老舗から新店まで、新たな味と人との出会いを求め古今東西を駆け巡るマッキー牧元さん。そんなタベアルキストが、現在までに出会ってきたさまざまな店や料理の、今は味わうことが難しい“幻の味”の記憶をひもとく。
好きか嫌いか? そう聞かれても答えが出ないのが新宿という街である。
どうでもイイという街ではない。よく飲みに出かけるわりには、すすんでは行こうとは思わない。
若い頃からお世話になって馴染んでいるのだが、時折疎外感を感じて怖くなったりもする、極めて日本的な繁華街でありながら、ここは日本なのか? と思うときもある。
東京という都市の現代を映した街でありながら、「ブレードランナー」に出てきたような。近未来的非日常感もある。
そんな街、新宿のど真ん中に、その店はあった。ある意味それは、新宿という街のフトコロの深さ、いや混沌雑多性を表していたのかもしれない。
旧区役所通りを北に進む。客引きの呼びかけを無視して進めば、やがて楓林会館に到達する。次にその先にある古ぼけたビルに、恐る恐る入っていただこう。
一階の案内板には、スナックやらクラブの名前がずらりと並んでいる。その中に「会員制 洋風居酒屋ジョンダワー」の名前を見つけることができよう。
会員制といって名ばかりで、フリの客が入ってこないための自衛策である。もっともこんなビルの案内板を見つけて、わざわざ階上に登って店に入る酔狂な客など、いないと思うが。
「ジョンダワー」は、ステーキの店である。それも類稀なるステーキを、安い値段で出す。「知る人ぞ知る」という意味がわからない陳腐ない回しがあるが、まさにこの店こそその言葉がふさわしい店だった。
薄暗い店内に入ると目につくのが、二十年は埃を放置したままの酒瓶や装飾品の数々と、カシューナッツの殻が堆積して見えなくなった、床である。この光景に、初心者はおののく。だが、アーリーアメリカン調のバーカウンターの中に立ったご主人が、すぐに、「いらっしゃ~い」と、愛想の良い掛け声をかけてくれるので、安堵する。
このご主人、長らく船のコックだったということで、陸に上がって店を開いたという。昔の料理人には、こうして船のコックから店を開いた方が多かった。
最初に出されるのがサラダである。レタスだけが木のボウルに入った質素なサラダだが、これがたまらなくうまい。秘密はドレッシングにある。
サウザンアイランドソースに似た、薄桃色のどろりとしたソースで、ゴマが生かされているのはわかるのだがそれ以外の成分は不明である。柔らかい甘味に時折舌を刺す辛味があり、風味が穏やかで、静かな旨味がある。
以前は、帰り際に分けてくれたのだが、なんでも大手食品会社にその成分を売却したとかで、店で食べることしかままならない。このジョンダワーソースは、サラダだけでなく、オムレツにもステーキにもかける。そして料理を生かす。万能ソースなのであった。
サラダの次はオムレツと行こう。作り始めるご主人を見て、皆目が点となる。何しろ卵をとかない。直接5個を、次々とバターを引いたフライパンに割り入れるのである。
しかしそこから先が、鮮やかな手つきでオムレツに仕立て、皿に盛ってジョンダワーソースをとろりとかける。
「こんな手間ぁかかるの、よそじゃできねえよ」と言って、次に作るのが、ハンバーグである。暑さ6センチはあるハンバーグを切れば、中からうっすらと赤い肉が顔を出す。ハフハフと言いながら口に運べば、他のハンバーグにはないコクがある。なんと自家製のブルーチーズを練りこむことによって、複雑な旨味を生んでいるのである。肉とブルーチーズが混じり合い、鉄板の上でジョンダワーソースと混じり合う。たまりません。
そしていよいよ主役、ステーキ様が登場する。出てきた瞬間に息を飲むその姿は、高さ6センチはある肉塊で、鉄板の上で音を立てながらそそり立つ。
ナイフに力を入れるまでもなく、すっと切れる肉にフォークを刺すと、たっぷり肉汁を含んで重い。噛めば噛むほど、肉のジュースが湧き出てくる。
うまい肉は人を黙らせる。無我夢中で食べ、顔を上げると、同席者も嬉し王に口を動かしている。そしてにこりと笑い合う。
そう。ここにくると誰もが、子供の笑顔になるのであった。
イラスト◎死後くん
●著者プロフィール
マッキー牧元
タベアルキスト。『味の手帖』編集主幹。食と作り手への愛が溢れた文章と肉1kgをたいらげる喰いっぷりにファン多数。立ち食い蕎麦からフレンチ、割烹まで、守備範囲は広い。近頃は本誌『食楽』誌上で名料理人ぶりも披露している。