街まちとその不確ふたしかな壁かべ

　小説しょうせつにはふたつの世界せかいが存在そんざいする。ひとつは私わたしたちになじみ深ふかい現実げんじつ世界せかいだ。生活せいかつがあり、人間にんげん関係かんけいがある。そこで生いきる十じゅう七なな歳さいのぼくに、もうひとつの世界せかいの存在そんざいを教おしえてくれるのは、十じゅう六ろく歳さいのガールフレンドである。彼女かのじょは、この現実げんじつにいる自分じぶんはほんものではなく、そのもうひとつの世界せかい、「高たかい壁かべに囲かこまれた街まち」に暮くらしているのがほんものの自分じぶんだと言いう。そしてあるとき、彼女かのじょは忽然こつぜんと姿すがたを消けす。
　四よん十じゅう五ご歳さいになった「ぼく」は穴あなに落おち、気きづくとそのもうひとつの世界せかいにいる。そこでは人ひとは影かげを持もたない。時間じかんが存在そんざいせず、音楽おんがくも映画えいがもなく、図書館としょかんには本ほんではなく古ふるい夢ゆめが並ならんでいて、冬ふゆになると街まちの内外ないがいを行いき来きする単たん角かく獣じゅうたちは死しんでいく。人ひとは夢ゆめを見みないし涙なみだを流ながさない。そして死しなない。かつてのガールフレンドは、だから十じゅう六ろく歳さいのまま、その世界せかいで暮くらしている。その世界せかいで生いきる決意けついをしたのに、語かたり手てはなぜか現実げんじつ世界せかいに戻もどってしまう。
　第だい二に部ぶには、現実げんじつ世界せかいに生いきる意味いみを見みいだせない（見みいだせなかった）人にんたちが登場とうじょうする。決意けついと裏腹うらはらに現実げんじつに帰きされた「私わたし」もそうだし、「私わたし」がしたしくなるもと図書館としょかん長ちょうもそうだった。現実げんじつ世界せかいのルールから外はずれている少年しょうねんも登場とうじょうする。彼かれらは現実げんじつ世界せかいでない場所ばしょを求もとめている。
　壁かべに囲かこまれた世界せかいはいかにも不気味ぶきみで、黄泉よみの国くにを思おもわせるのだが、そこで暮くらす自分じぶんが「本当ほんとうのわたし」だというガールフレンドの言葉ことばを信しんじるならば、プラトンの説とくイデア界かいみたいなものなのかもしれない。そちらが本質ほんしつであり、現実げんじつ世界せかいで私わたしたちが目めにするものはそれらの影かげで、私わたしたち自身じしんが仮かりの姿すがたである。
　あまりに大おおきな喪失そうしつを抱かかえてしまった場合ばあい、人ひとはこちらの世界せかいに生いきる意味いみを見失みうしなう。この現実げんじつで、心こころもしくは意識いしきがあるかぎり、喪失そうしつは埋うめられない。そのことに耐たえられず、生いきることを放棄ほうきする人ひともいるけれど、でもたいていの場合ばあい、喪失そうしつを抱かかえたままこちら側がわで生いきる。いのちを断たつことは、べつの世界せかいにいくことではないと知しっているからだ。万まんが一いちにもそんな世界せかいがあったとして、そこで死者ししゃに会あえるという保証ほしょうはない。
　しかし小説しょうせつの「私わたし」や毎日まいにち図書館としょかんに通かよう少年しょうねんは、死しすら超越ちょうえつした、もうひとつの世界せかいがあると知しっている。描えがかれるその世界せかいは私わたしにとって魅力みりょく的てきな場所ばしょではないが、彼かれらはそちらのほうが本当ほんとうかもしれないとも思おもっている。でも彼かれらに選えらぶ自由じゆうは与あたえられていない。意志いしによって行いき来きはできない。
　では、それ以外いがいでは選えらぶ自由じゆうはあるのだろうかと私わたしはふと考かんがえる。現実げんじつに戻もどされた「私わたし」が仕事しごとを辞やめ、福島ふくしまの山間さんかんの図書館としょかんで働はたらくのは、選えらんでそうしているというより、見みえざる何なにかの導みちびきによってそうなっている。だれかと出会であう、呪のろいのような恋こいに落おちる、だれかを失うしなう、暮くらす場所ばしょを変かえる、そのすべて、じつのところ、選えらべない。私わたしたちが自由じゆう意志いしで選えらんでいると思おもいこんでいるものごとは、本当ほんとうの世界せかいですでに決定けっていされていることなのかもしれない。興味深きょうみぶかいのは、だれによって決きめられたのかわからない点てんだ。この小説しょうせつに神かみ的てき存在そんざいは登場とうじょうしない。
『世界せかいの終おわりとハードボイルド・ワンダーランド』には、この壁かべに囲かこまれた世界せかいの詳細しょうさいな地図ちずが付ついている。その世界せかいにのみこまれまいと、計算けいさん士しの「私わたし」はいのちからがら地上ちじょうへと脱出だっしゅつするし、壁かべのなかで暮くらす「僕ぼく」も現実げんじつ世界せかいを選えらぶ。しかしこの小説しょうせつにおける「街まち」は、現実げんじつ世界せかいのすぐ近ちかくにあり、そこから私わたしたちは逃のがれられない。いや、私わたしたち自身じしんの奥深おくふかくに、すでにあるのかもしれない。そしてそこには、私わたしたちが失うしなった多おおくのものや人ひとが、時間じかんという概念がいねんから解放かいほうされて存在そんざいしている。小説しょうせつに描えがかれる街まちは不気味ぶきみだが、しかしそう思おもうと、不思議ふしぎにやすらかな気持きもちにもなる。
　この小説しょうせつの核かくは1980年ねんに発表はっぴょうされた中編ちゅうへん小説しょうせつだとあとがきに書かかれていて、私わたしはそのことに驚おどろき続つづけている。この完璧かんぺきな壁かべに囲かこまれた世界せかいは、作家さっかの内うちに在あり続つづけている。幾度いくど書かいても失うしなわれず、年月としつきもそれに手出てだしができない。この小説しょうせつを読よむということは、確固かっことして存在そんざいしているその壁かべの内側うちがわへ、否いや応おうなく連つれていかれる体験たいけんを意味いみしている。帰還きかんできないかもしれなくとも。

（かくた・みつよ　作家さっか）
波なみ　2023年ねん5月がつ号ごうより
単行たんこう本ほん刊行かんこう時じ掲載けいさい

　ぼくはいつもきっかけが創造そうぞうできない。だから絵えを描えがくときの出でだしは自分じぶんから創造そうぞうせずに、ストックしているテクスチャーや気きになる模様もようのマチエールを置おいてみることからはじまる。絵えを描えがくというよりも、絵えを作つくる気持きもちでコラージュするみたいに、積つみ木きをつみ上あげて構築こうちくしていく感かんじに近ちかいかもしれない。そこに新あらたなマチエールや線せんを足たしては引ひいてを繰くり返かえしていく。
　そのうちときどき、面白おもしろいものが現あらわれたと興奮こうふんする。でも、朝あさ起おきて見みるとぜんぜん違ちがうと頭あたまを抱かかえる……。ちょっと気分きぶんを変かえて、小説しょうせつに登場とうじょうする具体ぐたい的てきなモチーフを置おいてみる。
　針はりのない時計とけい台だい、輝かがやかしい金色きんいろの毛けに覆おおわれた単たん角かく獣じゅう、一本いっぽんの美うつくしい川かわとそこに架かかるアーチ型がたの石造いしづくりの橋はし、曲まがりくねった石畳いしだたみの通とおり……。小ちいさな光ひかりがなかなか現あらわれてくれない。いったいどこが終おわりでどこへ行いけば正解せいかいに辿たどり着つけるのか、物語ものがたりの中なかで迷子まいごになっていつまでも彷徨うろつい続つづけてるみたいに。心こころ細ほそい気持きもちを抱かかえながら、不安ふあんでたまらなくなってくる。

　そんな日々ひびを何なん日にちも繰くり返かえして、ふと、ひとつの形かたちを画面がめんに置おいてみる。それはドットが密集みっしゅうした壁かべのような家いえのような生いき物もののような不思議ふしぎで抽象ちゅうしょう的てきな形かたちだった。すると突然とつぜん、妙みょうな魅力みりょくが生うまれた気きがした。
　上手うまく言いえないけれど、それまでの絵えはふわふわと画面がめんから不安定ふあんていに浮ういていたのに、その形かたちが置おかれた瞬間しゅんかん、そこに根ねっこが生はえたのだ。力強ちからづよくもあり奇妙きみょうなユーモアが見みえ隠かくれしてる。
　ようやく掴つかんだこの奇妙きみょうな魅力みりょくが逃にげてしまわないように、必死ひっしで捕つかまえながらまた積つみ木きをつみ上あげていく。この密集みっしゅうしたドットに不思議ふしぎと吸すい寄よせられるようにして、他たの形かたちが自然しぜんに向むこうから近ちかづいてくる。一ひとつ、また一ひとつ……。最後さいごに女性じょせいの姿すがたを中心ちゅうしんに置おくと、やっと絵えに命いのちが生うまれた。というか、ずっと足たりなかった欠片かけらがようやくあるべき場所ばしょにはまった感かんじがした。
　こうしてぼくは版画はんがの下絵したえを、金かねの箔押はくおしになるカバーがどう見みえるのか確認かくにんするために、何なん度ども白黒しろくろを反転はんてんさせながら描えがいていった。積つみ木きをつんで、白黒しろくろを入いれ替かえる。線せんをいれて、また積つみ木きをつんで、また白黒しろくろを入いれ替かえる。同おなじ絵えなのに反転はんてんさせると全まったく違ちがう印象いんしょうになる。白しろと黒くろ、表ひょうと裏うら……繰くり返かえされる反転はんてん作業さぎょうを続つづけているうちに、表裏一体ひょうりいったいの現実げんじつと非ひ現実げんじつの世界せかいを行いき来きするこの物語ものがたりと響ひびき合あって、いつのまにか少すこしずつ今いまのぼくと混まざり合あっていくようだった。どちらが物語ものがたりの世界せかいでどちらが現実げんじつなのだろう……？

　疾走しっそうするような制作せいさくのなかでだんだん周まわりが見みえなくなって浅あさい眠ねむりの日々ひびが続つづいた。
　そのせいで、制作せいさくの過程かていは記憶きおくがぼんやりしていて正確せいかくには覚おぼえていない。本当ほんとうのことを言いえば、なんだか自分じぶんが作つくったような気きがしなかった。終おわりのない旅たびに悪戦苦闘あくせんくとうしていたはずなのにあっさりゴールしたような、気きがついたら突然とつぜんぽろっと転ころがり落おちて出でてきたような不思議ふしぎな感覚かんかくだった。まるで他たの誰だれかの手てを借かりて出来上できあがったみたいに……。『街まちとその不確ふたしかな壁かべ』のために作つくった銅版どうはん画がは、イメージがまるで生いきていて、膨ふくらんでいくような、詩的してきな絵えにしたかった。その人ひとが見みるたびにドローイングの揺ゆれる線せんがざわざわと動うごきだして、奇妙きみょうな形かたちは意味いみをもったり、ときには意味いみを失うしなったりしながら、印象いんしょうを変化へんかさせてくれる生いき物もののように。それがぼくが体験たいけんしたこの物語ものがたりだったから。版画はんがは作つくったその人ひとの気持きもちも一緒いっしょに刷すりあがると思おもっている。この版画はんがに残のこった痕跡こんせきがどこかで誰だれかの心しんをそっと揺ゆらして、小ちいさな入いり口くちの一ひとつになってくれればいいなと思おもった。

　今いま、完成かんせいしたばかりの本ほんを手てに取とってそっと撫なでてみる。本棚ほんだなに飾かざってゆっくり眺ながめる。吸すい込こまれるような真まっ黒くろなカバーの中なかで、絵えが金色きんいろに反射はんしゃする。これ自分じぶんが描えがいたのかな？　と実感じっかんが湧わかずにいると、インクで汚よごれた作業さぎょう机つくえの上うえで刷ずられたあとの銅版どうはんが鈍にぶく光ひかっているのが見みえた。

（ただ・じゅん　版画はんが家か／イラストレーター）
波なみ　2023年ねん5月がつ号ごうより
単行たんこう本ほん刊行かんこう時じ掲載けいさい