安部あべ公房こうぼう写真しゃしん集しゅう―PHOTOWORKS BY KOBO ABE―

　四よん十じゅう年ねんちかくも前まえの話はなしだが、安部あべ公房こうぼうの写真しゃしん作品さくひんを留学りゅうがく先さきであるフィレンツェの美術びじゅつ学校がっこうの課題かだいとして描えがいたことがある。日本にっぽんから送おくってもらった刊行かんこう直後ちょくごの『死しに急いそぐ鯨くじらたち』を手てに取とり、読よみ進すすめていると不意ふいに現あらわれた、ゴミ捨ごみすて場ばに放置ほうちされている冷蔵庫れいぞうこの写真しゃしんを目めにした瞬間しゅんかん、「これを絵えにしよう」という決意けついが芽生めばえた。
　その数すう週間しゅうかん後ごに仕上しあがったのは、廃棄はいき物ぶつに覆おおわれた光景こうけいの中心ちゅうしんに、影かげのように黒くろい猫背ねこぜの男おとこが背中せなかを向むけて画面がめんの奥おくに配置はいちされているという構図こうず以外いがい、使つかった絵えの具ぐも黒くろと白しろだけの完全かんぜんな写真しゃしんの描えがき写うつしだった。教官きょうかんはそれを見みて「暗鬱あんうつな絵えだな」とひとこと言いったきり、たいした評価ひょうかはしてくれなかったが、同おなじアパートの階下かいかに暮くらしていたドイツ人じんの女性じょせい哲学てつがく者しゃからぜひ譲ゆずって欲ほしいと頼たのまれ、家賃やちんを払はらうお金かね欲ほしさに二束三文にそくさんもんで手放てばなしてしまった。あの絵えが今いまはどこにあるのかわからないが、この時ときから私わたしは安部あべ公房こうぼうを写真しゃしん家かとしても認識にんしきするようになったように思おもう。
　既すでに『箱はこ男おとこ』の文庫本ぶんこぼんを通つうじて安部あべ公房こうぼうが写真しゃしんを撮とる作家さっかであることは知しっていた。印画いんが紙しに荒あらい粒子りゅうしで捉とらえられた、シャッターを閉とじた宝たからくじ売うり場ばの前まえに佇たたずむ（または直進ちょくしんしている）男おとこの後うしろ姿すがたや、車椅子くるまいすに乗のった少女しょうじょと老婆ろうばに付つき添そいの人々ひとびと。荷物にもつを自転車じてんしゃに積載せきさいして移動いどうしている路上ろじょう生活せいかつ者しゃに、男性だんせい便所べんじょで一いち列れつに並ならんで用ようを足たす男おとこたち。人間にんげんたちがそれぞれ毎日まいにち排出はいしゅつしているため息いきの澱よどみが沈殿ちんでんしたかのような空気くうきの中なかで、ダンゴムシのごとく蠢うごめいている輪郭りんかく線せんの曖昧あいまいな人々ひとびと。安部あべ公房こうぼうは自身じしんの撮影さつえいについて、意識いしきしないような瞬間しゅんかんの切きり取とりが何なによりも重要じゅうようだと語かたっているが、鬱屈うっくつした暮くらしでつのる怒いかりや苦悩くのうを、納得なっとくのいく作品さくひんに昇華しょうかすることもできないもどかしさと失望しつぼう感かんを自分じぶんに抱だいていた私わたしは、そこが砂すなであろうと、荒野あらのであろうと、アスファルトであろうと、人間にんげんたちが生息せいそくしている場所ばしょに根付ねつく、老廃ろうはい物ぶつや土着どちゃくの匂においをあらゆる手段しゅだんで切きり取とることのできる安部あべ公房こうぼうに、強つよい羨望せんぼうを覚おぼえたものだった。
　この写真しゃしん集しゅうのゲラを眺ながめているうちに、当時とうじのあの頃ころの悶々もんもんとした感覚かんかくが蘇よみがえってきてなんとも恥はずかしい気持きもちになってしまったが、もうひとつ長ながい年月としつきを隔へだて感かんじたのは、それぞれの写真しゃしんの内側うちがわに潜ひそんでいる安部あべ公房こうぼう作品さくひんへのアプローチである。
　写真しゃしん集しゅうの編へん・デザインを担になった近藤こんどう一弥かずや氏しの解説かいせつによると、安部あべ公房こうぼうが残のこしたネガフィルムは一いち万まんカット以上いじょうで、撮影さつえい量りょうが最もっとも増ふえていたのは『箱はこ男おとこ』と「安部あべ公房こうぼうスタジオ」立たち上あげの頃ころだという。『箱はこ男おとこ』は主人公しゅじんこうがカメラマンという設定せっていなので、潜もぐった箱はこに開あけた覗のぞき穴あなから彼かれの目めが捉とらえているに違ちがいない光景こうけいを、同おなじ立場たちばを意識いしきして撮とり続つづけたのがこの作品さくひんで使つかわれている写真しゃしんなのだろう。しかし、こうして見みると、特定とくていの作品さくひんに紐ひも付つける予定よていがあったわけでもないはずの写真しゃしんも、彼かれの文字もじによって展開てんかいされる世界せかい観かんとぴったりベクトルがシンクロしていることに気きがつく。『方舟はこぶねさくら丸まる』にしろ『砂すなの女おんな』にしろ、新潮社しんちょうしゃから刊行かんこうされる安部あべ公房こうぼうの文庫本ぶんこぼんに氏しの写真しゃしんが使つかわれているのを目めにするたび、まるでそのために撮とり下おろしたと思おもえるくらいピッタリな写真しゃしんがよくあったものだと感心かんしんしていたが、写真しゃしんだけではなく、EMSシンセサイザーを導入どうにゅうして作つくったブライアン・イーノ風かぜの音おと源げんも、抽象ちゅうしょう的てきなイラストも、トイレットペーパーの芯しんで作つくったオブジェも、彼かれにとっては文字もじによるデジタル化か以前いぜんの、感覚かんかく的てきな要素ようそで耕たがやされた土壌どじょうのようなものなのかもしれない。最初さいしょに文章ぶんしょうを作つくり、そこからことばでは補おぎなえない絵えを立たち上あげていく私わたしの漫画まんが創作そうさくとは完全かんぜんに逆ぎゃくの方法ほうほうだが、安部あべ公房こうぼうという人ひとの方向ほうこう性せいのぶれなさには本当ほんとうに感心かんしんしてしまう。
　それと、もう一いち点てん。これはあくまで漫画まんが家かである私わたしによる極きわめて私的してきな見解けんかいだが、この写真しゃしん集しゅうを見みていると、不意ふいにつげ義春よしはるの景色けしきや人々ひとびとの描写びょうしゃが思おもい浮うかぶことがあった。安部あべ公房こうぼうもつげ義春よしはるも人間にんげん社会しゃかいに打うちひしがれつつも旺盛おうせいな好奇心こうきしんで分析ぶんせきを怠おこたらない表現ひょうげん者しゃである。つげ義春よしはるはそれこそ安部あべ公房こうぼうが嫌きらう私小説ししょうせつ作家さっかの漫画まんが家か版ばんとも言いえるが、たとえばこの写真しゃしん集しゅうの作品さくひんをつげの絵えに置おき換かえてみると全まったく違和感いわかんがない。それはおそらく、安部あべ公房こうぼうの写真しゃしんも、つげ義春よしはるの漫画まんがも、作家さっかの思想しそうや意図いとを消失しょうしつさせ、読よみ手ての中なかに内在ないざいする心象しんしょうを容赦ようしゃ無なく突つきつける黒くろと闇やみの効果こうかを効果こうか的てきに用もちいる表現ひょうげん者しゃだからだろう。意外いがいな組くみ合あわせではあるが、自分じぶん的てきには納得なっとくのいく解釈かいしゃくなのだった。

（やまざき・まり　漫画まんが家か／文筆ぶんぴつ家か／画家がか）

波なみ　2024年ねん10月がつ号ごうより
単行たんこう本ほん刊行かんこう時じ掲載けいさい