この方針に従い、の見本品を試験した結果、日立製作所への発注が決まった。は、豊田自動織機製作所と同じくデルコレミー社製をスケッチしたもので、図面の寸法はほぼ一致しており、差異はインチをミリメートルに換算する際の誤差程度であった。
1936年11月にはエンジン工場の西側に200坪(660m2)のし、翌1937年1月から試作を開始した。試作品の製作で苦労したのは、材料の入手であった。特殊サイズの少しばかりの電線や、少量のベークライト(フェノール樹脂)成形部品の注文を受けてくれるメーカーがなかなか見つからなかった。また、ディストリビューター用のコンデンサーも国産化したが、国産のコンデンサー・ペーパーがないため輸入品を用いた。点火コイルの絶縁用層間紙は、和紙に絶縁ワニスを含浸させて製作し、2次コイル用エナメル線の絶縁塗料には、桐油を用いた特製の速乾性加熱乾燥用ワニスを開発し、コイルの断線や絶縁不良の解決を図った。
試作品は、隣のエンジン工場でエンジンに組み付けられ、試運転台上で試験を行ったが、さまざまな不具合が発生した。例えば、発電機では出力不足や整流子の遠心力による飛散、スターターではギア、シャフト、スプリングなどの破損、点火コイルの焼損や断線、ディストリビューターの進角不良などである。失敗を繰り返しながら改良を重ね、
電装工場は、1938年11月にトヨタ自工が挙母工場へ移転するとともに、以前は自動車組立工場であった刈谷工場へ移り、残留したトラック車体工場や東京芝浦工場から移転してきたラジエーター工場とともに操業することになった。そして、ラジエーターに使われる材料の銅、真鍮、ハンダが電装品と共通するところから、
その後、1943年2月に電装工場は中央紡績から借用したへの移転準備を開始した。ところが、状況が一変し、トヨタ自工が同年初めから挙母工場で準備を進めていた航空機用空冷エンジンの生産を刈谷部品工場で行うことになった。この決定を受けて、同年9月にラジエーター工場が刈谷部品工場から挙母工場に移転し、10月には挙母工場から航空機エンジン加工用の工作機械が刈谷部品工場へ一括搬入された。結局、電装工場は11月に中央紡績のに移転した。
戦後、1946年10月にトヨタ自工は紡織部を設置し、刈谷南工場で紡織業を再開した。その後、紡織部の分離独立が検討されるに伴い、1948年10月に電装工場は刈谷南工場から刈谷北工場に移転することになった。同時に、ラジエーター工場が挙母工場から同工場へ移転し、両工場をあわせて刈谷北工場が電装工場と改称された。そして、1949年12月16日、電装工場はトヨタ自工から分離独立し、日本電装株式会社が設立された。現在の株式会社デンソーである。