県立けんりつ図書館としょかん所蔵しょぞう資料しりょうのうち、むかしひと名前なまえさがすことのできる資料しりょう紹介しょうかいします。
対象たいしょうとしているのは、おもに江戸えど時代じだい分限ぶげんちょうなどです。
郷土きょうど人名じんめい辞典じてんなどにはっていないひとたちの名前なまえさがしてみてください。
分限ぶげんちょう=おもに武士ぶし氏名しめい役職やくしょく、俸禄などをしるした帳簿ちょうぼのこと。

長島ながしまはん

長島ながしままち上巻じょうかん

増山ますやま家格かかくろく便覧びんらん」をもとに作製さくせいされた一覧いちらんひょう所収しょしゅう解題かいだい(156ページ)に慶応けいおうさん(1867)ねんのものとの記述きじゅつがある。

長島ながしままち上巻じょうかん

桑名くわなはん

桑名くわなはん分限ぶげんちょう

よしみえいもとがつじゅう八日改御家中分限帳」「よしみなが四亥年舞臺格已下分限帳」「萬延元庚申年分限帳」を所収しょしゅう。また、あわせて「にんはん分限ぶげんちょう」「にん家中いえじゅう分限ぶげんちょう」も所収しょしゅう掲載けいさいされているものの身分みぶんことなるが、巻末かんまつ氏名しめい索引さくいんがある。

桑名くわなはん分限ぶげんちょう

桑名くわな博物館はくぶつかん紀要きようだい4ごう

桑名くわなはんの「分限ぶげんちょう」を所収しょしゅう冒頭ぼうとう慶安けいあんよん(1651)としとの記述きじゅつがある。

桑名くわな博物館はくぶつかん紀要きようだい4ごう

天明てんめい由緒ゆいしょ

徒士かち以上いじょう桑名くわな藩士はんし中心ちゅうしんに、その由緒ゆいしょをまとめた「天明てんめい由緒ゆいしょ」の翻刻ほんこくばん巻頭かんとう人名じんめい索引さくいんがある。天明てんめい年間ねんかんは1781ねんから1789ねんまで。

天明てんめい由緒ゆいしょ

桑名くわな博物館はくぶつかん紀要きようだい2ごう

くわはん家中いえじゅう分限ぶげんちょう」、「うつりふう家臣かしん名簿めいぼ」を所収しょしゅう。「くわはん家中いえじゅう分限ぶげんちょう」では、寛政かんせいもと(1789)年頃としごろ桑名くわなはん女中じょちゅうとう名前なまえせられている。「うつりふう家臣かしん名簿めいぼ」は、文政ぶんせいろく(1823)ねん久松ひさまつ松平まつへいにゅうふうされたとき名簿めいぼで、氏名しめいのみがせられている。

桑名くわな博物館はくぶつかん紀要きようだい2ごう

桑名くわなはん史料しりょう集成しゅうせい

つちのえたつせん桑名くわなはん軍制ぐんせい」「ほんませ」「寛政かんせいねん分限ぶげんちょう」「安政あんせいねんかく分限ぶげんちょう」「文久ぶんきゅう元年がんねん家中かちゅう分限ぶげんちょう」が所収しょしゅうされている。「つちのえたつせん桑名くわなはん軍制ぐんせい」は、戊辰戦争ぼしんせんそうころ桑名くわなはんぐん参加さんかしていたもの氏名しめいだけでなく、何処どこでどのように死亡しぼうまたは負傷ふしょうしたかもかる。「ほんませ」は、藩士はんし氏名しめいとそれぞれの履歴りれきしるされている。

桑名くわなはん史料しりょう集成しゅうせい

三重みえけん資料しりょうへん近世きんせい2

文政ぶんせいねん桑名くわなはん分限ぶげんちょう」を所収しょしゅう近習きんじゅ桑名くわな藩士はんしせられている。表書おもてがきに文政ぶんせい(1822)としとある。

三重みえけん資料しりょうへん近世きんせい2

菰野こものはん

三重みえけん資料しりょうへん近世きんせい2

しょ役人やくにん任免にんめん記録きろく」「慶応けいおうねん菰野こものはん分限ぶげんちょう」を所収しょしゅう。「しょ役人やくにん任免にんめん記録きろく」の表書おもてがきには元和がんわ(1615ねんから)以後いごとある。

三重みえけん資料しりょうへん近世きんせい2

菰野こものまち上巻じょうかん

やくせきならびに席順せきじゅん分限ぶげんちょう」をひょうにしたものを所収しょしゅう天保てんぽうじゅう(1844)ねんにおける役職やくしょく氏名しめいろくだかかる。

菰野こものまち上巻じょうかん

亀山かめやまはん

三重みえけん資料しりょうへん近世きんせい1

亀山かめやまはん関家せきや分限ぶげんちょう」を所収しょしゅうせきせき一政かずまさ)が亀山かめやま藩主はんしゅであったのは、関ケ原せきがはら以後いご慶長けいちょうじゅう(1610)ねんまで。

三重みえけん資料しりょうへん近世きんせい1

亀山かめやま地方ちほう郷土きょうどだい3かん

だいいちしょうだいせつ亀山かめやまはん職制しょくせいと其席だか及人めい」を所収しょしゅう天保てんぽうなな(1836)ねん当時とうじ藩士はんしなどの氏名しめいろくだかが、役職やくしょくべつせられている。

亀山かめやま地方ちほう郷土きょうどだい3かん

神戸こうべはん

三重みえけん資料しりょうへん近世きんせい2

ひろし元年がんねん神戸こうべはん分限ぶげんちょううつし」「文化ぶんかななねん神戸こうべはん分限ぶげんちょううつし」を所収しょしゅう

三重みえけん資料しりょうへん近世きんせい2

はん

藤堂とうどうはん(久居ひさい)功臣こうしん年表ねんぴょう

そう国史こくし」などにふくまれている「功臣こうしん年表ねんぴょう」「伊賀いが分限ぶげんろく」「藤堂とうどうはん家中かちゅう住所じゅうしょ人名じんめいひかえ」「こう猷公御代みよ」に注釈ちゅうしゃくけて所収しょしゅう。「功臣こうしん年表ねんぴょう」は天正てんしょうよん(1576)ねんから寛文ひろふみきゅう(1669)ねんまでの家臣かしん氏名しめいとその功労こうろうかる。「伊賀いが分限ぶげんろく」はとおるじゅう(1730)ねんからのべとおるよん(1747)ねんあいだのものとの注釈ちゅうしゃくがある。「藤堂とうどうはん家中かちゅう住所じゅうしょ人名じんめいひかえ」の冒頭ぼうとうには、文政ぶんせいきゅう(1826)ねんしるされている。「こう猷公御代みよ」のこう猷が藩主はんしゅであったのは、文政ぶんせいはち(1825)ねんから明治めいじ(1869)ねんまで。

藤堂とうどうはん(久居ひさい)功臣こうしん年表ねんぴょう

藤堂とうどうはんしょ軍功ぐんこうろく

藤堂とうどうはん藩士はんし軍功ぐんこうろく」「手負ておいしょさとし」「大坂おおさかじん加増かぞう褒美ほうびさとし」を所収しょしゅう大坂おおさかなつじんでの功労こうろうなどがしるされている。

藤堂とうどうはんしょ軍功ぐんこうろく

藤堂とうどう高虎たかとら家臣かしん辞典じてん増補ぞうほ

藤堂とうどう家臣かしん功労こうろうなどについて、著者ちょしゃがまとめたもの。大坂おおさかふゆじんなつじん兵制へいせいなつじんくびちょう所収しょしゅうしている。巻末かんまつに、「そう国史こくし収載しゅうさいの「功臣こうしん年表ねんぴょう」・「大通だいつうこう以來いらいかげ年表ねんぴょう」を五十音ごじゅうおんじゅんならえた氏名しめいける索引さくいんがある。

藤堂とうどう高虎たかとら家臣かしん辞典じてん増補ぞうほ

えいたもつ記事きじりゃく人名じんめい索引さくいん

えいたもつ記事きじりゃく」に掲載けいさいされている人名じんめい索引さくいん。「えいたもつ記事きじりゃく」は、寛永かんえいじゅうなな(1640)ねんからひろし保二やすじ(1742)ねんにかけての伊賀上野いがうえの城代じょうだい家老がろう日誌にっし人名じんめい索引さくいんは、「名張なばり藤堂とうどう歴史れきし資料しりょう目録もくろく所収しょしゅう補遺ほいへん慶長けいちょうじゅうさん(1608)ねんから寛永かんえいじゅうなな(1640)ねんまで)の人名じんめいふくんでいる。

えいたもつ記事きじりゃく人名じんめい索引さくいん

伊賀いがだい5かん

だいしょうだいいちせつ伊賀いが家臣かしんだん」にたかられきじゅういち(1761)ねんの「こうゆずるいんさま分限ぶげんちょう」などを所収しょしゅう。また、だいさんしょうだいせつあしじん」にはひろし(1845)ねんの「伊賀いがこくあしじんちょう」などを所収しょしゅうしている。

伊賀いがだい5かん

安政あんせいよんねんはん分限ぶげんちょう

安政あんせいよん(1857)ねん分限ぶげんちょうほか藩士はんし住居じゅうきょ所収しょしゅうしている。

安政あんせいよんねんはん分限ぶげんちょう

三重みえけん資料しりょうへん近世きんせい2

こう猷代はん分限ぶげんちょう」を所収しょしゅうあん政六まさろく(1859)ねんうつしとある。

三重みえけん資料しりょうへん近世きんせい2

藤堂とうどうはん山崎やまざき戦争せんそう始末しまつ

山崎やまざきひょうつとむしょごうちょう」と「高浜たかはま戦争せんそうつとむしょ」を所収しょしゅう戊辰戦争ぼしんせんそうさい高浜たかはま大阪おおさか島本しまもとまち近辺きんぺんおこなわれた合戦かっせんとう記録きろく

藤堂とうどうはん山崎やまざき戦争せんそう始末しまつ

名張なばり

とおるいちきゅう(1734)ねんの「家中かちゅう分限ぶげん役付やくづきちょう」と天保てんぽうじゅう(1839)ねんの「家中かちゅう分限ぶげんなみ役所やくしょちょう所収しょしゅう。(343ページから349ページ)

名張なばり

名張なばり史料しりょうしゅうだい7輯

名張なばり藤堂とうどう文書ぶんしょ」の分限ぶげんちょうなどを複数ふくすう所収しょしゅうしている。

名張なばり史料しりょうしゅうだい7輯

久居ひさいはん

久居ひさい下巻げかん

久居ひさいはん藩士はんし一覧いちらん」を所収しょしゅう。「文久ぶんきゅうから慶応けいおう年間ねんかん」との記述きじゅつがある。(344ページから352ページ)

久居ひさい下巻げかん

三重みえけん資料しりょうへん近世きんせい2

久居ひさいはん分限ぶげんちょう」を所収しょしゅう天保てんぽう(1831)ねんにおける久居ひさい藩士はんしなどの役職やくしょく氏名しめいろくだかかる。あしだか家督かとく相続そうぞく時期じき付記ふきしてある。

三重みえけん資料しりょうへん近世きんせい2

られざる久居ひさい藩政はんせい

久居ひさい藤堂とうどう分限ぶげんちょう」を所収しょしゅう冒頭ぼうとうよしみ永六えいろく(1853)ねんよんがつ記述きじゅつがある。(34ページから38ページ)

られざる久居ひさい藩政はんせい

鳥羽とばはん

三重みえけん資料しりょうへん近世きんせい1

鳥羽とっぱはん九鬼家中分限帳写」を2所収しょしゅう寛永かんえいきゅう(1632)ねんまで九鬼くきおさめていたころの鳥羽とば藩士はんしなどの氏名しめいろくだかかる。

三重みえけん資料しりょうへん近世きんせい1

鳥羽とっぱ上巻じょうかん

しむらしゅう鳥羽とっぱ九鬼長門守守隆五万六千石家中分限帳」を所収しょしゅう慶長けいちょう年中ねんじゅう(1596から1615)としとの記述きじゅつがある。(329ページから332ページ)

鳥羽とっぱ上巻じょうかん

その

三重みえくに物語ものがたり

北畠きたばたけ家臣かしんちょう」(目次もくじでは「北畠きたばたけ家臣かしんろく」)として、北畠きたばたけ家臣かしん一覧いちらん所収しょしゅう。「紀伊きいはんろく」と「藤堂とうどうはんあしじん調書ちょうしょ」も所収しょしゅうしている。

三重みえくに物語ものがたり