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映像学
映像えいぞうがく
Online ISSN : 2189-6542
Print ISSN : 0286-0279
ISSN-L : 0286-0279
109 かん
選択せんたくされたごう論文ろんぶんの8けんちゅう1~8を表示ひょうじしています
論文ろんぶん
  • 田口たぐち ひとし
    2023 ねん 109 かん p. 5-26
    発行はっこう: 2023/02/25
    公開こうかい: 2023/03/25
    ジャーナル フリー

    足立あだちただしせい中心ちゅうしん製作せいさくされた映画えいが略称りゃくしょう連続れんぞく射殺しゃさつ』(1969ねん)は、連続れんぞく射殺しゃさつ事件じけん犯人はんにんとして逮捕たいほされた少年しょうねん永山ながやま則夫のりおのドキュメンタリー映画えいがである。『略称りゃくしょう連続れんぞく射殺しゃさつ』は一般いっぱん松田まつだ政男まさお主唱しゅしょうしゃとする「風景ふうけいろん」と一対いっついのものとしてかんがえられ、どうさくあつかうほぼすべての論考ろんこうにおいて、映画えいがは「風景ふうけいろん」の絵解えときとして解釈かいしゃくされてきた。だが、「風景ふうけいろん」は映画えいが製作せいさくについて手法しゅほう指示しじするものではなく、映画えいがにその理念りねん実現じつげんされていたとすれば、どうさく製作せいさくから5ねんものあいだ封印ふういんされたことの理由りゆうにも疑問ぎもんのこる。本稿ほんこうでは、この映画えいがについて作品さくひん実態じったいそくしたカット分析ぶんせきどう時代じだい文化ぶんかてき文脈ぶんみゃく参照さんしょうした分析ぶんせきおこなうことでその特質とくしつあきらかにし、60年代ねんだい制度せいど批判ひはんてき芸術げいじゅつ表現ひょうげん総体そうたいとの関連かんれんにおいて位置いちづけなおすことをこころみる。

    まずだい一節いっせつでは議論ぎろん前提ぜんていとなる「風景ふうけいろん」の左派さは運動うんどうてき制度せいど批判ひはん永山ながやま則夫のりお人生じんせい物語ものがたりとの関係かんけい整理せいりし、いでだいせつでは「風景ふうけいろん」を映画えいが反映はんえいてきみこむ既存きそん解釈かいしゃく対照たいしょうしてショット分析ぶんせきしめすことで、映画えいが実際じっさいには永山ながやま個人こじんせいうナラティヴを展開てんかいしていたことをあきらかにする。最後さいごだいさんせつでは、足立あだち実験じっけん映画えいが作家さっかとしてのキャリアと赤瀬あかせ川原平かわらたい中心ちゅうしんとした人的じんてき交流こうりゅうから、『略称りゃくしょう連続れんぞく射殺しゃさつ』の封印ふういん理由りゆう分析ぶんせきし、どうさくをエクスパンデッド・シネマとして解釈かいしゃくすることで、むしろこの封印ふういん行為こういこそが「風景ふうけいろん」の左派さは芸術げいじゅつ運動うんどうてき側面そくめん表現ひょうげんであったことをしめす。

  • 三浦みうら 光彦みつひこ
    2023 ねん 109 かん p. 27-48
    発行はっこう: 2023/02/25
    公開こうかい: 2023/03/25
    ジャーナル フリー

    本稿ほんこうでは、ロベール・ブレッソンの1951ねん作品さくひん田舎いなか司祭しさい日記にっき』にかんして、物語ものがたりろん演技えんぎろん観点かんてんから分析ぶんせきおこなう。『田舎いなか司祭しさい日記にっき』において物語ものがたりがどのようにかたられているか、物語ものがたり演技えんぎがいかにむすびついているかを精査せいさしたうえで、テクストがい現実げんじつ作者さくしゃであるブレッソンとテクストないかたとがどのような関係かんけいむすんでいるのかをあきらかにすることが本稿ほんこう目的もくてきである。まず、テクストがい現実げんじつがテクストないのフィクションに作用さようする次元じげん物語ものがたりろんてき観点かんてんからろんじているエドワード・ブラニガンの理論りろん有用ゆうようせいしめしたうえで、映画えいが公開こうかい当時とうじ、ブレッソンがどのような社会しゃかいてき歴史れきしてき状況じょうきょうかれていたかを概観がいかんし、それが物語ものがたり理解りかいにいかに作用さようするかを考究こうきゅうする。いで、一見いっけん司祭しさい一人称いちにんしょうによるかたりにえるこの映画えいが実際じっさいには、司祭しさいとはべつのもう一人ひとりかた想定そうていする必要ひつようがあること、そして、司祭しさいによるかたりとべつかたによるかたりが混同こんどうしていることを、テクスト分析ぶんせきつうじてあきらかにする。そのうえで、こうしたかたりの構造こうぞう映画えいがにおける役者やくしゃたちの発声はっせい仕方しかたむすびついていること、さらに、演技えんぎ指導しどうつうじてブレッソンという現実げんじつ作者さくしゃがテクストないかたかぎりなく接近せっきんしていることをつまびらかにする。最終さいしゅうてきに、ブレッソンという現実げんじつ作者さくしゃが『田舎いなか司祭しさい日記にっき』において、「不可視ふかしかた」としてあたかも映画えいが全体ぜんたいかたっているかのようにテクスト全体ぜんたい構造こうぞうしていると結論けつろんづける。

  • 常石つねいし 史子ふみこ
    2023 ねん 109 かん p. 49-67
    発行はっこう: 2023/02/25
    公開こうかい: 2023/03/25
    ジャーナル フリー

    無声むせい映画えいがは、タイトル(中間なかま字幕じまく)をえるだけでさまざまな言語げんごはん作成さくせいできる、際立きわだって国際こくさいせいなメディウムであった。染色せんしょく調しらべしょく・ステンシルカラーといった無声むせい映画えいが特有とくゆう着色ちゃくしょくは、色変いろがわりごとにスプライス(つなぎ)がしょうじるのが難点なんてんだったが、タイトル挿入そうにゅうのための編集へんしゅう作業さぎょう必要ひつよう状況じょうきょうではさほど障害しょうがいにならず、ゆたかに花開はなひらいた。着色ちゃくしょくされたかく断片だんぺんとタイトルをわせて上映じょうえいようプリントを1ほんずつ手作業てさぎょう仕上しあげるポジ編集へんしゅうのプロセスは、ドイツけんにおいては1920年代ねんだい前半ぜんはんまで主流しゅりゅうだった。

    1920年代ねんだいなかばから後半こうはんにかけて、機械きかい現像げんぞう導入どうにゅうあつかえるフィルムのながさの伸長しんちょうにより、上映じょうえいようプリント1かんぶんをスプライスなしに仕上しあげることが可能かのうになった。またネガの複製ふくせいとくしたフィルムの登場とうじょうで、単一たんいつのオリジナルネガからかく言語げんごばんのネガを複製ふくせいしても十分じゅうぶん画質がしつられるようになった。こうして近代きんだいてきなネガ編集へんしゅうのシステムが完成かんせいすると、これにともなって着色ちゃくしょくはポストプロダクションのプロセス全体ぜんたい阻害そがいする要素ようそとなり、色変いろがわりの頻度ひんど減少げんしょうした。単色たんしょく染色せんしょく部分ぶぶんてきのこったが、やがて完全かんぜん消滅しょうめつする。

    そしてこのネガ編集へんしゅうこそ、1929ねん前後ぜんこうこったトーキー必須ひっす条件じょうけんだった。トーキー音声おんせい記録きろくのみにかかわる技術ぎじゅつ革新かくしんではなく、映画えいがフィルムを工芸こうげいひんから工業こうぎょう製品せいひんへと変貌へんぼうさせる、編集へんしゅう複製ふくせい現像げんぞうそれぞれの領域りょういきにおけるすうねんがかりのあゆみがあってこそ、はじめて可能かのうになったのである。

  • 中島なかじま 晋作しんさく
    2023 ねん 109 かん p. 68-88
    発行はっこう: 2023/02/25
    公開こうかい: 2023/03/25
    ジャーナル フリー

    ほん論文ろんぶんは、増村ますむらたもつづくり映画えいがあらわれる空間くうかん特殊とくしゅせい考察こうさつする。増村ますむら映画えいがには、男女だんじょあいだ非対称ひたいしょう権力けんりょく構造こうぞう内包ないほうしたざされた空間くうかん頻出ひんしゅつする。これまでの増村ますむらかんする批評ひひょうでは、そのような空間くうかん閉塞へいそくせい打破だはする存在そんざいとして、俳優はいゆうとく女性じょせい身体しんたい着目ちゃくもくした論考ろんこうおおかった。とりわけ、増村ますむらおおくの映画えいが主演しゅえんとして存在そんざいかんはなった若尾わかお文子ふみこが、増村ますむら映画えいがろんじるさい重心じゅうしんとして、論者ろんしゃ関心かんしんいてきた。ほん研究けんきゅうでは、増村ますむらたもつづくり映画えいがにおける、男女だんじょめるざされた空間くうかんとしての「閉域」に着目ちゃくもくし、このような閉域が映画えいがにどのようなかたちで現前げんぜんしているのかを分析ぶんせきする。

    まずは、『めくらじゅう』(1969)の美術びじゅつセットによる特異とくいな「閉域」の存在そんざい着目ちゃくもくする。この映画えいが江戸川えどがわ乱歩らんぽによる原作げんさく小説しょうせつとの差異さい分析ぶんせきとおして、映画えいがにおいては閉域をたす暗闇くらやみ強調きょうちょうされていることをあきらかにする。また、やはり閉域の暗闇くらやみ胚胎はいたいする『音楽おんがく』(1972)においては、閉域の暗闇くらやみが、その外部がいぶ空間くうかんへも拡張かくちょうすることを論証ろんしょうする。これらの映画えいが分析ぶんせきすることによってあきらかになるのは、増村ますむら映画えいが空間くうかんにおける暗闇くらやみ重要じゅうようせいである。最後さいごに、増村ますむらたもつづくり初期しょき作品さくひんにおける暗闇くらやみ位置いちづけを分析ぶんせきすることで、暗闇くらやみの「くろ」という色彩しきさいが、封建ほうけんてき家族かぞく制度せいど社会しゃかい構造こうぞうからもたらされた権力けんりょくせい内包ないほうしていたことをあきらかにする。

  • 田中たなか 晋平しんぺい
    2023 ねん 109 かん p. 89-108
    発行はっこう: 2023/02/25
    公開こうかい: 2023/03/25
    ジャーナル フリー

    1974ねん大阪おおさか安井やすい喜雄よしおたちが創立そうりつした《プラネット映画えいが資料しりょう図書館としょかん》は、映画えいがのフィルムや関連かんれん資料しりょう収集しゅうしゅう保存ほぞんくわえて、自主じしゅ上映じょうえい活動かつどうつづけてきたグループである。本論ほんろんでは、筆者ひっしゃが〈神戸こうべ映画えいが資料しりょうかん〉で担当たんとうした《プラネット》にかんする資料しりょう自主じしゅ上映じょうえいかいのためのチラシや機関きかんなど)の整理せいり作業さぎょうまえ、1970年代ねんだいなかばから1980年代ねんだい後半こうはんまでに開催かいさいされたその上映じょうえい活動かつどう歴史れきしてき役割やくわり考察こうさつする。具体ぐたいてきには、《プラネット》の上映じょうえい実現じつげんしてきた人間にんげんおよびモノのネットワークに注目ちゅうもくし、自主じしゅ上映じょうえいあらたに勃興ぼっこうしたミニシアターなどの映像えいぞう文化ぶんかとの差異さいあきらかにしたい。

    まず《プラネット》の前身ぜんしんとなる上映じょうえい活動かつどうとして、1960年代ねんだいまつ結成けっせいされた《日本にっぽん映画えいが鑑賞かんしょうかいOSAKA》の時代じだいさかのぼり、関西かんさいにおける自主じしゅ上映じょうえい地層ちそう検討けんとうする。つぎにフィルム・コレクターや上映じょうえいグループとの関係かんけいせい構築こうちくしながら、《プラネット》の活動かつどう展開てんかいされ、国内外こくないがい製作せいさくされた古典こてんてき映画えいが、アニメーション、ドキュメンタリー映画えいが実験じっけん映画えいが個人こじん映画えいがにおよぶ多様たよう作品さくひん上映じょうえいされてきた経緯けいい確認かくにんしたい。また論点ろんてんとして、自主じしゅ上映じょうえいグループが、モノとしてのフィルムをいかに確保かくほし、活動かつどうおこなってきたのかに着目ちゃくもくする。さらに1980年代ねんだい後半こうはんに《プラネット》がかかわった「OMSシネデリック」のシリーズなどをげ、自主じしゅ上映じょうえい活動かつどうとミニシアター文化ぶんかとの差異さいについてろんじる。

  • 行田ぎょうだ よう
    2023 ねん 109 かん p. 109-127
    発行はっこう: 2023/02/25
    公開こうかい: 2023/03/25
    ジャーナル フリー

    ほん論文ろんぶんは、演出えんしゅつ観点かんてんからストローブ゠ユイレ作品さくひんにおける俳優はいゆう発話はつわについてろんじる。これまでの先行せんこう研究けんきゅうでは、その不自然ふしぜんなアクセントや休止きゅうしともなった特異とくい俳優はいゆう発話はつわについて「音楽おんがくてき」や「異化いか効果こうか」といった言葉ことばとともにろんじられてきたが、抽象ちゅうしょうてきかつ曖昧あいまいなかたちでしか考察こうさつされてこなかった。本稿ほんこうでは、作家さっかのインタビューや演出えんしゅつのリハーサル映像えいぞう、メモがのこされた脚本きゃくほんとう資料しりょう使用しようし、その生成せいせい過程かていさぐることで、ストローブが「朗誦ろうしょう」と発話はつわ具体ぐたいてき分析ぶんせきすることを目的もくてきとする。

    そのため、まずだい一節いっせつではフランツ・カフカの『失踪しっそうしゃ』の翻案ほんあん作品さくひんである『階級かいきゅう関係かんけい』(1984ねん)をれいにとり、監督かんとくのリハーサルまえ構想こうそう確認かくにんする。だいせつでは、そのリハーサル映像えいぞうもとづいて、特定とくていかたり実際じっさいにどのように演出えんしゅつされ、俳優はいゆう身体しんたいされているのかを分析ぶんせきする。つづだいさんせつでは、前節ぜんせつまでに確認かくにんした発話はつわが、作品さくひんのなかでいかに形成けいせいされ、どのような役割やくわりになっているのかを確認かくにんする。そして最後さいご俳優はいゆう身体しんたいとテクストの両方りょうほう重視じゅうしする、反復はんぷくという方法ほうほうろんについてろんじたい。以上いじょう考察こうさつから、ストローブが「朗誦ろうしょう」とぶものとは、俳優はいゆう固有こゆうこえと、テクストに内在ないざいする情動じょうどうむすびつけることであると結論けつろんづける。

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