(Translated by https://www.hiragana.jp/)
旧子持村地区の指定文化財 | 渋川市観光情報
このページの本文ほんぶん移動いどう
渋川しぶかわ観光かんこう情報じょうほうトップきゅう子持こもちむら地区ちく指定してい文化財ぶんかざい

きゅう子持こもちむら地区ちく指定してい文化財ぶんかざい

 

黒井くろいみね遺跡いせき(くろいみねいせき)

黒井峯遺跡の写真

  • くに指定してい史跡しせき
  • 平成へいせい5ねん4がつ2にち指定してい

  黒井くろいみね遺跡いせききゅう子持こもちむら地区ちくのほぼ中央ちゅうおう子持こもち中学校ちゅうがっこうのある高台たかだい位置いちしています。この高台たかだい海抜かいばつ250メートルで、台地だいちひろさはやく15まん平方へいほうメートルあります。昭和しょうわ57ねん1がつはじめて発見はっけんされて以来いらい、6かい発掘はっくつ調査ちょうさつづけておこなわれ、集落しゅうらくあとやく3ぶんの1ほどが発掘はっくつされました。集落しゅうらく時期じきは1400ねんまえごろ西暦せいれき500年代ねんだいなかごろ)で古墳こふん時代じだい後期こうきにあたります。

  この遺跡いせき特色とくしょくは、南西なんせいやく10キロメートルにある榛名山はるなさん爆発ばくはつ噴出ふんしゅつした大量たいりょう軽石かるいしによって、短時間たんじかんのうちに埋没まいぼつした集落しゅうらく遺跡いせきであり、災害さいがい遺跡いせきだということです。そのため、軽石かるいしそうちゅう建物たてものかべくずれかけた屋根やねしばかき(しばがき)・網代あじろかき(あじろがき)とうったままの状態じょうたい保存ほぞんされ、また、建物たてもの上部じょうぶ構造こうぞう復元ふくげんできる程度ていどのこっていました。あつ軽石かるいしそう保護ほごされた当時とうじ地表ちひょうめんには、はたけ水田すいでんみち境界きょうかいみずじょう樹木じゅもくあとなど、人々ひとびと生活せいかつのさまざまな痕跡こんせきつかりました。

  集落しゅうらくは、竪穴たてあな住居じゅうきょ1むねかきかこまれた建物たてものぐんが1単位たんいであったようです。竪穴たてあな住居じゅうきょ以外いがい建物たてものには平地ひらちしき住居じゅうきょ高床たかゆかしき倉庫そうこ作業さぎょう小屋こや家畜かちく小屋こやなどがふくまれ、おおむね7から10むねほどの建物たてもので1単位たんい構成こうせいされます。それぞれの単位たんいなかには、かず家族かぞくんでいたようです。全体ぜんたいとすると、こうしたまとまりが8から10単位たんい存在そんざいしたとかんがえられます。日々ひび生活せいかつ牛馬ぎゅうば放牧ほうぼく飼育しいくおこないつつ、はたけ水田すいでん耕作こうさく同時どうじおこなう、高度こうど発達はったつした農業のうぎょうであったようです。

  災害さいがい直前ちょくぜん(6がつごろ)のムラの景観けいかん人々ひとびとらしの実態じったいを、それまでにはかんがえられないほど、具体ぐたいてきあきらかにすることができる遺跡いせきとして評価ひょうかけ、平成へいせい5ねんくに史跡しせきとなりました。

長尾ながおあきらけん木像もくぞう長尾ちょうび位牌いはい(ながおしょうけんもくぞうつけたりながおしいはい)

長尾昌賢木像及び長尾氏位牌の写真

  • けん指定してい重要じゅうよう文化財ぶんかざい
  • 昭和しょうわ30ねん1がつ14にち指定してい

  白井しらい城主じょうしゅ長尾ながおあきらけん景仲かげなか、かげなか)は15世紀せいき前半ぜんはん室町むろまち時代じだい)の武将ぶしょうで、関東かんとう管領かんりょう上杉うえすぎ憲実のりざね(のりざね)につかえ、白井しらいしろ本拠ほんきょ関東かんとういちえん威勢いせいしめしていました。あきらけん渋川しぶかわ眞光寺しんこうじ保護ほごするとともに、つきこう正文まさふみ(げっこうしょうぶん)を開山かいさんとしてそう林寺はやしじ建立こんりゅうひろしただし(かんしょう)4ねん(1463)、76さいぼっしています。

  そう林寺はやしじ本堂ほんどうないにあるこの木像もくぞうは、たかさ1メートルあまり、きりざい寄木よせぎづくり(よせぎづくり)で麻布まふうるしをほどこし、胡粉ごふん(ごふん)その顔料がんりょう彩色さいしきして、あきらけんろうしょう姿すがたをあらわしています。製作せいさく年代ねんだい戦国せんごくあるいは、桃山ももやま時代じだい推定すいていされています。だい16だい長尾ちょうびけいこう(かげみつ)がすうだいまえ製作せいさくされた木像もくぞう再興さいこうしたというめい体内たいないにあります。

  なお、見学けんがくするときてらひとにことわってからにしてください。

そらめぐみ寺山てらやまもん(くえいじさんもん)

空恵寺の山門の写真

  • けん指定してい重要じゅうよう文化財ぶんかざい
  • 昭和しょうわ30ねん1がつ14にち指定してい

  この山門さんもん桁行けたゆき(けたゆき)3あいだ(7.0メートル)、梁間はりま(はりま)2あいだ(3.8メートル)の楼門ろうもん(ろうもん)で、和様わよう主体しゅたいとして唐様からよう(からよう)を加味かみした折衷せっちゅう様式ようしきです。屋根やね入母屋いりもやづくり(いりもやづくり)の茅葺かやぶきでしたが、昭和しょうわ45ねんどう板葺いたぶきに改修かいしゅうされました。

  上層じょうそう内部ないぶ釈迦如来しゃかにょらいぞう十六羅漢じゅうろくらかんぞう安置あんちされています。にじはり(こうりょう)やはな(きばな)とう唐草からくさ文様もんよう比較的ひかくてきよくいており、階下かいか通路つうろ直上ちょくじょうはいされた蟇股かえるまた(かえるまた)には、古風こふう手法しゅほうがうかがえます。これらの特徴とくちょうから、山門さんもん建立こんりゅう年代ねんだい元禄げんろく年間ねんかんかんがえられます。なお、天井てんじょう格天井ごうてんじょう(ごうてんじょう)で、はしらはしらじょう組物くみものをはじめとして極彩色ごくさいしょくほどこしていたようです。

上白井かみしろい西にし伊熊いくま遺跡いせき出土しゅつどひん(かみしろいにしいくまいせきしゅつどひん)

上白井西伊熊出土品1上白井西伊熊出土品の写真2写真しゃしん群馬ぐんまけん教育きょういく委員いいんかい提供ていきょう

  • けん指定してい重要じゅうよう文化財ぶんかざい
  • 平成へいせい28ねん9がつ13にち指定してい

  上白井かみしろい西にし伊熊いくま遺跡いせき渋川しぶかわ上白井かみしろいにあり、利根川とねがわ右岸うがん形成けいせいされた河岸かわぎし段丘だんきゅう西にし伊熊いくまめんじょう立地りっちしています。一般いっぱん国道こくどう17ごう(こいさわバイパス)改築かいちく工事こうじともなって平成へいせい15・16年度ねんど財団ざいだん法人ほうじん群馬ぐんまけん埋蔵まいぞう文化財ぶんかざい調査ちょうさ事業じぎょうだんにより発掘はっくつ調査ちょうさおこなわれ、6,000てんえる後期こうき旧石器時代きゅうせっきじだい石器せっきとう出土しゅつどし、そのおおくが接合せつごう関係かんけいゆうしています。また、まとまったつぶてぐんが4かしょみとめられ、当時とうじ人々ひとびと当地とうち集中しゅうちゅうてき利用りようしていたことがうかがえ、石器せっき製作せいさくとしての性格せいかくそなわっていたとかんがえられます。

  石器せっきおおくが接合せつごうできたことから、瀬戸内せとうち技法ぎほうばれる近畿きんき西部せいぶ瀬戸内せとうち中央ちゅうおう国府こくふがたナイフがた石器せっき製作せいさく技法ぎほう理解りかいできるものとなっており、石器せっき製作せいさく過程かてい石器せっき製作せいさくたっての思考しこう変遷へんせん検証けんしょうできる資料しりょうであるとして、6,562てんけん重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされました。

白井しらい鋳物いもの生産せいさん用具ようぐおよ製品せいひん関係かんけい文書ぶんしょ)(しろいのいものせいさんようぐおよびせいひんつけたりかんけいぶんしょ)

白井の鋳物生産用具及び製品の写真

  • けん指定してい重要じゅうよう有形ゆうけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい
  • 平成へいせい7ねん3がつ24にち指定してい

平成へいせい9ねん3がつ28にち追加ついか指定してい

  きゅう子持こもちむら地区ちく白井しらい吹屋ふきや(ふきや)地区ちく一帯いったいは、中世ちゅうせい以来いらい鋳物いもの(いもじ)集団しゅうだん活躍かつやくした土地とちとしてられています。

  阿久澤あくざわはその伝統でんとういだ鋳物いもので、多数たすう古文書こもんじょ鋳物いもの製造せいぞうでの資料しりょう多数たすう保有ほゆうし、その総数そうすうは1,872てんかぞえます。

  とりわけ鋳物いもの製造せいぞうかんする資料しりょう豊富ほうふにあり、ふるいものでは安永やすなが7ねん(1778)の「みなもとそらてら梵鐘ぼんしょう」(指定してい重文じゅうぶん製作せいさくもちいられたばん(ひきいた)がのこされています。このほか江戸えど時代じだいから昭和しょうわまでにつくられた様々さまざまかた道具どうぐがあります。製品せいひん半鐘はんしょう仏具ぶつぐ日常にちじょう生活せいかつなべがま農具のうぐ刃先はさきなど多数たすう製作せいさくしていました。

とりよいおうづか(ちょうすいおうづか)

鳥酔翁塚の写真

  • けん指定してい史跡しせき
  • 昭和しょうわ24ねん12がつ20日はつか指定してい

  そう林寺はやしじ(そうりんじ)門前もんぜんのこのづかは、俳人はいじん白井しろいとりよい分骨ぶんこつとうであるとともに句碑くひでもあります。

  とりよいは、上総かずさこく千葉ちばけん)で旗本はたもと知行ちぎょうしょさと代官だいかんをしていましたが、家督かとくおとうとゆずり、低調ていちょうになっていた俳壇はいだんすくうため柳井やないもんはいり、とともに活躍かつやく天明てんめい俳諧はいかい復興ふっこうのさきがけとなったひとです。明和めいわ6ねん(1769)に69さい江戸えどぼっしました。

  そのななにち(35にち)にあつまった高弟こうていたちが、のこけあい、とゆかりのある土地とち供養くようすることを約束やくそくしました。その1つがこのとりよいおうづかであり、加舎かや白雄しらお(かやしらお)と地元じもと俳人はいじんらが安永やすなが8ねん(1779)にてたものです。

いしぶみ裏面りめんには、「そうほう(のり) むしこえあり もすがら」というきざまれています。

なかみね古墳こふん(なかのみねこふん)

中ノ峯古墳の写真

  • けん指定してい史跡しせき
  • 昭和しょうわ55ねん4がつ30にち指定してい

  この古墳こふん傾斜けいしゃめんきずかれたえんふんです。6世紀せいきはじめの榛名山はるなさん噴火ふんかによる火山灰かざんばいそううえつくられ、6世紀せいき中頃なかごろ榛名山はるなさん軽石かるいしそううずもれていました。

  墳丘ふんきゅう規模きぼ直径ちょっけい9メートル、たかさ1メートルです。埋葬まいそう施設しせつ自然しぜんせきらん石積いしつみ(らんせきづみ)の袖無そでなしがた(そでなしがた)横穴よこあなしき石室いしむろで、全長ぜんちょう5.0メートル、埋葬まいそう部長ぶちょう3.0メートルをはかります。人骨じんこつ5たいちょくかたな2くち銀製ぎんせいかざり金具かなぐてつ鏃、たまるいなどが出土しゅつどしています。

だい山祇やまずみ神社じんじゃだいフジ(おおやまづみじんじゃのおおふじ)

大山祇神社の大フジの写真

  • けん指定してい天然記念物てんねんきねんぶつ
  • 昭和しょうわ27ねん11月11にち指定してい

 社殿しゃでんうらにあり、かつてはエノキ、スギ、イチョウのきついていたフジで、たかさは23m、根元ねもとまわり4.4m、目通めどおり3.4mをはかりました。樹齢じゅれいは250ねんです。きついていた木々きぎれ、樹勢じゅせいおとろえたことによりたな設置せっちし、現在げんざい姿すがたとなっています。

そう林寺はやしじだいカヤ(そうりんじのおおかや)

雙林寺の大カヤの写真

  • けん指定してい天然記念物てんねんきねんぶつ
  • 昭和しょうわ27ねん11月11にち指定してい

  そう林寺はやしじ庫裏くり(くり)のひがしにあるこのは、目通めどおしゅうやく5.2メートル、根元ねもと周囲しゅうい6.4メートル、たかやく24.2メートル、えだ東西とうざい18.5メートル、南北なんぼく20.6メートルで樹勢じゅせいさかんなカヤの巨木きょぼくです。

  てらでんによると、このカヤは、ぶんやす4ねん(1447)、つきこう正文まさふみ(げっこうしょうぶん)が開山かいさんとして入山にゅうざんしたとき持参じさんした「カヤ」の数珠じゅず(じゅず)のいちつぶから実生みしょう(みしょう)したものといわれています。

  「開山かいさんのつなぎカヤ」ともいわれ、そのじつにはどのつぶにもいととおしたようなちいさなあながあいているので、そう林寺はやしじ七不思議ななふしぎひとつとされています。

そう林寺はやしじ千本せんぼんカシ(そうりんじのせんぼんかし)

雙林寺の千本カシの写真

  • けん指定してい天然記念物てんねんきねんぶつ
  • 昭和しょうわ27ねん11月11にち指定してい

  本堂ほんどううらにあるこのは、ふるかぶからひこばえがでて生育せいいくしたものといわれています。

  根元ねもとは1ほん結合けつごうしていて、そのかぶから、10すうほんささえみき叢生そうせい(そうせい)しています。ささえみきは1.5メートル以上いじょうが1ほん、1.2メートル内外ないがいが2ほん、0.9メートル内外ないがいが9ほん、0.6メートル内外ないがいが2ほん、0.4メートルが1ほんです。全体ぜんたい根元ねもと周囲しゅういやく6メートル、全体ぜんたいたかさはやく12メートルあります。

  これもそう林寺はやしじ七不思議ななふしぎひとつとされています。

涅槃ねはん(ねはんず)

涅槃図の写真涅槃図(一部)の写真涅槃図(一部分)の写真
  • 指定してい重要じゅうよう文化財ぶんかざい
  • 昭和しょうわ58ねん6がつ27にち指定してい

  そう林寺はやしじ涅槃ねはん文化ぶんか8ねん(1825)の製作せいさくで、よこ3.35メートル、たて2.63メートルの大型おおがた涅槃ねはんです。ちゅうにはゆかよこたわる釈迦しゃかと、それをかこむすべてのものかなしんでいる様子ようすえがかれ、その色彩しきさいおおきさ、構成こうせいなどはすぐれたものです。

  作者さくしゃ根本ねもとつねみなみ(じょうなん)、菅井すがいうめせき(ばいかん)の師弟していで、二人ふたり精魂せいこんかたむえがいているあいだねこ画室がしつ毎日まいにちてそこをらなかったため、つねみなみじゃれに、なんじもまただい涅槃ねはんえんむすびたいかとうと、だくこたえたので、ちゅうにこのねこえがれたといいます。

  涅槃ねはんにはおおくの生類しょうるいえがかれますが、ねこだけはじゅうといってえがかないのが普通ふつうです。しかし、そう林寺はやしじ涅槃ねはん例外れいがいで、国内こくないでもかぞえるほどしかれいのないめずらしいものです。

みなもとそらてら梵鐘ぼんしょう(げんくうじのぼんしょう)

源空寺の梵鐘の写真

  • 指定してい重要じゅうよう文化財ぶんかざい
  • 昭和しょうわ58ねん6がつ27にち指定してい

  たかさ140センチメートル、口径こうけい76.5センチメートル、龍頭りゅうず(りゅうず)30センチメートル、かさだか12センチメートル、こまつめ(こまづめ)だか7センチメートル、あつさ5センチメートルをはかります。ちちは5だん5れつで4あいだにあり、たてたいに1だん2れつはいし、108ちちけられています。

  かね直線ちょくせんてききわめて力強ちからづよく、銘文めいぶんいけあいだの2あいだにわたってまれています。製作せいさく白井しらい太田おおた下野げやこく佐野さの丸山まるやまという二人ふたり鋳物いもの(いもじ)によって安永やすなが7ねん(1778)におこなわれました。だい15せい住職じゅうしょくじょうおもねいたりしん(じょうあししん)の願文がんもん(がんもん)もあり、このかね鋳型いがた道具どうぐいまでも吹屋ふきや(ふきや)の阿久澤あくざわ保存ほぞんされています。

  太平洋戦争たいへいようせんそうちゅう供出きょうしゅつさいし、地元じもと鋳物いもの製作せいさくしたということで供出きょうしゅつまぬかれたという経緯けいいがあります。

  なお、みなもとそらてら鐘楼しゅろう愛知あいちけん岡崎おかざきにある徳川とくがわ家康いえやす菩提寺ぼだいじ大樹寺だいじゅうじ鐘楼しゅろうしたものとつたえられています。

そらめぐみてら御朱印ごしゅいんじょう(くえいじのごしゅいんじょう)

空恵寺の御朱印状の写真
公文書の写真
  • 指定してい重要じゅうよう文化財ぶんかざい
  • 昭和しょうわ61ねん5がつ6にち指定してい

  朱印しゅいんじょうとは、花押かおう自筆じひついたしるし)のわりに朱印しゅいんをおした公文書こうぶんしょです。この朱印しゅいんじょうは、江戸えど幕府ばくふ社寺しゃじわたし、その所領しょりょう確認かくにんしたものです。将軍しょうぐん交替こうたいがあると、そのとしの9がつ11にち期日きじつとして、江戸えど持参じさんします。寺社じしゃ奉行ぶぎょうしょ出頭しゅっとうすると、祐筆ゆうひつ(ゆうひつ)がまえじょうおなじく記述きじゅつし、側用人そばようにん(そばようにん)が将軍しょうぐん朱印しゅいんしてわたしました。「御朱印ごしゅいん」のさつてたこめ(かご)で道中どうちゅうき、一般いっぱん庶民しょみん失礼しつれいのないよう振舞ふるまったといわれます。

  きゅう子持こもちむら地区ちくない朱印しゅいんあたえられた社寺しゃじは、子持こもち神社じんじゃ20せきそう林寺はやしじ30せきみなもとそらてら50せきがありますが、通常つうじょう朱印しゅいんじょう明治めいじ政府せいふ返還へんかんしているので、現存げんそんするものは貴重きちょうです。上意下達じょういかたつ支配しはい体制たいせいかる重要じゅうよう資料しりょうです。

菅原すがわら神社じんじゃ本殿ほんでん(すがわらじんじゃほんでん)

菅原神社本殿の写真

  • 指定してい重要じゅうよう文化財ぶんかざい
  • 昭和しょうわ61ねん5がつ6にち指定してい

  中郷なかごう田尻たじりにある菅原すがわら神社じんじゃは、学問がくもん神様かみさまとして有名ゆうめい天神てんじんさまをまつる神社じんじゃです。毎年まいとし1がつ25にちと10がつ15にち例祭れいさいで、合格ごうかく祈願きがんのおまもりをもとめるひとおとずれています。

  本殿ほんでんは、和様わよう唐様からよう(からよう)の折衷せっちゅう様式ようしきいちあいだしゃ流造ながれづくり(いっけんしゃながれづくり)で、むねさつ(むなふだ)によると、貞享ていきょう(じょうきょう)3ねん(1686)に建立こんりゅうされたものとみられます。300ねんまえてられた子持こもち地区ちく最古さいこ神社じんじゃ建築けんちくで、改造かいぞう破損はそんすくなく、17世紀せいき後半こうはん地方ちほう神社じんじゃ様式ようしきじょうで、たいへん貴重きちょうなものです。

そう林寺はやしじくえぼとけ(そうりんじのもくじきぶつ)

雙林寺の木喰仏の写真

  • 指定してい重要じゅうよう文化財ぶんかざい
  • 昭和しょうわ62ねん5がつ29にち指定してい

  そう林寺はやしじくえふつは、背面はいめん墨書ぼくしょからせい観世音かんぜおん(しょうかんぜおん)とられます。とおる2ねん(1802)11月17にちくえ上人しょうにん85さいときさくです。木像もくぞうたかさは62.5センチメートル(台座だいざ15センチメートル、ぞう44センチメートル、光背こうはい3.5センチメートル)、イチョウのもちいた一木いちき(いちぼく)彫刻ちょうこく微笑びしょうしょう(びしょうそう)の独特どくとく表現ひょうげんをしています。

  くえ上人しょうにんは、とおる3ねん(1717)山梨やまなしけん西八代にしやつしろぐんよし関村せきむらまるはたけまれ、22さい沙門しゃもん(しゃもん)となり大願たいがんをたて、せんたいふつ彫刻ちょうこく遍歴へんれき生涯しょうがいをかけました。はじめそうめい行道ぎょうどうのちぎょう最後さいごあかりまん(みょうまん)といい、45さいとき常陸ひたちしょくかん海上かいじょうじん(もくじきかんかいしょうにん)からくえ戒(もくじきかい)をうけ、みなみ九州きゅうしゅうからきた北海道ほっかいどうまで各地かくちめぐつづけました。いわゆるろくじゅうろくばれる回国かいこくひじり(かいこくひじり)として、つね荒廃こうはいしたてらもないどうあんまり、四季しきつうじてたんころも(ひとえ)を五穀ごこくべず火食かしょくもせず、衆生しゅじょう(しゅじょう)の病苦びょうくすくうというほう(のり)のみちみ、93さいぼっしました。

華月かつきどう厨子ずし(かげつどうずし)

華月堂厨子の写真

  • 指定してい重要じゅうよう文化財ぶんかざい
  • 昭和しょうわ62ねん5がつ29にち指定してい

  厨子ずしは、本尊ほんぞんおさめるケースのようなものです。間口まぐちやく70センチメートルでしゃくおおきさとみられますが、奥行おくゆきは45センチメートルと背後はいごめたつくりになっています。来迎らいごうばしら(らいごうばしら)は丸柱まるばしらとびら格子戸こうしど一部いちぶ板張いたばり)で両開りょうびらき、組物くみもの中央ちゅうおういた蟇股かえるまた(いたかえるまた)、丸柱まるばしら柱頭ちゅうとうにはたいせ、さき(ふたてさき)のぐみ(とぐみ)でけたささえています。屋根やねおよ周囲しゅういいた使つかい、のきまわりはじゅう垂木たるき(にじゅうたるき)の外観がいかんっています。屋根やねには簡素かんそ木製もくせい宝珠ほうしゅ(ほうじゅ)をせています。

  全体ぜんたいてき簡素かんそ建築けんちくてき厨子ずしで、製作せいさく年代ねんだい蟇股かえるまたはな(きばな)のデザインから江戸えど時代じだい初期しょき製作せいさくとかおもわれます。

神明しんめいみや太々神楽だいだいかぐら(しんめいぐうだいだいかぐら)

神明宮太々神楽の様子の写真

  • 指定してい重要じゅうよう無形むけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい
  • 昭和しょうわ60ねん3がつ7にち指定してい

  明治めいじ時代じだい中頃なかごろ神主かんぬし千明ちあき利三郎としさぶろうによって伊勢いせからならつたえられ、中郷なかごう神明しんめいみや中心ちゅうしんこう組織そしきして神楽かぐらひろめました。流派りゅうは大和やまとりゅうわれています。

  明治めいじ大正たいしょうつうじ、利根とねぐん勢多せたぐんしょ神社じんじゃから依頼いらいされ、ひろ活動かつどうをしていましたが、現在げんざいは4がつだい2日曜日にちようび神明しんめいみや隔年かくねんで5がつ1にち子持こもち神社じんじゃ奉納ほうのうしています。

諏訪すわ神社じんじゃ太々神楽だいだいかぐら(すわじんじゃだいだいかぐら)

諏訪神社太々神楽(すわじんじゃだいだいかぐら)の様子の写真

  • 指定してい重要じゅうよう無形むけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい
  • 昭和しょうわ60ねん3がつ7にち指定してい

  文政ぶんせい年間ねんかん文政ぶんせい元年がんねんから文政ぶんせい13ねん(1818から1830))ごろ地元じもと古老ころう下南室しもなむろむらきゅう北橘きたたちばなむら)につたわる京都きょうと吉田よしだりゅう太々神楽だいだいかぐら伝授でんじゅされ、五穀豊穣ごこくほうじょう氏子うじこ繁栄はんえい祈願きがんして諏訪すわ神社じんじゃ奉納ほうのう横堀よこぼりだい山祇やまずみ神社じんじゃ北牧きたもく(きたもく)のわか子持こもち神社じんじゃ例祭れいさいでも演舞えんぶしていました。現在げんざいは4がつだい1日曜日にちようび諏訪すわ神社じんじゃ隔年かくねんで5がつ1にち子持こもち神社じんじゃ奉納ほうのうしています。

本多ほんだはか(ほんだしのはか)

本多氏の墓の写真

  • 指定してい史跡しせき
  • 昭和しょうわ58ねん6がつ27にち指定してい

  本多ほんだ三河みかわ以来いらい徳川とくがわ譜代ふだいで、天正てんしょう18ねん(1590)8がつ本多ほんだひろこうかんしげる父子ふし白井しらいりょうまんせきたまわ白井しろいじょうはいります。このときこうこうは64さいかんしげるは37さいでした。

  白井しらいはいったこうこう浄土宗じょうどしゅうげんそらてら建立こんりゅうし、あきら和尚おしょう(むてつおしょう)をむかえて開山かいさんとしました。白井しらい在住ざいじゅう7ねん慶長けいちょう元年がんねん(1596)12月27にちこうこうは70さいでこのぼっし、かんしげる慶長けいちょう6ねん(1601)2がつ三河そうごこく岡崎おかざきじょうまんせきたまわうつりふうになりました。元和がんわ4ねん(1618)3がつ5にちかんしげる二男じなんきのさださん代目だいめ城主じょうしゅくものの、寛永かんえい元年がんねん(1624)4がつ26にち44さい死去しきょきのさだ跡継あとつぎがなく白井しらいじょうはいじょうとなります。

  そのためこうこうおおやけらの菩提ぼだい(ぼだい)をとむらうものもいなくなりましたが、正徳しょうとく5ねん(1715)のこうこう120回忌かいきにあたり、こうこう5だいまごじょかおる信濃しなの飯山いいやま城主じょうしゅ)がみなもとそらてらにこの墓所はかしょ建立こんりゅうしました。

  墓所はかしょ面積めんせきやく26平方へいほうメートルで、さん墓石はかいしはいされています。中央ちゅうおうの「ぜんせいいん殿どの前越まえごししゅう大守たいしゅだまきしみちすわえだい居士こじかみただし」とある兜巾ときんがた(ときんがた)墓碑ぼひ本多ほんだひろこうはかで、とう1.8メートル、全高ぜんこう3.06メートルです。

  かって右側みぎがわの「長寿ちょうじゅいん殿どのさそえほまれむね引大あねれい」の墓碑ぼひこうこう夫人ふじんはかです。ぶんろく2ねん(1593)6がつ12にちぼつで、こうこうより3ねんはやくなっています。いしぶみぜんこうは2.27メートルです。

  左側ひだりがわたから篋印とう(ほうきょういんとう)は、最後さいご白井しらい城主じょうしゅであった本多ほんだきのさだはかとうで、法名ほうみょうには「源光げんこういん殿どのぜん備州しかほまれむね廓大かくだい居士こじ」ときざまれています。とうぜんこうは2.05メートルです。

長尾ながお累代るいだいはか(ながおしるいだいのはか)

長尾氏累代の墓の写真

  • 指定してい史跡しせき
  • 昭和しょうわ58ねん6がつ27にち指定してい

  そらめぐみてら(くえいじ)裏山うらやまに、たから篋印とう(ほうきょういんとう)・多宝塔たほうとうなど17中世ちゅうせい石造せきぞうぶつ整然せいぜんかれていて、そのうちすうのぞいてどれも白井しらい城主じょうしゅ長尾ながお累代るいだい供養くようとうかんがえられます。

  たいせき上部じょうぶなが年月としつきているため、倒壊とうかいえがおこなわれていてもと状態じょうたいたもっているかどうかよくわかりません。ただ、長尾ながお景仲かげなか(かげなか、あきらけん)、景春かげはる(かげはる、げん)、白井しらいきょく(しろいのつぼね、みょう薀)らのたいせき確認かくにんすることができます。

  これらのはかおよ供養くようとう中世ちゅうせい武将ぶしょう長尾ながおのもので、白井しらいじょうとともに本市もといち中世ちゅうせいかたるきわめて重要じゅうよう文化財ぶんかざいです。

にぎわいかし感恩かんおん(しんたいかんおんひ)

賑貸感恩碑の写真

  • 指定してい史跡しせき
  • 昭和しょうわ58ねん6がつ27にち指定してい

  このいしぶみは、天明てんめい3ねん(1783)の浅間あさましの被害ひがいからなおった教訓きょうくんと、幕府ばくふ勘定かんじょう吟味ぎんみやく根岸ねぎし九郎くろう左衛門さえもん救済きゅうさい措置そちによりなおった恩恵おんけいわすれないよう、つくだむらげん赤城あかぎまち津久田つくだ福増ふくますてら金峰きんぽう和尚おしょう提唱ていしょう北牧きたもくむら(きたもくむら)の老人ろうじんたちが相談そうだんして、浅間あさましから47ねん文政ぶんせい12ねん(1829)にてたものです。

  安山岩あんざんがんせいで、たかさ2.3メートル、はば1メートル、あつさ40センチメートルをはかり、この地区ちく浅間あさましの被害ひがい状況じょうきょうと、江戸えど時代じだい民政みんせい一端いったんじょう貴重きちょう資料しりょうです。

  後世こうせい平民へいみん宰相さいしょうといわれたはらたかしが20さいころきゅうさんこく街道かいどう中山なかやまから通過つうかする途中とちゅう、このいしぶみ注目ちゅうもくし、その心情しんじょう日記にっきめています。

白井しろいまちみちしるべ(しろいまちのみちしるべ)

白井町の道しるべの写真

  • 指定してい史跡しせき
  • 昭和しょうわ61ねん5がつ6にち指定してい

  城下しろしたまち白井しろいつうじる「なかさか」をくだりきった水路すいろのかたわらに、たかさ170センチメートル、はば38センチメートルのみちしるべがっています。みちしるべとしてはおおきく文字もじ達筆たっぴつ堂々どうどうとしています。よしみなが2ねん(1849)の建立こんりゅうです。

  みちしるべにしたがって、まちきたすすむと沼田ぬまた城下じょうかへ、なかさかがると草津くさつどうみなみすすめばわたり(とや)のわたしからはちさきて、日光にっこうどう江戸えどどうつうじています。

  往時おうじ白井しろいまちは、さんこく街道かいどうからはずれていたものの、かつては白井しろいじょう城下町じょうかまちであり、江戸えど時代じだいには市場いちばまちへと変貌へんぼう(へんぼう)発展はってんし、おおくの人々ひとびとあつまり旅人たびびとかよっていました。白井しろいまち地方ちほう核心かくしん都市としとしてさかえたことは、現在げんざいのこ城下町じょうかまち景観けいかんまちわり(まちわり)などでることができます。

松原まつばらみちしるべ(まつばらのみちしるべ)

松原の道しるべの写真

  • 指定してい史跡しせき
  • 昭和しょうわ61ねん5がつ6にち指定してい

  こいさわ交差点こうさてんひがしかい、吹屋ふきや地区ちくはい白井しろい城跡じょうせきかうよんかく北側きたがわに、たかさ90.5センチメートル、はば30センチメートルの角柱かくちゅうみちしるべが自然しぜんせきだいじょうっています。

  いただきよん角錐かくすいで、「一番いちばん」としるしてあります。東面とうめんに「みぎぬまた そう林寺はやしじみち」、西にしめんに「みぎまいバこころざし おほごみち」、南面なんめんに「ひだりゑちご あがつまどう」とあります。裏面りめんには「よしみながさんねんかのえいぬろくがつ吉日きちじつ 四ツ辻よつつじ念佛ねんぶつ講中こうじゅう」とあり、幕末ばくまつちかい1850ねんよしみなが3ねん)にてたものです。前橋まえばしを「まいばし」と方言ほうげん発音はつおん表記ひょうきしているのが特徴とくちょうてきです。

  いまでは、ほとんど旅行りょこうしゃ姿すがたがとだえた古道ふるみちに、転変てんぺん懐古かいこがしのばれます。

さんこく街道かいどうみちしるべ(みくにかいどうのみちしるべ)

三国街道の道しるべの写真

  • 指定してい史跡しせき
  • 昭和しょうわ61ねん5がつ6にち指定してい

  北牧きたもく(きたもく)のこうざい(こうさい)地内じない横堀よこぼり方面ほうめんからみち左右さゆう分岐ぶんきする三叉路さんさろに、石仏いしぼとけきざんだみちしるべがあります。

  たかさ60センチメートル、はば40センチメートルほどの本体ほんたいたいせきうえきたきにえられています。荒削あらけずりの舟形ふながた光背こうはい(こうはい)の中央ちゅうおうに、はんにくりの地蔵じぞう尊像そんぞうがあり、かってみぎに「みぎ江戸えどどう」と草書そうしょたいで、ひだりには「明和めいわさんへいいぬよんがつ吉日きちじつ 同行どうこうはちにん」ときざまれています。

  「みぎ江戸えどどう」とあるのは、鍛冶かじ谷戸たにと(かじかいと)へくだ右手みぎてほそみちが、江戸えどつうじるさんこく街道かいどうであることをしめしています。越後えちごから三国峠みくにとうげえてきたひとたちに、横道よこみちにそれないよう江戸えどへの一方向いちほうこうだけをしためずらしいみちしるべです。建立こんりゅう明和めいわ3ねん(1766)で、子持こもち地区ちくみちしるべのなかでは最古さいこのものです。

長坂ながさかみちしるべ(ながさかのみちしるべ)

長坂の道しるべの写真

  • 指定してい史跡しせき
  • 昭和しょうわ62ねん5がつ29にち指定してい

  国道こくどう17ごう沿いの中郷なかごう長坂ながさかに、きゅう沼田ぬまたどう白井しらい方面ほうめん)ときゅう真田さなだどう北牧きたもく方面ほうめん)へかうみち分岐ぶんきてんがあり、たかさ64センチメートル、はば92センチメートル、あつみ60センチメートルほどの安山岩あんざんがんたいせきうえきたきにえられています。

  そこにはつぎのようにきざまれています。

  「牧者ぼくしゃもく 白衣はくいははしろゐ 宇つさとかはれる俚言りげん いかゝはせん」「こころざしくるゝや ひだり白井しろい みぎハもく まぼろし」ときざまれています。

  俳諧はいかいみちしるべは県下けんかでも数少かずすくなく貴重きちょうなものです。地元じもと俳人はいじん小渕おぶちまぼろし(おぶちげんあ)のによるもので、慶応けいおう元年がんねん(1865)ころの建立こんりゅうだとおもわれます。

  なお、国道こくどう17ごうこいさわバイパスの建設けんせつともない、現在げんざい長坂ながさか交差点こうさてんわき移設いせつされています。

万葉まんよう歌碑かひ(まんようかひ)

万葉歌碑の写真

  • 指定してい史跡しせき
  • 昭和しょうわ62ねん5がつ29にち指定してい

  中郷なかごう子持こもち神社じんじゃ境内けいだい西側にしがわ石垣いしがきじょうに、たかさ130センチメートル、はば45センチメートル、あつさ25センチメートルばかりのいしぶみひがしきに、自然しぜんせきたいせきうえっています。文字もじ深々ふかぶかられ、藍沢あいざわまん(むまん)のふでになるといいます。建立こんりゅう万延まんえん(まんえん)元年がんねん(1860)ごろころで、建碑けんぴのリーダーは郷土きょうど文人ぶんじん小渕おぶちまぼろし(げんあ)・佐藤さとう磷(ふりん)らです。

  万葉まんようはよみじんらずで、「よるあさ かげ嘉平かへいとめ氐能 もう美都みとあさ宿毛すくもとう和波わなみ毛布もうふ なんじなみやす毛布もうふ」(子持山こもちやま 若楓じゃっきょう(わかかへるで)の 紅葉こうよう(もみつ)まで もとわれ(わ)はおもえ(も)う なんじ(な)はあどかおもえ(も)ふ)と万葉仮名まんようがなふう文字もじられています。

  かえで(かえで)にことよせて大胆だいたんあいをなげかけた素朴そぼく表現ひょうげんですが、くったくのない、あかるく健康けんこうてきまんようじんしんおもわせる相聞そうもん(そうもんか)といえます。

山崎やまざき石燕せきえんはか(やまざきせきえんのはか)

山崎石燕の墓の写真

  • 指定してい史跡しせき
  • 昭和しょうわ62ねん5がつ29にち指定してい

  そう林寺はやしじ本堂ほんどううら墓地ぼちに、渋川しぶかわきょうがく(きょうがく)のであり、儒者じゅしゃ画家がかであった山崎やまざき石燕せきえんはかがあります。石塔せきとうは、たかやく1メートルの五輪ごりんとうがたで「こころみさお石燕せきえん居士こじ」ときざまれています。

  石燕せきえんは、宝永ほうえい6ねん(1709)北牧きたもく(きたもく)にまれ、おさなときからがくこの下仁田しもにた高橋たかはしみちとき(どうさい)にまなび、のち江戸えど井上いのうえ金峨きんが(きんが)にまなんで、すうねん帰郷ききょうしてじゅくひらきました。

  町田まちだのべりょう(えんりょう)、角田つのだまぼろし(むげん)らとともに名声めいせい近隣きんりんたかく、著書ちょしょに「石燕せきえん一家言いっかげん(いっかげん)」「こうむもとめ標題ひょうだい(もうぎゅうひょうだい)」があります。

  狩野かの絵画かいがまなび、極彩色ごくさいしょく気品きひんある人物じんぶつ得意とくいとしました。天明てんめい5ねん(1785)6がつ3にち、77さいぼっしました。

御前ごぜん神社じんじゃときぼうとう花塚はなつか)(ごぜんじんじゃのさいぼうとう(はなづか))

御前神社の斎坊塔(花塚)の写真

  • 指定してい史跡しせき
  • 昭和しょうわ63ねん7がつ19にち指定してい

  このとうは、きゅう沼田ぬまた街道かいどう西にしどお沿上白井かみしろい伊熊いくま(いくま)の御前ごぜん神社じんじゃ境内けいだい建立こんりゅうされています。円形えんけい句碑くひで、上白井かみしろい小渕おぶちみなみ交(なんこう)が文化ぶんか13ねん(1816)に建立こんりゅうしたもので、花塚はなつか命名めいめいされています。

  みなみ交は蒼々あおあおあんごうし、白井しらいとりよい(ちょうすい)のながれをくむ松露しょうろあんさんせいがらすあきら(うめい)、よんせい什(うじゅう)の指導しどうけました。

  いしぶみ中央ちゅうおうに「ときぼうとう」とあり、みぎに「しばらくは はなうえなる 月夜つきよかな 芭蕉ばしょうおきな」と元禄げんろく元年がんねん(1688)「はつせみ」に収録しゅうろくされた芭蕉ばしょうを、ひだりには先師せんしがらすあかり時雨しぐれ(しぐれ)のきざみ、裏面りめんみなみ自身じしん四季しきぎんえています。文字もじがらすあかりふでになるといわれています。

良夜りょうやづか(りょうやづか)

良夜塚の写真

  • 指定してい史跡しせき
  • 昭和しょうわ63ねん7がつ19にち指定してい

  この良夜りょうやづかは、きゅう沼田ぬまた街道かいどう西にしどお沿いの上白井かみしろい蔵王ざおうどう脇道わきみち位置いちしています。

  たかさ80センチメートル、はば56センチメートルのつめがたをした芭蕉ばしょう句碑くひ本体ほんたいが、たいせきうええられています。

  「くもさとさと じん乎休むる 月見つきみ 芭蕉ばしょうおきな」(くもおりおり じんやすむる 月見つきみかな)ときざまれています。

  時折ときおりくもつきかくしてくれるので、そのときだけ一休ひとやすみできる、そうでなければわすれてつき魅入みいられていしまいそうだ、という意味いみでしょうか。

  当地とうち俳人はいじん生方うぶかた交(うぶかたかこう)が安政あんせい3ねん(1856)ごろ建立こんりゅうしたもので、藍沢あいざわまん(むまん)のふでによります。

  また、かたわ右側みぎがわまんの、「ひさたびれや はなかりに とくわらじ」という句碑くひ交によって、左側ひだりがわには交の、「去来きょらいばば ともみみせむ ねむやま」 (いざさらば わがともにせむ ねむるやま)という句碑くひ弟子でしたちによっててられています。

  赤城あかぎやまてくるつきさんいしぶみつこの良夜りょうやづかながめたむかしがしのばれます。

芭蕉ばしょう霊神れいじんづか(ばしょうれいしんづか)

芭蕉霊神塚の写真

  • 指定してい史跡しせき
  • 昭和しょうわ63ねん7がつ19にち指定してい

  この芭蕉ばしょう霊神れいじんづかたまおか玉山たまやま神社じんじゃ参道さんどう位置いちし、たかさ133センチメートル、はば69センチメートルの芭蕉ばしょう句碑くひです。

  なかに「芭蕉ばしょう霊神れいじん」とあり、その両側りょうがわに「うまとおぬさ えいるいゆきのう おもね志多したなん」(うまをさへ ながむるゆきの あしたかな)ときざまれています。

  旅人たびびとだけでなく、普段ふだんめることのないうままでをもながめていたくなる、ゆきあさはそんなおもむきがある、という意味いみでしょうか。

  当地とうち俳人はいじん後藤ごとうにしきあき(きんしゅう)、生方うぶかた交(かこう)などたまおか連中れんちゅうらが、安政あんせい3ねん(1856)ごろ建立こんりゅうしたものです。つてえん(たでぞの)さんせいをもつ生方うぶかた交は、当地とうち俳諧はいかい先達せんだつであり、この句碑くひのそばに「はなゆき む  やかためて たまおか 交」といういしぶみ建立こんりゅうしています。

長坂ながさかおうづか桜塚さくらづか)(ながさかのおきなづか(さくらづか))

長坂の翁塚(桜塚)の写真

  • 指定してい史跡しせき
  • 昭和しょうわ63ねん7がつ19にち指定してい

  長坂ながさかおうづかは、きゅう沼田ぬまた街道かいどう西にしどお沿いの伊熊いくま方面ほうめんからのぼりつめたところに位置いちし、たかさ102センチメートル、はば95センチメートルの芭蕉ばしょう句碑くひ本体ほんたいが、たいせきうええられています。

  表面ひょうめん中央ちゅうおうに「おう」と大書たいしょした芭蕉ばしょうした(もと)に しるなます(なます)も さくらかな」ときざまれています。さくらしたでの花見はなみはなびらがってきてしるといわずなますといわず、どれもさくらはなでいっぱいになってしまうという情景じょうけいんだいちです。

  建立こんりゅうしゃは、中郷なかごう俳人はいじん小渕おぶちまぼろし(げんあ)で、もと2ねん(1865)に建立こんりゅうしたものです。別名べつめい桜塚さくらづか」ともいいます。

  裏面りめんには、まぼろしあずかるいとしや はなにも なみだ宇く」 (よるとしや はなにも なみだうく)ときざまれ、藍沢あいざわまんつてえん(たでぞの)せいぎつつも、孤独こどくでわびしい心情しんじょうぎんじています。まぼろしはこの3ねんに74さいぼっしました。

  現在げんざいは、国道こくどう17ごうこいさわバイパスの建設けんせつともない、「長坂ながさかみちしるべ」とともに長坂ながさか交差点こうさてんわき移設いせつされています。

根本ねもとつねみなみはか(ねもとじょうなんのはか)

根元常南の墓の写真

  • 指定してい史跡しせき
  • 昭和しょうわ63ねん7がつ19にち指定してい

  根本ねもとつねみなみ画家がか常陸ひたちひとです。えがくのをこのみましたが、とりたてて師匠ししょうはなく中国ちゅうごくそうもと手本てほんとしていました。若年じゃくねんにして京都きょうと江戸えどなど諸国しょこくめぐったのち、仙台せんだいなが滞在たいざいしました。仙台せんだいでは桂月けいげつ上人しょうにん(けいげつしょうにん)をよきともとし、りょう禅師ぜんじ(こりょうぜんじ)のぜんふうせっして感化かんかけ、文化ぶんか元年がんねん(1804)ごろ菅井すがいうめせき(すがいばいかん)(あずまひとし)を弟子でしとしました。そのいったんうめせきわかれ、鎌倉かまくら建長寺けんちょうじまことつたな禅師ぜんじ(せいせつぜんじ)について修行しゅぎょうし、かみってげんなりあらためました。

  文化ぶんか8ねん(1811)うえしゅうおとずれ、そう林寺はやしじまって涅槃ねはん(ねはんず、指定してい文化財ぶんかざい)をがけ、仙台せんだいから愛弟子まなでしうめせき応援おうえん完成かんせいさせました。さらに、どうてら山門さんもん格天井ごうてんじょう(ごうてんじょう)、榛名はるな神社じんじゃ山門さんもん格天井ごうてんじょう、その装飾そうしょくなどをえがいているうちにやまいにかかり、横堀よこぼり宿やど升屋ますやりょう文化ぶんか9ねん(1812)5がつ20日はつか、49さいぼっしました。

  うめせき飛脚ひきゃくでこの訃報ふほう(ふほう)を仙台せんだいらせ、桂月けいげつ上人しょうにんかいして墓碑銘ぼひめいはり禅師ぜんじねがい、はかとうをこのりょう庭先にわさきてたのです。石塔せきとうたかさ102センチメートル、はば37.5センチメートル、あつみ24センチメートル、総高そうだか160センチメートルで「つねみなみごと成之しげゆきはか」ときざまれています。

白雄しらお句碑くひ(しらおのくひ)

白雄の句碑(さびえ塚)の写真

  • 指定してい史跡しせき
  • 昭和しょうわ63ねん7がつ19にち指定してい

  北牧きたもく(きたもく)八幡やはたきゅう越後えちご草津くさつどうからすこきたはいったさんほんつじ位置いちします。ちいさなまりがあり、そのはしたかさ96.5センチメートル、最大さいだいはば60センチメートルの本体ほんたいが、自然しぜんせきたいせきじょうみなみきにえられています。

  「宇羅於母てん のううかべる こう閑那 白雄しらおぼう」(うらおもて このはうかべる さびえかな)というきざまれています。

  この作者さくしゃ加舎かや白雄しらお(かやしらお)は信濃しなのこくひとで、関東かんとういちえんられた俳人はいじんです。えとした初冬しょとうのある横堀よこぼり宿やどから近道ちかみちとおって、北牧きたもく八幡やはた弟子でしたくおとずれるさいみちかたわらの清水しみずまりぎんじたいちです。

  この句碑くひは、かれした地元じもと俳人はいじんたちが寛政かんせい12ねん(1800)にてたものです。

白井しらい城址じょうし(しろいじょうし)

白井城址の写真

  • 指定してい史跡しせき
  • 平成へいせい16ねん3がつ31にち指定してい

  白井しろいじょうは、利根川とねがわ吾妻川あがつまがわ合流ごうりゅうてん河岸かわぎし段丘だんきゅうである自然しぜん要害ようがい築城ちくじょうされた平山ひらやましろです。山内やまうち上杉うえすぎ配下はいか家老がろうしょくつとめた長尾ちょうび一族いちぞくのうち、白井しらい本拠ほんきょとした白井しらい長尾ながお居城きょじょうでした。

  白井しろいじょう築城ちくじょう年代ねんだいは、本丸ほんまる構造こうぞう武蔵むさし五十子いかごじょう(いかつこじよう)と相似そうじし、15世紀せいきなかごろ長尾ながお景仲かげなか(かげなか)の時代じだい推定すいていできます。景仲かげなかは、関東かんとう無双むそう知恵者ちえしゃしょうされた武将ぶしょうで、つきこう正文まさふみ(げつこうしょうぶん)を開山かいさんとしてそう林寺はやしじ建立こんりゅうし、城内きうちには京都きょうとから儒者じゅしゃまねいて家臣かしん儒学じゅがく教育きょういくほどこしました。

  景仲かげなか没後ぼつご北条ほうじょう上杉うえすぎ武田たけだによる攻防こうぼうかえされるなか白井しらい長尾ながお景信かげのぶ景春かげはるけいえいけいまことけんけいてるけいけいひろ代替だいがわりし、天正てんしょう18ねん(1590)豊臣とよとみ秀吉ひでよし小田原おだわらめがはじまると、前田まえだ利家としいえ上杉うえすぎ景勝かげかつりょうぐんまえ開城かいじょう余儀よぎなくされました。

  徳川とくがわ家康いえやす関東かんとう入府にゅうふ本多ほんだひろこうふうぜられ、沼田ぬまたじょう真田さなだ昌幸まさゆきさえる前線ぜんせん基地きち役目やくめたしました。いでこうこうかんしげる城主じょうしゅとなりますが、岡崎おかざきうつりふうとなり、かんしげるだいきのさだ入城にゅうじょうしましたが、寛永かんえい元年がんねん(1624)に死去しきょ嗣子ししがなくはいじょうとなりました。

  白井しろいじょう本丸ほんまる中心ちゅうしんとしたはしごくるわしき(ていかくしき)縄張なわばりで、じゅう空堀からぼりるいがめぐります。西側にしがわ吾妻川あがつまがわがけせん利用りようしています。

  本丸ほんまる出入口でいりぐちのこ野面のぶつもる(のづらづみ)石垣いしがき枡形ますがた虎口ここう(ますがたこぐち)や新曲しんきょくは、本多ほんだ時代じだい拡張かくちょう整備せいびされたものです。枡形ますがた虎口ここう前方ぜんぽう東側ひがしがわ三日月みかづきほりは、武田たけだ築城ちくじょうほうによってきずかれた名残なごりのようです。また、本丸ほんまるおくにはだい石垣いしがきがあり、本丸ほんまる背後はいごいちへん15メートルのささきょくもうけられています。本丸ほんまるきたにはまるさんまる北曲輪きたくるわがあり、その北西ほくせい金比羅こんぴらきょくのこります。北曲輪きたくるわには大手おおて虎口ここうひらかれています。本丸ほんまるまるさんまる東側ひがしがわほりへだててはば10メートルほどおびきょくながつづき、北曲輪きたくるわ大手おおて虎口ここうたっします。

  このしろそう曲輪くるわ(そうくるわ)は、北側きたがわ吹屋ふきや屋敷やしき松原まつばら屋敷やしき東側ひがしがわ白井しらい宿やどかこまれていて、その外側そとがわには東西とうざい950メートルのきたどお構(きたとおかまえ)と、南北なんぼく650メートルのひがしどお構のほりのこっています。

交通こうつう案内あんない

  周辺しゅうへん地図ちずかたについては「(Q&A)「白井しらい城址じょうし」のかたおしえてください」のページをご参照さんしょうください

横堀よこぼり宿やど一里塚いちりづか(よこぼりじゅくのいちりづか)

横堀宿の一里塚の写真

  • 指定してい史跡しせき
  • 平成へいせい21ねん11月24にち指定してい

  一里塚いちりづか主要しゅよう街道かいどう距離きょり目標もくひょうとしてきずいたもので、みち両側りょうがわ左右さゆういちつい設置せっちされます。

  横堀よこぼり宿やど一里塚いちりづかさんこく街道かいどうはさんで一対いっつい存在そんざいしていましたが、西側にしがわづか開発かいはつ消滅しょうめつし、東側ひがしがわ一里塚いちりづかだけがのこされています。

  づかおおきさは東西とうざい15メートル、南北なんぼく8メートル、面積めんせき108平方へいほうメートルで、中央ちゅうおうにはケヤキ(目通めどおしゅう4メートル)がえられ、したにはいしほこら(せきし)、石碑せきひいし灯籠どうろう馬頭観音ばとうかんのんかれています。一里塚いちりづか現存げんそんするものがすくなく、貴重きちょうです。

そう林寺はやしじのヒイラギモクセイ(そうりんじのひいらぎもくせい)

雙林寺のヒイラギモクセイの写真

  • 指定してい天然記念物てんねんきねんぶつ
  • 昭和しょうわ61ねん5がつ6にち指定してい

  そう林寺はやしじ境内けいだい座禅ざぜんどう東側ひがしがわにあり、根元ねもと周囲しゅうい3.5メートル、地上ちじょうからのたかさ10メートル、えだちょうみきから東方とうほう6メートル、西方せいほう4.6メートル、南方なんぽう4.8メートル、北方ほっぽう4.7メートルをはかります。

  ヒイラギモクセイは、ヒイラギとギンモクセイとの雑種ざっしゅとされる常緑じょうりょくしょう高木たかぎです。ゆう対生たいせいし、しつあつくてかたく、えんとげじょうのあらい鋸歯きょしがあります。はな白色はくしょくで、10がつごろ開花かいか香気こうきとおくまでただよいます。元禄げんろく年間ねんかん山門さんもん座禅ざぜんどう再建さいけんえたといいつたえられ、樹齢じゅれいやく300ねん推定すいていされています。

人助ひとだすけのカヤ(へだまの)(ひとだすけのかや(へだまのき))

人助けのカヤ(へだまの木)の写真

  • 指定してい天然記念物てんねんきねんぶつ
  • 昭和しょうわ62ねん5がつ29にち指定してい

  北牧きたもく(きたもく)の国道こくどう353ごう沿いにあり、樹齢じゅれい400ねんといわれるカヤの大樹たいじゅです。根元ねもと周囲しゅうい3.4メートル、地上ちじょう13メートルのたかさで、樹冠じゅかん東西とうざい10メートル南北なんぼく8メートルです。

  天明てんめい3ねん(1783)7がつ8にち浅間あさまさんだい噴火ふんかし、その熔岩ようがん(ようがん)が吾妻川あがつまがわ一時いちじせきめ、はげしいどろりゅうとなって流域りゅういきむら々をおそい、田畑たはた民家みんかんで、子持こもち川島かわしままき、さらにはその下流かりゅうにまで甚大じんだい被害ひがいあたえました。

吾妻川あがつまがわ河岸かわぎしにあった北牧きたもく地区ちく民家みんか流失りゅうしつしましたが、このカヤのによじのぼることで、おおくの人々ひとびとなんのがれたのです。

その、だれうことなく「人助ひとだすけのカヤ」とばれるようになりました。また、このカヤのからくさいにおいがすることから、地元じもと人々ひとびとは「へだまの」ともんでいます。

獅子ししいわ(ししいわ)

獅子岩の写真

  • 指定してい名勝めいしょうおよ天然記念物てんねんきねんぶつ
  • 昭和しょうわ61ねん5がつ6にち指定してい

  子持山こもちやまは、富士山ふじさんおながた成層せいそう火山かざんで、かつてはとおなが裾野すそのいたうつくしいやまでした。しかし、噴火ふんかによりうえ半分はんぶん爆発ばくはつし、カルデラができ、中央ちゅうおう火口丘かこうきゅう出現しゅつげんしてじゅうしき火山かざんになりました。そのなが年月としつき浸食しんしょく作用さようをうけ、けずられにくをそがれて骨格こっかくがむきしになりました。火山かざん生成せいせいじょう貴重きちょうざんです。

  獅子ししいわは、子持山こもちやま活発かっぱつ火山かざん活動かつどうしていたときに、火口かこうかうどうにたまったマグマが、活動かつどう沈静ちんせいとともに凝固ぎょうこしてできた、火山岩かざんがん頸(かざんがんけい)というものです。ながあいだ浸食しんしょくによってまわりの山肌やまはだけずられて、マグマ部分ぶぶんだけがはしらとなってのこったのです。この獅子ししがん日本にっぽんもっと見事みごと火山岩かざんがん頸の1つです。

屏風岩びょうぶいわ(びょうぶいわ)

屏風岩の写真

  • 指定してい名勝めいしょうおよ天然記念物てんねんきねんぶつ
  • 昭和しょうわ61ねん5がつ6にち指定してい

  屏風岩びょうぶいわは、子持こもち火山かざん放射状ほうしゃじょうがんみゃくひとつです。獅子ししがん中心ちゅうしん半径はんけい1.5キロメートルのえんなかに150ほんほどが集中しゅうちゅうしています。いわみゃく生成せいせいは、マグマが地層ちそうって、あるいは岩石がんせきちゅう垂直すいちょくいたのようなかたち貫入かんにゅうしたりしたもので、あつさが、1から7メートル、平均へいきん3から5メートルくらいあります。地表ちひょうあらわれている部分ぶぶんは、屏風びょうぶのようにそそりっています。

  子持山こもちやまちいさな火山かざんですが、活動かつどう停止ていしした時期じきふるいため浸食しんしょくいちじるしく、あたらしい火山かざんではなかなかられない火山かざん内部ないぶ構造こうぞう露出ろしゅつしている貴重きちょうれいです。


掲載けいさい 平成へいせい27ねん8がつ29にち 更新こうしん れい7ねん3がつ13にち
このページについてのおわせさき
わせさき
教育きょういく 文化財ぶんかざい保護ほご 文化財ぶんかざい保護ほご活用かつようがかり
住所じゅうしょ
〒377-0062 群馬ぐんまけん渋川しぶかわ北橘きたたちばなまち真壁まかべ2372番地ばんち1
電話でんわ
0279-52-2102
FAX:
0279-52-4008
(メールフォームがひらきます)

最近さいきんチェックしたページ

最近チェックしたページはありません。