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授業に潜入!おもしろ学問 佐野 宏 教授 - 京都大学広報誌『紅萠』

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授業に潜入! おもしろ学問

 

授業じゅぎょう潜入せんにゅう! おもしろ学問がくもん

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憶良は子煩悩こぼんのう? それとも社会しゃかい歌人かじん時代じだいせいから萬葉まんよう世界せかい

佐野さの ひろし 国際こくさい高等こうとう教育きょういくいん 教授きょうじゅ

奈良なら時代じだい編纂へんさんされた現存げんそん最古さいこ歌集かしゅうである『萬葉集まんようしゅう万葉集まんようしゅう)』。「憶良らは……」ではじまる山上憶良やまのうえのおくらうたをはじめ、みみ馴染なじみのあるうたおおいが、いまだ解明かいめいされていないなぞおおめている。中国ちゅうごくから輸入ゆにゅうされたあたらしい思想しそうである仏教ぶっきょう国家こっかてき宗教しゅうきょうとして確立かくりつされる時代じだいに、歌人かじんたちはなにうたったのか。子煩悩こぼんのうな憶良、徴税ちょうぜいからのがれるばいぞく先生せんせい親子おやこあい釈迦しゃか……。佐野さのひろし教授きょうじゅかたりにみちびかれ、りばめられたヒントから歌人かじんたちのきた時代じだい紐解ひもとけば、馴染なじみのまんよううたたちはあらたな声色こわいろかなでだす。

この授業じゅぎょうのテーマは「『萬葉集まんようしゅう万葉集まんようしゅう)』む」。今回こんかいは、作品さくひんかれた時代じだいせい注目ちゅうもくして、うた作品さくひんめぐ構造こうぞうかんがえてみましょう。げるのは山上憶良やまのうえのおくらのよくられたいちしゅです。

山上憶良やまのうえのおくらしんうたげやめうたいちしゅ
憶良らは いままからむ くらむ
それそのははつらむそ
(3・さんさんなな

このうたは、「憶良どもはもうこれで失礼しつれいしましょう。今頃いまごろではどもがいておりましょう。そのははちちであるわたしかえりをっていましょう」というほどの意味いみ。「どもと、その母親ははおやいえかえろうと、おどけて宴席えんせき終了しゅうりょうげたうたであろう」とされていますが、宴席えんせきとして、このうたがなぜ「おどけた」ことになるのかはかんがえどころです。このうたいて「ははは、そうだよなぁ」と宴席えんせき一同いちどう微笑ほほえ要因よういんを、「憶良は子煩悩こぼんのうだった」などと憶良個人こじん人物じんぶつぞうむすびつけない・・・・・・・・・・としたら、どう解釈かいしゃくできるでしょうか。いいかたえるなら、このうたがもたらす「わらい」は、いかなる表現ひょうげん理解りかいによって形成けいせいされるのかといういかけです。

萬葉集まんようしゅう万葉集まんようしゅう)』

日本にっぽん現存げんそんする最古さいこ歌集かしゅうぜん20かん。4,500しゅうた収録しゅうろく奈良なら時代じだい末期まっき成立せいりつとみられる。すうかい編纂へんさん作業さぎょうがあったとかんがえられており、一人ひとりによってできたものではない。その編者へんしゃ不明ふめいだが、最終さいしゅうてき大伴家持おおとものやかもちがふかかかわったことはうたがいがない。皇族こうぞく官僚かんりょうのほか、農民のうみん防人さきもりなど、広範こうはん人物じんぶつうたがおさめられている。「こいうたがおおいのですが、なかには感情かんじょう構造こうぞうてきとらえた分析ぶんせきてき作品さくひんもあります。感情かんじょう構造こうぞうなんてむずかしそうですが、柿本人麻呂かきのもとのひとまろ自覚じかくてきにそれができたじんなのだろうとおもいます。ひと麻呂まろ評価ひょうかできたじんたちもまたそれ以上いじょう分析ぶんせきてきです。現代げんだいのような小説しょうせつ評論ひょうろんがない時代じだいですから、個人こじん思想しそう心情しんじょう表現ひょうげん方法ほうほうとして『うた』しかなかったのだという見方みかたをするべきかもしれません」。

山上憶良やまのうえのおくら(660ごろ-?)

奈良なら時代じだい歌人かじんせいしんひとし明天めいてんすめらぎろく(660)ねんまれる。大宝たいほうもと(701)ねん正月しょうがつ23にち無位むいせいでからしょうろくまかぜられ、よくねんろくがつじゅうきゅうにち出発しゅっぱつしている。けいくもよん(707)年頃としごろ帰国きこくしたとかんがえられる。『萬葉集まんようしゅう』の記述きじゅつかられい亀二かめじ(716)ねん4がつ伯耆ほうきもりとなっており、かみひさしさん(726)年頃としごろ筑前ちくぜんもりまかぜられて九州きゅうしゅうくだっている。かみかめ(728)ねんだいおさむそちとして赴任ふにんした大伴旅人おおとものたびとい、おおくの作品さくひんのこした。「憶良は大宝たいほう元年がんねんとう出発しゅっぱつしていますが、そのときは暴風ぼうふうでわたれなかったと翌年よくねん出発しゅっぱつ記述きじゅつかれています。それで出発しゅっぱつして無事ぶじかえってきていますから、精神せいしんてきにも肉体にくたいてきにもかなりタフなひとだったのだろうとおもいます」。

つ」のはだれ

さて、このうた文法ぶんぽうめんからみてみましょう。「憶良ら」の「ら」は複数ふくすうあらわ接尾せつびですが、このうたでは「謙譲けんじょう表現ひょうげん」だとされています。しかし、接尾せつび「ら」が固有名詞こゆうめいし接続せつぞくして謙譲けんじょうあらわすのは事実じじつじょう、このれいだけ。やや議論ぎろんのあるところです。

つらむそ」の「らむ」は推量すいりょう助動詞じょどうしだと高校こうこうではならいますが、推量すいりょうには確信かくしんてず「かもしれない」というときと、ある程度ていど確信かくしんをもって「~にちがいない」というときがあります。このうた場合ばあい、「今頃いまごろどもがいているだろう」というのをけているので、あとの「つらむそ」は「きっとっていることだろう」という確信かくしんめいた推量すいりょうです。

ここで注目ちゅうもくしたいのは、っているのはだれかということです。和歌わかで「つ」のは、たいていはあいする「つま」か「恋人こいびと」である女性じょせい。ところが、この憶良のうたでは「はは」が「つらむ」とあり、「はは」がちちかえりをっています。「つ」主体しゅたいを「それそのははも」と表現ひょうげんするこの憶良のうたは、『萬葉集まんようしゅう全体ぜんたいからすると異質いしつなのです。

ばいぞく先生せんせい」をさとす、皮肉ひにくまじりのうた

では「家族かぞく」がテーマになる背景はいけいについて、憶良のべつうたからかんがえてみましょう。

惑へるじょうはんかへさしむるいちしゅ *1
〈并せてじょ

あるあるひと父母ちちははけいうやまふことをりて、さむらいやしなえわすれ、妻子さいしかえりみずして、だつだつしよりもかるいるかせにし、みずかばいぞく先生せんせいしょうなづく。意気いき青雲せいうんうえがれども、身体しんたいなおちりぞくなかり。いま得道とくどう修行しゅぎょうせるひじりけんしるしあらず、けだしこれ山沢やまさわ亡命ぼうめいするみんならむか。所以ゆえんこのゆゑ三綱さんこう指示しじし、五教ごきょうさらあらたひらくき、のこおくるにうたもってし、そのまどひをはんかへさしむ。うたいわ

父母ちちははればとうと
妻子さいしめこれば めぐしあいうつく
世間せけんよのなかは かくぞことわり
もちとりの かからはしもよ くへらねば
うけくつくつだっるごとく
ぬげきて くちふじん
石木いしきより せいしゅっじんなんじめいつげなのらさね
てんあめかば なんじがまにまに
ならば 大君おおきみいます
このらす 日月じつげつしたした
てんくもあまくもこうふくむかふきわ
たにぐくの さわたきわ
こししょくこくのまほらぞ
かにかくに しきまにまに しかしかにはあらじか    (5・はち〇〇)

反歌はんか

ひさかたの 天道てんとうとおし なほなほに いえかえりて ぎょうをしまさに (5・はちいち

*1 「あるひと父母ちちははを〜うたいわく」までの大意たいい以下いかとおり。「あるにんがいて、父母ちちはは尊敬そんけいすることはっているが、親孝行おやこうこうをしてやしなうことをしようとせず、妻子さいしのこともほったらかして、あたかもぬげぎてたものよりもこれをけいんじて、ばいぞく先生せんせい自称じしょうしている。さかんな意気いきそら青雲せいうんうえにものぼらんばかりだが、自分じぶん自身じしん相変あいかわらず俗世ぞくせちりにまみれている。仏道ぶつどう修行しゅぎょうんだ聖者せいじゃという、おおやけけん証明しょうめいしょもなく、このひと山沢やまさわ亡命ぼうめいしたみんなのであろうか。そこで、三綱さんこう(ここは寺院じいん役職やくしょくではなく、君臣くんしん父子ふし夫婦ふうふみちをいうか)をしめし、五教ごきょうちちよしははは慈、あにともおとうとじゅんこう、という人間にんげんが実践じっせんすべきいつつのおしえのこと)をさらにくべく、こんなおくり、そのまよいをなおさせることにする。そのうたというのは、」

ばいぞく先生せんせい」の「ばい」はそむくという意味いみで、世俗せぞくけた隠遁いんとんしゃ意味いみします。「先生せんせい」は多少たしょう皮肉ひにくめた敬称けいしょうとされています。その先生せんせいたいし、「家族かぞくはともにあるべきであって、かたときもはなれるべきではない」、「その愛惜あいせきさいたるものである家族かぞくやぶれたくつててしまうかのように人間にんげんは、ひとではない」と批難ひなんしたうえで、「御前ごぜんひとなのだろうから、名前なまえうてみよ」とせまっています。だいさんだんは、「地上ちじょうにあるかぎりは、たとえ山沢やまさわかくれようとも、すべて大君おおきみ統治とうちなさっている国土こくどなのだから、あれこれわがままにすべきではないぞ」とさと内容ないようになっています。

反歌はんかでは、「いえかえって生業せいぎょうせいしゅっせ」とさとしています。「しまさに」は「しまさね」とおなじで、命令めいれいちかいがやや丁寧ていねい表現ひょうげんで「~しなさい」のばいぞく先生せんせいたいして敬意けいいはらってはいるようですが、多少たしょう揶揄やゆしています。

朝廷ちょうていつからないようげていたばいぞく先生せんせいですが、住所じゅうしょされ、さらには国守こくしゅである憶良からさとすようなうたおくられてくる。これは背筋せすじこおりますよね。ばいぞく先生せんせい当時とうじ知識ちしきそうですので、恫喝どうかつ揶揄やゆ、からかいよりも、むしろ一定いってい敬意けいいはら態度たいどのほうが効果こうかてきです。「ひさかたの天道てんとうとおし」とまともに修行しゅぎょうをしていない弱点じゃくてんをピシャリとさえたうえで、「先生せんせいいえもどられませ」というのだからのがれようがありません。

やくからのがれたいわたしそう増加ぞうか

うたまれたばいぞく先生せんせいとはどういう存在そんざいなのかを時代じだい背景はいけいからかんがえてみましょう。憶良のきた奈良なら時代じだい国家こっか仏教ぶっきょう時代じだいで、大官大寺だいかんだいじ薬師寺やくしじみやつこてらするなど、仏教ぶっきょうによる鎮護ちんご国家こっか思想しそう推進すいしんしていました。

仏教ぶっきょう近代きんだい象徴しょうちょうだった

「この時代じだい日本にっぽんは、663ねん白村はくそんおののいでとうしん連合れんごうぐんやぶれた敗戦はいせんこくです。民衆みんしゅうにも大陸たいりく朝鮮半島ちょうせんはんとう文化ぶんか優位ゆういせいが拡がり、国内こくない動揺どうようなかで672ねんみずのえさるらんがこる。そして、藤原ふじわらきょう時代じだい平城京へいじょうきょう時代じだいへと遷るなかで、国家こっか安泰あんたいのシンボルとしてあらわれたのが仏教ぶっきょうです。それまでの日本にっぽん神様かみさまえないものでした。しかし、仏教ぶっきょうは〈キンピカ〉の仏像ぶつぞうというえるかたちで輸入ゆにゅうされた。しん時代じだい到来とうらい予感よかんさせる『流行りゅうこうひん』のいちめんがあり、おまけに医療いりょうなどの現世げんせい利益りえきうったえる特徴とくちょうもあったから影響えいきょうりょくおおきかった。もちろん、過去かこにも仏教ぶっきょう信仰しんこうはありましたが、奈良なら時代じだいは『仏教ぶっきょう=近代きんだい象徴しょうちょう』というかんがえのなかで、政治せいじてき利用りようされたのです」

ですが、仏教ぶっきょう出家しゅっけ前提ぜんていとしているので、国家こっか基本きほんである「いえ」と「家族かぞく」をおどかしかねません。そこで、仏教ぶっきょう国家こっか統制とうせいにおく処置しょちがいくつもこうじられています。律令りつりょうにおける「僧尼そうにれい」は27箇条かじょうのうち18箇条かじょう禁止きんし刑罰けいばつ規定きてい神官しんかん関連かんれんした「神祇じんぎれい」では、禁止きんし事項じこうは20箇条かじょうのうち1箇条かじょうだけなので、いかに僧尼そうにたいする禁止きんし刑罰けいばつ規定きていおおいかがわかります。

僧尼そうにれいれい

*引用いんようは『律令りつりょう』(日本にっぽん思想しそう大系たいけい、216 ぺーじ~ 岩波書店いわなみしょてん)。一部いちぶ訓読くんどくあらためている。

およ僧尼そうにうえつかたげんぞうかんて(天文てんもん観測かんそく)、かりいつはつてわざわいさちき、かたり国家こっかことこつかに及び、百姓ひゃくしょうを妖惑し、并せて兵書へいしょを習ひみ、ひところし、奸し、ぬすめし、及びいつわりいつはりてせいみちたりとたたえせらば、なみならび法律ほうりつりて、宮司ぐうじづけさづけてつみおほせよ。
僧尼そうにれい だいいちじょう

法律ほうりつしたがってつみせられるのは以下いかのようなおこない。

勝手かって天文てんもん観測かんそくし、国家こっかすえ禍福かふくかたり、民衆みんしゅう扇動せんどう
兵法ひょうほうもちいたり、殺人さつじんなどの犯罪はんざいおかした場合ばあい
虚偽きょぎに「さとりをた」などとしょうした場合ばあい

 およ僧尼そうにてらいんあらずして、べつ道場どうじょうてて、しゅうあつめて教化きょうかし、并てみだりにつみぶくき、およちょう宿やどちようしゆく長老ちょうろう宿徳しゅくとくひとたかとくゆうする老人ろうじん)をなぐげきたば、みな還俗げんぞくくにぐん宮司ぐうじりて禁止きんしせずは、りつりてつみせよ。れ、乞食こじきするものらば、三綱さんこう(その寺院じいん統轄とうかつする僧職そうしょくもの連署れんしょして、くに郡司ぐんじけいれよ。精進しょうじんくだりなりといふことをかんかんがりなば、はんことわりてゆるせ。きょうないは仍りて玄蕃げんばげんばん玄蕃げんばげんばんりょうのことできょうない寺院じいん管轄かんかつ部署ぶしょ)にれてらしめよ。なみうまうまのときより以前いぜんはちささげてげ乞ふべし。此にりてさらもの食物しょくもつ以外いがいのもの)を乞ふことじ。

寺院じいん以外いがいで勝手かって道場どうじょうて、民衆みんしゅう教化きょうかすることの禁止きんし
年長ねんちょうしゃへの暴力ぼうりょく禁止きんし仏教ぶっきょうてき知恵ちえよりも伝統でんとうてき知識ちしき優先ゆうせんさせる姿勢しせいがあらわれている)
●「乞食こじき(いわゆる托鉢たくはつのこと)」をするときには、地方ちほう場合ばあいくにぐんへの申請しんせいが必要ひつよう郡司ぐんじ修行しゅぎょうなら許可きょかしてもよい。
きょうないでの托鉢たくはつは、中央ちゅうおう寺院じいん監督かんとく部署ぶしょへのとどが必要ひつようとど時刻じこく指定していされており、金品きんぴんなどの授受じゅじゅ禁止きんし

仏教ぶっきょう振興しんこう普及ふきゅうすすめながら、民衆みんしゅう教化きょうかきびしく制限せいげんするという矛盾むじゅんした施策しさくのもとで、平城京へいじょうきょう遷都せんと大仏だいぶつ建立こんりゅう、さらにきょうひとしきょう遷都せんと長岡京ながおかきょう遷都せんとといった過重かじゅう負担ふたん民衆みんしゅうにのしかかり、くわえて天災てんさいともな飢饉ききんちをけました。そのなかで、得度とくど僧尼そうにになったもの戸籍こせきには記載きさいされずに僧尼そうに名籍めいせき登載とうさいされるので、税金ぜいきんなどのやくかりません。そこで、くるしいやくからのがれるために僧尼そうに転化てんかしようとするもの増加ぞうかします。たとえば、養老ようろう(717)元年がんねんよんがつみずのえたつ(3にち)の元正がんしょう天皇てんのうみことのりにはつぎのようにあります。

ごろしゃこのごろ百姓ひゃくしょう法律ほうりつそむたがえたがひて、ほしいままほしきまにまにそのじょうまかせ、かみかみびんびんびん俗字ぞくじかお両側りょうがわかみ)をりて、たやす道服どうふくだうふくる。かほ桑門そうもんさうもんて、じょうには姧盗けんたうはさみはさむことは、詐偽さぎいつはりしょうずる所以ゆえんゆゑにして、かんかんくゐ(「かん」はそとにいる悪人あくにん、「宄」はうちにいる悪人あくにんのこと)これよりおこる。
行基ぎょうき無道むどうぶりを指弾しだんする内容ないよう中略ちゅうりゃく―)
僧尼そうには、仏道ぶつどうりて、神呪かんのうもちしておぼれるるともがらすくえひ、やくほどこしてしこりびょうこびやういやすことれいゆるす。ほうまさいま僧尼そうにたやす病人びょうにんいえこうひ、いつわりいつはりて幻怪げんかいじょういのり、もどりて巫術ふじゅつり、ぎゃくさかしま吉凶きっきょううらないひ、ほけもうぢ老若ろうにゃくのこと)をこわおそおびえおびやかして、ややややもとむることらむこといたす。道俗どうぞくべつく、おわりひに姧乱しょうず。
(『ぞく日本にっぽん』、養老ようろう元年がんねんよんがつみずのえたつ

この箇所かしょには、百姓ひゃくしょう勝手かって剃髪ていはつして僧侶そうりょ服装ふくそうをし、容貌ようぼう僧侶そうりょせてしん悪人あくにんというものがいることがべられています。さらに、最近さいきん勝手かって病人びょうにんがいるいえき、怪異かいいがあるかのようにいつわっていのり禱し、もどってきては巫術ふじゅつもちいて、虚偽きょぎ吉凶きっきょううらなうなどをして老若ろうにゃく恐怖きょうふあたえて、利益りえきようとするものがいることにも注意ちゅういはっしています。

ここで注意ちゅういしたいのは、僧尼そうにがみだりに病気びょうき治癒ちゆして報酬ほうしゅうているてんです。現世げんせい利益りえきとしての医療いりょう行為こうい仏教ぶっきょう付随ふずいしているため、貴族きぞく民衆みんしゅうがわには僧尼そうにもとめる背景はいけいがありました。僧尼そうに朝廷ちょうていから「おおやけけん(くげん)」という証明しょうめいしょ発行はっこうされてはじめてなることができる、いわば特権とっけん階級かいきゅう変装へんそうしただけでは僧侶そうりょとしてはみとめられません。しかし、やくからのがれるために僧侶そうりょになろうとするひとたちがいて、世間せけんてきにも僧尼そうに需要じゅようがあったことから、私的してき僧尼そうに名乗なのわたしそう増加ぞうかしたのが奈良なら時代じだいでした。

出自しゅつじ不明ふめいなたくさんのそうたち

ぞく日本にっぽん』のかみひさしもと(724)ねん10がつ1にち記事きじには、当時とうじわたしそうおどろきの実態じったいかれています。

 きょう諸国しょこく僧尼そうに名籍めいせきかんけんふるに、あるい入道にゅうどうもとよし、披陳あきらかならず、あるいめいつなちょうそんすれども、かえりてかんせきち、あるい形貌なりかたち・黶、すであいあたらぬは、揔ていちせんいちひゃく廿にじゅうにん(1,122にん)。

(『ぞく日本にっぽん』、かみひさし元年がんねんじゅうがつちょう

名籍めいせき不備ふび入道にゅうどう由来ゆらい不明ふめい僧尼そうにや、そうつなちょう名前なまえ記載きさいされていてもかんせきちょうには入道にゅうどう以前いぜん名前なまえがない、あるいは本人ほんにん容貌ようぼうせきちょう記載きさいされている容貌ようぼう特徴とくちょうとが一致いっちしないという僧尼そうにが、なんと1,122めいもいたのです。「きみたちはいったいどこからたのか?」といたくなりますが、死亡しぼうした僧尼そうに名前なまえをそのまま踏襲とうしゅう襲名しゅうめいしていたり、他人たにん名前なまえりて出家しゅっけ入道にゅうどうしているものがいたようです。この記事きじには朝廷ちょうてい管理かんり統制とうせいしている僧尼そうにについてしるされているのですが、得度とくどをしたことを証明しょうめいするはずの「おおやけけん発行はっこうもかなりずさんな状況じょうきょうであったことがわかります。

ほかにも大勢おおぜいせきちょう記載きさいされない僧尼そうにがいたと推測すいそくされ、当然とうぜんながら、朝廷ちょうてい管理かんり寺院じいんなどで得度とくどけずに、勝手かって僧尼そうに名乗なのわたしそうはさらに存在そんざいしたとかんがえられます。ばいぞく先生せんせいさとうたではたずねていますが、これは身元みもと確認かくにんするためにそうつなちょう入道にゅうどう記録きろくせきちょうとを照合しょうごうしているからです。このうた時代じだいせいなかにあることがわかります。この時代じだいせいうた読解どっかい重要じゅうよう要素ようそなのです。

うためられた仏教ぶっきょう批判ひはん

もういちしゅ、みなさんがよくっている山上憶良やまのうえのおくらうたをみることにしましょう。

とうおもうたいちしゅ【并せてじょ

釈迦如来しゃかにょらい金口きんぐちこんくただしまさしくきたまはく、「衆生しゅじょうしゆじようひとしひとしくおもふこと、睺羅らごらのごとし」と。またきたまはく、「あいするはぎたりといふことなし」と。至極しごく大聖たいせいすらに、なおなほあいしたまふしんあり。きょういはんや、世間せけん蒼生そうせいあをひとくさだれあいせざらめや。

ふりめばどもおもえほゆ ぐりめばましてしのべはゆ いづくよりきたりしものそ まなかひにもとなかかりて 安眠あんみんしなさぬ     (5・はち

反歌はんか

ぎんかねたまもなにせむにすぐれる宝子たかこに及かめやも   (5・はちさん

序文じょぶんでは、釈迦如来しゃかにょらいが「衆生しゅじょう平等びょうどうおもうことは、ラゴラをおもうのとおなじだ」、「あいゆえのまよいはまさるものはない」といたとし、「釈迦しゃかのような無常むじょうだい聖人せいじんでさえ、やはり愛着あいちゃくするしんがおありなのだ。まして、世間せけん人々ひとびとで、だれあいさないことがあろうか」とべています。ですが、釈迦しゃかがそんなことをくはずがありません。仏教ぶっきょう思想しそうでの「あい」は、対象たいしょうへの執着しゅうちゃく惑溺わくできわくでき意味いみし、それ自体じたい罪悪ざいあくであり煩悩ぼんのうひとつであり、出家しゅっけさい釈迦しゃかがまっさきにてたのがであるラゴラだからです。

このてんは「憶良は仏教ぶっきょう曲解きょっかいしている」ともわれますが、素直すなおうたいちしゅめば「まさたからはない」とんでいるので、親子おやこあい否定ひていする仏教ぶっきょう批判ひはんする立場たちばっているとかんがえられます。

時代じだいせいから紐解ひもと萬葉集まんようしゅう幅広はばひろ

憶良のきた時代じだいは、わたしそう社会しゃかい問題もんだいして、家族かぞくという枠組わくぐみが崩壊ほうかいしつつありました。天皇てんのう皇統こうとう親子おやこ関係かんけいというもっとも素朴そぼく血縁けつえん血統けっとうとするもの。やや粗雑そざつないいかたですが「いえ」という単位たんいこそが日本にっぽん国体こくたい国家こっかかん)の根幹こんかんでした。

一方いっぽうで、当時とうじ近代きんだい象徴しょうちょうであった仏教ぶっきょう出家しゅっけもとめます。それだけに、導入どうにゅう当初とうしょから「いえ」の崩壊ほうかい懸念けねんされました。ばいぞく先生せんせいに「いえレ」とさとうたはまさにその時代じだいせいなかにあります。また、「とうおもうた」はばいぞく先生せんせいさとうた直後ちょくごおさめられていることからも、親子おやこ関係かんけい素材そざいとする憶良の作品さくひんには、仏教ぶっきょう思想しそうめぐ当時とうじ時代じだいせい色濃いろこ反映はんえいしていることがかります。

とすれば、冒頭ぼうとうの「憶良ら」のうた子煩悩こぼんのう作者さくしゃによる惚気のろけのろけだろうかとなお意義いぎはあります。このうたひとたちにもわたしそう社会しゃかい問題もんだい共有きょうゆうされているはずです。「憶良ともども、みんな家族かぞくいえかえりましょう」とは、その時代じだいきるひとたちや社会しゃかいげかけられたうたであったとはいえないでしょうか。宴席えんせきから退出たいしゅつするうたわたしそうめぐ政治せいじてきなプロパガンダの意味いみめることで、この時代じだいきた宴席えんせき参加さんかしゃには「同意どういするよ」という意味いみでのわらいをさそったのでしょう。そのようにみるなら、「憶良ら」の接尾せつびラは謙譲けんじょう表現ひょうげんではなく、憶良をふくめた我々われわれ複数ふくすうあらわすとみるほうが、語法ごほうてきにも無理むりがありません。

憶良以前いぜんうたは「きれいや」、「きや」という感情かんじょううたっていましたが、憶良は「わたしそうおおい」、「家族かぞくてよる」と社会しゃかい世相せそううたなかんでいます。そこが歌人かじんとしての憶良の特殊とくしゅさです。『萬葉集まんようしゅう』はそうした社会しゃかい批評ひひょうてきうたもあり、とてもはばひろい。それゆえにいちめんてき理解りかいむずかしいですが、様々さまざま授業じゅぎょうまなんで、総合そうごうてきとらえると、いろいろなものを醍醐味だいごみあじわえる作品さくひんです。


 

さの・ひろし
1970ねん奈良ならまれる。大阪市立大学おおさかいちりつだいがく大学院だいがくいん文学ぶんがく研究けんきゅう博士はかせ後期こうき課程かてい修了しゅうりょう福岡大学ふくおかだいがく人文学部じんぶんがくぶ助教授じょきょうじゅ武庫川女子大学むこがわじょしだいがく文学部ぶんがくぶじゅん教授きょうじゅ京都きょうと大学だいがく大学院だいがくいん人間にんげん環境かんきょうがく研究けんきゅうじゅん教授きょうじゅて、2020ねんから現職げんしょく

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