちは、沖縄おきなわ住民じゅうみんがいわゆる「基地きち従業じゅうぎょういん」としてはたらでもありました。1950年代ねんだい朝鮮ちょうせん戦争せんそう勃発ぼっぱつべい冷戦れいせん時代じだい背景はいけいに、べいぐん沖縄おきなわ恒久こうきゅうてき基地きち建設けんせつ本格ほんかくさせました。大量たいりょう労働ろうどうりょく必要ひつようとしていたべいぐんは、おおくの地元じもと住民じゅうみん基地きち従業じゅうぎょういんとして採用さいようし、ピークには請負うけおい採用さいようされたひとふくめて4~5まんにんはたらいていました。
しかし、1969(昭和しょうわ44)ねん11月「佐藤さとう・ニクソン声明せいめい」により沖縄おきなわ返還へんかん決定けっていすると、その1週間しゅうかんの12月4にちべいぐんは2400にんおよ基地きち従業じゅうぎょういん解雇かいこ発表はっぴょうしました。アメリカは財政ざいせい悪化あっか背景はいけいに、国外こくがいべいぐん基地きち機能きのう維持いじしつつ人員じんいん削減さくげんによる合理ごうりをすすめていましたが、どう声明せいめい発表はっぴょうは、そのうごきを一気いっき加速かそくさせ、復帰ふっきの1972(昭和しょうわ47)ねん5がつまでに7000にん解雇かいこされました。これにたいし、琉球りゅうきゅう政府せいふそして復帰ふっき沖縄おきなわけんは、給付きゅうふきん支給しきゅう離職りしょくしゃ雇用こようあっせんなどの対策たいさくおこないました。基地きち従業じゅうぎょういん大量たいりょう解雇かいこ問題もんだいは、復帰ふっき構造こうぞうてきこう失業しつぎょうりつ要因よういんになったともいわれています。
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3 基地きち従業じゅうぎょういん大量たいりょう解雇かいこ
153 ぐん雇用こようしゃ人員じんいん整理せいりかんする資料しりょう
1969(昭和しょうわ44)ねん12月~1970(昭和しょうわ45)ねん1がつ 琉球りゅうきゅう政府せいふ渉外しょうがい労働ろうどう
R00092287B
154 ぜんぐんろう48あいだストライキ だいいち 1970(昭和しょうわ45)ねん9がつ10日とおか 琉球りゅうきゅう政府せいふ写真しゃしん 0000108841
 (036947)
155 ぜんぐんろう48あいだストライキ だいいち 1970(昭和しょうわ45)ねん9がつ10日とおか 琉球りゅうきゅう政府せいふ写真しゃしん 0000108841
 (036959)
156 ぐん雇用こよういん問題もんだいかんする要請ようせいしょ 1971(昭和しょうわ46)ねん 2がつ 6にち 琉球りゅうきゅう政府せいふ渉外しょうがい 0000105864
157 ぜんぐんろうさんせんめい解雇かいこ撤回てっかい要求ようきゅう48あいだストライキ
1971(昭和しょうわ46)ねん2がつ11にち 琉球りゅうきゅう政府せいふ写真しゃしん
0000108844
 (037748)
158 特別とくべつ給付きゅうふきん支給しきゅう申請しんせい関係かんけい 1971(昭和しょうわ46)ねん 琉球りゅうきゅう政府せいふ渉外しょうがい労働ろうどう 0000081156
159 特別とくべつ給付きゅうふきん申請しんせい 1972ねん3がつ 琉球りゅうきゅう政府せいふ渉外しょうがい労働ろうどう 0000081150
160 離職りしょくしゃのしおり」 1976(昭和しょうわ51)ねん8がつ けん渉外しょうがい労働ろうどう福祉ふくし 0000014444
161 さい出発しゅっぱつのしおり 駐留ちゅうりゅうぐん関係かんけい離職りしょくしゃのために」
1977(昭和しょうわ52)ねん4がつ けん公共こうきょう職業しょくぎょう安定あんていしょ
0000014279

4.海洋かいようはく社会しゃかい変化へんか

 1975(昭和しょうわ50)ねん7がつから半年はんとしあいだ、「うみ-そののぞましい未来みらい」をテーマに沖縄おきなわ国際こくさい海洋かいよう博覧はくらんかい海洋かいようはく)が開催かいさいされました。植樹しょくじゅさいわかなつ国体こくたいつづ最大さいだい国家こっかてき復帰ふっき記念きねん事業じぎょうであった海洋かいようはくは、沖縄おきなわ復帰ふっきとともに、沖縄おきなわ特色とくしょくあおうみ亜熱帯あねったい独特どくとく文化ぶんか)を国内外こくないがいひろめ、観光かんこうりつけんとしてあゆみだす契機けいきとなりました。
海洋かいようはく開催かいさいまると、高速こうそく道路どうろなどのだい規模きぼ開発かいはつきゅうピッチですすめられました。これらの関連かんれん公共こうきょう事業じぎょうは、本土ほんどとの格差かくさ是正ぜせい解消かいしょうする経済けいざい振興しんこう起爆きばくざいとして期待きたいされた一方いっぽう当時とうじ社会しゃかい問題もんだいとなっていた物価ぶっか上昇じょうしょう環境かんきょう破壊はかいおよ本土ほんど資本しほん土地とちとうこした原因げんいんとしてみなされました。そのため海洋かいようはく開催かいさい反対はんたいする世論せろんこりました。
海洋かいようはくこれかの賛否さんぴ両論りょうろん渦巻うずまなか政府せいふ本土ほんど企業きぎょう中心ちゅうしん開催かいさい準備じゅんびすすめられていく状況じょうきょうたいして、沖縄おきなわけんは、たん場所ばしょ提供ていきょうするだけでなく、県民けんみん一体いったいとなって積極せっきょくてき参加さんかする必要ひつようせいかんじ、独自どくじ出展しゅってんすることをめました。そして、県民けんみんから資金しきんつのり、みずからの言葉ことば沖縄おきなわ歴史れきし文化ぶんかつたえる「沖縄おきなわかん」を完成かんせいさせました。
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4 海洋かいようはく社会しゃかい変化へんか
162 沖縄おきなわ国際こくさい海洋かいよう博覧はくらんかいカウントダウンタワー あと900にち 1972(昭和しょうわ47)ねん 琉球りゅうきゅう政府せいふ写真しゃしん 0000108858
 (041613)
163 復帰ふっき記念きねん植樹しょくじゅさい 1972(昭和しょうわ46)ねん11月26にち 沖縄おきなわけん写真しゃしん 0000108906
(054825)
164 沖縄おきなわ国際こくさい海洋かいよう博覧はくらんかい関連かんれん公共こうきょう事業じぎょうかんする要請ようせい 1972(昭和しょうわ47)ねん6がつ
けん沖縄おきなわ国際こくさい海洋かいよう博覧はくらんかい協力きょうりょくきょく
P00013044B
165 沖縄おきなわ経済けいざい危機きき 1973(昭和しょうわ48)ねん4がつ けん労働ろうどう組合くみあい協議きょうぎかい 海洋かいようはく対策たいさく委員いいんかい T94000007B
166 海洋かいようはくともな問題もんだいてんおよ対応たいおうさくについて
1974(昭和しょうわ49)ねん11月 けん沖縄おきなわ国際こくさい海洋かいよう博覧はくらんかい推進すいしん本部ほんぶ
P00013135B
167 沖縄おきなわかん開会かいかいしきにおける知事ちじ挨拶あいさつ 1975(昭和しょうわ50)ねん7がつ けん沖縄おきなわ国際こくさい海洋かいよう博覧はくらんかい協力きょうりょくきょく G00010784B
168 うみ-そののぞましい未来みらい 沖縄おきなわ開催かいさいのあゆみ
1976(昭和しょうわ51)ねん6がつ けん沖縄おきなわ国際こくさい海洋かいよう博覧はくらんかい協力きょうりょくきょく
G00010784B

5.ナナサンマル

 べいぐん統治とうち沖縄おきなわ交通こうつうは、アメリカとおなじく「みぎ走行そうこう」でした。復帰ふっきにともない、「いちこくいち方式ほうしき」の国際こくさい条約じょうやく遵守じゅんしゅにしたがって、日本にっぽん本土ほんど交通こうつう方法ほうほう変更へんこうすることとなりました。実施じっしされたが1978(昭和しょうわ53)ねん7がつ30にちだったことから「ナナサンマル」とばれています。
1978(昭和しょうわ53)ねん7がつ29にち午後ごご10ぜんけん車両しゃりょう通行止つうこうどめ・駐車ちゅうしゃ禁止きんし特別とくべつ交通こうつう規制きせいげるサイレンの合図あいずとともに「ひとみぎくるまひだり」の通行つうこう区分くぶん切替きりかえ作業さぎょう開始かいしされ、よく30にち午前ごぜん6作業さぎょう完了かんりょうしました。変更へんこう直後ちょくごは、交通こうつう事故じこ相次あいつぎ、など都市とし地区ちくでは交通こうつう渋滞じゅうたいつづきましたが、あたらしい交通こうつうルールは徐々じょじょ県民けんみん定着ていちゃくしていきました。復帰ふっき処理しょり事業じぎょうのひとつとして実施じっしされた「ナナサンマル」では、バス停留所ていりゅうじょ変更へんこう、バス・タクシー車両しゃりょう切替きりかえなどだい規模きぼ施設しせつ整備せいびおこなわれました。 その一方いっぽうくるまながれがわったことによって営業えいぎょう影響えいきょうひと道路どうろ用地ようち補償ほしょう問題もんだいとうがあり、不満ふまんこりました。
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5 ナナサンマル
169 国際こくさいどおり 1972(昭和しょうわ47)ねん3がつ 琉球りゅうきゅう政府せいふ写真しゃしん 0000108905
(054512)
170 沖縄おきなわけんにおける交通こうつう方法ほうほう変更へんこう時期じきについて(回答かいとう
1975(昭和しょうわ50)ねん5がつ 沖縄おきなわ県知事けんちじ
H00010666
171 要望ようぼうしょ 交通こうつう方法ほうほう変更へんこう対策たいさくについて 1976(昭和しょうわ51)ねん8がつ 沖縄おきなわけん 0000034350
172 沖縄おきなわけん交通こうつう方法ほうほう変更へんこう特別とくべつ事業じぎょう計画けいかくあん) 1977(昭和しょうわ52)ねん8がつ けん企画きかく調整ちょうせいしつ H00010777
173 交通こうつう安全あんぜん施設しせつとう整備せいび事業じぎょう施行しこう実績じっせき報告ほうこく 1977(昭和しょうわ52)年度ねんど けん地方ちほう 0000016359
174 昭和しょうわ52・53年度ねんど道路どうろ関係かんけい国庫こっこ事業じぎょう実績じっせき報告ほうこくしょ
1979(昭和しょうわ54)ねん6がつ30にち けん道路どうろ
0000016457

6.のこされた基地きち問題もんだい

 復帰ふっきまえ沖縄おきなわには、ぜん県土けんどの14.8%(本島ほんとうでは27.2%)に相当そうとうするやく353㎢におよぶべいぐん基地きち存在そんざいしました。1971(昭和しょうわ46)ねん6がつ日米にちべい政府せいふあいだ調印ちょういんされた沖縄おきなわ返還へんかん協定きょうていは、沖縄おきなわべいぐん基地きち復帰ふっき米国べいこく継続けいぞくして使用しようすることをみとめ、また、どのような範囲はんい提供ていきょうするかについては、どう協定きょうてい附属ふぞくして締結ていけつされた「基地きちかんする了解りょうかい覚書おぼえがき」において、復帰ふっきから使用しようする基地きち88かしょ適当てきとう時期じき返還へんかんされる基地きち12かしょ即時そくじ返還へんかんされる基地きち34かしょさだめられました。これによって、復帰ふっきさいおおくの住民じゅうみんのぞんだ「基地きちかたちでの復帰ふっき」とは、実態じったいとして程遠ほどとおいものとなりました。
基地きち負担ふたんとは、振興しんこう開発かいはつじょう障害しょうがいばかりでなく、べい軍人ぐんじん軍属ぐんぞくとうによる事件じけん事故じこ被害ひがい騒音そうおんによる生活せいかつへの悪影響あくえいきょう、さらには汚染おせん物質ぶっしつ流出りゅうしゅつとうによる自然しぜん環境かんきょう破壊はかいなどの住民じゅうみん安全あんぜん安心あんしんそこなうしょ問題もんだい意味いみします。けんは、住民じゅうみん戦後せんご背負せおってきた過重かじゅう基地きち負担ふたん軽減けいげんすることを県政けんせいさい重要じゅうよう課題かだいとし、基地きち整理せいり縮小しゅくしょう日米地位協定にちべいちいきょうてい見直みなおし、その基地きちから派生はせいするしょ問題もんだい解決かいけつ日々ひびんでいます。
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6 のこされた基地きち問題もんだい
175 施設しせつおよ区域くいき提供ていきょう通知つうち 5.15にちぶん 1972(昭和しょうわ47)年度ねんど けん基地きち渉外しょうがい H020100631
176 B52飛来ひらい抗議こうぎ村民そんみんそう決起けっき大会たいかい 嘉手納かでな 1972(昭和しょうわ47)ねん10がつ28にち 琉球りゅうきゅう政府せいふ写真しゃしん 0000108931
(060033)
177 沖縄おきなわべいぐん基地きち分布ぶんぷ 1973(昭和しょうわ48)ねん5がつ15にち けん基地きち渉外しょうがい R10001210B  
178 県道けんどう104号線ごうせん実弾じつだん射撃しゃげき訓練くんれん関連かんれん文書ぶんしょ
1973(昭和しょうわ48)~1979(昭和しょうわ54)年度ねんど けん基地きち渉外しょうがい
H020100631
179 伊江島いえしましゃばくじょうにおける青年せいねん狙撃そげき事件じけん関係かんけい文書ぶんしょ 1974(昭和しょうわ49)年度ねんど けん基地きち渉外しょうがい H020101109
180 裁決さいけつ申請しんせいしょ嘉手納かでな飛行場ひこうじょう那覇なは防衛ぼうえい施設しせつきょく 1981(昭和しょうわ56)年度ねんど けん収用しゅうよう委員いいんかい 0000080524

7.沖縄おきなわ振興しんこうさく

 米国べいこく統治とうちにあった沖縄おきなわ高度こうど経済けいざい成長せいちょうにあった本土ほんどでは、経済けいざいてき格差かくさおおきかったため、復帰ふっき沖縄おきなわは、まず格差かくさ是正ぜせいすることからはじめる必要ひつようがありました。そのため政府せいふは、復帰ふっき特措法とくそほう制定せいてい沖縄開発庁おきなわかいはつちょう設置せっちし、「沖縄おきなわ振興しんこう開発かいはつ計画けいかく」を策定さくていして、さん30ねんにわたって沖縄おきなわ振興しんこう開発かいはつみました。だいいちおよだい計画けいかくでは、「本土ほんどとの格差かくさ是正ぜせい」、「自立じりつてき発展はってん基礎きそてき条件じょうけん整備せいび」が基本きほん目標もくひょうとされ、だいさんにおいては、これらに「特色とくしょくある地域ちいきとして整備せいび」が追加ついかされました。このあいだ沖縄おきなわ振興しんこう施策しさくとうじた国費こくひ総額そうがくやく7ちょうえんで、制度せいどめんでは公共こうきょう事業じぎょうとう高率こうりつ補助ほじょほか酒税しゅぜい揮発きはつぜいとう国税こくぜい軽減けいげん措置そちとう適用てきようされ、社会しゃかい資本しほん生活せいかつ環境かんきょう整備せいびでは一定いってい成果せいかをあげました。
一方いっぽう全国ぜんこく平均へいきんの7わり程度ていどにとどまる県民けんみん所得しょとくきびしい雇用こよう情勢じょうせいたか財政ざいせい依存いぞんなど、解決かいけつすべき課題かだいのこりました。そこで平成へいせい14年度ねんどからは、従来じゅうらい計画けいかくから「開発かいはつ」の2文字もじのぞいた「沖縄おきなわ振興しんこう計画けいかく」が策定さくていされ、「本土ほんどとの格差かくさ是正ぜせい」を基調きちょうにするキャッチアップ(いつこうとする努力どりょくがた振興しんこう開発かいはつだけではなく、沖縄おきなわ特性とくせい十分じゅうぶん発揮はっきしたフロンティア創造そうぞうあたらしいものをつくしていこうとする努力どりょくがた振興しんこうさくへの転換てんかんはかられました。(どう計画けいかく平成へいせい23年度ねんど終了しゅうりょう。)
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6 のこされた基地きち問題もんだい
181 沖縄おきなわ産業さんぎょう10ねん計画けいかくひょう」 1916(大正たいしょう5)ねん 9がつ <だい6だい沖縄おきなわ県知事けんちじ> 高橋たかはし琢也たくや T00009181B
182 沖縄おきなわけん振興しんこう開発かいはつ説明せつめいしょ[長期ちょうき計画けいかく2] 1932(昭和しょうわ7)ねん12月<内務省ないむしょう> けん振興しんこう計画けいかく調査ちょうさかい H020087001
183 経済けいざい振興しんこうだいいちカ年かねん計画けいかくしょ[長期ちょうき計画けいかく2] 1955(昭和しょうわ30)ねん6がつ 琉球りゅうきゅう政府せいふ H020087001
184 長期ちょうき経済けいざい計画けいかくしょ 1960(昭和しょうわ35)ねん5がつ 琉球りゅうきゅう政府せいふ G80002578B
185 沖縄おきなわ長期ちょうき経済けいざい開発かいはつ計画けいかく 1970(昭和しょうわ45)ねん7がつ 琉球りゅうきゅう政府せいふ G80000523B
186 沖縄おきなわ振興しんこう開発かいはつ計画けいかくあん提出ていしゅつについて[条例じょうれいとう制定せいてい改廃かいはい関係かんけい
1972(昭和しょうわ47)年度ねんど けん企画きかく調整ちょうせいしつ
H000032732
187 だい2沖縄おきなわ振興しんこう開発かいはつ計画けいかくあん 1982(昭和しょうわ57)ねん6がつ 沖縄おきなわけん G00002679B
188 だい3沖縄おきなわ振興しんこう開発かいはつ計画けいかくあん 1992(平成へいせい4)ねん8がつ 沖縄おきなわけん G00005168B

8.明日あしたへの〈選択せんたく

 かつて沖縄おきなわ先人せんじんは、つね進取しんしゅ気概きがいをもち、海外かいがいとの交易こうえきつうじて経済けいざいてき自立じりつはかり、平和へいわこころゆたかな生活せいかついとなみ、独自どくじ文化ぶんか開花かいかさせ、いちこくとしての歴史れきしあゆんでいました。しかしながら近世きんせい以降いこうには、薩摩さつま琉球りゅうきゅうりをはじめ、近代きんだい明治めいじ政府せいふによる琉球りゅうきゅう処分しょぶん悲惨ひさん沖縄おきなわせん戦後せんごべいぐん統治とうちなど、くらいイメージの歴史れきしもありました。こうした歴史れきしてき経験けいけんつうじて、県民けんみんは、みずかがろうとするうちはつせい沖縄おきなわじん(ウチナーンチュ)としての自覚じかくはぐくみ、日本にっぽん復帰ふっき実現じつげんさせました。(※)
そして、それから40ねん歳月さいげつながいま沖縄おきなわがあります。そのあいだ県民けんみん意識いしき価値かちかんわりました。沖縄おきなわ岐路きろとなった復帰ふっきとはなにだったのか? 琉球りゅうきゅう日本にっぽん国益こくえき民意みんい支援しえん負担ふたん開発かいはつ自然しぜん・・・、さまざまな利害りがい価値かちかんがぶつかるなかで、くにけんそして県民けんみんなに選択せんたくしてきたのか? また、その選択せんたく結果けっかによって、社会しゃかいそして県民けんみん生活せいかつ意識いしきがどのように変化へんかしてきたのか? 公文書こうぶんしょかんには、そのがかりがのこされています。
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6 のこされた基地きち問題もんだい
189 本土ほんど復帰ふっきいちねん沖縄おきなわ県民けんみん意識いしき」1973(昭和しょうわ48)ねん11月 内閣ないかく総理そうり大臣だいじん官房かんぼう広報こうほうしつ G94000098B
190 沖縄おきなわけんのイメージとうかんする県民けんみん意識いしき調査ちょうさ」 1995(平成へいせい7)ねん3がつ けん広報こうほう G00000022B
191 国際こくさい都市とし形成けいせい基本きほん計画けいかく21世紀せいき沖縄おきなわのグランドデザインの実現じつげんけて」
1997(平成へいせい9ねん)5がつ けん国際こくさい都市とし形成けいせい推進すいしんしつ
G00021813B
192 沖縄おきなわ21世紀せいきビジョン みんなでつくる みんなのとう 未来みらいのおきなわ」
2010(平成へいせい22)ねん3がつ けん企画きかく調整ちょうせい
0000104459