世界的ファッションデザイナーの三宅一生さんが8月5日に亡くなった。84歳だった。三宅さんは被爆70年を迎えた2015年に自身の被爆体験を読売新聞に語っていた。そのインタビューを再録する。
原爆の話はしないと決めていました
原爆の話はしないと決めていました。「ピカドンデザイナー」なんて呼ばれたくなかった。原爆をい訳にしたら情けないと思ったから。夏には、読売新聞の取材も断りました。
でも今、僕みたいな被爆の症状もある人間が話したら、少しは世の中が違ってくるのかもしれない。
広島に原爆が投下された70年前の8月6日。僕は小学1年生でした。朝礼が終わって教室に入ったら突然、ドーンときた。衝撃で割れた窓ガラスの破片が頭に刺さって。びっくりしてね。
母のいる自宅は爆心地から2・3キロ。「うちに行きたい」と疎開先の家の人に言ったら、乾パンをたくさん持たせてくれた。ひとりで母を捜しに向かいました。母は半身にやけどを負っていました。
高校の時に通った平和大橋。欄干はイサム・ノグチさんのデザインでした。これがデザインなんだ。自分に才能があるかわからないけど、やってみよう。力をもらいました
「平和大橋」に感銘、デザイン界へ導かれ
あの日、僕は広島市の隣、府中町に疎開していました。その日のうちに、母を捜しにひとりで市内へと向かいました。人々がおりかさなって焼け、水を求め小川に集まっている。半身を負傷した母に会えたのは、翌日。治療を受けている場所を聞いて、会いに行きました。