老舗から新店まで、新たな味と人との出会いを求め古今東西を駆け巡るマッキー牧元さん。そんなタベアルキストが、現在までに出会ってきたさまざまな店や料理の、今は味わうことが難しい“幻の味”の記憶をひもとく。
今から40年前に、レコード会社に入社し、初めて先輩に連れて行かれたマスコミが、四谷の文化放送だった。まだ、みのもんたさんが社員でしゃべっていた時代である。
早速担当となり、日参した。
「あの番組とこの番組のゲストとってこい!とらなきゃ帰ってこなくていいぞ!!」
鬼軍曹だった宣伝課長に命じられて、文化放送に行っては、頭を下げに下げた。
中でも昼の人気番組をやっていた名物ディレクターHさんが、一番難関だった。
裾の広がったズボンに、高い襟のシャツ、セーターを羽織ってサングラスという、世のディレクター像をそのまま形にしたような方だったが、とにかく話しを聞いてもらえない。
デスクに座ったHさんに挨拶しても無視され。レコードを差し出しても、見向きもされない。
これでどうやってゲストをとるのか。
ひたすら粘るしかないと、デスクの横で、無視され続けてもかまわず、宣伝文句をしゃべっていた。見られていなくても、ひたすら頭を下げた。
そうしたらある日。
「おめえ、うるせえんだよ。二度と俺のとこに来るな!!」と、怒鳴られた。
文化放送の目の前にあったラーメン屋が、「温州軒」である。
普通の、いたって普通の東京ラーメンが好きで、文化放送へ行くたびに食べていた。
醤油味のスープに縮れた麺、味が染みたシナチクに、色の薄い煮豚、海苔にナルト、葱という、オーソドックスな「支那そば」である。
煮干出汁のきいたスープは、怒鳴られ、無視され、冷たく、硬くなった僕の心をほぐしてくれ、一心不乱に細い縮れ麺をたぐれば、次第にいやなことを忘れるのだった。
Hさんに怒鳴られたその日は、特にすさんでいて、ほかの人にプロモーションをする気にもなれず、まっしぐらに温州軒に向かった。
いやなことは忘れよう。
そう、思って食べ始めたラーメンだったが、食べ終えたとき「そういえばHさん、初めて僕の存在を認めてくれたんだ」と、ちょっぴり嬉しくなる自分がいた。
あのラーメンは、心のご馳走でもあったのかもしれない。
それからしばらく経って、突然Hさんから「おいそば食いに行くぞ」と誘われ、カウンターに並んで食べた。
仕事もくれた。
あのラーメン、いや支那そばの味は忘れない。
やがてえらくなり、文化放送から足が遠のき、文化放送社屋が、浜町町に移転しますとの案内がきた。
そのとき真っ先に思い浮かべたのが、温州軒である。
文化放送社員、関係者、来訪者が客の90%を占める温州軒はどうなるのか。
社屋移転後、のぞきに行ったら、店はなかった。
思い出の味というけど、思い出にはしたくない味だったなあ。
自分の不義理を反省した。
それから数年経って四谷を歩いていたら、別の場所に、「温州軒」があるではないか。たまたま店名が同じこともあるかも知れぬと、中をのぞいてみたら懐かしい顔が見える。思わず暖簾をくぐった。
「いらっしゃいっ」。
あの頃はぶっきらぼうに仕事をしていた息子さんの愛想がいい。
「あの文化放送前の店ですよね」
「ああそうだよ。お客さん見覚えあるわ。よく来てくれてたもんね」
「はい。懐かしいなあ。いつからですか?」
「二年間くらい休んでたからね」
ラーメンは、うますぎないおいしさで、これが本来の東京ラーメンですと言いたげな、涼しい顔をしている。
醤油も味の素も鶏がらも煮干も主張しない丸い味である。
学校帰りに百円玉握り締めて食べた、贅沢な味である。
ラーメンはこれでいい。
普通の、ごく普通のうまさを守り続けることに、どれだけ心を配することか。
Hさんは、どうしているのかなあ。
しなちくを齧りながら、嬉しくなり、不覚にも涙がでた。涙で少ししょっぱくなったスープを飲み干し、ラーメンはこれでいいと、もう一度心の中でつぶやいて箸をおく。
思いが詰まったラーメンは、昔と寸分変わらぬ優しさでいてくれた。
〈筆者註〉
その後温州軒は店を畳まれました。1965(昭和40)年創業の同店は、2006年7月に文化放送が移転しても旧本社社屋の前で営業を続けた。しかし2005年3月末に一時閉店。2007年5月に2代目店主の友部政義さんが、別の場所で再開。2009年10月に閉店された。「支那そば」550円だった。
イラスト◎死後くん
●著者プロフィール
マッキー牧元
タベアルキスト。『味の手帖』編集主幹。食と作り手への愛が溢れた文章と肉1kgをたいらげる喰いっぷりにファン多数。立ち食い蕎麦からフレンチ、割烹まで、守備範囲は広い。近頃は本誌『食楽』誌上で名料理人ぶりも披露している。