李り誦(761年ねん2月がつ21號ごう—806年ねん2月がつ11號ごう),係かかり大だい唐とう第だい十じゅう位い皇帝こうてい(唔計武則たけのり天てん),805年ねん在位ざいい,跟廟びょう號ごう叫さけべ唐とう順じゅん宗むね。
李り誦係唐から德とく宗むね個こ仔こ,德とく宗むね繼つぎ位い之これ後ご立たて佢做太子たいし。
805年ねん,德とく宗そう過か身み,李り誦繼位い,就係唐とう順じゅん宗むね。喺佢在位ざいい期間きかん,任用にんよう王おう叔文、王おう伾等人じん,推行打擊だげき宦官かんがん嘅政治せいじ革新かくしん運動うんどう「永えい貞さだ革新かくしん」(被ひ稱しょう為ため「百ひゃく日にち維新いしん」嘅唐朝あさ版ばん)。不ふ過か佢中風ふう,經過けいか治療ちりょう後ご,就變咗啞巴ともえ,冇晒執政しっせい能力のうりょく。同年どうねん八はち月がつ,宦官かんがん俱文珍ちん等とう勾結部分ぶぶん官僚かんりょう同どう埋うめ藩はん鎮,逼佢退位たいい,傳つて位い畀太子たいし李り純じゅん(唐から憲けん宗むね),貶斥王おう伾等人じん,史し稱しょう「永えい貞さだ內禪」。第だい二に年ねん,李り誦駕崩くずれ,謚號叫さけべ做至德しとく弘道こうどう大聖たいせい大安だいあん孝たかし皇帝こうてい。