2021年夏、無観客で開催された東京オリンピック・パラリンピック。新型コロナウイルス禍に振り回されたスポーツの祭典は、どういうレガシー(遺産)を生んだのか。セーリング競技の会場で駆使されたテクノロジーは、その候補の一つに違いない。(読売新聞オンライン・込山駿)
55メートルの超ワイドLED画面、ドローン撮影をライブ上映
洋上で風を切るヨットやウィンドサーフィンのレース映像は、この上なく鮮明で、爽快な迫力に満ちていた。高精度カメラを搭載したドローンが、沖合で繰り広げられるレースを間近で撮影したものだ。超ワイド画面に映し出された映像を目にして、両種目を含むセーリング競技で日本連盟の常務理事・広報副委員長を務める望月宣武さんは、こんな感想を抱いたという。
「これまでの中継映像とは桁違いの臨場感だった。それだけに、無観客開催になって競技関係者しか見られなかったのが、本当に残念でもったいない。ただ、我々の競技は今後、ファンにクオリティーの高い映像を観客席で見せられる。コロナ禍が明けたら、以前よりもずっと、観戦を楽しんでもらえるようになります」
東京五輪のレースが行われた神奈川・江の島の海岸沿いには、横幅55メートルの超ワイドLED画面が設置された。その解像度は12Kと、一般家庭向け高画質テレビの約3倍。1650人収容の観客席がある海岸から約40メートルの海面に船が浮かび、その上に積まれた超ワイド画面で、レースが生中継された。
今大会も、防波堤には過去のセーリング大会で設置されていたのと同じような大型液晶テレビが設置されていた。二つの映像を見比べると、超ワイド画面の鮮明さは一目瞭然だったという。しかも、望月さんは「ワイド画面の向こう側には、レース現場も小さく見えていた。現場とワイド画面の映像には、タイムラグをほとんど感じなかった」とも話した。画面の背景には、海と空が広がっている。つまり、沖合のレース海面が観客席のすぐそばまで、空間ごとワープ(瞬間移動)してきたかのような観戦環境が実現した。
競技そのものが生まれ変わる?
セーリングのレースは海岸から遠く離れた海面で行われることが多く、東京五輪でも海岸から1~10キロ離れた沖合6か所で実施された。海岸周りの防波堤や高台では、競技関係者らが双眼鏡で勝負を見守るのが、この競技のいつもの光景となっている。ヘリから撮影した映像を流すテレビを自宅で観戦した方が、海岸まで足を運ぶよりも臨場感を手軽に味わえるという状況が、これまで長く続いてきた。
「我々競技関係者自身が、会場に多くの観客を集めることをあきらめているところがあった。反省しなくてはいけないと、今回の映像を見て気づかされた。東京五輪で実現させたような観戦環境を、今後はできるだけ多くの大会で実現し、熱気ある会場で競技の魅力を観客にアピールしていきたい」と、望月さんは語る。
海岸の観客席にファンの歓声が響くようになって競技人気が高まれば、それは東京五輪で2種目入賞にとどまってメダルを逃した日本勢の強化にもつながるはずだ。セーリングは今大会、競技そのものが生まれ変わるきっかけをつかんだかもしれない。
映像を5Gで伝送、即時に合成
セーリングの観戦環境向上は、東京大会スポンサーでもあるNTTなどの3企業と大会組織委員会からなるグループが、高速・大容量通信規格「5G」を使って手掛けた。技術開発のリーダーを務めたNTT人間情報研究所長の木下真吾さんは言う。
「東京大会の招致成功を受けて、NTTは2015年頃から、さまざまな競技で臨場感ある観戦環境を実現させるプロジェクト『Kirari!』に取り組んできました。NTTの高速通信技術を駆使したもので、社内だけだと50人ほど、関係会社や組織を含めると500人以上が携わっています。このプロジェクトの成果の一つが、セーリングで駆使した『超ワイド映像合成技術』です」
木下さんによると、セーリングのレース会場で飛ばしたドローンには、高精度カメラを3台並べて搭載してある。3台が撮影する映像を5Gの高速通信で伝送し、受けたサーバーが即時につなぎ合わせて超ワイド画面に映し出すという仕組みだ。最大のハードルは、映像のつなぎ目の処理だったという。
「並べたカメラで撮影した映像は、単純にくっつけても、うまくいきません。人間が右目で見る映像と左目で見る映像が少しずつ違うように、各映像には『視差』というものが生じるので、特につなぎ目の部分の映像が乱れたり荒れたりしてしまいます。変なつなぎ目が生じないように、映像を重ね合わせる『のりしろ』のような部分をつくって調節しながら、合成しなくてはいけません。時間をかけて編集作業をすれば簡単なことですが、これをタイムラグのほとんどないライブ上映で実現するのは、かなり難しい技術になります」(木下さん)
東京五輪のセーリング競技のライブ映像は、東京ビッグサイト(江東区)内の報道関係者向けラウンジに設置されたワイド画面でも上映された。五輪がぶっつけ本番だったわけではもちろんなく、野球のメジャーリーグやサッカーのJリーグなどで試験的な実施を重ね、横浜で開かれたファッション・ショーの映像を東京・表参道のワイド画面に映し出すなどして、技術の完成度を高めてきたという。
NTT「コロナ禍の五輪は研究者を成長させた」
NTTは東京五輪で、他競技でも最先端の通信技術を生かし、別の種類のプロジェクトを実現させた。バドミントンでは、東京の湾岸エリアにある日本科学未来館(江東区)で報道陣向けの観戦イベントを開き、武蔵野の森総合スポーツプラザ(調布市)で行われた試合を立体映像で中継した。イベント会場に実際に設けられたコート上の空間には、20キロ以上離れた場所でプレーしているはずの2選手の姿が鮮明に投影され、めまぐるしい動きやシャトルの軌道もかなり滑らかに再現できたという。マラソンは札幌の沿道にワイド画面とスピーカーを設置し、東京からのリモート応援をライブで届け、走者たちを励ました。
たとえ無観客開催でも得られる収穫はあるはずだと信じて取り組んだ東京五輪を、木下さんはこう振り返る。「コロナ禍のまっただ中にも、日本が未来を先取りした技術開発に取り組んでいるのだということは、アピールできました。我々の取り組みは、メディアを通じて世界に発信され、反響を得られたので。また、五輪は放送権との兼ね合いなどで技術的な制約が非常に多く、しかも要求される成果の水準が高い。それを乗り越えることで、研究者や技術者の自信と成長につながりました」
パリ五輪でも実施の準備
セーリングの超ワイド画面ライブ中継は、3年後のパリ五輪でも実施される可能性が高く、NTTと業務提携を結ぶフランスの携帯電話会社がすでに準備を進めているという。日本セーリング連盟も、2025年の大阪万博に合わせた競技会や26年に愛知で予定されるアジア大会などを見据えて、臨場感ある観戦環境の実現に取り組んでいく姿勢だ。
超ワイド画面や立体映像を駆使したライブ中継は、上映設備を備えた映画館やプラネタリウムがあちこちに開設されるようになれば、多様な分野で普及が進む技術だと木下さんは考えている。
そんな時代が訪れたなら、今回の東京オリンピックは、先端テクノロジーの面では大きなレガシーを生んだと認識されることだろう。