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自治じち自律じりつてきなデザインとだつ未来みらい──多元たげん世界せかいけたデザインをかんがえる(前編ぜんぺん

人類じんるい学者がくしゃアルトゥーロ・エスコバルの『多元たげん世界せかいけたデザイン』を起点きてんに、土着どちゃくてき実践じっせんからまれるデザインのさい定義ていぎや、そこであらわれる多元たげん世界せかいについて、デザインリサーチャー水野みずの大二郎だいじろう編集へんしゅうちょうインタビュー。
自治・自律的なデザインと脱未来──多元世界に向けたデザインを考える(前編)
PHOTOGRAPH: WIRED JAPAN

松島まつしま 最近さいきん、アルトゥーロ・エスコバルの名前なまえをいろいろなところでくようになりました。『WIRED』は昨年さくねん30周年しゅうねんむかえたのですが、その記念きねん特集とくしゅうごうのテーマを「2050ねん多元的たげんてき未来みらいへ」としたんです。30ねんかんがえると2050年代ねんだいで、つまり「ネクスト・ミッドセンチュリー」になります。ひるがえって、「ミッドセンチュリー」というと一般いっぱんてき想起そうきするのは1950年代ねんだいのことです。『WIRED』は「未来みらい実装じっそうする」メディアをうたっているのですが、その「未来みらい」とは結局けっきょくいまだに、まえのミッドセンチュリーの時代じだいに、おも欧米おうべい白人はくじん男性だんせいのインテリたちがかんがした未来みらいであって、それをSF小説しょうせつなどでんで感化かんかされたイーロン・マスク少年しょうねんとかジェフ・ベゾス少年しょうねんが、大人おとなになっておかね権力けんりょくにしたので、「その未来みらい実現じつげんするぜ」といっていままさにこころみている。つまり、結局けっきょくぼくらはまだ、前回ぜんかいのミッドセンチュリーで想像そうぞうされた未来みらいのなかでしかきてないんじゃないか、といった問題もんだい意識いしきがそこにはふくまれています。

そこで、2050ねんのネクスト・ミッドセンチュリーには、どうやって未来みらい可能かのうせい選択肢せんたくしをもっとひろげることができるのか? 『WIRED』日本にっぽんばんでは「futures」のように「未来みらい」に複数ふくすうがたの「s」をつけるのですが、そういう複数ふくすう未来みらいえがけるのかという問題もんだい意識いしきをもっているんです。そのなかで、哲学てつがくしゃユク・ホイがエスコバルに言及げんきゅうしたりとか、「pluriverse(多元たげん世界せかい)」といったキーワードがたとえばWeb3文脈ぶんみゃくからてきていたりとか、ついにはこうして『多元たげん世界せかいけたデザイン』が邦訳ほうやくて、しかも水野みずの先生せんせい監訳かんやくされている。これはもうぜひおはなしをうかがいたいと、発売はつばいまえにこうしてお時間じかんをいただきました。

多元たげん世界せかいけたデザイン』著者ちょしゃ:アルトゥーロ・エスコバル/翻訳ほんやく増井ますいエドワード、緒方おがたたねひろし奥田おくだなだめさとし小野里おのざとみがくひさ、ハフマンめぐみしんはやしたすくじゅ宮本みやもとみずほもと監修かんしゅう水野みずの大二郎だいじろう水内みずうち智英ともひで森田もりたあつしろう神崎かんざき隼人はやと発行はっこう:ビーエヌエヌ

PHOTOGRAPH: WIRED JAPAN

今日きょう本書ほんしょ細部さいぶげるというよりは、あらためて「多元たげん世界せかい」とはなにかとか、いまデザインではどういうことを問題もんだいとしてとらえていて、どこにかおうとしているのかを、本書ほんしょ起点きてんにうかがっていきたいとおもっています。まず前提ぜんていとして、本書ほんしょのなかには「存在そんざいろんてきデザイン」というキーワードが度々たびたびてきます。こちらをあらためておしえていただけますか。

存在そんざいろんてきデザインと「デフューチャリング」

水野みずの 存在そんざいろんてきデザインというキーワード自体じたいは、かならずしもエスコバルが最初さいしょしたものではなくて、本人ほんにん本書ほんしょのなかで記述きじゅつしているように、人工じんこう知能ちのう(AI)研究けんきゅうしゃのテリー・ウィノグラードと哲学てつがくしゃフェルナンド・フローレスの概念がいねん応用おうようしています。基本きほんせんとして、「われわれが世界せかいは、われわれがデザインしたものである」という認識にんしきがまずあると。そこで問題もんだいは、われわれがよかれとおもってデザインした世界せかいに、われわれはデザインしがえされているということですよね。まず、その部分ぶぶんにわれわれはづく必要ひつようがある、そういう認識にんしきをもつ必要ひつようがあるだろうということです。そのうえつぎなにをしたらいいのかということになる。

この時点じてんで、本書ほんしょではトニー・フライとアン=マリー・ウィルスというふたりが重要じゅうよう人物じんぶつとしててきます。ふたりはパートナーなんですけれども、タスマニアとうThe Studio at the Edge of the Worldというデザイン事務所じむしょかまえる、元々もともと建築けんちくけい教員きょういんでデザイン理論りろんです。ふたりの存在そんざいろんてきデザインの解釈かいしゃくというのは、究極きゅうきょくてきには、このデザインされた世界せかい自分じぶんたちがデザインしがえされているんだというもので、その究極きゅうきょくてき形態けいたいが「デフューチャリング(defuturing)」であると。

松島まつしま 「デフューチャリング」は21_21 Design Sightでの企画きかくてん2121ねん Futures In-Sight」で水野みずの先生せんせいにご参加さんかいただいたさいもキーワードにげられていました。

水野みずの そうそう。「デフューチャリング」はようするに、自分じぶんたちからのぞましい未来みらいうばうデザインそのものをすのですが、未来みらいうばっている、自己じこ破壊はかいてきであるということを認識にんしきしないとまずい、といういいかたをしていて、そのうえでふたりは「フューチャリング(futuring)」として、よりのぞましい未来みらいがあるほうかっていこうというはなしをします。

つまり存在そんざいろんてきデザインそのものは、たとえばグラフィックデザインや、コミュニケーションデザイン、あるいはUI、UXデザインといったような、対象たいしょうがはっきりとあってそこにかってどうデザインするかということではないんです。重要じゅうようなポイントは、まず持続じぞく不能ふのうせいがある、デフューチャリングなんだという認識にんしきをもって、そのうえで「じゃあなにをすればいいのか」をかんがえるひとつの契機けいきとしてあるわけです。

水野みずの大二郎だいじろう|DAIJIRO MIZUNO
京都工芸繊維大学きょうとこうげいせんいだいがく 未来みらいデザイン・工学こうがく機構きこう 教授きょうじゅ慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく大学院だいがくいん特別とくべつ招聘しょうへい教授きょうじゅ。デザインリサーチャー。Royal College of Art MA/PhD修了しゅうりょう日本にっぽんにて多様たようなデザインの教育きょういく研究けんきゅう実践じっせん従事じゅうじ共著きょうちょに『サーキュラーデザイン』『サステナブル・ファッション』など。


PHOTOGRAPH: WIRED JAPAN

そこで本書ほんしょ多元たげん世界せかいけたデザイン』でおおきくげられているのがグローバルサウスがたのありかたで、先住民せんじゅうみん知恵ちえといったものにいていくわけですけれども、それはよくよくむと、かならずしも本書ほんしょ対象たいしょうにしているラテンアメリカの先住民せんじゅうみんとか、アフロけい住民じゅうみんはなしだけにかぎらないとおもうんです。むしろ近代きんだいてき世界せかいかんたいして、ぜん近代きんだいてきだとされたもの、あるいは近代きんだいてきだとされたものにあたらしい価値かちさい発見はっけんできるんじゃないか、そこには自然しぜん - 人間にんげん対立たいりつといった二元論にげんろんてき構想こうそうではなく、相互そうご依存いぞんてき関係かんけいせいがあるんじゃないか、と。

したがって、管理かんり可能かのう近代きんだいてきなものの見方みかた世界せかいかんとして、「自然しぜんはいくらでも収奪しゅうだつできる」であるとか、人間にんげんがそれをコントロールするという意味いみでの「開発かいはつ」といったことによって究極きゅうきょくてきにデフューチャリングになっていくとすれば、その反対はんたいとしての、人間にんげん自然しぜん相互そうご依存いぞんてきいとなみをもう一度いちど回復かいふくするようなデザインができないか、という提起ていきにつながっているわけです。

ことなる合理ごうりせいけて

松島まつしま グローバルサウスがたということでいち整理せいりしたいのが、たとえば本書ほんしょ従来じゅうらいの「だつ植民しょくみん主義しゅぎてき言説げんせつとはどういったてんちがいがあるのでしょうか。

水野みずの まず、アルトゥーロ・エスコバル自身じしんはデザイナーではないし、建築けんちくやアーバンプランナーでもないので、具体ぐたいてきなアクションについてはそこまでかたってはいないわけですよね。そうすると、かれ得意とくいとする開発かいはつ人類じんるいがくとか、批判ひはん開発かいはつがくといわれる領域りょういきはなしがあって、コロンビア出身しゅっしんであることから、ラテンアメリカのはなし中心ちゅうしんで、ついつい南米なんべい自然しぜん保護ほごかんするはなしばかりやるとか、あるいはヨーロッパけい入植にゅうしょくしゃ開発かいはつモデルを批判ひはんするといったてんがいきがちなのは事実じじつだとおもいます。

でも、本書ほんしょひょうするならば、百花繚乱ひゃっかりょうらんだということです。その理由りゆうのひとつは、だつ植民しょくみん主義しゅぎてきなアプローチはあくまでの本書ほんしょ一部いちぶであって、そこから論点ろんてん多様たようなところにひろがっているからですね。たとえば生命せいめいシステム理論りろんはなしとか、仏教ぶっきょうはなしとかが本書ほんしょではたくさんてきて、われわれ日本人にっぽんじんにもしたしみがある。二元論にげんろんてき世界せかいかんさい導入どうにゅうかんしては、かならずしも生命せいめいシステム理論りろんとか複雑ふくざつせい科学かがくはなしをせずとも、「縁起えんぎ」というキーワードをとおして認識にんしきすることができるわけですよね。自然しぜん人間にんげんいとなみの相互そうご依存いぞんせいだつ植民しょくみん主義しゅぎてき視点してんから再編さいへんしてとらなお可能かのうせいがあるとかれかんがえているわけです。それをすすめるなかで、ことなる合理ごうりせいけてかれているわけで、かならずしも従来じゅうらいの「だつ植民しょくみん主義しゅぎてき言説げんせつ終始しゅうししているわけではありません。

それよりも、人間にんげん社会しゃかいをバウンダリー(境界きょうかい)の規定きてい可能かのうなものとて、そのバウンダリーのそとにあるものは無限むげん収奪しゅうだつ可能かのうだとするようなアプローチにたいして、ことなる合理ごうりせいというものがあると。そこでは全体ぜんたいがつながっているので、それをどうやってつなげなおすかという、制御せいぎょから創発そうはつへとかっていくような生命せいめいシステム理論りろんてきはなしのなかで、かれろんすすめていこうとします。

PHOTOGRAPH: WIRED JAPAN

松島まつしま それが「オートノミー」というキーワードにつながるのですね。

水野みずの そうですね。本書ほんしょでは重要じゅうよう概念がいねんになっています。英語えいごで「autonomy」といている場合ばあいもありますが、原著げんちょではわざわざスペインで「autonomía」といているときもあるんですよ。翻訳ほんやくはじめたとき、そのちがいはなにやねんという問題もんだいがあって(笑)、当初とうしょは「自律じりつ(autonomy)」とか「自律じりつ(autonomía)」とあててみたんです。そうしたら、ラテンアメリカの人類じんるいがく研究けんきゅうをされている本書ほんしょ翻訳ほんやくしゃのひとりである神崎かんざき隼人はやとさんが、ラテンアメリカの研究けんきゅうにおいては、とくだつ植民しょくみん主義しゅぎてき研究けんきゅうから場合ばあいには、「自律じりつ」だけでなく「自治じち」という意味いみがあるんだと。生命せいめいシステムろんてきなドライなシステムのはなしだけでなく、もっと政治せいじ闘争とうそうてきなニュアンスをびているものだと指摘してきしてくださったんです。

松島まつしま 英語えいごのサブタイトルでは「autonomy」と一言ひとことなのに、邦題ほうだいではわざわざ「自治じち自律じりつ」とふたつのかたりてています。

水野みずの ここでとても重要じゅうようだとおもうのは、ことなる合理ごうりせいというのは人間にんげん制御せいぎょ可能かのう近代きんだいてきなシステムでも、単純たんじゅんにその生命せいめいシステム理論りろんもとづく創発そうはつてきなものでもなく、自分じぶんたちの場所ばしょざした自治じち自律じりつてき実践じっせんにあって、それがおのずと周辺しゅうへん環境かんきょう相互そうご依存いぞんてきであるということです。

多元たげん世界せかいのためのデザインとはなに

松島まつしま 非常ひじょうにわかりやすいです。もうすこしだけ存在そんざいろんてきデザインについて、あるいはそこから「多元たげん世界せかい」へのつながりについてうかがいたいのですが、たとえばポストモダンの潮流ちょうりゅうをかじってきたとしては、デカルトの二元論にげんろんをどうやってえるのかという問題もんだいをずっとやってきたわけですよね。そういった哲学てつがく思想しそうげのさきに、今回こんかいかれ実践じっせん経路けいろとして存在そんざいろんてきデザインをもってきました。二元論にげんろんをどうやってえるのかという議論ぎろんは、それをロゴスで説明せつめいするかぎ最後さいご二元論にげんろんとらわれるといったトラップがつねにあるなかで、かれはどうやってそこをえようとしたのか、そのときにデザインはどういう役割やくわりたしているのでしょうか。

水野みずの 本書ほんしょでは、二元論にげんろんてき実践じっせんとしての自治じち自律じりつてきデザインが後半こうはんしめされることになります。それにともなって、思考しこう実験じっけんのかたちで、ラテンアメリカの河川かせん流域りゅういきのコミュニティさい開発かいはつプロジェクトのはなしすこかれているんですが、そこはちょっとまだなぞふかい、まだ発展はってん途上とじょうだなとわざるをないような部分ぶぶんだとおもいます。

というのも、まずそこの流域りゅういきんでいるだい多数たすうが、いわゆる近代きんだいてき開発かいはつプロジェクトに自分じぶん自己じこ同一どういつさせたい、便利べんり近代きんだいてきらしを自分じぶんたちもいとなみたいとおもっている、あるいはおもわされていると。一方いっぽうでエスコバルのチームは、先住民せんじゅうみん知恵ちえといったものを応用おうようさせたり、自然しぜん相互そうご依存いぞんてきなものを回復かいふくさせインストールしたいとかんがえている。この図式ずしきは、むかしながらのランドスケープデザインとか、エコロジカルなアーバンプランニングのプロジェクトとなにちがうのかということです。

PHOTOGRAPH: WIRED JAPAN

近代きんだいてきなものとポスト近代きんだいてきなもの、あるいはグローバルノースがた発展はってん開発かいはつのありようと、グローバルノースがた、つまりサウスがた発展はってん開発かいはつ結局けっきょく対立たいりつしていて、そこを啓蒙けいもうてきえようとしてるようにめるてんもあるわけです。自分じぶんたちがはいさきが、近代きんだいてきらしがいいと普通ふつうおもっている、あるいはおもわされているようなコミュニティだとした場合ばあいに、どうやって世界せかいかんそのものをトランジションさせていくのかというてんかんしては、まだ十分じゅうぶんえられている実践じっせんにはなっていないとおもいます。設計せっけいしゃがわつよいイデオロギーが、なか啓蒙けいもうてき提供ていきょうされている状態じょうたいだということです。

とはいえ、このカウカ渓谷けいこく実験じっけんとしてだい6しょうかれているはなし多分たぶん、2010ねんだい中盤ちゅうばんから後半こうはんにかけてのことで、かなりむかしのことです。

松島まつしま たしかにそこは大切たいせつなポイントです。本書ほんしょ原著げんちょたのは2018ねんですね。

水野みずの ええ。この思考しこう実験じっけんがもう10ねんちかまえはなしだとしたら、そりゃそうだなとはおもうんです。この10年間ねんかんいちじるしい変化へんかとく気候きこう変動へんどうともな生存せいぞん危機ききや、あるいは人間にんげん生存せいぞん条件じょうけんそのもののさい定義ていぎといったものが目指めざされるなかでは、自治じち自律じりつてきなものが、おのずとんでいるひとたちからもうすこてるだろうとおもうし、かならずしも啓蒙けいもうてきであるだけじゃなく、相手あいてがわもより能動のうどうてきになってきているだろうとはおもっています。

このるいいのデザインについて、ひとつはカーネギーメロン大学だいがく中心ちゅうしんにして2010年代ねんだいにかたちづくられた「トランジションデザイン」といわれているもの、もうひとつがミラノ工科こうかだいにいたエツィオ・マンズィーニが提唱ていしょうしてきた「ソーシャルイノベーションのためのデザイン」といったものがあります。これは本書ほんしょでもなんかいてくる基本きほんじくとなっています。

とくにトランジションデザインについては、ようやく日本にっぽんでもがつきはじめた新興しんこう領域りょういきで、具体ぐたいてき方法ほうほうがどうこうとはまだがたいのですが、一方いっぽう従来じゅうらいのデザイン教育きょういく産業さんぎょうにおけるデザインの認識にんしきというのは、なんらかのKPIがあるわけですよね。それは大体だいたい場合ばあい産業さんぎょう批判ひはんで、産業さんぎょう成長せいちょうするものであるということになるわけです。おおくのひと使つかいやすいとかんじるようになった、といったUXのはなしであるとか、よりやすくつくれるようになりました、であるとか。つまり、はやい、うまい、やすい、といったわかりやすい合理ごうりせいのなかでKPIが設定せっていされ、デザインがどうあるかということに無意識むいしきてきになっている。

だからそれとはちがうロジックで、長期ちょうきてきでよくわからない、場合ばあいによっては永続えいぞくするのでわりがえない、あるいはわりの状態じょうたいというのがイコール解決かいけつすることではなく、問題もんだい変容へんようしてなくなっていくことであるとか、あるいは相互そうご依存いぞんせいのなかで多様たようなステークホルダーたちの可能かのうせい発見はっけんされ、そのひとたちが自治じち自律じりつてき活動かつどうはじめることによって、全体ぜんたいけい最適さいてきはじめる、といった方向ほうこうかんがえる。青果せいかてんしいとっていたのに、づいたら近隣きんりん土壌どじょう改良かいりょうをやっていたというような、リジェネラティブデザインの実践じっせんのように、非常ひじょう東洋とうよう医学いがくてきなKPIとしてことなる合理ごうりせいについて検討けんとうしないかぎりは、トランジションデザインやソーシャルイノベーションのためのデザインを、産業さんぎょうがわに、あるいは社会しゃかいにすぐにインストールしようとしても、従来じゅうらいのKPIとちがいすぎてはかりかねる状態じょうたいになってしまうとおもうんです。

PHOTOGRAPH: WIRED JAPAN

だから、本書ほんしょてくるプルリバーサルデザイン、つまりDesigns for the Pluriverse(多元たげん世界せかいのためのデザイン)というはなしかんしては、アンソニー・ダンがかつてアファーマティブデザインとクリティカルデザインのちがいをひょうでまとめていたのとおなじようなかたちで、ユニバーサルなデザインとプルリバーサルなデザインがどうちがうのかを、短期たんきてきであるのにたいして長期ちょうきてきであるとか、制御せいぎょ可能かのうであるものにたいして創発そうはつてきであるとか、中央ちゅうおう集権しゅうけんてきであるものにたいして自治じち自律じりつてきであるといったかたちで、ぜひみながらかんがえていただきたいなとおもいます。

ただし、そうやってツールすればいいというはなしではなく、そもそもかなりラディカルにパーパス自体じたいえざるをないというデザインだとおもうので、企業きぎょうそのものの理念りねんわらないかぎり、そのツールを使つかってもそんな効果こうかてき結果けっかないだろうなとおもいます。それをとおしてやられる実践じっせんこそがことなる合理ごうりせいかっていくものなので、これまで提示ていじされきたようなサステナビリティ・トランジションろんにみられるマルチレベル・パースペクティブや、未来みらい洞察どうさつにおけるバックキャスティングといったものを応用おうようしてツールだけを抽出ちゅうしゅつしても不十分ふじゅうぶんなままという危険きけんせいがあります。

デザイン思考しこう臨界りんかいてんえて

松島まつしま それでいうと、エスコバルも2018ねん刊行かんこう時点じてんでは「デザイン思考しこう」にかなり共感きょうかんしめしています。でもごぞんじのようにいまや、IDEOが東京とうきょうオフィスをめたことに象徴しょうちょうされるように、こうしたツール潮流ちょうりゅうもひとつの節目ふしめむかえているのかなとおもいます。

水野みずの いま指摘してきされたように本書ほんしょかれたのが2018ねんであって、デザイン思考しこう限界げんかいてん臨界りんかいてんかんしては、まだ一部いちぶひとしか当時とうじ指摘してきしていなかった時代じだいだと認識にんしきしています。いま、2024ねんになって、おおくのひとが、できたこととできなかったこと、ここまでだったら応用おうようできるけれどここからさきむずかしいんじゃないか、といったてんかんしてさまざまな議論ぎろん整理せいりされているという状況じょうきょうですよね。

たしかにデザイン思考しこうが、「だれでもデザイナーのようにかんがえることができるツールなんですよ」「これであなたはもう、突然とつぜん、いままでにない事業じぎょうをユーザーとともにひらめくし、アイデアをつけることができますよ」といったふうにパッケージングされたこと自体じたい多分たぶんよくなかったとおもうんです。ただし、そうやってデザイン思考しこう限界げんかいというのはたものの、根底こんていにあることをわれわれはわすれてはいけないとおもうんです。

それは、特権とっけんてき支配しはいてき立場たちばにいたエンジニアやデザイナー、ビジネスマンらによって、機械きかいてき設計せっけいされたものが、人間にんげん生活せいかつするものではなかった、いいものではなかったということですよね。人間にんげん不在ふざいおこなわれる一連いちれん設計せっけい行為こういたいして批判ひはんとしててきたのが、人間にんげん理解りかい前提ぜんていとした設計せっけいプロセスだったわけです。その部分ぶぶんかんしてエスコバルは非常ひじょう共感きょうかんしめしている、それ自体じたいなにわるいことではないとおもうんですよね。

PHOTOGRAPH: WIRED JAPAN

でも、そこからいま、ちょっとずつひろがりがてきているわけです。たとえばELSI(ethical, legal and social implications/倫理りんりてき法的ほうてき社会しゃかいてき課題かだい)やRRI(Responsible Research Innovation/責任せきにんある研究けんきゅう・イノベーション)、あるいはマルチスピーシーズ関連かんれんでいうと環境かんきょう人類じんるいがくのアナ・チンの議論ぎろん代表だいひょうされるように、社会しゃかい成立せいりつにおいては人間にんげん参与さんよ前提ぜんていになってくるので、こうがわからないとこちらがわいとなみがよくえないというはなしがある。システミックデザインのように、問題もんだい解決かいけつというのがつねにセットでしやすい製品せいひんとかサービス開発かいはつということでなく、もっとそれをおおきな「けい自体じたい問題もんだいがあるんじゃないかと。

そうしたひろがりをまえたときに、やはり「デザイン思考しこう」だけではあまり効果こうかてきでない、使つかうことに限界げんかいがあるツールだというふうに認識にんしきわっていったわけですね。デザイン思考しこう臨界りんかいてんがあって、そこからさきにこういう課題かだいがあるということまでは本書ほんしょではかれていなのですが、デザイン思考しこう根本こんぽんたる部分ぶぶんかんしては正確せいかくかれているとおもいますね。

このあたりにかんしてはいま、京都きょうと大学だいがく京都市立芸術大学きょうとしりつげいじゅつだいがく京都工芸繊維大学きょうとこうげいせんいだいがく一緒いっしょになって、Kyoto Creative Assemblageという社会しゃかいじん創造そうぞうせい教育きょういく育成いくせい支援しえんのプログラムをやっているんです。いわば、デザイン思考しこうのような簡素かんそされたパッケージングをえるためのメタパッケージのこころみです。

土着どちゃくせい多元たげんせい

松島まつしま このプログラムは本当ほんとう興味深きょうみぶかいです。いまのおはなしきながら、いよいよ「多元たげん世界せかい」についてうかがいたいのですが、そもそも「多元たげん世界せかい」とはなにかというところからかせてください。

水野みずの (笑)

松島まつしま 冒頭ぼうとうでおはなしした『WIRED』の30周年しゅうねん記念きねんごうでも、たとえば南米なんべいのSF作家さっかなど、普段ふだんあまりせっしてこなかったくにのSF作家さっかたちに登場とうじょういただいたのですが、世界せかいにはアフロフューチャリズムのようなオルタナティブな未来みらい主義しゅぎむかしからあって、いまや中東ちゅうとうのガルフフューチャリズム(湾岸わんがん未来みらい主義しゅぎ)とか、シノフューチャリズム(中華ちゅうか未来みらい主義しゅぎ)など、未来みらいそのものがひとつではなくたくさんえがかれています。だとすると、それが「別々べつべつ世界せかい」ではなくて「多元たげん世界せかい」になるのはなぜなんでしょうか? たんにオルタナティブな世界せかいをどんどんえがいていくだけでなく、多元的たげんてきであることを肯定こうていし、それぞれの世界せかいがおたがいにしてくる、それらを包括ほうかつしているようなニュアンスが「多元たげん世界せかい」にはあるとおもうのですが、あらためて、多元たげん世界せかいとはなにでしょうか。

水野みずの まず、本書ほんしょではあまりかれていないのが、〈人間にんげんならざるもの〉との連帯れんたい哲学てつがく提示ていじするティモシー・モートンとか、ポストコロニアル研究けんきゅうのディペシュ・チャクラバルティの議論ぎろんです。つまり「多元たげん世界せかいけたデザイン」における「多元たげんせい」とは、どこまでいっても人類じんるいがくてきだとおもうんですね。だから環境かんきょう人文じんぶんがくとか環境かんきょう哲学てつがくはなしまではんでいない。気候きこう変動へんどうによって人間にんげん生存せいぞん条件じょうけんそのものがわらざるをないとか、あるいはグローバルなコンピュテーションによってされた「Stack」のような状態じょうたいいたるところでもはや統治とうち機構きこうとして存在そんざいしているといった、惑星わくせい規模きぼでの巨視的きょしてき視点してんではないわけです。

それをまえて、では本書ほんしょにおける「多元たげん世界せかい」はどうなっているのかいうと、まず、地球ちきゅうなかで「家父長制かふちょうせい資本しほん主義しゅぎ近代きんだい」とぼくらがやくしたもの、つまり家父長制かふちょうせいもとづいてされていった、収奪しゅうだつ前提ぜんていとする資本しほん主義しゅぎてき近代きんだい開発かいはつモデル、これを「ユニバース」だとっているわけですね。ユニバーサルな開発かいはつ、ユニバーサルな世界せかいのありようというのは、そもそもが、そうやって発展はってんしてきたくにのイデオロギーであり、開発かいはつモデルというのはそのイデオロギーにささえられていると。だからエスコバルは国連こくれんきらいだし、SDGsもきらいなわけです。

松島まつしま なるほど(笑)

水野みずの そのわりとなる多元たげん世界せかいというのは、わたしの理解りかいでは、究極きゅうきょくてきには場所ばしょごとにざしているということであると。だから、アフロフューチャリズムてきなものとか、シノフューチャリズムてきなものだとか、テクノダイバーシティといった議論ぎろんよりも、もうちょっと土着どちゃくてきなものだと認識にんしきすることがまずできるとおもうんです。

土地とちざすとはどういうことか、非常ひじょう具体ぐたいてきってしまえば、たとえば京都きょうと京北けいほくというエリアは歴史れきしてき林業りんぎょうがすごくさかんで、京都きょうと市内しないのさまざまな建造けんぞうぶつ使つかうための材料ざいりょうとするために天皇てんのうめた場所ばしょで1,000ねんぐらいの歴史れきしがあり、納豆なっとう発祥はっしょうでもある。そこから林業りんぎょう衰退すいたいとともに、エコロジー思想しそうをもつひとたちが移住いじゅうしたりとか、京都きょうと北側きたがわにはそういうヒッピーゾーンが結構けっこうあるんですよ。

松島まつしま そうなんですね。一気いっき興味きょうみをひかれます(笑)。

水野みずの そういうカルチャーというのは、やはりかく土地とち歴史れきしであるとか、そこでおこなわれてきた神事しんじなどが、土地とち条件じょうけん呼応こおうしてできてきたものだということを認識にんしきする必要ひつようがありますよね。周辺しゅうへん環境かんきょうとして天皇てんのうがいた京都きょうと市内しないがあることももちろんですが、京北けいほく土地とちざした自然しぜん有機物ゆうきぶついしのような無機物むきぶつがどういう条件じょうけんであったからこういう文化ぶんかができて、その文化ぶんかささえられて人々ひとびとがどういういとなみをしてきたのか。さらには、いまやその条件じょうけんわりつつあるなかで、自然しぜんとの相互そうご依存いぞんてき視点してん回復かいふくさせながら、ユニバーサルな開発かいはつモデルをどうやってえられるかというのを、地域ちいきのさまざまなアクターのさい編成へんせいとおしてかんがえようじゃないかと京北けいほく活動かつどうされているほうもいらっしゃいますね

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そうするにはもちろん、生態せいたいがくてき視点してん、エコロジカルな視点してん必要ひつようですし、スペキュラティブデザインてき思想しそう必要ひつようですし、メディアテクノロジーも、かならずしもテックベンチャー募集ぼしゅうといったレベルではないかたちで、たとえば平安へいあん時代じだいにまでさかのぼ木材もくざい流通りゅうつうシステムをブロックチェーンのようなノリでやるということも十分じゅうぶんかんがえられるわけです。そういう土地とちざした開発かいはつ自律じりつてき開発かいはつモデルの探索たんさくというのが、多元たげん世界せかい構成こうせいするデザインになるんじゃないかとおもうんです。だから、アフロフューチャリズムよりももっと解像度かいぞうどたかく、特定とくてい土地とち場所ばしょざすんだろうなということです。

松島まつしま ユク・ホイに「多様たようせい(diversity)」と「多元たげんせい(plurality)」のちがいについていたことがあって、ぼくの理解りかいでは、ユニバーサルなひとつのうえ多様たよう人々ひとびとがいるのがダイバーシティだとすると、多元たげんせいというのはそもそもがちがたとえばちが自然しぜんがあって、そのちが自然しぜんからてくる多様たようなものが多元たげんせいなんだ、というものでした。その意味いみでユク・ホイの技術ぎじゅつ多様たようせい、つまりちが自然しぜんからちがうテクノロジーでてくるというものと呼応こおうしているとおもいました。

水野みずの そうですね。ユク・ホイのテクノダイバーシティと、プルリバーサルデザイン(Designs for the Pluriverse)は、基本きほんてきにはおな方向ほうこうむかいてるとおもうんです。ただ、エスコバルはやはり人類じんるいがくてき視点してんをかなり強調きょうちょうするので、地域ちいきざした、ことなる世界せかいかんゆうするものからあらわれてくる、あたらしい生活せいかつ文化ぶんか実践じっせんといったものに興味きょうみがあるんでしょうね。

後編こうへんつづ


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