大相撲おおずもうもと大関おおぜきあさしお先代せんだい高砂たかさご親方おやかた長岡ながおかまつひろしさんが2にち小腸しょうちょうがんのため死去しきょしたことが3にちかった。67さいだった。近大きんだい時代じだいにアマ、学生がくせい横綱よこづなの2かん実績じっせきっさげ高砂たかさご部屋へや入門にゅうもん強烈きょうれつなぶちかましで千代ちよ富士ふじ全盛ぜんせい時代じだい活躍かつやく幕内まくうち優勝ゆうしょうたし大関おおぜきにも昇進しょうしんした。現役げんえき時代じだい同様どうよう引退いんたい陽気ようきなキャラクターから「だいちゃん」の愛称あいしょうしたしまれ、広報こうほう部長ぶちょうなどを歴任れきにん師匠ししょうとして横綱よこづなあさあおりゅう大関おおぜきあさ乃山らをそだてた。65さい定年ていねん翌年よくねんの21ねん6がつ日本にっぽん相撲すもう協会きょうかい退職たいしょく。1ねんまえ発症はっしょうしたがんとたたかいながら懸命けんめいなリハビリ生活せいかつおくっていた。

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突然とつぜん訃報ふほうしんじられない。実感じっかんかなしみもわいてこない。親方おやかたはやすぎます。

相撲すもう担当たんとうになったばかりのころ、日刊にっかんスポーツ評論ひょうろんとしても活躍かつやくしていた親方おやかた相撲すもうのいろはをおそわった。相撲すもうのなんたるかをまなぶため、当時とうじ若松わかまつ部屋へやに1にち入門にゅうもんさせてもらった。

まだ関取せきとりもいない、わか部屋へや活気かっきちていた。ぶつかり稽古けいこでふらふらになり、相撲すもうきびしさをからだあじわいながら、稽古けいこには力士りきしたちと風呂ふろ一緒いっしょにしながらけた。そしてちゃんこをかこませてもらいながら、自分じぶん力士りきしとしての可能かのうせい親方おやかたいた。「じゅうりょうに1かいがって、すぐにちるな」。すこしだけでもみとめてもらったようで、相撲すもう記者きしゃとして頑張がんばろうというおもいになった。

相撲すもうだけでなく、あらゆるスポーツに興味きょうみっていた。あさ稽古けいこにおじゃますると、がり座敷ざしき日刊にっかんスポーツをにする親方おやかた姿すがたかならずあった。じっくり時間じかんをかけ、隅々すみずみまで紙面しめんむ。そしてよくわれた。「アメフトとかラグビーもきなんだよな。そういう競技きょうぎ評論ひょうろん仕事しごとれてくれよ」。実現じつげんはしなかったが、勉強べんきょう熱心ねっしん親方おやかただった記憶きおくつよい。

春場所はるばしょまえ大阪おおさか宿舎しゅくしゃばれた。「おい、こいつをとけ。つよくなるぞ」。その視線しせんさきにいたのは入門にゅうもんしたばかり、まだせんほそいのちの横綱よこづなあさあおりゅうだった。たしかにものすごくつよくはなったが…。素質そしつを「」はたしかだった。酒席しゅせき一緒いっしょにさせていただいたときも、大相撲おおずもうかい将来しょうらいあつかたっていた。あつたましいとともに天国てんごく旅立たびだってしまわれたのか。はやすぎます。【大相撲おおずもう担当たんとう 実藤さねとう健一けんいち