なぜ「技術多様性」が求められるのか
連載もいったん最後となる今回は、前回に引き続きテクノダイバーシティ(技術多様性)、とくに「日本の宇宙技芸」について考えたい。技術哲学者であるユク・ホイが、主著の一つである『中国における技術への問い』において提唱する「宇宙技芸」とは、各地域が持つ世界観や宇宙観にねざす、多様性に開かれた技術をさす。しかし、なぜテクノダイバーシティや、その具体的な「宇宙技芸」の探求がいま求められるのだろうか。提唱者であるユク・ホイは言う。
ここまで繰り返し見てきたように、ホイが言う「近代的な」テクノロジーは、すべてを生産性や効率性でしか見られないように人々を駆り立てるゲシュテル機構(第6回のテーマ)や、一つの未来(例えば汎用人工知能[AGI]の誕生が約束された未来)へと向かう機械論的サイバネティクス(第7回のテーマ)を生み出してきた。そのテクノロジー文明が近代以後この地球を覆っていっている。端的に言えばそれはディストピアに帰結するものだ。じっさい現代のテクノロジー文明は、環境破壊や戦争など惑星的な複合危機と直面している。
わたしたちは、未来をつくり直す(Defuturing(脱未来化)/Refutureing(再未来化))必要がある。例えば、グローバルという言葉は、人類共通の志向や文化を指すものではなく、ある特定の地域の志向と文化を体現しているにすぎないと、ポストコロニアルや生物多様性の文脈で繰り返し述べられてきたが、テクノロジーの多様性も注目されるべきなのだ。さらに、ホイは言う。
日本文化のテクノロジー観
しかし、日本固有のテクノロジー観などありうるのだろうか。
技術哲学者のマーク・クーケルバークは著書『AIの倫理学』で、西洋においてAIは「超知能」となり人間と「敵対」するものとして語られるなどAIの脅威が過大視される傾向があることを問題視したうえで、西洋文化以外に目を向けることで解決策を見いだせるのではないかとし、日本を取り上げる。
という。クーケルバークがいう神道の影響は西洋の研究者の口からもたびたび語られる。いわゆる「テクノアニミズム」だ。
テクノアニミズムとドラえもんAI論
「テクノアニミズム」は、「人工物や機械に生命的な性質、とくに霊魂を感じ取る心性5」で、日本に特有の技術観として、2000年代前後から人類学者のアン・アリソンや、奥野卓司らが提唱した概念で、技術哲学研究者も度々取り上げている。
昨年、国際技術哲学会に合わせて来日したオランダの二人の技術哲学者と、フランクなお酒の席ではあるが、この話題になった。 日本のポップカルチャーの大ファンでもあるそのうちの一人は、そこで描かれるAIやロボットとの関係性が西洋のそれとは違うのだと親しみを込めて語ってくれた。そしてその理由を同席したもう一人の技術哲学者が丁寧に補足してくれた。そう「神道が理由なんだ」と。
Appleが新しいiPadのプロモーションに合わせて公開した動画が「物を大切にしていない動画だったから」炎上したことは記憶に新しいが、X(旧:Twitter)のトレンドに「八百万の神」が浮上したこともわたしは見逃さなかった。物を大切にしないことで起きる「付喪神」(つくもがみ)の祟についての伝承がこの日本にはあり、それが日本文化の特徴の一つであることは間違いない。
なのであの席で「それは神道の「八百万の神」の思想から来ているんだ」と誇らしげに返答してもよかったかもしれない。けれども、同席していたわたしたちは決してそれをしなかった。というのも、少々複雑な感情を抱いていたのだ。
もちろん、クーケルバークがいうように「ポップカルチャーは機械をヘルパーとして描いてきた」のも確かだ。この「ヘルパー」の代表は「ドラえもん」だろう。わたしたちはドラえもんAI観をもつ、という考えも散見される。確かにAIがドラえもんのようなイメージになるなら脅威を抱きにくいだろう。そのため、規制も起きにくく、AI開発の天国だというわけだ。じっさい日本は著作権などの点でAI規制が極めて緩い。また、aiboやLOVOT、OriHimeなど、すでにヘルパーとして活躍しているロボットはいくつもあり、それがAIにより飛躍的に進化する日も近いだろう。
テクノロジー津波論
さらに、もう一つの傾向性があるという。AIに限らずそもそもテクノロジーの脅威を感じにくいというものだ。
わたしは以前、技術哲学のようなテクノロジー批判の学問がなぜ日本で育ちにくいのかある米国の著名な技術哲学者にメッセンジャーで質問したことがある。そのやり取りのなかで、親日家でもある彼はそのことを長年が考えてきたとしたうえで「日本人は、地震や津波と同じようにテクノロジーに対しても諦めているのだろうか。よくわからないが、日本はテクノロジー開発の中心地でもあるのに、不思議なことなのだ」と回答してくれた。
確かに、津波などの巨大な自然災害が多い国土のため、テクノロジーの「襲来」による脅威も感じにくいという発想もたびたび見かけるものだ。
日本固有の「〇〇」を疑う
しかし、これが日本の宇宙技芸なのだろうか。ここで注意が必要なのが、基本的にはこれらは「海外からみた日本」論を出発点とし、また何かと日本への期待感を背景に語られがちで、またわたしたちはそれに肯定的に応じたくなる点だ。
そもそも、上記の期待感はいわゆる「脱人間中心主義」の流れからくるものだろう。
まず、西洋の伝統においては、生命と機械や人間とそれ以外は厳密に区別されてきた。また、前回見たように人間には世界の管理者としての特別な地位が与えられてきた。それゆえ、知性をもちまるで生命のように振る舞う機械であるロボットやAIは、人間の地位を脅かす存在であり、それらに対し「フランケンシュタイン・コンプレックス」をもつとされる。