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『あなたの迷宮のなかへ―カフカへの失われた愛の手紙―』 マリ=フィリップ・ジョンシュレー、村松潔/訳 | 新潮社
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あなたの迷宮めいきゅうのなかへ―カフカへのうしなわれたあい手紙てがみ

マリ=フィリップ・ジョンシュレーちょ村松むらまつきよしわけ

2,640えん税込ぜいこみ

発売はつばい:2024/02/29

  • 書籍しょせき

20世紀せいき最大さいだい作家さっかてたひゃくつう以上いじょうまぼろし手紙てがみからよみがえる、一人ひとり女性じょせい人生じんせい

没後ぼつごひゃくねんむかえるカフカの恋人こいびととしてられるチェコじん女性じょせいミレナ。カフカから彼女かのじょへの手紙てがみのち出版しゅっぱんされたが、うしなわれてしまったミレナからの手紙てがみにはなにかれていたのか。作家さっかへのあい情熱じょうねつちちおっととの葛藤かっとう、そして自身じしん孤独こどくさけび。別離べつりもカフカをしたつづけ、強制きょうせい収容しゅうようしょ絶命ぜつめいした女性じょせいたましいを、現代げんだい作家さっかよみがえらせる。

書誌しょし情報じょうほう

仮名がな アナタノメイキュウノナカヘカフカヘノウシナワレタアイノテガミ
シリーズめい 新潮しんちょうクレスト・ブックス
装幀そうてい Mitsuru Katsumoto/Assemblage、Bunsei Matsuura/Photograph、新潮社しんちょうしゃ装幀そうていしつ/デザイン
発行はっこう形態けいたい 書籍しょせき
はんがた 四六判しろくばん変型へんけい
ぺーじすう 304ページ
ISBN 978-4-10-590193-6
C-CODE 0397
ジャンル 文学ぶんがく評論ひょうろん
定価ていか 2,640えん

書評しょひょう

特別とくべつエッセイ

錯覚さっかくこいなか

さいはてタヒ

 手紙てがみ言葉ことばは、どこか、そのひとわたしという物理ぶつりてき距離きょりや、境界きょうかい無視むしして、そうした「べつからだをそれぞれにんなのだ」ということをわすれさせて、どこまでも世界せかいけていけるたましいふたつ、共鳴きょうめいしあったり、反発はんぱつしあったりして会話かいわをしているような錯覚さっかくおちいる。まえにそのじんがいない、そのひと自分じぶん言葉ことばにどんな反応はんのうをするのか、リアルタイムでることができない、というのは、なにかをはっするたびに「うまくはつたわっていないのかもしれない」と躊躇ちゅうちょすることをわすれさせ、だんだんと、自分じぶん言葉ことばはどこまでもそのひととどいていくのではないかという期待きたいまれていく。
 それは間違まちがいではないのかもしれない、そうやって相手あいて手放てばなしにしんじてかれる言葉ことばが、がわにとって(意図いととおりにっているかはわからなくても)大切たいせつひかりはなつことはある。なぜなら全身ぜんしんで、全力ぜんりょくで、たましいそのもので、相手あいてしんいてかれた言葉ことばだからだ。うたがうことをらず、あいするという決意けつい以上いじょうのものがある。それはけれど、同時どうじに「肉体にくたいわすれているあいだだけ」可能かのう言葉ことばでもあるのだとおもう。
 どこかで、ひとはそんな期待きたいつねにしているのかもしれない。境界きょうかいがあることをわすれて、全力ぜんりょくしんいて、言葉ことばあづけ、言葉ことばをもらう。きなひとなら尚更なおさら、そんなふうにしんかよわせたい。言葉ことば不確ふたしかで、完全かんぜん気持きもちをつたえることは困難こんなんだとわかっているからこそ、余計よけいに、つたわるとしんじて、けることはしあわせだ。たとえ完全かんぜんにはそうではないのだとわかっていても、自分じぶんしん精一杯せいいっぱいつづれば、そのひとめてくれるとしんじられるなら、その時点じてんつたわるつたわらないに関係かんけいなく、わたしなら「しあわせだ」とおもうだろう。
 この作品さくひんのミレナだってそうだったのだろう。どこまでも、自分じぶん気持きもちをいて、そうしてそのひとめてくれる。それはどんな返事へんじをもらうことより、もしかしたら、理想りそうてき応答おうとうだったのかもしれない。ミレナはある時期じきまでカフカにすべてがつたわるのだとしんじられていた。それはこいともえる。こいだとりないとさえおもう。世界せかい自分じぶんのすべてを祝福しゅくふくされているようなそんな赤子あかごころ感覚かんかくを、もどすような。そんな多幸たこうかんだろう。それをくれるのがただ一人ひとりひとだという実感じっかんが、また途方とほうもない奇跡きせきかんじさせる。

 その奇跡きせきったからこそ、余計よけいに、しんからだ、そのすべてであいすることをミレナはのぞんだ。言葉ことばだけのやりとりではなく、そのこうがわにあるものをのぞんだ。けれど同時どうじに、まえにそのひとがいること、時間じかんくことができないはな言葉ことばでのやりとりが、奇跡きせきによってったしんを、むしろとおざけることもある。言葉ことばでのやりとりでつうえていたような感覚かんかくは、「錯覚さっかく」である可能かのうせいほうたかい、とわたしおもうけれど、ひと錯覚さっかくなかでしかひとあいせないようにもおもう。錯覚さっかくなにがいけないのか、わたしはわからないから、こうくのだけど。錯覚さっかくわるくなくて、錯覚さっかくを「錯覚さっかくだ」とみずをかけてやめさせることがわるいのだ。
 すべてをすようにあいべることはひとにはとてもむずかしく、まぼろしちからりるしかない。

 ひとゆめる。現実げんじつそのものではないもの。そしてそれが現実げんじつることよりもおとっているかというと曖昧あいまいだ。ひとは、不安ふあん不信ふしんや、かなしみや恐怖きょうふを、現実げんじつからのみ見出みいだすのではない。いつもなにかからわれていて、くるしむときほど、それらが現実げんじつのものでなくても、「きっとくる」と確信かくしんしてしまう。そうしたものをけるのは、またべつの、現実げんじつではないなにか。そこにあるからえるのではなく、「わたししんじるから」えるもの。ひとにはしんがあり、感情かんじょうがある、ただの肉体にくたいだけではなく。肉体にくたいとはまったことなる「わたし」が、現実げんじつとはまったことなる「ゆめ」をていられる。それもまたひとつの、そのひと人生じんせい根差ねざした風景ふうけいなのだ。そしてそこにあいがあるのかもしれない。
 だから、錯覚さっかくであることはなに間違まちがいではなく、ただそれでもそれらを「錯覚さっかく」だと意識いしきしてしまう瞬間しゅんかんてしまったらおそろしい。ひとゆめときほど、自分じぶんからだみついた現実げんじつのことを意識いしきする。現実げんじつわすれるためにゆめるのではなく、現実げんじつとなうものとしてゆめるからこそ、現実げんじつてられない。距離きょりたもち、言葉ことばだけであいった二人ふたりが、ちかづこうとするとき、そこにきっとおそれがあって、それは現実げんじつまぼろしってしまう可能かのうせいけっしてまぼろし現実げんじつよりおとることなどないのに、いつもひとまぼろしつらぬこうとすると、くるしむ。それは、現実げんじつてることもまたとても困難こんなんなことだから。そこには愛着あいちゃくがあり、したしんだにおいや、景色けしき音楽おんがくがある。自分じぶん肉体にくたいにうんざりすることはおおくても、その肉体にくたいすべてていくことは案外あんがいできない。ずっときていた現実げんじつには、「現実げんじつであること」以上いじょうむすびつきがあり、その部分ぶぶんれないからこそ、ひとまぼろし現実げんじつ狭間はざまかれるような心地ここちがするのだろう。

「わたしたちのあい不可能ふかのうだったから、あなたはわたしをあいしたのです。」

 物理ぶつりてき距離きょりなど最初さいしょからなく、しんしんれ、しんしんれてもらう、そんな関係かんけいからはじまるものとしてあい見出みだせたら、それは理想りそうてきあいなのだろうか。まぼろしそのものからはじめられるあいうつくしさを否定ひていすることなく、それでもそれらだけではひときていけないと、はっきりとこの作品さくひんえがいている。あいのためにだけひと存在そんざいするのなら最初さいしょから肉体にくたいたない、とわたしおもう。そうして、ひと肉体にくたいつからこそ、どうしようもない現実げんじつつからこそ、それらと地続じつづきになることのないとおくのほしのようなまぼろししんうばわれる。ゆめる。ゆめてにあるあいしんじる。そのほしかって、まっすぐに大地だいちあるくことは、一人ひとり人間にんげん人生じんせいおのれのために真摯しんしきるひとつのじゅつなのだ。たとえ、ほしそのものにたどりはなくても。まっすぐにほしらすそのひとの、背後はいごに、うつくしくびたかげがある。

(さいはて・たひ 詩人しじん

なみ 2024ねん3がつごうより
単行たんこうほん刊行かんこう掲載けいさい

短評たんぴょう

▼Saihate Tahi さいはてゆう

自分じぶんあいが、どれほどふかくて、どれほどやわらかくて、どれほどかわいていて、どれほどしあわせとかなしみにちて、そうしてどれほどおそろしいものなのかを、あい手紙てがみくことで、言葉ことばにして、かみのこすことで、ひとることになる。その、かえしのなかで、「あなたも、わたしあいしてください」とくときにしかせられない覚悟かくごはある。すこしもおそろしくないと、他者たしゃあいげること。無限むげんに、みずからのあい言葉ことばにしたてで、ひろげてせること。この作品さくひんは、そんな覚悟かくご痕跡こんせきです。


▼ActuaLitte アクチュアリッテ

ミレナからカフカへの発見はっけん手紙てがみこすというこの書簡しょかん小説しょうせつこころみは、欲望よくぼう愛情あいじょうをじつに強烈きょうれつえがす。ともにもろさや喪失そうしつかんかかえるなかで、フランツとミレナのあいは、土地とち列車れっしゃ国境こっきょう戦争せんそう時代じだい、ヴィザ、病気びょうきえていく。


▼Le Monde ル・モンド

未完みかん作品さくひんおおいにもかかわらず栄誉えいよよくするというパラドクスにつつまれた、カフカの生涯しょうがい作品さくひんへのがかりになるだろう。


▼マリ=フィリップ・ジョンシュレー  

ミレナへの手紙てがみみはじめるやいなや、わたしにはそこにはいない手紙てがみ相手あいて存在そんざいがありありとかんじられた。“きているほのお”とかれわかおんなこえこえる。そう、フランツ・カフカの手紙てがみんでいると、彼女かのじょはたしかにきている。あたかも自分じぶんがミレナ・イェセンスカーになったかのように、すぐさま返事へんじいて、この手紙てがみのやりとりをみずからなまきずにはいられなかった。

イベント/書店しょてん情報じょうほう

著者ちょしゃプロフィール

1974ねんまれ。ソルボンヌ大学そるぼんぬだいがく現代げんだい文学ぶんがく国立こくりつ東洋とうよう言語げんご文化ぶんか学院がくいん(INALCO)で中国語ちゅうごくごまなんだのち中等ちゅうとう学校がっこう(コレージュ)と高校こうこう(リセ)でじゅう年間ねんかんフランス語ふらんすごおしえる。2024ねん2がつ現在げんざい作家さっかぎょう専念せんねんしている。小説しょうせつに『Diane chasseresse』、『La Mecanique du desir』など。発表はっぴょうしている。

村松むらまつきよし

ムラマツ・キヨシ

1946ねん東京とうきょうまれ。訳書やくしょにイアン・マキューアン『初夜しょや』『ソーラー』『未成年みせいねん』『こいするアダム』、シーグリッド・ヌーネス『ともだち』、マリアンヌ・クローニン『レニーとマーゴで100さい』、ジョン・バンヴィル『いにしえのひかり』、T・E・カーハート『パリ左岸さがんのピアノ工房こうぼう』、エクトール・マロ『いえなき』、ジュール・ヴェルヌ『海底かいていまんさと』など。

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